2020年12月02日
習一篇−4章6
「さっきの女の子はどこへ行ったんだ?」
「この町のどこかにいると思います」
習一を起こしにきた少女はすでに別行動をとっている。予想範囲内のこととはいえ、習一は釈然としない。
「オレとすこし話しただけで、すぐいなくなったのか?」
「はい、この場に残る理由がなかったので」
「いいように使いぱしりにしてるんだな」
習一は教師への不快感をあらわにした。彼の真人間そうな口調と人遣いの荒さとの落差が激しいせいで、一言言わずにはいられなかった。
「なにか問題がありますか?」
「あるさ。行ったりきたりさせられるやつの苦労が想像できないか?」
「ご心配なく。あの子は貴方が想像する以上に身軽です」
少女の軽業師的な運動能力は習一も認めるところだ。しかし走るのが得意な人間だろうと走れば疲れるもの。その疲労を軽視する物言いには納得しかねる。
「運動神経がよくたって、他人にこき使われりゃしんどくなるだろ」
「この程度で苦しいと感じる子ではありません」
「そんなのアンタがわかることかよ」
「ずいぶんとエリーのことを気にかけるのですね」
「エリー? それがあの子の名前か」
西洋風な呼び名だ、この教師と同じだ、と習一は感じた。同時に、昨日の自分が少女の名前の感想をもてなかった異常さに気づく。長時間少女と一緒にいながら、彼女の呼び名を知らないでいた。原因は少女が自身の名を習一に教えなかったせいであり、また習一も少女の名をたずねなかったせいだ。
教師が立ち止まる。ふりむきざま、口元をやんわり横に引く。
「不便な思いをさせたようですね。エリーには貴方に自己紹介するよう言っていませんでした。これは私の不手際です」
微笑の教師は当たりまえの礼儀作法を少女に指示できなかったことを詫びる。しかし軽度な落ち度であったためか表情は柔らかい。
「あとで教えておきます、『初対面の人には自分の名を明かすように』と」
習一が少女の名を知らないことで発生した不都合はない。彼女とは最低限の会話ですませており、名を呼ばなくても意思疎通はできた。
「あ、いや……どうせ名前を知ってても呼ばなかったし、なんともない」
習一は自分も非常識な対応をとった負い目を少々感じ、教師および少女に責を負わせるのはしのびなくなる。とりわけ無垢そうな少女には非難の念が生じなかった。
習一のかるい擁護を受けた教師は「そうですか」と受け流し、移動を再開した。習一はまだ疑問が尽きず、
「それで、あの子はアンタのなんなんだ?」
と問う。教師が進路を見据えたまま話をつづける。
「表向きは妹ということにしています」
「本当の家族じゃないのか?」
「血縁関係が不確かで、はっきりしたことは私にもわからないのです」
少女より十歳くらい年上な教師が、妹分の血脈を把握できていない。そんなことがあるだろうかと習一は怪しむ。あの少女が教師のもとに現れたとき、教師は最低でも小学生ほどの年齢に達していただろう。その年齢ならば妹分がどのような経緯で現れたのかその目で見、その耳で保護者から事情を聴いて、理解できたはずだと思う。
「親は説明してくれなかったのか?」
「はい。エリーが私の肉親であろうと他人であろうと、あの方にはどうでもよいことだったでしょうから」
「なんだよ、それ」
自身の家族の血縁関係に興味のない親などいるはずがない。習一はたまらず「アンタたちはどういう家庭で育ったんだ?」とたずねた。
「一般的な家庭と呼べるものは私たちにありません。あるのは主従関係。私とエリーは従者仲間です」
「従者?」
「私たちは主《あるじ》と仰ぐ者に従い、主を親同然に慕いました。親、とはいっても私には主から養育された思い出がありません。私が勝手に主を親だと思っています」
教師の親はどうやら彼らと血縁のない者のようだ。他人の子を育てる大人はめずらしいものではない。たとえば児童養護施設。実の親とともに生活できない子どもが集まる場所が全国に用意されているという。施設には子どもたちの生活の支援をする職員がいる。子どもらは自分の世話をしてくれる職員を親と慕う、といった事態はそうおかしいものではないだろう。しかしそんな福祉施設で主従関係がしいられるとは聞いたことがない。施設の職員が保護した子どもの家族構成を軽んじるのもおかしな話だ。
「よくわからないな……」
習一は自分が知る常識では教師の生い立ちを推し量れない。だが学問的な知識ではそれらしい事柄を知っている。
「まるで奴隷で買われてきたやつじゃないか」
幼い子どもにすら過酷な労働が強制され、人を人と思わぬあつかいを受ける人々。そんな忌まわしい事跡が近代まで世界各地に散見した。彼らは家畜や道具と等しく売り買いされ、家族と引き離されたという。もしも使用者が所有する奴隷と、あらたに買い足した奴隷が血縁者だったとしても、そのバックボーンを気に留める使用者はいなかったかもしれない。労働力を期待された道具には不要な情報なのだ。
「奴隷、ですか」
教師は習一が連想した事物を復唱した。人でありながら人としての尊厳を踏みにじられた底辺の存在に例えられて、この教師は怒るだろうか、と習一はかすかに警戒した。
「それもある意味では正しい表現かもしれませんね」
教師が習一の例えをおおむね肯定した。声色は平常だ。彼はおだやかに自己をみつめ、その例えが自分にふさわしいと認めている。習一はこの教師が苦渋に満ちた生涯を送ってきたのかと認識をあらためる。
「じゃあほんとにアンタ、ご主人さまにこき使われてきたのか?」
「ええ、まあ……そう言えると思います」
教師の言葉には使用者への負の感情がこもっていなかった。自身に命令をくだす者のことはわるく思っていないようだ。習一が想像する奴隷とは主人から手ひどくしいたげられ、それゆえ無情な主人を恐れたり憎んだりする者なのだが、教師の場合はちがうらしい。
「もしかして、アンタが高校の教師をやってんのもご主人の命令のうちか?」
習一は教師がいまなお主人に従属する者だと仮定し、忠義を果たす真っ最中かと予想した。使用者が手下に学校の先生をやらせたてなんのメリットがあるのかわからないが、発言を読み取るかぎりは可能性のある事態だ。
従順そうな男は「はじめはそうでした」と答える。
「ですがいまは主の意志にそぐわない理由で、教職に身を置こうとしています」
習一の予想外な答えが返ってきた。教師が嫌悪していない主人に反抗する理由とは──
「オレの復学の手伝いが命令違反になってるのか?」
「それもそうですが、貴方個人のために主にそむいたのではありません。この件についてはいましばらく放っておいてもらえますか」
「はいはい、お得意の『記憶がもどったら話す』か」
習一は話題が強制終了されてしまい、教師にささやかな反撃をしかける。
「だがな、オレがわすれちまったことをオレの知り合いが教えてきたぞ。あんたの思いどおりにならなくて残念だったな」
教師の描いたシナリオに狂いが出た。常に沈着な教師がこれでくやしがるかと思いきや、彼は「それは結構なことです」と簡素に答えた。
「え……よかったのか?」
「はい。私が説明を渋ったのは私が真実を話しても貴方に納得してもらえないと考えたからです。貴方と親しい御仁から聞けた言葉なら、貴方はすんなりと胸に落ちるでしょう。貴方と親交のない私にはできないことです」
理解できる基盤のない者になにを言っても無駄だ、という観点で教師は口を閉ざす。そこに他意はないのだろうが、習一は自身の理解力を低く見積もられた気がして、不愉快になった。端的にいえば、バカにされた気がした。
「無理にわからせようとして、貴方を惑わせたくありません」
教師は習一の混乱を避けるためだと説く。その言葉のおかげで習一の機嫌はもどった。
「いまの貴方にはやることがたくさんあります。私を詮索するのも貴方に起きた真実をつまびらかにするのも、あなたを取り巻く環境が整理できたあとにしましょう。当面の目標は補習をきちんと受けることです」
一学期の成績を決定づける期限は今月中か、遅くとも来月の頭まで。それまでに及第できなければ習一は三度目の高校二年生を迎えてしまう。この状況下において、習一と教師の確執を知る私事は後回しでよい。
「わかった。とにかく今日は課題を片付けるってことでいいな?」
「はい。そのために栄養を補給しましょう」
二人は会話に一区切りつけ、移動に専念した。
習一が案内された場所は主要道路からすこし外れた喫茶店だ。外装はどのチェーン店とも一致しない、個人経営の店らしい。一般的な店の始業時刻前だが、窓越しに見える店内には客の姿があった。
「この町のどこかにいると思います」
習一を起こしにきた少女はすでに別行動をとっている。予想範囲内のこととはいえ、習一は釈然としない。
「オレとすこし話しただけで、すぐいなくなったのか?」
「はい、この場に残る理由がなかったので」
「いいように使いぱしりにしてるんだな」
習一は教師への不快感をあらわにした。彼の真人間そうな口調と人遣いの荒さとの落差が激しいせいで、一言言わずにはいられなかった。
「なにか問題がありますか?」
「あるさ。行ったりきたりさせられるやつの苦労が想像できないか?」
「ご心配なく。あの子は貴方が想像する以上に身軽です」
少女の軽業師的な運動能力は習一も認めるところだ。しかし走るのが得意な人間だろうと走れば疲れるもの。その疲労を軽視する物言いには納得しかねる。
「運動神経がよくたって、他人にこき使われりゃしんどくなるだろ」
「この程度で苦しいと感じる子ではありません」
「そんなのアンタがわかることかよ」
「ずいぶんとエリーのことを気にかけるのですね」
「エリー? それがあの子の名前か」
西洋風な呼び名だ、この教師と同じだ、と習一は感じた。同時に、昨日の自分が少女の名前の感想をもてなかった異常さに気づく。長時間少女と一緒にいながら、彼女の呼び名を知らないでいた。原因は少女が自身の名を習一に教えなかったせいであり、また習一も少女の名をたずねなかったせいだ。
教師が立ち止まる。ふりむきざま、口元をやんわり横に引く。
「不便な思いをさせたようですね。エリーには貴方に自己紹介するよう言っていませんでした。これは私の不手際です」
微笑の教師は当たりまえの礼儀作法を少女に指示できなかったことを詫びる。しかし軽度な落ち度であったためか表情は柔らかい。
「あとで教えておきます、『初対面の人には自分の名を明かすように』と」
習一が少女の名を知らないことで発生した不都合はない。彼女とは最低限の会話ですませており、名を呼ばなくても意思疎通はできた。
「あ、いや……どうせ名前を知ってても呼ばなかったし、なんともない」
習一は自分も非常識な対応をとった負い目を少々感じ、教師および少女に責を負わせるのはしのびなくなる。とりわけ無垢そうな少女には非難の念が生じなかった。
習一のかるい擁護を受けた教師は「そうですか」と受け流し、移動を再開した。習一はまだ疑問が尽きず、
「それで、あの子はアンタのなんなんだ?」
と問う。教師が進路を見据えたまま話をつづける。
「表向きは妹ということにしています」
「本当の家族じゃないのか?」
「血縁関係が不確かで、はっきりしたことは私にもわからないのです」
少女より十歳くらい年上な教師が、妹分の血脈を把握できていない。そんなことがあるだろうかと習一は怪しむ。あの少女が教師のもとに現れたとき、教師は最低でも小学生ほどの年齢に達していただろう。その年齢ならば妹分がどのような経緯で現れたのかその目で見、その耳で保護者から事情を聴いて、理解できたはずだと思う。
「親は説明してくれなかったのか?」
「はい。エリーが私の肉親であろうと他人であろうと、あの方にはどうでもよいことだったでしょうから」
「なんだよ、それ」
自身の家族の血縁関係に興味のない親などいるはずがない。習一はたまらず「アンタたちはどういう家庭で育ったんだ?」とたずねた。
「一般的な家庭と呼べるものは私たちにありません。あるのは主従関係。私とエリーは従者仲間です」
「従者?」
「私たちは主《あるじ》と仰ぐ者に従い、主を親同然に慕いました。親、とはいっても私には主から養育された思い出がありません。私が勝手に主を親だと思っています」
教師の親はどうやら彼らと血縁のない者のようだ。他人の子を育てる大人はめずらしいものではない。たとえば児童養護施設。実の親とともに生活できない子どもが集まる場所が全国に用意されているという。施設には子どもたちの生活の支援をする職員がいる。子どもらは自分の世話をしてくれる職員を親と慕う、といった事態はそうおかしいものではないだろう。しかしそんな福祉施設で主従関係がしいられるとは聞いたことがない。施設の職員が保護した子どもの家族構成を軽んじるのもおかしな話だ。
「よくわからないな……」
習一は自分が知る常識では教師の生い立ちを推し量れない。だが学問的な知識ではそれらしい事柄を知っている。
「まるで奴隷で買われてきたやつじゃないか」
幼い子どもにすら過酷な労働が強制され、人を人と思わぬあつかいを受ける人々。そんな忌まわしい事跡が近代まで世界各地に散見した。彼らは家畜や道具と等しく売り買いされ、家族と引き離されたという。もしも使用者が所有する奴隷と、あらたに買い足した奴隷が血縁者だったとしても、そのバックボーンを気に留める使用者はいなかったかもしれない。労働力を期待された道具には不要な情報なのだ。
「奴隷、ですか」
教師は習一が連想した事物を復唱した。人でありながら人としての尊厳を踏みにじられた底辺の存在に例えられて、この教師は怒るだろうか、と習一はかすかに警戒した。
「それもある意味では正しい表現かもしれませんね」
教師が習一の例えをおおむね肯定した。声色は平常だ。彼はおだやかに自己をみつめ、その例えが自分にふさわしいと認めている。習一はこの教師が苦渋に満ちた生涯を送ってきたのかと認識をあらためる。
「じゃあほんとにアンタ、ご主人さまにこき使われてきたのか?」
「ええ、まあ……そう言えると思います」
教師の言葉には使用者への負の感情がこもっていなかった。自身に命令をくだす者のことはわるく思っていないようだ。習一が想像する奴隷とは主人から手ひどくしいたげられ、それゆえ無情な主人を恐れたり憎んだりする者なのだが、教師の場合はちがうらしい。
「もしかして、アンタが高校の教師をやってんのもご主人の命令のうちか?」
習一は教師がいまなお主人に従属する者だと仮定し、忠義を果たす真っ最中かと予想した。使用者が手下に学校の先生をやらせたてなんのメリットがあるのかわからないが、発言を読み取るかぎりは可能性のある事態だ。
従順そうな男は「はじめはそうでした」と答える。
「ですがいまは主の意志にそぐわない理由で、教職に身を置こうとしています」
習一の予想外な答えが返ってきた。教師が嫌悪していない主人に反抗する理由とは──
「オレの復学の手伝いが命令違反になってるのか?」
「それもそうですが、貴方個人のために主にそむいたのではありません。この件についてはいましばらく放っておいてもらえますか」
「はいはい、お得意の『記憶がもどったら話す』か」
習一は話題が強制終了されてしまい、教師にささやかな反撃をしかける。
「だがな、オレがわすれちまったことをオレの知り合いが教えてきたぞ。あんたの思いどおりにならなくて残念だったな」
教師の描いたシナリオに狂いが出た。常に沈着な教師がこれでくやしがるかと思いきや、彼は「それは結構なことです」と簡素に答えた。
「え……よかったのか?」
「はい。私が説明を渋ったのは私が真実を話しても貴方に納得してもらえないと考えたからです。貴方と親しい御仁から聞けた言葉なら、貴方はすんなりと胸に落ちるでしょう。貴方と親交のない私にはできないことです」
理解できる基盤のない者になにを言っても無駄だ、という観点で教師は口を閉ざす。そこに他意はないのだろうが、習一は自身の理解力を低く見積もられた気がして、不愉快になった。端的にいえば、バカにされた気がした。
「無理にわからせようとして、貴方を惑わせたくありません」
教師は習一の混乱を避けるためだと説く。その言葉のおかげで習一の機嫌はもどった。
「いまの貴方にはやることがたくさんあります。私を詮索するのも貴方に起きた真実をつまびらかにするのも、あなたを取り巻く環境が整理できたあとにしましょう。当面の目標は補習をきちんと受けることです」
一学期の成績を決定づける期限は今月中か、遅くとも来月の頭まで。それまでに及第できなければ習一は三度目の高校二年生を迎えてしまう。この状況下において、習一と教師の確執を知る私事は後回しでよい。
「わかった。とにかく今日は課題を片付けるってことでいいな?」
「はい。そのために栄養を補給しましょう」
二人は会話に一区切りつけ、移動に専念した。
習一が案内された場所は主要道路からすこし外れた喫茶店だ。外装はどのチェーン店とも一致しない、個人経営の店らしい。一般的な店の始業時刻前だが、窓越しに見える店内には客の姿があった。
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