2021年02月02日
習一篇−4章8
習一は喫茶店で腹いっぱいに朝食を食べた。同伴者が栄養不足な習一のため、と言って彼の分の肉とパンが半分ばかし習一に渡り、習一は予想外の食事量を摂らされた。教師が分けてくれた食べものはどれも美味で、その点はうれしい分与だったものの、病み上がりには重たい。それが取り分けた張本人にも伝わったのか彼は残してもいいと言ってきた。しかし習一は幼少期から食べのこしをマナー違反だと叩きこまれているために嫌がった。結果、満腹をおぼえる以上のものを胃に詰めこむ事態となった。
食事が終わった習一は次に図書館へ行くことになった。教師はそこで習一に宿題を解かせるという。身軽な教師はさっさと歩くが、胃袋が満杯な習一は歩みがおくれた。習一が置いてけぼりを食らいそうだと懸念したとき、教師の移動速度が落ちる。このとき彼は後方を目視していなかった。どうやら足音の大小かなにかで習一との距離を察したらしい。
「無理にたくさん食べたのですか?」
教師が横顔を習一に見せながらたずねた。
「わるいか。残すのはキライなんだ」
「残飯の廃棄は私も嫌です。ただ貴方に無理をさせたくはありませんでした」
「いまはワケありだから、廃棄はしかたないってか?」
「いえ、貴方が残せば私が処理するつもりでした」
「自分のメシを他人にやった小食人間の言うことじゃないな」
習一は教師の言い分をあげつらった。しかし教師が食事を分けた理由は習一の体調回復のため、と事前に聞いており、その厚意は理解していた。
「私は食事量を抑えていますが、一度に食べられる量がすくないわけではありません。次からは残してもらっていいですよ」
教師は節制する理由を言わなかった。習一はその理由をダイエットのたぐいだと推測しておき、放っておいた。
習一たちは遅い歩みで図書館へついた。まだ開館時間でなかったようで、閉館の立札が透明な自動扉の奥に置かれている。扉の付近には開錠を待つ人がいた。習一たちも開館待ちの集まりに加わる。習一は図書館に入れば私語がはばかられるのをかんがみ、いまのうちに教師に確認をとる。
「アンタが課題の丸つけをするんだって?」
教師は「はい」と答えながら提げていた鞄を抱える。
「どのペンで丸つけをしましょうか」
彼は鞄の中から文具入れらしきポーチを出し、片手でそのポーチを開けた。赤色系統のペンを数本つかんで見せる。
「貴方の好みの色があればそれを使います」
「妙なところで気を遣うんだな。そんなもん、アンタが仕事に使ってるやつでいいだろうに」
「教え子の勧めです。『自分の好きな色を見たら気分が上がる』ものだそうで」
「好きな色、ねえ……」
習一は提示された色ペンの中でうすいピンク色が目にとまった。採点の赤ペンに用いるよりは教科書やノートに書かれた重要な文字列にマーカーを引くときに使うような色だ。
「これにしますか」
教師は習一の注目したペン以外をポーチ内へ落とす。習一はその色が赤ペンとして使うにふさわしくない色ではないかと思い、顔をしかめる。
「アンタはそれがオレの好きな色だと思うのか?」
「ええ、気になっているようでしたから」
「女向けの色じゃねえか」
「そうでしょうか。こういったピンク色のペンを使う生徒は男女問わずいると思います」
二人が些末な会話をしていると建物の奥から群青の前掛けを着た司書が出てきた。ガラス張りの扉のロックを解除すると扉が左右に開いた。これで開館である。司書が立札を引っ込めるかたわらで、待ち人が続々と入館していく。
「ペンの色はどうしましょうか」
教師はいまだに些事にまごつき、立ち止まっていた。余分な待機時間が増えたせいで習一はいらつく。
「そのピンクでいい」
「わかりました。それでは行きましょう」
二人は本棚と机が並ぶ広間へ入った。屋外とはあきらかに別種の匂いが満ちている。これは年数を経た書物が発する匂いだと習一は思った。
教師が木製の長机に鞄を置いた。習一もその反対側の席に陣取る。習一はプリントと教科書を机上に並べ、教師は鞄からクリアファイルを出す。それが課題の解答一覧のようだ。習一は今日までに解いた答案を教師に手渡し、以後、両者は黙々と作業に没頭した。
教師は赤とは言いがたい色ペンをキュッと鳴らしていた。一枚めが終わると紙をめくり、またペンを鳴らす。丸を付けおわったプリントの上に解答の紙を乗せ、習一との間の机上に置く。その行為は三回行われた。その作業時間は合計して三十分あるかどうか。
「確認のタイミングは貴方に任せます」
そう言って教師は静かに立った。
「なにするんだ?」
「本を読みます。オダギリさんもお好きなものを読んでいいですよ。まだ時間に余裕はあるので、適度に息抜きしてください」
悠長な助言をした教師は書架の群れへ身を投じた。
(息抜きって言ったって……)
まだまだ終わりが見えないうちから読書に励んでも気は休まらない。手荷物の重さを増やす教材は本日限りの運送にすべく、教科書を持ってきた教科のプリントを始末する。教科書を自室に置いてきたプリントは後日に回していい、と優先順位を設けて取りくんだ。
十五分ほどして習一の監督者がもどる。彼は三冊の本を机に置き、うち一冊を開いた。それらの表題は心理学にまつわる内容だ。大人が子どもの行動原理を知るための本、子の目線で親の実態を見つめる本。年代を問わず普遍的な人の心情を解き明したという題名の本。
(オレの前でオレ対策をするのか?)
三冊すべてが習一への対応手段を学ぶための本のように思えた。しかし教師は子どもとその親とに密に接する職務。習一を御するだけに終わる教養本ではない。習一は自意識が過剰であったと内省し、課題の仕上げに意識をもどした。
習一が問題数がすくなめだった束をひとつ仕上げ、美術の教科書を閉じる。教師が丸つけを完了して置いた三束の横へ、束を置いた。すると教師が読書を中断し、ペンを手にする。教師の丸つけと習一の解答とでは速度がちがい、教師のほうが時間的余裕はふんだんにある。なのにすぐ丸つけに取りかかる様子を見るに、こいつは真面目なのだと習一は思う。その一方で、教師が習一のことを最優先にしているような気もした。
習一は休む間なく体育の教科書を開いた。五教科以外の実技科目は総じて問題数がすくなく、前日こなした課題未満の分量。正午を過ぎるころに解答は終了できた。教師が目を通した課題の束の横に家庭科のプリントを置くと、教師は「もう昼食の時間ですね」と言ってくる。
「腹の具合はどうです?」
「減ってない。あんたはどうなんだ?」
「私も空腹ではありません。貴方が食事をとりにいく間、私が荷物の番をしますが」
「いい。とっとと課題をやっつけてやる」
「わかりました。早めに切り上げて、夕食をしっかり食べる心積もりでいましょう」
「夕飯はどこで食うんだ、また外食か?」
「はい。私は料理ができませんから」
教師の告白はつまり、前日のサンドイッチは彼の手製ではないことになる。ではだれが作ったのか、の質問が習一の喉に出掛かった。そんな雑談は後回しにすべきだと、この場の雰囲気と手持ちの課題の残量を考慮した。
食事が終わった習一は次に図書館へ行くことになった。教師はそこで習一に宿題を解かせるという。身軽な教師はさっさと歩くが、胃袋が満杯な習一は歩みがおくれた。習一が置いてけぼりを食らいそうだと懸念したとき、教師の移動速度が落ちる。このとき彼は後方を目視していなかった。どうやら足音の大小かなにかで習一との距離を察したらしい。
「無理にたくさん食べたのですか?」
教師が横顔を習一に見せながらたずねた。
「わるいか。残すのはキライなんだ」
「残飯の廃棄は私も嫌です。ただ貴方に無理をさせたくはありませんでした」
「いまはワケありだから、廃棄はしかたないってか?」
「いえ、貴方が残せば私が処理するつもりでした」
「自分のメシを他人にやった小食人間の言うことじゃないな」
習一は教師の言い分をあげつらった。しかし教師が食事を分けた理由は習一の体調回復のため、と事前に聞いており、その厚意は理解していた。
「私は食事量を抑えていますが、一度に食べられる量がすくないわけではありません。次からは残してもらっていいですよ」
教師は節制する理由を言わなかった。習一はその理由をダイエットのたぐいだと推測しておき、放っておいた。
習一たちは遅い歩みで図書館へついた。まだ開館時間でなかったようで、閉館の立札が透明な自動扉の奥に置かれている。扉の付近には開錠を待つ人がいた。習一たちも開館待ちの集まりに加わる。習一は図書館に入れば私語がはばかられるのをかんがみ、いまのうちに教師に確認をとる。
「アンタが課題の丸つけをするんだって?」
教師は「はい」と答えながら提げていた鞄を抱える。
「どのペンで丸つけをしましょうか」
彼は鞄の中から文具入れらしきポーチを出し、片手でそのポーチを開けた。赤色系統のペンを数本つかんで見せる。
「貴方の好みの色があればそれを使います」
「妙なところで気を遣うんだな。そんなもん、アンタが仕事に使ってるやつでいいだろうに」
「教え子の勧めです。『自分の好きな色を見たら気分が上がる』ものだそうで」
「好きな色、ねえ……」
習一は提示された色ペンの中でうすいピンク色が目にとまった。採点の赤ペンに用いるよりは教科書やノートに書かれた重要な文字列にマーカーを引くときに使うような色だ。
「これにしますか」
教師は習一の注目したペン以外をポーチ内へ落とす。習一はその色が赤ペンとして使うにふさわしくない色ではないかと思い、顔をしかめる。
「アンタはそれがオレの好きな色だと思うのか?」
「ええ、気になっているようでしたから」
「女向けの色じゃねえか」
「そうでしょうか。こういったピンク色のペンを使う生徒は男女問わずいると思います」
二人が些末な会話をしていると建物の奥から群青の前掛けを着た司書が出てきた。ガラス張りの扉のロックを解除すると扉が左右に開いた。これで開館である。司書が立札を引っ込めるかたわらで、待ち人が続々と入館していく。
「ペンの色はどうしましょうか」
教師はいまだに些事にまごつき、立ち止まっていた。余分な待機時間が増えたせいで習一はいらつく。
「そのピンクでいい」
「わかりました。それでは行きましょう」
二人は本棚と机が並ぶ広間へ入った。屋外とはあきらかに別種の匂いが満ちている。これは年数を経た書物が発する匂いだと習一は思った。
教師が木製の長机に鞄を置いた。習一もその反対側の席に陣取る。習一はプリントと教科書を机上に並べ、教師は鞄からクリアファイルを出す。それが課題の解答一覧のようだ。習一は今日までに解いた答案を教師に手渡し、以後、両者は黙々と作業に没頭した。
教師は赤とは言いがたい色ペンをキュッと鳴らしていた。一枚めが終わると紙をめくり、またペンを鳴らす。丸を付けおわったプリントの上に解答の紙を乗せ、習一との間の机上に置く。その行為は三回行われた。その作業時間は合計して三十分あるかどうか。
「確認のタイミングは貴方に任せます」
そう言って教師は静かに立った。
「なにするんだ?」
「本を読みます。オダギリさんもお好きなものを読んでいいですよ。まだ時間に余裕はあるので、適度に息抜きしてください」
悠長な助言をした教師は書架の群れへ身を投じた。
(息抜きって言ったって……)
まだまだ終わりが見えないうちから読書に励んでも気は休まらない。手荷物の重さを増やす教材は本日限りの運送にすべく、教科書を持ってきた教科のプリントを始末する。教科書を自室に置いてきたプリントは後日に回していい、と優先順位を設けて取りくんだ。
十五分ほどして習一の監督者がもどる。彼は三冊の本を机に置き、うち一冊を開いた。それらの表題は心理学にまつわる内容だ。大人が子どもの行動原理を知るための本、子の目線で親の実態を見つめる本。年代を問わず普遍的な人の心情を解き明したという題名の本。
(オレの前でオレ対策をするのか?)
三冊すべてが習一への対応手段を学ぶための本のように思えた。しかし教師は子どもとその親とに密に接する職務。習一を御するだけに終わる教養本ではない。習一は自意識が過剰であったと内省し、課題の仕上げに意識をもどした。
習一が問題数がすくなめだった束をひとつ仕上げ、美術の教科書を閉じる。教師が丸つけを完了して置いた三束の横へ、束を置いた。すると教師が読書を中断し、ペンを手にする。教師の丸つけと習一の解答とでは速度がちがい、教師のほうが時間的余裕はふんだんにある。なのにすぐ丸つけに取りかかる様子を見るに、こいつは真面目なのだと習一は思う。その一方で、教師が習一のことを最優先にしているような気もした。
習一は休む間なく体育の教科書を開いた。五教科以外の実技科目は総じて問題数がすくなく、前日こなした課題未満の分量。正午を過ぎるころに解答は終了できた。教師が目を通した課題の束の横に家庭科のプリントを置くと、教師は「もう昼食の時間ですね」と言ってくる。
「腹の具合はどうです?」
「減ってない。あんたはどうなんだ?」
「私も空腹ではありません。貴方が食事をとりにいく間、私が荷物の番をしますが」
「いい。とっとと課題をやっつけてやる」
「わかりました。早めに切り上げて、夕食をしっかり食べる心積もりでいましょう」
「夕飯はどこで食うんだ、また外食か?」
「はい。私は料理ができませんから」
教師の告白はつまり、前日のサンドイッチは彼の手製ではないことになる。ではだれが作ったのか、の質問が習一の喉に出掛かった。そんな雑談は後回しにすべきだと、この場の雰囲気と手持ちの課題の残量を考慮した。
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