2016年10月30日
素直に人の幸せを喜んであげることができないアダルトチルドレン。(その3)
⇒素直に人の幸せを喜んであげることができないアダルトチルドレン。(その1)
⇒素直に人の幸せを喜んであげることができないアダルトチルドレン。(その2)
自分の意識とは裏腹に、わかっていることや知っていることが善で、
わからないこと、しらないことは悪という刷り込みがされていたからか、
なにをやっても、うまくいってもどこかしらすっきりしない気持ちが残ることが多かった毎日。
母からすれば、自分の子どもを冷静な気持ちで受け止めるほど
余裕がなかったことと、母自身も心が満たされない状態で子育てに奮起していたのだろうと
いまでは思えます。
母親は、頑張れば頑張っただけ成果が出るはず!
みたいな盲目的な考えがあったように感じます。
自分は子育てを頑張っているのにどうしてこんなに辛いの!という
気持ちはあったのでしょうね。
子どもがというより、母親の価値観と同様もしくはそれ以上の結果のときだけは
すごく喜んだ顔を見せたのが印象的です。
子どもながらに、「テストの点数がいいと母はうれしいんだ」と感じていたことはあります。
その当時は母親の気を惹くためなんて気持ちはないと思っていましたが、
本質的には母親の笑顔が見たかったことや、自分を唯一受け止めてくれる承認欲求を
与えてくれる瞬間だったのかもしれません。
私自身は勉強は別に好きな方ではありませんが、テストでは100点近い答案が多かったです。
これは自慢とかでも何でもなく、単に良い点だと母親が喜ぶということが目的で、
まったく勉強の内容について理解しているというのとはほど遠いものでした。
ある程度の年齢までは記憶力が多少あればテストの点数は取れてしまうのです。
忘れもしないのは、80点代をとってしまったときに、なかなか母親に答案用紙を
みせることができない自分自身がいたことです。
「これをみせたらがっかりするだろうな」
そんなことを考えてしまい、結果的に母親の顔色ばかりうかがっていた感じです。
最終的にはみせましたが、そのときの母親は、「全然悪い点数じゃ無いじゃない」と
いいながらも、表情がまったくうれしそうではないことを私は見逃しませんでした。
学校のテストで良い点数をとるようになってからは「なにもしらないね」とは言われなくなりましたが、
悪い点をとっていたらいつまたこれをいわれるかわからないという不安もあったかもしれません。
私にとって母親はそのぐらい存在感がある人間だったのです。
こうして基盤が作られた自分の中に、どこかで自分が1番凄いね!といってくれる人を
探し始めたのかもしれません。大きくなるにつれ母親だけでなく、友達や恋人など、
関係が近い人にそれを求めるようになってきます。
その友達や恋人が自分以外の人を絶賛したり、称賛していると
すごく不機嫌になってしまう自分がいることに気がつきます。
高校生ぐらいのときは、当時付き合っていた彼女がテレビで、
自分が好きな芸能人のことをべた褒めして「この人ならなにされてもいい」というような
ことをいったことに腹を立てて別れてしまったこともありました。
今思えば、幼稚ですよね。嫉妬というかねたみというか、
自分以外に関心を持たれてしまうことに恐れを抱いていたのだと思います。
自分以外に関心をもたれる=自分はどうでも良い存在みたいに
究極な考え方しかできなかったのでしょう。
しかし、高校だけでなく、大学、社会人になってからもこういう感情は
払拭しきることはできないでいました。
自分を100%承認してくれる人を心のどこかで求めているため、
自分への承認が90%でも心が許せない自分が出てきてしまうのです。
そして最近なぜ人の幸せを素直にを喜んであげられないかわかりました。
その根底にあるのは「過剰な承認欲求」と「捨てられてしまう恐れ」
どこかで100%自分のことを分かってくれる人を求めています。
それは根底には恐れがあります。
実際は100%理解してくれる人などいるわけありませんよね。
それがわからないんです。盲目的にそういう人がいると信じている面もあるのでしょう。
だってそういう人がいないと自分のことを本当に分かってくれる人などいないと思っていますから。
捨てられてしまう恐れは、自分が自分としての価値がない、存在する意味が無いという
理屈になりますから、どうしてもそれを避けたい!だから妄想的に100%わかってくれる人が
いないから悪いんだ!とか相手が100%分かってくれないから俺は不機嫌なんだ!と
周りに責任転嫁し始めるんですね。
でも、結局は恐れなんて本当はないのです。
他人が理解してくれなくても自分は自分ですし、批判されたからと言って
自分が死んでしまうわけでのないのです。存在価値とか意味とかそんなことないといってしまうことが問題です。
だって、実際にこの世に生まれてきているわけですから、それがもう価値があることなのですから。
自分の意思で生きているように感じますが、心臓はどんな時でも動き続けています。
悲しいとき、楽しいときどんなときも休むことなく心臓は動いてくれているのです。
そう考えると、自分の命って自分のものではあるけれど、生かされているのだなと。
なにも褒めることがないと思っている人は、毎日動いてくれている心臓に感謝をすると
自分自身の尊さというものが理解できてくるかもしれません。
始めよう。瞑想:15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)
⇒素直に人の幸せを喜んであげることができないアダルトチルドレン。(その2)
自分の意識とは裏腹に、わかっていることや知っていることが善で、
わからないこと、しらないことは悪という刷り込みがされていたからか、
なにをやっても、うまくいってもどこかしらすっきりしない気持ちが残ることが多かった毎日。
母からすれば、自分の子どもを冷静な気持ちで受け止めるほど
余裕がなかったことと、母自身も心が満たされない状態で子育てに奮起していたのだろうと
いまでは思えます。
母親は、頑張れば頑張っただけ成果が出るはず!
みたいな盲目的な考えがあったように感じます。
自分は子育てを頑張っているのにどうしてこんなに辛いの!という
気持ちはあったのでしょうね。
子どもがというより、母親の価値観と同様もしくはそれ以上の結果のときだけは
すごく喜んだ顔を見せたのが印象的です。
子どもながらに、「テストの点数がいいと母はうれしいんだ」と感じていたことはあります。
その当時は母親の気を惹くためなんて気持ちはないと思っていましたが、
本質的には母親の笑顔が見たかったことや、自分を唯一受け止めてくれる承認欲求を
与えてくれる瞬間だったのかもしれません。
私自身は勉強は別に好きな方ではありませんが、テストでは100点近い答案が多かったです。
これは自慢とかでも何でもなく、単に良い点だと母親が喜ぶということが目的で、
まったく勉強の内容について理解しているというのとはほど遠いものでした。
ある程度の年齢までは記憶力が多少あればテストの点数は取れてしまうのです。
忘れもしないのは、80点代をとってしまったときに、なかなか母親に答案用紙を
みせることができない自分自身がいたことです。
「これをみせたらがっかりするだろうな」
そんなことを考えてしまい、結果的に母親の顔色ばかりうかがっていた感じです。
最終的にはみせましたが、そのときの母親は、「全然悪い点数じゃ無いじゃない」と
いいながらも、表情がまったくうれしそうではないことを私は見逃しませんでした。
学校のテストで良い点数をとるようになってからは「なにもしらないね」とは言われなくなりましたが、
悪い点をとっていたらいつまたこれをいわれるかわからないという不安もあったかもしれません。
私にとって母親はそのぐらい存在感がある人間だったのです。
こうして基盤が作られた自分の中に、どこかで自分が1番凄いね!といってくれる人を
探し始めたのかもしれません。大きくなるにつれ母親だけでなく、友達や恋人など、
関係が近い人にそれを求めるようになってきます。
その友達や恋人が自分以外の人を絶賛したり、称賛していると
すごく不機嫌になってしまう自分がいることに気がつきます。
高校生ぐらいのときは、当時付き合っていた彼女がテレビで、
自分が好きな芸能人のことをべた褒めして「この人ならなにされてもいい」というような
ことをいったことに腹を立てて別れてしまったこともありました。
今思えば、幼稚ですよね。嫉妬というかねたみというか、
自分以外に関心を持たれてしまうことに恐れを抱いていたのだと思います。
自分以外に関心をもたれる=自分はどうでも良い存在みたいに
究極な考え方しかできなかったのでしょう。
しかし、高校だけでなく、大学、社会人になってからもこういう感情は
払拭しきることはできないでいました。
自分を100%承認してくれる人を心のどこかで求めているため、
自分への承認が90%でも心が許せない自分が出てきてしまうのです。
そして最近なぜ人の幸せを素直にを喜んであげられないかわかりました。
その根底にあるのは「過剰な承認欲求」と「捨てられてしまう恐れ」
どこかで100%自分のことを分かってくれる人を求めています。
それは根底には恐れがあります。
実際は100%理解してくれる人などいるわけありませんよね。
それがわからないんです。盲目的にそういう人がいると信じている面もあるのでしょう。
だってそういう人がいないと自分のことを本当に分かってくれる人などいないと思っていますから。
捨てられてしまう恐れは、自分が自分としての価値がない、存在する意味が無いという
理屈になりますから、どうしてもそれを避けたい!だから妄想的に100%わかってくれる人が
いないから悪いんだ!とか相手が100%分かってくれないから俺は不機嫌なんだ!と
周りに責任転嫁し始めるんですね。
でも、結局は恐れなんて本当はないのです。
他人が理解してくれなくても自分は自分ですし、批判されたからと言って
自分が死んでしまうわけでのないのです。存在価値とか意味とかそんなことないといってしまうことが問題です。
だって、実際にこの世に生まれてきているわけですから、それがもう価値があることなのですから。
自分の意思で生きているように感じますが、心臓はどんな時でも動き続けています。
悲しいとき、楽しいときどんなときも休むことなく心臓は動いてくれているのです。
そう考えると、自分の命って自分のものではあるけれど、生かされているのだなと。
なにも褒めることがないと思っている人は、毎日動いてくれている心臓に感謝をすると
自分自身の尊さというものが理解できてくるかもしれません。
始めよう。瞑想:15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)
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