2019年02月22日
クロア篇−5章1
クロアは夕食を家族とともにとった。遅れてきた公女を家族はみな温かくむかえてくれ、クロアはいつもの調子のまま食事をはじめた。
夕食を食べおえた母と祖母が早々に退室する。居室には父と娘が二人きりになった。父も食事はおわっているが、座ったままだ。クロアは父が娘に話したいことがあるのだと察する。その内容は言うまでもないが、話の切り口がてら問う。
「今晩の護衛の件は、どうなりました?」
「ソルフを同行させようと思う」
「お父さまの護衛を?」
「ああ、クロアはソルフが好きだろう? 一緒にいても気兼ねしないはずだ」
クノードはクロアがかの獣人を贔屓目に見ていることを知っていた。それでいてクロアの従者にダムトが配属されたわけは、公女の従者選定の際にソルフがまだ仕官していなかったからだ。クロアが希望すれば両者の配置転換はかなうかもしれないが、その決断はいまだにできていない。雑用や事務仕事の能力においてはダムトに分があるのだ。彼の利便性を考えると、クロアの側近はダムト以外に考えられない、という側面もあった。
「ご配慮はありがたいのですが、ソルフにはお父さまを守るという大事な役目がありますわ」
「私は屋敷にこもっているよ。どこにも出かけなければ危険な目にも遭わないさ」
その判断はアンペレにおいて正しい。よその領主は刺客に命をねらわれることがあり、屋敷にいても危険をともなうのだが、ことアンペレではそういった物騒な事件は起きていない。領主と公女が護衛役を常にはべらせる必要性は低いのだ。かといって地位簒奪をねらう不届き者が居ないともかぎらないので、いちおうの人員を割いていた。
クロアは父の決定を受け入れた。あらたな護衛はクロアの部屋のまえで待機しているというので、クロアは早く合流しようと思った。クロアが椅子から立ったところ、「そうだ」と父がなにかを思いつく。
「出かけるときはこっそり行ってもらえるかな」
「こっそり?」
「屋敷にいるうちから姿を消していきなさい。この外出は一部の官吏だけが知っていることにしたい」
「わかりましたわ」
クロアは居室を離れた。階段を上がって自室へ向かう。父の言うとおり、自分の部屋のそばに背の高い男性が待機していた。狼の耳がピクっとうごき、その眼孔がクロアを見る。
「オレはいつでも出かけられます」
「こちらの支度が整うまでまってて」
そう長く時間をとらせないつもりで、クロアはソルフの待機続行を指示した。部屋に入るとダムトが長椅子に座っている。彼は洗濯場に持っていったカゴを布巾で拭いていた。その腕には黒光りする小手が装備してある。
「ダムトも出かける用意ができているの?」
「はい。あとはクロア様とベニトラの準備次第です」
「わたしはこのままでもいけるわ」
クロアは武装をほとんどしていない。武具といえば腰に提げた打撃用の杖があるだけだ。ダムトは主人の軽装ぶりを観察する。
「……まあいいでしょう。戦いに行くのではありませんし」
「あとはベニトラね」
夕食前に夕寝をしていた猫は窓辺にいた。夜景を眺めているようだ。クロアは縞模様の猫に近寄り、その丸い背をなでる。
「あなたの背に三人乗せてもらいたいのだけど、いいかしら?」
「やってしんぜよう」
猫が窓のふちから降りた。四つの足を広げ、頭をぶるぶると震わせる。振動が背をとおって尻まで伝わると体がふくらみだした。通常の猫より太かった足はさらに太くなり、長い尾は優美に伸びる。稚(いとけな)かった顔は精悍な猛獣らしい威厳をそなえた。この大きさであれば大人が三人騎乗できそうだ。
「ソルフ、入ってきてちょうだい」
クロアが言うと廊下にいた護衛が入室する。彼はするどい目つきで巨獣をにらみ、腰に帯びた棍に手を置いた。町に害を与えていた魔獣の姿があるせいで、警戒しているのだ。
クロアはベニトラの安全性を示すため、朱色の被毛を掻きなでる。
「平気よ、この子はあばれないわ」
「はい……」
ソルフが武器に触れていた手をおろした。今度は真顔で「この飛獣に三人も乗るのですか?」と聞いてくる。
「かなり密着することになるのでは……」
「わたしは気にしないわ。ソルフだってわたしにくっつかれても、なんとも思わないでしょ?」
クロアは幼少時の感覚でそのように判断した。幼いときのクロアは獣人をめずらしがって、ソルフにベタベタくっついてまわったことがある。ソルフはみずから少女を遠ざける真似はしなかったが、その性分は他人に触れられるのをこのまない。そのことをクロアが知ってからは距離を置くようになった。以後は触れ合うことがなくなったものの、女性が苦手でもある彼なら邪心を抱かない根拠はあった。
ソルフは「はい」と答える。それはそれでクロアの女性としての自尊心がすこし傷つくが、そう答える以外に口下手な者が言える言葉はなかった。
朱色の飛獣がその場に伏せる。クロアたちが騎乗しやすいように屈んでくれたようだ。
「よし、わたしが先頭に乗るわ」
クロアはベニトラの肩寄りの背中にまたがった。護衛二人もクロアにつづくと思ったが、ダムトは窓辺に寄る。
「この部屋から出発しますか?」
「そうするわ。お父さまはこっそり外出してほしいとおっしゃったもの」
「ではもう姿を消していきますか」
「ええ、おねがい」
ダムトが窓を開けはなった。外への入り口を確保したダムトはクロアの後ろに騎乗する。こうした相乗りは飛馬で慣れている。クロアはこたびの飛行もダムトがついていれば安全だろうと安堵した。
ダムトの後方にソルフがまたがった。飛獣はすっくと立ち上がる。その前足は宙をかいた。窓の外へ、ゆっくり上昇する。何物にも触れぬ足は窓の縁を越えた。
ベニトラが窓を通りぬけるのと同時に、前足から色を失くしていく。クロアもまた手先から徐々に背景に溶けこんでいった。この現象はダムトが発生させている。
「勘のよい術士に見つからないことを祈りましょう」
姿を消し去る術は、対象の外観を背景に溶け込ませる効果がある。ただしその存在や周囲に放つ魔力までは消せない。それゆえ、一部の者にはバレてしまう欠点があった。
ダムトがクロアの腰に触れた。主人の腰にある杖を無断で抜きとる。杖を使い、開いた窓を押す。彼は窓を閉めるためにクロアの杖を借りたのだ。
目的を果たしたダムトは杖を返却しようとして、手探りで帯の位置を確かめた。今度は腰寄りの尻に手が当たり、クロアは若干の不快を感じる。
「妙なところを触る気じゃないでしょうね?」
「触っても硬いじゃないですか。筋肉のせいで」
クロアはむかっ腹が立った。普段なら言い返すところを、眼下に官吏の歩く姿が見えたのでこらえた。
ダムトは杖をもどした。腰に確かな重量を感じたクロアは、透明な毛皮をぽんぽんとかるく叩く。それを出発の合図と理解したベニトラは空へ飛翔した。
夕食を食べおえた母と祖母が早々に退室する。居室には父と娘が二人きりになった。父も食事はおわっているが、座ったままだ。クロアは父が娘に話したいことがあるのだと察する。その内容は言うまでもないが、話の切り口がてら問う。
「今晩の護衛の件は、どうなりました?」
「ソルフを同行させようと思う」
「お父さまの護衛を?」
「ああ、クロアはソルフが好きだろう? 一緒にいても気兼ねしないはずだ」
クノードはクロアがかの獣人を贔屓目に見ていることを知っていた。それでいてクロアの従者にダムトが配属されたわけは、公女の従者選定の際にソルフがまだ仕官していなかったからだ。クロアが希望すれば両者の配置転換はかなうかもしれないが、その決断はいまだにできていない。雑用や事務仕事の能力においてはダムトに分があるのだ。彼の利便性を考えると、クロアの側近はダムト以外に考えられない、という側面もあった。
「ご配慮はありがたいのですが、ソルフにはお父さまを守るという大事な役目がありますわ」
「私は屋敷にこもっているよ。どこにも出かけなければ危険な目にも遭わないさ」
その判断はアンペレにおいて正しい。よその領主は刺客に命をねらわれることがあり、屋敷にいても危険をともなうのだが、ことアンペレではそういった物騒な事件は起きていない。領主と公女が護衛役を常にはべらせる必要性は低いのだ。かといって地位簒奪をねらう不届き者が居ないともかぎらないので、いちおうの人員を割いていた。
クロアは父の決定を受け入れた。あらたな護衛はクロアの部屋のまえで待機しているというので、クロアは早く合流しようと思った。クロアが椅子から立ったところ、「そうだ」と父がなにかを思いつく。
「出かけるときはこっそり行ってもらえるかな」
「こっそり?」
「屋敷にいるうちから姿を消していきなさい。この外出は一部の官吏だけが知っていることにしたい」
「わかりましたわ」
クロアは居室を離れた。階段を上がって自室へ向かう。父の言うとおり、自分の部屋のそばに背の高い男性が待機していた。狼の耳がピクっとうごき、その眼孔がクロアを見る。
「オレはいつでも出かけられます」
「こちらの支度が整うまでまってて」
そう長く時間をとらせないつもりで、クロアはソルフの待機続行を指示した。部屋に入るとダムトが長椅子に座っている。彼は洗濯場に持っていったカゴを布巾で拭いていた。その腕には黒光りする小手が装備してある。
「ダムトも出かける用意ができているの?」
「はい。あとはクロア様とベニトラの準備次第です」
「わたしはこのままでもいけるわ」
クロアは武装をほとんどしていない。武具といえば腰に提げた打撃用の杖があるだけだ。ダムトは主人の軽装ぶりを観察する。
「……まあいいでしょう。戦いに行くのではありませんし」
「あとはベニトラね」
夕食前に夕寝をしていた猫は窓辺にいた。夜景を眺めているようだ。クロアは縞模様の猫に近寄り、その丸い背をなでる。
「あなたの背に三人乗せてもらいたいのだけど、いいかしら?」
「やってしんぜよう」
猫が窓のふちから降りた。四つの足を広げ、頭をぶるぶると震わせる。振動が背をとおって尻まで伝わると体がふくらみだした。通常の猫より太かった足はさらに太くなり、長い尾は優美に伸びる。稚(いとけな)かった顔は精悍な猛獣らしい威厳をそなえた。この大きさであれば大人が三人騎乗できそうだ。
「ソルフ、入ってきてちょうだい」
クロアが言うと廊下にいた護衛が入室する。彼はするどい目つきで巨獣をにらみ、腰に帯びた棍に手を置いた。町に害を与えていた魔獣の姿があるせいで、警戒しているのだ。
クロアはベニトラの安全性を示すため、朱色の被毛を掻きなでる。
「平気よ、この子はあばれないわ」
「はい……」
ソルフが武器に触れていた手をおろした。今度は真顔で「この飛獣に三人も乗るのですか?」と聞いてくる。
「かなり密着することになるのでは……」
「わたしは気にしないわ。ソルフだってわたしにくっつかれても、なんとも思わないでしょ?」
クロアは幼少時の感覚でそのように判断した。幼いときのクロアは獣人をめずらしがって、ソルフにベタベタくっついてまわったことがある。ソルフはみずから少女を遠ざける真似はしなかったが、その性分は他人に触れられるのをこのまない。そのことをクロアが知ってからは距離を置くようになった。以後は触れ合うことがなくなったものの、女性が苦手でもある彼なら邪心を抱かない根拠はあった。
ソルフは「はい」と答える。それはそれでクロアの女性としての自尊心がすこし傷つくが、そう答える以外に口下手な者が言える言葉はなかった。
朱色の飛獣がその場に伏せる。クロアたちが騎乗しやすいように屈んでくれたようだ。
「よし、わたしが先頭に乗るわ」
クロアはベニトラの肩寄りの背中にまたがった。護衛二人もクロアにつづくと思ったが、ダムトは窓辺に寄る。
「この部屋から出発しますか?」
「そうするわ。お父さまはこっそり外出してほしいとおっしゃったもの」
「ではもう姿を消していきますか」
「ええ、おねがい」
ダムトが窓を開けはなった。外への入り口を確保したダムトはクロアの後ろに騎乗する。こうした相乗りは飛馬で慣れている。クロアはこたびの飛行もダムトがついていれば安全だろうと安堵した。
ダムトの後方にソルフがまたがった。飛獣はすっくと立ち上がる。その前足は宙をかいた。窓の外へ、ゆっくり上昇する。何物にも触れぬ足は窓の縁を越えた。
ベニトラが窓を通りぬけるのと同時に、前足から色を失くしていく。クロアもまた手先から徐々に背景に溶けこんでいった。この現象はダムトが発生させている。
「勘のよい術士に見つからないことを祈りましょう」
姿を消し去る術は、対象の外観を背景に溶け込ませる効果がある。ただしその存在や周囲に放つ魔力までは消せない。それゆえ、一部の者にはバレてしまう欠点があった。
ダムトがクロアの腰に触れた。主人の腰にある杖を無断で抜きとる。杖を使い、開いた窓を押す。彼は窓を閉めるためにクロアの杖を借りたのだ。
目的を果たしたダムトは杖を返却しようとして、手探りで帯の位置を確かめた。今度は腰寄りの尻に手が当たり、クロアは若干の不快を感じる。
「妙なところを触る気じゃないでしょうね?」
「触っても硬いじゃないですか。筋肉のせいで」
クロアはむかっ腹が立った。普段なら言い返すところを、眼下に官吏の歩く姿が見えたのでこらえた。
ダムトは杖をもどした。腰に確かな重量を感じたクロアは、透明な毛皮をぽんぽんとかるく叩く。それを出発の合図と理解したベニトラは空へ飛翔した。
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