何となく見ていたら1620年14歳の徳川和子が後水尾天皇へ入内したときの様子が洛中洛外図屏風に描かれているという説明があった。屏風から二条城から京都御所へ行列が通った約1.5kmの道順が分かるので現在の通りを実際に走った映像が流された。
参考: 皇后・徳川和子がお手本!江戸時代も大人気だったセレブファッションを『雛形本』で探る!
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/135397/
丁度「元離宮二条城」の外見を見学し、その通りを歩いたばかりなので興味深くその映像を見ていた。23/09/15(金)は遠回りになっても京都御所の横を通れば良かったと思う講義内容だった。
徳川和子は7人の子供を産みながら男子2人は幼くして夭折した。本人は72歳まで長生きしたから多くの娘たちを見送ったとの話だ。当時の女性は跡継ぎを産むのが仕事で権力者同士の政略結婚の犠牲者と言う印象でその生涯を説明していた。
科学博物館の「毒展」で江戸時代の白粉には鉛が含まれており、授乳の時乳母が使っていた白粉も舐めてしまい乳幼児の死亡率を高めていたと言う話もある。早く鉛中毒に気付いていれば本当に日本の歴史が変わっていたことだろう。それこそ「JIN ― 仁 ―」の南方仁が幕末に白粉の危険性を説いてもよいくらいだ。
参考: 白粉(おしろい)は毒まみれ? 実は危険だった、江戸時代のお化粧事情
https://www.risawakabayashi.com/makeup-oshiroi-lead/
興味を持ち「徳川和子」について調べると講義の通り徳川家と天皇家の板挟みで気苦労が多かったらしい。一方で彼女が好んだ意匠が寛文小袖の原型になったり茶道を好み押絵が得意だったりと言うことが分かり武士の娘らしい逞しさでその人生を楽しんでいた一面も垣間見られた。
興味深い女性だと思ったら「大奥」「春日局」等のドラマでも描かれていると言う。確かに作家の想像力を刺激するキャラクターだ。
次の京都観光ではゆかりの地も巡ることも検討したい。
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