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2016年04月30日
機能不全家族で育った人は生きることが辛くなる?!抑圧を自分の意思だと誤解する脳。
子どものころから自分の気持ちを抑圧されて育ったような人、
いわゆる機能不全家族と呼ばれるような環境で成長した人は、
目では見えない親からの支配に翻弄される日々だったと思います。
私が小さなころは、親から良い子という目線で見られている行動や発言
をすることが多かったということが大人になってからわかりました。
親からすれば、手間のかからないいうことを聞く良い子。
親のいうことを聞いて、良く理解してくれる行動してくれる良い子。
しかしながら、これは一方的な親の思い違いの場合もあります。
そして、子どもが良い子なのではなく、毒親が良い子でいなくては
いけないような環境に支配している場合があるのです。
おとなしく抑圧されてるような子どもは、自分が怒られていなくても
他人が怒られているのを見て、自分自身をを守ろうと感情や行動、発言を
制限していきます。そしていつのまにやら、自分が抑圧しているのか
我慢をしているのか、自分が何を考えているのかまでもわからなく
成長してしまうのです。
親からの攻撃を避けるため及び、親からの愛情が欲しいという
一心で、そういう環境に共依存になっていることにもお互い気づかず、
一般的な家庭と信じて疑わず、成長していくのです。
こういう子は、勉強も真面目に取り組むタイプも多く、成績は
良く、親からすると優等生という言葉が一番しっくりくるようです。
子どもが無意識に思っていることを抑圧していなければ問題ないのですが、
このころに抑圧された不本意な気持ちは、大人になってからじわじわと
出てくるということも珍しいことではありません。
いわゆる、アダルトチルドレンというとわかりやすいでしょう。
その中でもヒーロータイプというジャンルです。
そういう子が親となり、我が子には自分のような思いをさせたくない!
とおもい子育てに励むわけですが、そもそも子育ては親が思うように
進むものではありません。
そして、子育てって誰もやり方を教えてくれないんですね。
結果的に、自分の親の真似をしてしまうということが多いんです。
そして、うまくいかないことを、自分が親としてできていないとは
傷つきたくないから、我が子や、学校の先生などのせいにして、
物事を解決しようという行為をします。
これがエスカレートすると、モンスターの出来上がりです。
最近はテレビの報道などからうけることを
「印象操作」ともいいます。
何が善で何が悪かということは、本人が判断すべきことなのにもかかわらず、
報道の仕方や目線が偏っていたり、コメンテーターが個人的な見解を
世の中の見解として話していたりが散見されます。
知識がない国民からすると、長いものに巻かれろ、悪は叩け!
という風潮も相まって、勝手に潜在的に善悪を植え付けられているような
ものでもあるのです。これは考えなくて良いという意味では楽なんですね。
世間では、ニュースではこう言っているからこれが正しい見解なのだ。
それに追随していこう!これは自分で考えることを放棄しているともいえます。
親から子どもへの影響というものは、もっと閉鎖的で、反論さえ許されないような
環境という場合も多く、「親子」というより「従属関係」といった方がしっくりくることでしょう。
私たちは、他人のせいにするのが簡単で都合が良かったりします。
しかし、人間的に一回り大きくなるには、色んな考えがあって当然という
自分の意見以外にもこちらのレッテルを貼らずに、大人でも子どもでも
「そういう考え方をする人もいるのだな」と受け止められる選択肢の幅が
求められます。
ということにこだわりすぎず、
色んな視点でゆとりをもって話ができるということが大切なのかもしれません。
自分が思っている世界感だけを正解にして生活をしていると、
いつか窮屈で常に満たされないようなイライラ感が襲いかかってくるはずです。
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いわゆる機能不全家族と呼ばれるような環境で成長した人は、
目では見えない親からの支配に翻弄される日々だったと思います。
私が小さなころは、親から良い子という目線で見られている行動や発言
をすることが多かったということが大人になってからわかりました。
親からすれば、手間のかからないいうことを聞く良い子。
親のいうことを聞いて、良く理解してくれる行動してくれる良い子。
しかしながら、これは一方的な親の思い違いの場合もあります。
そして、子どもが良い子なのではなく、毒親が良い子でいなくては
いけないような環境に支配している場合があるのです。
おとなしく抑圧されてるような子どもは、自分が怒られていなくても
他人が怒られているのを見て、自分自身をを守ろうと感情や行動、発言を
制限していきます。そしていつのまにやら、自分が抑圧しているのか
我慢をしているのか、自分が何を考えているのかまでもわからなく
成長してしまうのです。
親からの攻撃を避けるため及び、親からの愛情が欲しいという
一心で、そういう環境に共依存になっていることにもお互い気づかず、
一般的な家庭と信じて疑わず、成長していくのです。
こういう子は、勉強も真面目に取り組むタイプも多く、成績は
良く、親からすると優等生という言葉が一番しっくりくるようです。
子どもが無意識に思っていることを抑圧していなければ問題ないのですが、
このころに抑圧された不本意な気持ちは、大人になってからじわじわと
出てくるということも珍しいことではありません。
いわゆる、アダルトチルドレンというとわかりやすいでしょう。
その中でもヒーロータイプというジャンルです。
▼--- 良い点 ---▼
真面目で頑張り屋、きっちり仕事をこなすので周りから信頼され、頼られる性格です。
自分に厳しく他人に寛容です。
▼--- 悪い点 ---▼
頑張るのは良いのですが、無理をしすぎるのが悪い点です。
自分がつぶれてしまうまで頑張る性格なので、手を抜く方法を見つけることが必要です。
自尊心が強く出る場合があり、自分に対しての尊敬を押し売りする事もあります。
引用元:アダルトチルドレンの解説
そういう子が親となり、我が子には自分のような思いをさせたくない!
とおもい子育てに励むわけですが、そもそも子育ては親が思うように
進むものではありません。
そして、子育てって誰もやり方を教えてくれないんですね。
結果的に、自分の親の真似をしてしまうということが多いんです。
そして、うまくいかないことを、自分が親としてできていないとは
傷つきたくないから、我が子や、学校の先生などのせいにして、
物事を解決しようという行為をします。
これがエスカレートすると、モンスターの出来上がりです。
最近はテレビの報道などからうけることを
「印象操作」ともいいます。
何が善で何が悪かということは、本人が判断すべきことなのにもかかわらず、
報道の仕方や目線が偏っていたり、コメンテーターが個人的な見解を
世の中の見解として話していたりが散見されます。
知識がない国民からすると、長いものに巻かれろ、悪は叩け!
という風潮も相まって、勝手に潜在的に善悪を植え付けられているような
ものでもあるのです。これは考えなくて良いという意味では楽なんですね。
世間では、ニュースではこう言っているからこれが正しい見解なのだ。
それに追随していこう!これは自分で考えることを放棄しているともいえます。
親から子どもへの影響というものは、もっと閉鎖的で、反論さえ許されないような
環境という場合も多く、「親子」というより「従属関係」といった方がしっくりくることでしょう。
私たちは、他人のせいにするのが簡単で都合が良かったりします。
しかし、人間的に一回り大きくなるには、色んな考えがあって当然という
自分の意見以外にもこちらのレッテルを貼らずに、大人でも子どもでも
「そういう考え方をする人もいるのだな」と受け止められる選択肢の幅が
求められます。
・自分は悪くない、
・自分がいっていることが正しい、
・そんな考え方頭がおかしいんじゃない?
・全く理解できない、イライラする。
ということにこだわりすぎず、
色んな視点でゆとりをもって話ができるということが大切なのかもしれません。
自分が思っている世界感だけを正解にして生活をしていると、
いつか窮屈で常に満たされないようなイライラ感が襲いかかってくるはずです。
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2016年04月29日
生きることや認められることに必死すぎて、いったい何が楽しいのかがわからない状態。(その3)
⇒生きることや認められることに必死すぎて、いったい何が楽しいのかがわからない状態。(その1)
⇒生きることや認められることに必死すぎて、いったい何が楽しいのかがわからない状態。(その2)
からの続きです。
■潜在的には母親のためだから、自分の心がないがしろにされ苦しくなる。
高校受験、大学進学、就職、結婚、出産数々のイベントを乗り越え現在に至って
いるわけですが、その分岐点とも言えるときに、母親の顔色をうかがったり、世間体を
考えて決断をしていたのかもしれません。
授業料が安くて親が喜ぶから、県立高校を選ぶ、国立大学を選ぶ、浪人はしない。
「本当はもっとこうしたかったのに」という自分の気持ちを抑圧しすぎて、もうどれが
自分の気持ちで決定しているのか、本当に楽しいと思っているのか麻痺していたのでは
ないかと今になって思います。
今でも瞬間的に思いつく自動思考はかなりあります。
自分で進学や就職を決めたのにもかかわらず、ああしておけばよかったかな?とか
本当はもっと頑張れたのになとか。言い訳めいたことばかり。この背景には、自分は
親の経済状況とかを考えて家族の空気を読んだ自分がえらいという感覚があるのかも
しれません。なんてことはない、実際は自分に底までの能力がなかったまでのことを
自分で認めることができないんです。認めると自分はダメ人間みたいに打ち落とされてしまいますから^^
結果的にはダメ人間でもいいんです。自分で自分の能力を過信するということは、
自分のちからを信じることができていないのと同じなんです。偽りの自分は自分の心を
闇に包んでいく原因にもなります。
■自分の思考の癖に気づくチャンス。
こう書き連ねているとどうしても、「母親が全部悪い!」という風に聞こえてしまう人が
いるのですが、実際はそうではありません。結果的には自分で自分を苦しめ続けてきたんです。
その種を植えたのは私の場合は間違いなく母親です。気づいた今でもこの呪縛からはまだまだ
開放されていないと思います。つまり…
・毎日楽しくない。
・なんだかやるせない。
・なんだか切ない。
こんな風に思ってしまうのは、どこかしら自分の気持ちをないがしろにして
毎日を生活してしまっている人なのかもしれません。
自己犠牲をして自分の行動や発言を正当化するために、自分の行動の
動機を周りに求めます。しかし思うようにその対象の人達からねぎらいを受けられないと、
自分がなんのために頑張っているのかが分からなくなってしまい、どんどん苦しくなります。
承認欲求はみたされるどころか、ボロボロに破壊されてしまいます。
人間そんなに簡単には変わることなどできませんが、もう少し他人のためでなく、
自分自身の気持ちも聞いてあげる必要があるのです。
でも、今までこれがスタンダードで生きてきていますから、急に自分の意見を
前面に出していこうなんて、簡単にはできっこありません。まずは自分の苦しい心の
元に気がつくことが最優先です。
このような生活をつづけているといつかはパンクするかぶっ倒れるときが来ます。
楽しくないのは自分の体や心を最優先でいたわるということが機能しなくなっている証拠です。
自分の体や心をケアできない人がどうやって他人のために活躍できるのでしょうか。
もし活躍していたとしても、いつかは抑圧して自己犠牲した自分の体に返ってくるのだ
ということは覚えておいた方が良いです。
周りから認められる、称賛されるから「生きていて良い。存在していて良い」ということではありません。
世界中で誰一人も自分へ理解者がいないなんて事はあり得ません。逆にすべての人が自分の理解者
ということもあり得ません。ただ、自分自身が自分の一番の理解者になってあげないことには、
この何をやっても楽しくない満たされない病は改善していかないでしょう。
欲は我慢するのではなく、コントロールすることで現実と妄想の間にしっかりとした線を引くことが
できるのかもしれませんね。
始めよう。瞑想:15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)
⇒生きることや認められることに必死すぎて、いったい何が楽しいのかがわからない状態。(その2)
からの続きです。
■潜在的には母親のためだから、自分の心がないがしろにされ苦しくなる。
高校受験、大学進学、就職、結婚、出産数々のイベントを乗り越え現在に至って
いるわけですが、その分岐点とも言えるときに、母親の顔色をうかがったり、世間体を
考えて決断をしていたのかもしれません。
授業料が安くて親が喜ぶから、県立高校を選ぶ、国立大学を選ぶ、浪人はしない。
「本当はもっとこうしたかったのに」という自分の気持ちを抑圧しすぎて、もうどれが
自分の気持ちで決定しているのか、本当に楽しいと思っているのか麻痺していたのでは
ないかと今になって思います。
今でも瞬間的に思いつく自動思考はかなりあります。
自分で進学や就職を決めたのにもかかわらず、ああしておけばよかったかな?とか
本当はもっと頑張れたのになとか。言い訳めいたことばかり。この背景には、自分は
親の経済状況とかを考えて家族の空気を読んだ自分がえらいという感覚があるのかも
しれません。なんてことはない、実際は自分に底までの能力がなかったまでのことを
自分で認めることができないんです。認めると自分はダメ人間みたいに打ち落とされてしまいますから^^
結果的にはダメ人間でもいいんです。自分で自分の能力を過信するということは、
自分のちからを信じることができていないのと同じなんです。偽りの自分は自分の心を
闇に包んでいく原因にもなります。
■自分の思考の癖に気づくチャンス。
こう書き連ねているとどうしても、「母親が全部悪い!」という風に聞こえてしまう人が
いるのですが、実際はそうではありません。結果的には自分で自分を苦しめ続けてきたんです。
その種を植えたのは私の場合は間違いなく母親です。気づいた今でもこの呪縛からはまだまだ
開放されていないと思います。つまり…
・毎日楽しくない。
・なんだかやるせない。
・なんだか切ない。
こんな風に思ってしまうのは、どこかしら自分の気持ちをないがしろにして
毎日を生活してしまっている人なのかもしれません。
・親のため
・家族のため
・奥さんのため、
・子どものため
・世の中のため
自己犠牲をして自分の行動や発言を正当化するために、自分の行動の
動機を周りに求めます。しかし思うようにその対象の人達からねぎらいを受けられないと、
自分がなんのために頑張っているのかが分からなくなってしまい、どんどん苦しくなります。
承認欲求はみたされるどころか、ボロボロに破壊されてしまいます。
人間そんなに簡単には変わることなどできませんが、もう少し他人のためでなく、
自分自身の気持ちも聞いてあげる必要があるのです。
でも、今までこれがスタンダードで生きてきていますから、急に自分の意見を
前面に出していこうなんて、簡単にはできっこありません。まずは自分の苦しい心の
元に気がつくことが最優先です。
このような生活をつづけているといつかはパンクするかぶっ倒れるときが来ます。
楽しくないのは自分の体や心を最優先でいたわるということが機能しなくなっている証拠です。
自分の体や心をケアできない人がどうやって他人のために活躍できるのでしょうか。
もし活躍していたとしても、いつかは抑圧して自己犠牲した自分の体に返ってくるのだ
ということは覚えておいた方が良いです。
周りから認められる、称賛されるから「生きていて良い。存在していて良い」ということではありません。
世界中で誰一人も自分へ理解者がいないなんて事はあり得ません。逆にすべての人が自分の理解者
ということもあり得ません。ただ、自分自身が自分の一番の理解者になってあげないことには、
この何をやっても楽しくない満たされない病は改善していかないでしょう。
欲は我慢するのではなく、コントロールすることで現実と妄想の間にしっかりとした線を引くことが
できるのかもしれませんね。
始めよう。瞑想:15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)
2016年04月28日
生きることや認められることに必死すぎて、いったい何が楽しいのかがわからない状態(その2)
⇒生きることや認められることに必死すぎて、いったい何が楽しいのかがわからない状態(その1)からの続きです。
■客観的には平凡ながら幸せな生活を送っているはずなのに満たされない。
4年制大学まで通わせてもらって、就職活動も浪人せず内定し、
仕事も順調、恋人もでき公私ともに充実…と感じても良いはずでしたが、
私の場合は、何か常に見えないものに追いかけられているというか、自分の意思で
決定しているはずなのに、決定したことがうまくいかないと周りのせいにするという
癖が脳にこびりついていたのです。なぜか楽しくない。楽しもうと頑張ってはいるけど、
なぜか心の底から楽しいと感じる充実感がないのです。
どこかで、結婚をすれば気持ちが楽になるのだろうか。癒やされるのだろうかと考え
ていた節はあると思います。
20代後半で恋愛結婚をして、結婚式も嫁の満足するようにあげることができて
後に子宝にも恵まれ、幸せ感一杯でもおかしくないはずなのに、不安感の方が
どんどん勝っていくというジレンマに襲われます。
■自分で決断しているようで、他人に賛同を求める卑怯な姿勢。
今思えば、大人になってからと言うわけでは無く、幼い頃からこの悶々とした
感情は私の中に存在していました。幼すぎて自分自身では気づくことができなかったのです。
「今日は本当に楽しかったなぁ〜」
という充実した日がほとんど記憶にありません。記憶にあることと言えば、
なぜか不安、なぜか心配、なぜか常に緊張を強いられるような感じ。
小学生の頃なぜだか部活をやっていて夕暮れになると、切なく胸が苦しくなるような
気持ちになり、涙が出てきたりすることが結構ありました。具体的になぜなのかは
よく分かりませんが、当然それ以前から色々自分の気持ちを抑圧してしまっていたのでしょう。
つまり精神的には不安定な状態で常に生活してきたわけです。
母親は自分の言うことは絶対正しい!という感じの人で、子どもが間違いを指摘すると
もの凄い剣幕で怒る人でもありました。
つまり、不安や心配の根源を押しつけて受け付けてきたのは紛れもなく母親なのです。
環境こそ異なれど、こういう環境の人って意外と多いのではないでしょうか。
私の場合は、親に見捨てられてしまうと言う焦燥感と言うよりも、自分だけを見て欲しいという
独占欲、そして無償の愛情や笑顔の母親を潜在的に常に追い求めているところがあったと思います。
そして、安心感を求めていたのかもしれませんね。
私の行動や発言などを決断する動力源は、ここなんです。
「自分の行動や発言で母親が喜ぶ発言や行動、選択」
を無意識にしていたんですね。
無意識に無償の愛情が欲しいがために、母親に取って理想的な世界像を追い求めたのです。
私自身の本当の気持ちを無視して自己犠牲にして、自分の気持ちを偽り色々と決断してきた
のだと思います。
自閉症スペクトラムがよくわかる本 (健康ライブラリーイラスト版)
■客観的には平凡ながら幸せな生活を送っているはずなのに満たされない。
4年制大学まで通わせてもらって、就職活動も浪人せず内定し、
仕事も順調、恋人もでき公私ともに充実…と感じても良いはずでしたが、
私の場合は、何か常に見えないものに追いかけられているというか、自分の意思で
決定しているはずなのに、決定したことがうまくいかないと周りのせいにするという
癖が脳にこびりついていたのです。なぜか楽しくない。楽しもうと頑張ってはいるけど、
なぜか心の底から楽しいと感じる充実感がないのです。
どこかで、結婚をすれば気持ちが楽になるのだろうか。癒やされるのだろうかと考え
ていた節はあると思います。
20代後半で恋愛結婚をして、結婚式も嫁の満足するようにあげることができて
後に子宝にも恵まれ、幸せ感一杯でもおかしくないはずなのに、不安感の方が
どんどん勝っていくというジレンマに襲われます。
■自分で決断しているようで、他人に賛同を求める卑怯な姿勢。
今思えば、大人になってからと言うわけでは無く、幼い頃からこの悶々とした
感情は私の中に存在していました。幼すぎて自分自身では気づくことができなかったのです。
「今日は本当に楽しかったなぁ〜」
という充実した日がほとんど記憶にありません。記憶にあることと言えば、
なぜか不安、なぜか心配、なぜか常に緊張を強いられるような感じ。
小学生の頃なぜだか部活をやっていて夕暮れになると、切なく胸が苦しくなるような
気持ちになり、涙が出てきたりすることが結構ありました。具体的になぜなのかは
よく分かりませんが、当然それ以前から色々自分の気持ちを抑圧してしまっていたのでしょう。
つまり精神的には不安定な状態で常に生活してきたわけです。
母親は自分の言うことは絶対正しい!という感じの人で、子どもが間違いを指摘すると
もの凄い剣幕で怒る人でもありました。
つまり、不安や心配の根源を押しつけて受け付けてきたのは紛れもなく母親なのです。
環境こそ異なれど、こういう環境の人って意外と多いのではないでしょうか。
私の場合は、親に見捨てられてしまうと言う焦燥感と言うよりも、自分だけを見て欲しいという
独占欲、そして無償の愛情や笑顔の母親を潜在的に常に追い求めているところがあったと思います。
そして、安心感を求めていたのかもしれませんね。
私の行動や発言などを決断する動力源は、ここなんです。
「自分の行動や発言で母親が喜ぶ発言や行動、選択」
を無意識にしていたんですね。
無意識に無償の愛情が欲しいがために、母親に取って理想的な世界像を追い求めたのです。
私自身の本当の気持ちを無視して自己犠牲にして、自分の気持ちを偽り色々と決断してきた
のだと思います。
自閉症スペクトラムがよくわかる本 (健康ライブラリーイラスト版)
2016年04月27日
生きることや認められることに必死すぎて、いったい何が楽しいのかがわからない状態。(その1)
キリスト教のバイブルである聖書には、こんなことが載っているらしいです。
七つの大罪の中のひとつ。
「強欲は罪」
大人であればなんとなく意味は理解できる人は多いと思います。
ただ、理解できているのは表面的な言葉としての面だけで、もしわかっては
いても人間は欲望というものが次から次へと生まれてくる欲深い動物であることは
認知する必要があります。
私自身はキリスト教徒でもイスラム教徒でも仏教徒でもありませんが、
宗教の根幹となる教えには大抵人間の欲という面にスポットライトをあてた
言葉が記されていることが多いようです。そのぐらい私たちの「欲」というものは
コントロールすることが難しいものともいえるでしょう。
■生きているということは欲があるということ。
強欲は罪で良くないことであれば、人間の欲とはいったい何なのでしょう。
・パートナーに自分の思い通りに行動して欲しい、
・私の言うことや存在を認めて欲しい、
・我が子に幸せになって欲しい、
・経済的な余裕が欲しい、
・おいしいものが食べたい。
・一日中思いっきり気兼ねなく寝たい。
食欲、睡眠欲、排泄欲(性欲)は人間の3大欲求とも言われています。
食べること、寝ること、尿や便を排泄すること、どれかが1つでも滞って
いくと人間として正常な精神状態を保つことができなくなりますね。
食べなければ、餓死してしまうでしょうし、睡眠を取らなければ、常にイライラした
状態におちいり冷静な精神状態にはなり得ません。排泄欲は俗に性欲ともいわれ
ますが、性欲は個人差がありますので、あくまで生理的現象とて考えてみます。
尿や便の排泄なんてあたりまえのように毎日用を足しているわけで欲であるなんて
考えたこともないかもしれませんが、体内の毒素がアウトプットできなくなれば当然、
健康を害していき最終的には死に至ってしまうのです。ここが性欲とは異なるところです。
不幸だと嘆いている人も、幸せだと楽しんで生活している人も、毎日これらの
3大欲を欠かすことがない人の方が圧倒的に多いのが今の日本です。
ですから、欲を持っていると言うこと自体が悪いと言うことではありません。
■「強欲」が次なる強欲を生み出すというスパイラル。
私は自分にとっての強欲とはなんなのだろうということを最近よく考えます。
欲は生きるために必要なものであり、良く言えば向上心ということにもなります。
しかし、自分の能力に見合わない過度な欲望や妄想的な欲望はいわゆる強欲
になってしまうのではないかと思います。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
というだれでも知っていることわざがあるように、度が過ぎると身を滅ぼしていく
というのが生命の摂理だったりするのでしょうか。昔の人が残した言葉は今の人間にも
遜色なく受け入れられるような名言は多いですね。
話はそれましたが、私にとっては一番の欲求は…
お金でも、物でもなく、
「周りから認められたい」
「たくさん称賛してもらいたい」
いわゆる承認欲求の塊であったように思います。
ですから、これが派生して出世欲であったり、社会的権力や肩書きという
欲求も潜在的には非常に高い物だったと思います。自分が社会的地位を
確立すれば、周りは少なくとも自分を肩書き通りには認めてくれるだろうと。
しかしこの考え方の問題点は、この欲求が底なしであることです。
例えば、いくらサラリーマンをやって出世してえらくなろうが、自分と意見が
合わない人間というのは必ずいます。1000人中900人が自分を認めてくれても
100人が自分の批判をしていれば、そちらに目が行ってしまうんです。認めろと。
どんなにえらくなっても満たされないスパイラル。定年退職で肩書きを失った日には、
今まで認めてくれていた人が大幅に減りますから、より満たされない気持ちが肥大したり
します。
アダルトチルドレンの満たされない気持ちは、過剰な欲求を追い求めすぎ
ているということも原因のひとつかもしれません。
自閉症スペクトラムがよくわかる本 (健康ライブラリーイラスト版)
七つの大罪の中のひとつ。
「強欲は罪」
大人であればなんとなく意味は理解できる人は多いと思います。
ただ、理解できているのは表面的な言葉としての面だけで、もしわかっては
いても人間は欲望というものが次から次へと生まれてくる欲深い動物であることは
認知する必要があります。
私自身はキリスト教徒でもイスラム教徒でも仏教徒でもありませんが、
宗教の根幹となる教えには大抵人間の欲という面にスポットライトをあてた
言葉が記されていることが多いようです。そのぐらい私たちの「欲」というものは
コントロールすることが難しいものともいえるでしょう。
■生きているということは欲があるということ。
強欲は罪で良くないことであれば、人間の欲とはいったい何なのでしょう。
・パートナーに自分の思い通りに行動して欲しい、
・私の言うことや存在を認めて欲しい、
・我が子に幸せになって欲しい、
・経済的な余裕が欲しい、
・おいしいものが食べたい。
・一日中思いっきり気兼ねなく寝たい。
食欲、睡眠欲、排泄欲(性欲)は人間の3大欲求とも言われています。
食べること、寝ること、尿や便を排泄すること、どれかが1つでも滞って
いくと人間として正常な精神状態を保つことができなくなりますね。
食べなければ、餓死してしまうでしょうし、睡眠を取らなければ、常にイライラした
状態におちいり冷静な精神状態にはなり得ません。排泄欲は俗に性欲ともいわれ
ますが、性欲は個人差がありますので、あくまで生理的現象とて考えてみます。
尿や便の排泄なんてあたりまえのように毎日用を足しているわけで欲であるなんて
考えたこともないかもしれませんが、体内の毒素がアウトプットできなくなれば当然、
健康を害していき最終的には死に至ってしまうのです。ここが性欲とは異なるところです。
不幸だと嘆いている人も、幸せだと楽しんで生活している人も、毎日これらの
3大欲を欠かすことがない人の方が圧倒的に多いのが今の日本です。
ですから、欲を持っていると言うこと自体が悪いと言うことではありません。
■「強欲」が次なる強欲を生み出すというスパイラル。
私は自分にとっての強欲とはなんなのだろうということを最近よく考えます。
欲は生きるために必要なものであり、良く言えば向上心ということにもなります。
しかし、自分の能力に見合わない過度な欲望や妄想的な欲望はいわゆる強欲
になってしまうのではないかと思います。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
というだれでも知っていることわざがあるように、度が過ぎると身を滅ぼしていく
というのが生命の摂理だったりするのでしょうか。昔の人が残した言葉は今の人間にも
遜色なく受け入れられるような名言は多いですね。
話はそれましたが、私にとっては一番の欲求は…
お金でも、物でもなく、
「周りから認められたい」
「たくさん称賛してもらいたい」
いわゆる承認欲求の塊であったように思います。
ですから、これが派生して出世欲であったり、社会的権力や肩書きという
欲求も潜在的には非常に高い物だったと思います。自分が社会的地位を
確立すれば、周りは少なくとも自分を肩書き通りには認めてくれるだろうと。
しかしこの考え方の問題点は、この欲求が底なしであることです。
例えば、いくらサラリーマンをやって出世してえらくなろうが、自分と意見が
合わない人間というのは必ずいます。1000人中900人が自分を認めてくれても
100人が自分の批判をしていれば、そちらに目が行ってしまうんです。認めろと。
どんなにえらくなっても満たされないスパイラル。定年退職で肩書きを失った日には、
今まで認めてくれていた人が大幅に減りますから、より満たされない気持ちが肥大したり
します。
アダルトチルドレンの満たされない気持ちは、過剰な欲求を追い求めすぎ
ているということも原因のひとつかもしれません。
自閉症スペクトラムがよくわかる本 (健康ライブラリーイラスト版)
2016年04月26日
子どもが転んだときや失敗したときに「なにやってんの!」とばかりいう親は毒親の気質あり!
「育児なんて誰にでもできるでしょ!」
「できない人の能力が低いだけだ!」
「家事や育児よりも仕事の方が大変だ!」
そんな風に高をくくっていた時期があります。
世の中の仕事人間の男性はこんな感覚が多いのかもしれません。
仕事に没頭しすぎて、自分が稼ぎ頭だから一番家庭でえらいのだという
昔ながらの家父長制の悪い部分が根底にあり、家事や育児などを軽視する
傾向があるのです。
私も同じ口だったのですが、実際に自分がたくさん育児や家事にかかわることになると、
そんな甘い物ではないということに気づきます^^
育児に参加をしていると、本当に思ったようにいかないことがたくさん。
これは本当に密接に家庭と向き合わないと分からない感覚なのだと思います。
最近ではイクメンという言葉が世に出回り、男性の育児参加も目立つようになって
きました。昔であれば、恥でも今は世間的には良い旦那様という見方もされます。
そんな中、勘違いイクメンパパも多いのは気になります。イクメンと呼ばれて世間体が
良くなる自分のために育児をしているようなパパが結構いるのです。
1日で数回おむつを替えたら「バッチリ育児に参加している!」と豪語したり、
おむつもおしっこ限定で、うんちは替えなかったりって結構いるのではないでしょうか。
他人の目線があるときは自分が前面に出て頑張っている様子を見せつけたり…
育児している俺って凄くない?みたいな自己愛が強い人なのかもしれません。
育児に参加しているかというよりも、夫婦でうまくストレスをため込まないように
バトンを渡し合えているか?ということが大切であって、結果的に奥さんが助かる
ような育児に参加しないと逆にストレスの根源にもなり得るのです。
実際に育児といっても年齢によってやることはまちまちですが、
私にとっては、スケジュールなんかもさることながら、一番困ることは、子どもが
ぐずったり、のろのろしてたりして、自分のペースが乱されてしまうことです。
こんなことからも、簡単な毒親診断ができます。
私は毒親に育てられたこともあり、毒親要素はたっぷり持っているです。
■子どもがうっかり転んでしまったときになんて声を掛けてますか?
子どもは風の子。寒い日でも暑い日でもへこたれず走り回ったり体を動かしたり
本当に活発ですよね。でも、毎日一緒にいるとどうしても、鬱陶しく感じるときも
あるはずです。子どもの注意力は大人に比べると経験値、想像力などから
非常に低いと分かります。ちょっとみぬまに転んで泣いていたり…なんてことも。
そう、子ども本人からすれば相当痛く助けが欲しいところですが、こちらがイライラ
していたり、急いでいたりすると、
「あーもう!」
「なにやってんのよ!」
「だからいったじゃない」
なんて言葉をついつい掛けてしまいがちです。これがたまにであれば、問題はないのですが、
ほとんどがこういう言葉を発している人はかなり毒親としての要素を多分に含んでいるといえます。
これらの言葉には何かが隠されています。
どの言葉も、相手へのいたわりや人間としての救済という気持ちがありません。
自分中心的な考え方の言葉なんですね。
もう!困らせないでよ!子どもの分際で!
とは考えているか分かりませんが、子どもにはそのぐらいきつい言葉になります。
■どんなときでも、最優先は、安否や本人の感情をを確認してあげて欲しい。
では、どういった言葉を伝えれば良いのか?決まり文句は特にないですが、
子ども本人の立場になった気持ちを考えているかが大切ですね。
手軽なのは、
「痛かったね。」
「大丈夫だった?」
という感じでしょうか。
しっかりと、感情がこもっているかが大切です。せっかくこの言葉を伝えても、
顔がイライラしていたり、この言葉の後に、命令やだからいったじゃないとか、
そういう言葉を付けてしまうと、効果がかき消されてしまうので、気をつけましょう。
総合的にどういうことなのかといえば、NGな言葉を出している親の人は、
日頃から、相手を肯定するような言葉を使わないで生活していることが多いのです。
だから、とっさのときには、相手を肯定する言葉をいえず、お互いの関係を少しずつ
悪くしていくことも少なくありません。
子どもを肯定するということは、言葉以上に大変なものです。
これが難しいという人は毒親の素質もあるわけですが、そういう人で
困っている人は、自分で自分を肯定できていなかったりするので、
まずは自分を分析してみるようにすると良いかもしれませんね。
って、全部私自身のことですけど^^子どもには色々と勉強させられます。
【はじめての方限定!一冊無料クーポンもれなくプレゼント】ぼくはアスペルガーなお医者さん ...
「できない人の能力が低いだけだ!」
「家事や育児よりも仕事の方が大変だ!」
そんな風に高をくくっていた時期があります。
世の中の仕事人間の男性はこんな感覚が多いのかもしれません。
仕事に没頭しすぎて、自分が稼ぎ頭だから一番家庭でえらいのだという
昔ながらの家父長制の悪い部分が根底にあり、家事や育児などを軽視する
傾向があるのです。
私も同じ口だったのですが、実際に自分がたくさん育児や家事にかかわることになると、
そんな甘い物ではないということに気づきます^^
育児に参加をしていると、本当に思ったようにいかないことがたくさん。
これは本当に密接に家庭と向き合わないと分からない感覚なのだと思います。
最近ではイクメンという言葉が世に出回り、男性の育児参加も目立つようになって
きました。昔であれば、恥でも今は世間的には良い旦那様という見方もされます。
そんな中、勘違いイクメンパパも多いのは気になります。イクメンと呼ばれて世間体が
良くなる自分のために育児をしているようなパパが結構いるのです。
1日で数回おむつを替えたら「バッチリ育児に参加している!」と豪語したり、
おむつもおしっこ限定で、うんちは替えなかったりって結構いるのではないでしょうか。
他人の目線があるときは自分が前面に出て頑張っている様子を見せつけたり…
育児している俺って凄くない?みたいな自己愛が強い人なのかもしれません。
育児に参加しているかというよりも、夫婦でうまくストレスをため込まないように
バトンを渡し合えているか?ということが大切であって、結果的に奥さんが助かる
ような育児に参加しないと逆にストレスの根源にもなり得るのです。
実際に育児といっても年齢によってやることはまちまちですが、
私にとっては、スケジュールなんかもさることながら、一番困ることは、子どもが
ぐずったり、のろのろしてたりして、自分のペースが乱されてしまうことです。
こんなことからも、簡単な毒親診断ができます。
私は毒親に育てられたこともあり、毒親要素はたっぷり持っているです。
■子どもがうっかり転んでしまったときになんて声を掛けてますか?
子どもは風の子。寒い日でも暑い日でもへこたれず走り回ったり体を動かしたり
本当に活発ですよね。でも、毎日一緒にいるとどうしても、鬱陶しく感じるときも
あるはずです。子どもの注意力は大人に比べると経験値、想像力などから
非常に低いと分かります。ちょっとみぬまに転んで泣いていたり…なんてことも。
そう、子ども本人からすれば相当痛く助けが欲しいところですが、こちらがイライラ
していたり、急いでいたりすると、
「あーもう!」
「なにやってんのよ!」
「だからいったじゃない」
なんて言葉をついつい掛けてしまいがちです。これがたまにであれば、問題はないのですが、
ほとんどがこういう言葉を発している人はかなり毒親としての要素を多分に含んでいるといえます。
これらの言葉には何かが隠されています。
・あーもう。⇒急いでいるのにまたこっちのペースを乱してくれて困る!
・なにやってんのよ!⇒注意してたら転ぶことなんてないでしょ!面倒なことふやさないでよ!
・だからいったじゃない⇒パパやママのいうことをきいていないからそういうことになるのよ!
どの言葉も、相手へのいたわりや人間としての救済という気持ちがありません。
自分中心的な考え方の言葉なんですね。
もう!困らせないでよ!子どもの分際で!
とは考えているか分かりませんが、子どもにはそのぐらいきつい言葉になります。
■どんなときでも、最優先は、安否や本人の感情をを確認してあげて欲しい。
では、どういった言葉を伝えれば良いのか?決まり文句は特にないですが、
子ども本人の立場になった気持ちを考えているかが大切ですね。
手軽なのは、
「痛かったね。」
「大丈夫だった?」
という感じでしょうか。
しっかりと、感情がこもっているかが大切です。せっかくこの言葉を伝えても、
顔がイライラしていたり、この言葉の後に、命令やだからいったじゃないとか、
そういう言葉を付けてしまうと、効果がかき消されてしまうので、気をつけましょう。
総合的にどういうことなのかといえば、NGな言葉を出している親の人は、
日頃から、相手を肯定するような言葉を使わないで生活していることが多いのです。
だから、とっさのときには、相手を肯定する言葉をいえず、お互いの関係を少しずつ
悪くしていくことも少なくありません。
子どもを肯定するということは、言葉以上に大変なものです。
これが難しいという人は毒親の素質もあるわけですが、そういう人で
困っている人は、自分で自分を肯定できていなかったりするので、
まずは自分を分析してみるようにすると良いかもしれませんね。
って、全部私自身のことですけど^^子どもには色々と勉強させられます。
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2016年04月25日
アスペ嫁の視野の広さはどのぐらい?!極端にいえば歩きスマホをしている人ぐらいの視野です。(その2)
⇒アスペ嫁の視野の広さはどのぐらい?!極端にいえば歩きスマホをしている人ぐらいの視野です。(その1)
■最近でわかりやすい視野の表現としては歩きスマホの人に近い!
性格の不一致、性の不一致ならぬ、視野の不一致といいましょうか、
アスペルガー同様に見た目だけでは判断することはむずかしい思った方がよいですね。
「この人の視野は180度ないな!」
そんな風に一般的な大人は考えません。
これは自慢にならないですが、自分の嫁を長年みてきたせいか視野が狭い人が私は
結構わかります。
⇒アスペ嫁は、視野が狭い。目線がキョロキョロする!?
⇒アスペ嫁は、視野が狭い。目線がキョロキョロする!?その2
以前の記事でうちの嫁の視野をわかりやすくすると30度ぐらいと表現したり、
サランラップの芯のような筒から覗いたときに見える視野に似ているという話
をしたことがあります。
うちの嫁は、眼球だけキョロキョロ動かすんですね。
まるでカメレオンみたいです^^
それ以上に、一般的な人にわかりやすい表現を発見しました!
「歩きスマホです。」
どんなに感覚が優れている人でもスマホに集中しながら歩くということは、
思わぬ事故を誘発させます。アスペ嫁の視野はこの感覚に非常に近いです。
定型の人で180度視野がある人でも、歩きスマホをしていると視野が
20分の1ぐらいになるそうです。単純に計算すると180度の20分の1に
なるということなのかは分かりませんが、計算すると、約9度の視野になります。
これは比較的視野が広い発達障害という人もいると思うのでその人からすると
ちょっと違うかもしれませんが、うちの嫁は常に歩きスマホをして生活しているような
ものなのかもしれません。というか私はそう思うようにしました。
自分も歩きスマホをして冷やっとしてしまったことがあり、そのたびに反省しますが、
またやってしまったりします。そのときは普段の180度の視野は働かず、人とぶつかりそう
になったり、実際にぶつかってしまったり…周りの状況を把握できず、一点に集中してしまった状態
は私たちの日常でも良く起こっているのです。
そうか、スマホを持っていないのに、アスペ嫁は歩きスマホしている状態なんだと。
それじゃ、気がつくわけないわと少し割り切れる部分がでてきたんです。
だから、気がつくような声のかけ方などはこちらが工夫してあげないといけないんですね。
「いい加減気づけよ!」
「普通見えてるでしょ!」
そんな不毛な会話はもうしなくなくなるかもしれませんね。
パートナーは常に歩きスマホをしているわけですから、ある程度のリスクは
覚悟しておかないといけません。あり得ないトラブルがそれにあたります。
そう考えると、本当に怖いのはアスペルガーの人達が歩きスマホをしていたら
いったいどうなってしまうのでしょう。
■大の大人といえども五感の感じ方はひとそれぞれ。
私は基本的に自分に同意や称賛してくれる人としか連んでこなかったせいか、
そうでない人に対しての敵意はハンパないものだったと思います。
柔軟な受け止め方が出来なかったのだと思います。
自分の考え方を理解してくれたり同調してくれない人や批判や非難を
するような人は敵であり招かざる客であると。逆にいままで同意見だったのに
変わってしまった人に対しての態度もわかりやすく、昨日の仲間が明日の敵の
ような変貌を遂げてしまうこともあります。
「自分のこと分かって!」
「自分のことだけ良く見て」
今思えば、自分の安堵する場所を探していたといった方が正しいのかもしれません。
自宅で母親や父親はありのままの自分を受け止めてくれるような心の余裕はなく、
父は仕事づくしで子どもに無関心、母は自分の理想像だけを押しつける今でいえば
毒親に相当する存在です。
友達や恋人にそういう対象を求めては連み、意見が合わなくなるとさよならバイバイ。
そんな感じが多かったのかな。
自分を分かって欲しいという気持ちが潜在的に肥大化してしまい相手に期待する
ことでしか自分の価値を見いだせないような感じです。相手の気持ちは表面的にしか
受け止めないのに自分の全部分かって欲しいなんて今思えば虫のいい話です^^
どんなに性格が似ていようが、境遇が似ていようが、考え方が全く同じ人なんていないんです。
そんなあたりまえなことを理解していないものですから、友達も増えていかず、しかもその友達に
まで不満を持ち縁を切ってしまうのでは本当に困ったさんは自分の方だと今でこそ分かります。
そんな自分を気がつかせてくれたのは、良くも悪くもアスペルガーな嫁のおかげともいえます。
正直このパートナーと共感することは難しいのかもしれませんが、自分自身を見直すためには
自分の人生で必要なパートナーであるというとらえ方も出来ると思います。
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■最近でわかりやすい視野の表現としては歩きスマホの人に近い!
性格の不一致、性の不一致ならぬ、視野の不一致といいましょうか、
アスペルガー同様に見た目だけでは判断することはむずかしい思った方がよいですね。
「この人の視野は180度ないな!」
そんな風に一般的な大人は考えません。
これは自慢にならないですが、自分の嫁を長年みてきたせいか視野が狭い人が私は
結構わかります。
⇒アスペ嫁は、視野が狭い。目線がキョロキョロする!?
⇒アスペ嫁は、視野が狭い。目線がキョロキョロする!?その2
以前の記事でうちの嫁の視野をわかりやすくすると30度ぐらいと表現したり、
サランラップの芯のような筒から覗いたときに見える視野に似ているという話
をしたことがあります。
うちの嫁は、眼球だけキョロキョロ動かすんですね。
まるでカメレオンみたいです^^
それ以上に、一般的な人にわかりやすい表現を発見しました!
「歩きスマホです。」
どんなに感覚が優れている人でもスマホに集中しながら歩くということは、
思わぬ事故を誘発させます。アスペ嫁の視野はこの感覚に非常に近いです。
定型の人で180度視野がある人でも、歩きスマホをしていると視野が
20分の1ぐらいになるそうです。単純に計算すると180度の20分の1に
なるということなのかは分かりませんが、計算すると、約9度の視野になります。
これは比較的視野が広い発達障害という人もいると思うのでその人からすると
ちょっと違うかもしれませんが、うちの嫁は常に歩きスマホをして生活しているような
ものなのかもしれません。というか私はそう思うようにしました。
自分も歩きスマホをして冷やっとしてしまったことがあり、そのたびに反省しますが、
またやってしまったりします。そのときは普段の180度の視野は働かず、人とぶつかりそう
になったり、実際にぶつかってしまったり…周りの状況を把握できず、一点に集中してしまった状態
は私たちの日常でも良く起こっているのです。
そうか、スマホを持っていないのに、アスペ嫁は歩きスマホしている状態なんだと。
それじゃ、気がつくわけないわと少し割り切れる部分がでてきたんです。
だから、気がつくような声のかけ方などはこちらが工夫してあげないといけないんですね。
「いい加減気づけよ!」
「普通見えてるでしょ!」
そんな不毛な会話はもうしなくなくなるかもしれませんね。
パートナーは常に歩きスマホをしているわけですから、ある程度のリスクは
覚悟しておかないといけません。あり得ないトラブルがそれにあたります。
そう考えると、本当に怖いのはアスペルガーの人達が歩きスマホをしていたら
いったいどうなってしまうのでしょう。
■大の大人といえども五感の感じ方はひとそれぞれ。
私は基本的に自分に同意や称賛してくれる人としか連んでこなかったせいか、
そうでない人に対しての敵意はハンパないものだったと思います。
柔軟な受け止め方が出来なかったのだと思います。
自分の考え方を理解してくれたり同調してくれない人や批判や非難を
するような人は敵であり招かざる客であると。逆にいままで同意見だったのに
変わってしまった人に対しての態度もわかりやすく、昨日の仲間が明日の敵の
ような変貌を遂げてしまうこともあります。
「自分のこと分かって!」
「自分のことだけ良く見て」
今思えば、自分の安堵する場所を探していたといった方が正しいのかもしれません。
自宅で母親や父親はありのままの自分を受け止めてくれるような心の余裕はなく、
父は仕事づくしで子どもに無関心、母は自分の理想像だけを押しつける今でいえば
毒親に相当する存在です。
友達や恋人にそういう対象を求めては連み、意見が合わなくなるとさよならバイバイ。
そんな感じが多かったのかな。
自分を分かって欲しいという気持ちが潜在的に肥大化してしまい相手に期待する
ことでしか自分の価値を見いだせないような感じです。相手の気持ちは表面的にしか
受け止めないのに自分の全部分かって欲しいなんて今思えば虫のいい話です^^
どんなに性格が似ていようが、境遇が似ていようが、考え方が全く同じ人なんていないんです。
そんなあたりまえなことを理解していないものですから、友達も増えていかず、しかもその友達に
まで不満を持ち縁を切ってしまうのでは本当に困ったさんは自分の方だと今でこそ分かります。
そんな自分を気がつかせてくれたのは、良くも悪くもアスペルガーな嫁のおかげともいえます。
正直このパートナーと共感することは難しいのかもしれませんが、自分自身を見直すためには
自分の人生で必要なパートナーであるというとらえ方も出来ると思います。
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