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2019年03月02日
クロア篇−5章2
透明な朱色の飛獣がすいっと屋敷の正門を越えた。いよいよ町中での戦士捜しだ。町灯が照らす大通りには人影が多く行きかっている。彼らの風貌がどんなのか、クロアは目をこらしてみるものの、よくわからない
「この高さからだと人の身なりまで見えないわ」
「俺が遠目の術を使ってみましょう」
ダムトは透明化と同時に望遠の術を使いはじめた。術の同時併用ができるとは器用だ、と術に不慣れなクロアは関心した。が、彼の集中力を途切れさせるような雑談は避ける。
「それで、いま見た感じはどうなの?」
ダムトは上体を左へ右へとかたむけ、足下の景色を見下ろす。
「……野外で眠る者が多いようです」
彼は町中の変事を告げた。クロアは人捜しを中止し、ダムトが察知した事柄を追究する。
「よっぱらいなのかしら?」
「酒が深まる時間帯にしては少々早いですね」
「じゃあなんだと思う?」
「酒に関する催し物があるとは聞きませんし……いささか変です」
クロアはためしにソルフにもたずねたものの、彼も見当がつかなかった。結局上空にいてはなんの解決にならないのだ。
「寝ている人の様子を見てましょう。ダムト、ベニトラに行き先を指示して」
ダムトが視覚的情報を述べた。その場所にベニトラが降下する。
大通りから外れた小道に、家屋の壁に寄り掛かる男性がいた。そっと接近してみると男性はやはり寝ている。だが泥酔したときにただよう酒臭さや顔の紅潮はない。
「お酒を飲んでいない方のようね」
「はい。突然眠くなったからその場に寝た、といった様子ですね」
男性の身なりを見るに、町の住民のようだ。この町の男性の多くはなんらかの職人を務める。クロアは職人がなりうる病気に心当たりがある。
「病気かしら?」
「ひとりなら持病もありうるでしょうが、複数人ですから……」
「そう? 納期のせまった職人がかかりやすい病気があるんでしょ」
「職人の職業病……?」
ダムトは知らないらしい。クロアは不確かな伝聞を思い出す。
「えっと……夜に寝たくても寝付けなくて、ねむるべきでない時間にねむくなってしまうっていう病気」
従者の後ろで「不眠症?」とソルフが言った。クロアはそれらしい病名を得て、「それだわ」と膝を打つ。
「ね、その病気はこの町の人の持病になりやすいんじゃない?」
はーっ、というダムトの呆れ声が漏れる。
「貴女がおっしゃっている職業病は病気ではありません」
「そうなの?」
「職人が寝る間も惜しんで商品を完成させることがある、という一般的現象です」
「こんなふうに道ばたで寝るのとは、関係ないの?」
ダムトが「そうです」とそっけなく答える。
「くだらないことを口走らないでください。ムダに頭を使ってしまったでしょう」
「使ったって減るもんじゃないでしょ」
「ただでさえ日頃から気疲れするというのに、まったく無神経な……」
「それだけ主人に好き勝手言えてる部下が『気疲れ』するもんですか」
二人の口げんかはソルフによって止められた。彼がべつの野宿中の人も見てみようと言うので、移動を再開する。ふたたび空へ上がった。付近にいた、めぼしい人物を見つける。その人のもとへ降りると、小道の曲がり角に帽子を被った男性が座っていた。この人も酒気を帯びていない町の住民ようだ。
「やっぱり酒は入っていないようよ」
「これは何者かがねむらせたのかもしれませんね」
「眠り粉かなにかがばらまかれたのかしら?」
「だとしたら近辺一帯が眠る人で埋まるはずです。俺が上から見たところ、居眠りをする人はバラバラな地区にいました。これは個人に対して仕掛けられたと考えるべきかと」
「ひとりずつねむらせて、犯人はなにがしたいのかしら」
クロアは被害者の服装を見る。さきほどの男性といい、いたって平凡な格好だ。
「物取りにしたって、もうちょっとお金を持っていそうな人をねらうでしょうし」
「物取り……たずねてみましょうか」
ダムトは飛獣から降り、自分だけ透明化の術を解除した。彼は眠りこける男性のそばでしゃがみ、男性が立てた膝をゆさぶる。だが覚醒の効き目はない。次にダムトは上着の隠袋から長方形の小物を出す。
「これは掘り出し物なのですが……目覚ましに効く火具だそうです」
指で小物の側面をこすると、長方形の箱が上下に分かれる。分かれた隙間に指をかける。金物が擦れる音が鳴ると火が灯った。
「それをどうするの?」
「ねている者の目に近づけます」
「うっかりヤケドさせてしまわない?」
「そうならないように頭を固定します」
ダムトは片手で睡眠中の男性の額を押した。その目元に火を近づける。まつ毛が焼けそうなほど距離が縮まったとき、まぶたが開いた。男性は眼前の火をおそれ、目をひんむく。
「驚かせてしまって申し訳ない」
ダムトはすぐに火を消した。中年らしき男性は眼球だけをうごかして、青年を見つめた。
「貴方はなぜこんなところで寝ている?」
男性は答えない。まだ頭が覚醒しきらないようだ。
「なにか盗られている物はないか、確認してもらえるか?」
「は、はい。兵士さん」
男性はダムトを見回りの警備兵だと判断した。ダムトの指示通りに貴重品の有無を調べ、なにも不足がないことを述べた。
「盗難はなし、か……ここで寝てしまった心当たりはあるだろうか?」
男性が首をひねった。ダムトは質問を変える。
「ねむる直前の出来事でもいい」
「寝るまえのこと……? ああ、女の人と会ったなぁ」
「女……特徴は?」
「こう、胸が大きくて色っぽくて……『いまおヒマ?』と聞いてきたもんで、家に帰るところだと言うと急に……」
男性の顔がにやけた。まんざらでもないことを体験したらしい。ダムトはため息を吐く。そのため息はさきほどクロアに向けたものとはちがい、安堵の念があった。
「……精気を吸い取られたか。寝てしまったのはそのせいだ。大事ない」
ダムトは男性に家路につくよううながした。男性が立ち去るのを見届けてから、クロアがいるであろう場所へ近づく。
「どうやら夢魔がわるさをしているようです」
「夢魔って、あの……」
「端的に表現すると『スケベ魔人』ですよ」
クロアは「まあ」と口元を手でおおう。
「どうして夢魔がこの町に、しかも大量に……?」
「いえ、単独犯かもしれません。被害者には着衣の乱れがなかったので、せいぜい唇をうばう程度の行為をしているのでしょう。そうやって生き物の精気を糧とする連中です」
道行く者に接吻をしかける痴女──その餌食になった男性はうれしそうだった。一概に害を被ったと言えない被害者を生む行為を、取り締まるべきか否か、クロアは迷う。
「あの、それはやっぱり、捕まえたほうがいいのかしら?」
「はい。優先して捕えたい罪人がいないいま、見過ごす理由はないかと」
「そうよね……でもどうやって捕まえたらいいの?」
「俺が標的を釣ってみましょう。術具屋か道具屋で必要なものを調達して参ります」
ダムトは自身の招獣を呼んだ。それは四対八枚の羽を持つトンボだ。大きさは普通の虫と同じくらい。その背に乗れる飛獣でもあるが、この小ささのときは偵察用に使う。
「しばらく上空でお待ちください。敵が釣れたときは俺の招獣に案内させます」
トンボがクロアの見えざる肩に止まった。これこそが、姿をくらましてもその技が通用しない者がいる証だ。
「ではあとで合流しましょう」
ダムトはひとり、駆けていった。
「この高さからだと人の身なりまで見えないわ」
「俺が遠目の術を使ってみましょう」
ダムトは透明化と同時に望遠の術を使いはじめた。術の同時併用ができるとは器用だ、と術に不慣れなクロアは関心した。が、彼の集中力を途切れさせるような雑談は避ける。
「それで、いま見た感じはどうなの?」
ダムトは上体を左へ右へとかたむけ、足下の景色を見下ろす。
「……野外で眠る者が多いようです」
彼は町中の変事を告げた。クロアは人捜しを中止し、ダムトが察知した事柄を追究する。
「よっぱらいなのかしら?」
「酒が深まる時間帯にしては少々早いですね」
「じゃあなんだと思う?」
「酒に関する催し物があるとは聞きませんし……いささか変です」
クロアはためしにソルフにもたずねたものの、彼も見当がつかなかった。結局上空にいてはなんの解決にならないのだ。
「寝ている人の様子を見てましょう。ダムト、ベニトラに行き先を指示して」
ダムトが視覚的情報を述べた。その場所にベニトラが降下する。
大通りから外れた小道に、家屋の壁に寄り掛かる男性がいた。そっと接近してみると男性はやはり寝ている。だが泥酔したときにただよう酒臭さや顔の紅潮はない。
「お酒を飲んでいない方のようね」
「はい。突然眠くなったからその場に寝た、といった様子ですね」
男性の身なりを見るに、町の住民のようだ。この町の男性の多くはなんらかの職人を務める。クロアは職人がなりうる病気に心当たりがある。
「病気かしら?」
「ひとりなら持病もありうるでしょうが、複数人ですから……」
「そう? 納期のせまった職人がかかりやすい病気があるんでしょ」
「職人の職業病……?」
ダムトは知らないらしい。クロアは不確かな伝聞を思い出す。
「えっと……夜に寝たくても寝付けなくて、ねむるべきでない時間にねむくなってしまうっていう病気」
従者の後ろで「不眠症?」とソルフが言った。クロアはそれらしい病名を得て、「それだわ」と膝を打つ。
「ね、その病気はこの町の人の持病になりやすいんじゃない?」
はーっ、というダムトの呆れ声が漏れる。
「貴女がおっしゃっている職業病は病気ではありません」
「そうなの?」
「職人が寝る間も惜しんで商品を完成させることがある、という一般的現象です」
「こんなふうに道ばたで寝るのとは、関係ないの?」
ダムトが「そうです」とそっけなく答える。
「くだらないことを口走らないでください。ムダに頭を使ってしまったでしょう」
「使ったって減るもんじゃないでしょ」
「ただでさえ日頃から気疲れするというのに、まったく無神経な……」
「それだけ主人に好き勝手言えてる部下が『気疲れ』するもんですか」
二人の口げんかはソルフによって止められた。彼がべつの野宿中の人も見てみようと言うので、移動を再開する。ふたたび空へ上がった。付近にいた、めぼしい人物を見つける。その人のもとへ降りると、小道の曲がり角に帽子を被った男性が座っていた。この人も酒気を帯びていない町の住民ようだ。
「やっぱり酒は入っていないようよ」
「これは何者かがねむらせたのかもしれませんね」
「眠り粉かなにかがばらまかれたのかしら?」
「だとしたら近辺一帯が眠る人で埋まるはずです。俺が上から見たところ、居眠りをする人はバラバラな地区にいました。これは個人に対して仕掛けられたと考えるべきかと」
「ひとりずつねむらせて、犯人はなにがしたいのかしら」
クロアは被害者の服装を見る。さきほどの男性といい、いたって平凡な格好だ。
「物取りにしたって、もうちょっとお金を持っていそうな人をねらうでしょうし」
「物取り……たずねてみましょうか」
ダムトは飛獣から降り、自分だけ透明化の術を解除した。彼は眠りこける男性のそばでしゃがみ、男性が立てた膝をゆさぶる。だが覚醒の効き目はない。次にダムトは上着の隠袋から長方形の小物を出す。
「これは掘り出し物なのですが……目覚ましに効く火具だそうです」
指で小物の側面をこすると、長方形の箱が上下に分かれる。分かれた隙間に指をかける。金物が擦れる音が鳴ると火が灯った。
「それをどうするの?」
「ねている者の目に近づけます」
「うっかりヤケドさせてしまわない?」
「そうならないように頭を固定します」
ダムトは片手で睡眠中の男性の額を押した。その目元に火を近づける。まつ毛が焼けそうなほど距離が縮まったとき、まぶたが開いた。男性は眼前の火をおそれ、目をひんむく。
「驚かせてしまって申し訳ない」
ダムトはすぐに火を消した。中年らしき男性は眼球だけをうごかして、青年を見つめた。
「貴方はなぜこんなところで寝ている?」
男性は答えない。まだ頭が覚醒しきらないようだ。
「なにか盗られている物はないか、確認してもらえるか?」
「は、はい。兵士さん」
男性はダムトを見回りの警備兵だと判断した。ダムトの指示通りに貴重品の有無を調べ、なにも不足がないことを述べた。
「盗難はなし、か……ここで寝てしまった心当たりはあるだろうか?」
男性が首をひねった。ダムトは質問を変える。
「ねむる直前の出来事でもいい」
「寝るまえのこと……? ああ、女の人と会ったなぁ」
「女……特徴は?」
「こう、胸が大きくて色っぽくて……『いまおヒマ?』と聞いてきたもんで、家に帰るところだと言うと急に……」
男性の顔がにやけた。まんざらでもないことを体験したらしい。ダムトはため息を吐く。そのため息はさきほどクロアに向けたものとはちがい、安堵の念があった。
「……精気を吸い取られたか。寝てしまったのはそのせいだ。大事ない」
ダムトは男性に家路につくよううながした。男性が立ち去るのを見届けてから、クロアがいるであろう場所へ近づく。
「どうやら夢魔がわるさをしているようです」
「夢魔って、あの……」
「端的に表現すると『スケベ魔人』ですよ」
クロアは「まあ」と口元を手でおおう。
「どうして夢魔がこの町に、しかも大量に……?」
「いえ、単独犯かもしれません。被害者には着衣の乱れがなかったので、せいぜい唇をうばう程度の行為をしているのでしょう。そうやって生き物の精気を糧とする連中です」
道行く者に接吻をしかける痴女──その餌食になった男性はうれしそうだった。一概に害を被ったと言えない被害者を生む行為を、取り締まるべきか否か、クロアは迷う。
「あの、それはやっぱり、捕まえたほうがいいのかしら?」
「はい。優先して捕えたい罪人がいないいま、見過ごす理由はないかと」
「そうよね……でもどうやって捕まえたらいいの?」
「俺が標的を釣ってみましょう。術具屋か道具屋で必要なものを調達して参ります」
ダムトは自身の招獣を呼んだ。それは四対八枚の羽を持つトンボだ。大きさは普通の虫と同じくらい。その背に乗れる飛獣でもあるが、この小ささのときは偵察用に使う。
「しばらく上空でお待ちください。敵が釣れたときは俺の招獣に案内させます」
トンボがクロアの見えざる肩に止まった。これこそが、姿をくらましてもその技が通用しない者がいる証だ。
「ではあとで合流しましょう」
ダムトはひとり、駆けていった。
タグ:クロア
2019年02月22日
クロア篇−5章1
クロアは夕食を家族とともにとった。遅れてきた公女を家族はみな温かくむかえてくれ、クロアはいつもの調子のまま食事をはじめた。
夕食を食べおえた母と祖母が早々に退室する。居室には父と娘が二人きりになった。父も食事はおわっているが、座ったままだ。クロアは父が娘に話したいことがあるのだと察する。その内容は言うまでもないが、話の切り口がてら問う。
「今晩の護衛の件は、どうなりました?」
「ソルフを同行させようと思う」
「お父さまの護衛を?」
「ああ、クロアはソルフが好きだろう? 一緒にいても気兼ねしないはずだ」
クノードはクロアがかの獣人を贔屓目に見ていることを知っていた。それでいてクロアの従者にダムトが配属されたわけは、公女の従者選定の際にソルフがまだ仕官していなかったからだ。クロアが希望すれば両者の配置転換はかなうかもしれないが、その決断はいまだにできていない。雑用や事務仕事の能力においてはダムトに分があるのだ。彼の利便性を考えると、クロアの側近はダムト以外に考えられない、という側面もあった。
「ご配慮はありがたいのですが、ソルフにはお父さまを守るという大事な役目がありますわ」
「私は屋敷にこもっているよ。どこにも出かけなければ危険な目にも遭わないさ」
その判断はアンペレにおいて正しい。よその領主は刺客に命をねらわれることがあり、屋敷にいても危険をともなうのだが、ことアンペレではそういった物騒な事件は起きていない。領主と公女が護衛役を常にはべらせる必要性は低いのだ。かといって地位簒奪をねらう不届き者が居ないともかぎらないので、いちおうの人員を割いていた。
クロアは父の決定を受け入れた。あらたな護衛はクロアの部屋のまえで待機しているというので、クロアは早く合流しようと思った。クロアが椅子から立ったところ、「そうだ」と父がなにかを思いつく。
「出かけるときはこっそり行ってもらえるかな」
「こっそり?」
「屋敷にいるうちから姿を消していきなさい。この外出は一部の官吏だけが知っていることにしたい」
「わかりましたわ」
クロアは居室を離れた。階段を上がって自室へ向かう。父の言うとおり、自分の部屋のそばに背の高い男性が待機していた。狼の耳がピクっとうごき、その眼孔がクロアを見る。
「オレはいつでも出かけられます」
「こちらの支度が整うまでまってて」
そう長く時間をとらせないつもりで、クロアはソルフの待機続行を指示した。部屋に入るとダムトが長椅子に座っている。彼は洗濯場に持っていったカゴを布巾で拭いていた。その腕には黒光りする小手が装備してある。
「ダムトも出かける用意ができているの?」
「はい。あとはクロア様とベニトラの準備次第です」
「わたしはこのままでもいけるわ」
クロアは武装をほとんどしていない。武具といえば腰に提げた打撃用の杖があるだけだ。ダムトは主人の軽装ぶりを観察する。
「……まあいいでしょう。戦いに行くのではありませんし」
「あとはベニトラね」
夕食前に夕寝をしていた猫は窓辺にいた。夜景を眺めているようだ。クロアは縞模様の猫に近寄り、その丸い背をなでる。
「あなたの背に三人乗せてもらいたいのだけど、いいかしら?」
「やってしんぜよう」
猫が窓のふちから降りた。四つの足を広げ、頭をぶるぶると震わせる。振動が背をとおって尻まで伝わると体がふくらみだした。通常の猫より太かった足はさらに太くなり、長い尾は優美に伸びる。稚(いとけな)かった顔は精悍な猛獣らしい威厳をそなえた。この大きさであれば大人が三人騎乗できそうだ。
「ソルフ、入ってきてちょうだい」
クロアが言うと廊下にいた護衛が入室する。彼はするどい目つきで巨獣をにらみ、腰に帯びた棍に手を置いた。町に害を与えていた魔獣の姿があるせいで、警戒しているのだ。
クロアはベニトラの安全性を示すため、朱色の被毛を掻きなでる。
「平気よ、この子はあばれないわ」
「はい……」
ソルフが武器に触れていた手をおろした。今度は真顔で「この飛獣に三人も乗るのですか?」と聞いてくる。
「かなり密着することになるのでは……」
「わたしは気にしないわ。ソルフだってわたしにくっつかれても、なんとも思わないでしょ?」
クロアは幼少時の感覚でそのように判断した。幼いときのクロアは獣人をめずらしがって、ソルフにベタベタくっついてまわったことがある。ソルフはみずから少女を遠ざける真似はしなかったが、その性分は他人に触れられるのをこのまない。そのことをクロアが知ってからは距離を置くようになった。以後は触れ合うことがなくなったものの、女性が苦手でもある彼なら邪心を抱かない根拠はあった。
ソルフは「はい」と答える。それはそれでクロアの女性としての自尊心がすこし傷つくが、そう答える以外に口下手な者が言える言葉はなかった。
朱色の飛獣がその場に伏せる。クロアたちが騎乗しやすいように屈んでくれたようだ。
「よし、わたしが先頭に乗るわ」
クロアはベニトラの肩寄りの背中にまたがった。護衛二人もクロアにつづくと思ったが、ダムトは窓辺に寄る。
「この部屋から出発しますか?」
「そうするわ。お父さまはこっそり外出してほしいとおっしゃったもの」
「ではもう姿を消していきますか」
「ええ、おねがい」
ダムトが窓を開けはなった。外への入り口を確保したダムトはクロアの後ろに騎乗する。こうした相乗りは飛馬で慣れている。クロアはこたびの飛行もダムトがついていれば安全だろうと安堵した。
ダムトの後方にソルフがまたがった。飛獣はすっくと立ち上がる。その前足は宙をかいた。窓の外へ、ゆっくり上昇する。何物にも触れぬ足は窓の縁を越えた。
ベニトラが窓を通りぬけるのと同時に、前足から色を失くしていく。クロアもまた手先から徐々に背景に溶けこんでいった。この現象はダムトが発生させている。
「勘のよい術士に見つからないことを祈りましょう」
姿を消し去る術は、対象の外観を背景に溶け込ませる効果がある。ただしその存在や周囲に放つ魔力までは消せない。それゆえ、一部の者にはバレてしまう欠点があった。
ダムトがクロアの腰に触れた。主人の腰にある杖を無断で抜きとる。杖を使い、開いた窓を押す。彼は窓を閉めるためにクロアの杖を借りたのだ。
目的を果たしたダムトは杖を返却しようとして、手探りで帯の位置を確かめた。今度は腰寄りの尻に手が当たり、クロアは若干の不快を感じる。
「妙なところを触る気じゃないでしょうね?」
「触っても硬いじゃないですか。筋肉のせいで」
クロアはむかっ腹が立った。普段なら言い返すところを、眼下に官吏の歩く姿が見えたのでこらえた。
ダムトは杖をもどした。腰に確かな重量を感じたクロアは、透明な毛皮をぽんぽんとかるく叩く。それを出発の合図と理解したベニトラは空へ飛翔した。
夕食を食べおえた母と祖母が早々に退室する。居室には父と娘が二人きりになった。父も食事はおわっているが、座ったままだ。クロアは父が娘に話したいことがあるのだと察する。その内容は言うまでもないが、話の切り口がてら問う。
「今晩の護衛の件は、どうなりました?」
「ソルフを同行させようと思う」
「お父さまの護衛を?」
「ああ、クロアはソルフが好きだろう? 一緒にいても気兼ねしないはずだ」
クノードはクロアがかの獣人を贔屓目に見ていることを知っていた。それでいてクロアの従者にダムトが配属されたわけは、公女の従者選定の際にソルフがまだ仕官していなかったからだ。クロアが希望すれば両者の配置転換はかなうかもしれないが、その決断はいまだにできていない。雑用や事務仕事の能力においてはダムトに分があるのだ。彼の利便性を考えると、クロアの側近はダムト以外に考えられない、という側面もあった。
「ご配慮はありがたいのですが、ソルフにはお父さまを守るという大事な役目がありますわ」
「私は屋敷にこもっているよ。どこにも出かけなければ危険な目にも遭わないさ」
その判断はアンペレにおいて正しい。よその領主は刺客に命をねらわれることがあり、屋敷にいても危険をともなうのだが、ことアンペレではそういった物騒な事件は起きていない。領主と公女が護衛役を常にはべらせる必要性は低いのだ。かといって地位簒奪をねらう不届き者が居ないともかぎらないので、いちおうの人員を割いていた。
クロアは父の決定を受け入れた。あらたな護衛はクロアの部屋のまえで待機しているというので、クロアは早く合流しようと思った。クロアが椅子から立ったところ、「そうだ」と父がなにかを思いつく。
「出かけるときはこっそり行ってもらえるかな」
「こっそり?」
「屋敷にいるうちから姿を消していきなさい。この外出は一部の官吏だけが知っていることにしたい」
「わかりましたわ」
クロアは居室を離れた。階段を上がって自室へ向かう。父の言うとおり、自分の部屋のそばに背の高い男性が待機していた。狼の耳がピクっとうごき、その眼孔がクロアを見る。
「オレはいつでも出かけられます」
「こちらの支度が整うまでまってて」
そう長く時間をとらせないつもりで、クロアはソルフの待機続行を指示した。部屋に入るとダムトが長椅子に座っている。彼は洗濯場に持っていったカゴを布巾で拭いていた。その腕には黒光りする小手が装備してある。
「ダムトも出かける用意ができているの?」
「はい。あとはクロア様とベニトラの準備次第です」
「わたしはこのままでもいけるわ」
クロアは武装をほとんどしていない。武具といえば腰に提げた打撃用の杖があるだけだ。ダムトは主人の軽装ぶりを観察する。
「……まあいいでしょう。戦いに行くのではありませんし」
「あとはベニトラね」
夕食前に夕寝をしていた猫は窓辺にいた。夜景を眺めているようだ。クロアは縞模様の猫に近寄り、その丸い背をなでる。
「あなたの背に三人乗せてもらいたいのだけど、いいかしら?」
「やってしんぜよう」
猫が窓のふちから降りた。四つの足を広げ、頭をぶるぶると震わせる。振動が背をとおって尻まで伝わると体がふくらみだした。通常の猫より太かった足はさらに太くなり、長い尾は優美に伸びる。稚(いとけな)かった顔は精悍な猛獣らしい威厳をそなえた。この大きさであれば大人が三人騎乗できそうだ。
「ソルフ、入ってきてちょうだい」
クロアが言うと廊下にいた護衛が入室する。彼はするどい目つきで巨獣をにらみ、腰に帯びた棍に手を置いた。町に害を与えていた魔獣の姿があるせいで、警戒しているのだ。
クロアはベニトラの安全性を示すため、朱色の被毛を掻きなでる。
「平気よ、この子はあばれないわ」
「はい……」
ソルフが武器に触れていた手をおろした。今度は真顔で「この飛獣に三人も乗るのですか?」と聞いてくる。
「かなり密着することになるのでは……」
「わたしは気にしないわ。ソルフだってわたしにくっつかれても、なんとも思わないでしょ?」
クロアは幼少時の感覚でそのように判断した。幼いときのクロアは獣人をめずらしがって、ソルフにベタベタくっついてまわったことがある。ソルフはみずから少女を遠ざける真似はしなかったが、その性分は他人に触れられるのをこのまない。そのことをクロアが知ってからは距離を置くようになった。以後は触れ合うことがなくなったものの、女性が苦手でもある彼なら邪心を抱かない根拠はあった。
ソルフは「はい」と答える。それはそれでクロアの女性としての自尊心がすこし傷つくが、そう答える以外に口下手な者が言える言葉はなかった。
朱色の飛獣がその場に伏せる。クロアたちが騎乗しやすいように屈んでくれたようだ。
「よし、わたしが先頭に乗るわ」
クロアはベニトラの肩寄りの背中にまたがった。護衛二人もクロアにつづくと思ったが、ダムトは窓辺に寄る。
「この部屋から出発しますか?」
「そうするわ。お父さまはこっそり外出してほしいとおっしゃったもの」
「ではもう姿を消していきますか」
「ええ、おねがい」
ダムトが窓を開けはなった。外への入り口を確保したダムトはクロアの後ろに騎乗する。こうした相乗りは飛馬で慣れている。クロアはこたびの飛行もダムトがついていれば安全だろうと安堵した。
ダムトの後方にソルフがまたがった。飛獣はすっくと立ち上がる。その前足は宙をかいた。窓の外へ、ゆっくり上昇する。何物にも触れぬ足は窓の縁を越えた。
ベニトラが窓を通りぬけるのと同時に、前足から色を失くしていく。クロアもまた手先から徐々に背景に溶けこんでいった。この現象はダムトが発生させている。
「勘のよい術士に見つからないことを祈りましょう」
姿を消し去る術は、対象の外観を背景に溶け込ませる効果がある。ただしその存在や周囲に放つ魔力までは消せない。それゆえ、一部の者にはバレてしまう欠点があった。
ダムトがクロアの腰に触れた。主人の腰にある杖を無断で抜きとる。杖を使い、開いた窓を押す。彼は窓を閉めるためにクロアの杖を借りたのだ。
目的を果たしたダムトは杖を返却しようとして、手探りで帯の位置を確かめた。今度は腰寄りの尻に手が当たり、クロアは若干の不快を感じる。
「妙なところを触る気じゃないでしょうね?」
「触っても硬いじゃないですか。筋肉のせいで」
クロアはむかっ腹が立った。普段なら言い返すところを、眼下に官吏の歩く姿が見えたのでこらえた。
ダムトは杖をもどした。腰に確かな重量を感じたクロアは、透明な毛皮をぽんぽんとかるく叩く。それを出発の合図と理解したベニトラは空へ飛翔した。
タグ:クロア