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2021年02月17日

習一篇−5章1

 習一たちは午後も図書館に居続けた。習一は残る五教科の理科と社会科のうち、教科書を持参した政治経済に苦戦する。教科書にない作文の解答を求められてつまづいたのだ。機械的に教科書の説明を抜粋しても解けず、自分の言葉に直さねばならない。快調な出だしだった午前の課題とは反対に、鈍重な進捗におちいる。習一は嫌気がさしてきて、いったん顔を上げた。
(ちょっと休むか?)
 席についてからというもの、ずっと同じ作業をしてきた。それは教師とて同じだが、彼は趣味の読書にいそしめているせいか疲労の様子はなかった。
 習一は小声で「すこし離れる」と教師に離席を宣言し、トイレ休憩へ向かった。用をすませて席へもどってくるときに、これまで注意をそそがなかった館内の様子を見る。試験勉強に励む若者がいるほか、余生をもてあますかのような老人が新聞を読んでいる。それらの顔ぶれは開館後にやってきたらしい新顔もいれば、開館前に館外で待機していた者もいる。長時間の滞在者は習一たちだけではないのだと知れた。
 習一が今日かぎりの自席に着こうとしたとき、長机の端にいる大小の人影が視界に入った。それが親子連れではないかと思った瞬間、ひどく嫌なしこりが腹のあたりにこみ上げた気分になる。だがしこりはすぐに消え失せた。習一は自身の急激な変調にとまどいながらも、人影をしっかと見据えた。
 父らしき男性と小学校低学年な男の子が向かい合って座っている。それぞれが鉛筆を片手にして、なにごとかを言う。男の子はふてくされた表情だ。その手元にはうすっぺらい問題集がある。柔らかい顔つきの男性が返事をしたのち、男の子はまた問題集に手をつけた。「もう飽きた」、「帰りたい」などの不服は言いくるめられたのだろう。父親のほうも分厚い本を見ながらノートに書きつける作業を再開した。
 一連のやり取りを見た習一は頬の筋肉が刺激されるのを感じた。笑ったのだ。あの親子を見て。それに気づいたとき、どうして笑ったのか、自分で自分がよくわからないでいた。だが不思議と悪い気はしなかった。
(前はあんなの見たら、逆にイラついてたような)
 いつからだったか、仲の良い親子風景を見せつけられれば無性にやりきれなくなっていた。いまもそのわだかまりが完全に消えたわけではない。だが快の心持ちがより前面に感じられ、不快はその陰へと追いやられていた。
(入院してて、毒気が抜けたか?)
 長く滞在したおぼえのない入院生活を経て、習一は体力を失い、負を感じとる感情も弱まった。まるで憑き物が落ちたようだ。肉体が衰えたのは困るが、くさくさした気分に振りまわされずにすむ点においては快適になった。
 長考がすぎたのか、習一が着席した際に正面を見ると教師と目が合った。習一が気まずそうに眉をしかめると教師はなにも見なかった風体で読書を継続する。それからの習一は顔を上げず、視線の移動は机上に制限した。

 太陽が赤みをうっすら帯びる時間帯になる。習一は朝のうちに腹に貯めた飲食物が尽きるのを感じた。持ってきたプリントのうち、参考資料を持参したものはすべて解き終え、教師による確認も終わった。教師がペンを走らせた紙の束は積み重なったままだ。これらは誤答の確認は自室でも簡単にできる、と習一は判断したため、放置していた。
 習一は教科書なしで解けるプリントを前にして、ふと考える。補習の開始日は明々後日。明日と明後日は習一の予定がない。もし教師が一日あるいは二日間とも習一の近辺にはべるのなら、間違いを訂正するのみのプリントをまた持ち運ぶ必要がある。そうであればいまのうちに解答のチェックができる分を片付けておけば効率がよいかもしれない。
 習一は目下に目標を決定するため、図書を読みふける教師に質問を投げる。
「アンタの見張り、明日もやる気か?」
「はい。明日も今日と同じように課題に励んでもらうつもりです」
「明日には全部終わりそうだな。それなら確認をやっとくか……」
「貴方のキリがよいところまで進めてください」
 教師は男女の思考の違いについての本に目を落とす。彼は一度めに取ってきた三冊を読み終え、返却して新たに図書を複数持ってきた。本のタイトルを見るに、人間の心理にまつわる解説本ばかり。職業柄、念頭に入れるべき知識なのだろうが、そこまで念入りに知る必要がこの男にあるのだろうか。
 習一は銀髪の教師とは二日程度しか顔を合わせていないとはいえ、その二日で彼の表面的な人物像は固まった。温厚篤実な紳士。内面は確実なことがわからぬとはいえ、いまのところさしたる汚点は出していないように見えた。そんな彼が世間一般的な失言や失態を引き起こすさまは想像しにくい。彼の発言が習一の癪《しゃく》に障ったことはあれど、世間的には地雷にあたる文言ではなかったし、習一を傷つける意図もまったくふくまれていなかった。
 得てして、他者から見てすでに一人前の域に到達しても「まだ不足がある」と学びを深める者がいる一方、本当に知識を備えるべき者は「意味のないこと」と捨て置き、自己の瑕疵を拡張させていくものなのかもしれない。習一が想定する後者は紛れもなく自分の父だった。
 習一はプリントに四色ボールペンの青色で正答を書き続け、教師が手を下したプリントすべてを見終わった。これで今日のノルマは達成した。図書館を出ようか、と思い教師の顔を見る。教師は無言で立ち、本を携えて長机を離れる。習一の意思を察知して、本を書棚にもどすつもりなのだ。習一も帰り支度のためクリアファイルに紙の束を入れ、筆箱とともに鞄の中へ収めた。鞄にしまった教科書の背を触り、持参した冊数に差がないことを確かめる。私物がなくなった机を見つめ、教師の帰還を待った。ほどなくして現在の保護者が席にやってくる。
「今日はこれでおしまいにしますか?」
「ああ」
 二人は半日を過ごした公共施設を発った。気兼ねなく私語を話せる場所まで移動すると教師は足を止める。
「夕飯の希望はありますか?」
「ない。あんたの好きにしてくれ」
「わかりました。私についてきてください」
 習一は髪を暗い朱に染める教師を追いかけた。教師は習一の家とは反対の方向へ向かう。その方角にはパン屋やラーメン屋など食べ物関係の店が居並ぶ。そのどれかが夕食の場になるのだと習一はあらかじめ想定した。

タグ:習一
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posted by 三利実巳 at 02:14 | Comment(0) | 長編習一 
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