2020年11月20日
習一篇−4章4
4夜に帰宅
習一は実家に到着した。まずは家門の外から家の様子をさぐる。居間には電灯が点いている。家主はもう帰宅した頃か、妹は学習塾に行っていて家にはいないのだろうか──と習一は家族の所在を考える。こんな想像は帰宅道中にも行なってきた。いま一度同じことを考えるのはただ、気後れしているせいだ。
(……オレがもたついてちゃ、こいつが帰れない)
銀髪の少女は習一の家までついてきた。きっと彼女は習一がきちんと帰宅するのを確認してから帰るつもりなのだろう。彼女の帰宅を遅らせるわけにはいかず、習一は決心して家門の鉄格子に触れた。無言でいた少女が「そうそう」と語りかける。
「サンドイッチをくるんでた布と水筒、ちょうだい」
言われて習一は借り物があることを思い出した。たたんだ布と、重量の減った水筒を少女に返す。水筒の茶がちゃぽん、と音を立てた。
少女は水筒と布をリュックサックに収納する。荷を背にかつぐと、ふたたび習一をじっと見てきた。
「なんだよ、おまえも早いとこ帰れ」
「おうちに入るところをみとどけるの」
「蚊が飛ぶ時期に野宿なんかしねえって」
そう吐き捨てた習一は帰宅へのためらいがうすれ、家の敷地内に入った。
玄関の戸を開ける。一歩中へ踏みこむと手に汗がにじんだ。この発汗は暑さのせいではない。緊張しているのだ。
(ここまできて、逃げられるか!)
習一は靴を乱雑に脱ぎすて、電灯に照らされた廊下を一直線に進む。フローリング張りの居間からテレビの音が鳴っており、だれかがいるようだったが、その存在を見ないようにした。この家に習一が会いたい家族などいない。だれがいようと会う気はなかった。
風呂場へ直行し、汗を洗いながすと、清潔な服に着替える。そうして文具類をしまった鞄を手に、階段へ向かう。このときはもうテレビの音は聞こえなかった。
「おい、待て」
階段に足を乗せたときに、男の声がした。習一は踏みとどまり、声の主にしたがう。
「散々迷惑をかけておいて挨拶もなしか?」
怒りと叱責が混合した、重圧を感じさせる物言いだ。高圧的な人物はこの家にひとりだけいる。その人物こそが、習一が帰宅を渋る元凶だ。
習一は不快感をこらえ、話者を視界に入れてみる。居間の入り口に、中年が立っていた。まだ仕事用のスーツ姿でいる。夏らしくネクタイとジャケットは着ていない。
「お前が夜遊びなんぞするから入院するはめになったんだ」
男は正論だがしょうもない説教をはじめる。
「入院費だって馬鹿にならんのだぞ……聞いているのか?」
習一は無益な話を無視し、階段をのぼりだした。とんとん、と駆け上がる。その足音が二重になった、と思うと習一の片足はうごかなくなる。男が足首をつかんできたのだ。
「いつまで醜態をさらし続ける気だ?」
男の憤怒が表出する。
「親に礼や謝罪の一つぐらい言えないのか!」
足首を握る手に圧がかかった。習一は拘束された足を上下左右にふってみるが、男の手は離れない。
「なんとか言ったらどうなんだ、この──」
「金食い虫の恥さらし。そう言いたいのか」
男は目をかっと見開いた。「なにか言え」と希望したその返答が、彼の図星を突いたらしい。あるいは本人が言おうとしたセリフ以上に習一が予想した言葉は容赦がなかったか。
ともあれ習一は男がぶつけてきた悪意に相当する仕返しをする。
「毎度毎度、金と体面が大事なんだな。いっそ金で優秀な息子を買ったらどうだ?」
男はわなわなと全身を震わせる。その顔は醜くゆがんだ。
「大好きな金で捕まえた息子ならきっと、あんたの薄っぺらい自尊心をくすぐってくれるだろうよ」
「親を馬鹿にする皮肉ばっかり口にして!」
習一を捕縛する手が乱暴にうごいた。習一は階段のへりをつかみ、とっさに転倒をふせぐ。当座の負傷は回避できたが、現状維持が精いっぱい。このままでは逆上した男に体勢を崩され、演劇でしばしば行なわれる階段落ちを演じるはめになる。あれは芝居でも相当痛いのだと、どこかで耳にしたことがあった。衝撃から身を守るぜい肉がほぼない習一では殊更痛いだろう。
どう打開すべきか。習一は下策だが男の怒りを鎮める手段がひとつ思いつけた。泣いて詫びるのだ。そうすればきっとこの小物のプライドは回復され、解放される。だがそんな無様な演技をする意欲は微塵も湧かなかった。習一もまた、プライドが高い性分だった。
突然、がたん、と重い物がなにかにぶつかる音がした。途端に足の呪縛が解かれる。習一が何事かと後方をふりむく。すると男が両手で頭を押さえ、苦痛に耐えていた。男の足元には油絵の絵画がある。この絵画は習一が物心ついたときからずっと階段の壁に飾ってあるものだ。ふだんは丈夫な金属製のワイヤーで吊るしてあり、そう簡単に切れる代物ではない。
(どうして落ちてきた?)
習一は狙いすましたかのように落下物が到来したことを不思議に思う一方、いまが逃走の好機だと判断した。悶絶する男を放置し、駆け足で二階の自室へ入る。自室の戸に鍵をかけると、深い息を吐いた。
(運が、よかったな……)
鞄を適当に放り投げ、自身の体も寝台へぽすんと投げた。
習一は実家に到着した。まずは家門の外から家の様子をさぐる。居間には電灯が点いている。家主はもう帰宅した頃か、妹は学習塾に行っていて家にはいないのだろうか──と習一は家族の所在を考える。こんな想像は帰宅道中にも行なってきた。いま一度同じことを考えるのはただ、気後れしているせいだ。
(……オレがもたついてちゃ、こいつが帰れない)
銀髪の少女は習一の家までついてきた。きっと彼女は習一がきちんと帰宅するのを確認してから帰るつもりなのだろう。彼女の帰宅を遅らせるわけにはいかず、習一は決心して家門の鉄格子に触れた。無言でいた少女が「そうそう」と語りかける。
「サンドイッチをくるんでた布と水筒、ちょうだい」
言われて習一は借り物があることを思い出した。たたんだ布と、重量の減った水筒を少女に返す。水筒の茶がちゃぽん、と音を立てた。
少女は水筒と布をリュックサックに収納する。荷を背にかつぐと、ふたたび習一をじっと見てきた。
「なんだよ、おまえも早いとこ帰れ」
「おうちに入るところをみとどけるの」
「蚊が飛ぶ時期に野宿なんかしねえって」
そう吐き捨てた習一は帰宅へのためらいがうすれ、家の敷地内に入った。
玄関の戸を開ける。一歩中へ踏みこむと手に汗がにじんだ。この発汗は暑さのせいではない。緊張しているのだ。
(ここまできて、逃げられるか!)
習一は靴を乱雑に脱ぎすて、電灯に照らされた廊下を一直線に進む。フローリング張りの居間からテレビの音が鳴っており、だれかがいるようだったが、その存在を見ないようにした。この家に習一が会いたい家族などいない。だれがいようと会う気はなかった。
風呂場へ直行し、汗を洗いながすと、清潔な服に着替える。そうして文具類をしまった鞄を手に、階段へ向かう。このときはもうテレビの音は聞こえなかった。
「おい、待て」
階段に足を乗せたときに、男の声がした。習一は踏みとどまり、声の主にしたがう。
「散々迷惑をかけておいて挨拶もなしか?」
怒りと叱責が混合した、重圧を感じさせる物言いだ。高圧的な人物はこの家にひとりだけいる。その人物こそが、習一が帰宅を渋る元凶だ。
習一は不快感をこらえ、話者を視界に入れてみる。居間の入り口に、中年が立っていた。まだ仕事用のスーツ姿でいる。夏らしくネクタイとジャケットは着ていない。
「お前が夜遊びなんぞするから入院するはめになったんだ」
男は正論だがしょうもない説教をはじめる。
「入院費だって馬鹿にならんのだぞ……聞いているのか?」
習一は無益な話を無視し、階段をのぼりだした。とんとん、と駆け上がる。その足音が二重になった、と思うと習一の片足はうごかなくなる。男が足首をつかんできたのだ。
「いつまで醜態をさらし続ける気だ?」
男の憤怒が表出する。
「親に礼や謝罪の一つぐらい言えないのか!」
足首を握る手に圧がかかった。習一は拘束された足を上下左右にふってみるが、男の手は離れない。
「なんとか言ったらどうなんだ、この──」
「金食い虫の恥さらし。そう言いたいのか」
男は目をかっと見開いた。「なにか言え」と希望したその返答が、彼の図星を突いたらしい。あるいは本人が言おうとしたセリフ以上に習一が予想した言葉は容赦がなかったか。
ともあれ習一は男がぶつけてきた悪意に相当する仕返しをする。
「毎度毎度、金と体面が大事なんだな。いっそ金で優秀な息子を買ったらどうだ?」
男はわなわなと全身を震わせる。その顔は醜くゆがんだ。
「大好きな金で捕まえた息子ならきっと、あんたの薄っぺらい自尊心をくすぐってくれるだろうよ」
「親を馬鹿にする皮肉ばっかり口にして!」
習一を捕縛する手が乱暴にうごいた。習一は階段のへりをつかみ、とっさに転倒をふせぐ。当座の負傷は回避できたが、現状維持が精いっぱい。このままでは逆上した男に体勢を崩され、演劇でしばしば行なわれる階段落ちを演じるはめになる。あれは芝居でも相当痛いのだと、どこかで耳にしたことがあった。衝撃から身を守るぜい肉がほぼない習一では殊更痛いだろう。
どう打開すべきか。習一は下策だが男の怒りを鎮める手段がひとつ思いつけた。泣いて詫びるのだ。そうすればきっとこの小物のプライドは回復され、解放される。だがそんな無様な演技をする意欲は微塵も湧かなかった。習一もまた、プライドが高い性分だった。
突然、がたん、と重い物がなにかにぶつかる音がした。途端に足の呪縛が解かれる。習一が何事かと後方をふりむく。すると男が両手で頭を押さえ、苦痛に耐えていた。男の足元には油絵の絵画がある。この絵画は習一が物心ついたときからずっと階段の壁に飾ってあるものだ。ふだんは丈夫な金属製のワイヤーで吊るしてあり、そう簡単に切れる代物ではない。
(どうして落ちてきた?)
習一は狙いすましたかのように落下物が到来したことを不思議に思う一方、いまが逃走の好機だと判断した。悶絶する男を放置し、駆け足で二階の自室へ入る。自室の戸に鍵をかけると、深い息を吐いた。
(運が、よかったな……)
鞄を適当に放り投げ、自身の体も寝台へぽすんと投げた。
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