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2019年07月05日
短縮拓馬篇−6章6 ★
休み明けの放課後、拓馬は数人のクラスメイトとともに空き教室へ移動した。集合目的はヤマダによる大男捕獲作戦の聴講。同席者にはヤマダが協力を打診した須坂もいる。彼女はとくにゴネることなく、あっさり承諾したという。須坂は須坂で、大男が自分を守る理由を気にしていたので、その思いをヤマダが汲みとれたようだ。
拓馬と須坂以外の聴講者は二人。こういった計画には確実に関わる三郎と、その日は参加できるか未確定なジモンも面白がってついてきた。性格的に参加しそうだった千智は今回欠席する。彼女は親に夜の外出を禁止されているという。そのせいで計画に加われないそうだ。
拓馬たちは無人の教室に入る。めいめいに席につき、ヤマダひとりは教卓の上に作戦資料の入った紙袋を置いた。袋から大きい紙を出し、広げる。その紙は片面に絵や文字が印刷される。裏地の白いカレンダーのようだ。
ヤマダは資料を黒板に当てた。紙の四隅を磁石で留める。紙には簡略化された地図が描かれている。地図上の四角い図形の中には、駅と公園とアパートの文字が書かれてあった。
「金曜日の夜に、大男さんを捕まえる計画を発表します。順番に説明するねー」
参謀が紙の上に磁石を追加していく。増えた磁石には、字を書いた紙が貼ってあった。ヤマダは「父」と書いた磁石をつまむ。
「この日はうちのオヤジが駅前の飲み屋で酒を飲みます。いっしょに飲む人は昔の仕事仲間のジュンさんです。ジュンさんにお願いして、オヤジは酔っぱらった状態にさせます。そして公園のトイレ近くのベンチにオヤジを放置してもらう予定です」
父磁石が駅から公園へ移動する。次にアパートの上にある「美」と書かれた磁石が公園にうごく。
「美弥ちゃんはお姉さんを迎えにいくふりをしつつ、公園のトイレにむかってもらいます。このときに着けてほしいのがこのバンダナ」
ヤマダはたたんだ水色の布を美弥に手渡す。美弥は両手で布をためつすがめつ眺める。
「これを、どうするの?」
「頭巾にするよ、こうやって」
ヤマダは美弥に渡したものと同じ布を出す。布を大きく三角に折り、頭に覆う。布の端をうなじのあたりでむすぶと、頭巾になった。
「オヤジにはまえもって『わたしが水色のバンダナを被っていく』と教えておきます。美弥ちゃんがこのバンダナを着けたら、オヤジは美弥ちゃんをわたしだと勘違いします」
「ノブさんが須坂に絡んできたら、大男が助けにくるっていう寸法か?」
ヤマダは拓馬の予想にうなずく。
「それが一番いい『甲』の作戦ね」
次に武田信玄の絵が印刷された磁石が紙上にあらわれた。その絵のセンスが謎だ。
「わたしたちは公園で待機してて、大男さんが現れたらファイト!」
「信玄の磁石はどういう意味だ?」
「大男さんのぶんの磁石です。絵柄はわたしの趣味!」
「わかった、スルーする。んで『一番いい作戦』ってことは、ほかにも案があるのか?」
ヤマダは頭巾をぬぎながら「案ってほどでもないんだけど」と答える。
「予定通りにうごいてくれないのがうちのオヤジの困ったところでね。作戦実行中に、オヤジは公園で寝るかもしれない」
ノブが美弥と接触してこなければ計画は成り立たない。イレギュラーが発生した場合の対処法を、ヤマダが説明していく。
「そのときは美弥ちゃんが酔っぱらいを心配する通行人になりきって、オヤジを叩き起こしてください。起きたら美弥ちゃんをわたしだと勘違いするから。これが『乙』の作戦」
この対処にも穴がある。それを拓馬は指摘する。
「ノブさんが起きなかったり、公園で待っていなかったりしたらどーするんだよ?」
「そしたら美弥ちゃんはいっぺん駅にむかいます。その途中でわたしが美弥ちゃんに電話をかけます。会話内容は、お姉さんの都合が悪くなって今日は来れない、という感じです。適当にしゃべったら、アパートに帰りましょう。これが『丙』の作戦」
「作戦というか、失敗したときの後始末だな」
「そうだね。ほかの失敗原因は……オヤジ以外の人が美弥ちゃんに絡むこと」
その事態がもっとも危険だ。ノブが須坂を自分の娘と見誤ったとしても、彼は家族に危害をくわえはしない。だが計画にくみしない他人ではどうか。
「厄介なのは、美弥ちゃんが公園に向かう道中か、『丙』作戦実行中。このときに大男が出ても出なくても、美弥ちゃんはわたしに連絡してください。知らせがきたらみんなで助けに行くので、それまで耐えてください」
「私にどう耐えろと言うの?」
「基本的に公園にむかうように逃げてね。だれかひとりは公園にいるようにするから」
ヤマダは教卓の上に数枚置いてあるメモの中から一枚を取る
「美弥ちゃんの任務をまとめておいたよ」
須坂はそのメモを受け取り、じっくり見た。ヤマダの講釈は続く。
「順調にオヤジが美弥ちゃんに絡んでも、大男さんが現れない可能性もある。これも作戦失敗。そのときは解散です。説明は以上!」
ヤマダが話し終えた。口をつぐんでいた三郎が挙手する。
「その計画において、お前の父君が例の男に倒される危険があるわけだが──」
三郎が懸念することは人として正しい。ヤマダはみずから父を犠牲にしようとしているのだから。
「それでもいいのか?」
ヤマダは片手をぷらぷらふって「へーきへーき」と安請け合いする。
「うちのオヤジは殺したって死なないよ」
「あの男は他人を傷つける意思がないようだから、各自の負傷は心配していない。オレが言いたいのは、気絶した父君がちゃんと帰宅できるかどうかだ」
その憂慮は作戦の成否に関わらず、つきまとってくる事柄だ。ノブが大男に襲われなかったとしても、彼は外で熟睡するおそれがある。酒が入った状態では朝まで野宿もありうる。
「お前の父はジモンと体つきが似ているそうじゃないか。意識のない大柄な男性を運ぶとなると、オレと拓馬の手に余りそうだ」
ジモンが「ノブさんはわしより重いかもなあ」と補足した。ヤマダはひらひら手をふる。
「いーのいーの。最悪、オヤジを野宿させていいんです。そのうち目がさめたら帰るよ」
ヤマダは身内をぞんざいに扱う前提でいる。三郎はヤマダの揺るがない不孝心を知り、あきらめたようにうなずく。
「お前がいいと言うのなら、オレから言うことはない。……その作戦に乗ろう!」
質問をおえた三郎がジモンに顔を向ける。
「して、ジモンは当日、家の手伝いがあるんじゃないのか?」
「店にノブさんがおらんし、わしは出れんかもな」
「となると、オレと拓馬の二人で捕縛を試みるのか」
ヤマダが「いや四人だよ」と異をはさんだ。三郎は首をかしげる。
「四人? ひとりはお前だとして……ほかはだれだ?」
この疑問には拓馬が補足する。
「もうひとり協力してくれる人がいるんだ。ノブさんの友だちで、ジュンさんっていう」
「いましがた説明に出た、父の友人か?」
「ああ、その人だ。ジュンさんはかなり強いぞ。拳法とか暗器の使い手で──」
三郎の目が光る。
「なに? そんな知人がいたのか」
「あ、あぁ……いつも仕事で会えないんだけど、ときたまヤマダんちに遊びにくるんだ」
「ほう! 機会があれば手合せ願いたいな」
「この件が片付いたらな。それで、ジュンさんはどううごく予定なんだ?」
拓馬は省略された解説をヤマダに問う。ヤマダがメモを片手に「うーんとね」と言う。
「ジュンさんがオヤジを公園においてったあと、しばらく駅のほうに行くふりをして、その道中で待機。大男さんが出たらわたしがジュンさんに連絡して、公園にきてもらう」
「ジュンさんは公園にいない予定なんだな」
「うん。そのほうが大男さんの裏を突けるかなーと思って」
まるで公園で張り込む人員が、大男に筒抜けであるかのような口ぶりだった。
「それは、やつに俺らのうごきがモロバレしてる前提なのか?」
「うん……どこからどう監視してるのか、わかんないからね」
心もとない発言だ。事実、大男の能力は未知数。当然の警戒ではある。
「オヤジが役に立たなかったときは、ジュンさんが美弥ちゃんに絡む役をする、とも考えたんだけど、しょっぱなジュンさんが大男さんにノックアウトされたら、きびしいかな」
ヤマダは作戦に協力する大人の戦力を第一に考えているらしい。拓馬もジュンがこの中でもっとも頼りになる人だと思う。だが──
「こう言いたかないが、ジュンさんがいても勝てる確証はないぞ」
「たしかに……出たとこ勝負だね」
気弱な拓馬とヤマダは逆に、ジモンが妙案を得たかのように膝に手を打つ。
「そんなに強いならシド先生を呼ばんとな」
皆が呆気にとられる。言われてみると、身近なところに強者はいた。だが安易にその人物を頼るわけにはいかない。
「先生に言ったら計画がパーになるだろ?」
拓馬がそうさとすとジモンは「そういうもんかの」と納得しかねた。拓馬はなるべく平易に説明する。
「先生は俺らにこんな危険なまねをしてほしくないんだ。それは、わかるか?」
「そこんとこはわかる。シド先生はわしらのお守り役なんじゃろ?」
「そうだ。だからこんな計画を立ててるとバレたら、止めにかかるだろ」
「手伝ってもらえんのか?」
「きっとな。それが先生ってもんだ」
「犯人をとっつかまえりゃ、わしらがムチャをしなくなるとは思われんのか」
その見方は建設的だ。このまま大男を野放しにしておくよりも、生徒の奇行に加担したほうが事態は収束にむかいやすくなる。だがシドは一度校長の叱責を受けている。ふたたび咎を食らっても平気でいられるだろうか。校長の顔を立てねばならぬ身分の彼に、そんな反骨精神は強要できない。
「そう思ったとしても、先生はやれないんだよ。立場ってもんがある」
「立場……?」
「そう。生徒がバカやれても、先生はできない。校長とか保護者とかの目があるからな。そのへんの大人たちから文句言われちゃ、先生だって学校にきづらいだろ?」
「ようわかった。話をこじらせてしもうて、すまん」
ジモンの疑問が解消された。作戦会議は終了──するまえに、須坂が「ねえ」とヤマダに話しかける。
「昨日あなたから聞いた話だと、もうひとり協力してくれる大人がいるんでしょ。警察官だっていう人。その人はなにをするの?」
「えっと、その人は現場にこないんだけど、仲間を送ってくれることになってる」
「仲間? どんな?」
「たぶん、犬とか……」
須坂は眉をひそめて「なんのために?」とたずねた。ヤマダがあたふたする。
「ちょっと、説明しにくいんだけど……わたしたちに危険がないように、守ってくれる」
ヤマダはあえて本旨と外れる理由をのべた。シズカの仲間のことを正直に言っても理解してもらえないからだ。大男の本性についても同様だ。それゆえ、まだ話の通じやすい副効果を挙げた。それでも現実離れした理由にはちがいなく、須坂の追究はやまない。
「警察犬が警察官ぬきで、人を守れるの?」
須坂は現実的な解釈をしてくれた。事実とは異なるが、その解釈にヤマダが乗っかる。
「うん、わたしもまえに守ってもらったことあるし……ねえ?」
ヤマダは拓馬に同意を求めた。シズカの友が拓馬たちを守ったことは多々あるため、拓馬は首を縦にふる。
「そのへんは安心していい。でもその警察犬……シズカさんの仲間は、大男を倒すことには手を出さないらしい」
「中途半端な協力の仕方ね……」
「これでも譲歩してくれたほうなんだ。シズカさんは、俺らにはおとなしくしてほしかったみたいだし……」
拓馬たちが我を通した成果なのだと知ると、須坂は「そっちも複雑なのね」と同情めいた笑みを見せた。
ヤマダは「決行時刻は当日に知らせるね」と言い、片付けをはじめる。これで会議は完了したと拓馬は察し、空き教室をはなれた。
拓馬と須坂以外の聴講者は二人。こういった計画には確実に関わる三郎と、その日は参加できるか未確定なジモンも面白がってついてきた。性格的に参加しそうだった千智は今回欠席する。彼女は親に夜の外出を禁止されているという。そのせいで計画に加われないそうだ。
拓馬たちは無人の教室に入る。めいめいに席につき、ヤマダひとりは教卓の上に作戦資料の入った紙袋を置いた。袋から大きい紙を出し、広げる。その紙は片面に絵や文字が印刷される。裏地の白いカレンダーのようだ。
ヤマダは資料を黒板に当てた。紙の四隅を磁石で留める。紙には簡略化された地図が描かれている。地図上の四角い図形の中には、駅と公園とアパートの文字が書かれてあった。
「金曜日の夜に、大男さんを捕まえる計画を発表します。順番に説明するねー」
参謀が紙の上に磁石を追加していく。増えた磁石には、字を書いた紙が貼ってあった。ヤマダは「父」と書いた磁石をつまむ。
「この日はうちのオヤジが駅前の飲み屋で酒を飲みます。いっしょに飲む人は昔の仕事仲間のジュンさんです。ジュンさんにお願いして、オヤジは酔っぱらった状態にさせます。そして公園のトイレ近くのベンチにオヤジを放置してもらう予定です」
父磁石が駅から公園へ移動する。次にアパートの上にある「美」と書かれた磁石が公園にうごく。
「美弥ちゃんはお姉さんを迎えにいくふりをしつつ、公園のトイレにむかってもらいます。このときに着けてほしいのがこのバンダナ」
ヤマダはたたんだ水色の布を美弥に手渡す。美弥は両手で布をためつすがめつ眺める。
「これを、どうするの?」
「頭巾にするよ、こうやって」
ヤマダは美弥に渡したものと同じ布を出す。布を大きく三角に折り、頭に覆う。布の端をうなじのあたりでむすぶと、頭巾になった。
「オヤジにはまえもって『わたしが水色のバンダナを被っていく』と教えておきます。美弥ちゃんがこのバンダナを着けたら、オヤジは美弥ちゃんをわたしだと勘違いします」
「ノブさんが須坂に絡んできたら、大男が助けにくるっていう寸法か?」
ヤマダは拓馬の予想にうなずく。
「それが一番いい『甲』の作戦ね」
次に武田信玄の絵が印刷された磁石が紙上にあらわれた。その絵のセンスが謎だ。
「わたしたちは公園で待機してて、大男さんが現れたらファイト!」
「信玄の磁石はどういう意味だ?」
「大男さんのぶんの磁石です。絵柄はわたしの趣味!」
「わかった、スルーする。んで『一番いい作戦』ってことは、ほかにも案があるのか?」
ヤマダは頭巾をぬぎながら「案ってほどでもないんだけど」と答える。
「予定通りにうごいてくれないのがうちのオヤジの困ったところでね。作戦実行中に、オヤジは公園で寝るかもしれない」
ノブが美弥と接触してこなければ計画は成り立たない。イレギュラーが発生した場合の対処法を、ヤマダが説明していく。
「そのときは美弥ちゃんが酔っぱらいを心配する通行人になりきって、オヤジを叩き起こしてください。起きたら美弥ちゃんをわたしだと勘違いするから。これが『乙』の作戦」
この対処にも穴がある。それを拓馬は指摘する。
「ノブさんが起きなかったり、公園で待っていなかったりしたらどーするんだよ?」
「そしたら美弥ちゃんはいっぺん駅にむかいます。その途中でわたしが美弥ちゃんに電話をかけます。会話内容は、お姉さんの都合が悪くなって今日は来れない、という感じです。適当にしゃべったら、アパートに帰りましょう。これが『丙』の作戦」
「作戦というか、失敗したときの後始末だな」
「そうだね。ほかの失敗原因は……オヤジ以外の人が美弥ちゃんに絡むこと」
その事態がもっとも危険だ。ノブが須坂を自分の娘と見誤ったとしても、彼は家族に危害をくわえはしない。だが計画にくみしない他人ではどうか。
「厄介なのは、美弥ちゃんが公園に向かう道中か、『丙』作戦実行中。このときに大男が出ても出なくても、美弥ちゃんはわたしに連絡してください。知らせがきたらみんなで助けに行くので、それまで耐えてください」
「私にどう耐えろと言うの?」
「基本的に公園にむかうように逃げてね。だれかひとりは公園にいるようにするから」
ヤマダは教卓の上に数枚置いてあるメモの中から一枚を取る
「美弥ちゃんの任務をまとめておいたよ」
須坂はそのメモを受け取り、じっくり見た。ヤマダの講釈は続く。
「順調にオヤジが美弥ちゃんに絡んでも、大男さんが現れない可能性もある。これも作戦失敗。そのときは解散です。説明は以上!」
ヤマダが話し終えた。口をつぐんでいた三郎が挙手する。
「その計画において、お前の父君が例の男に倒される危険があるわけだが──」
三郎が懸念することは人として正しい。ヤマダはみずから父を犠牲にしようとしているのだから。
「それでもいいのか?」
ヤマダは片手をぷらぷらふって「へーきへーき」と安請け合いする。
「うちのオヤジは殺したって死なないよ」
「あの男は他人を傷つける意思がないようだから、各自の負傷は心配していない。オレが言いたいのは、気絶した父君がちゃんと帰宅できるかどうかだ」
その憂慮は作戦の成否に関わらず、つきまとってくる事柄だ。ノブが大男に襲われなかったとしても、彼は外で熟睡するおそれがある。酒が入った状態では朝まで野宿もありうる。
「お前の父はジモンと体つきが似ているそうじゃないか。意識のない大柄な男性を運ぶとなると、オレと拓馬の手に余りそうだ」
ジモンが「ノブさんはわしより重いかもなあ」と補足した。ヤマダはひらひら手をふる。
「いーのいーの。最悪、オヤジを野宿させていいんです。そのうち目がさめたら帰るよ」
ヤマダは身内をぞんざいに扱う前提でいる。三郎はヤマダの揺るがない不孝心を知り、あきらめたようにうなずく。
「お前がいいと言うのなら、オレから言うことはない。……その作戦に乗ろう!」
質問をおえた三郎がジモンに顔を向ける。
「して、ジモンは当日、家の手伝いがあるんじゃないのか?」
「店にノブさんがおらんし、わしは出れんかもな」
「となると、オレと拓馬の二人で捕縛を試みるのか」
ヤマダが「いや四人だよ」と異をはさんだ。三郎は首をかしげる。
「四人? ひとりはお前だとして……ほかはだれだ?」
この疑問には拓馬が補足する。
「もうひとり協力してくれる人がいるんだ。ノブさんの友だちで、ジュンさんっていう」
「いましがた説明に出た、父の友人か?」
「ああ、その人だ。ジュンさんはかなり強いぞ。拳法とか暗器の使い手で──」
三郎の目が光る。
「なに? そんな知人がいたのか」
「あ、あぁ……いつも仕事で会えないんだけど、ときたまヤマダんちに遊びにくるんだ」
「ほう! 機会があれば手合せ願いたいな」
「この件が片付いたらな。それで、ジュンさんはどううごく予定なんだ?」
拓馬は省略された解説をヤマダに問う。ヤマダがメモを片手に「うーんとね」と言う。
「ジュンさんがオヤジを公園においてったあと、しばらく駅のほうに行くふりをして、その道中で待機。大男さんが出たらわたしがジュンさんに連絡して、公園にきてもらう」
「ジュンさんは公園にいない予定なんだな」
「うん。そのほうが大男さんの裏を突けるかなーと思って」
まるで公園で張り込む人員が、大男に筒抜けであるかのような口ぶりだった。
「それは、やつに俺らのうごきがモロバレしてる前提なのか?」
「うん……どこからどう監視してるのか、わかんないからね」
心もとない発言だ。事実、大男の能力は未知数。当然の警戒ではある。
「オヤジが役に立たなかったときは、ジュンさんが美弥ちゃんに絡む役をする、とも考えたんだけど、しょっぱなジュンさんが大男さんにノックアウトされたら、きびしいかな」
ヤマダは作戦に協力する大人の戦力を第一に考えているらしい。拓馬もジュンがこの中でもっとも頼りになる人だと思う。だが──
「こう言いたかないが、ジュンさんがいても勝てる確証はないぞ」
「たしかに……出たとこ勝負だね」
気弱な拓馬とヤマダは逆に、ジモンが妙案を得たかのように膝に手を打つ。
「そんなに強いならシド先生を呼ばんとな」
皆が呆気にとられる。言われてみると、身近なところに強者はいた。だが安易にその人物を頼るわけにはいかない。
「先生に言ったら計画がパーになるだろ?」
拓馬がそうさとすとジモンは「そういうもんかの」と納得しかねた。拓馬はなるべく平易に説明する。
「先生は俺らにこんな危険なまねをしてほしくないんだ。それは、わかるか?」
「そこんとこはわかる。シド先生はわしらのお守り役なんじゃろ?」
「そうだ。だからこんな計画を立ててるとバレたら、止めにかかるだろ」
「手伝ってもらえんのか?」
「きっとな。それが先生ってもんだ」
「犯人をとっつかまえりゃ、わしらがムチャをしなくなるとは思われんのか」
その見方は建設的だ。このまま大男を野放しにしておくよりも、生徒の奇行に加担したほうが事態は収束にむかいやすくなる。だがシドは一度校長の叱責を受けている。ふたたび咎を食らっても平気でいられるだろうか。校長の顔を立てねばならぬ身分の彼に、そんな反骨精神は強要できない。
「そう思ったとしても、先生はやれないんだよ。立場ってもんがある」
「立場……?」
「そう。生徒がバカやれても、先生はできない。校長とか保護者とかの目があるからな。そのへんの大人たちから文句言われちゃ、先生だって学校にきづらいだろ?」
「ようわかった。話をこじらせてしもうて、すまん」
ジモンの疑問が解消された。作戦会議は終了──するまえに、須坂が「ねえ」とヤマダに話しかける。
「昨日あなたから聞いた話だと、もうひとり協力してくれる大人がいるんでしょ。警察官だっていう人。その人はなにをするの?」
「えっと、その人は現場にこないんだけど、仲間を送ってくれることになってる」
「仲間? どんな?」
「たぶん、犬とか……」
須坂は眉をひそめて「なんのために?」とたずねた。ヤマダがあたふたする。
「ちょっと、説明しにくいんだけど……わたしたちに危険がないように、守ってくれる」
ヤマダはあえて本旨と外れる理由をのべた。シズカの仲間のことを正直に言っても理解してもらえないからだ。大男の本性についても同様だ。それゆえ、まだ話の通じやすい副効果を挙げた。それでも現実離れした理由にはちがいなく、須坂の追究はやまない。
「警察犬が警察官ぬきで、人を守れるの?」
須坂は現実的な解釈をしてくれた。事実とは異なるが、その解釈にヤマダが乗っかる。
「うん、わたしもまえに守ってもらったことあるし……ねえ?」
ヤマダは拓馬に同意を求めた。シズカの友が拓馬たちを守ったことは多々あるため、拓馬は首を縦にふる。
「そのへんは安心していい。でもその警察犬……シズカさんの仲間は、大男を倒すことには手を出さないらしい」
「中途半端な協力の仕方ね……」
「これでも譲歩してくれたほうなんだ。シズカさんは、俺らにはおとなしくしてほしかったみたいだし……」
拓馬たちが我を通した成果なのだと知ると、須坂は「そっちも複雑なのね」と同情めいた笑みを見せた。
ヤマダは「決行時刻は当日に知らせるね」と言い、片付けをはじめる。これで会議は完了したと拓馬は察し、空き教室をはなれた。
タグ:短縮版拓馬
2019年07月04日
短縮拓馬篇−6章1 ★
須坂が拓馬たちに友好的に接してくれた日の放課後、拓馬はヤマダとともに帰宅した。校門を出てまもなく、例の金髪とその手下の刈り上げの少年と出くわしたが、大した騒動にはならなかった。彼らは偵察にきただけで、事を起こす気はなかった。なにより、彼らはヤマダのスカート姿におどろいた。彼らが見たヤマダは私服のズボン姿であり、それゆえ彼女を女子だと認識しなかったようだ。そのあたりの会話を聞くに、金髪は女子には手を出さない性分だと知れて、友人女子への被害は出なさそうだと拓馬は安心した。また、今回は反対にヤマダが金髪に危害をくわえた。金髪に対し、ヤマダは変人をよそおい、その奇行ぶりに金髪はドン引きしていた。関わっても疲れるだけの相手、との偽装は効果があったようで、金髪たちは思いのほか無抵抗で逃走していった。
拓馬は自宅付近でヤマダと別れた。玄関へすすむとそこに猫が座っている。猫は全体の毛皮は白いが顔のまん中や耳先、足先が黒い。シャム猫のような柄だ。
拓馬はいつもの調子で玄関に近づく。普通の猫は見知らぬ人がくると即逃げ出すものだが、この猫は座位の姿勢を変えない。
(人に馴れてる? それか──)
拓馬は今朝、自分がシズカと連絡をとったことを思い出した。この珍客が普通の猫ではないと仮定し、白黒模様の獣のそばでしゃがむ。
「どうした、俺に用か?」
猫はちいさな頭を縦にうごかした。その仕草は偶然か、と拓馬が半信半疑になったところ、猫は玄関の戸に頭をつっこんだ。猫の耳や鼻はするっと戸をすり抜け、またたく間に胴体が見えなくなった。
(シズカさんとこの、化け猫か……)
おもに二匹の猫がシズカの指示のもと、諜報活動を行なうという。拓馬はこの猫たちに何度か会ったようなのだが、彼らはその都度体毛の模様と色を変えてくるので、どの猫がだれかという区別はついていない。
(なにかを伝えにきたのかな)
拓馬は玄関の鍵を開けた。猫のあとを追おう──と思いきや、猫は玄関内でまた座っていた。勝手に家屋へ侵入するのを遠慮しているのだろうか。鍵のかかった玄関を通過した時点で、不法侵入相当だと拓馬は思うのだが。
「あがっていいよ」
『ではお言葉に甘える』
猫は中高年らしき男性の声で答えた。想像以上に高齢な性格の化け猫のようだ。
(化け物なら長生きしてるだろうし……)
と、愛らしい見た目と声にギャップがあることを自分なりに納得した。猫が音もなく廊下にあがる。彼らはもとより実体のない身。通路などあってないようなものだが、そのあたりは人間の常識に合わせてくれた。
拓馬は玄関の鍵をかけた。現在は拓馬以外の人間の家族は不在。すこし仮眠するつもりだったので、防犯用に用心しておいた。拓馬が猫にひとこと「すこしまっててくれ」とたのんだ。自室へいき、制服をぬぐ。よごれてもよい私服に着替えた。その格好で、居間の檻で留守番をした飼い犬を放す。トーマは拓馬の帰宅を全身でよろこんだ。拓馬の手や顔をなめたり、自身の体を拓馬にこすりつけたりする。ひとしきり犬の歓待を受けおえて、拓馬はソファに移動した。シズカの使いもソファのへりに乗る。位置的に猫は拓馬のななめ後ろにいる。視線を合わせるため、拓馬はソファに片足をのせ、体の向きを変えた。床につけた足にはトーマのあたたかい体が触れていた。
「それで……なんの用事で、きたんだ?」
『今朝がたの連絡を受けての返事、と思ってもらいたい』
「シズカさんが忙しくて、あんたがその代わりに話をしにきたと?」
『その認識で大差ない。ゆうても、あやつは今晩におぬしと話すつもりでいる』
夜まで待てない理由があるのか──と拓馬は不安がる。
「夜に話してちゃ、手遅れになる?」
『火急の用ではない。わしが遣わされたのは、言葉では教えきれぬことを見せるため』
「『見せる』?」
『事実を語るためにまぼろしを映し出す。わしの得意分野じゃて』
ほかにもできる者はいるがの、と老猫は自虐めいて言う。
『いままでわしが知り得たことを、おぬしに見せてしんぜよう』
「ドキュメンタリー映画みたいなものか?」
『そうじゃ。抵抗はないか?』
「ん? なんで?」
『幻術なんぞ体験したことはなかろうに、不気味ではないのか?』
現状、拓馬はしゃべる猫と接している。この状況を受け入れる自分が、いまさら故意の幻覚を見せられて、取り乱すだろうか。
(不気味なものは、見るときは見るしなぁ)
幼少時のトラウマがかすかによみがえった。悪意をもった霊が拓馬を自宅まで追ってきたことがあるのだ。その原因は、拓馬がうっかり霊に注目したせいだと記憶している。それにくらべて、見る者をどうこうする気のない幻影はおそれるに足らないように感じた。ただし、苦手な映像自体はある。
「まあ、グロテスクなもんはイヤだけど」
『安心せい。しょっきんぐ映像は出てこぬ』
「ならいいや」
『かるいのう』
老猫は拓馬の感性が常人離れしていると言いたげだ。拓馬は自分が非日常的な能力をおそれぬ理由を、もっともらしく言ってみる。
「シズカさんがいいと思ってやることなら……平気だと思う」
『そうか。信頼しておるのだな』
老猫はしっぽをうねらせて『映画といえばの』となにか思いつく。
『なれーしょんの種類は変更可能じゃぞ。若いおなごの声にしようか?』
「あんたがラクな方法でいいよ」
『そうか、ではこのままでやるぞ』
「どうやって見るんだ? スクリーンがぽんっと空中に出るのか?」
『それはめんどくさいんじゃ』
老猫は技術的に不可能ではないと示唆する。その言い方がなんだか人間くさくて、拓馬は老猫に親しみをおぼえた。
『夢を見るのと同じ要領で、映像を流すぞ』
老猫は拓馬に、横になって目をつむるよう指示した。老猫もへりのうえで腹這いになる。
『りら〜っくすじゃ』
拓馬は言われるままにソファに寝転がり、目をとじた。今朝は早起きしたせいか、なんだか寝てしまいそうになる。
「これ、ねたらダメだよな?」
『大丈夫じゃ。そうなれば夢見のほうをチョチョイといじるまで』
寝落ちしても問題はないと知り、拓馬はだいぶ気楽になった。
『これからある男のいめーじを伝えるぞ。おぬしの近辺に出没しておる男と、同一だと思われるやからじゃ』
暗い視界が徐々に明るんでいく。目を閉じても見える光景は、色のない世界だった。
拓馬は自宅付近でヤマダと別れた。玄関へすすむとそこに猫が座っている。猫は全体の毛皮は白いが顔のまん中や耳先、足先が黒い。シャム猫のような柄だ。
拓馬はいつもの調子で玄関に近づく。普通の猫は見知らぬ人がくると即逃げ出すものだが、この猫は座位の姿勢を変えない。
(人に馴れてる? それか──)
拓馬は今朝、自分がシズカと連絡をとったことを思い出した。この珍客が普通の猫ではないと仮定し、白黒模様の獣のそばでしゃがむ。
「どうした、俺に用か?」
猫はちいさな頭を縦にうごかした。その仕草は偶然か、と拓馬が半信半疑になったところ、猫は玄関の戸に頭をつっこんだ。猫の耳や鼻はするっと戸をすり抜け、またたく間に胴体が見えなくなった。
(シズカさんとこの、化け猫か……)
おもに二匹の猫がシズカの指示のもと、諜報活動を行なうという。拓馬はこの猫たちに何度か会ったようなのだが、彼らはその都度体毛の模様と色を変えてくるので、どの猫がだれかという区別はついていない。
(なにかを伝えにきたのかな)
拓馬は玄関の鍵を開けた。猫のあとを追おう──と思いきや、猫は玄関内でまた座っていた。勝手に家屋へ侵入するのを遠慮しているのだろうか。鍵のかかった玄関を通過した時点で、不法侵入相当だと拓馬は思うのだが。
「あがっていいよ」
『ではお言葉に甘える』
猫は中高年らしき男性の声で答えた。想像以上に高齢な性格の化け猫のようだ。
(化け物なら長生きしてるだろうし……)
と、愛らしい見た目と声にギャップがあることを自分なりに納得した。猫が音もなく廊下にあがる。彼らはもとより実体のない身。通路などあってないようなものだが、そのあたりは人間の常識に合わせてくれた。
拓馬は玄関の鍵をかけた。現在は拓馬以外の人間の家族は不在。すこし仮眠するつもりだったので、防犯用に用心しておいた。拓馬が猫にひとこと「すこしまっててくれ」とたのんだ。自室へいき、制服をぬぐ。よごれてもよい私服に着替えた。その格好で、居間の檻で留守番をした飼い犬を放す。トーマは拓馬の帰宅を全身でよろこんだ。拓馬の手や顔をなめたり、自身の体を拓馬にこすりつけたりする。ひとしきり犬の歓待を受けおえて、拓馬はソファに移動した。シズカの使いもソファのへりに乗る。位置的に猫は拓馬のななめ後ろにいる。視線を合わせるため、拓馬はソファに片足をのせ、体の向きを変えた。床につけた足にはトーマのあたたかい体が触れていた。
「それで……なんの用事で、きたんだ?」
『今朝がたの連絡を受けての返事、と思ってもらいたい』
「シズカさんが忙しくて、あんたがその代わりに話をしにきたと?」
『その認識で大差ない。ゆうても、あやつは今晩におぬしと話すつもりでいる』
夜まで待てない理由があるのか──と拓馬は不安がる。
「夜に話してちゃ、手遅れになる?」
『火急の用ではない。わしが遣わされたのは、言葉では教えきれぬことを見せるため』
「『見せる』?」
『事実を語るためにまぼろしを映し出す。わしの得意分野じゃて』
ほかにもできる者はいるがの、と老猫は自虐めいて言う。
『いままでわしが知り得たことを、おぬしに見せてしんぜよう』
「ドキュメンタリー映画みたいなものか?」
『そうじゃ。抵抗はないか?』
「ん? なんで?」
『幻術なんぞ体験したことはなかろうに、不気味ではないのか?』
現状、拓馬はしゃべる猫と接している。この状況を受け入れる自分が、いまさら故意の幻覚を見せられて、取り乱すだろうか。
(不気味なものは、見るときは見るしなぁ)
幼少時のトラウマがかすかによみがえった。悪意をもった霊が拓馬を自宅まで追ってきたことがあるのだ。その原因は、拓馬がうっかり霊に注目したせいだと記憶している。それにくらべて、見る者をどうこうする気のない幻影はおそれるに足らないように感じた。ただし、苦手な映像自体はある。
「まあ、グロテスクなもんはイヤだけど」
『安心せい。しょっきんぐ映像は出てこぬ』
「ならいいや」
『かるいのう』
老猫は拓馬の感性が常人離れしていると言いたげだ。拓馬は自分が非日常的な能力をおそれぬ理由を、もっともらしく言ってみる。
「シズカさんがいいと思ってやることなら……平気だと思う」
『そうか。信頼しておるのだな』
老猫はしっぽをうねらせて『映画といえばの』となにか思いつく。
『なれーしょんの種類は変更可能じゃぞ。若いおなごの声にしようか?』
「あんたがラクな方法でいいよ」
『そうか、ではこのままでやるぞ』
「どうやって見るんだ? スクリーンがぽんっと空中に出るのか?」
『それはめんどくさいんじゃ』
老猫は技術的に不可能ではないと示唆する。その言い方がなんだか人間くさくて、拓馬は老猫に親しみをおぼえた。
『夢を見るのと同じ要領で、映像を流すぞ』
老猫は拓馬に、横になって目をつむるよう指示した。老猫もへりのうえで腹這いになる。
『りら〜っくすじゃ』
拓馬は言われるままにソファに寝転がり、目をとじた。今朝は早起きしたせいか、なんだか寝てしまいそうになる。
「これ、ねたらダメだよな?」
『大丈夫じゃ。そうなれば夢見のほうをチョチョイといじるまで』
寝落ちしても問題はないと知り、拓馬はだいぶ気楽になった。
『これからある男のいめーじを伝えるぞ。おぬしの近辺に出没しておる男と、同一だと思われるやからじゃ』
暗い視界が徐々に明るんでいく。目を閉じても見える光景は、色のない世界だった。
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2019年07月03日
短縮拓馬篇−3章◆拓馬視点★
体育祭は例年通りのにぎわいで、無事に終わった。その後の授業日の放課後、拓馬のもとに三郎がやってくる。
「これから空いているか?」
「やることはないけど……」
「ならば好都合! 折り入ってたのみたいことがある──」
三郎は成石を襲った犯人捜しを提案した。本摩との約束通り、体育祭を終えたいま行動を起こすつもりだ。手始めに最近、公園でたむろしだした少年らに話を聞きにいくらしい。彼らは夜にも公園に集まるというので、もしかしたら、彼らが成石を襲った連中かもしれない、との推測を三郎は立てた。そうでなくとも、近隣住民は不良少年らをこわがっている。それゆえ年たちにふたたび立ち退きをたのむのだとか。拓馬は嫌々ながらも、三郎が知り得た情報には耳を傾けつづける。
「相手は金髪が特徴的な首領を合わせて、四人だという。こちらはオレとジモンと拓馬の三人で、数的には不利だが……なにも喧嘩が目当てで行くつもりはない。話し合いですませるつもりだから、なんとかなるだろう」
「なんとかならなかったから反省文を書かされたんだぞ」
三郎は首を縦にふりながら「たしかに」と同調する。
「しかし行かねばなるまい。もし犯人がべつにいるのなら、あの男子たちも成石のような被害を受けかねない」
「言って聞いてくれる相手かなぁ……」
拓馬は反論するかたわら、三郎の博愛ぶりに感心した。彼は不良たちの身も心配している。罪を憎んで人を憎まずの精神だ。
「それで、拓馬はきてくれるか?」
拓馬が抜ければ三郎はジモンと二人で行くだろう。相手方との人数差が増えるほどに危険は大きくなり、拓馬は気が気でなくなる。いっそ彼らを見守ったほうが精神的にましだ。
「もう俺を勘定に入れてるんだろ?」
付き合ってやると拓馬は渋々言い、拓馬を懐柔できた三郎は大いによろこんだ。拓馬は協力する条件を付け足す。
「だけど話をするのは三郎に任せるぞ。俺は相手が手ぇ出してきたときに助けるだけだ」
「ああ、それで充分心強い。さっそく帰宅して、私服に着替えてきて──」
拓馬たちのもとに千智が詰め寄ってきた。なぜか怒り顔だ。
「まーたあたしを除け者にして、おもしろいことをやるのね!」
今度はそういかないわ、とまくし立てた。彼女の剣幕に押された三郎は後ずさりする。
「いや、お前が邪魔者なんじゃなくてだな。お前までわざわざ行かなくてもいいと……」
「ヤマちゃんは連れて行ってたじゃない! あたしとなにがちがうってのよ」
千智は教壇を踏みつけた。壇の底が抜けんばかりの大きい音が鳴る。
「いっとくけど、脚力ならあんたに負けてないからね!」
千智は陸上部で学校の記録を塗り替えることもあるスポーツウーマンだ。三郎も運動神経が良いものの、瞬発力においては千智に軍配があがるようだった。
「ヤマダ……は拓馬の協力要請要員だ。前回はヤマダが乗り気だったし、ヤマダの行くところに拓馬もついて行くからな」
「金魚のフンみたいに言うなよ」
拓馬は不本意な評価に難癖をつけた。結果的には三郎の言う通りになったとはいえ、心から望んだ行動ではなかった。
三郎の弁明を聞いた千智はまだ不満げだ。
「ふーん、そう。あたしはなんにも役に立たないから、連れて行かないってわけね」
千智は空手の構えに似た姿勢をとる。
「そこに立ってなさい。あたしの蹴りを味わって、まだ立っていられたら諦めてあげる」
「待て待て! そんなに思いつめることはないだろう」
「じゃあ一緒に行っていいの?」
「あー、拓馬と固まっていてくれれば、な」
要望が通った千智は「ぃよしっ!」と拳を握りしめた。蹴撃の制裁を回避した三郎は深く息を吐いて、安堵した。
三郎が目先の痛手を避けるがために、拓馬の役割は増えてしまった。守る対象が増えること自体はかまわない。だが物見遊山で危険に首をつっこむ者を連れていくことに不安を感じる。
「大丈夫なのか、これで」
と先行きを案じた。そのつぶやきを、気に留める者はいなかった。
機嫌を直した千智はヤマダを誘いだした。まるで祭りにでも行くかのような気楽さだ。ヤマダが誘いを承諾したので、拓馬は女子二人のお守りを担当することとなる。
(めんどーなことにならなきゃいいが……)
拓馬が前途を憂《うれ》う反面、女子たちはたのしげだった。
「これから空いているか?」
「やることはないけど……」
「ならば好都合! 折り入ってたのみたいことがある──」
三郎は成石を襲った犯人捜しを提案した。本摩との約束通り、体育祭を終えたいま行動を起こすつもりだ。手始めに最近、公園でたむろしだした少年らに話を聞きにいくらしい。彼らは夜にも公園に集まるというので、もしかしたら、彼らが成石を襲った連中かもしれない、との推測を三郎は立てた。そうでなくとも、近隣住民は不良少年らをこわがっている。それゆえ年たちにふたたび立ち退きをたのむのだとか。拓馬は嫌々ながらも、三郎が知り得た情報には耳を傾けつづける。
「相手は金髪が特徴的な首領を合わせて、四人だという。こちらはオレとジモンと拓馬の三人で、数的には不利だが……なにも喧嘩が目当てで行くつもりはない。話し合いですませるつもりだから、なんとかなるだろう」
「なんとかならなかったから反省文を書かされたんだぞ」
三郎は首を縦にふりながら「たしかに」と同調する。
「しかし行かねばなるまい。もし犯人がべつにいるのなら、あの男子たちも成石のような被害を受けかねない」
「言って聞いてくれる相手かなぁ……」
拓馬は反論するかたわら、三郎の博愛ぶりに感心した。彼は不良たちの身も心配している。罪を憎んで人を憎まずの精神だ。
「それで、拓馬はきてくれるか?」
拓馬が抜ければ三郎はジモンと二人で行くだろう。相手方との人数差が増えるほどに危険は大きくなり、拓馬は気が気でなくなる。いっそ彼らを見守ったほうが精神的にましだ。
「もう俺を勘定に入れてるんだろ?」
付き合ってやると拓馬は渋々言い、拓馬を懐柔できた三郎は大いによろこんだ。拓馬は協力する条件を付け足す。
「だけど話をするのは三郎に任せるぞ。俺は相手が手ぇ出してきたときに助けるだけだ」
「ああ、それで充分心強い。さっそく帰宅して、私服に着替えてきて──」
拓馬たちのもとに千智が詰め寄ってきた。なぜか怒り顔だ。
「まーたあたしを除け者にして、おもしろいことをやるのね!」
今度はそういかないわ、とまくし立てた。彼女の剣幕に押された三郎は後ずさりする。
「いや、お前が邪魔者なんじゃなくてだな。お前までわざわざ行かなくてもいいと……」
「ヤマちゃんは連れて行ってたじゃない! あたしとなにがちがうってのよ」
千智は教壇を踏みつけた。壇の底が抜けんばかりの大きい音が鳴る。
「いっとくけど、脚力ならあんたに負けてないからね!」
千智は陸上部で学校の記録を塗り替えることもあるスポーツウーマンだ。三郎も運動神経が良いものの、瞬発力においては千智に軍配があがるようだった。
「ヤマダ……は拓馬の協力要請要員だ。前回はヤマダが乗り気だったし、ヤマダの行くところに拓馬もついて行くからな」
「金魚のフンみたいに言うなよ」
拓馬は不本意な評価に難癖をつけた。結果的には三郎の言う通りになったとはいえ、心から望んだ行動ではなかった。
三郎の弁明を聞いた千智はまだ不満げだ。
「ふーん、そう。あたしはなんにも役に立たないから、連れて行かないってわけね」
千智は空手の構えに似た姿勢をとる。
「そこに立ってなさい。あたしの蹴りを味わって、まだ立っていられたら諦めてあげる」
「待て待て! そんなに思いつめることはないだろう」
「じゃあ一緒に行っていいの?」
「あー、拓馬と固まっていてくれれば、な」
要望が通った千智は「ぃよしっ!」と拳を握りしめた。蹴撃の制裁を回避した三郎は深く息を吐いて、安堵した。
三郎が目先の痛手を避けるがために、拓馬の役割は増えてしまった。守る対象が増えること自体はかまわない。だが物見遊山で危険に首をつっこむ者を連れていくことに不安を感じる。
「大丈夫なのか、これで」
と先行きを案じた。そのつぶやきを、気に留める者はいなかった。
機嫌を直した千智はヤマダを誘いだした。まるで祭りにでも行くかのような気楽さだ。ヤマダが誘いを承諾したので、拓馬は女子二人のお守りを担当することとなる。
(めんどーなことにならなきゃいいが……)
拓馬が前途を憂《うれ》う反面、女子たちはたのしげだった。
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2019年07月02日
短縮拓馬篇−3章2 ★
シズカの狐は幽霊と似た存在だ。それを見える者はシズカと、拓馬の父と、そして拓馬。普通の人には見えず、狐がなつく対象であるヤマダは狐を見れない。それゆえ拓馬は彼女に狐のことを伝えておいた。動物好きなヤマダは不可視の動物を気味悪がることなく、むしろどんな愛らしい姿なのか気になっていた。
狐が派遣されて半月ほど経ったころ。拓馬は連休明けの中間テストの真っ只中にいた。いまの時限の試験監督者は銀髪の英語教師である。彼は今学期から赴任した新人だ。新人といってもその年頃は三十歳ちかい、垢抜けた大人である。
新人教師のあだ名をシドという。これはヤマダの命名だ。由来はミドルネームをふくめた、教師の名の頭文字である。このあだ名を使っていいか、ヤマダが申し出たときの彼は、奇妙なほどに戸惑っていた。だがすぐに快諾し、以後多くの生徒は彼をシド先生と呼ぶようになった。
シドは諸事情により一学期のみの就任をするという。以前は警備員を務めたと自称する、経歴の異色な男性である。一般的でない髪色もさることなから、色黒で、黒いシャツを着て、黄色いサングラスをかける風貌もまた稀有だ。風変わりな姿とは裏腹に、その人柄は温厚で愛想がいい。それゆえ生徒からは高い支持を得た。なお彼は身の丈一八〇センチを超えた偉丈夫なせいか、女子の人気が特にあるようだ。
拓馬もこの偉丈夫には好感をもっている。拓馬はさきの連休中、飼い犬の散歩の際にシドと出会っていた。彼は拓馬の犬をいたくかわいがってくれ、犬もまたこの教師を気に入った。両者の態度を間近で見た拓馬は、シドの動物好きぶりに親しみをおぼえた。
ただこのときの邂逅はけっして平和的なものではなかった。新任教師は校長の指示を受け、拓馬たちと衝突しかねない不良少年らの動向を時々さぐっているのだという。彼の採用目的は、拓馬たちを守ることでもあるとか。だから前職が警備員という男性が急遽配属されたのだと、拓馬は腑に落ちた。
試験監督中のシドは教卓の椅子に鎮座する。彼は連休中に拓馬と会って以来、スーツのジャケットを羽織らなくなった。黒い長袖シャツをひじのあたりで腕まくりするスタイルでいる。ジャケットを着用する間は目立たなかった筋肉がありありと見えるようになり、体育教師に見間違う雰囲気をかもしていた。
試験開始からしばらく経過し、体格の良い教師がやおら席を立ちあがった。彼は教室の後方へ進む。
「はい、どうぞ」
シドがそう言うと、次に男子生徒の謝辞が聞こえた。どうやら生徒が筆記用具を落としたのを、シドが拾ったようだ。試験中は通常、生徒の離席ができない。その規則を生徒が順守するために、監督者が適宜対処することになっている。雑用を終えた教師はすぐ教卓にもどる、はずだった。
教室中に鈍い音がひびく。その音には重量感があった。只事ではないと思った拓馬が室内を見回す。こういった異変に対処すべき教師をさがすと、いつも高い位置にある彼の銀髪が、生徒の机と同じ高さにあった。
「失礼! つまづいてしまいました」
弱るのは髪の色素だけで充分、とシドは軽口を述べた。拓馬は彼がただの不注意で転倒したのだと思い、ほかの生徒もそう楽観する。教師が教卓へ鎮座すると、なにもなかったかのように試験が続行した。
試験が無事終わり、答案が最後列から前へと渡った。それらの紙束をシドが回収する。
「皆さん、お疲れさまです。結果は後日、授業で」
監督者は人のよさそうな笑顔を生徒に向けたのち、教室を出た。今日で試験は終わりである。重大なイベントを終えた拓馬は帰り支度をした。その最中にヤマダがやってくる。
「タッちゃん、いまから暇ある?」
「答えの確認でもするのか?」
「シド先生、あのまんまだと本当に倒れそう。だから一緒に帰るように誘いたいの」
ヤマダは教師の転倒を一時の不注意として見過ごす気がない。拓馬は先日、シドが休みを返上して町中を練り歩いたのを思い出した。彼は疲労がたまっているかもしれない。
「そんなにつらそうだったか?」
ヤマダが二度うなずく。
「とにかく、話をつけてくる!」
ヤマダとそのお守りの白い狐が教室を走り出た。拓馬が廊下に行ってみると、答案の束を持つ教師が他の女子生徒に捕まっていた。シドが女子らに解放されたあとで、ヤマダが声をかける。その会話は拓馬に聞こえない。
「あれ、帰らないの?」
鞄を持つ千智が拓馬に話しかけてきた。拓馬は状況を正直に話した。彼女はうなずいて「まあ、ヘンよね」とヤマダに同意する。
「先生は三郎の攻撃を全部かわせるのに、なにもない床でつまづくなんて」
三郎は剣道部員だが、徒手での戦いにも興味を示す男子だ。それゆえ彼は武芸家だと見込んだシドに徒手で稽古をつけてもらったことがある。拓馬は稽古風景を終始観戦してはいないものの、シドの回避行動の中で、彼の足がふらつくところは見なかった。
「あ! 危ない!」
千智は鞄をその場に放りすてた。
(まさか先生がたおれて……)
拓馬の不安は的中しかけていた。大柄な教師は、女子生徒にもたれかかる。小柄なヤマダでは教師の体を支えきれない。両者が体勢を崩す。大きな音が廊下中に伝わった。
「先生、ヤマちゃんがつぶれちゃう!」
千智は倒れる彼らの耳元でさけんだ。女子に覆いかぶさった教師の意識はなく、下敷きになった生徒も反応がない。さいわい生徒の後頭部は教師の右手で守られてあった。
拓馬は「先生をどかすぞ」と宣言した。ヤマダの上半身だけでも負荷を取り除く必要がある。そう判断して教師の肩を押そうとしたとき、教師が目を開ける。倒れたときの衝撃で彼のサングラスはずり落ちており、青色の目が露わになる。
「シド先生、気がついた?」
千智が意識確認の言葉を投げかけた。教師は返答するよりさきに上半身を起こす。
「……無様なところをお見せしました」
シドは座位に体勢を変えながらつぶやいた。いたって冷静に、落ちかかったサングラスをかけなおす。彼はその場で立膝をついた。ヤマダの肩と腿の裏に腕をとおす。
「オヤマダさんを保健室へ運びます。ネギシさんは答案を職員室へ届けてくれますか?」
いましがた昏倒した男が、気絶中の女子を運ぼうと言う。拓馬は無謀だと判断する。
「俺がヤマダを運ぶよ。先生は休んでて」
「私は平気です。もうなんともありません」
シドがヤマダの上体を起こした。するとヤマダが目覚め、拓馬と目が合う。
「……あれ? 学校?」
次にヤマダは自身の体を支える者を見る。すると彼女は固まった。反対にシドは笑みを浮かべる。
「痛いところはありませんか?」
ヤマダは視線をそらして「えっと……」と口ごもった。状況がまだ飲みこめないらしく、返答に窮している。そこへ慌ただしく廊下を駆ける音が近づいてきた。
「おい! 先生が倒れたって……」
拓馬らの担任が騒ぎを聞きつけてきた。本摩はシドと生徒たちを見て、ぽかんとする。
「小山田が倒れた、のか?」
本摩は聞いた情報と現実との相違に困惑していた。教師たちが事実を共有したのち、この場は解散となる。シドは即時帰宅することとなり、拓馬とヤマダも二人で一緒に帰った。
狐が派遣されて半月ほど経ったころ。拓馬は連休明けの中間テストの真っ只中にいた。いまの時限の試験監督者は銀髪の英語教師である。彼は今学期から赴任した新人だ。新人といってもその年頃は三十歳ちかい、垢抜けた大人である。
新人教師のあだ名をシドという。これはヤマダの命名だ。由来はミドルネームをふくめた、教師の名の頭文字である。このあだ名を使っていいか、ヤマダが申し出たときの彼は、奇妙なほどに戸惑っていた。だがすぐに快諾し、以後多くの生徒は彼をシド先生と呼ぶようになった。
シドは諸事情により一学期のみの就任をするという。以前は警備員を務めたと自称する、経歴の異色な男性である。一般的でない髪色もさることなから、色黒で、黒いシャツを着て、黄色いサングラスをかける風貌もまた稀有だ。風変わりな姿とは裏腹に、その人柄は温厚で愛想がいい。それゆえ生徒からは高い支持を得た。なお彼は身の丈一八〇センチを超えた偉丈夫なせいか、女子の人気が特にあるようだ。
拓馬もこの偉丈夫には好感をもっている。拓馬はさきの連休中、飼い犬の散歩の際にシドと出会っていた。彼は拓馬の犬をいたくかわいがってくれ、犬もまたこの教師を気に入った。両者の態度を間近で見た拓馬は、シドの動物好きぶりに親しみをおぼえた。
ただこのときの邂逅はけっして平和的なものではなかった。新任教師は校長の指示を受け、拓馬たちと衝突しかねない不良少年らの動向を時々さぐっているのだという。彼の採用目的は、拓馬たちを守ることでもあるとか。だから前職が警備員という男性が急遽配属されたのだと、拓馬は腑に落ちた。
試験監督中のシドは教卓の椅子に鎮座する。彼は連休中に拓馬と会って以来、スーツのジャケットを羽織らなくなった。黒い長袖シャツをひじのあたりで腕まくりするスタイルでいる。ジャケットを着用する間は目立たなかった筋肉がありありと見えるようになり、体育教師に見間違う雰囲気をかもしていた。
試験開始からしばらく経過し、体格の良い教師がやおら席を立ちあがった。彼は教室の後方へ進む。
「はい、どうぞ」
シドがそう言うと、次に男子生徒の謝辞が聞こえた。どうやら生徒が筆記用具を落としたのを、シドが拾ったようだ。試験中は通常、生徒の離席ができない。その規則を生徒が順守するために、監督者が適宜対処することになっている。雑用を終えた教師はすぐ教卓にもどる、はずだった。
教室中に鈍い音がひびく。その音には重量感があった。只事ではないと思った拓馬が室内を見回す。こういった異変に対処すべき教師をさがすと、いつも高い位置にある彼の銀髪が、生徒の机と同じ高さにあった。
「失礼! つまづいてしまいました」
弱るのは髪の色素だけで充分、とシドは軽口を述べた。拓馬は彼がただの不注意で転倒したのだと思い、ほかの生徒もそう楽観する。教師が教卓へ鎮座すると、なにもなかったかのように試験が続行した。
試験が無事終わり、答案が最後列から前へと渡った。それらの紙束をシドが回収する。
「皆さん、お疲れさまです。結果は後日、授業で」
監督者は人のよさそうな笑顔を生徒に向けたのち、教室を出た。今日で試験は終わりである。重大なイベントを終えた拓馬は帰り支度をした。その最中にヤマダがやってくる。
「タッちゃん、いまから暇ある?」
「答えの確認でもするのか?」
「シド先生、あのまんまだと本当に倒れそう。だから一緒に帰るように誘いたいの」
ヤマダは教師の転倒を一時の不注意として見過ごす気がない。拓馬は先日、シドが休みを返上して町中を練り歩いたのを思い出した。彼は疲労がたまっているかもしれない。
「そんなにつらそうだったか?」
ヤマダが二度うなずく。
「とにかく、話をつけてくる!」
ヤマダとそのお守りの白い狐が教室を走り出た。拓馬が廊下に行ってみると、答案の束を持つ教師が他の女子生徒に捕まっていた。シドが女子らに解放されたあとで、ヤマダが声をかける。その会話は拓馬に聞こえない。
「あれ、帰らないの?」
鞄を持つ千智が拓馬に話しかけてきた。拓馬は状況を正直に話した。彼女はうなずいて「まあ、ヘンよね」とヤマダに同意する。
「先生は三郎の攻撃を全部かわせるのに、なにもない床でつまづくなんて」
三郎は剣道部員だが、徒手での戦いにも興味を示す男子だ。それゆえ彼は武芸家だと見込んだシドに徒手で稽古をつけてもらったことがある。拓馬は稽古風景を終始観戦してはいないものの、シドの回避行動の中で、彼の足がふらつくところは見なかった。
「あ! 危ない!」
千智は鞄をその場に放りすてた。
(まさか先生がたおれて……)
拓馬の不安は的中しかけていた。大柄な教師は、女子生徒にもたれかかる。小柄なヤマダでは教師の体を支えきれない。両者が体勢を崩す。大きな音が廊下中に伝わった。
「先生、ヤマちゃんがつぶれちゃう!」
千智は倒れる彼らの耳元でさけんだ。女子に覆いかぶさった教師の意識はなく、下敷きになった生徒も反応がない。さいわい生徒の後頭部は教師の右手で守られてあった。
拓馬は「先生をどかすぞ」と宣言した。ヤマダの上半身だけでも負荷を取り除く必要がある。そう判断して教師の肩を押そうとしたとき、教師が目を開ける。倒れたときの衝撃で彼のサングラスはずり落ちており、青色の目が露わになる。
「シド先生、気がついた?」
千智が意識確認の言葉を投げかけた。教師は返答するよりさきに上半身を起こす。
「……無様なところをお見せしました」
シドは座位に体勢を変えながらつぶやいた。いたって冷静に、落ちかかったサングラスをかけなおす。彼はその場で立膝をついた。ヤマダの肩と腿の裏に腕をとおす。
「オヤマダさんを保健室へ運びます。ネギシさんは答案を職員室へ届けてくれますか?」
いましがた昏倒した男が、気絶中の女子を運ぼうと言う。拓馬は無謀だと判断する。
「俺がヤマダを運ぶよ。先生は休んでて」
「私は平気です。もうなんともありません」
シドがヤマダの上体を起こした。するとヤマダが目覚め、拓馬と目が合う。
「……あれ? 学校?」
次にヤマダは自身の体を支える者を見る。すると彼女は固まった。反対にシドは笑みを浮かべる。
「痛いところはありませんか?」
ヤマダは視線をそらして「えっと……」と口ごもった。状況がまだ飲みこめないらしく、返答に窮している。そこへ慌ただしく廊下を駆ける音が近づいてきた。
「おい! 先生が倒れたって……」
拓馬らの担任が騒ぎを聞きつけてきた。本摩はシドと生徒たちを見て、ぽかんとする。
「小山田が倒れた、のか?」
本摩は聞いた情報と現実との相違に困惑していた。教師たちが事実を共有したのち、この場は解散となる。シドは即時帰宅することとなり、拓馬とヤマダも二人で一緒に帰った。
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2019年07月01日
短縮拓馬篇−2章3 ★
今日は授業が午前中で終わる土曜補習。一日の余暇時間が多い日ゆえに、生徒らは活気づく──のが通例だった。拓馬が登校したところ、教室内には異質な空気がただよう。同級生たちが不安そうに話し合っているのだ。
(テストでもやるのか?)
成績にかかわる授業がある日は生徒たちがざわつくものだ。ただ、拓馬はそんな授業があるとは聞いていない。そこで拓馬は友人たちに「今日はなんかあったっけ?」と質問をする。質問相手は、たまたま拓馬と目があった長身の女子と小柄な女子だ。
「あったのは昨日!」
長身の女子が答えた。彼女は千智といい、なぜかにらむように拓馬を直視する。
「昨日の夜に襲われた生徒がいるんだって」
拓馬が想定した答えとはかけ離れた、物騒な出来事だ。拓馬はにわかに信じがたい。
「襲われたぁ? だれが?」
「うちのクラスのスケコマシよ。転校してきたばっかりなのに運が悪いわねー」
被害者は今学期に転入してきた男子、と拓馬は察した。その男子の本姓は成石《なりいし》という。彼は女好きなようで、早くも同学年の女子たちと親しくするとか。拓馬はそんな軽薄な成石には思い入れが無いながらも、その被害状況がいかほどか、心配になる。
「襲われてどうなった? 学校には──」
来れるのか、と噂をすれば話題の本人が入室してきた。成石は教室中の生徒の視線を一身に集める。見栄っ張りな彼にとってその注目が快感だったのか、成石は得意気に笑んだ。
(なんだ、元気そうだな)
人騒がせなやつである。いらぬ心配をした拓馬はかるい怒りすら芽生え、あえて成石を視界の外に追いやる。この態度なら彼の不興を買えると思った。
拓馬の反抗とは反対に、小柄な女子が成石へ駆け寄る。彼女はあだ名をヤマダといった。
「ナルくん、ケガはないの?」
「なあに、平気さ。きみはいままで僕のことを心配していたのかい?」
ヤマダは自身のポニーテールを左右に振って「ううん」と否定する。
「それよか、どんな相手に襲われたの?」
吊り目な彼女はそのキツそうな顔に似合う冷淡な態度をとる。だがヤマダなら拓馬と同様、被害者を案じたはずだと拓馬は思った。彼女と拓馬は幼少時からの古馴染みであり、おたがいに性格や信条を熟知する仲だ。
「余計なことを言わずに『心配してた』と言ってくれてもいいじゃないか」
ヤマダの性情をよく知らない成石は大げさに落胆した。そこへ拓馬たちの担任の教師が教室に入る。本摩という中年の男性教師だ。白髪交じりの教師は成石の姿を認める。
「お? 成石が来ているな。その様子だと、体は大丈夫そうか」
「僕は体を鍛えていますからね」
「トレーニングもほどほどにな。危険な目に遭ってまで体力作りをするもんじゃあない」
本摩は成石をいたわったあと、教壇に立った。教室全体を見渡し、神妙な顔を見せる。
「あー、実は昨晩ランニング中の成石が何者かに気絶させられた。今後も同じような被害が出るかもしれん。みんな、夜の一人歩きは控えるよーに」
本摩は前列席にいる長髪の女子生徒を見た。彼女は須坂といい、成石と同時期に転入してきた。美人ではあるが社交的でなく、まだクラスに馴染めていない。
須坂は担任から顔をそらした。これらのやり取りがなにを意味するのか、拓馬はよくわからなかった。
突然、須坂の隣席にいる男子が大きく挙手する。
「先生、この襲撃事件は今回がはじめてですか?」
この男子は仙谷三郎という、正義感あふれる剣道部員だ。生徒会の役員を率先して務めるところなど、とかく他人の役に立つことをやりたがる稀有な男子である。そのため人を困らせる悪党がいると聞くや、みずから成敗しに行く行動力がある。その付き添いに彼と同じ部の男子や、空手家の拓馬が連行されることがしばしばあった。拓馬はイヤな予感をしつつも、三郎の動向を静観した。
「わからん。前例があれば警察が知ってるだろうが、そんなことを聞いてどうする?」
「もちろん、不届き者を成敗して──」
「まえに不良連中とモメたのを忘れたか?」
拓馬たちは以前、デパートの一画を占領する不良たちを立ちのかせるため、彼らと争った。この件はどこから漏れたのか校長に知られ、拓馬たちは反省文を書かされていた。本摩はそのことを言っている。
「問題を起こすと校長が黙っていないぞ」
三郎はがたっと椅子をずらし、立ち上がる。
「では、悪人の好き放題にさせておけと?」
「そうは言わんよ。お前たちが危ない思いをする必要はないだけだ」
「我らの力を合わせれば不審者など!」
三郎は「なあジモン、拓馬!」と前回の戦友に呼びかけた。ジモンというあだ名の大柄な男子は「おう!」と握りこぶしをつくる。対照的に拓馬は「俺も?」と他人事のように答えた。中年の教師は三者三様の生徒を見回す。
「正義感が強くて結構だ。でもな、来月に中間テストがあって、その後には体育祭が控えている。体力自慢のお前たちが万一ケガで欠場したんじゃ、クラスのみんなも面白くないだろう。犯人捜しはそのあとにするんだな」
本摩は生徒の犯人捜索を引きとめなかった。起きた事件が一過性の出来事だと信じてか、生徒を止めても無駄だと思ったか、いずれにせよ現状は無難な説得だった。
三郎はさきほどの勢いが削がれ、「わかりました」と言って、大人しく着席した。三郎の勝手な行動はクラス全体の迷惑になりうる、との可能性を聞いて、三郎は我を通しにくくなったのだろう。
「素直でよろしい。それじゃ、授業をやるぞ」
本摩は話題を切り替えた。事件のない日と変わらぬ要領で、英語の授業を執る。だが拓馬の意識はなお事件に留まった。その解決ができそうな助っ人に思いを馳せる。
(このこと、シズカさんに言ってみようか)
その予定を頭の片隅に置いておきながら、拓馬は授業に集中した。
(テストでもやるのか?)
成績にかかわる授業がある日は生徒たちがざわつくものだ。ただ、拓馬はそんな授業があるとは聞いていない。そこで拓馬は友人たちに「今日はなんかあったっけ?」と質問をする。質問相手は、たまたま拓馬と目があった長身の女子と小柄な女子だ。
「あったのは昨日!」
長身の女子が答えた。彼女は千智といい、なぜかにらむように拓馬を直視する。
「昨日の夜に襲われた生徒がいるんだって」
拓馬が想定した答えとはかけ離れた、物騒な出来事だ。拓馬はにわかに信じがたい。
「襲われたぁ? だれが?」
「うちのクラスのスケコマシよ。転校してきたばっかりなのに運が悪いわねー」
被害者は今学期に転入してきた男子、と拓馬は察した。その男子の本姓は成石《なりいし》という。彼は女好きなようで、早くも同学年の女子たちと親しくするとか。拓馬はそんな軽薄な成石には思い入れが無いながらも、その被害状況がいかほどか、心配になる。
「襲われてどうなった? 学校には──」
来れるのか、と噂をすれば話題の本人が入室してきた。成石は教室中の生徒の視線を一身に集める。見栄っ張りな彼にとってその注目が快感だったのか、成石は得意気に笑んだ。
(なんだ、元気そうだな)
人騒がせなやつである。いらぬ心配をした拓馬はかるい怒りすら芽生え、あえて成石を視界の外に追いやる。この態度なら彼の不興を買えると思った。
拓馬の反抗とは反対に、小柄な女子が成石へ駆け寄る。彼女はあだ名をヤマダといった。
「ナルくん、ケガはないの?」
「なあに、平気さ。きみはいままで僕のことを心配していたのかい?」
ヤマダは自身のポニーテールを左右に振って「ううん」と否定する。
「それよか、どんな相手に襲われたの?」
吊り目な彼女はそのキツそうな顔に似合う冷淡な態度をとる。だがヤマダなら拓馬と同様、被害者を案じたはずだと拓馬は思った。彼女と拓馬は幼少時からの古馴染みであり、おたがいに性格や信条を熟知する仲だ。
「余計なことを言わずに『心配してた』と言ってくれてもいいじゃないか」
ヤマダの性情をよく知らない成石は大げさに落胆した。そこへ拓馬たちの担任の教師が教室に入る。本摩という中年の男性教師だ。白髪交じりの教師は成石の姿を認める。
「お? 成石が来ているな。その様子だと、体は大丈夫そうか」
「僕は体を鍛えていますからね」
「トレーニングもほどほどにな。危険な目に遭ってまで体力作りをするもんじゃあない」
本摩は成石をいたわったあと、教壇に立った。教室全体を見渡し、神妙な顔を見せる。
「あー、実は昨晩ランニング中の成石が何者かに気絶させられた。今後も同じような被害が出るかもしれん。みんな、夜の一人歩きは控えるよーに」
本摩は前列席にいる長髪の女子生徒を見た。彼女は須坂といい、成石と同時期に転入してきた。美人ではあるが社交的でなく、まだクラスに馴染めていない。
須坂は担任から顔をそらした。これらのやり取りがなにを意味するのか、拓馬はよくわからなかった。
突然、須坂の隣席にいる男子が大きく挙手する。
「先生、この襲撃事件は今回がはじめてですか?」
この男子は仙谷三郎という、正義感あふれる剣道部員だ。生徒会の役員を率先して務めるところなど、とかく他人の役に立つことをやりたがる稀有な男子である。そのため人を困らせる悪党がいると聞くや、みずから成敗しに行く行動力がある。その付き添いに彼と同じ部の男子や、空手家の拓馬が連行されることがしばしばあった。拓馬はイヤな予感をしつつも、三郎の動向を静観した。
「わからん。前例があれば警察が知ってるだろうが、そんなことを聞いてどうする?」
「もちろん、不届き者を成敗して──」
「まえに不良連中とモメたのを忘れたか?」
拓馬たちは以前、デパートの一画を占領する不良たちを立ちのかせるため、彼らと争った。この件はどこから漏れたのか校長に知られ、拓馬たちは反省文を書かされていた。本摩はそのことを言っている。
「問題を起こすと校長が黙っていないぞ」
三郎はがたっと椅子をずらし、立ち上がる。
「では、悪人の好き放題にさせておけと?」
「そうは言わんよ。お前たちが危ない思いをする必要はないだけだ」
「我らの力を合わせれば不審者など!」
三郎は「なあジモン、拓馬!」と前回の戦友に呼びかけた。ジモンというあだ名の大柄な男子は「おう!」と握りこぶしをつくる。対照的に拓馬は「俺も?」と他人事のように答えた。中年の教師は三者三様の生徒を見回す。
「正義感が強くて結構だ。でもな、来月に中間テストがあって、その後には体育祭が控えている。体力自慢のお前たちが万一ケガで欠場したんじゃ、クラスのみんなも面白くないだろう。犯人捜しはそのあとにするんだな」
本摩は生徒の犯人捜索を引きとめなかった。起きた事件が一過性の出来事だと信じてか、生徒を止めても無駄だと思ったか、いずれにせよ現状は無難な説得だった。
三郎はさきほどの勢いが削がれ、「わかりました」と言って、大人しく着席した。三郎の勝手な行動はクラス全体の迷惑になりうる、との可能性を聞いて、三郎は我を通しにくくなったのだろう。
「素直でよろしい。それじゃ、授業をやるぞ」
本摩は話題を切り替えた。事件のない日と変わらぬ要領で、英語の授業を執る。だが拓馬の意識はなお事件に留まった。その解決ができそうな助っ人に思いを馳せる。
(このこと、シズカさんに言ってみようか)
その予定を頭の片隅に置いておきながら、拓馬は授業に集中した。
タグ:短縮版拓馬
2018年09月18日
拓馬篇−終章* ★
拍手が巻きおこった。この拍手は白いシャツを着たスーツ姿の男性に向けられたもの。彼も復職する教師だ。姓を八巻という。彼は去年に重傷を負った影響で長期間のいとまをとっていた。一部の生徒はこの場ではじめての顔あわせとなる。漏れのない紹介を一度にすませるために式典の場で挨拶することになった。
病み上がりの教師が壇を下りた。彼に引き続き、銀髪の男が壇へのぼる。可動式の低い階段をあがった先に演台があり、その後ろに立つ。眼下にたたずむ子どもたちに一礼した。
マイクの角度はまえの使用者が調整したままでちょうどよい。男は演台に両手をつき、演説を始める。
「Hello, everyone!」
表情はきわめてにこやかであるよう心掛けた。その態度は初授業時のものと変わりない。
「My name is Sage Ivan Dale. 私とは一学期にお会いできた方もいらっしゃいますね」
男もまた部分的に生徒と関わった教師だ。この場を借りて自己紹介をする。
「私はもう一度、才穎高校の教師になることができました。このかけがえのない幸運に、皆さんにも天におわす神さまにもお礼を申しあげたい気分です」
こうは言うが、男に神への信仰心があるわけではない。彼は天命──生まれた時から定まった運命──という概念をみとめている。その物の考えを植えつけたのは、この国のすこし昔の時代を生きた女性。その人物の主義主張が男の道徳観にも影響していた。男が主命に疑問を感じるようになったのも、彼女の教えが仁と義をおもんじたことに端を発している。
「楽しい英語の指導ができるよう心を砕いていきますので、どうかお付き合いください」
最低限の話をやりおえた。これで幕引きしてもよかったが、めずらしく魔がさして、私情をまじえた自己紹介もする。
「それと、私には愛称があります。S・I・Dでシド。そう呼んでください。Please call me Sid! OK?」
オッケー、という声が部分的に聞こえた。それは一学期に親しくしていた、義侠心あふれる子たちの声だ。その応答がなによりうれしく、男は自然と笑んだ。
男は自身の呼びかけに反応を示したであろう子どもたちを見た。そのうちのひとりの男子生徒に着目する。その男子は贋物の壇上に立った時に対峙した相手。あまり感情を表に出さない男子に、ささやかな笑みが口元に生まれている。彼の警戒心はすでにない。かつてのおびえた表情は、ニセの学校内だけの悪夢でおわるのだ。
男は演説を終え、会釈をする。会場中に拍手が一斉に起きた。この拍手は男を彼らの同胞として受け入れる合図である。その歓迎は本来不当なもの。男が彼らにちかい見てくれを繕っている成果だ。化けの皮がいつはがれるとも知れないが、いまは装いつづけることを優先する。その行為が、確定された未来へつながると考えた。
壇を下りる男の脳裏にはこの世界にとっての未来人がうかぶ。その者が、男の未来の呼び名を口にしていた。それは男にとっての過去の出来事である。不可思議なことだが、そういうねじれた時間軸の存在はもはや男の驚愕に値しない。むしろ自身の行ないはあらかじめさだまったものだという肯定の指標にさえなっている。
自己決定とは無関係なさだめにあらがう意志はなかった。世界の理にさからいつづけることでまねく結果に興味がないわけでもないが、それ以上に天命が順当に履行されていくのか見届けたい気持ちがまさった。まるで答案の答え合わせをしていくかのような気分だ。こんな気楽な感覚は、この学校へきた当初にはありえなかったことだ。
自身が名乗るべき名を知るときまで、男には即自的な任務遂行がかなわぬことへの背徳心があった。その思いが陰に隠れ、晴れ晴れしい気持ちで歓迎の音を耳にすることができている。
男の胸に、執拗に絡みつく重いしこりはもうない。しかし完全な楽観もしがたい。案内の乏しい行き先に、幸が訪れるか不幸に転落するか。結末の見通しはつかないのだ。不確定だからこそ、その道筋に憂苦は感じなかった。己と同胞、そして主の道が繋がる望みがある。望みが叶えば、多大な恩情をかけてくれた師に報いることもできる。それはきっと、何物にもかえがたい誇りになる。
かつての異界で一度投げられた名を、自身を示す旗として掲げ、シドは歩みはじめた。
病み上がりの教師が壇を下りた。彼に引き続き、銀髪の男が壇へのぼる。可動式の低い階段をあがった先に演台があり、その後ろに立つ。眼下にたたずむ子どもたちに一礼した。
マイクの角度はまえの使用者が調整したままでちょうどよい。男は演台に両手をつき、演説を始める。
「Hello, everyone!」
表情はきわめてにこやかであるよう心掛けた。その態度は初授業時のものと変わりない。
「My name is Sage Ivan Dale. 私とは一学期にお会いできた方もいらっしゃいますね」
男もまた部分的に生徒と関わった教師だ。この場を借りて自己紹介をする。
「私はもう一度、才穎高校の教師になることができました。このかけがえのない幸運に、皆さんにも天におわす神さまにもお礼を申しあげたい気分です」
こうは言うが、男に神への信仰心があるわけではない。彼は天命──生まれた時から定まった運命──という概念をみとめている。その物の考えを植えつけたのは、この国のすこし昔の時代を生きた女性。その人物の主義主張が男の道徳観にも影響していた。男が主命に疑問を感じるようになったのも、彼女の教えが仁と義をおもんじたことに端を発している。
「楽しい英語の指導ができるよう心を砕いていきますので、どうかお付き合いください」
最低限の話をやりおえた。これで幕引きしてもよかったが、めずらしく魔がさして、私情をまじえた自己紹介もする。
「それと、私には愛称があります。S・I・Dでシド。そう呼んでください。Please call me Sid! OK?」
オッケー、という声が部分的に聞こえた。それは一学期に親しくしていた、義侠心あふれる子たちの声だ。その応答がなによりうれしく、男は自然と笑んだ。
男は自身の呼びかけに反応を示したであろう子どもたちを見た。そのうちのひとりの男子生徒に着目する。その男子は贋物の壇上に立った時に対峙した相手。あまり感情を表に出さない男子に、ささやかな笑みが口元に生まれている。彼の警戒心はすでにない。かつてのおびえた表情は、ニセの学校内だけの悪夢でおわるのだ。
男は演説を終え、会釈をする。会場中に拍手が一斉に起きた。この拍手は男を彼らの同胞として受け入れる合図である。その歓迎は本来不当なもの。男が彼らにちかい見てくれを繕っている成果だ。化けの皮がいつはがれるとも知れないが、いまは装いつづけることを優先する。その行為が、確定された未来へつながると考えた。
壇を下りる男の脳裏にはこの世界にとっての未来人がうかぶ。その者が、男の未来の呼び名を口にしていた。それは男にとっての過去の出来事である。不可思議なことだが、そういうねじれた時間軸の存在はもはや男の驚愕に値しない。むしろ自身の行ないはあらかじめさだまったものだという肯定の指標にさえなっている。
自己決定とは無関係なさだめにあらがう意志はなかった。世界の理にさからいつづけることでまねく結果に興味がないわけでもないが、それ以上に天命が順当に履行されていくのか見届けたい気持ちがまさった。まるで答案の答え合わせをしていくかのような気分だ。こんな気楽な感覚は、この学校へきた当初にはありえなかったことだ。
自身が名乗るべき名を知るときまで、男には即自的な任務遂行がかなわぬことへの背徳心があった。その思いが陰に隠れ、晴れ晴れしい気持ちで歓迎の音を耳にすることができている。
男の胸に、執拗に絡みつく重いしこりはもうない。しかし完全な楽観もしがたい。案内の乏しい行き先に、幸が訪れるか不幸に転落するか。結末の見通しはつかないのだ。不確定だからこそ、その道筋に憂苦は感じなかった。己と同胞、そして主の道が繋がる望みがある。望みが叶えば、多大な恩情をかけてくれた師に報いることもできる。それはきっと、何物にもかえがたい誇りになる。
かつての異界で一度投げられた名を、自身を示す旗として掲げ、シドは歩みはじめた。
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