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2019年02月08日

新しい英語の補習が始まった

「補習に人が集まらない」、と悩んでいた英語先生が、英語係を集め、どうすべきかを考えさせたところ、「週二回のうちどちらかは全員参加にすべきだ」、という生徒からの意見が出て、本日からそのシステムで補習が実施された。

習熟度の二番目と三番目のクラス対象で、およそ40分間の補習が行われた。

ちょうど私が部活帰りに、職員室に立ち寄ったとき、参加した生徒たちとすれ違ったのだが、彼らの表情は概ね明るかったし、疲労感はなかった。

なかなか満足のいく補習だったようだ。

補習は基本的に希望者が参加する。
「自分から勉強したい」、という意欲が、学びを深め、理解を助ける。

今回は担当者の魔法で、係生徒の話し合いでシステムを決めたが、次のハードルとして、「補習に出て良かった」、という満足感である。

自分自身にとってのメリットが大きければ、サボらずまた参加しようという気持ちが湧く。
一緒に参加している友達と、楽しく学べれば、リピーターにもなる。

教師は、いかに『楽しく、充実した、参加して良かった』、と思われる授業を提供しなくてはならないのだ。

教員に成り立ての方は、まず、この部分で悩む。
だから、ベテランの授業を見学したり、その技を盗んだりする。

今朝、新人の先生に、
「明日は立志式で忙しくなるから、明日配るプリントは今日中に印刷してきなよ。」
と、声を掛けた。
すると、
「先生、4時間目は中1の授業ですよね。」
と、返答された。

彼との会話はいつもこうだ。
私の指示なり、質問とは違うことを、言ってしまう。
頭が良いから、次のことを話してしまうのだろうが、どうも会話がギクシャクする。
要は、「4時間目の授業を見学させてください」、ということらしいのだが、
そのようなお願いはできず、違う聞き方をする。


授業は教師に取ってのもっとも大切な仕事の一つ。
これが、面白くないと、生徒はついてこない。

授業がきちんとできて、信頼感があるからこそ、生徒指導にも生きてくる。

だが、授業を面白くするには、いろいろな仕込みが必要だ。
教材研究だけやっていても、面白い授業にはならない。

相手は生徒であり、人間なのだ。

日頃の生徒との関わりが、うまくいっていると、授業もうまくいく。
授業がうまくいっていると、生徒との関わりもスムーズになる。

どちらが後先かは、難しいが、互いの相乗効果がどちらもよい面を引き出していくと思われる。

英語の補習が、この先も続いていくことを望みたい。








2019年02月07日

立志式に向けて

立志式の飾り付けのため、書き初めを教室に飾った。
三学期早々、自分で考えた四文字を、書き初めとして書いたものだ。
お手本すらないので、もはや「書写」ではない。
生徒一人ひとりが、言葉に思いを込めて、一画一画、筆を運んで書いた作品だ。

クラス全員分の書き初め作品が、ずらりと教室に展示されると、その姿はさすがに壮観だ。
「なかなかいいんでないかい?」
昼休みに張り終えた私は、一人ほくそ笑む。

「やっと中学校っぽい教室になりましたね。」
教育学部出身の隣の担任がつぶやく。

三学期の目標を記した掲示物に、個人顔写真も貼った。
インフルエンザが流行り、なかなか写真が撮れずにいたのを、立志式に合わせて、慌てて撮影したものだ。慌てついでに、カメラの設定を間違えた。夕焼けを綺麗に見せるモード(赤色を強調するモード)で撮ってしまい、全体的に露出アンダーになったので、少し書加工したら、赤っぽい、コントラストの高い写真になってしまった。

「先生、今回の写真変ですよ…。」
異常に気づいた生徒がすぐに詰め寄ってきた。
私は笑って誤魔化す。

今日の学活では、立志式のリハーサルをやってみた。
発表時の一人ひとりの動きを確認する。

「本番に強い彼らのことだから、まぁ、うまくやり遂げるだろう。」
私はそう高をくくっているのだが、心配性の先生方は不安そうだ。

他の学年の先生にも、
「生徒が一人ひとり志を発表しますから、是非見に来て下さい。」
と声を掛けると、「楽しみにしています」、とのこと。

「生徒たちの成長を見て欲しい。」
どれだけ、進化したかは分からないが、今は、彼らの志の思いの一端なりとも、感じてもらいたいと願うばかりである。

実行委員長のT君に、「挨拶原稿、作ったか」、と尋ねると、まだだと言う。

だが、私は彼を信用している。
きっと素晴らしい、思いのこもった挨拶をしてくれると信じている。

私の涙腺をくすぐれば、100満点だ。

立志式まであと2日と迫った。









2019年02月06日

立志式のサプライズ映像

立志式に生徒にサプライズで公開するフォト動画が完成した。
生徒たちの幼少期の写真を、あらかじめ保護者に提供してもらったのである。
それを、一人ずつスライド形式に紹介した動画である。

幼少期の彼らは、等しく可愛い。
今の姿とは、比較にならぬほどの、まるで天使の姿である。
その笑顔、顔立ち、そして仕草…。
すべてが愛らしい。

親はこの時期の子どもを育てることに、すべてをかける。
この先、親孝行してくれることはないだろう、と予想していたとしても、今のこの時期の子どもの愛らしさは、何ものにも代えがたい。

ある意味、この時期にすべてを子どもから受け取っているとも言える。
育てるということの一方で、親を頼り、慕い、寄り添ってくる子どもの愛を一身に受けるのである。

そんな時期の写真ばかりを、学年全員分集めた。
そして、それを動画にした。

まさに涙無しに見ることのできない動画に仕上がった。

生徒たち彼らは、歓声を上げながら、その映像を見るだろう。

その映像を見ながら、親は子供たちの成長を思う。
そして、生徒たちは、自分の過去の姿を見て、現在の姿を思う。

当日は、その姿を見ての、一人ひとりの志の発表になる。
その後、子供たちはこれまたサプライズの親からの手紙を渡される。
そして、親たちにも、生徒たちの手紙を、サプライズで送られる。

動画には所々で言葉が散りばめられているが、その最後に、

 生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、
 死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し。 (空海『秘蔵宝鑰』)

があった。

人は何でも転生するが、その様はなかなか気づくことはない。

私にも、幼少期はあり、親たちにとっては喜びの時代であったろう。
その親たちにも、幼少期はある。

幼少期だった時代を超えて、齢を重ねれば、いずれ老いていく。
そして、寿命が尽きればこの世を去る。

そしてまた生まれてくる。

そんな生まれ変わりの仕組みを知れ、と空海が説いている。

ほぼ一日がかりで動画を編集した隣の担任。なかなかいいセンスをしている…。








2019年02月05日

関係者入試

私が最初に務めた私立学校での話。
初めて入学試験の審議の会議に参加したとき、成績順の審議資料が配られた直後、教頭から「関係者」が発表された。
「関係者」とは、成績にかかわらず、必ず合格させようという受験生のことであった。

定員があるので、併願者を考慮して合否ラインが設定されているが、その合否のラインの下に位置している「関係者」が次々と読み上げられた。

「関係者」は、多額の寄付をしている保護者の子弟。
地元有力者からの紹介。
卒業生地元有力企業の子弟。
職員の近親者。

などなど、いろいろなパターンが考えられるが、彼らを自動的に合格させる、というものであった。
新人の私は、「そういう世界があるのか…」、と新たな世界に驚いていたが、長らく務めている重鎮たちや、組合員は黙っていない。

「この関係者とは、それぞれどういう人物なのか」、「これでは、入学試験を行う意味がないではないか」、「これほど成績不振の生徒を入学させたら、学校が崩壊する」、など喧喧諤諤となり、会議が一時中断する有様。

教頭は、校長(=理事長)から、「そうしてくれ」、と伝達されているだけなので、教頭を責めても埒があかないのだが、「今年はこれで頼みます」、の一言で収拾をつけた。

翌年、校長が代替わりをして、職員会議や入試の審議に顔を出すようになった。
その時彼は、驚くべきことを口にする。

「今年からボーダーラインより下の成績の『関係者』は合格させません。」
そう、宣言したのだ。

若い校長で、何かしらの改革をしようとしたのかも知れないが、私は、百年あまり続いていた、地元とのつながりが、一部壊れていく思いがした。

その後、その校長は、同族経営の批判と、公費私費流用を組合側からでっち上げられ、裁判沙汰になり、学校を去っていくことになる。

伝統校の入試は、その裏側は複雑だ。
その善し悪しは私には分からないが、こうした「つながり」が、社会を構築しているのだと思う。

欧米では、推薦書の威力が大きいと聞く。
「この人の推薦ならば…」、と信用され、当然合格につながる…。

成績よりも人物重視なのだろう。

明治以降、学問をもって、平等になった日本だが、もしかしたら、大切な何かを取りこぼしているのかも知れない。それを補うかのように、いろいろな世界での裏側があるのだと感じる…。








2019年02月04日

歴史教育の大切さ

歴史上には様々な偉人がいる。
左翼教育はではこうした偉人の存在は認めたがらない。人間は、皆平等であり、差があっては困るかららしい。たゆまぬ努力の成果や、磨き上げた徳、などというものは認めたくないわけだ。
だから、「坂本龍馬や吉田松陰が歴史の教科書から消えるかも」、などという報道が現れる。

実際は某団体が提言したのだそうだが、それとは別に、真実かどうかすら極めて怪しい、「従軍慰安婦」、「南京大虐殺」は、残すべきだという主張である。

滅茶苦茶だが、彼らはきっと大真面目なのだろう。
私は、「北朝鮮は夢の国」、という嘘の幻想を信じていた時代に似ているようにも見える。

歴史的偉業を成し遂げた云々ではない。
坂本龍馬や吉田松陰は、その生き方に学ぶべき姿がある。

一番注目すべきは、彼らが私心で生きていたか、ということである。
彼らの生き方を見る限り、公のために生きていたとしか思えないのだ。

現代の考えからみれば、「突拍子もない生き方であり、狂っているとしか思えない」、という人も多いだろう。

しかし、そうした普通でない生き方が、人々に感化を与えている点を見逃してはいけない。

「大局を見極め、小事を捨てた」、彼らの生き方は、決して万人に真似ができるものではないだろう。
しかし、彼らの命は、たとえ若くして散ったとしても、その思い、精神、考え方は、確実に同じく志を持つ者に伝わり、大きなうねりとなって、歴史を変えていったのだ。

「直接的に歴史を変えたわけではないから、偉人ではないし、教科書に載せるべき人物ではない」、という主張には賛同できないし、別の人物であっても、実は名前だけのお飾り、歴史に名を残していない人物が、周到に活躍した結果、その偉業が与えられた場合だってある。

正しい歴史を学ばない国民は滅びに到るという。
歴史上現れる、先人たちの中で偉人と称される人物は、その生き様に『自己犠牲の精神』がある。

こうした考え方が、学びに値するものであり、人類の精神的進歩を生むものと考える。

学齢期の子供たちに伝えるべき日本の遺産であり、その精神性であろう。

戦後、日本が復興し、立ち上がったまではいいが、その後、長く低迷期を迎えている。
この原因も、ゆがんだ歴史教育なのかも知れない。

誇りなき国民は、他国の侵略を受け、滅びていく。
そろそろ日本の誇りを取り戻すべき時が来たのではないだろうか。

日本を中国や北朝鮮のように、国民が逃げ出したくなる国にしてはいけない…。








マウスコンピューター

2019年02月03日

中学・高校入試の様相

私立学校の入試の様相は、昨今変わりつつある。
少子化により、絶対的な生徒数が少ないこともあり、各校とも生徒確保にしのぎを削っているのだ。

生徒数が少なくなっているのは、公立校も同じだろうが、私立学校では、「ここまでやるか」、というくらいの生徒募集活動が行われる。

例えば、受験を迷っている人がいれば、校長が生徒の自宅を訪ね、徹底的に学校のアピールをする。
「絶対に損はさせません。それどころか、必ずや○○君の夢を叶えます。」
と、いった具合だ。

出願しても、入学試験を受けなければ入学することはないので、そのあたりのフォローも行う。
定期的に連絡を入れ、迷いが出たならば、また訪問。また、気持ちを高めるのである。

入学試験を終え、合格発表が終われば,今度は入学のための手続きをしてもらうためのフォローになる。
「合格するはずがない」、と思っていた父親が、入学に反対ならば、それこそアポ無し訪問も選択肢の一つ。時間をかけて、疑問を解き、父親を説得する。

入学手続きを終えても安心はできない。二度目の手続きを確実に完了させてもらうために、あらゆるアプローチを行う。金銭的な面での相談もするし、親戚への交渉だって行う。

入学試験では、インフルエンザの生徒であっても入学試験を受け入れる。当然、他の生徒とは隔離しなくてはいけないが、保健室受験と称して、特別な部屋で入学試験を行う。もっとも、高熱で試験の出来は芳しくないだろうが、ほとんど受験すれば合格するような時代でもあり、受験者側も必死で試験会場にやってくるわけだ。

試験中、ADHDなど落ち着きのない生徒がいれば、相手の気分を害さない範囲であやす。
他の受験生に迷惑がかかるようなら、席を変えたり、別室に移したりもする。

寝てる生徒がいれば、起こしてまでも試験を受けてもらうなどなど、ありとあらゆる手立てをして、受験生、入学生確保にあたるのである。

採点の時も、解答用紙のみならず、問題用紙のメモまで確認し採点を行うことすらある。

こんな風にしてようやく集められた生徒たちを、入学後は、今度は彼らの夢実現のために全力を尽くさなくてはならないわけだが、入学前から手のかかる生徒は、入学後はそれ以上に手がかかる。

それでも、気分良く学校生活を過ごせるように、保護者にも最高の満足を得てもらうように、ありとあらゆる努力を惜しまないのだ。

中高生の教育活動と言えば、聞こえが良いが、いつしか時代は、幼児のお守りのような状況に近づいている。

完全なサービス業。
これでいて聖職者としての自覚を持てというのも、若干、酷なようにも思えるのだが…。









2019年02月02日

教員としての自覚

都市部の中高一貫の私立学校は、とかく休みが多い。
この休みとは、主として生徒が休みの日ではあるが、教員にとっても何となく、気が抜ける日であるかも知れない。

例えば、定期試験が終われば、採点日と称して休みになる。採点が終われば、成績をつけると言って休みになる。生徒には自宅学習日と言っているが、要は授業をしないで、先生方の事務処理に当たるという日である。その間、部活動を行っている学校もあるが、生徒にとって完全に休み、という学校も多い。

私が以前努めた学校は、土曜日も授業があった。
当時は、土曜日は授業をするのが当たり前の時代で、その後、週2回になり、そして公立学校は休みになった。

その流れを予測してか、組合を中心に、『研修日』なるものを要求し、週に一度、平日もしくは土曜日に教員が休みを取れるようになった。

大義名分は、「教員が各自、教材研究等、自己研鑽を行うことで、よりレベルアップした満足度の高い授業、教育が行われる」はずだ、という考えに基づいている。

確かにその通りで、自己研鑽の時間は絶対に必要だとは思う。

しかし、それを当然の権利として主張して、それによって時間割まで調整しなければいけなくなるのは、ちょっとやり過ぎだと思っていた。土曜日が休みになって、おそらくこの『研修日』制度はなくなったであろうと思うが、新人時代の私は違和感を覚えた記憶がある。

都市部の中高一貫私立学校では、部活も週3回になったり、長期休暇も長かったりする。
このあたり、公立学校との差が著しい。

『「土曜日も部活があり、日曜日も大会で先生は顔を出していた。試験の採点も自宅に持ち帰って、夜中まで仕事をしていたようだ」、というこのような教員の姿が、目に見えぬ尊敬となり、教員は聖職者であると言われた所以でもある。』
という話を聞いたことがある。

現代の多くの教員は、同意どころか、反発さえ感じるとは思うが、昨今の教員の指導力不足と言われる背景には、尊敬を失いつつある教員の姿、聖職者であることを拒否している教員の姿があると思われる。

保護者のほとんどが高学歴になった今、尊敬を得るにはプラスアルファの部分がなければならない。

それが、「徳」であったり「自己犠牲の精神」であったりするのだが、『権利』ばかりを主張すると、そうした美しい姿は消え去ってしまうわけだ。

教師が労働者になってしまったら、教育の質は低下する。
労働者としての意識があると、『ブラック』と呼びたくなるものだ。

日本の教育は、先人たちの多くの自己犠牲によって、作られ、継承されてきた。
彼らは時間を切り売りしようとする意識はなかっただろう。

教育は国の基だ。
それに携わらせていただいているという自覚を、もっと持つべきではないだろうか。

日々、自己研鑽し、学び続ける姿。
自ら徳を磨いてゆこうと努力し続ける姿。
教育にすべてを捧げようという気概を持ち続ける姿。

こうした教師が、尊敬される教師であり、聖職者なのだと思う。








2019年02月01日

廃棄パソコンの行方

廃棄パソコンの処理方法について相談を受けた。
パソコンのハードディスクには、個人情報を含む機密情報が含まれる。
だから、廃棄するパソコンは、ハードディスクを初期化するか、読み取り不能にする必要がある。
OSにつなげれられ認識できる状況であれば、完全フォーマットをするし、物理フォーマットをすることで、完全に初期化される。簡易フォーマットでは、内部のデータは消えないので、再現させる可能性するあるわけだ。

パソコン内の基板にはレアメタルが多いので、単なるゴミとしては捨てられない。ノートパソコンなら、小型家電リサイクル扱いで、市町村が回収してくれることもあるが、なかなか処分に困るのがパソコンである。

個人であれば、買い換え時に無料引き取りサービスなどを利用できるが、企業では情報漏洩上、なかなか厳しい。

私の学校でも、以前、廃棄処分した直後に、ネットワークへの不正アクセスがあり、大きな問題になったことがある。
以来、パソコンの処分には手を焼いているというわけだ。

信頼ある業者に依頼すれば、一台あたり数千円の手数料を取られる。
それはそれで、完全に処分してくれるのだから、ありがたいことだが、学校ともなると、なかなかその予算を取りにくい。

という訳で、私に相談が来たというわけだ。
もちろん、私自身時間をかければ、70台にもおよぶパソコンのハードディスクを安全に処理することはできる。だが、今は時間がない。教員の片手間でやる仕事でもない。

「事務長から早く処分せよ、と言われておりまして、一台一台のハードディスクを物理的に破損させたらどうかと思うのですが、どうでしょうか。」
という相談だ。

ちょうど授業の始業のチャイムが鳴った時でもあったので、
「少し、時間を下さい。考えますから…。」
と、答え今日一日いろいろ考えてみた。

確かに分解すれば、ハードディスクは読み取り不能になる。
以前、私も専用のドライバーを購入し、向学のために分解してみたことがあるが、これはとても手間がかかる。

ハンマーで叩いて壊すなどということを想定しての相談だろうが、保存領域が壊れなければ、どうやら再現できてしまうらしい…。

結局、信頼ある業者に委託するか、自前で消去するかのどちらかだろう。

昨今は、ハードディスクの中身は自分で消去して廃棄することが一般的になっている。

さて、何て答えるかなぁ…。

廃棄パソコンとは言え、お宝の山なのだが。
Windows7のサポート切れに伴い、まだまだ廃棄パソコンは増えそうだし…。








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