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2018年03月03日
拓馬篇−3章◆ ☆
体育祭が無事に終幕した──とは一部をのぞく生徒の感想だ。体育祭終了後すぐの授業日、気まずい思いをいだく女子が一人で職員室へ向かっている。彼女の目的は教師に貸した運動着を返してもらうことだ。
現在の時刻は放課後。あの律儀な教師は「洗濯して次の登校日にお返しします」と宣言していた。貸した衣類を今日受け取らねば、シドがやきもきするだろう。こういうことは早くすませるべきだ。……とヤマダは頭でわかっていても、日中は体育祭にまつわる事項に面と向きあえなかった。
(先生とは……顔をあわせにくいなぁ)
体育祭の午後の部、ヤマダは当初出る予定のなかった二人三脚に参加した。団の加点対象となる生徒の参加者は足りていたが、会場を楽しませる目的で行なう教師の女性人員が不足したそうだ。その埋め合わせとしてヤマダはシドと組んだ。
シドがヤマダを選定したわけは校長の口添えだと白状しており、いやなら断っていいのだとも言われた。ヤマダは校長のあけすけな狙いを不愉快に感じたものの、シド自身には好感を持っている。そのため断固拒否する気になれなかった。
二人三脚は障害物競走でもあった。ぐるぐると回転する大縄を跳びこしていったり、距離にして数メートルある網の下をくぐったり。一人なら簡単に通過できる障害ばかりだが、片足を拘束した二人となるとスムーズにいかない競技だ。とくにヤマダとシドでは体格と運動能力に差がつき、文字通り彼の足を引っ張ってしまった。
(校長にいいエサあげちゃったなー、もー)
不覚にもヤマダは競技中に転倒しかけた。シドが彼女の体を抱きとめたおかげでころばずにすんだのだが、直後に変な歓声が湧きあがった。その中には当然のように校長もいた。校長にはこれ以上ない大成功な見世物だったろう。それがヤマダには悔しく、そして同様の被害を受ける新任教師に申し訳なかった。
二人三脚前後で感情が激動した者がいる一方で、シドの態度には変化がなかった。彼にとってヤマダはお節介焼きの生徒。決して特別な異性ではない。その姿勢は見習うべきだ。
(よし、わたしも気にしないぞ!)
まわりがどう言おうと二人は教師と生徒の関係止まり。自然体で接すればなにも起きないのだ。そう心得るとおそれるものはなくなった。
いよいよ職員室の戸の前に立つ。引き戸の窓をのぞくと銀色の頭髪が上下している。
(おおう、タイミングいい!)
戸は自動で開いた。目当ての教師がヤマダを見下ろす。
「おや、ジャージを取りにきてくれましたか」
「あ、うん……やっと時間が空いてねー」
実際は休み時間にシドに会うヒマがあった。だが体育祭の一件を引きずっていたことなど言えず、それらしい理由で自身の行動の鈍重さをつくろった。シドは「忙しいのですね」と、真に受けたのか話を合わせたのかわからない調子で答える。
「ここで話すのもなんですから、場所を変えましょう」
この状態では職員室の出入口を封鎖してしまう。ヤマダは荷物をもらったらすぐに教室へ帰るつもりだったが、ひとまずシドの言うとおりにした。職員室前の掲示板付近に移り、そこで教師はトートバッグを差し出した。そのバッグはヤマダがジャージと一緒にシドに渡したものだ。
「貸していただいてありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくたっていいよ、大したもんじゃないんだから」
「いえ、とても助かりました。このジャージのおかげで皆さんと馴染めたと思います」
「うん、スーツじゃちょっと場違いだもんね」
ヤマダがバッグをのぞきこんだ。中にはきれいにたたんだ長袖ジャージが入っている。
(先生ってば几帳面……)
ジャージを洗ってくれさえすれば乱雑にバッグへつっこんでいてもかまわなかった。しかし丁寧なあつかいを受けるにこしたことはない。物の使い方ひとつをとっても誠実な人なのだとヤマダは再確認した。
「じゃ、これで──」
「もうすこし待ってもらえますか」
用件がすんだはずなのに、とヤマダは不思議に思いながらシドの顔をうかがった。彼の微笑が若干の困り顔になっている。
「いまから話すことは純粋な疑問として聞いてください──貴女はどうして、私を気にかけてくれるのですか?」
彼の前置きは、ヤマダの行為をありがた迷惑だと非難するつもりが無い、という意思表示だ。そう理解したヤマダは素直に自分の行動理由を考える。
(なんでかな? ……べつに先生にアプローチをかけてる気はないし)
シドへの興味関心はあるが、だから彼を助けるという理屈ではない。手を貸す隙が彼にあったからそうするのだ。利得を無視した行為とはヤマダにとって正常なことである。これはお人好しな両親を持つがゆえの価値観だ。
「カンタンに言えば……こういう性格なんだと思う」
「性格、ですか」
「そう。うちの家族みんな、人助けが道楽なの。それが当たり前になってる」
「だれかに親切にすることが、体に染みついているということでしょうか」
「うん。そういう環境で育ったからね。あ、でも……世話を焼くのは先生みたいな謙虚な人だけだよ。『助けてもらって当然だ』っていう人とは関わらないようにしてる。そういう人に尽くしてたら、自分も相手も不幸になるんだって。お母さんが言ってた」
シドはこの返答で腑に落ちたらしく、笑顔がもどる。
「すてきな家族をお持ちなのですね」
「そうだね、最高な家族だと思ってるよ!」
父親には不満もあるけど、とヤマダは付け足した。他愛ない意見のつもりだったが、シドの表情に憐憫とおぼしき感情がうかぶ。
「貴女は家族から愛されているのでしょうね」
「? ……なんで悲しそうな顔で言うの?」
シドの言葉と顔に出る感情が不一致であることを指摘すると、彼は面食らった。シドが自身の頬をなでる。
「そんな顔をしていましたか」
「うん。正反対のことを言いまちがえたのかと思うくらい」
「いえ、貴女の家庭が愛にあふれていると感じたことにまちがいありません」
「じゃあべつのことでわたしを『かわいそうなやつ』だと思ったの?」
ヤマダはこの問いがシドへの責めだと見做されないよう、声色をおだやかにした。その心掛けに効果があったようで、彼は微笑をつくる。
「貴女ではないのです。私の知り合いに、よい親に恵まれなかった人がいるので……その人のことを連想していました」
「それってだれのこと?」
「本人が希望しないかぎり、私からは教えられません」
「秘密なんだね。わかった、聞かないよ」
シドがゆっくりうなずく。
「貴女は物わかりがよくて、助かります」
「英語の勉強のほうはそうでもないけどね」
ヤマダは英語の筆記試験が苦手だ。そのことは英語教師のシドもすでに理解したようで「このあいだのテストは少々あぶなかったですね」と返答する。
「期末試験はもっと点がとれやすくなるよう、本摩先生に話しあってみます」
「あ、ほんとに? それはうれしいなぁ」
「ですが復習はきちんとしてくださいね」
ヤマダが「はーい」と答える。こうして会話にめどがついた。シドは「気をつけて帰ってください」と言い、職員室へもどる。去り際に彼のネクタイが大きくゆれた。それがヤマダの印象に残る。
(先生、わたしがジャージを貸さなかったら……あの格好で体育祭に出てたのかな)
ジャケットを着ない季節、ネクタイは着用者の動作につられて自由気ままにうごく。その奔放さは邪魔にならないのだろうか。激しい運動をしない時でも、うっとうしいように見える。
(ネクタイピン、持ってないんだろうね……買えないってことはないと思うけど)
彼が物を持たない理由は、この教員生活が終わってしまえば私物を処分するからだと人づてに聞いた。使用が一回かぎりの運動着を購入しないのはまだいい。しかし日常的に使えるタイピンまで不要だと切り捨てるのは不便そうだ。
(うちにあるタイピンを使ってもらおうかな)
そのタイピンはヤマダの父親がくれたものだ。父が前職を辞めた時、もうスーツを着る仕事には就かないからと、娘には使い道のない装飾品を渡した。以降、ずっと専用の箱にしまってある。それがもったいなくて一度拓馬に「いる?」とたずねたが、彼は「いらない」と断っていた。
(あげちゃってもいいんだよねえ、大事にとっておいても意味ないし)
そのタイピンにはカラーストーンがついており、アクセサリーとして見栄えはする一品だ。ただ一つの難点は、ヤマダにはネクタイを巻く機会がないこと。女子がネクタイ付きの格好をしてもよい風潮はあるものの、彼女の好みではなかった。
(『あげる』と言ったら先生はいやがりそうだし、『一学期が終わるまで貸す』ってことにしようか)
あらたな貸借物が発生することに対し、あの教師は気兼ねしてしまうかもしれない。無理強いはしない方向で交渉しよう──とヤマダは心に決めた。
教室にもどってくるやいなや、教壇の前で三郎と千智がもめている光景が目についた。見たところ三郎の腰は引けており、千智が一方的に強く当たっているらしい。
「──言っとくけど、脚力ならあんたに負けてないからね!」
なんの言い合いだろう、とヤマダは疑問に思い、事情を聞けそうな人物をさがす。室内の後方に名木野が立っている。彼女は騒ぎを遠巻きに見守っているようだ。
「ねえナッちゃん、あの体育会系幼馴染コンビはなにやってるの?」
名木野はオロオロとした調子でヤマダと三郎たちを交互に見る。
「えっと……仙谷くんたちが、悪者退治、しにいくみたい」
「へー、それで仲間割れするの?」
「千智ちゃんを仲間外れにしようとしてるからって……」
「あー、たしかにまえの不良騒動には呼ばれなかったね。そのうらみがあるのかも」
今年の二月、三郎は不品行な少年らと相対した。彼らがデパートの一画を陣取った結果、客足を遠のかせるという営業妨害に至り、その非を糾弾しに行ったのだ。当時の同伴者は拓馬、ジモン、ヤマダの三人である。物見高い千智はこの人選を不満に思っていたのだろう。
「──あたしの蹴りを味わって、まだ立っていられたら諦めてあげる!」
千智が攻撃性をむき出しにした。この脅しには三郎がほとほと困る。
「待てまて! そんなに思いつめることはないだろう」
「じゃあ一緒に行っていいの?」
「あー、拓馬と固まっていてくれれば、な」
千智は握りこぶしをつくり、「ぃよし!」とよろこんだ。やはり今回も拓馬は三郎のお伴に呼ばれているらしい。そうとくればジモンも一緒だ。この場にジモンの姿は見当たらないが、おそらく戦力として勘定されているはずだ。
ヤマダは常々、同じ学校にいる間は拓馬たちと思い出を共有したい、と思っている。それゆえ「わたしはどうしようかな」と本音をもらした。名木野は血相を変えて「ダメだよ」と引き止める。
「あぶないよ、本摩先生だって止めてたじゃない」
「本摩先生は『体育祭がおわるまでは我慢しろ』って言ってたっけね」
ヤマダがにやりとしながら言う。名木野はだまってしまった。彼女の表情にはヤマダたちが心配でしょうがないという思いやりがにじみ出ている。それはヤマダ一人が三郎主催の討伐参加を辞退しても無くなる感情ではない。彼女は友人全員の身を案じているのだ。ヤマダにのみ「行っちゃダメ」と注意するのは、この状況においてヤマダが唯一己の意見を聞き入れてくれそうだという、ただそれだけの理由だ。
ヤマダは心優しい名木野の不安がうすまる方法を考え、一人の人物を思いつく。
「……あんまり心配なら、シド先生にチクってみる?」
「え?」
「メチャクチャ強い人だからさ、悪者の一人や二人、サクっと倒してくれると思うよ。そしたらだれもケガしないんじゃない?」
「……うん」
名木野は心のよりどころができたかのように顔つきが和らいだ。きっと彼女は「こんなこと言っていいのかな」と迷いつつもシドを頼るだろう。それが三郎たちの意に沿う行動になるかはともかく、安全策ではあるとヤマダは信じた。
歓喜中の千智がヤマダの姿を認め、「ヤマちゃんもどう?」と話しかけてくる。
「これから三郎たちが不良をとっちめに行くって! 見にいかない?」
千智自身が戦線に加わるのではないらしい。難易度の低い条件だ。ヤマダは大きく手を振る。
「うん、野次馬が出馬するよー」
たった一人、席に着いている拓馬が諦観と皮肉の入り混じった笑みをつくる。
「お前で二頭めだな」
一頭めにあたる千智は「なんとでも言えばいいわ」と上機嫌で答えた。
現在の時刻は放課後。あの律儀な教師は「洗濯して次の登校日にお返しします」と宣言していた。貸した衣類を今日受け取らねば、シドがやきもきするだろう。こういうことは早くすませるべきだ。……とヤマダは頭でわかっていても、日中は体育祭にまつわる事項に面と向きあえなかった。
(先生とは……顔をあわせにくいなぁ)
体育祭の午後の部、ヤマダは当初出る予定のなかった二人三脚に参加した。団の加点対象となる生徒の参加者は足りていたが、会場を楽しませる目的で行なう教師の女性人員が不足したそうだ。その埋め合わせとしてヤマダはシドと組んだ。
シドがヤマダを選定したわけは校長の口添えだと白状しており、いやなら断っていいのだとも言われた。ヤマダは校長のあけすけな狙いを不愉快に感じたものの、シド自身には好感を持っている。そのため断固拒否する気になれなかった。
二人三脚は障害物競走でもあった。ぐるぐると回転する大縄を跳びこしていったり、距離にして数メートルある網の下をくぐったり。一人なら簡単に通過できる障害ばかりだが、片足を拘束した二人となるとスムーズにいかない競技だ。とくにヤマダとシドでは体格と運動能力に差がつき、文字通り彼の足を引っ張ってしまった。
(校長にいいエサあげちゃったなー、もー)
不覚にもヤマダは競技中に転倒しかけた。シドが彼女の体を抱きとめたおかげでころばずにすんだのだが、直後に変な歓声が湧きあがった。その中には当然のように校長もいた。校長にはこれ以上ない大成功な見世物だったろう。それがヤマダには悔しく、そして同様の被害を受ける新任教師に申し訳なかった。
二人三脚前後で感情が激動した者がいる一方で、シドの態度には変化がなかった。彼にとってヤマダはお節介焼きの生徒。決して特別な異性ではない。その姿勢は見習うべきだ。
(よし、わたしも気にしないぞ!)
まわりがどう言おうと二人は教師と生徒の関係止まり。自然体で接すればなにも起きないのだ。そう心得るとおそれるものはなくなった。
いよいよ職員室の戸の前に立つ。引き戸の窓をのぞくと銀色の頭髪が上下している。
(おおう、タイミングいい!)
戸は自動で開いた。目当ての教師がヤマダを見下ろす。
「おや、ジャージを取りにきてくれましたか」
「あ、うん……やっと時間が空いてねー」
実際は休み時間にシドに会うヒマがあった。だが体育祭の一件を引きずっていたことなど言えず、それらしい理由で自身の行動の鈍重さをつくろった。シドは「忙しいのですね」と、真に受けたのか話を合わせたのかわからない調子で答える。
「ここで話すのもなんですから、場所を変えましょう」
この状態では職員室の出入口を封鎖してしまう。ヤマダは荷物をもらったらすぐに教室へ帰るつもりだったが、ひとまずシドの言うとおりにした。職員室前の掲示板付近に移り、そこで教師はトートバッグを差し出した。そのバッグはヤマダがジャージと一緒にシドに渡したものだ。
「貸していただいてありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくたっていいよ、大したもんじゃないんだから」
「いえ、とても助かりました。このジャージのおかげで皆さんと馴染めたと思います」
「うん、スーツじゃちょっと場違いだもんね」
ヤマダがバッグをのぞきこんだ。中にはきれいにたたんだ長袖ジャージが入っている。
(先生ってば几帳面……)
ジャージを洗ってくれさえすれば乱雑にバッグへつっこんでいてもかまわなかった。しかし丁寧なあつかいを受けるにこしたことはない。物の使い方ひとつをとっても誠実な人なのだとヤマダは再確認した。
「じゃ、これで──」
「もうすこし待ってもらえますか」
用件がすんだはずなのに、とヤマダは不思議に思いながらシドの顔をうかがった。彼の微笑が若干の困り顔になっている。
「いまから話すことは純粋な疑問として聞いてください──貴女はどうして、私を気にかけてくれるのですか?」
彼の前置きは、ヤマダの行為をありがた迷惑だと非難するつもりが無い、という意思表示だ。そう理解したヤマダは素直に自分の行動理由を考える。
(なんでかな? ……べつに先生にアプローチをかけてる気はないし)
シドへの興味関心はあるが、だから彼を助けるという理屈ではない。手を貸す隙が彼にあったからそうするのだ。利得を無視した行為とはヤマダにとって正常なことである。これはお人好しな両親を持つがゆえの価値観だ。
「カンタンに言えば……こういう性格なんだと思う」
「性格、ですか」
「そう。うちの家族みんな、人助けが道楽なの。それが当たり前になってる」
「だれかに親切にすることが、体に染みついているということでしょうか」
「うん。そういう環境で育ったからね。あ、でも……世話を焼くのは先生みたいな謙虚な人だけだよ。『助けてもらって当然だ』っていう人とは関わらないようにしてる。そういう人に尽くしてたら、自分も相手も不幸になるんだって。お母さんが言ってた」
シドはこの返答で腑に落ちたらしく、笑顔がもどる。
「すてきな家族をお持ちなのですね」
「そうだね、最高な家族だと思ってるよ!」
父親には不満もあるけど、とヤマダは付け足した。他愛ない意見のつもりだったが、シドの表情に憐憫とおぼしき感情がうかぶ。
「貴女は家族から愛されているのでしょうね」
「? ……なんで悲しそうな顔で言うの?」
シドの言葉と顔に出る感情が不一致であることを指摘すると、彼は面食らった。シドが自身の頬をなでる。
「そんな顔をしていましたか」
「うん。正反対のことを言いまちがえたのかと思うくらい」
「いえ、貴女の家庭が愛にあふれていると感じたことにまちがいありません」
「じゃあべつのことでわたしを『かわいそうなやつ』だと思ったの?」
ヤマダはこの問いがシドへの責めだと見做されないよう、声色をおだやかにした。その心掛けに効果があったようで、彼は微笑をつくる。
「貴女ではないのです。私の知り合いに、よい親に恵まれなかった人がいるので……その人のことを連想していました」
「それってだれのこと?」
「本人が希望しないかぎり、私からは教えられません」
「秘密なんだね。わかった、聞かないよ」
シドがゆっくりうなずく。
「貴女は物わかりがよくて、助かります」
「英語の勉強のほうはそうでもないけどね」
ヤマダは英語の筆記試験が苦手だ。そのことは英語教師のシドもすでに理解したようで「このあいだのテストは少々あぶなかったですね」と返答する。
「期末試験はもっと点がとれやすくなるよう、本摩先生に話しあってみます」
「あ、ほんとに? それはうれしいなぁ」
「ですが復習はきちんとしてくださいね」
ヤマダが「はーい」と答える。こうして会話にめどがついた。シドは「気をつけて帰ってください」と言い、職員室へもどる。去り際に彼のネクタイが大きくゆれた。それがヤマダの印象に残る。
(先生、わたしがジャージを貸さなかったら……あの格好で体育祭に出てたのかな)
ジャケットを着ない季節、ネクタイは着用者の動作につられて自由気ままにうごく。その奔放さは邪魔にならないのだろうか。激しい運動をしない時でも、うっとうしいように見える。
(ネクタイピン、持ってないんだろうね……買えないってことはないと思うけど)
彼が物を持たない理由は、この教員生活が終わってしまえば私物を処分するからだと人づてに聞いた。使用が一回かぎりの運動着を購入しないのはまだいい。しかし日常的に使えるタイピンまで不要だと切り捨てるのは不便そうだ。
(うちにあるタイピンを使ってもらおうかな)
そのタイピンはヤマダの父親がくれたものだ。父が前職を辞めた時、もうスーツを着る仕事には就かないからと、娘には使い道のない装飾品を渡した。以降、ずっと専用の箱にしまってある。それがもったいなくて一度拓馬に「いる?」とたずねたが、彼は「いらない」と断っていた。
(あげちゃってもいいんだよねえ、大事にとっておいても意味ないし)
そのタイピンにはカラーストーンがついており、アクセサリーとして見栄えはする一品だ。ただ一つの難点は、ヤマダにはネクタイを巻く機会がないこと。女子がネクタイ付きの格好をしてもよい風潮はあるものの、彼女の好みではなかった。
(『あげる』と言ったら先生はいやがりそうだし、『一学期が終わるまで貸す』ってことにしようか)
あらたな貸借物が発生することに対し、あの教師は気兼ねしてしまうかもしれない。無理強いはしない方向で交渉しよう──とヤマダは心に決めた。
教室にもどってくるやいなや、教壇の前で三郎と千智がもめている光景が目についた。見たところ三郎の腰は引けており、千智が一方的に強く当たっているらしい。
「──言っとくけど、脚力ならあんたに負けてないからね!」
なんの言い合いだろう、とヤマダは疑問に思い、事情を聞けそうな人物をさがす。室内の後方に名木野が立っている。彼女は騒ぎを遠巻きに見守っているようだ。
「ねえナッちゃん、あの体育会系幼馴染コンビはなにやってるの?」
名木野はオロオロとした調子でヤマダと三郎たちを交互に見る。
「えっと……仙谷くんたちが、悪者退治、しにいくみたい」
「へー、それで仲間割れするの?」
「千智ちゃんを仲間外れにしようとしてるからって……」
「あー、たしかにまえの不良騒動には呼ばれなかったね。そのうらみがあるのかも」
今年の二月、三郎は不品行な少年らと相対した。彼らがデパートの一画を陣取った結果、客足を遠のかせるという営業妨害に至り、その非を糾弾しに行ったのだ。当時の同伴者は拓馬、ジモン、ヤマダの三人である。物見高い千智はこの人選を不満に思っていたのだろう。
「──あたしの蹴りを味わって、まだ立っていられたら諦めてあげる!」
千智が攻撃性をむき出しにした。この脅しには三郎がほとほと困る。
「待てまて! そんなに思いつめることはないだろう」
「じゃあ一緒に行っていいの?」
「あー、拓馬と固まっていてくれれば、な」
千智は握りこぶしをつくり、「ぃよし!」とよろこんだ。やはり今回も拓馬は三郎のお伴に呼ばれているらしい。そうとくればジモンも一緒だ。この場にジモンの姿は見当たらないが、おそらく戦力として勘定されているはずだ。
ヤマダは常々、同じ学校にいる間は拓馬たちと思い出を共有したい、と思っている。それゆえ「わたしはどうしようかな」と本音をもらした。名木野は血相を変えて「ダメだよ」と引き止める。
「あぶないよ、本摩先生だって止めてたじゃない」
「本摩先生は『体育祭がおわるまでは我慢しろ』って言ってたっけね」
ヤマダがにやりとしながら言う。名木野はだまってしまった。彼女の表情にはヤマダたちが心配でしょうがないという思いやりがにじみ出ている。それはヤマダ一人が三郎主催の討伐参加を辞退しても無くなる感情ではない。彼女は友人全員の身を案じているのだ。ヤマダにのみ「行っちゃダメ」と注意するのは、この状況においてヤマダが唯一己の意見を聞き入れてくれそうだという、ただそれだけの理由だ。
ヤマダは心優しい名木野の不安がうすまる方法を考え、一人の人物を思いつく。
「……あんまり心配なら、シド先生にチクってみる?」
「え?」
「メチャクチャ強い人だからさ、悪者の一人や二人、サクっと倒してくれると思うよ。そしたらだれもケガしないんじゃない?」
「……うん」
名木野は心のよりどころができたかのように顔つきが和らいだ。きっと彼女は「こんなこと言っていいのかな」と迷いつつもシドを頼るだろう。それが三郎たちの意に沿う行動になるかはともかく、安全策ではあるとヤマダは信じた。
歓喜中の千智がヤマダの姿を認め、「ヤマちゃんもどう?」と話しかけてくる。
「これから三郎たちが不良をとっちめに行くって! 見にいかない?」
千智自身が戦線に加わるのではないらしい。難易度の低い条件だ。ヤマダは大きく手を振る。
「うん、野次馬が出馬するよー」
たった一人、席に着いている拓馬が諦観と皮肉の入り混じった笑みをつくる。
「お前で二頭めだな」
一頭めにあたる千智は「なんとでも言えばいいわ」と上機嫌で答えた。
タグ:拓馬
2018年03月05日
拓馬篇−3章5 ★
拓馬は三郎の勧誘により、拓馬たちが以前遭遇した他校の男子へ会いにむかった。この少年たちはまたも近隣の住民に迷惑をかけているとの評判だ。そのため、三郎は彼らの立ち退きを求めるつもりでいる。同時に彼らが成石を襲った犯人かどうか、反応をさぐる。少年らが犯人であれば早々に事件は解決でき、そうでなくとも住民を困らせる連中を退去させればよし、という計画だ。
素行の悪い男子らがたむろする場所は公園だった。背の高い木々で囲まれた、広い公園だ。公園内には小学生向けの遊具が設置されてある。遊び場とは別に、休憩用のベンチが並ぶ場所があり、そこに制服を着崩した少年たちが集まっている。拓馬は女子二人とともに低木の茂みに身を隠した。
「あれが拓馬たちがまえに倒したやつら?」
学校指定の体操着に着替えた千智が問う。彼女は帰宅する手間暇を惜しみ、手持ちの体操着を着る判断をした。私服に着替えてきたヤマダが「うん」とうなずく。
「ノッポくんに太っちょくんに、刈り上げくんは見たね。ひとりだけ制服が全然ちがう、パツキンくんは知らない」
ヤマダが即席の名付けを披露した。彼女が言うように金髪の少年は以前の騒動では出くわさなかった。だが拓馬は最近、彼とすれちがったことがあった。それは連休中のシドが不良少年らをさがしていたとき、シドが屋内の施設へ入ったのを、犬連れで野外待機していた拓馬がたまたま見かけたのだ。そのときも金髪の彼は制服を雑に着ていた。染髪と乱れた制服の着方はベッタベタな不良像ではないかと、拓馬はすこし思う。
「あの金髪、雒英《らくえい》高校の人じゃないの?」
雒英高校に通う生徒は勤勉な優等生ぞろい──学業面では平凡な高校生たる拓馬たちはそう思っていた。
「あんなに頭のいい学校の子が、なーんで不良どもとつるんでるのかしら」
千智がみなの疑問を代弁した。金髪の取り巻きらしき他校の生徒は、雒英の足元におよばぬ学校の者。どうにも不釣り合いだ。
「あのパツキンくんがいたら、話をわかってもらえるかな」
ヤマダがそう楽観した。金髪がまとう制服は、着用者の知性の高さを体現している。おまけに三郎が収集した情報によるとあの金髪が不良の頭目だという。つまり、金髪の発言権は強い。
「どうだかな。あいつがいちばん喧嘩っ早いかもしれねえぞ」
不良とは縁遠い名門校にいながら非行少年のナリをしている相手だ。もっとも手強く、凶悪な性格なのかもしれない。
(向こうが四人で、こっちは男三人か……)
前回は相手が三人だけだったので、相対する人数は互角だった──はずだが、どうもそのときの拓馬がひとりあぶれていた気がして、今回の人数不利への心配を感じなかった。
歓談中の不良少年たちに、私服姿の三郎とジモンが接近する。三郎はまず相手に、最近は夜に人を襲う不審者が現れることを伝える。直截《ちょくせつ》的に「お前たちが犯人か」とは言わず、「夜に出歩くのは危ないから早く家に帰ろう」と早期帰宅をうながす。そこまではよかった。
「こいつら、おれたちをのしやがった野郎だぜ」
頭の地肌が見えるほど髪を刈り上げた少年がいきり立つ。当時その場にいなかった金髪は「へえ、こいつがか」と言いながら、三郎とジモンを交互に見た。金髪が不敵に笑う。
「お前ら、借りは返してぇか?」
金髪は好戦的だ。少年たちは一斉に腰を上げた。三郎は自身の両手を前に出す。
「オレはきみたちを二度も痛めつけたくはない! おとなしく家で安全に―─」
なだめにかかる三郎に、刈り上げがににじり寄る。
「あんときはオダさんがいなくてやられちまったがよ、今日はちがうぜ」
オダという金髪が一番腕が立つらしい。相手に強力な助っ人がいるうちは、引き下がってくれなさそうだ。そう判断した拓馬は物陰から出る。
「おい三郎! ここらが潮時だ」
そこまで言えば三郎は退却か抗戦かを決断できる。三郎は拓馬にふりむき、行動決定への迷いを表情にのぼらせた。三郎が敵意ある連中に顔をそむけたとき、刈り上げが三郎の肩をつかんだ。無理やりに正面を向かせ、顔面に殴りかかる。危ない、と拓馬たちが思った瞬間、三郎は身を屈める。三郎の肩に手を置いていた刈り上げはバランスを崩した。刈り上げのあごへ、三郎のアッパーカットが命中する。先制者は地に沈んだ。
「これでも、まだ引いてくれないのか?」
三郎はリーダー格を見据えて言った。対する金髪は鼻で笑う。
「はん、そいつは居てもいなくても一緒だ」
不良たちは戦闘不能になった刈り上げに見むきもしていない。
(まえもこんなんだったような)
と拓馬は数か月前の出来事を振りかえった。刈り上げは以前も三郎の説得に拳で答え、返り討ちにあった。そのときの敵方は、敗北した仲間を放置して、三郎たちに襲いかかった。刈り上げがやられたところで恐れをなさない連中なのだ。
三郎は相手方の強硬な姿勢を受け止め、「やるしかないようだ」と拓馬たちに言った。それを開戦の合図と見たジモンは上着を脱ぎ捨てる。彼は衣服を破いてしまうと母親にひどく叱られるという。その対策として半裸になるのだ。服を脱いだジモンに、百キロはあろうかという巨漢が挑む。長身の少年が三郎と、金髪が拓馬と対峙した。三郎が拳を交える段になっても金髪は不動。拓馬も金髪の出方をうかがった。金髪が口を開く。
「このまえはもうひとり、お仲間がいたそうだな。そいつはどうした?」
彼はヤマダのことを言っている。金髪の仲間たちが、彼に報告したのだろう。
「あいつに喧嘩は合わねえんだ。お前がやる気なら俺が相手をする」
「いい子ちゃんがいきがるなよ」
金髪がついに拓馬に攻勢をしかけた。放たれた蹴りは速い。拓馬は後方へ跳びのく。回避の最中にも追撃の蹴りがくる。すばやい攻撃ゆえに、とっさに腕で防ぐ。さいわい威力はなかった。だが形勢はよくない。どこかで反撃をしなくては、と思う拓馬が防戦一方になると、目の端にヤマダと千智の姿がちらついた。気絶中の刈り上げになにかしているようだった。
「よそ見するたぁ、馬鹿にしてんのか?」
金髪の罵声とともに拳がせまる。拓馬は両手で彼の拳を受け、その腕を引っ張る。前のめりになる相手に、後ろ回し蹴りを浴びせる。拓馬のかかとは金髪の背中をとらえた。金髪が地面に倒れる。拓馬は彼が起きてこないのを確認したのち、女子たちに近づく。
「ヤマダも千智も、なにやってんだ?」
「忍者の本でみた捕縛術だよ。親指をしばるだけで身動きが取れなくなるって」
刈り上げはうつ伏せ状態で後ろ手を組んでいた。その両手の親指に荒縄が結んである。
「決着がつくまえに刈り上げくんが起きたらめんどうでしょ?」
ヤマダがにこっと笑う。参戦しないなりに手助けをしようと思っての行動らしい。
「そうか……でもリーダーを倒したから決着はついたな」
拓馬は友人の戦果を確認する。すでに三郎は相手を降していた。だが慌てふためく。
「拓馬、横を見ろ!」
拓馬は三郎の忠告にしたがい、金髪の倒れている方向を見た。金髪が拓馬めがけ、光る物を振りかざす。驚いた拓馬は後ろへさがろうとしたが、刈り上げの体に足を引っかける。バランスをくずし、後方へ倒れる。金髪の攻撃は拓馬のこめかみをかすめた。切ったような痛みが走る。被害はそれだけでおわらなかった。拓馬の転倒により、そばにいたヤマダも倒れる。
「いだっ」
彼女は運悪く、コンクリートの段差に頭を打ちつけた。拓馬はヤマダの負傷を心配したが、目のまえには敵がせまっている。自分の下敷きになった者に構っていられなかった、拓馬は体勢を立てなおし、あらためて金髪を見る。その手には刀身の短い刃物がある。
(ナイフかよ……)
どこまでベタな不良なんだ、と拓馬はあきれた。そう思う間にも拓馬の頬に温かい物が流れていく。その液体の色は赤いにちがいないが、確かめる気は起きない。
(あれをうばわねえと、あぶないな)
だが不思議なことに、ナイフがひとりでに地に落ちた。金髪は自身の腕をつかみ、痛がっている。ナイフの近くにはピンポン玉大の小石も落ちていた。
(なにが起きた? 三郎か?)
拓馬は三郎が助けてくれたのかと思った。だが彼は呆然と突っ立ている。ちがうらしい。ではだれが、と拓馬は三郎が注目する方向を見る。そこに黒シャツの男性がいた。
素行の悪い男子らがたむろする場所は公園だった。背の高い木々で囲まれた、広い公園だ。公園内には小学生向けの遊具が設置されてある。遊び場とは別に、休憩用のベンチが並ぶ場所があり、そこに制服を着崩した少年たちが集まっている。拓馬は女子二人とともに低木の茂みに身を隠した。
「あれが拓馬たちがまえに倒したやつら?」
学校指定の体操着に着替えた千智が問う。彼女は帰宅する手間暇を惜しみ、手持ちの体操着を着る判断をした。私服に着替えてきたヤマダが「うん」とうなずく。
「ノッポくんに太っちょくんに、刈り上げくんは見たね。ひとりだけ制服が全然ちがう、パツキンくんは知らない」
ヤマダが即席の名付けを披露した。彼女が言うように金髪の少年は以前の騒動では出くわさなかった。だが拓馬は最近、彼とすれちがったことがあった。それは連休中のシドが不良少年らをさがしていたとき、シドが屋内の施設へ入ったのを、犬連れで野外待機していた拓馬がたまたま見かけたのだ。そのときも金髪の彼は制服を雑に着ていた。染髪と乱れた制服の着方はベッタベタな不良像ではないかと、拓馬はすこし思う。
「あの金髪、雒英《らくえい》高校の人じゃないの?」
雒英高校に通う生徒は勤勉な優等生ぞろい──学業面では平凡な高校生たる拓馬たちはそう思っていた。
「あんなに頭のいい学校の子が、なーんで不良どもとつるんでるのかしら」
千智がみなの疑問を代弁した。金髪の取り巻きらしき他校の生徒は、雒英の足元におよばぬ学校の者。どうにも不釣り合いだ。
「あのパツキンくんがいたら、話をわかってもらえるかな」
ヤマダがそう楽観した。金髪がまとう制服は、着用者の知性の高さを体現している。おまけに三郎が収集した情報によるとあの金髪が不良の頭目だという。つまり、金髪の発言権は強い。
「どうだかな。あいつがいちばん喧嘩っ早いかもしれねえぞ」
不良とは縁遠い名門校にいながら非行少年のナリをしている相手だ。もっとも手強く、凶悪な性格なのかもしれない。
(向こうが四人で、こっちは男三人か……)
前回は相手が三人だけだったので、相対する人数は互角だった──はずだが、どうもそのときの拓馬がひとりあぶれていた気がして、今回の人数不利への心配を感じなかった。
歓談中の不良少年たちに、私服姿の三郎とジモンが接近する。三郎はまず相手に、最近は夜に人を襲う不審者が現れることを伝える。直截《ちょくせつ》的に「お前たちが犯人か」とは言わず、「夜に出歩くのは危ないから早く家に帰ろう」と早期帰宅をうながす。そこまではよかった。
「こいつら、おれたちをのしやがった野郎だぜ」
頭の地肌が見えるほど髪を刈り上げた少年がいきり立つ。当時その場にいなかった金髪は「へえ、こいつがか」と言いながら、三郎とジモンを交互に見た。金髪が不敵に笑う。
「お前ら、借りは返してぇか?」
金髪は好戦的だ。少年たちは一斉に腰を上げた。三郎は自身の両手を前に出す。
「オレはきみたちを二度も痛めつけたくはない! おとなしく家で安全に―─」
なだめにかかる三郎に、刈り上げがににじり寄る。
「あんときはオダさんがいなくてやられちまったがよ、今日はちがうぜ」
オダという金髪が一番腕が立つらしい。相手に強力な助っ人がいるうちは、引き下がってくれなさそうだ。そう判断した拓馬は物陰から出る。
「おい三郎! ここらが潮時だ」
そこまで言えば三郎は退却か抗戦かを決断できる。三郎は拓馬にふりむき、行動決定への迷いを表情にのぼらせた。三郎が敵意ある連中に顔をそむけたとき、刈り上げが三郎の肩をつかんだ。無理やりに正面を向かせ、顔面に殴りかかる。危ない、と拓馬たちが思った瞬間、三郎は身を屈める。三郎の肩に手を置いていた刈り上げはバランスを崩した。刈り上げのあごへ、三郎のアッパーカットが命中する。先制者は地に沈んだ。
「これでも、まだ引いてくれないのか?」
三郎はリーダー格を見据えて言った。対する金髪は鼻で笑う。
「はん、そいつは居てもいなくても一緒だ」
不良たちは戦闘不能になった刈り上げに見むきもしていない。
(まえもこんなんだったような)
と拓馬は数か月前の出来事を振りかえった。刈り上げは以前も三郎の説得に拳で答え、返り討ちにあった。そのときの敵方は、敗北した仲間を放置して、三郎たちに襲いかかった。刈り上げがやられたところで恐れをなさない連中なのだ。
三郎は相手方の強硬な姿勢を受け止め、「やるしかないようだ」と拓馬たちに言った。それを開戦の合図と見たジモンは上着を脱ぎ捨てる。彼は衣服を破いてしまうと母親にひどく叱られるという。その対策として半裸になるのだ。服を脱いだジモンに、百キロはあろうかという巨漢が挑む。長身の少年が三郎と、金髪が拓馬と対峙した。三郎が拳を交える段になっても金髪は不動。拓馬も金髪の出方をうかがった。金髪が口を開く。
「このまえはもうひとり、お仲間がいたそうだな。そいつはどうした?」
彼はヤマダのことを言っている。金髪の仲間たちが、彼に報告したのだろう。
「あいつに喧嘩は合わねえんだ。お前がやる気なら俺が相手をする」
「いい子ちゃんがいきがるなよ」
金髪がついに拓馬に攻勢をしかけた。放たれた蹴りは速い。拓馬は後方へ跳びのく。回避の最中にも追撃の蹴りがくる。すばやい攻撃ゆえに、とっさに腕で防ぐ。さいわい威力はなかった。だが形勢はよくない。どこかで反撃をしなくては、と思う拓馬が防戦一方になると、目の端にヤマダと千智の姿がちらついた。気絶中の刈り上げになにかしているようだった。
「よそ見するたぁ、馬鹿にしてんのか?」
金髪の罵声とともに拳がせまる。拓馬は両手で彼の拳を受け、その腕を引っ張る。前のめりになる相手に、後ろ回し蹴りを浴びせる。拓馬のかかとは金髪の背中をとらえた。金髪が地面に倒れる。拓馬は彼が起きてこないのを確認したのち、女子たちに近づく。
「ヤマダも千智も、なにやってんだ?」
「忍者の本でみた捕縛術だよ。親指をしばるだけで身動きが取れなくなるって」
刈り上げはうつ伏せ状態で後ろ手を組んでいた。その両手の親指に荒縄が結んである。
「決着がつくまえに刈り上げくんが起きたらめんどうでしょ?」
ヤマダがにこっと笑う。参戦しないなりに手助けをしようと思っての行動らしい。
「そうか……でもリーダーを倒したから決着はついたな」
拓馬は友人の戦果を確認する。すでに三郎は相手を降していた。だが慌てふためく。
「拓馬、横を見ろ!」
拓馬は三郎の忠告にしたがい、金髪の倒れている方向を見た。金髪が拓馬めがけ、光る物を振りかざす。驚いた拓馬は後ろへさがろうとしたが、刈り上げの体に足を引っかける。バランスをくずし、後方へ倒れる。金髪の攻撃は拓馬のこめかみをかすめた。切ったような痛みが走る。被害はそれだけでおわらなかった。拓馬の転倒により、そばにいたヤマダも倒れる。
「いだっ」
彼女は運悪く、コンクリートの段差に頭を打ちつけた。拓馬はヤマダの負傷を心配したが、目のまえには敵がせまっている。自分の下敷きになった者に構っていられなかった、拓馬は体勢を立てなおし、あらためて金髪を見る。その手には刀身の短い刃物がある。
(ナイフかよ……)
どこまでベタな不良なんだ、と拓馬はあきれた。そう思う間にも拓馬の頬に温かい物が流れていく。その液体の色は赤いにちがいないが、確かめる気は起きない。
(あれをうばわねえと、あぶないな)
だが不思議なことに、ナイフがひとりでに地に落ちた。金髪は自身の腕をつかみ、痛がっている。ナイフの近くにはピンポン玉大の小石も落ちていた。
(なにが起きた? 三郎か?)
拓馬は三郎が助けてくれたのかと思った。だが彼は呆然と突っ立ている。ちがうらしい。ではだれが、と拓馬は三郎が注目する方向を見る。そこに黒シャツの男性がいた。
2018年03月06日
拓馬篇−3章6 ★
公園内をかこむ木々の合間に、背の高い男性が立っている。彼は拓馬たちに歩みよってきた。その人物は色黒で、黒いシャツを着ており、髪色は銀。うたがいようもなく、才穎高校の新任教師である。だが彼はいつもの黄色いサングラスを外していた。青い瞳がはっきり見えるその顔つきは無表情。普段から笑顔が印象的な人だけに、怒っているように拓馬は感じた。
「危険な遊びをしているようですね」
低い声だった。もともと彼の声は低いのだが、いっそう低音に聞こえた。なにせ、拓馬たちは学校側が禁じる乱闘に身を投じている。教師が嫌悪して当然の事態だ。
拓馬は教師の叱責が飛ぶのではないかと戦々恐々する。反対にジモンが「おお、先生か!」と歓声をあげた。この大柄な友はのんきだ。およそ子どもたちの遊びに大人も加わるような認識でいる。そんな状況ではないと察した拓馬はおそるおそる、教師に質問する。
「先生が……石を投げたのか?」
一喝されるだろうか、拓馬は緊張した。しかしシドは「そうです」といつもの調子で答えた。彼はズボンのポケットから紺色のハンカチを出す。
「これで血をぬぐってください」
そのハンカチは拓馬へ差し出される。拓馬は予想外の温情をかけられて、呆然とした。
「あとで病院に行きましょう」
シドは気遣いを受け取ろうとしない拓馬の手に、ハンカチを持たせた。次に彼はヤマダのそばにしゃがむ。ヤマダは千智に膝枕された状態で、地面に横たわっていた。
「ノイさん、オヤマダさんのケガの状態はどうですか」
「ヤマちゃんは頭を打って、気絶して……」
ヤマダは「もうだいじょーぶ」とヘナヘナした声でしゃべった。シドが立ち上がる。
「ではオヤマダさんも病院へ行きましょう。脳の損傷の有無を検査しなくては」
彼は拓馬にくだしたのと同じ善後策を講じた。そして二人に怪我を負わせた張本人を見る。金髪はナイフを手元にもどし、あらたに登場した敵に刃を向けた。彼の闘志はがぜん燃えたぎるようだが、その手はすこし震えていた。
シドは他校の少年から敵意をそそがれている。にも関わらず、彼は堂々と金髪との距離を詰めた。金髪はシドの常識はずれな行動に動揺する。
「お前が……こいつらの教師か?」
金髪が刃物の切っ先をシドに突きつけたまま問う。
「オレをさぐってたヤツか。目的はなんだ」
金髪は嗅ぎ回られたことに気付いていた。拓馬も、シドがそんな活動をしたことは知っていた。
「オレをどうにかしようって腹か?」
シドは再び「そうです」と返答をする。
「ですが、貴方が素行を正せば私はなにもしません」
語勢はやさしいが、内なる強い意志がこもっていた。シドは手のひらを金髪へのばす。
「刃物をこちらに渡してください」
金髪は和平をこばみ、相手へ飛びこむようにナイフを突く。直線的な攻撃を、シドは半身をずらすことでかわした。俊敏な回避だ。しかしその動作に彼のネクタイはついてこれず、大剣部分が半分切れる。シドはネクタイの被害を一瞬見た。次に、なお立ち向かってくる金髪をにらむ。
「人を殺せる道具をまだ使いますか」
このときになってはじめて、温和な教師の怒気が声にあらわれる。
「それ相応の覚悟をしてもらいますよ」
金髪は警告を無視し、武器を突きだす。すると刃物は上空へ舞った。シドの蹴りが、ナイフを持つ金髪の腕に命中したのだ。金髪は腕に二度目の打撃を食らった。その負傷のために痛がる──かと思った瞬間、シドの片手が彼の首を捕まえた。
(先生、なにを……)
拓馬は胸がざわついた。そのいやな予感は的中する。シドは金髪の首をつかんだ状態で、金髪の頭部を持ち上げた。金髪は地面に足がつかない。金髪はシドの手を両手でつかみ、浮いた足をばたつかせている。教師の暴挙に一同は愕然とした。
「先生、やりすぎだ!」
拓馬は制止を呼びかけた。教師は腕を下ろさない。次第に金髪が抵抗する力を失くす。
(体当たりをかますか?)
拓馬は教師の暴走を止めようとした。そのとき、シドのかたく閉じていた口がうごく。
「貴方がいま感じている恐怖は、貴方が刃物を突きつけた相手も感じた恐怖です」
捕縛者が無感情な声で話しはじめた。金髪の体がすこしずつつ下がる。
「その感覚をよく覚えておきなさい」
金髪の足が地面についた。シドの手が彼の首元から離れる。金髪は力なく崩れ落ちた。
拓馬はすぐに金髪の生存確認をする。意識のない少年の鼻と口に手をかざすと、ひかえめな呼吸を感じる。
(よかった、無事だな……)
大事には至らなかった。そうと知れた拓馬は次に、殺人一歩手前まで踏みこんだ大人をキっと見上げる。
「先生、人殺しになるところだったぞ」
「手加減は心得ています。ご心配なく」
シドは拓馬の非難を受け流した。過激なことをしでかしたという反省は見られない。
(先生って、こんなに冷たい人だったか?)
平素の温厚で謙虚な人柄からは信じがたい反応だ。まるで似た容姿の人物が複数いるよう──相手は自身の窮地を救った恩人にも関わらず、拓馬は不信感がつのった。
冷酷な一面をあらわにした男が、地面に刺さったナイフを見た。刃物の柄は空に向かっている。それを彼は踏みつけた。刀身がぱっきり折れる。使い物にならなくなった刃物が地面にころがった。
武器破壊を行なった男は不良少年たちに顔を向ける。うつ伏せに倒れる刈り上げ以外、少年らは体をびくっと震わせる。彼らは完全に戦意を喪失している。
「貴方たちも同じ目に遭いたくなければ、身を正して生きなさい」
もはや畏怖は不要だと思ってか、その声色はやさしげだ。
「貴方たちはいくらでも自分を変えられます」
不良たちは小刻みにうなずく。彼らは金髪のもとに寄り、退散の姿勢をとった。
この場が安全地帯になった、と判断したシドは、ようやく教え子に関心を向ける。
「ケガをした二人は、私と一緒に病院に行きましょう」
青い目はやさしげだ。彼の態度はいつもの温和な教師にもどっている。
「ほかの皆さんは帰宅してください」
教師は生徒らを叱らずに帰すつもりだ。今回の騒動を見なかったことにするのか、と思いきや──
「この件の処分は後々決定します」
彼はきっちり校長に報告するつもりだ。叱責は上司任せ、という判断らしい。
「それまで新たな問題を起こさないよう、お願いします」
シドはおもむろにヤマダに近寄る。千智がヤマダの両肩をつかみ、シドを警戒した。
「オヤマダさんを運びます。私に預からせてください」
千智は彼の笑みにほだされ、はにかみながら手を放した。
シドはヤマダを横抱きにした。彼女はあわてる。それは教師を恐れてではなく、その体勢のはずかしさゆえ。
「こんなことしなくたって、歩けるよ!」
「後遺症があってはご家族に申しわけが立ちません」
金髪への仕打ちとは打って変わっての過保護な主張だ。
「私を助けると思って、言うことを聞いてもらえますか」
ヤマダは口答えをあきらめた。恥をこらえて、お姫様抱っこを受け入れる。千智がぼそっと「いいな〜」と羨ましがった。三郎が千智を小突き、「惚《ほう》けたことをぬかすな」と注意した。千智はむくれる。
「なによ、ほんとにそう思ったんだから──」
「無駄口はあとだ。オレたちは撤収するぞ」
三郎はシドの指示を忠実にこなそうとしている。彼の態度は仲間内に伝染し、ジモンが脱いだ服を着始めた。地べたに座っていた千智は服についた砂埃をはらう。三人の帰宅する姿勢を見たシドは温和にほほえみ、公園の外へと歩いた。彼は病院へ向かうつもりだ。それに拓馬は同行せねばならない。
(まずは治療を受けねえとな)
シドを弾劾するのは後回しだ。拓馬はシドの後ろを追う。歩き出してふと、自分の手に持つハンカチの存在に気がつく。清潔感のあるハンカチだ。洗い落としにくい血を付着させるにはしのびない。拓馬は持ち主へ返却を申し出る。両手がふさがるシドが「ポケットに入れてください」と言うのを、素直にしたがった。
「危険な遊びをしているようですね」
低い声だった。もともと彼の声は低いのだが、いっそう低音に聞こえた。なにせ、拓馬たちは学校側が禁じる乱闘に身を投じている。教師が嫌悪して当然の事態だ。
拓馬は教師の叱責が飛ぶのではないかと戦々恐々する。反対にジモンが「おお、先生か!」と歓声をあげた。この大柄な友はのんきだ。およそ子どもたちの遊びに大人も加わるような認識でいる。そんな状況ではないと察した拓馬はおそるおそる、教師に質問する。
「先生が……石を投げたのか?」
一喝されるだろうか、拓馬は緊張した。しかしシドは「そうです」といつもの調子で答えた。彼はズボンのポケットから紺色のハンカチを出す。
「これで血をぬぐってください」
そのハンカチは拓馬へ差し出される。拓馬は予想外の温情をかけられて、呆然とした。
「あとで病院に行きましょう」
シドは気遣いを受け取ろうとしない拓馬の手に、ハンカチを持たせた。次に彼はヤマダのそばにしゃがむ。ヤマダは千智に膝枕された状態で、地面に横たわっていた。
「ノイさん、オヤマダさんのケガの状態はどうですか」
「ヤマちゃんは頭を打って、気絶して……」
ヤマダは「もうだいじょーぶ」とヘナヘナした声でしゃべった。シドが立ち上がる。
「ではオヤマダさんも病院へ行きましょう。脳の損傷の有無を検査しなくては」
彼は拓馬にくだしたのと同じ善後策を講じた。そして二人に怪我を負わせた張本人を見る。金髪はナイフを手元にもどし、あらたに登場した敵に刃を向けた。彼の闘志はがぜん燃えたぎるようだが、その手はすこし震えていた。
シドは他校の少年から敵意をそそがれている。にも関わらず、彼は堂々と金髪との距離を詰めた。金髪はシドの常識はずれな行動に動揺する。
「お前が……こいつらの教師か?」
金髪が刃物の切っ先をシドに突きつけたまま問う。
「オレをさぐってたヤツか。目的はなんだ」
金髪は嗅ぎ回られたことに気付いていた。拓馬も、シドがそんな活動をしたことは知っていた。
「オレをどうにかしようって腹か?」
シドは再び「そうです」と返答をする。
「ですが、貴方が素行を正せば私はなにもしません」
語勢はやさしいが、内なる強い意志がこもっていた。シドは手のひらを金髪へのばす。
「刃物をこちらに渡してください」
金髪は和平をこばみ、相手へ飛びこむようにナイフを突く。直線的な攻撃を、シドは半身をずらすことでかわした。俊敏な回避だ。しかしその動作に彼のネクタイはついてこれず、大剣部分が半分切れる。シドはネクタイの被害を一瞬見た。次に、なお立ち向かってくる金髪をにらむ。
「人を殺せる道具をまだ使いますか」
このときになってはじめて、温和な教師の怒気が声にあらわれる。
「それ相応の覚悟をしてもらいますよ」
金髪は警告を無視し、武器を突きだす。すると刃物は上空へ舞った。シドの蹴りが、ナイフを持つ金髪の腕に命中したのだ。金髪は腕に二度目の打撃を食らった。その負傷のために痛がる──かと思った瞬間、シドの片手が彼の首を捕まえた。
(先生、なにを……)
拓馬は胸がざわついた。そのいやな予感は的中する。シドは金髪の首をつかんだ状態で、金髪の頭部を持ち上げた。金髪は地面に足がつかない。金髪はシドの手を両手でつかみ、浮いた足をばたつかせている。教師の暴挙に一同は愕然とした。
「先生、やりすぎだ!」
拓馬は制止を呼びかけた。教師は腕を下ろさない。次第に金髪が抵抗する力を失くす。
(体当たりをかますか?)
拓馬は教師の暴走を止めようとした。そのとき、シドのかたく閉じていた口がうごく。
「貴方がいま感じている恐怖は、貴方が刃物を突きつけた相手も感じた恐怖です」
捕縛者が無感情な声で話しはじめた。金髪の体がすこしずつつ下がる。
「その感覚をよく覚えておきなさい」
金髪の足が地面についた。シドの手が彼の首元から離れる。金髪は力なく崩れ落ちた。
拓馬はすぐに金髪の生存確認をする。意識のない少年の鼻と口に手をかざすと、ひかえめな呼吸を感じる。
(よかった、無事だな……)
大事には至らなかった。そうと知れた拓馬は次に、殺人一歩手前まで踏みこんだ大人をキっと見上げる。
「先生、人殺しになるところだったぞ」
「手加減は心得ています。ご心配なく」
シドは拓馬の非難を受け流した。過激なことをしでかしたという反省は見られない。
(先生って、こんなに冷たい人だったか?)
平素の温厚で謙虚な人柄からは信じがたい反応だ。まるで似た容姿の人物が複数いるよう──相手は自身の窮地を救った恩人にも関わらず、拓馬は不信感がつのった。
冷酷な一面をあらわにした男が、地面に刺さったナイフを見た。刃物の柄は空に向かっている。それを彼は踏みつけた。刀身がぱっきり折れる。使い物にならなくなった刃物が地面にころがった。
武器破壊を行なった男は不良少年たちに顔を向ける。うつ伏せに倒れる刈り上げ以外、少年らは体をびくっと震わせる。彼らは完全に戦意を喪失している。
「貴方たちも同じ目に遭いたくなければ、身を正して生きなさい」
もはや畏怖は不要だと思ってか、その声色はやさしげだ。
「貴方たちはいくらでも自分を変えられます」
不良たちは小刻みにうなずく。彼らは金髪のもとに寄り、退散の姿勢をとった。
この場が安全地帯になった、と判断したシドは、ようやく教え子に関心を向ける。
「ケガをした二人は、私と一緒に病院に行きましょう」
青い目はやさしげだ。彼の態度はいつもの温和な教師にもどっている。
「ほかの皆さんは帰宅してください」
教師は生徒らを叱らずに帰すつもりだ。今回の騒動を見なかったことにするのか、と思いきや──
「この件の処分は後々決定します」
彼はきっちり校長に報告するつもりだ。叱責は上司任せ、という判断らしい。
「それまで新たな問題を起こさないよう、お願いします」
シドはおもむろにヤマダに近寄る。千智がヤマダの両肩をつかみ、シドを警戒した。
「オヤマダさんを運びます。私に預からせてください」
千智は彼の笑みにほだされ、はにかみながら手を放した。
シドはヤマダを横抱きにした。彼女はあわてる。それは教師を恐れてではなく、その体勢のはずかしさゆえ。
「こんなことしなくたって、歩けるよ!」
「後遺症があってはご家族に申しわけが立ちません」
金髪への仕打ちとは打って変わっての過保護な主張だ。
「私を助けると思って、言うことを聞いてもらえますか」
ヤマダは口答えをあきらめた。恥をこらえて、お姫様抱っこを受け入れる。千智がぼそっと「いいな〜」と羨ましがった。三郎が千智を小突き、「惚《ほう》けたことをぬかすな」と注意した。千智はむくれる。
「なによ、ほんとにそう思ったんだから──」
「無駄口はあとだ。オレたちは撤収するぞ」
三郎はシドの指示を忠実にこなそうとしている。彼の態度は仲間内に伝染し、ジモンが脱いだ服を着始めた。地べたに座っていた千智は服についた砂埃をはらう。三人の帰宅する姿勢を見たシドは温和にほほえみ、公園の外へと歩いた。彼は病院へ向かうつもりだ。それに拓馬は同行せねばならない。
(まずは治療を受けねえとな)
シドを弾劾するのは後回しだ。拓馬はシドの後ろを追う。歩き出してふと、自分の手に持つハンカチの存在に気がつく。清潔感のあるハンカチだ。洗い落としにくい血を付着させるにはしのびない。拓馬は持ち主へ返却を申し出る。両手がふさがるシドが「ポケットに入れてください」と言うのを、素直にしたがった。
2018年03月07日
拓馬篇−4章1 ★
拓馬は外科の診察を終えた。総合受付前にある、背もたれつきの長椅子に座る。手持無沙汰ゆえ、自身のこめかみに施された処方をさわった。厚みのあるガーゼの上に、つるつるした紙テープが格子状に貼ってある。素人でもできそうな処置だ。医者は看護師が血を拭きとった傷口を見て、軽傷と診断した。そのうえでこの簡素な処置を最善とみなした。
(父さんを呼ばなくてもよかったかな……)
病院へ向かう道中、ヤマダが「保険証を持ってきてもらおう」と言いだし、それぞれの親に連絡をした。拓馬はなりゆきで父に連絡を取ったが、いらぬ心配をかけたという後悔が湧きあがる。また、ほかにも気がかりなことがあった。ヤマダが自身の携帯電話を使用したあと、ずっと眠りこけた。あれは睡眠ではなく、意識を失っていたのではないか。
(どこで聞いたかな……車にぶつかられた人が、見た目の傷はなかったのに急に死んだ話)
その話の人物は、事故直後に病院で治療を受ければ生きのびる可能性があったという。「これぐらい平気」と楽観したがゆえの悲劇だとか。だがそう楽観するのも仕方がないらしい。人間は突然の事故に遭遇すると脳が興奮状態になり、痛覚がにぶることもある。そのときは痛みを感じなくとも、体内では着実に異変が進行し、取り返しのつかない事態におちいる──ヤマダもその危険はあるのだ。
拓馬が冷静に状況整理をしていると廊下の角からシドがあらわれた。彼はまた女子を横抱きで運んでいた。拓馬は互いの状況確認をし、ヤマダは無事だと聞けて、安心した。
シドはヤマダを拓馬の隣に座らせた。彼女の体を支えながら、シド自身も椅子に腰かける。ヤマダはまだ寝ている。彼女のポニーテールの房の中に、黒く丸い物体がこそっと姿を出した。これは拓馬が昔から見える、なんらかの異形だ。ヤマダに憑いているようだが害はなく、拓馬たちは長年放置しつづけた。
「こいつ、ずっと眠りっぱなしだな」
「はい。お疲れなのでしょう」
ヤマダはシドの二の腕にもたれかかる。さながら電車内で居眠りをする乗客のようだ。
(先生、ムリしてるんじゃないのか?)
家族や親友を枕がわりにするのはいい。だが他人に甘える行為を続けさせてよいのか。そう思った拓馬は「いい加減起こしたら?」と提案した。シドは首を横に振る。
「私はこのままでかまいません」
「無事なやつを甘やかさなくたって……」
「危険な思いをしたのですから、充分に休んでいただきたい」
一番の危険人物が言うセリフか、と拓馬は心中で指摘した。この男はひとりの少年を絞め殺す寸前まで苦しめた。刃物を向けてきた相手とはいえ、過剰防衛に相当する。
(その話、いましとくか)
気乗りしないが、教師の常軌を逸した行動はやはり捨ておけない。二度めがないよう、彼のゆがんだ認識にゆさぶりをかけておく。
「先生はどうしてあの不良を……半殺しの目に遭わせたんだ?」
拓馬は受付を見ながら話す。このときばかりは相手と顔をあわせる度胸がなかった。
「ああいう手合いは執念深いのです。あのまま帰しては貴方たちに仕返しをしてきます」
「それで、あんなに痛めつけたと?」
「はい。報復の意欲をそぐようにしました」
「もし死なせたらどうする?」
「さきほども言いましたが、手加減は心得ています」
確固たる自信を持った返答だ。その自信にふさわしく、シドの武芸の腕前は拓馬を数段しのいでいる。未熟な拓馬が、実力者にけちをつけることはできなかった。
「私は貴方たちに傷ついてほしくありません。それをわかっていただきたい」
その言葉に嘘偽りがないと、拓馬は感じる。
(俺たちの安全を考えて、か……)
良心から出た言動ならばなにをしても良いわけはないが、拓馬は反論の意思がついえた。
しばしの沈黙が続く。拓馬は重い空気のまま親を待つことに耐えられず、雑談をする。
「先生は警備員だったんだってな」
「はい、そうです」
「警備の仕事っつったら、俺がパッと思いつくのはデパートとかマンションの見張り番だ。オッサンか爺ちゃんがよくやってるやつな」
「ええ、中高年の守衛さんは見かけますね」
「でも、先生がしてた仕事はもっと危険なやつじゃないか?」
そう言った直後、拓馬は自分がまた重たい話題をもちかけたことに気付いた。だが後戻りはできない。この機会に質問をしておく。
「人が死なない範囲の手加減を知ってるっていうの、普通の警備員には無い技術だよ」
人がギリギリ生きていられる責苦を熟知するということは、逆説的に人が死ぬ境界線を知っていることにもなる。そんなことを知れる職業には、本当に人が死ぬところに立ち会う仕事内容がふくまれるのだろう。人死にが出る、戦闘技術を要する職種とは──
(軍人とか……殺し屋?)
平和な世界を生きる拓馬には現実味のない職業だ。しかも仮説の二つめに出てきた職業内容は犯罪である。そのような汚れた前職嫌疑をかけてはシドに失礼だ。拓馬はもうすこしマシな職種や話題を考える。
「……エスピーって言ったっけ。偉い人を守る仕事な。先生はそういうのやれるくらい腕が立ちそうだ」
今日のシドの戦いぶりを見て、教師には過ぎた戦闘能力を持つことが顕在化した。今度はそういう流れにもっていく。
「転職するにしても、武道家や警察官でもやっていけそうだ。なんで教師になろうとしたのかわかんねえよ」
シドは返答しない。拓馬は無礼な質問をしたかと不安になる。
「あ、言っとくけど、先生が教師に向かないってわけじゃないからな」
「そうなのですか? 貴方は私に格闘技術を活かす職を勧めたように聞こえましたが」
「そうじゃない。先生は知らないだろうけど、去年、教師になったばっかりのヤス先生と比べりゃ全然ちがうよ」
若手の社会教師は新任当初、見るも無残な授業を行なっていた。緊張のしすぎで声がどもったり、授業の時間配分がうまくいかずに予定した試験の範囲をせばめたりした。これがもし受験勉強にはげむ上級生の受け持ちをしていたなら、大ヒンシュクを買う失敗だ。それでも当人の一生懸命ぶりはみなが認めるところであり、人柄でどうにか今年度の勤務を継続できたような人物である。そういった失態を、シドは一度もやらかしていない。
「ヤス先生は、あれで愛嬌があっていいんだけどさ。シド先生は安心して見ていられる。一学期だけで終わるのはもったいない、と思うくらいだよ」
拓馬はシドと対比する若手教師をおとしめすぎない程度に、シドの指導力を称賛した。その言葉は拓馬の正直な感想だ。急ごしらえの美辞麗句では決してない。
「だからさ、俺は純粋に、先生が教師を目指したわけが気になるんだ」
こういった質問はヤマダが口にしそうなものだ、と拓馬は我ながら思った。拓馬がこれほど他人に関心を示すことはあまりなかった。武芸家のはしくれとして、やはり強者には心惹かれるものがあるのかもしれない。
「たしか先生は今年で二十七歳になると言ったな」
その個人情報は彼の初授業時、シドへの質疑応答のときに彼が答えたことだ。
「その武術はたぶん、教師を目指すよりまえに、身に着いてたもんだろ?」
「それは……そうですね」
「それも、ほんの数年鍛えてとどく域じゃない。幼いときから仕込まれたんだろ?」
拓馬は幼少時から父の希望に沿い、さまざまな武芸に師事した。その師匠たちは達人級の者もいれば素人に毛が生えた程度のうさんくさい者もいたが、拓馬はそれなりに強者を知っているつもりだ。拓馬が知る強者とは、幼少時から武術に慣れ親しんだ者ばかり。
「それだけ強くなるのは大変だったはずだ。で、教師になるときはまた勉強で大変な思いをするじゃないか。そんなことしなくても先生は生きていけるだろうに、なんでまるで正反対な世界に入ったんだ?」
シドは口元を手で覆い、黙考した。拓馬は疑問の補足が出尽くしたので、沈黙が続く。
「……ネギシさんの言う通りです」
ぽつぽつと、独り言のようにシドがしゃべりはじめた。
「私は物心がついたころ、あらゆる武術を学びました。不出来なもので、どれも半端な修練のまま終えます。学ぶのをやめたあと……私にとって争い事は身近な存在になります」
拓馬がはじめて聞いた過去だ。シドは口にあてた手をおろす。
「それが嫌になったのです。これが、私が戦闘にかかわる職業を避ける理由です」
「戦うことが嫌いになったってことか……」
「次の質問は『なぜ就任の条件が厳しい教職をめざしたのか』でしょうか」
「まあそうだけど……でもそれはいいや」
「なぜです?」
「先生は教師に向いてると思うからさ。戦いのがイヤで、ほかの仕事をするとなったら、ほっといても教師になってそうな気がする」
シドは拓馬の言い分に釈然としないようだ。しかし拓馬は彼が腑に落ちる言い方が思いつけない。もっと伝わりやすい言葉を、と考えていると、突然わしわしと頭をなでられる。
「拓馬もケガしちまったのか?」
拓馬はびっくりしたが、その聞きなれた声に安心感をおぼえた。
「男はそれぐらい、わんぱくやってるのがちょうどいいぜ」
ふりむけばヤマダと目鼻立ちが似た、大柄な中年が立っている。目じりがつりあがるせいで性格のキツそうな印象を受ける反面、人懐っこい性格をしていた。彼がヤマダの父だ。シドはこの中年が教え子の親だと察し、頭を深く下げた。
(父さんを呼ばなくてもよかったかな……)
病院へ向かう道中、ヤマダが「保険証を持ってきてもらおう」と言いだし、それぞれの親に連絡をした。拓馬はなりゆきで父に連絡を取ったが、いらぬ心配をかけたという後悔が湧きあがる。また、ほかにも気がかりなことがあった。ヤマダが自身の携帯電話を使用したあと、ずっと眠りこけた。あれは睡眠ではなく、意識を失っていたのではないか。
(どこで聞いたかな……車にぶつかられた人が、見た目の傷はなかったのに急に死んだ話)
その話の人物は、事故直後に病院で治療を受ければ生きのびる可能性があったという。「これぐらい平気」と楽観したがゆえの悲劇だとか。だがそう楽観するのも仕方がないらしい。人間は突然の事故に遭遇すると脳が興奮状態になり、痛覚がにぶることもある。そのときは痛みを感じなくとも、体内では着実に異変が進行し、取り返しのつかない事態におちいる──ヤマダもその危険はあるのだ。
拓馬が冷静に状況整理をしていると廊下の角からシドがあらわれた。彼はまた女子を横抱きで運んでいた。拓馬は互いの状況確認をし、ヤマダは無事だと聞けて、安心した。
シドはヤマダを拓馬の隣に座らせた。彼女の体を支えながら、シド自身も椅子に腰かける。ヤマダはまだ寝ている。彼女のポニーテールの房の中に、黒く丸い物体がこそっと姿を出した。これは拓馬が昔から見える、なんらかの異形だ。ヤマダに憑いているようだが害はなく、拓馬たちは長年放置しつづけた。
「こいつ、ずっと眠りっぱなしだな」
「はい。お疲れなのでしょう」
ヤマダはシドの二の腕にもたれかかる。さながら電車内で居眠りをする乗客のようだ。
(先生、ムリしてるんじゃないのか?)
家族や親友を枕がわりにするのはいい。だが他人に甘える行為を続けさせてよいのか。そう思った拓馬は「いい加減起こしたら?」と提案した。シドは首を横に振る。
「私はこのままでかまいません」
「無事なやつを甘やかさなくたって……」
「危険な思いをしたのですから、充分に休んでいただきたい」
一番の危険人物が言うセリフか、と拓馬は心中で指摘した。この男はひとりの少年を絞め殺す寸前まで苦しめた。刃物を向けてきた相手とはいえ、過剰防衛に相当する。
(その話、いましとくか)
気乗りしないが、教師の常軌を逸した行動はやはり捨ておけない。二度めがないよう、彼のゆがんだ認識にゆさぶりをかけておく。
「先生はどうしてあの不良を……半殺しの目に遭わせたんだ?」
拓馬は受付を見ながら話す。このときばかりは相手と顔をあわせる度胸がなかった。
「ああいう手合いは執念深いのです。あのまま帰しては貴方たちに仕返しをしてきます」
「それで、あんなに痛めつけたと?」
「はい。報復の意欲をそぐようにしました」
「もし死なせたらどうする?」
「さきほども言いましたが、手加減は心得ています」
確固たる自信を持った返答だ。その自信にふさわしく、シドの武芸の腕前は拓馬を数段しのいでいる。未熟な拓馬が、実力者にけちをつけることはできなかった。
「私は貴方たちに傷ついてほしくありません。それをわかっていただきたい」
その言葉に嘘偽りがないと、拓馬は感じる。
(俺たちの安全を考えて、か……)
良心から出た言動ならばなにをしても良いわけはないが、拓馬は反論の意思がついえた。
しばしの沈黙が続く。拓馬は重い空気のまま親を待つことに耐えられず、雑談をする。
「先生は警備員だったんだってな」
「はい、そうです」
「警備の仕事っつったら、俺がパッと思いつくのはデパートとかマンションの見張り番だ。オッサンか爺ちゃんがよくやってるやつな」
「ええ、中高年の守衛さんは見かけますね」
「でも、先生がしてた仕事はもっと危険なやつじゃないか?」
そう言った直後、拓馬は自分がまた重たい話題をもちかけたことに気付いた。だが後戻りはできない。この機会に質問をしておく。
「人が死なない範囲の手加減を知ってるっていうの、普通の警備員には無い技術だよ」
人がギリギリ生きていられる責苦を熟知するということは、逆説的に人が死ぬ境界線を知っていることにもなる。そんなことを知れる職業には、本当に人が死ぬところに立ち会う仕事内容がふくまれるのだろう。人死にが出る、戦闘技術を要する職種とは──
(軍人とか……殺し屋?)
平和な世界を生きる拓馬には現実味のない職業だ。しかも仮説の二つめに出てきた職業内容は犯罪である。そのような汚れた前職嫌疑をかけてはシドに失礼だ。拓馬はもうすこしマシな職種や話題を考える。
「……エスピーって言ったっけ。偉い人を守る仕事な。先生はそういうのやれるくらい腕が立ちそうだ」
今日のシドの戦いぶりを見て、教師には過ぎた戦闘能力を持つことが顕在化した。今度はそういう流れにもっていく。
「転職するにしても、武道家や警察官でもやっていけそうだ。なんで教師になろうとしたのかわかんねえよ」
シドは返答しない。拓馬は無礼な質問をしたかと不安になる。
「あ、言っとくけど、先生が教師に向かないってわけじゃないからな」
「そうなのですか? 貴方は私に格闘技術を活かす職を勧めたように聞こえましたが」
「そうじゃない。先生は知らないだろうけど、去年、教師になったばっかりのヤス先生と比べりゃ全然ちがうよ」
若手の社会教師は新任当初、見るも無残な授業を行なっていた。緊張のしすぎで声がどもったり、授業の時間配分がうまくいかずに予定した試験の範囲をせばめたりした。これがもし受験勉強にはげむ上級生の受け持ちをしていたなら、大ヒンシュクを買う失敗だ。それでも当人の一生懸命ぶりはみなが認めるところであり、人柄でどうにか今年度の勤務を継続できたような人物である。そういった失態を、シドは一度もやらかしていない。
「ヤス先生は、あれで愛嬌があっていいんだけどさ。シド先生は安心して見ていられる。一学期だけで終わるのはもったいない、と思うくらいだよ」
拓馬はシドと対比する若手教師をおとしめすぎない程度に、シドの指導力を称賛した。その言葉は拓馬の正直な感想だ。急ごしらえの美辞麗句では決してない。
「だからさ、俺は純粋に、先生が教師を目指したわけが気になるんだ」
こういった質問はヤマダが口にしそうなものだ、と拓馬は我ながら思った。拓馬がこれほど他人に関心を示すことはあまりなかった。武芸家のはしくれとして、やはり強者には心惹かれるものがあるのかもしれない。
「たしか先生は今年で二十七歳になると言ったな」
その個人情報は彼の初授業時、シドへの質疑応答のときに彼が答えたことだ。
「その武術はたぶん、教師を目指すよりまえに、身に着いてたもんだろ?」
「それは……そうですね」
「それも、ほんの数年鍛えてとどく域じゃない。幼いときから仕込まれたんだろ?」
拓馬は幼少時から父の希望に沿い、さまざまな武芸に師事した。その師匠たちは達人級の者もいれば素人に毛が生えた程度のうさんくさい者もいたが、拓馬はそれなりに強者を知っているつもりだ。拓馬が知る強者とは、幼少時から武術に慣れ親しんだ者ばかり。
「それだけ強くなるのは大変だったはずだ。で、教師になるときはまた勉強で大変な思いをするじゃないか。そんなことしなくても先生は生きていけるだろうに、なんでまるで正反対な世界に入ったんだ?」
シドは口元を手で覆い、黙考した。拓馬は疑問の補足が出尽くしたので、沈黙が続く。
「……ネギシさんの言う通りです」
ぽつぽつと、独り言のようにシドがしゃべりはじめた。
「私は物心がついたころ、あらゆる武術を学びました。不出来なもので、どれも半端な修練のまま終えます。学ぶのをやめたあと……私にとって争い事は身近な存在になります」
拓馬がはじめて聞いた過去だ。シドは口にあてた手をおろす。
「それが嫌になったのです。これが、私が戦闘にかかわる職業を避ける理由です」
「戦うことが嫌いになったってことか……」
「次の質問は『なぜ就任の条件が厳しい教職をめざしたのか』でしょうか」
「まあそうだけど……でもそれはいいや」
「なぜです?」
「先生は教師に向いてると思うからさ。戦いのがイヤで、ほかの仕事をするとなったら、ほっといても教師になってそうな気がする」
シドは拓馬の言い分に釈然としないようだ。しかし拓馬は彼が腑に落ちる言い方が思いつけない。もっと伝わりやすい言葉を、と考えていると、突然わしわしと頭をなでられる。
「拓馬もケガしちまったのか?」
拓馬はびっくりしたが、その聞きなれた声に安心感をおぼえた。
「男はそれぐらい、わんぱくやってるのがちょうどいいぜ」
ふりむけばヤマダと目鼻立ちが似た、大柄な中年が立っている。目じりがつりあがるせいで性格のキツそうな印象を受ける反面、人懐っこい性格をしていた。彼がヤマダの父だ。シドはこの中年が教え子の親だと察し、頭を深く下げた。
2018年03月10日
拓馬篇−4章2 ★
ヤマダを迎えにきた保護者は頭にねずみ色の手ぬぐいを巻いていた。それは彼が飲食店の勤務中によく着用する頭巾だ。
「ノブさん、仕事を抜けてきたのか?」
「ん? ああ、まだ客が入る時間じゃねえ。抜けるってもんでもない」
ノブは快活な笑みを見せた。彼の視線は拓馬からスライドして、銀髪の教師でとまる。
「その髪……あんたがシド先生か。娘から話は聞いてる」
「はい。先日はジャージを貸していただきまして、ありがとうございます」
両者の衣服の貸し借りは先日の体育祭のときに行なわれた。シドは運動着を持たない。そのため彼は普段のスーツ姿で体育祭の予行演習に参加した。それを見たヤマダはシドが不便だろうと思い、自身の父のジャージを貸した。シドとノブは背丈がほぼ同じだったので、そのジャージはシドの体にも合った。
「礼はいいさ。あんなもんじゃ、あんたにかけてる苦労がチャラになりゃしない」
この言葉は、現在進行形で娘が迷惑をかけることを指すように拓馬は聞こえた。婉曲的な謝罪にシドは「承知のうえです」と答える。
「そのために私は雇われたのです。オヤマダさんが気に病む必要はありません」
気にしないでとシドは主張するものの、自身が迷惑を被ったことを肯定する言い方だ。あまりノブへのなぐさめになっていない。実際問題、しなくてもいいことをしでかした生徒を、教師がてずから病院へ移送する事態は、本来の業務外である。それを迷惑でないと断ずるのは空虚なウソになる。これがこの教師なりの誠実さなのだと拓馬は思った。
ノブはシドの言う「承知」の意味に見当がつき、「あんたも災難だな」と言う。
「生徒が藪蛇をつつく連中で、大変だろ?」
「いえ、私がのぞんでやっていることです。不満はありません」
「ずいぶんと人ができてるんだな……」
ノブは率直に感心した。その感想自体はいいのだが、彼はずっと娘をほったらかしにしている。拓馬には常識外れな行動に見えた。
(まずはケガした娘を気にしねえかな……)
この反応には一応の理由がある。ノブは電話口で娘の元気な声を聞いていた。だから被害を軽視するのだろう。しかしずっと雑談ばかりもしていられない。拓馬はノブに本来の目的を告げる。
「ノブさん、早いとこ受付で診察代を払ってくれるか? 受付の人がにらんでるぞ」
本当に受付の職員がノブを見ている。ただ注目の原因はノブの騒がしさにある。彼は声も体も大きい。存在感が強烈なのだ。
ノブは「おう、行ってくる」と応じて、今度は受付の職員に話しかけた。新人教師は本日まみえたヤマダの保護者を見つめる。
「あの方が、オヤマダさんのお父さんですね」
「そうだよ。顔はヤマダと似てるけど、体格と中身はジモンだな」
ノブはジモンの実家の飲食店で勤務している。その影響で、客からはノブがジモンの父だとまちがえられることがあった。二人に共通する特徴は、第一に筋力秀でた身体、第二に豪放磊落な性格。そのうえノブは娘と同世代な男子を実の息子のように目をかけるふしがある。それらノブの特徴は、他人がジモンの親だと勘違いするに足るものだ。そして拓馬自身も、付き合いの長いノブには家族にも似た親愛の情をもっている。
疑似親が病院の職員に「あんがとさん!」と礼を述べた。ノブが拓馬たちのもとに舞いもどってくる。彼はここにきてやっと「最近よく寝るんだよなぁ」と娘に関心をそそぐ。
「それでよ先生、娘はなんともないんだろ?」
「はい。ですが念のため、今日明日中は安静にするようご配慮をお願いします」
「わかった。母親から言いきかせりゃ、おとなしくするはずだ」
ノブは娘のまえにしゃがむ。娘の顔に手をのばして、頬を左右に引っ張ったりもどしたりする。まるで子どものいたずらのようだ。
「ノブさんは全然、心配してねえのな」
「なんの、平気に決まってるだろ」
ノブが破顔一笑する。
「おれの子どもの中で一番つえー子だからな!」
ヤマダの父親は底抜けに明るく言った。その明るさが逆に、拓馬の同情心を湧かせる。
(ヤマダの兄弟……か)
拓馬は伝聞によってその存在を知っている。この目で見たことはなかった。
ノブは拓馬との雑談を切り上げると、しゃがんだ状態のまま、くるっと背を向ける。彼はヤマダの両腕を自身の両肩に乗せる。
(おぶっていくんだな)
拓馬は移乗の補助をする。ヤマダの上半身を、ノブの背に預けさせる。ヤマダが後方へ倒れてこないよう、その背中を押さえた。
ノブが娘のひざ裏に手をかけたとき、ヤマダの目が開く。彼女は寝起きにぼーっとしやすいことを拓馬は知っていたが、手短に事情を説明する。
「ノブさんが迎えにきた。一緒に帰れよ」
ノブは娘の了承を得るまえにヤマダを担ぎ上げた。寝ぼけるヤマダはノブの背にもたれかかっている。が、急にノブの両肩に手を置き、ぴんと腕を伸ばす。
「ヤだな、先生がいい」
ヤマダは父親を拒絶する。ごねる娘の態度に、ノブはわかりやすい不満顔をつくる。
「ゼータク言うな、ありがたーくオヤジの背中を借りてけ」
「先生は油くさくないんだもん」
ノブの職務上の臭いか加齢臭かはわからぬ体臭を、ヤマダは嫌っているらしい。臭いに心当たりのあるノブは臭気の存在を否定せず、別の観点で反論する。
「だいたいな、先生みたいな立派な男前とちんちくりんなお前じゃ釣り合わねえってもんだ。身のほどをわきまえろ」
「図体がデカイだけの大飯食らいのくせに」
「体が大きいぶん、たくさん食うのはしゃーねえだろ」
「先生は背が高くても、昼飯をコーヒーですます少食派だぞー」
「そういう人は朝飯と夕飯をたーんと食ってんだよ。なぁ先生?」
親子の罵り合いにシドが巻きこまれた。彼は「え?」とかつてないうろたえを見せる。拓馬は助け舟を出すことにした。
「ここは病院だ。親子喧嘩は外でやってくれ」
拓馬は「帰った帰った」と二、三度手をはらう。ノブは「そりゃそうだな」と拓馬の指示にしたがった。ヤマダを背負ったノブが数歩進み、ふいに立ち止まる。
「そういや、先生に聞いておきたいんだが」
ノブが体の向きを変える。シドは「なんでしょう」と聞き返した。
「先生の知り合いに、先生の体をもっと大きくした感じの、若い男はいるか?」
「……存じあげないですね。その男がどうかしましたか」
「そいつの目や髪の色が……先生と似てると思ったんだ。変なことを言ってすまん」
「いえ、お気になさることではありません」
「あと、もうひとつ言いわすれてた。娘たちを守ってくれてありがとな」
ノブは大きく口角をあげてみせたのち、出口へ向かう。彼らが病院を出ていく。あたりは嵐が過ぎ去ったかのごとく静かになった。拓馬たちは次に、拓馬の保護者の来訪を待つ。
拓馬が電話をかけた相手は父親だ。父にとって今日は休日出勤をした代わりの休み。外出の予定はなく、一日家にいるはずだった。それなのに出勤していたノブより出遅れるとは、と父親の鈍くささをうらめしく感じた。
拓馬がひまつぶしに無言の教師を見てみると、彼の黄色いサングラスがないことをあらためて気づいた。取り立てて聞くべきことではないと思いつつも、そこを話の起点とする。
「先生、サングラスはどうしたんだ?」
「慌てていたもので、学校に置いてきました」
「へえ、学校で外すことがあるんだな」
「色ペンを使うときは外しています。使いたい色ペンとちがう色を使うおそれがあるので」
「めんどくさいことやってんな。最初からサングラスなしでもいいんじゃないか?」
ヤマダが収集した話によると、シドのサングラスはコンプレックスを隠すためのものらしい。青い瞳が周囲の奇異の目にさらされるのを、嫌がってのことだとか。拓馬にはそこまで気をつかわなくてよい事柄だと思える。
「先生の目が青いからって、からかったり怖がったりする生徒はいないと思うぞ」
「実はその理由は建前です」
「え、ウソなのか?」
「まったくの嘘でもないのですが、私にこだわりがあるのです」
どんなこだわりだろう、と拓馬は思ったが深追いをやめた。
(俺が聞いていい話じゃなさそうだな)
簡単に他言できることなら建前なぞ用いないはずだ。詮索すると無礼にあたりそうで、拓馬はだまった。
拓馬がなにも言わないでいると、やはりシドも説明を加えなかった。みずから教える気はないらしい。
会話のネタが尽きた拓馬は出入り口の自動扉を見張る。何人かそぞろに出たり入ったりする。そんな中、やっと待ち人らしき中年を発見する。中年は周りをきょろきょろ見ながら歩き、拓馬と視線が合うとまっすぐに近寄ってきた。ノブを見たあとでは貧相な体型に思えるが、十人並みな容姿だ。これが拓馬の父である。
「ごめん、待たせたね」
父は拓馬の額にある、ガーゼの上にそっと手のひらを置く。
「傷は……この一か所ですんだのか」
父の手からじんわりと温かい感触が広がった。拓馬が負傷したとき、父はよく文字通りの手当てをする。原理は不明だが、父がこうやると傷がはやく治るのだ。浅い傷ならば一晩で完治できるほどである。霊視だけの拓馬とはちがい、父はいろいろと器用な能力を持つ人だ。
次に父はシドに深々と頭を下げる。
「先生、お忙しいのに息子を病院に連れてきてくださって、ありがとうございます」
これが拓馬にとっての常識的な言動だ。
「もう平気ですから、どうかお仕事にもどってください」
お騒がせしてすいませんでした、と父がもう一度シドに頭を下げる。一連の動作中、なぜかシドは返事も身じろぎもしない。茫然自失でいる。傍目にはだれも奇矯なことなどしていないのだが。
「先生? 固まっちゃって、どうしたんだよ」
「え……いえ、すいません」
シドは頭をかるく振る。どうにも反応が変だ。
「今日の私は調子が悪いようです。早々に失礼します」
シドは席を立ち、父に深々と一礼する。そしてこちらの反応を待たずに去った。父はきょとんとした顔をする。
「先生はお疲れなのかね?」
「うーん、いろいろあったし……」
思えばシドがなんでもないことで驚愕するシーンはまえにもあった。ヤマダが彼にあだ名をつけたとき、ただのニックネームだというのに、彼はいまと同じように当惑した。拓馬にはなんでもないことでも、シドの感受性では真新しいものを感じているのだろうか。
「ま、いいや。早いとこ帰ろう」
拓馬は見飽きた広間に別れを告げるべく、父に清算を急かした。財布を広げる父の後ろ姿を見ると、ズボンの尻ポケットからナイロンの袋がはみ出ている。その袋はよく犬の散歩のときに持ち歩くものだ。
(トーマの散歩に行ってたのか)
拓馬が父に連絡をしたとき、父は外出中だった。そこから家へ引き返すロスがあり、病院到着が遅れたのだと拓馬は納得がいった。
「ノブさん、仕事を抜けてきたのか?」
「ん? ああ、まだ客が入る時間じゃねえ。抜けるってもんでもない」
ノブは快活な笑みを見せた。彼の視線は拓馬からスライドして、銀髪の教師でとまる。
「その髪……あんたがシド先生か。娘から話は聞いてる」
「はい。先日はジャージを貸していただきまして、ありがとうございます」
両者の衣服の貸し借りは先日の体育祭のときに行なわれた。シドは運動着を持たない。そのため彼は普段のスーツ姿で体育祭の予行演習に参加した。それを見たヤマダはシドが不便だろうと思い、自身の父のジャージを貸した。シドとノブは背丈がほぼ同じだったので、そのジャージはシドの体にも合った。
「礼はいいさ。あんなもんじゃ、あんたにかけてる苦労がチャラになりゃしない」
この言葉は、現在進行形で娘が迷惑をかけることを指すように拓馬は聞こえた。婉曲的な謝罪にシドは「承知のうえです」と答える。
「そのために私は雇われたのです。オヤマダさんが気に病む必要はありません」
気にしないでとシドは主張するものの、自身が迷惑を被ったことを肯定する言い方だ。あまりノブへのなぐさめになっていない。実際問題、しなくてもいいことをしでかした生徒を、教師がてずから病院へ移送する事態は、本来の業務外である。それを迷惑でないと断ずるのは空虚なウソになる。これがこの教師なりの誠実さなのだと拓馬は思った。
ノブはシドの言う「承知」の意味に見当がつき、「あんたも災難だな」と言う。
「生徒が藪蛇をつつく連中で、大変だろ?」
「いえ、私がのぞんでやっていることです。不満はありません」
「ずいぶんと人ができてるんだな……」
ノブは率直に感心した。その感想自体はいいのだが、彼はずっと娘をほったらかしにしている。拓馬には常識外れな行動に見えた。
(まずはケガした娘を気にしねえかな……)
この反応には一応の理由がある。ノブは電話口で娘の元気な声を聞いていた。だから被害を軽視するのだろう。しかしずっと雑談ばかりもしていられない。拓馬はノブに本来の目的を告げる。
「ノブさん、早いとこ受付で診察代を払ってくれるか? 受付の人がにらんでるぞ」
本当に受付の職員がノブを見ている。ただ注目の原因はノブの騒がしさにある。彼は声も体も大きい。存在感が強烈なのだ。
ノブは「おう、行ってくる」と応じて、今度は受付の職員に話しかけた。新人教師は本日まみえたヤマダの保護者を見つめる。
「あの方が、オヤマダさんのお父さんですね」
「そうだよ。顔はヤマダと似てるけど、体格と中身はジモンだな」
ノブはジモンの実家の飲食店で勤務している。その影響で、客からはノブがジモンの父だとまちがえられることがあった。二人に共通する特徴は、第一に筋力秀でた身体、第二に豪放磊落な性格。そのうえノブは娘と同世代な男子を実の息子のように目をかけるふしがある。それらノブの特徴は、他人がジモンの親だと勘違いするに足るものだ。そして拓馬自身も、付き合いの長いノブには家族にも似た親愛の情をもっている。
疑似親が病院の職員に「あんがとさん!」と礼を述べた。ノブが拓馬たちのもとに舞いもどってくる。彼はここにきてやっと「最近よく寝るんだよなぁ」と娘に関心をそそぐ。
「それでよ先生、娘はなんともないんだろ?」
「はい。ですが念のため、今日明日中は安静にするようご配慮をお願いします」
「わかった。母親から言いきかせりゃ、おとなしくするはずだ」
ノブは娘のまえにしゃがむ。娘の顔に手をのばして、頬を左右に引っ張ったりもどしたりする。まるで子どものいたずらのようだ。
「ノブさんは全然、心配してねえのな」
「なんの、平気に決まってるだろ」
ノブが破顔一笑する。
「おれの子どもの中で一番つえー子だからな!」
ヤマダの父親は底抜けに明るく言った。その明るさが逆に、拓馬の同情心を湧かせる。
(ヤマダの兄弟……か)
拓馬は伝聞によってその存在を知っている。この目で見たことはなかった。
ノブは拓馬との雑談を切り上げると、しゃがんだ状態のまま、くるっと背を向ける。彼はヤマダの両腕を自身の両肩に乗せる。
(おぶっていくんだな)
拓馬は移乗の補助をする。ヤマダの上半身を、ノブの背に預けさせる。ヤマダが後方へ倒れてこないよう、その背中を押さえた。
ノブが娘のひざ裏に手をかけたとき、ヤマダの目が開く。彼女は寝起きにぼーっとしやすいことを拓馬は知っていたが、手短に事情を説明する。
「ノブさんが迎えにきた。一緒に帰れよ」
ノブは娘の了承を得るまえにヤマダを担ぎ上げた。寝ぼけるヤマダはノブの背にもたれかかっている。が、急にノブの両肩に手を置き、ぴんと腕を伸ばす。
「ヤだな、先生がいい」
ヤマダは父親を拒絶する。ごねる娘の態度に、ノブはわかりやすい不満顔をつくる。
「ゼータク言うな、ありがたーくオヤジの背中を借りてけ」
「先生は油くさくないんだもん」
ノブの職務上の臭いか加齢臭かはわからぬ体臭を、ヤマダは嫌っているらしい。臭いに心当たりのあるノブは臭気の存在を否定せず、別の観点で反論する。
「だいたいな、先生みたいな立派な男前とちんちくりんなお前じゃ釣り合わねえってもんだ。身のほどをわきまえろ」
「図体がデカイだけの大飯食らいのくせに」
「体が大きいぶん、たくさん食うのはしゃーねえだろ」
「先生は背が高くても、昼飯をコーヒーですます少食派だぞー」
「そういう人は朝飯と夕飯をたーんと食ってんだよ。なぁ先生?」
親子の罵り合いにシドが巻きこまれた。彼は「え?」とかつてないうろたえを見せる。拓馬は助け舟を出すことにした。
「ここは病院だ。親子喧嘩は外でやってくれ」
拓馬は「帰った帰った」と二、三度手をはらう。ノブは「そりゃそうだな」と拓馬の指示にしたがった。ヤマダを背負ったノブが数歩進み、ふいに立ち止まる。
「そういや、先生に聞いておきたいんだが」
ノブが体の向きを変える。シドは「なんでしょう」と聞き返した。
「先生の知り合いに、先生の体をもっと大きくした感じの、若い男はいるか?」
「……存じあげないですね。その男がどうかしましたか」
「そいつの目や髪の色が……先生と似てると思ったんだ。変なことを言ってすまん」
「いえ、お気になさることではありません」
「あと、もうひとつ言いわすれてた。娘たちを守ってくれてありがとな」
ノブは大きく口角をあげてみせたのち、出口へ向かう。彼らが病院を出ていく。あたりは嵐が過ぎ去ったかのごとく静かになった。拓馬たちは次に、拓馬の保護者の来訪を待つ。
拓馬が電話をかけた相手は父親だ。父にとって今日は休日出勤をした代わりの休み。外出の予定はなく、一日家にいるはずだった。それなのに出勤していたノブより出遅れるとは、と父親の鈍くささをうらめしく感じた。
拓馬がひまつぶしに無言の教師を見てみると、彼の黄色いサングラスがないことをあらためて気づいた。取り立てて聞くべきことではないと思いつつも、そこを話の起点とする。
「先生、サングラスはどうしたんだ?」
「慌てていたもので、学校に置いてきました」
「へえ、学校で外すことがあるんだな」
「色ペンを使うときは外しています。使いたい色ペンとちがう色を使うおそれがあるので」
「めんどくさいことやってんな。最初からサングラスなしでもいいんじゃないか?」
ヤマダが収集した話によると、シドのサングラスはコンプレックスを隠すためのものらしい。青い瞳が周囲の奇異の目にさらされるのを、嫌がってのことだとか。拓馬にはそこまで気をつかわなくてよい事柄だと思える。
「先生の目が青いからって、からかったり怖がったりする生徒はいないと思うぞ」
「実はその理由は建前です」
「え、ウソなのか?」
「まったくの嘘でもないのですが、私にこだわりがあるのです」
どんなこだわりだろう、と拓馬は思ったが深追いをやめた。
(俺が聞いていい話じゃなさそうだな)
簡単に他言できることなら建前なぞ用いないはずだ。詮索すると無礼にあたりそうで、拓馬はだまった。
拓馬がなにも言わないでいると、やはりシドも説明を加えなかった。みずから教える気はないらしい。
会話のネタが尽きた拓馬は出入り口の自動扉を見張る。何人かそぞろに出たり入ったりする。そんな中、やっと待ち人らしき中年を発見する。中年は周りをきょろきょろ見ながら歩き、拓馬と視線が合うとまっすぐに近寄ってきた。ノブを見たあとでは貧相な体型に思えるが、十人並みな容姿だ。これが拓馬の父である。
「ごめん、待たせたね」
父は拓馬の額にある、ガーゼの上にそっと手のひらを置く。
「傷は……この一か所ですんだのか」
父の手からじんわりと温かい感触が広がった。拓馬が負傷したとき、父はよく文字通りの手当てをする。原理は不明だが、父がこうやると傷がはやく治るのだ。浅い傷ならば一晩で完治できるほどである。霊視だけの拓馬とはちがい、父はいろいろと器用な能力を持つ人だ。
次に父はシドに深々と頭を下げる。
「先生、お忙しいのに息子を病院に連れてきてくださって、ありがとうございます」
これが拓馬にとっての常識的な言動だ。
「もう平気ですから、どうかお仕事にもどってください」
お騒がせしてすいませんでした、と父がもう一度シドに頭を下げる。一連の動作中、なぜかシドは返事も身じろぎもしない。茫然自失でいる。傍目にはだれも奇矯なことなどしていないのだが。
「先生? 固まっちゃって、どうしたんだよ」
「え……いえ、すいません」
シドは頭をかるく振る。どうにも反応が変だ。
「今日の私は調子が悪いようです。早々に失礼します」
シドは席を立ち、父に深々と一礼する。そしてこちらの反応を待たずに去った。父はきょとんとした顔をする。
「先生はお疲れなのかね?」
「うーん、いろいろあったし……」
思えばシドがなんでもないことで驚愕するシーンはまえにもあった。ヤマダが彼にあだ名をつけたとき、ただのニックネームだというのに、彼はいまと同じように当惑した。拓馬にはなんでもないことでも、シドの感受性では真新しいものを感じているのだろうか。
「ま、いいや。早いとこ帰ろう」
拓馬は見飽きた広間に別れを告げるべく、父に清算を急かした。財布を広げる父の後ろ姿を見ると、ズボンの尻ポケットからナイロンの袋がはみ出ている。その袋はよく犬の散歩のときに持ち歩くものだ。
(トーマの散歩に行ってたのか)
拓馬が父に連絡をしたとき、父は外出中だった。そこから家へ引き返すロスがあり、病院到着が遅れたのだと拓馬は納得がいった。
2018年03月15日
拓馬篇−4章3 ★
病院帰りのさなか、拓馬の父は息子の負傷の経緯をたずねてきた。拓馬は電話口では話せなかった仔細を、包み隠さず話した。すると父は息子が友人のために傷を負ったことを理解し、かえってその心意気を奨励した。ただ一点、苦言を呈する。
「小山田さんとこの娘さんには、危険なことをさせてほしくないな。あの子は、あの家族の心の支えだから──」
ヤマダを精神的支柱とする人物──拓馬はヤマダの母親を一番に想像した。拓馬はヤマダの母にもノブ同様の疑似親的な情愛を感じている。当然、彼女を悲嘆に暮れさせる真似はのぞんでいない。それでも父の願いを「わかった」とは即答できなかった。もとよりヤマダは自分の意思であの状況下におちいった。拓馬にできることとは、危険に首をつっこむ彼女と運命を共にすることくらいだ。それゆえ拓馬は「努力はする」と返答した。
拓馬たちが他校の少年らと再戦した翌日、拓馬の傷口はふさがった。早く治癒できた理由は自身の回復力と、父の手当てのおかげだ。拓馬はガーゼを外し、なに食わぬ顔で登校した。教室に入ると、ジモンがびっくりする。
「拓馬! ケガはどうしたんじゃ、ちゃんと看てもらったんか?」
「病院に行って、ガーゼを貼ってもらったよ」
「もう外してもええんかの」
「だって、傷はないだろ」
拓馬は昨日出血したこめかみを指差した。ジモンは目を丸くしながら拓馬の額を見る。
「医者いらずの体じゃな!」
ジモンは感嘆と同時に拓馬の背を叩いた。その力の入り方は強い。拓馬は痛みにむせる。
「うぐっ……もうちょっと加減を……」
「いやースマン! うっかり力んでしもうた」
ジモンが豪快に笑う。楽天的な性格とはいえ、傷を負った友人の心配をしていたらしい。
「ほんで、拓馬はヤマダと一緒に病院に行ったんじゃろ? あいつの調子は聞いとるか」
「ああ、元気にしてたよ。病院の帰りはノブさんにおんぶされていった」
「おとなしくノブさんにおぶさるようじゃ、元気とは言えんの」
「あいかわらず悪態をついてたから平気だよ」
ジモンもヤマダが父親と仲がわるいのを知っている。顔をあわせればつい憎まれ口を叩くのが小山田父娘の在り方だ。ノブと波長がマッチするジモンは「あんなにいい人なのにな〜」とヤマダの嫌悪を理解できないでいた。
「ジモンには合っててもヤマダには合わねえ人なんだよ」
拓馬はそれらしいことを言っておいた。ジモンと話がすんだ拓馬は自席に向かう。付近の席にいる、名木野という内気な女子と簡単な挨拶を交わす。彼女はヤマダと親しい女子で、拓馬とも多少の親交がある。拓馬は彼女との話はこれで終了したと思ったが、名木野が「あの」と続行する。その表情は暗い。
「根岸くん、ケガしたんだって?」
「ああ、ちょっとだけな」
「ごめんなさい、痛い思いをさせて……」
「なんで名木野が謝るんだ?」
「私、仙谷くんの計画を知ってたのに……先生に言おうかどうしようか、ぐずぐずして。それで先生に知らせるのがおそくなったの」
拓馬はこの事実を想定していなかった。
(先生が独断で、助けにきたのかと思ってたが……)
本摩が「体育祭がおわるまでは待て」と言っていたのだから、その直後に仙谷らが活動を起こすことは容易に予想がつく。その推測のもと、あの教師がタイミングよくあらわれたのだと拓馬は想像していた。
「まえに校長の呼出しを受けたんでしょう? 先生に知らせるとまた叱られそうで……」
名木野の迷いとは、拓馬らの不利益が出ると考えたために生じた。彼女らしい気遣いだ。
「先生に言ってくれたおかげで、軽いケガだけですんだよ。ありがとうな」
名木野の心が幾分か晴れ、表情が明るくなる。名木野は「ありがとう」とつぶやいた。
拓馬は授業の準備をした。その最中、ヤマダが入室する。彼女の手に平たい小箱があった。なにを持ってきたのだろう、と好奇がつのったが、そこへ三郎が話しかけてくる。
「拓馬、医者にかかってきたんだろう?」
「そうだよ。もう傷はもう治ったから──」
拓馬は同じことを何度も言うことに気怠さをおぼえた。だがその感情は瞬時に吹き飛ぶ。
拓馬に一枚の紙幣がつきつけられた。それはこの国で二番目に価値の高いお札。生徒が携行する昼食代金や交通費にしては高すぎる。
「なんだよ、この金?」
「見舞い金だ」
「なんでまた……」
「オレが言いだしたことだ。なのに診察料も出さんのでは義にそむく!」
「べつにいいよ、友だちだし……」
「『親しき仲にも礼儀あり』だ!」
三郎はお札を拓馬の胸へと押しつけた。拓馬が返却しようにも、三郎が離れていってしまった。三郎はヤマダにも同様の見舞い金を支払っている。
(勝手についてきたやつにもか)
拓馬は三郎から同行をたのまれていた。そのため拓馬がこうむった損害を三郎が保障することは理にかなっている。しかしヤマダは三郎による参加依頼を受けていない。自由意思においての負傷は自己責任になりそうなだが、三郎は動機の区別をしていないらしい。
(それはいいけど、どっから出た金なんだ)
三郎はヤマダにも拓馬と同額の紙幣をあげている。合計すると、学生のポケットマネーでポンと出せる額ではない。部活と勉強と生徒会で忙しい彼が、学生バイトで稼いでいるとは思えないのだが。
(親からもらったこづかいだと、気の毒だな)
そういった遠慮をヤマダも感じている、と拓馬は思いながら二人の動向を見守った。ところがヤマダはあっさりお金を受け取る。そしてそそくさと退室した。どうも彼女は気持ちが明後日の方向へいってしまって、三郎が眼中に入らないようだった。
義理を果たした三郎は得意満面に席へもどる。これで拓馬たちへの負い目を解消できたらしい。
(もらっておくのが、礼儀か)
かたくなに拒否すればきっと三郎が不愉快になる。それは彼に対して失礼だ。拓馬はもらったお金をいったん預かっておき、あとで三郎のために使おうと思った。ありきたりな使いどころは誕生日プレゼントだろうか。
(そういや、いつの生まれだか知らないな)
拓馬は付き合いの長いヤマダやジモンの誕生日を知っているものの、三郎とは高校で知りあった仲なので、案外知らないことがあるのだと気づく。機会をみて三郎のプロフィールを知っていそうな人に聞こう、と見当をつけた。
なんとなく、三郎の誕生日を知っていそうな生徒の様子を見る。いま教室にいるのは千智だ。彼女は名木野相手に、昨日起こったことをしゃべっている。シドが起こした暴挙への言及もあり、あまり他言してよい内容ではなかった。話をやめさせようか、と拓馬はあせったが、別段シドから口止めされていないことだ。拓馬の判断で「しゃべるな」と千智に言っても彼女が不満を感じるだけかもしれず、拓馬は友人の口外を止めなかった。
「小山田さんとこの娘さんには、危険なことをさせてほしくないな。あの子は、あの家族の心の支えだから──」
ヤマダを精神的支柱とする人物──拓馬はヤマダの母親を一番に想像した。拓馬はヤマダの母にもノブ同様の疑似親的な情愛を感じている。当然、彼女を悲嘆に暮れさせる真似はのぞんでいない。それでも父の願いを「わかった」とは即答できなかった。もとよりヤマダは自分の意思であの状況下におちいった。拓馬にできることとは、危険に首をつっこむ彼女と運命を共にすることくらいだ。それゆえ拓馬は「努力はする」と返答した。
拓馬たちが他校の少年らと再戦した翌日、拓馬の傷口はふさがった。早く治癒できた理由は自身の回復力と、父の手当てのおかげだ。拓馬はガーゼを外し、なに食わぬ顔で登校した。教室に入ると、ジモンがびっくりする。
「拓馬! ケガはどうしたんじゃ、ちゃんと看てもらったんか?」
「病院に行って、ガーゼを貼ってもらったよ」
「もう外してもええんかの」
「だって、傷はないだろ」
拓馬は昨日出血したこめかみを指差した。ジモンは目を丸くしながら拓馬の額を見る。
「医者いらずの体じゃな!」
ジモンは感嘆と同時に拓馬の背を叩いた。その力の入り方は強い。拓馬は痛みにむせる。
「うぐっ……もうちょっと加減を……」
「いやースマン! うっかり力んでしもうた」
ジモンが豪快に笑う。楽天的な性格とはいえ、傷を負った友人の心配をしていたらしい。
「ほんで、拓馬はヤマダと一緒に病院に行ったんじゃろ? あいつの調子は聞いとるか」
「ああ、元気にしてたよ。病院の帰りはノブさんにおんぶされていった」
「おとなしくノブさんにおぶさるようじゃ、元気とは言えんの」
「あいかわらず悪態をついてたから平気だよ」
ジモンもヤマダが父親と仲がわるいのを知っている。顔をあわせればつい憎まれ口を叩くのが小山田父娘の在り方だ。ノブと波長がマッチするジモンは「あんなにいい人なのにな〜」とヤマダの嫌悪を理解できないでいた。
「ジモンには合っててもヤマダには合わねえ人なんだよ」
拓馬はそれらしいことを言っておいた。ジモンと話がすんだ拓馬は自席に向かう。付近の席にいる、名木野という内気な女子と簡単な挨拶を交わす。彼女はヤマダと親しい女子で、拓馬とも多少の親交がある。拓馬は彼女との話はこれで終了したと思ったが、名木野が「あの」と続行する。その表情は暗い。
「根岸くん、ケガしたんだって?」
「ああ、ちょっとだけな」
「ごめんなさい、痛い思いをさせて……」
「なんで名木野が謝るんだ?」
「私、仙谷くんの計画を知ってたのに……先生に言おうかどうしようか、ぐずぐずして。それで先生に知らせるのがおそくなったの」
拓馬はこの事実を想定していなかった。
(先生が独断で、助けにきたのかと思ってたが……)
本摩が「体育祭がおわるまでは待て」と言っていたのだから、その直後に仙谷らが活動を起こすことは容易に予想がつく。その推測のもと、あの教師がタイミングよくあらわれたのだと拓馬は想像していた。
「まえに校長の呼出しを受けたんでしょう? 先生に知らせるとまた叱られそうで……」
名木野の迷いとは、拓馬らの不利益が出ると考えたために生じた。彼女らしい気遣いだ。
「先生に言ってくれたおかげで、軽いケガだけですんだよ。ありがとうな」
名木野の心が幾分か晴れ、表情が明るくなる。名木野は「ありがとう」とつぶやいた。
拓馬は授業の準備をした。その最中、ヤマダが入室する。彼女の手に平たい小箱があった。なにを持ってきたのだろう、と好奇がつのったが、そこへ三郎が話しかけてくる。
「拓馬、医者にかかってきたんだろう?」
「そうだよ。もう傷はもう治ったから──」
拓馬は同じことを何度も言うことに気怠さをおぼえた。だがその感情は瞬時に吹き飛ぶ。
拓馬に一枚の紙幣がつきつけられた。それはこの国で二番目に価値の高いお札。生徒が携行する昼食代金や交通費にしては高すぎる。
「なんだよ、この金?」
「見舞い金だ」
「なんでまた……」
「オレが言いだしたことだ。なのに診察料も出さんのでは義にそむく!」
「べつにいいよ、友だちだし……」
「『親しき仲にも礼儀あり』だ!」
三郎はお札を拓馬の胸へと押しつけた。拓馬が返却しようにも、三郎が離れていってしまった。三郎はヤマダにも同様の見舞い金を支払っている。
(勝手についてきたやつにもか)
拓馬は三郎から同行をたのまれていた。そのため拓馬がこうむった損害を三郎が保障することは理にかなっている。しかしヤマダは三郎による参加依頼を受けていない。自由意思においての負傷は自己責任になりそうなだが、三郎は動機の区別をしていないらしい。
(それはいいけど、どっから出た金なんだ)
三郎はヤマダにも拓馬と同額の紙幣をあげている。合計すると、学生のポケットマネーでポンと出せる額ではない。部活と勉強と生徒会で忙しい彼が、学生バイトで稼いでいるとは思えないのだが。
(親からもらったこづかいだと、気の毒だな)
そういった遠慮をヤマダも感じている、と拓馬は思いながら二人の動向を見守った。ところがヤマダはあっさりお金を受け取る。そしてそそくさと退室した。どうも彼女は気持ちが明後日の方向へいってしまって、三郎が眼中に入らないようだった。
義理を果たした三郎は得意満面に席へもどる。これで拓馬たちへの負い目を解消できたらしい。
(もらっておくのが、礼儀か)
かたくなに拒否すればきっと三郎が不愉快になる。それは彼に対して失礼だ。拓馬はもらったお金をいったん預かっておき、あとで三郎のために使おうと思った。ありきたりな使いどころは誕生日プレゼントだろうか。
(そういや、いつの生まれだか知らないな)
拓馬は付き合いの長いヤマダやジモンの誕生日を知っているものの、三郎とは高校で知りあった仲なので、案外知らないことがあるのだと気づく。機会をみて三郎のプロフィールを知っていそうな人に聞こう、と見当をつけた。
なんとなく、三郎の誕生日を知っていそうな生徒の様子を見る。いま教室にいるのは千智だ。彼女は名木野相手に、昨日起こったことをしゃべっている。シドが起こした暴挙への言及もあり、あまり他言してよい内容ではなかった。話をやめさせようか、と拓馬はあせったが、別段シドから口止めされていないことだ。拓馬の判断で「しゃべるな」と千智に言っても彼女が不満を感じるだけかもしれず、拓馬は友人の口外を止めなかった。
2018年03月20日
拓馬篇−4章◇
昼休憩がはじまってまもなく、コンコン、とノックが鳴った。部屋のあるじである校長は専用のデスクに座したまま「どうぞ」と訪問者に声をかける。がちゃっと音が鳴り、扉が開く。
「校長、失礼いたします」
明瞭な声とともに男性教師が入室した。褐色の肌に黄色いサングラス、銀色の頭髪等の特異な風貌は何者にも見間違えようがない。
校長は当初、彼を姓で呼んでいた。現在は彼が生徒につけられたというあだ名で呼び親しんでいる。その命名者は彼と一等親しい女子だ。校長は仲のよい男女を見ることが好きであり、その趣味に一役買っている彼は校長にとって貴重である。そうでありながら、今日の校長は彼にほほえましい感情が湧かなかった。
「お呼びと聞いてまいりました」
落ち着いた声色だ。この丁寧な対応のうちには、これから受ける叱責へのおそれも、昨日までに犯した罪への悔いも感じられない。
(わるいことをしたとは思っていないのか、私の叱りがこわくないのか……?)
こたびの招集理由は彼に伝えていない。たんに「昼休みに校長室にきなさい」と人づてに言っただけだ。もしかすると、彼はここで議論する問題を想像できていないのかもしれない。
校長は黒シャツの教師を観察してみた。彼の上腹部にネクタイピンを発見する。銀色に光る棒状は一般的なタイピンのそれだが、三つの宝石かなにかが埋めこんである。量販店ではそうそう見ないデザインだ。校長は「そのタイピンはどうしたのかね」と世間話をしたくなった。そこをぐっとこらえ、本題にとりかかる。いつもは対談者をソファへ座らせるのだが、今回は立たせた状態で会談を開始する。
「どういう理由で呼ばれたのか、わかるかね?」
「昨日のセンタニさんたちが起こした一件でしょうか」
「そうだ。うちの生徒と他校の生徒がもめたそうじゃないか」
「耳がお早いのですね」
「仕入れた情報はそれだけじゃない。きみが他校の生徒を手酷く痛めつけたことも、私は聞いているのだよ」
それらの情報は午前中に入手したものだ。騒動の主犯たる仙谷のクラスには、秘密裏に校長へ情報提供する協力者がいる。提供されるおもなネタは男女の平和的な話だ。ときに緊急性のある話題も教えるようにたのんであった。
その協力者とて、現場に居合わせて得た情報を伝えてくれるわけではない。だいたいは彼らがどこからか耳にした伝聞である。真相は当事者のみが知る。校長はその真偽を問いただす目的で、問題の張本人を呼びつけていた。
「私が聞いたのは、きみが『刃物をもった少年の首を絞めた』ということだが──」
学内では温厚な教師がしでかしたとは信じにくい出来事だ。校長は一度会話を区切り、蛮行の嫌疑がかかる男性教師に注目した。彼にこれといった態度の変化はない。この情報がでまかせではないという証か。
「それはシド先生が……ほんとうにしたことかね?」
「おおよその状況は、それで合っています」
「『おおよそ』?」
事実と伝聞の細部が異なっている、という指摘だ。校長は注意深く彼の説明に耳をかたむけた。
「こまかく言いますと、私が他校の生徒の首を絞めた時に、彼は刃物を持っていませんでした。その直前に地面へ落としていたのです」
「ではきみは、凶器をうばうために攻撃を続けたのではなかったのだね」
「はい。すでに刃物の脅威は取りのぞけていました」
「なぜ追い打ちをかけた? きみなら、そこまでしなくとも退けられた相手だろう」
「教育のつもりでした」
「教育? だれに対して?」
「刃物をふるった少年です」
それはきっと、倫理的な違反をしでかした相手への懲罰なのだろう。やってはいけないことを、体にわからせる。いわば体罰である。人語が通じない動物のしつけではよくあることだ。
(『教育』というよりは『調教』じゃないか?)
類義語ではあるが、違和感をぬぐえない。校長は認識の食いちがいを提起する。
「うーむ、私にはどうも『教育』の範囲を超えているように思えるがね」
「はい。生徒にも『やりすぎ』だと言われましたので、それが正常な感覚なのだと思います」
「きみにとっては『手ぬるい』感覚かな?」
「どうとも言えません。私が生きてきた環境と学校の生活はだいぶちがいますから、なにが正しいのか……まだ、よくわからないのです」
校長はこの言葉にはうなずけた。以前のシドは警備の職務を遂行していたという。その経歴ゆえに、校長は彼を採用した。前年度にも乱闘を起こした仙谷らの監督者として、有事の際に頼れる人物を欲したのだ。武芸すぐれる教師というと希少な存在だろうに、校長は知人のつてでその逸材を得た。
シドが従事したという警備の仕事内容を校長は知らない。きっとその仕事は不届き者を無害化させることだ。他者を傷つける凶悪な敵にまみえた際、敵をころさぬ程度に弱らせて捕えるか、退散させる。それで職務は成功といえるだろう。双方に負傷者が出なければなおのことよい。先日の事件では負傷者が二名出たそうだが、それはシドの到着前に発生した怪我人だ。彼自身はだれにも怪我を負わせていないという。
「きみの前の仕事なら、文句なしの成果なのだろうね」
警備での任務は敵を排除すること。その敵を死に至らしめることさえしなければ、敵の心身がどうなろうと問題視されないのかもしれない。一方で、教育者がそんな排他的な態度をつらぬいてよいものだろうか。
「だが、いまのきみは教師だ。その少年は他校の生徒だけれど、うちの生徒になっていた可能性だってある。もしその子がきみの教え子だったら、きみは同じことをしたのかね?」
シドの視線が校長から逸れた。彼は考えごとをしている。返答には時間がかかると思い、校長はさらに言葉を加える。
「うちの生徒であれば当然、きみがその子に怖い思いをさせたあとも学校で会う。同じ教室ですごす時、きみはその少年と一緒に笑っていられるかね?」
「……むずかしいと思います。私は笑えたとしても、その子は私に恐怖をいだき続けるでしょう」
彼の予想は現実的だ。シドが自己を客観視できていることに校長は安堵する。彼は分別がついているのだ。ただ、選択する手段が常人離れしている。
「私はその少年に恐怖心を植えつけるねらいもありました」
校長の質問外のことをシドが話しはじめる。
「センタニさんたちにかかわると酷い目を見るのだと……もう同じことを繰り返さないように仕向けました」
騒ぎの相手は仙谷らと二度目の衝突をしている。三度目がないように、という配慮の結果となると、それは校長の意に沿う行為だ。校長は自校の生徒には安穏にすごしてほしいし、その思いは見ず知らずの子どもに対しても同じである。
「そうか……きみはよく考えたうえで冷徹にふるまったわけか」
「ですが、自分のしたことが最良の方法だったとは思っておりません」
「どのような反省をしているんだね?」
「私の行為はその場にいた生徒たちをおびえさせました。それは、彼らの教師として、見せてはいけない姿だったと思っています」
「意地悪を言いたくはないが、それは『生徒が見ていない状況ならば乱暴な真似をしていい』ということかね?」
「……否定はできません」
正直な男だ。適当な言い訳をしない姿勢はこのましい。だが危険な行動を再発しそうな返事をされれば校長も説教を続けねばならない。
「こう、穏便にいかないものかね、きみは」
「時間があるのでしたら、素行のよくない子どもたちに常識的な教育をほどこせます。ですが接点のない相手を変えるには──」
「わかった、短時間で不良少年を更生させるにはショック療法しかないわけだ」
この新人教師は彼なりに目的にそった最適解をたたき出している。そう感じた校長はシドを追及すればするほど彼の非を見いだせなくなってきた。ここで話を切り上げにかかる。
「それ以外の方法は私も思いつかん。代わりの案を出せない者がダメ出しをすることほど、無責任な言い分はないね」
「いえ、校長のご指摘は正確だと──」
「私の思うとおりのことをやっていては、仙谷くんたちはまた不良な子らと戦うはめになるだろう。それではいたちごっこだ」
おそらくこれで騒ぎはおさまる。不良少年とて命は惜しいはずだ。死にそうな目に遭ってなお不良に徹するというなら、それは校長たちでは手におえない問題児である。
「きみに免じて、仙谷くんたちのお説教は無しにしよう」
「私に免じて……?」
「ああ、きみにはいろいろと言ったからね。生徒にむかうはずだった私の叱りを、シド先生が一身に受けたというふうに本摩先生には伝えておくよ」
シドはまだ腑に落ちていないようで、だまっている。校長は彼のわだかまりについて質問する。
「ほかに心配事があるかね?」
「校長は私を叱っておいでだったのですか?」
「ん? どういうことだね」
「校長は私のしたことを強くとがめてはいらっしゃらない。昨日の出来事を問われただけのように思います。それなのに『校長の叱りを私が一身に受けた』と言っては、ウソにならないのでしょうか?」
また妙なところで律儀な男だ。校長は苦笑する。
「これでも私は叱ってるつもりだったんだがね。どうもガンガン責めるのは性に合わないのだよ」
「そうでしたか。それは失礼いたしました」
「では叱責の体裁をひとつ、つくろっておこう。……どんな悪人に対しても慈悲の心を持って接しなさい。それが人を教え導く者の心得だと、私は思っている」
校長はまるで僧侶のような持論を持ちだしたことに少々の気恥ずかしさをおぼえた。自分の腕時計をさっと見て「そろそろ次の授業がはじまるね」と話の余韻をかき消す。
「私からは以上だ。さ、もう行きなさい」
シドは頭を下げ、静かに退室していった。校長は床をかるく蹴り、回転椅子をくるっと回す。目は窓の外をむくが、注意は視野の外にある。
(彼はまっすぐな男だな……)
校長にシドを紹介した知人もそのように評価していた。その知人は大企業の会長でありながら、わざわざシドと直接面接をしてくれたという。
(大力会長が認めた人なのだから、いい人ではあるんだろう)
彼の性根が善人なのはいい。実際、シドはだれからも好かれている好男子である。しかし戦いに身を置いていたがゆえの荒っぽい決断力は看過できない。校長は彼をとがめなかったが、やはり上司として良識を教導すべきではないかと思いはじめる。
(もしや、生徒よりも指導がむずかしいんではなかろうか?)
シド自身はいたって素直かつ従順だ。校長がこまかく禁止事項を教えれば彼はそれにしたがうだろう。しかし校長は平和な環境で生きてきた。平和ボケした校長の想像力では、シドがやりうる蛮行を先読みできそうにない。
(うーん、あとは彼の良心にかけるか……?)
校長はあれこれ考えたものの、部下の器量任せで帰結した。キィキィと椅子を左右に回してぼーっとする。そのうち、はたと思い出すことがあった。
(あ、タイピンのことを聞き忘れたな)
あとでたずねようと思っていたことだ。これは後日に本人に聞くか、または情報提供者が仕入れるのを待つかしよう──と校長は自身が失念した行為の代替案を考えた。
「校長、失礼いたします」
明瞭な声とともに男性教師が入室した。褐色の肌に黄色いサングラス、銀色の頭髪等の特異な風貌は何者にも見間違えようがない。
校長は当初、彼を姓で呼んでいた。現在は彼が生徒につけられたというあだ名で呼び親しんでいる。その命名者は彼と一等親しい女子だ。校長は仲のよい男女を見ることが好きであり、その趣味に一役買っている彼は校長にとって貴重である。そうでありながら、今日の校長は彼にほほえましい感情が湧かなかった。
「お呼びと聞いてまいりました」
落ち着いた声色だ。この丁寧な対応のうちには、これから受ける叱責へのおそれも、昨日までに犯した罪への悔いも感じられない。
(わるいことをしたとは思っていないのか、私の叱りがこわくないのか……?)
こたびの招集理由は彼に伝えていない。たんに「昼休みに校長室にきなさい」と人づてに言っただけだ。もしかすると、彼はここで議論する問題を想像できていないのかもしれない。
校長は黒シャツの教師を観察してみた。彼の上腹部にネクタイピンを発見する。銀色に光る棒状は一般的なタイピンのそれだが、三つの宝石かなにかが埋めこんである。量販店ではそうそう見ないデザインだ。校長は「そのタイピンはどうしたのかね」と世間話をしたくなった。そこをぐっとこらえ、本題にとりかかる。いつもは対談者をソファへ座らせるのだが、今回は立たせた状態で会談を開始する。
「どういう理由で呼ばれたのか、わかるかね?」
「昨日のセンタニさんたちが起こした一件でしょうか」
「そうだ。うちの生徒と他校の生徒がもめたそうじゃないか」
「耳がお早いのですね」
「仕入れた情報はそれだけじゃない。きみが他校の生徒を手酷く痛めつけたことも、私は聞いているのだよ」
それらの情報は午前中に入手したものだ。騒動の主犯たる仙谷のクラスには、秘密裏に校長へ情報提供する協力者がいる。提供されるおもなネタは男女の平和的な話だ。ときに緊急性のある話題も教えるようにたのんであった。
その協力者とて、現場に居合わせて得た情報を伝えてくれるわけではない。だいたいは彼らがどこからか耳にした伝聞である。真相は当事者のみが知る。校長はその真偽を問いただす目的で、問題の張本人を呼びつけていた。
「私が聞いたのは、きみが『刃物をもった少年の首を絞めた』ということだが──」
学内では温厚な教師がしでかしたとは信じにくい出来事だ。校長は一度会話を区切り、蛮行の嫌疑がかかる男性教師に注目した。彼にこれといった態度の変化はない。この情報がでまかせではないという証か。
「それはシド先生が……ほんとうにしたことかね?」
「おおよその状況は、それで合っています」
「『おおよそ』?」
事実と伝聞の細部が異なっている、という指摘だ。校長は注意深く彼の説明に耳をかたむけた。
「こまかく言いますと、私が他校の生徒の首を絞めた時に、彼は刃物を持っていませんでした。その直前に地面へ落としていたのです」
「ではきみは、凶器をうばうために攻撃を続けたのではなかったのだね」
「はい。すでに刃物の脅威は取りのぞけていました」
「なぜ追い打ちをかけた? きみなら、そこまでしなくとも退けられた相手だろう」
「教育のつもりでした」
「教育? だれに対して?」
「刃物をふるった少年です」
それはきっと、倫理的な違反をしでかした相手への懲罰なのだろう。やってはいけないことを、体にわからせる。いわば体罰である。人語が通じない動物のしつけではよくあることだ。
(『教育』というよりは『調教』じゃないか?)
類義語ではあるが、違和感をぬぐえない。校長は認識の食いちがいを提起する。
「うーむ、私にはどうも『教育』の範囲を超えているように思えるがね」
「はい。生徒にも『やりすぎ』だと言われましたので、それが正常な感覚なのだと思います」
「きみにとっては『手ぬるい』感覚かな?」
「どうとも言えません。私が生きてきた環境と学校の生活はだいぶちがいますから、なにが正しいのか……まだ、よくわからないのです」
校長はこの言葉にはうなずけた。以前のシドは警備の職務を遂行していたという。その経歴ゆえに、校長は彼を採用した。前年度にも乱闘を起こした仙谷らの監督者として、有事の際に頼れる人物を欲したのだ。武芸すぐれる教師というと希少な存在だろうに、校長は知人のつてでその逸材を得た。
シドが従事したという警備の仕事内容を校長は知らない。きっとその仕事は不届き者を無害化させることだ。他者を傷つける凶悪な敵にまみえた際、敵をころさぬ程度に弱らせて捕えるか、退散させる。それで職務は成功といえるだろう。双方に負傷者が出なければなおのことよい。先日の事件では負傷者が二名出たそうだが、それはシドの到着前に発生した怪我人だ。彼自身はだれにも怪我を負わせていないという。
「きみの前の仕事なら、文句なしの成果なのだろうね」
警備での任務は敵を排除すること。その敵を死に至らしめることさえしなければ、敵の心身がどうなろうと問題視されないのかもしれない。一方で、教育者がそんな排他的な態度をつらぬいてよいものだろうか。
「だが、いまのきみは教師だ。その少年は他校の生徒だけれど、うちの生徒になっていた可能性だってある。もしその子がきみの教え子だったら、きみは同じことをしたのかね?」
シドの視線が校長から逸れた。彼は考えごとをしている。返答には時間がかかると思い、校長はさらに言葉を加える。
「うちの生徒であれば当然、きみがその子に怖い思いをさせたあとも学校で会う。同じ教室ですごす時、きみはその少年と一緒に笑っていられるかね?」
「……むずかしいと思います。私は笑えたとしても、その子は私に恐怖をいだき続けるでしょう」
彼の予想は現実的だ。シドが自己を客観視できていることに校長は安堵する。彼は分別がついているのだ。ただ、選択する手段が常人離れしている。
「私はその少年に恐怖心を植えつけるねらいもありました」
校長の質問外のことをシドが話しはじめる。
「センタニさんたちにかかわると酷い目を見るのだと……もう同じことを繰り返さないように仕向けました」
騒ぎの相手は仙谷らと二度目の衝突をしている。三度目がないように、という配慮の結果となると、それは校長の意に沿う行為だ。校長は自校の生徒には安穏にすごしてほしいし、その思いは見ず知らずの子どもに対しても同じである。
「そうか……きみはよく考えたうえで冷徹にふるまったわけか」
「ですが、自分のしたことが最良の方法だったとは思っておりません」
「どのような反省をしているんだね?」
「私の行為はその場にいた生徒たちをおびえさせました。それは、彼らの教師として、見せてはいけない姿だったと思っています」
「意地悪を言いたくはないが、それは『生徒が見ていない状況ならば乱暴な真似をしていい』ということかね?」
「……否定はできません」
正直な男だ。適当な言い訳をしない姿勢はこのましい。だが危険な行動を再発しそうな返事をされれば校長も説教を続けねばならない。
「こう、穏便にいかないものかね、きみは」
「時間があるのでしたら、素行のよくない子どもたちに常識的な教育をほどこせます。ですが接点のない相手を変えるには──」
「わかった、短時間で不良少年を更生させるにはショック療法しかないわけだ」
この新人教師は彼なりに目的にそった最適解をたたき出している。そう感じた校長はシドを追及すればするほど彼の非を見いだせなくなってきた。ここで話を切り上げにかかる。
「それ以外の方法は私も思いつかん。代わりの案を出せない者がダメ出しをすることほど、無責任な言い分はないね」
「いえ、校長のご指摘は正確だと──」
「私の思うとおりのことをやっていては、仙谷くんたちはまた不良な子らと戦うはめになるだろう。それではいたちごっこだ」
おそらくこれで騒ぎはおさまる。不良少年とて命は惜しいはずだ。死にそうな目に遭ってなお不良に徹するというなら、それは校長たちでは手におえない問題児である。
「きみに免じて、仙谷くんたちのお説教は無しにしよう」
「私に免じて……?」
「ああ、きみにはいろいろと言ったからね。生徒にむかうはずだった私の叱りを、シド先生が一身に受けたというふうに本摩先生には伝えておくよ」
シドはまだ腑に落ちていないようで、だまっている。校長は彼のわだかまりについて質問する。
「ほかに心配事があるかね?」
「校長は私を叱っておいでだったのですか?」
「ん? どういうことだね」
「校長は私のしたことを強くとがめてはいらっしゃらない。昨日の出来事を問われただけのように思います。それなのに『校長の叱りを私が一身に受けた』と言っては、ウソにならないのでしょうか?」
また妙なところで律儀な男だ。校長は苦笑する。
「これでも私は叱ってるつもりだったんだがね。どうもガンガン責めるのは性に合わないのだよ」
「そうでしたか。それは失礼いたしました」
「では叱責の体裁をひとつ、つくろっておこう。……どんな悪人に対しても慈悲の心を持って接しなさい。それが人を教え導く者の心得だと、私は思っている」
校長はまるで僧侶のような持論を持ちだしたことに少々の気恥ずかしさをおぼえた。自分の腕時計をさっと見て「そろそろ次の授業がはじまるね」と話の余韻をかき消す。
「私からは以上だ。さ、もう行きなさい」
シドは頭を下げ、静かに退室していった。校長は床をかるく蹴り、回転椅子をくるっと回す。目は窓の外をむくが、注意は視野の外にある。
(彼はまっすぐな男だな……)
校長にシドを紹介した知人もそのように評価していた。その知人は大企業の会長でありながら、わざわざシドと直接面接をしてくれたという。
(大力会長が認めた人なのだから、いい人ではあるんだろう)
彼の性根が善人なのはいい。実際、シドはだれからも好かれている好男子である。しかし戦いに身を置いていたがゆえの荒っぽい決断力は看過できない。校長は彼をとがめなかったが、やはり上司として良識を教導すべきではないかと思いはじめる。
(もしや、生徒よりも指導がむずかしいんではなかろうか?)
シド自身はいたって素直かつ従順だ。校長がこまかく禁止事項を教えれば彼はそれにしたがうだろう。しかし校長は平和な環境で生きてきた。平和ボケした校長の想像力では、シドがやりうる蛮行を先読みできそうにない。
(うーん、あとは彼の良心にかけるか……?)
校長はあれこれ考えたものの、部下の器量任せで帰結した。キィキィと椅子を左右に回してぼーっとする。そのうち、はたと思い出すことがあった。
(あ、タイピンのことを聞き忘れたな)
あとでたずねようと思っていたことだ。これは後日に本人に聞くか、または情報提供者が仕入れるのを待つかしよう──と校長は自身が失念した行為の代替案を考えた。