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2017年12月02日
拓馬篇前記−美弥2
律子が座卓に空のカップを置く。彼女は美弥とは別種の負の感情をまとっていた。二次被害を受けた妹を、ひたすらにあわれんでいるのだ。律子はとりわけ美弥の刺々しさを気にしている。
「このへんの人たちは、わるい人じゃないと思うけれど……」
「ちょっと田舎だからってだけじゃ、安心できない」
「でも校長さんはあの姫若先生の旦那さんでしょ。変な人は住まわせないんじゃない?」
律子のいう姫若とは恋愛ものの漫画を専門に描く作家だ。彼女の作品を原作にしたテレビドラマに律子が主演をかざった。姫若のイメージする女性主人公と律子がマッチすることから、彼女は律子に一目置いている。
姫若は親切な女性だ。美弥の苦境を知るや、彼女の夫が経営する才穎高校に転入する選択肢を提示してくれた。
しかしながら律子関連の騒動を一時的なものだと思っていたのか、その申し出を受けると決めた時は「いいの?」と疑問形で答えたそうだ。姫若が即答しなかった原因は、美弥の所属する学校の格式の高さにあった。
美弥のいた高校は金持ちや良家の子たちが通う、お上品な学校であった。庶民派な才穎高校でいいのか、と他人が心配するのも一理あった。名誉に囚われる人間ならば屈辱的な転身になっただろう。
(そんなもの、なんの価値があるんだか)
美弥はそう思う人間だ。現実に、名声ある学校の職員は美弥を切り捨てた。
しょせんは学生寮があるから入った学校だった。名前だけの父親が選んだ、いわば児童養護施設だ。母が生きていればきっと門扉の在り処も知らないままだったろう。
美弥は母子家庭で育った。その母が亡くなってからは実の父親が親権を得た。父は戸籍上の親を名乗るだけ。美弥には無関心だ。彼の住居に美弥を入れようともせず、それゆえ美弥を寮へ押しこんだ。この男は律子さえいればよいと考えているのだ。
父は律子の実父であることを武器に、律子の稼ぎを分けてもらい、生活している。ハイエナか寄生虫か。美弥はそんなふうに父を侮蔑する。しかし人のよい律子は父を見捨てられなかった。美弥にはない、幼きころの父との思い出がそうさせるのかもしれない。だが律子の慕情を裏切るように、父は母以外の女性を愛している。おまけに彼女の分の生活費も律子にせびる。まったく馬鹿らしいことだ。
美弥は義母に会ったことはない。義母は定期的に律子に贈り物をするそうだ。自分たちの金づるにご機嫌取りをしているのだろう。その贈り物だって律子が働いた金で買っているものだ。律子が必要とするかどうかもわからないものにムダ金を使って──と、美弥は義母の行為も不愉快に感じている。だのに律子は届け物が手元にくれば毎度お礼の返事をするのだという。姉のこの律義さも、美弥には共感できなかった。
美弥は損な性格の姉に注意をうながす。
「いい人だから、わるいやつを悪者だと見抜けないことだってあるでしょ。お姉ちゃんがそうじゃないの」
「そう、ね……」
律子は落ちこむ。自身の人の見る目の無さを責められていると感じたのだ。美弥は姉を攻撃する意図はなかったので、あわてて訂正する。
「それがダメだって言うつもりはないの。『こいつは悪いやつだ』と決めつけないのは、お姉ちゃんのいいところだと思う」
律子の人柄のよさは関係者にも好感を持たれていた。そこに付け入る悪者こそを、美弥は敵視する。
「そういうお姉ちゃんを好きになって、守ろうとする人がいるんだもの。いいところはそのまましておいてよ」
「だけど、美弥がこんな目に遭っちゃって……」
「いまの環境はべつになんとも思ってない。私がイラついてるのは、雑誌に変なことを書いて得してる連中がいて、そいつらがなんの罰も受けてないせいなんだから」
まごうことなき本音だ。律子は妹の怒りの矛先が完全に自身にないことがわかり、ようやく微笑みを見せる。
「いいのよ、いま罰が下らなくたって。悪いことをしつづけていれば、いずれ痛い目を見るものよ」
「因果応報ってやつ?」
「そう。……ほっとけばいいの。わたしたちはもっと楽しいことを考えましょうよ」
「……そうね、イライラしてても気分がわるくなるだけだし」
「ねえ、喫茶店に行かない?」
律子は気分転換の提案をした。お茶は飲んだばかりで、現在は食事時でもない。美弥は姉の目当てが飲食でないことを察する。
「モデルさんがオーナーをやってるとこの?」
「うん。遊びにきてって言われてるの。今日はお店にいるんですって」
律子の知り合いには独自の店を経営する芸能人がいる。その人物とはモデルの仕事で接点があった仲だ。相手はモデルだと単純に言っても、かなり特殊な生い立ちをしているという。
「美弥はまだ会ってない?」
「うん……『なにかあったら頼って』とはお姉ちゃんが言ってくれたけど、ここに来てからなにも起きてないし、お店にも行ってない」
「じゃあ行ってみましょうよ。場所の確認もかねて」
部屋にこもっていてもやることはない。美弥は律子の要求を飲む。使った茶器を片付けてから二人で出かけた。
「このへんの人たちは、わるい人じゃないと思うけれど……」
「ちょっと田舎だからってだけじゃ、安心できない」
「でも校長さんはあの姫若先生の旦那さんでしょ。変な人は住まわせないんじゃない?」
律子のいう姫若とは恋愛ものの漫画を専門に描く作家だ。彼女の作品を原作にしたテレビドラマに律子が主演をかざった。姫若のイメージする女性主人公と律子がマッチすることから、彼女は律子に一目置いている。
姫若は親切な女性だ。美弥の苦境を知るや、彼女の夫が経営する才穎高校に転入する選択肢を提示してくれた。
しかしながら律子関連の騒動を一時的なものだと思っていたのか、その申し出を受けると決めた時は「いいの?」と疑問形で答えたそうだ。姫若が即答しなかった原因は、美弥の所属する学校の格式の高さにあった。
美弥のいた高校は金持ちや良家の子たちが通う、お上品な学校であった。庶民派な才穎高校でいいのか、と他人が心配するのも一理あった。名誉に囚われる人間ならば屈辱的な転身になっただろう。
(そんなもの、なんの価値があるんだか)
美弥はそう思う人間だ。現実に、名声ある学校の職員は美弥を切り捨てた。
しょせんは学生寮があるから入った学校だった。名前だけの父親が選んだ、いわば児童養護施設だ。母が生きていればきっと門扉の在り処も知らないままだったろう。
美弥は母子家庭で育った。その母が亡くなってからは実の父親が親権を得た。父は戸籍上の親を名乗るだけ。美弥には無関心だ。彼の住居に美弥を入れようともせず、それゆえ美弥を寮へ押しこんだ。この男は律子さえいればよいと考えているのだ。
父は律子の実父であることを武器に、律子の稼ぎを分けてもらい、生活している。ハイエナか寄生虫か。美弥はそんなふうに父を侮蔑する。しかし人のよい律子は父を見捨てられなかった。美弥にはない、幼きころの父との思い出がそうさせるのかもしれない。だが律子の慕情を裏切るように、父は母以外の女性を愛している。おまけに彼女の分の生活費も律子にせびる。まったく馬鹿らしいことだ。
美弥は義母に会ったことはない。義母は定期的に律子に贈り物をするそうだ。自分たちの金づるにご機嫌取りをしているのだろう。その贈り物だって律子が働いた金で買っているものだ。律子が必要とするかどうかもわからないものにムダ金を使って──と、美弥は義母の行為も不愉快に感じている。だのに律子は届け物が手元にくれば毎度お礼の返事をするのだという。姉のこの律義さも、美弥には共感できなかった。
美弥は損な性格の姉に注意をうながす。
「いい人だから、わるいやつを悪者だと見抜けないことだってあるでしょ。お姉ちゃんがそうじゃないの」
「そう、ね……」
律子は落ちこむ。自身の人の見る目の無さを責められていると感じたのだ。美弥は姉を攻撃する意図はなかったので、あわてて訂正する。
「それがダメだって言うつもりはないの。『こいつは悪いやつだ』と決めつけないのは、お姉ちゃんのいいところだと思う」
律子の人柄のよさは関係者にも好感を持たれていた。そこに付け入る悪者こそを、美弥は敵視する。
「そういうお姉ちゃんを好きになって、守ろうとする人がいるんだもの。いいところはそのまましておいてよ」
「だけど、美弥がこんな目に遭っちゃって……」
「いまの環境はべつになんとも思ってない。私がイラついてるのは、雑誌に変なことを書いて得してる連中がいて、そいつらがなんの罰も受けてないせいなんだから」
まごうことなき本音だ。律子は妹の怒りの矛先が完全に自身にないことがわかり、ようやく微笑みを見せる。
「いいのよ、いま罰が下らなくたって。悪いことをしつづけていれば、いずれ痛い目を見るものよ」
「因果応報ってやつ?」
「そう。……ほっとけばいいの。わたしたちはもっと楽しいことを考えましょうよ」
「……そうね、イライラしてても気分がわるくなるだけだし」
「ねえ、喫茶店に行かない?」
律子は気分転換の提案をした。お茶は飲んだばかりで、現在は食事時でもない。美弥は姉の目当てが飲食でないことを察する。
「モデルさんがオーナーをやってるとこの?」
「うん。遊びにきてって言われてるの。今日はお店にいるんですって」
律子の知り合いには独自の店を経営する芸能人がいる。その人物とはモデルの仕事で接点があった仲だ。相手はモデルだと単純に言っても、かなり特殊な生い立ちをしているという。
「美弥はまだ会ってない?」
「うん……『なにかあったら頼って』とはお姉ちゃんが言ってくれたけど、ここに来てからなにも起きてないし、お店にも行ってない」
「じゃあ行ってみましょうよ。場所の確認もかねて」
部屋にこもっていてもやることはない。美弥は律子の要求を飲む。使った茶器を片付けてから二人で出かけた。
タグ:美弥
2017年12月04日
拓馬篇前記−美弥3
美弥たち姉妹は律子の知人が所有する店へ訪れた。現在は昼の営業時間が過ぎている。準備中という名の閉店状態だ。帽子とマスクで顔を隠した律子はかまわずに店内へ入った。そうするように知人から言われたそうだ。
入店した直後に鈴の音が鳴った。その音は機械音でないと美弥は感じる。物理的に音を鳴らす道具が近くにあるのだ。振り返ればドアの戸当たりの棒部分に鈴がついている。これがこの店のインターホンだろう。
来客を察知した店員がやってくる。緑色のエプロンをかけた若い女性だ。鼻にそばかすが散らばっていて、素朴な雰囲気があった。彼女は掃除中だったらしく、モップを手にしている。
「あのー、オーナーのお友だちですか?」
店員は律子の目元をじっと見た。律子がマスクを取る。すると店員は「あ、ホンモノ!」と興奮をあらわにした。店員の黄色い声を聞きつけて、また別の店員が出てくる。
「あ〜ら、リっちゃんいらっしゃーい」
ハスキーなあいさつが色気のある女性から発される。美弥は彼女の突き出た胸に目がいった。かるい嫉妬を覚えるほど豊満な体型だ。痩身の律子や美弥とは別物である。この妖艶な女性は紙面やテレビでしばしば見かける人物だ。その芸名は散乃(ちるの)みちるといった。
「マヨちゃん、どのへんなら座っていい?」
「奥のほうは掃除がすんだので、奥で」
「わかったわ」
美弥たちはみちるの案内を受ける。壁側のテーブル席で姉妹は向き合う。みちるも律子の隣の椅子に座る。
「リっちゃん、なに飲む? あ、お代は気にしなくていいのよ」
サービスしとく、と言ってみちるはウインクを投げる。律子は厚意を遠慮するそぶりを一瞬見せたが、否定の言葉を飲みこんだ。
「あるもので、お願いします」
「じゃ、店長のおまかせメニューね」
みちるは「てんちょー、おまかせで二人ー!」とオーダーをさけぶ。美弥は「店長?」と律子にたずねる。
「みちるさんが、オーナーなんじゃ」
「ああ、言ってなかったっけ。ここは夫婦経営をしてて、店長はみちるさんの奥さんなの」
律子が説明するとみちるが「そうなのよぉ」と笑顔満面に言う。
「アタシがお店の資金を出すオーナー。お店を切り盛りするのはアタシのお嫁ちゃんなわけよ。アタシはあんまりお店に出られないからね」
女性に妻がいる──というのはやはり違和感があるものだ。みちるは外見と内情が一致しない。その思いが美弥の顔に出たのか、みちるは「アタシのことは知ってる?」とたずねる。
「ナリはこうでもイチモツを下げてるのよ。オカマタレントっていえばもう浸透してるジャンルよね」
「はい……こんなに綺麗なオカマの人は、めずらしいですけど」
みちるは言われなければ男だと気付かない見た目だ。胸は手術した偽乳だが、それ以外は改造していないという。もともとが女性的な身体だったと、テレビで公表していた。
外見を称賛されたみちるは気を良くする。
「もっとほめていいのよ」
「はあ……」
美弥はオカマをどうほめてよいのかわからなかった。
(この人、男と女のどっちの立場であつかえばいいの?)
みちるは女の格好をしているが、オカマによくある同性愛者ではない。男性の面も保っているがゆえに、女性がよろこぶ観点を突くべきかどうか──美弥が会話の展開に難儀していると、みちるは「ジョーダンよ」と神妙に言う。
「そんな余裕はないわよね」
律子は「いえ、だいぶ落ち着いてます」と近況を伝えた。みちるは首を横にふる。
「強がらなくていい。妹ちゃんが知らない土地で、あたらしい学校に行くことになるんだから。誰だって不安はあるわ」
みちるの心配は美弥でなく律子を主眼とする言い方だ。美弥は自身が軽んじられたように感じたが、みちるの優先順位は正しいと思った。
美弥が移った環境は律子の知る人物が用意したものだ。一人暮らしという点では懸念が残る以外、普通の学校に通うのだから大それたことは起きない。一方で律子は心無い批判や憶測に晒される日々を送っている。現在は渦中を脱したとはいえ、いつまた同じようなことが起きるともしれない。
(ほんとうは、お姉ちゃんは芸能人なんて向いてないのに……)
律子は家族のために子役になった。とくに、よい稼ぎの仕事に就けない母に楽をさせてあげたかった。現在は美弥に不自由ない学生生活をすごさせる目的で勤めている。もし律子一人が生きればよいのであれば、姉は普通の会社員になっていただろう。律子は自己主張をしたがる性格ではないし、他人のねたみやっかみを受けながす器量に劣る。外見こそ芸能人たる風格はあるだろうが、その中身は気立てのよさが取り柄の一般人だ。
「リっちゃんはマジメすぎるのよ。おおかた『自分のせいで妹の生活が一変した』と悔やんでるんでしょ」
「それは……そうです」
「そんな後悔は妹ちゃんの新生活がうまくいかなかったときにしなさいよ。これからはまえ以上にたのしい高校生ライフがあるかもしれないじゃん?」
美弥も同意見だ。美弥は以前の格式ばった学校がとくべつ良いとは感じなかった。生徒も教師も、保守的というか、どこか物足りない、似たり寄ったりな考えの者が多かった。みちるくらいの個性的な人物は皆無だ。新しい高校は金持ちではない普通の子が大勢通うところであり、そちらのほうが自分の肌に合う可能性がある。
(べつに合わなくっても、お姉ちゃんをうらむことはないけど)
災い転じて福となすかもしれないと思うと、美弥の気分はいくぶんさわやかになった。
入店した直後に鈴の音が鳴った。その音は機械音でないと美弥は感じる。物理的に音を鳴らす道具が近くにあるのだ。振り返ればドアの戸当たりの棒部分に鈴がついている。これがこの店のインターホンだろう。
来客を察知した店員がやってくる。緑色のエプロンをかけた若い女性だ。鼻にそばかすが散らばっていて、素朴な雰囲気があった。彼女は掃除中だったらしく、モップを手にしている。
「あのー、オーナーのお友だちですか?」
店員は律子の目元をじっと見た。律子がマスクを取る。すると店員は「あ、ホンモノ!」と興奮をあらわにした。店員の黄色い声を聞きつけて、また別の店員が出てくる。
「あ〜ら、リっちゃんいらっしゃーい」
ハスキーなあいさつが色気のある女性から発される。美弥は彼女の突き出た胸に目がいった。かるい嫉妬を覚えるほど豊満な体型だ。痩身の律子や美弥とは別物である。この妖艶な女性は紙面やテレビでしばしば見かける人物だ。その芸名は散乃(ちるの)みちるといった。
「マヨちゃん、どのへんなら座っていい?」
「奥のほうは掃除がすんだので、奥で」
「わかったわ」
美弥たちはみちるの案内を受ける。壁側のテーブル席で姉妹は向き合う。みちるも律子の隣の椅子に座る。
「リっちゃん、なに飲む? あ、お代は気にしなくていいのよ」
サービスしとく、と言ってみちるはウインクを投げる。律子は厚意を遠慮するそぶりを一瞬見せたが、否定の言葉を飲みこんだ。
「あるもので、お願いします」
「じゃ、店長のおまかせメニューね」
みちるは「てんちょー、おまかせで二人ー!」とオーダーをさけぶ。美弥は「店長?」と律子にたずねる。
「みちるさんが、オーナーなんじゃ」
「ああ、言ってなかったっけ。ここは夫婦経営をしてて、店長はみちるさんの奥さんなの」
律子が説明するとみちるが「そうなのよぉ」と笑顔満面に言う。
「アタシがお店の資金を出すオーナー。お店を切り盛りするのはアタシのお嫁ちゃんなわけよ。アタシはあんまりお店に出られないからね」
女性に妻がいる──というのはやはり違和感があるものだ。みちるは外見と内情が一致しない。その思いが美弥の顔に出たのか、みちるは「アタシのことは知ってる?」とたずねる。
「ナリはこうでもイチモツを下げてるのよ。オカマタレントっていえばもう浸透してるジャンルよね」
「はい……こんなに綺麗なオカマの人は、めずらしいですけど」
みちるは言われなければ男だと気付かない見た目だ。胸は手術した偽乳だが、それ以外は改造していないという。もともとが女性的な身体だったと、テレビで公表していた。
外見を称賛されたみちるは気を良くする。
「もっとほめていいのよ」
「はあ……」
美弥はオカマをどうほめてよいのかわからなかった。
(この人、男と女のどっちの立場であつかえばいいの?)
みちるは女の格好をしているが、オカマによくある同性愛者ではない。男性の面も保っているがゆえに、女性がよろこぶ観点を突くべきかどうか──美弥が会話の展開に難儀していると、みちるは「ジョーダンよ」と神妙に言う。
「そんな余裕はないわよね」
律子は「いえ、だいぶ落ち着いてます」と近況を伝えた。みちるは首を横にふる。
「強がらなくていい。妹ちゃんが知らない土地で、あたらしい学校に行くことになるんだから。誰だって不安はあるわ」
みちるの心配は美弥でなく律子を主眼とする言い方だ。美弥は自身が軽んじられたように感じたが、みちるの優先順位は正しいと思った。
美弥が移った環境は律子の知る人物が用意したものだ。一人暮らしという点では懸念が残る以外、普通の学校に通うのだから大それたことは起きない。一方で律子は心無い批判や憶測に晒される日々を送っている。現在は渦中を脱したとはいえ、いつまた同じようなことが起きるともしれない。
(ほんとうは、お姉ちゃんは芸能人なんて向いてないのに……)
律子は家族のために子役になった。とくに、よい稼ぎの仕事に就けない母に楽をさせてあげたかった。現在は美弥に不自由ない学生生活をすごさせる目的で勤めている。もし律子一人が生きればよいのであれば、姉は普通の会社員になっていただろう。律子は自己主張をしたがる性格ではないし、他人のねたみやっかみを受けながす器量に劣る。外見こそ芸能人たる風格はあるだろうが、その中身は気立てのよさが取り柄の一般人だ。
「リっちゃんはマジメすぎるのよ。おおかた『自分のせいで妹の生活が一変した』と悔やんでるんでしょ」
「それは……そうです」
「そんな後悔は妹ちゃんの新生活がうまくいかなかったときにしなさいよ。これからはまえ以上にたのしい高校生ライフがあるかもしれないじゃん?」
美弥も同意見だ。美弥は以前の格式ばった学校がとくべつ良いとは感じなかった。生徒も教師も、保守的というか、どこか物足りない、似たり寄ったりな考えの者が多かった。みちるくらいの個性的な人物は皆無だ。新しい高校は金持ちではない普通の子が大勢通うところであり、そちらのほうが自分の肌に合う可能性がある。
(べつに合わなくっても、お姉ちゃんをうらむことはないけど)
災い転じて福となすかもしれないと思うと、美弥の気分はいくぶんさわやかになった。
タグ:美弥
2017年12月05日
拓馬篇前記−美弥4
「才穎高校ってね、おもしろい子が多いのよ。いま掃除してるマヨちゃんもそこの出身だし」
マヨと呼ばれた店員はモップを四角いバケツの中に浸している。マヨは手を止めた。ほほえみながら、美弥たちに向けて手を振る。明るい人のようだ。
「マヨちゃんの弟も同じ高校なのよね。その子の勧めで、マヨちゃんが今月から店に来てくれてるんだけど……あ、もしかしたら同級生?」
「美弥は、こんど二年生になります」
「じゃあ同い年ねぇ。その子はいい子よ。苦労人タイプと言ったらいいのかな、困ったことがあったらなんでも手を貸してくれるって。マヨちゃんもキリちゃんもよく助けられてて……キリちゃんってのはうちのバイトちゃんね。この子も才穎の子でね、マヨちゃんたちの妹分よ」
この店には美弥が通う予定の学校関連の者が多い。そうと知った美弥は、この店の者に頼ることが二重の意味で自分を救済するという期待が湧いた。この場での付き合いが学校での付き合いともつながっていくのだ。だが美弥は自分の都合を他者に押し付けることは気乗りしない。
(『オーナーの知り合いだから仲良くして』って、そんなの無理よ。その子のバイトはこの店かぎりのこと……学校にまで持ちこめない)
店に勤める才穎の生徒は金稼ぎのために働いているのだろう。時間外手当が出るわけでもない人付き合いは要求できない。第一、自由意思のない交友は不毛だ。美弥にはだれとでも仲良くできる社交性はない。人を選ぶ美弥と友人になれる相手かどうか、確認をしたのちに親睦を深めるべきだ。
(あんまりここに来ないほうがいいのかも……)
もし美弥と馬の合わない相手だったら、勤務中に美弥が来店した際に二人とも気まずい思いをする。ただしその事態は相手が美弥と同じクラスになった場合に起きやすいことだ。
(同じ学校にいても顔を会わせないなら、気にしなくてよさそう)
クラスがちがったり、学年が異なったりすれば、顔と名前を知っているだけの他人同然ですごすかもしれない。そういったドライな関係を保てていたら店で鉢合わせになろうともかまわない。
(『マヨちゃんたちの妹分』ってことは、いまの一年生の妹分でもあるみたいだけど、高校に通ってるんだから同級生よね? 年下っぽい人かな)
美弥はまだ見ぬ人物を想像した。友人にはなれない可能性を感じながらも、共通の知り合いがいる接点により、ささやかな仲間意識が芽生えた。
しかし美弥は同級生の名を問わなかった。聞けばみちるが口利きをしそうだと思ったからだ。下手をすれば、仲良くするように頼んだみちるにも迷惑をかける。姉の知人に余計な負担は背負わせられない。交友はあくまで学校生活の中でおさめておこうと考えた。
みちるが一方的な喋りを美弥たちに聞かせていると、お盆を持った店員がやってきた。少年の雰囲気がある、短髪の似合う女性だ。彼女は穏やかに笑む。
「お待たせしました。ありあわせのものですけど、どうぞ」
テーブルに二人分の軽食が並ぶ。ミルクティーと、丸い形のアイスがのった分厚いホットケーキだ。パン生地は一から焼いたものだろう。ホットケーキに接地するアイスの部分はシロップのように垂れている。その下には透明なシロップもかかっていた。
(これをタダで食べるのは……)
美弥はどうしようかと思い、律子を見た。姉も困ったような目で妹を見てくる。そこへみちるが「店長、アタシのぶんはー?」と食事を運んだ女性にねだった。店長は「ありますよ」と造作もなく答える。
「マヨさんのぶんも作りました。みんなで食べましょう」
やったぁ、とマヨが歓声をあげる。マヨはバケツの取っ手を持ち、早々に片付けをはじめた。みちるは「アタシも運ぼうっと」と言って立ち上がる。
「三人分はお盆にのせられないのよね〜」
「一度にたくさん運ぼうとしたら、ひっくり返しそうだから……」
「マヨちゃんならやりかねないわ」
二人が盆の大きさについて話していると、店内のどこかから「ひゃー!」という悲鳴があがった。からんからん、と乾いた物音も遅れて聞こえた。みちるが「バケツをひっくり返したかしら」と冷静に推測する。店主の二人は落ち着きはらった様子で厨房へ入った。美弥たちは少々びっくりしたのだが、店の者にとってはこの叫び声が日常茶飯事のようだ。
客席にいるのは美弥たち二人だけになった。律子が安堵の笑顔を見せる。
「なんだか、にぎやかなところね」
「平和ね……」
「ウダウダ悩むのが馬鹿らしくなってきちゃった」
律子はだいぶ憂さが晴れたようだ。姉のすっきりした表情を久々に見たと美弥は感じる。
(よかった……お姉ちゃんが安心できたみたい)
その心境の変化は大収穫である。美弥自身が「心配しないで」と言っても、律子は美弥の味方のすくなさを案じてしまう。その目で美弥の援助をしてくれる者たちを確かめて、やっと重荷が外れたらしい。美弥の心も軽やかになる。
(人の好き嫌いをしてる場合じゃなさそうね。友だちをつくったら、お姉ちゃんの心配事はもっと減る)
頭ではわかっている。そうすれば律子はよろこぶのだと。がんばれば一人二人の女子の友だちは早くにできそうだ。だが、どうにも男子とは関われない。
(小学生のころはなんともなかったのに)
小学校と中学校時代に境目がある。思春期も関係するだろうが、一番の要因は父だと美弥は感じている。美弥が中学にあがる前に母が亡くなった。当時の律子は未成年。あとには親無しの児童が二人残る。役所の人が二人の監督をしようと動いたところを、父が姉妹の保護者になった。美弥は当初「お父さんと暮らせる」と期待したが、父は美弥の想定する愛情を欠片もそそいではくれなかった。わが子の愛を持たずに父親の座についた男だ。そうわかると、美弥は男性そのものが我欲に生きる存在でないかと錯覚した。
(ほんとは、そんなことない……と思いたい)
才穎高校の転入試験をした時に会った校長はやさしい中年男性だった。その補佐役をした男性教師も人当たりがよさそうだった。だが美弥は彼らでなく、素っ気ない女性教師や事務員に安心感を持ってしまった。普通の感覚ではありえないことだと、われながら感じる。
美弥は男性不信の改善策が見つからないまま、一同のおやつタイムがはじまった。まずはマヨがさきほどの悲鳴の理由を説明した。その下半身はズボンを穿いていたのが、いまは膝丈のスカートだ。モップをバケツ内ですすぐ作業中にバケツを倒してしまい、ズボンがびちゃびちゃに濡れてしまったという。
「なーんでか知らないけど不器用なんですよ。だから家事は任せられないって母親に言われちゃって」
それでも義務教育時代に培った掃除と配膳なら人並みにできる、との理屈でこの店に勤務していると語る。みちるは「その二つもアヤシーけどね」とシニカルに指摘した。マヨが茶目っ気のある苦笑を浮かべる。二人のやり取りを見て、美弥と律子はくすっと笑った。
マヨと呼ばれた店員はモップを四角いバケツの中に浸している。マヨは手を止めた。ほほえみながら、美弥たちに向けて手を振る。明るい人のようだ。
「マヨちゃんの弟も同じ高校なのよね。その子の勧めで、マヨちゃんが今月から店に来てくれてるんだけど……あ、もしかしたら同級生?」
「美弥は、こんど二年生になります」
「じゃあ同い年ねぇ。その子はいい子よ。苦労人タイプと言ったらいいのかな、困ったことがあったらなんでも手を貸してくれるって。マヨちゃんもキリちゃんもよく助けられてて……キリちゃんってのはうちのバイトちゃんね。この子も才穎の子でね、マヨちゃんたちの妹分よ」
この店には美弥が通う予定の学校関連の者が多い。そうと知った美弥は、この店の者に頼ることが二重の意味で自分を救済するという期待が湧いた。この場での付き合いが学校での付き合いともつながっていくのだ。だが美弥は自分の都合を他者に押し付けることは気乗りしない。
(『オーナーの知り合いだから仲良くして』って、そんなの無理よ。その子のバイトはこの店かぎりのこと……学校にまで持ちこめない)
店に勤める才穎の生徒は金稼ぎのために働いているのだろう。時間外手当が出るわけでもない人付き合いは要求できない。第一、自由意思のない交友は不毛だ。美弥にはだれとでも仲良くできる社交性はない。人を選ぶ美弥と友人になれる相手かどうか、確認をしたのちに親睦を深めるべきだ。
(あんまりここに来ないほうがいいのかも……)
もし美弥と馬の合わない相手だったら、勤務中に美弥が来店した際に二人とも気まずい思いをする。ただしその事態は相手が美弥と同じクラスになった場合に起きやすいことだ。
(同じ学校にいても顔を会わせないなら、気にしなくてよさそう)
クラスがちがったり、学年が異なったりすれば、顔と名前を知っているだけの他人同然ですごすかもしれない。そういったドライな関係を保てていたら店で鉢合わせになろうともかまわない。
(『マヨちゃんたちの妹分』ってことは、いまの一年生の妹分でもあるみたいだけど、高校に通ってるんだから同級生よね? 年下っぽい人かな)
美弥はまだ見ぬ人物を想像した。友人にはなれない可能性を感じながらも、共通の知り合いがいる接点により、ささやかな仲間意識が芽生えた。
しかし美弥は同級生の名を問わなかった。聞けばみちるが口利きをしそうだと思ったからだ。下手をすれば、仲良くするように頼んだみちるにも迷惑をかける。姉の知人に余計な負担は背負わせられない。交友はあくまで学校生活の中でおさめておこうと考えた。
みちるが一方的な喋りを美弥たちに聞かせていると、お盆を持った店員がやってきた。少年の雰囲気がある、短髪の似合う女性だ。彼女は穏やかに笑む。
「お待たせしました。ありあわせのものですけど、どうぞ」
テーブルに二人分の軽食が並ぶ。ミルクティーと、丸い形のアイスがのった分厚いホットケーキだ。パン生地は一から焼いたものだろう。ホットケーキに接地するアイスの部分はシロップのように垂れている。その下には透明なシロップもかかっていた。
(これをタダで食べるのは……)
美弥はどうしようかと思い、律子を見た。姉も困ったような目で妹を見てくる。そこへみちるが「店長、アタシのぶんはー?」と食事を運んだ女性にねだった。店長は「ありますよ」と造作もなく答える。
「マヨさんのぶんも作りました。みんなで食べましょう」
やったぁ、とマヨが歓声をあげる。マヨはバケツの取っ手を持ち、早々に片付けをはじめた。みちるは「アタシも運ぼうっと」と言って立ち上がる。
「三人分はお盆にのせられないのよね〜」
「一度にたくさん運ぼうとしたら、ひっくり返しそうだから……」
「マヨちゃんならやりかねないわ」
二人が盆の大きさについて話していると、店内のどこかから「ひゃー!」という悲鳴があがった。からんからん、と乾いた物音も遅れて聞こえた。みちるが「バケツをひっくり返したかしら」と冷静に推測する。店主の二人は落ち着きはらった様子で厨房へ入った。美弥たちは少々びっくりしたのだが、店の者にとってはこの叫び声が日常茶飯事のようだ。
客席にいるのは美弥たち二人だけになった。律子が安堵の笑顔を見せる。
「なんだか、にぎやかなところね」
「平和ね……」
「ウダウダ悩むのが馬鹿らしくなってきちゃった」
律子はだいぶ憂さが晴れたようだ。姉のすっきりした表情を久々に見たと美弥は感じる。
(よかった……お姉ちゃんが安心できたみたい)
その心境の変化は大収穫である。美弥自身が「心配しないで」と言っても、律子は美弥の味方のすくなさを案じてしまう。その目で美弥の援助をしてくれる者たちを確かめて、やっと重荷が外れたらしい。美弥の心も軽やかになる。
(人の好き嫌いをしてる場合じゃなさそうね。友だちをつくったら、お姉ちゃんの心配事はもっと減る)
頭ではわかっている。そうすれば律子はよろこぶのだと。がんばれば一人二人の女子の友だちは早くにできそうだ。だが、どうにも男子とは関われない。
(小学生のころはなんともなかったのに)
小学校と中学校時代に境目がある。思春期も関係するだろうが、一番の要因は父だと美弥は感じている。美弥が中学にあがる前に母が亡くなった。当時の律子は未成年。あとには親無しの児童が二人残る。役所の人が二人の監督をしようと動いたところを、父が姉妹の保護者になった。美弥は当初「お父さんと暮らせる」と期待したが、父は美弥の想定する愛情を欠片もそそいではくれなかった。わが子の愛を持たずに父親の座についた男だ。そうわかると、美弥は男性そのものが我欲に生きる存在でないかと錯覚した。
(ほんとは、そんなことない……と思いたい)
才穎高校の転入試験をした時に会った校長はやさしい中年男性だった。その補佐役をした男性教師も人当たりがよさそうだった。だが美弥は彼らでなく、素っ気ない女性教師や事務員に安心感を持ってしまった。普通の感覚ではありえないことだと、われながら感じる。
美弥は男性不信の改善策が見つからないまま、一同のおやつタイムがはじまった。まずはマヨがさきほどの悲鳴の理由を説明した。その下半身はズボンを穿いていたのが、いまは膝丈のスカートだ。モップをバケツ内ですすぐ作業中にバケツを倒してしまい、ズボンがびちゃびちゃに濡れてしまったという。
「なーんでか知らないけど不器用なんですよ。だから家事は任せられないって母親に言われちゃって」
それでも義務教育時代に培った掃除と配膳なら人並みにできる、との理屈でこの店に勤務していると語る。みちるは「その二つもアヤシーけどね」とシニカルに指摘した。マヨが茶目っ気のある苦笑を浮かべる。二人のやり取りを見て、美弥と律子はくすっと笑った。
タグ:美弥
2017年12月06日
拓馬篇前記−美弥5
美弥たちがいるテーブル席は四人掛けだった。それゆえ美弥と律子の席には引き続きみちるが座り、通路をはさんだ隣りのテーブルに店長とマヨが着席している。みなが一様にアイス付きのホットケーキをナイフとフォークでつついた。会話はもっぱらオーナーのみちるが仕切る。
「こういう身内だけのときはさ、マヨちゃんに作らせてもいいかもね」
美弥はその案を新人教育だと思った。仕事に不慣れな従業員に料理を作らせる。その成果物はたいてい完成度の低いものだ。端的に表現すれば、客に金銭を要求できない失敗作にあたる。それを店の関係者が始末する。無駄のない仕組みだ。美弥がみちるたちを頼る関係上、提供される料理は練習台のほうがこころよく享受できる。
美弥は自分たちを気遣うみちるたちになにもしてあげられない。そのことに心苦しさを感じていた。新人教育の協力という店の利益になる行為に関われるのなら、すこしは恩に報いられる。
(ホットケーキなら、まずくならないだろうし……)
ホットケーキは既製品の粉に牛乳と卵を混ぜ合わせ、フライパンで焼く料理。むずかしいのは焼き加減の調整だ。焦げついたり崩れたりしたものは売り物にならない。しかし味は同じはずだ。美弥と律子は料理の見た目にこだわらない性分なので、みちるの提案はちょうどよいと思った。
調理練習をする対象が「大丈夫ですかねー」と他人事のように不安がる。
「あたしは料理がてんでダメなんですけど。捨てちゃうのもったいないでしょ?」
「レシピの分量と調理時間を守れば食べられる味にはなるわよ」
「分量と時間……」
「料理のヘタクソな人はね、いきなりオリジナルで作ろうとするからマズイもんを作っちゃうのよ。はじめはちゃんとレシピ通りにやりなさい。個性を出すのはそのあと!」
「はーい……」
マヨはしぶしぶ了承した。ぱくっとホットケーキの切れ端を食べると、パッと顔を輝かせる。
「あ、練習で作ったものは自分で食べていいんですか?」
「ほかの店員やリっちゃんたちに出さないんだったら、そうなるわね」
「へへー、それならがんばれそうです!」
食い意地のはったやる気の出し方だ。みちるが笑いながら呆れる。
「さっすが、店の残りもの目当てに働きにきた女ね」
マヨは「弟が言ったんですよー」と動機を家族になすりつける。
「『タダのパンを食いたけりゃその店の店員になれ』ってね」
「マヨちゃんのほしいパンを探しにキリちゃんが非番の日も店にきてたんだもの。そりゃ自分でやれ、とも言われるわ」
「ねらってたものが家に届いたその日に言うんですよ。言うの遅くないですか?」
「でもマヨちゃんはウチにきてるじゃない」
「そうですけど……ほかにも気になるものがあったので」
「だったらパン屋でバイトしたらいいじゃない。ウチはパン屋の売れ残りをモーニングメニューに出してるんだから」
マヨは目を細め、ほほえむ。
「そこに気付けなかったんですよねー」
美弥と律子はぷっと吹き出した。単純な道理を見極められなかったと申告する潔さが、一種のコントのように感じたのだ。黙っていた店長がやんわり指摘する。
「たぶん、弟さんがすすめた勤務先もパン屋のことだったと思いますよ」
「ええ? 言葉が足りないんだから、あいつ……」
マヨは冗談だか本気だかわからぬ苛立ちを表に出した。店長はおだやかに苦笑いをする。
「どのみち料理の不得意な人はちょっと……お運びとか掃除専門の人を雇う余裕はないですから」
店長の婉曲的な否定に対して、みちるも「まあそうよね」と同調する。
「店長の実家は喫茶店じゃないんだもの、みんなが調理を担当できなきゃ手が回らないでしょうね」
「そうなんです。レジ業務だけの人も、いまのところいないですし」
「じゃあマヨちゃんはウチで働くしかないわね」
みちるたち店主は現状を肯定した。マヨは「はい」と粛々と返事する。
「まっとうに料理ができるようになるまで、店にいさせてください」
「フツーは家で練習するもんだと思うけどね」
冷静なツッコミを受けたマヨは不平不満を表情に浮かべる。
「お母さんがいやがるんですよ。あたしが台所に立ったらメチャクチャになるって。弟にはそんなこと言わないし、むしろ家事をさせたがるのに」
「あら、弟ちゃんは信頼されてるのね」
「そうなんですよ。なんでもソツなくこなすやつで……」
「ウチもその子のほうを雇えばよかったかしら」
みちるの冗談めいたいじわる発言が出た。マヨが口をとがらせる。
「向こうが願い下げしてきますよ。オーナーみたいなややこしー人間はニガテですもん」
マヨも負けじとみちるに攻勢をかける。その口論は気心の知れた者同士のじゃれあいだ。美弥と律子は彼女らの言い合いに耳を傾けながら、すこしぬるくなったミルクティーを飲んだ。
「こういう身内だけのときはさ、マヨちゃんに作らせてもいいかもね」
美弥はその案を新人教育だと思った。仕事に不慣れな従業員に料理を作らせる。その成果物はたいてい完成度の低いものだ。端的に表現すれば、客に金銭を要求できない失敗作にあたる。それを店の関係者が始末する。無駄のない仕組みだ。美弥がみちるたちを頼る関係上、提供される料理は練習台のほうがこころよく享受できる。
美弥は自分たちを気遣うみちるたちになにもしてあげられない。そのことに心苦しさを感じていた。新人教育の協力という店の利益になる行為に関われるのなら、すこしは恩に報いられる。
(ホットケーキなら、まずくならないだろうし……)
ホットケーキは既製品の粉に牛乳と卵を混ぜ合わせ、フライパンで焼く料理。むずかしいのは焼き加減の調整だ。焦げついたり崩れたりしたものは売り物にならない。しかし味は同じはずだ。美弥と律子は料理の見た目にこだわらない性分なので、みちるの提案はちょうどよいと思った。
調理練習をする対象が「大丈夫ですかねー」と他人事のように不安がる。
「あたしは料理がてんでダメなんですけど。捨てちゃうのもったいないでしょ?」
「レシピの分量と調理時間を守れば食べられる味にはなるわよ」
「分量と時間……」
「料理のヘタクソな人はね、いきなりオリジナルで作ろうとするからマズイもんを作っちゃうのよ。はじめはちゃんとレシピ通りにやりなさい。個性を出すのはそのあと!」
「はーい……」
マヨはしぶしぶ了承した。ぱくっとホットケーキの切れ端を食べると、パッと顔を輝かせる。
「あ、練習で作ったものは自分で食べていいんですか?」
「ほかの店員やリっちゃんたちに出さないんだったら、そうなるわね」
「へへー、それならがんばれそうです!」
食い意地のはったやる気の出し方だ。みちるが笑いながら呆れる。
「さっすが、店の残りもの目当てに働きにきた女ね」
マヨは「弟が言ったんですよー」と動機を家族になすりつける。
「『タダのパンを食いたけりゃその店の店員になれ』ってね」
「マヨちゃんのほしいパンを探しにキリちゃんが非番の日も店にきてたんだもの。そりゃ自分でやれ、とも言われるわ」
「ねらってたものが家に届いたその日に言うんですよ。言うの遅くないですか?」
「でもマヨちゃんはウチにきてるじゃない」
「そうですけど……ほかにも気になるものがあったので」
「だったらパン屋でバイトしたらいいじゃない。ウチはパン屋の売れ残りをモーニングメニューに出してるんだから」
マヨは目を細め、ほほえむ。
「そこに気付けなかったんですよねー」
美弥と律子はぷっと吹き出した。単純な道理を見極められなかったと申告する潔さが、一種のコントのように感じたのだ。黙っていた店長がやんわり指摘する。
「たぶん、弟さんがすすめた勤務先もパン屋のことだったと思いますよ」
「ええ? 言葉が足りないんだから、あいつ……」
マヨは冗談だか本気だかわからぬ苛立ちを表に出した。店長はおだやかに苦笑いをする。
「どのみち料理の不得意な人はちょっと……お運びとか掃除専門の人を雇う余裕はないですから」
店長の婉曲的な否定に対して、みちるも「まあそうよね」と同調する。
「店長の実家は喫茶店じゃないんだもの、みんなが調理を担当できなきゃ手が回らないでしょうね」
「そうなんです。レジ業務だけの人も、いまのところいないですし」
「じゃあマヨちゃんはウチで働くしかないわね」
みちるたち店主は現状を肯定した。マヨは「はい」と粛々と返事する。
「まっとうに料理ができるようになるまで、店にいさせてください」
「フツーは家で練習するもんだと思うけどね」
冷静なツッコミを受けたマヨは不平不満を表情に浮かべる。
「お母さんがいやがるんですよ。あたしが台所に立ったらメチャクチャになるって。弟にはそんなこと言わないし、むしろ家事をさせたがるのに」
「あら、弟ちゃんは信頼されてるのね」
「そうなんですよ。なんでもソツなくこなすやつで……」
「ウチもその子のほうを雇えばよかったかしら」
みちるの冗談めいたいじわる発言が出た。マヨが口をとがらせる。
「向こうが願い下げしてきますよ。オーナーみたいなややこしー人間はニガテですもん」
マヨも負けじとみちるに攻勢をかける。その口論は気心の知れた者同士のじゃれあいだ。美弥と律子は彼女らの言い合いに耳を傾けながら、すこしぬるくなったミルクティーを飲んだ。
タグ:美弥
2017年12月08日
拓馬篇前記−美弥6
美弥たちは喫茶店での歓談を惜しみつつ、帰路をたどる。帰宅ルートはなるべく大通りを避けた。この土地は都会ではないので、通行人とあまりすれちがわない道は簡単に見つかった。美弥たち姉妹の警戒心がゆるむ。二人は道中、声のトーンを抑えながら雑談を交わした。
美弥はみちるがユニークな人物だと知っていたが、雇われ店員のマヨもまた愉快な人だった。マヨは美弥の印象に強く残っている。素朴ながらも個性的な女性は、律子らの想定にいなかった店の者だ。その人物が意外にもムードメーカーを担っている。心にささくれを持つ美弥たちにはマヨの存在が保湿剤のごとく癒しになった。
「あの人が才穎高校の卒業生かぁ……」
「ちょっと残念ね。美弥の同級生だったらよかったけれど」
「ああいうドジっ子が友だちじゃ、毎日が大変だと思う」
律子はマスク越しにふふっと笑う。
「そうね、きっと大変よ。でもさびしくはならなさそう」
いまの美弥たちに足りないものは陽気さだ。その成分がみちるの店にいることで補われた。律子は「またいっしょに行く?」と提案する。
「ほかのお客さんのいる時間にもおじゃましたいな」
「でも変装は? マスクをとったらバレちゃう」
入店時、二人は最初にマヨに出会った。マヨはマスク状態の律子を律子だと断定しなかった。しかしながら、彼女は前もって律子が来ることを知っていた口ぶりだった。それがマスクを外せば律子が有名人だと確信したのだ。マスクの擬態効果は大いにある。だが飲食をする場において、口の隠れるマスクを常用する客は不自然きわまりない。
「黒いサングラス……とか?」
「食事中もかけっぱなしじゃ『ヘンな人だ』って注目されない?」
日差しのない屋内でも四六時中、黒いレンズで目元を隠す人はいるだろう。そういった人はたいがい男性だ。それもいかつく、怖いイメージがある。柔弱な律子には不一致のアクセサリーだ。その違和感は他者の視線を集めてしまう。会った瞬間は律子だと思われなくとも、いずれ勘付かれる。美弥はそこが難点だと感じる。
「じっと見られたらきっとバレる」
「そうね……だけど準備中のときにばかり行くのは、仕事のジャマになるだろうし」
準備中は店内の清掃をしたり、次の営業時間のために料理の下ごしらえをしたりする時間だ。その作業時間に訪問することは、いたずらに相手方の仕事を増やす行為になる。
「うーん……いっぺんサングラスをかけてみて、それでバレないかためしてみる?」
当座はマスク以外の顔隠しを試験的に実施することに決めた。話題は変装道具に移る。
「サングラス、持ってたっけ?」
「夏場の外出用に持ってる」
「じゃ、あたらしいのは買わなくていいのね」
「うん……でも男性用だから、ちょっと合わないかも」
美弥は耳を疑った。男っ気のない律子が、男性向けの物を所有しているという。
「だれからもらったの?」
「え? ああ、エキストラの人……だったかな。通販で買ったんだけれどサイズが小さかったんだって。『律子さんなら顔ちっちゃいからかけられますよ!』とか言われて、もらっちゃった」
「下の名前でよばれてるの?」
「相手のほうが年上だったし……そんなもんじゃない?」
律子は淡泊に答える。美弥は自分の知らないところで姉に恋人ができているのではないかと疑ったが、どうもそうではないようだ。律子は妹の憶測を察し、その疑惑を笑い飛ばす。
「ふふ、恋人だったらちゃんと美弥に伝えるから。安心して」
「そう、よね。お母さんがよく言ってたもん。『律子は早く信頼できる男の人を見つけなさい』って……私も、そう思ってる。お姉ちゃんを守ってくれる、しっかりした人が──」
律子はその容姿ゆえにやましい心を持った異性をも惹きつけてしまう。早期に既婚者になってしまえば、悪い虫は寄りつきにくくなる。あわよくば夫の家族が、頼れる親類のいない姉妹の縁者になってくれる。これほど心強いことはないだろう。律子も同じ考えだと示すようにうなずく。
「みちるさんも『結婚したらいいんじゃないの』と言ってたね」
その意見はパパラッチ被害を未然に防ぐ解決策として提示された。オカマタレントであるみちるの実体験が裏にひそんでいるのかは知らないが、律子を支える人物がいてほしいのはたしかだ。
「お姉ちゃんは気になる人がいないの?」
「うん……だれを信用していいんだか、よくわからない。美弥が『いい』って言うような人がね……」
「べつに、私の好みに合わせなくていいのよ。お姉ちゃんの旦那さんだもん」
「美弥が信じられる人なら、安心なの。わたしは人を見る目がないから……」
律子の自己評価は正当だ。しかし美弥は姉の考えに不安を抱く。
(私の観察力だって、そこまで正確か……)
良い人だと姉に薦めた男性が、とんでもないダメ男だったとしたら。いうまでもなく姉は不幸になる。だがそれ以上に取り返しのつかない事態もありうる。
(ダメ男に引っ掛かったら別れればいい……でも、私が『ダメ』だと思った人が、ほかの女性と幸せな家庭を築けていたら……私は、きっと後悔する)
人それぞれに相性はある。律子とは歩調が合わない男性でも、律子と異なるタイプの女性と抜群によい関係を構築する可能性はあるだろう。だがその時になって、「あの人は姉以外の女性と結婚したからうまくいってる」と胸を張って言えるだろうか。その幸福な家庭に、そのまま律子をあてはめて「ほんとうならあそこに姉がいたのに」と思ってしまうのではなかろうか。
そもそも美弥は男嫌いである。きっと良い人なのだ、と思える相手であろうと、その人の良さに裏があるのでは、と心のどこかで疑ってしまう。律子のことをまことに想う男性が目の前に現れても、おそらく美弥は拒絶する。
「……私には、お姉ちゃんの結婚相手を決める力がないと思う」
「そう? 美弥の言うことはけっこう当たると思うけど」
「男性はてんでダメ。みーんな悪者に見えちゃうもん」
「それは、美弥だとそうなのよね……」
「うん、だから──」
「じゃあさきに美弥の男性不信を治しちゃいましょ」
「え?」
律子の問題を論じていたはずが、なぜか美弥が抱える問題解決に転じた。律子は「そんなにおどろくこと?」と不思議そうに小首をかしげる。
「そのほうがいいでしょ? わたしが美弥に『この人とお付き合いしてる』って恋人を会わせたときに、美弥がツンツンしちゃったら気まずいもの」
「あ、まあ……」
「まずは男の人と簡単なあいさつをすることから始めましょうよ。わたしか、みちるさんたちと一緒のときでいいから」
挨拶くらいはできる。だが精神的負担はある。その負担を感じにくくさせること。それが美弥に課されたトレーニングだ。美弥は律子の出すハードルの低さに安堵した。やれることから徐々に慣れていけばいいのだと思うと、途方もない嫌悪感は永遠に続くわけではない気がした。
新規努力目標を立てた美弥はアパートを目前にして足を止める。宿舎の敷地内への入り口付近に、男性が立っている。その男性は今日から入居するらしい、灰色髪のスーツ姿の人物だ。彼は塀の上に座る猫をなでていた。律子が「チャンスね」と美弥にささやく。
「同じアパートの人でしょ。話しかけていい相手よ」
「でも、あんな、髪を染めてる人……」
「猫をかわいがってるじゃない。こわくなさそうよ」
わたしも一緒だから、と律子が美弥の手を握る。美弥は観念した。第一、部屋にもどるには男性のそばを通らねばならない。声掛けを推奨されるべき状況だ。美弥は姉に手を引っ張られるかたちで前進した。
美弥はみちるがユニークな人物だと知っていたが、雇われ店員のマヨもまた愉快な人だった。マヨは美弥の印象に強く残っている。素朴ながらも個性的な女性は、律子らの想定にいなかった店の者だ。その人物が意外にもムードメーカーを担っている。心にささくれを持つ美弥たちにはマヨの存在が保湿剤のごとく癒しになった。
「あの人が才穎高校の卒業生かぁ……」
「ちょっと残念ね。美弥の同級生だったらよかったけれど」
「ああいうドジっ子が友だちじゃ、毎日が大変だと思う」
律子はマスク越しにふふっと笑う。
「そうね、きっと大変よ。でもさびしくはならなさそう」
いまの美弥たちに足りないものは陽気さだ。その成分がみちるの店にいることで補われた。律子は「またいっしょに行く?」と提案する。
「ほかのお客さんのいる時間にもおじゃましたいな」
「でも変装は? マスクをとったらバレちゃう」
入店時、二人は最初にマヨに出会った。マヨはマスク状態の律子を律子だと断定しなかった。しかしながら、彼女は前もって律子が来ることを知っていた口ぶりだった。それがマスクを外せば律子が有名人だと確信したのだ。マスクの擬態効果は大いにある。だが飲食をする場において、口の隠れるマスクを常用する客は不自然きわまりない。
「黒いサングラス……とか?」
「食事中もかけっぱなしじゃ『ヘンな人だ』って注目されない?」
日差しのない屋内でも四六時中、黒いレンズで目元を隠す人はいるだろう。そういった人はたいがい男性だ。それもいかつく、怖いイメージがある。柔弱な律子には不一致のアクセサリーだ。その違和感は他者の視線を集めてしまう。会った瞬間は律子だと思われなくとも、いずれ勘付かれる。美弥はそこが難点だと感じる。
「じっと見られたらきっとバレる」
「そうね……だけど準備中のときにばかり行くのは、仕事のジャマになるだろうし」
準備中は店内の清掃をしたり、次の営業時間のために料理の下ごしらえをしたりする時間だ。その作業時間に訪問することは、いたずらに相手方の仕事を増やす行為になる。
「うーん……いっぺんサングラスをかけてみて、それでバレないかためしてみる?」
当座はマスク以外の顔隠しを試験的に実施することに決めた。話題は変装道具に移る。
「サングラス、持ってたっけ?」
「夏場の外出用に持ってる」
「じゃ、あたらしいのは買わなくていいのね」
「うん……でも男性用だから、ちょっと合わないかも」
美弥は耳を疑った。男っ気のない律子が、男性向けの物を所有しているという。
「だれからもらったの?」
「え? ああ、エキストラの人……だったかな。通販で買ったんだけれどサイズが小さかったんだって。『律子さんなら顔ちっちゃいからかけられますよ!』とか言われて、もらっちゃった」
「下の名前でよばれてるの?」
「相手のほうが年上だったし……そんなもんじゃない?」
律子は淡泊に答える。美弥は自分の知らないところで姉に恋人ができているのではないかと疑ったが、どうもそうではないようだ。律子は妹の憶測を察し、その疑惑を笑い飛ばす。
「ふふ、恋人だったらちゃんと美弥に伝えるから。安心して」
「そう、よね。お母さんがよく言ってたもん。『律子は早く信頼できる男の人を見つけなさい』って……私も、そう思ってる。お姉ちゃんを守ってくれる、しっかりした人が──」
律子はその容姿ゆえにやましい心を持った異性をも惹きつけてしまう。早期に既婚者になってしまえば、悪い虫は寄りつきにくくなる。あわよくば夫の家族が、頼れる親類のいない姉妹の縁者になってくれる。これほど心強いことはないだろう。律子も同じ考えだと示すようにうなずく。
「みちるさんも『結婚したらいいんじゃないの』と言ってたね」
その意見はパパラッチ被害を未然に防ぐ解決策として提示された。オカマタレントであるみちるの実体験が裏にひそんでいるのかは知らないが、律子を支える人物がいてほしいのはたしかだ。
「お姉ちゃんは気になる人がいないの?」
「うん……だれを信用していいんだか、よくわからない。美弥が『いい』って言うような人がね……」
「べつに、私の好みに合わせなくていいのよ。お姉ちゃんの旦那さんだもん」
「美弥が信じられる人なら、安心なの。わたしは人を見る目がないから……」
律子の自己評価は正当だ。しかし美弥は姉の考えに不安を抱く。
(私の観察力だって、そこまで正確か……)
良い人だと姉に薦めた男性が、とんでもないダメ男だったとしたら。いうまでもなく姉は不幸になる。だがそれ以上に取り返しのつかない事態もありうる。
(ダメ男に引っ掛かったら別れればいい……でも、私が『ダメ』だと思った人が、ほかの女性と幸せな家庭を築けていたら……私は、きっと後悔する)
人それぞれに相性はある。律子とは歩調が合わない男性でも、律子と異なるタイプの女性と抜群によい関係を構築する可能性はあるだろう。だがその時になって、「あの人は姉以外の女性と結婚したからうまくいってる」と胸を張って言えるだろうか。その幸福な家庭に、そのまま律子をあてはめて「ほんとうならあそこに姉がいたのに」と思ってしまうのではなかろうか。
そもそも美弥は男嫌いである。きっと良い人なのだ、と思える相手であろうと、その人の良さに裏があるのでは、と心のどこかで疑ってしまう。律子のことをまことに想う男性が目の前に現れても、おそらく美弥は拒絶する。
「……私には、お姉ちゃんの結婚相手を決める力がないと思う」
「そう? 美弥の言うことはけっこう当たると思うけど」
「男性はてんでダメ。みーんな悪者に見えちゃうもん」
「それは、美弥だとそうなのよね……」
「うん、だから──」
「じゃあさきに美弥の男性不信を治しちゃいましょ」
「え?」
律子の問題を論じていたはずが、なぜか美弥が抱える問題解決に転じた。律子は「そんなにおどろくこと?」と不思議そうに小首をかしげる。
「そのほうがいいでしょ? わたしが美弥に『この人とお付き合いしてる』って恋人を会わせたときに、美弥がツンツンしちゃったら気まずいもの」
「あ、まあ……」
「まずは男の人と簡単なあいさつをすることから始めましょうよ。わたしか、みちるさんたちと一緒のときでいいから」
挨拶くらいはできる。だが精神的負担はある。その負担を感じにくくさせること。それが美弥に課されたトレーニングだ。美弥は律子の出すハードルの低さに安堵した。やれることから徐々に慣れていけばいいのだと思うと、途方もない嫌悪感は永遠に続くわけではない気がした。
新規努力目標を立てた美弥はアパートを目前にして足を止める。宿舎の敷地内への入り口付近に、男性が立っている。その男性は今日から入居するらしい、灰色髪のスーツ姿の人物だ。彼は塀の上に座る猫をなでていた。律子が「チャンスね」と美弥にささやく。
「同じアパートの人でしょ。話しかけていい相手よ」
「でも、あんな、髪を染めてる人……」
「猫をかわいがってるじゃない。こわくなさそうよ」
わたしも一緒だから、と律子が美弥の手を握る。美弥は観念した。第一、部屋にもどるには男性のそばを通らねばならない。声掛けを推奨されるべき状況だ。美弥は姉に手を引っ張られるかたちで前進した。
タグ:美弥
2017年12月14日
拓馬篇前記−美弥7
「あ、あの……」
美弥はぎこちなく声を出した。普段の声量に調整したつもりだが、のどがうまく開かない。スーツの男性は野良猫に夢中なままだ。
ふたたび声掛けをしようと口を動かす。だがまごついてしまって声が出ない。まるで引っ込み思案な反応だ。美弥が異性を苦手とする影響か。そうは言っても、ここまで意志疎通に難儀することはなかった。性別以外にも原因がある。
(この人……一八〇センチはある)
美弥は相手の風体を恐ろしく感じた。この男性はアスリートのように良い体格をしている。その頭髪は不品行を匂わせる灰色だ。
(いきなり、言いがかりをつけられたり──)
この男性の発達した身体で暴力的な行為を振るわれれば、美弥たちは対抗しえない。美弥は姉の課したトレーニングを中止する言い訳を考えた。
美弥が黙っていると律子が妹の手を握りなおす。無言の「がんばれ」というエールだ。美弥は姉のいる手前、引き下がってはいけないのだと自分をいましめる。
「あの、このアパートに住んでる人ですか!」
不快感と緊張感を過剰に抑えつけたせいで、怒ったような口調になった。美弥は内心「しまった」と罪悪感に見舞われる。
(やだ、八つ当たりみたいになってる……)
この呼びかけでは、見ず知らずの小娘が当たり散らしていると誤解される。美弥は相手の表情がくもるのを覚悟した。
灰色のスーツ姿の男性は猫ののどをなでている。その手が止まった。彼が振り返る、と思うと美弥の息がつまった。
男性は美弥とそのとなりにいる律子に視線を落とした。三人のはじめての対面だ。男性は若く見えるものの、立ち居振る舞いは三十代以上の落ち着きがあった。目元に黄色のレンズのサングラスをかけている。サングラスは髪の色とともに、通常人とは異なる要素だ。しかし美弥はあまり怖さを感じなかった。彼の顔つきが優しそうだったからだ。
ただし信用はできなかった。男性の目鼻立ちが異様に整っている。体も大きすぎず筋肉のつきすぎない、理想的ないでたちだ。彼は肌が焼けており、白人至上主義者以外の女性が放っておかない風貌だろう。そのため女ったらしではなかろうか、と別の懸念が瞬時に浮上する。懸念が的中した場合は、美弥たちが堅固な意思でつっぱねればよい。浅い交流で済ませるぶんには害がなさそうだ。
「はい、そうです」
男性はうっすら笑んでいた。美弥の話し方をなんとも感じていないらしい。美弥は自身の語勢を悪く受け取られなかったことに安心した。
「貴女も、こちらに住んでいらっしゃるのですか?」
男性が丁寧な会話を続けている。美弥はすべり出しの不調を気に病み、発声しない肯定の仕草をする。美弥のうなずきを見た男性は「では才穎高校の方ですね」と言う。
「私はデイルと申します。このたび才穎の教員として配属しました。以後お見知りおきを」
デイル、という名前は外国人のそれだ。高い鼻は西洋人らしくもある。美弥は彼の髪が天然のものでないかと思いはじめる。
「え……外国の人、ですか?」
今度は普通に声が出た。相手に自身への反感がなく、むしろ親切心があるのだと知ると、彼への抵抗がうすまったようだ。
「はい。国籍は日本ですが、この国の血は流れていません」
「じゃあ、その髪も……」
「地毛ですよ。よく、染めた髪だと勘違いされます。こういう髪は高齢の方以外、あまり見かけませんからね」
彼は塀の上の猫に目を向ける。
「猫だと普通の毛色なんですがね」
彼が愛でた猫は全身灰色の毛皮をまとっている。首輪がない野良猫のようだが、のんきに両目をつむっていた。人に馴れた猫らしい。
「いっそ黒く染めたらよいのかと思うのですが……貴女はどう思われます?」
会ってまもないにもかかわらず、悩み相談をされるとは。美弥は返答に窮する。自身も同じ誤解をしたがゆえに、否定の余地がない。本当の問題は髪の色ではないのだ。そんな奇妙な髪の色に変えると、浮ついた心の持ち主だという悪印象を他者に持たれる。それがまずい。だが、他人の目を気にする生き様は正しいのだろうか。
「……あなたの好きな、髪の色がいいんじゃないですか?」
口調次第では「そんなの勝手にしてよ」と冷たい印象を与えかねない言葉だった。しかしそれ以外に言いようがない。美弥は自分の主張がデイルへの無関心からくるものでないことを強調する。
「髪を染めるのだって、自分が満足できるならどんなのでもいいと思います。私もあなたが言うように、はじめは不良じゃないかとビビったけれど、話してみて、ぜんぜんちがうんだとわかったし……」
「やはり、怖かったですか?」
彼は第一印象に重きを置く。「実際に話してみると」などという印象の変化より前の段階を気にしているのだ。美弥の実体験は、デイルがそのままであればいいとする勇気づけにならない。
(髪の色のせいだけじゃないってことを言えれば──)
美弥は彼が改善しようのない原因を思いつく。
「でも、その体格がいちばんこわいと思う。なでようとした犬や猫が逃げちゃわないですか?」
動物には人間の頭髪の色など関係ない。彼らはみずからの生存本能のままに生きているはずだ。デイルは頭を縦にゆらす。
「たまにありますね。女性や子どもにはおとなしく触られるのに、私には……ということが」
デイルは灰色の猫の丸々した背をなでつつ「体はどうにもできませんね」と独りごちた。背を触られた猫がパチリと目を開ける。猫は緑色の瞳をしていた。その目の色はレンズ越しに見えるデイルの目と似ている。
猫が伸びをする。前足をぐぐっと伸ばしたかと思うと、さっと塀を下りる。またたくまに走り去ってしまった。
「おや、背中はお気に召さなかったようです」
デイルが名残惜しそうに分析した。彼は美弥たちを見下ろす。
「よろしければ、私の部屋でもうすこし話をしましょうか?」
彼は猫に触りたいがために外に出ていたようだ。猫が去ったいま、立ち話を終了するつもりでいる。
美弥は姉の顔をうかがう。正直なところ、デイルとの会話を続けることに拒否感はない。あとは姉の判断次第だ。
「どうする?」
「うーん、若い男性の部屋には……」
デイルは律子の不安を知り、「これは失礼しました」と答える。
「貴女方がうら若きレディであることを失念しておりました。この申し出はなかったことに」
彼から笑顔が消え、失言を発した悔いが顔に表れた。この男性は性別を問わない客として美弥たちを迎えようとしたらしい。
(女に興味ない人?)
美弥はデイルの言動が演技だと思えなかった。男性による女性への期待──男女の仲に落ちるか、といった下心はまったく感じない。
美弥は色目には敏感だ。恋仲を期待されるまでもなくとも、自身の容姿を鑑賞する異性の目は気に入らない。美弥も姉ほどではないが端麗な部類だ。そういった視線が美弥の男性不信を助長させる一因でもある。それが目の前の男性には皆無。めずらしいことだ。
(この人は安全そう……)
律子もデイルの無害さが伝わったようで、「いえ」と言う。
「余計な心配でした。だって、美弥の学校の人ですもんね」
美弥には学校の知り合いがいない。会ったのは転入試験の時に関わった教師だけ。美弥と気心の知れた学校の者が一人でも多くいれば、律子の心が休まる。その目論見をもとに、美弥たちはデイルとの対話を継続することにした。
美弥はぎこちなく声を出した。普段の声量に調整したつもりだが、のどがうまく開かない。スーツの男性は野良猫に夢中なままだ。
ふたたび声掛けをしようと口を動かす。だがまごついてしまって声が出ない。まるで引っ込み思案な反応だ。美弥が異性を苦手とする影響か。そうは言っても、ここまで意志疎通に難儀することはなかった。性別以外にも原因がある。
(この人……一八〇センチはある)
美弥は相手の風体を恐ろしく感じた。この男性はアスリートのように良い体格をしている。その頭髪は不品行を匂わせる灰色だ。
(いきなり、言いがかりをつけられたり──)
この男性の発達した身体で暴力的な行為を振るわれれば、美弥たちは対抗しえない。美弥は姉の課したトレーニングを中止する言い訳を考えた。
美弥が黙っていると律子が妹の手を握りなおす。無言の「がんばれ」というエールだ。美弥は姉のいる手前、引き下がってはいけないのだと自分をいましめる。
「あの、このアパートに住んでる人ですか!」
不快感と緊張感を過剰に抑えつけたせいで、怒ったような口調になった。美弥は内心「しまった」と罪悪感に見舞われる。
(やだ、八つ当たりみたいになってる……)
この呼びかけでは、見ず知らずの小娘が当たり散らしていると誤解される。美弥は相手の表情がくもるのを覚悟した。
灰色のスーツ姿の男性は猫ののどをなでている。その手が止まった。彼が振り返る、と思うと美弥の息がつまった。
男性は美弥とそのとなりにいる律子に視線を落とした。三人のはじめての対面だ。男性は若く見えるものの、立ち居振る舞いは三十代以上の落ち着きがあった。目元に黄色のレンズのサングラスをかけている。サングラスは髪の色とともに、通常人とは異なる要素だ。しかし美弥はあまり怖さを感じなかった。彼の顔つきが優しそうだったからだ。
ただし信用はできなかった。男性の目鼻立ちが異様に整っている。体も大きすぎず筋肉のつきすぎない、理想的ないでたちだ。彼は肌が焼けており、白人至上主義者以外の女性が放っておかない風貌だろう。そのため女ったらしではなかろうか、と別の懸念が瞬時に浮上する。懸念が的中した場合は、美弥たちが堅固な意思でつっぱねればよい。浅い交流で済ませるぶんには害がなさそうだ。
「はい、そうです」
男性はうっすら笑んでいた。美弥の話し方をなんとも感じていないらしい。美弥は自身の語勢を悪く受け取られなかったことに安心した。
「貴女も、こちらに住んでいらっしゃるのですか?」
男性が丁寧な会話を続けている。美弥はすべり出しの不調を気に病み、発声しない肯定の仕草をする。美弥のうなずきを見た男性は「では才穎高校の方ですね」と言う。
「私はデイルと申します。このたび才穎の教員として配属しました。以後お見知りおきを」
デイル、という名前は外国人のそれだ。高い鼻は西洋人らしくもある。美弥は彼の髪が天然のものでないかと思いはじめる。
「え……外国の人、ですか?」
今度は普通に声が出た。相手に自身への反感がなく、むしろ親切心があるのだと知ると、彼への抵抗がうすまったようだ。
「はい。国籍は日本ですが、この国の血は流れていません」
「じゃあ、その髪も……」
「地毛ですよ。よく、染めた髪だと勘違いされます。こういう髪は高齢の方以外、あまり見かけませんからね」
彼は塀の上の猫に目を向ける。
「猫だと普通の毛色なんですがね」
彼が愛でた猫は全身灰色の毛皮をまとっている。首輪がない野良猫のようだが、のんきに両目をつむっていた。人に馴れた猫らしい。
「いっそ黒く染めたらよいのかと思うのですが……貴女はどう思われます?」
会ってまもないにもかかわらず、悩み相談をされるとは。美弥は返答に窮する。自身も同じ誤解をしたがゆえに、否定の余地がない。本当の問題は髪の色ではないのだ。そんな奇妙な髪の色に変えると、浮ついた心の持ち主だという悪印象を他者に持たれる。それがまずい。だが、他人の目を気にする生き様は正しいのだろうか。
「……あなたの好きな、髪の色がいいんじゃないですか?」
口調次第では「そんなの勝手にしてよ」と冷たい印象を与えかねない言葉だった。しかしそれ以外に言いようがない。美弥は自分の主張がデイルへの無関心からくるものでないことを強調する。
「髪を染めるのだって、自分が満足できるならどんなのでもいいと思います。私もあなたが言うように、はじめは不良じゃないかとビビったけれど、話してみて、ぜんぜんちがうんだとわかったし……」
「やはり、怖かったですか?」
彼は第一印象に重きを置く。「実際に話してみると」などという印象の変化より前の段階を気にしているのだ。美弥の実体験は、デイルがそのままであればいいとする勇気づけにならない。
(髪の色のせいだけじゃないってことを言えれば──)
美弥は彼が改善しようのない原因を思いつく。
「でも、その体格がいちばんこわいと思う。なでようとした犬や猫が逃げちゃわないですか?」
動物には人間の頭髪の色など関係ない。彼らはみずからの生存本能のままに生きているはずだ。デイルは頭を縦にゆらす。
「たまにありますね。女性や子どもにはおとなしく触られるのに、私には……ということが」
デイルは灰色の猫の丸々した背をなでつつ「体はどうにもできませんね」と独りごちた。背を触られた猫がパチリと目を開ける。猫は緑色の瞳をしていた。その目の色はレンズ越しに見えるデイルの目と似ている。
猫が伸びをする。前足をぐぐっと伸ばしたかと思うと、さっと塀を下りる。またたくまに走り去ってしまった。
「おや、背中はお気に召さなかったようです」
デイルが名残惜しそうに分析した。彼は美弥たちを見下ろす。
「よろしければ、私の部屋でもうすこし話をしましょうか?」
彼は猫に触りたいがために外に出ていたようだ。猫が去ったいま、立ち話を終了するつもりでいる。
美弥は姉の顔をうかがう。正直なところ、デイルとの会話を続けることに拒否感はない。あとは姉の判断次第だ。
「どうする?」
「うーん、若い男性の部屋には……」
デイルは律子の不安を知り、「これは失礼しました」と答える。
「貴女方がうら若きレディであることを失念しておりました。この申し出はなかったことに」
彼から笑顔が消え、失言を発した悔いが顔に表れた。この男性は性別を問わない客として美弥たちを迎えようとしたらしい。
(女に興味ない人?)
美弥はデイルの言動が演技だと思えなかった。男性による女性への期待──男女の仲に落ちるか、といった下心はまったく感じない。
美弥は色目には敏感だ。恋仲を期待されるまでもなくとも、自身の容姿を鑑賞する異性の目は気に入らない。美弥も姉ほどではないが端麗な部類だ。そういった視線が美弥の男性不信を助長させる一因でもある。それが目の前の男性には皆無。めずらしいことだ。
(この人は安全そう……)
律子もデイルの無害さが伝わったようで、「いえ」と言う。
「余計な心配でした。だって、美弥の学校の人ですもんね」
美弥には学校の知り合いがいない。会ったのは転入試験の時に関わった教師だけ。美弥と気心の知れた学校の者が一人でも多くいれば、律子の心が休まる。その目論見をもとに、美弥たちはデイルとの対話を継続することにした。
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2017年12月15日
拓馬篇前記−美弥8
招かれた部屋は美弥の現在の住まいと変わり映えしなかった。同じ建物なのだから当然ではある。だが調度品まで同じだとは思っていなかった。美弥が引越してきた時に備え付けてあったものは、デイルの部屋にも用意されているようだ。居間のカーペットと座卓は色こそちがうが同じ。壁に設置した棚とそこにあるテレビなどは大きさも色もそっくりだ。
美弥は自室に帰ってきた感覚で座卓を囲んだ。本来の住人は台所であたたかい飲み物の用意をしている。
「インスタントですがお好きなものを選んでください」
とデイルはスティックタイプのコーヒーやミルクティーの粉を見せた。美弥たちは今日飲んだものと被らない味を選び、彼の指示のもとに居間へ入った。
律子は美弥の九十度となりに座った。マスクをとり、帽子をとると、普段の顔が現れる。美弥は姉の素顔を見ると緊張がゆるんだ。彼女らは他人の部屋だという認識がにぶる。
「美弥、ふつうに話せたね」
「べつに、あれくらいは……」
律子は美弥が即時反省した話しかけには触れない。あれは失敗以外のなにものでもないはずだった。あえて伏せるのが律子の優しさだ。不出来だった部分ではなく成功した部分に着目する。そういったプラス思考が同業の者に好まれ、仲間と仕事が増えるきっかけになっているのだと美弥は思う。
「お姉ちゃんこそ、デリケートな時期なのにだいじょうぶなの?」
「男性の部屋に通ってるって、雑誌に書かれる?」
律子の目が笑う。姉は半分冗談のつもりだ。しかし美弥はほとんど本気である。
「あいつら、どこで情報を仕入れるんだかわかりゃしないもの」
「美弥といっしょなら平気よ。一人では来ないから」
姉妹が行き来する家ならば家族ぐるみの付き合いがある、と普通の人は思うだろう。だが美弥はそんな常識が通用する連中ではないと見当をつける。
「どうだかわかんない。お金のためならなんでもしそう」
「そんなデタラメなことを続けていたら記者も出版社も信用が落ちるでしょ。だれも本気にしなくなるわ」
廊下と居間を仕切るドアが開いた。部屋主である男性が両手に陶器のカップを持っている。
「お待ち遠さまです」
カフェオレの入ったカップを姉妹の前の座卓へ置く。彼はドアを閉め、美弥と向かい合う位置へ座った。彼自身の飲み物は用意しないようだ。その視線を察知したデイルが「お気になさらず」と笑いかける。
「私はのどが渇いていませんし、お見せできるカップもないのでお二人だけでどうぞ」
「『見せられないカップ』?」
律子が湯気の立つカップを両手で包みながら聞いた。デイルは「お手製のものです」と答える。
「独創的なデザインのカップはあるんですが、あまり使いたくはないのです」
「失敗作とか?」
「いえ、思い出の品です。大切にしたいと思っています」
「やだ、失礼なことを言っちゃいましたね」
「かまいません。私の言い方がわるかったのです」
デイルは姉妹に見せないカップの思い出を語らず、美弥たちにふるまった飲料について話す。
「そのインスタントドリンクは元上司の娘さんに勧められて持ってきました。こうしてお二方にふるまうことができて、よかったです」
「自分で飲む用じゃないんですか?」
またも律子がしゃべる。本日の美弥の異性との会話トレーニングは、さきほどのやり取りで終了のようだ。美弥は姉が話すのならそれでかまわなかった。出されたカフェオレをちびちび飲む。
「私はあれば飲みますが、しいて飲みたいとは思いません。身内の娘さんはこれからこの部屋へ遊びにくると言っていますから、彼女のために用意してあるようなものです」
「仲のいい女性なんですね」
「女性は女性ですが貴女の妹さんと同じ年頃です。まだ子どもですよ」
「あら? わたしたち、まだ自己紹介をしてなかったと……」
美弥は律子と顔が似ている。マスクをとった律子と見比べれば、二人を姉妹だと推測するのも無理はなかった。「勝手にそう思いこんでいた」と返されれば納得できる状況だ。しかし彼は意外な告白をする。
「隠していて申し訳ありません。じつは貴女たちのことは校長から聞いています」
「校長さんが……なんて?」
「……少々、言いにくいですね」
「いいんです、正直に言ってください」
「『男性の食い物にされている姉妹』だと言われたことが、強烈でした」
美弥はせっかく持ち直した前向きな気分が失墜してしまった。そうなると予想したから彼は一度言葉を濁したのだろう。デイルは同情をこめた目で律子を見た。律子は視線を逸らす。
「……じゃ、不倫騒動のことも知ってるんですね」
「お聞きしました。私は貴女が潔白だと信じています」
「そう言ってもらえると、ありがたいです」
律子はデイルの言葉に励まされたようだ。美弥はかえって不信がつのる。この男は律子のなにを知って、潔白を信じるというのか。テレビに映る律子は配役を演じただけの別人だというのに。彼は聞こえのよいことを述べる偽善者ではないのかと疑念が生じる。
「……どうして、お姉ちゃんが無実だと思えるの?」
二人の視線が不穏な発言をする美弥にあつまる。美弥は場を乱す行為だと知りつつも詰問を続ける。
「テレビの外の水卜律子がどんな人だか知らないのに、どこを信じられるの?」
この男がうわべだけの善人かどうか、白黒をはっきりつけておく。その意思をもって美弥はデイルをにらみつけた。彼は面食らった表情をしている。顔を伏せたのち、不意に肩をふるわせる。怒ったのか悲しんでいるのか、美弥は彼の感情がつかめない。
「なに、どうしたの?」
デイルは顔をゆっくり上げた。意外にも微笑がうかんでいる。美弥がはじめて彼に話しかけた時と同じ面構えだ。しかし美弥の受ける印象はその時とは大きく変容する。彼の笑顔の意図がわからず、不気味だ。
「まさか、私がそう言われる立場になるとは思いもしませんでした」
「どういうこと?」
「貴女はこうおっしゃりたいのでしょう。『今日会ったばかりの人間に、なにがわかる』と。『わかった気になっているだけだ』と」
「ええ、そう言ってる」
「私も、私を高く評価した人に同じようなことを言ってしまったのです。いまなら、その方の思いが理解できそうです」
デイルは「考える時間をください」と願い、うつむき加減に口元を左手でおおう。その人差し指には白い宝石のついた指輪があった。
美弥は自室に帰ってきた感覚で座卓を囲んだ。本来の住人は台所であたたかい飲み物の用意をしている。
「インスタントですがお好きなものを選んでください」
とデイルはスティックタイプのコーヒーやミルクティーの粉を見せた。美弥たちは今日飲んだものと被らない味を選び、彼の指示のもとに居間へ入った。
律子は美弥の九十度となりに座った。マスクをとり、帽子をとると、普段の顔が現れる。美弥は姉の素顔を見ると緊張がゆるんだ。彼女らは他人の部屋だという認識がにぶる。
「美弥、ふつうに話せたね」
「べつに、あれくらいは……」
律子は美弥が即時反省した話しかけには触れない。あれは失敗以外のなにものでもないはずだった。あえて伏せるのが律子の優しさだ。不出来だった部分ではなく成功した部分に着目する。そういったプラス思考が同業の者に好まれ、仲間と仕事が増えるきっかけになっているのだと美弥は思う。
「お姉ちゃんこそ、デリケートな時期なのにだいじょうぶなの?」
「男性の部屋に通ってるって、雑誌に書かれる?」
律子の目が笑う。姉は半分冗談のつもりだ。しかし美弥はほとんど本気である。
「あいつら、どこで情報を仕入れるんだかわかりゃしないもの」
「美弥といっしょなら平気よ。一人では来ないから」
姉妹が行き来する家ならば家族ぐるみの付き合いがある、と普通の人は思うだろう。だが美弥はそんな常識が通用する連中ではないと見当をつける。
「どうだかわかんない。お金のためならなんでもしそう」
「そんなデタラメなことを続けていたら記者も出版社も信用が落ちるでしょ。だれも本気にしなくなるわ」
廊下と居間を仕切るドアが開いた。部屋主である男性が両手に陶器のカップを持っている。
「お待ち遠さまです」
カフェオレの入ったカップを姉妹の前の座卓へ置く。彼はドアを閉め、美弥と向かい合う位置へ座った。彼自身の飲み物は用意しないようだ。その視線を察知したデイルが「お気になさらず」と笑いかける。
「私はのどが渇いていませんし、お見せできるカップもないのでお二人だけでどうぞ」
「『見せられないカップ』?」
律子が湯気の立つカップを両手で包みながら聞いた。デイルは「お手製のものです」と答える。
「独創的なデザインのカップはあるんですが、あまり使いたくはないのです」
「失敗作とか?」
「いえ、思い出の品です。大切にしたいと思っています」
「やだ、失礼なことを言っちゃいましたね」
「かまいません。私の言い方がわるかったのです」
デイルは姉妹に見せないカップの思い出を語らず、美弥たちにふるまった飲料について話す。
「そのインスタントドリンクは元上司の娘さんに勧められて持ってきました。こうしてお二方にふるまうことができて、よかったです」
「自分で飲む用じゃないんですか?」
またも律子がしゃべる。本日の美弥の異性との会話トレーニングは、さきほどのやり取りで終了のようだ。美弥は姉が話すのならそれでかまわなかった。出されたカフェオレをちびちび飲む。
「私はあれば飲みますが、しいて飲みたいとは思いません。身内の娘さんはこれからこの部屋へ遊びにくると言っていますから、彼女のために用意してあるようなものです」
「仲のいい女性なんですね」
「女性は女性ですが貴女の妹さんと同じ年頃です。まだ子どもですよ」
「あら? わたしたち、まだ自己紹介をしてなかったと……」
美弥は律子と顔が似ている。マスクをとった律子と見比べれば、二人を姉妹だと推測するのも無理はなかった。「勝手にそう思いこんでいた」と返されれば納得できる状況だ。しかし彼は意外な告白をする。
「隠していて申し訳ありません。じつは貴女たちのことは校長から聞いています」
「校長さんが……なんて?」
「……少々、言いにくいですね」
「いいんです、正直に言ってください」
「『男性の食い物にされている姉妹』だと言われたことが、強烈でした」
美弥はせっかく持ち直した前向きな気分が失墜してしまった。そうなると予想したから彼は一度言葉を濁したのだろう。デイルは同情をこめた目で律子を見た。律子は視線を逸らす。
「……じゃ、不倫騒動のことも知ってるんですね」
「お聞きしました。私は貴女が潔白だと信じています」
「そう言ってもらえると、ありがたいです」
律子はデイルの言葉に励まされたようだ。美弥はかえって不信がつのる。この男は律子のなにを知って、潔白を信じるというのか。テレビに映る律子は配役を演じただけの別人だというのに。彼は聞こえのよいことを述べる偽善者ではないのかと疑念が生じる。
「……どうして、お姉ちゃんが無実だと思えるの?」
二人の視線が不穏な発言をする美弥にあつまる。美弥は場を乱す行為だと知りつつも詰問を続ける。
「テレビの外の水卜律子がどんな人だか知らないのに、どこを信じられるの?」
この男がうわべだけの善人かどうか、白黒をはっきりつけておく。その意思をもって美弥はデイルをにらみつけた。彼は面食らった表情をしている。顔を伏せたのち、不意に肩をふるわせる。怒ったのか悲しんでいるのか、美弥は彼の感情がつかめない。
「なに、どうしたの?」
デイルは顔をゆっくり上げた。意外にも微笑がうかんでいる。美弥がはじめて彼に話しかけた時と同じ面構えだ。しかし美弥の受ける印象はその時とは大きく変容する。彼の笑顔の意図がわからず、不気味だ。
「まさか、私がそう言われる立場になるとは思いもしませんでした」
「どういうこと?」
「貴女はこうおっしゃりたいのでしょう。『今日会ったばかりの人間に、なにがわかる』と。『わかった気になっているだけだ』と」
「ええ、そう言ってる」
「私も、私を高く評価した人に同じようなことを言ってしまったのです。いまなら、その方の思いが理解できそうです」
デイルは「考える時間をください」と願い、うつむき加減に口元を左手でおおう。その人差し指には白い宝石のついた指輪があった。
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