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やすねこアート
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2017年11月06日

猫の冒険     その32

ちび黒猫が不安を感じる少し前、
つまり、からだがフワッと浮かんで
そして、嫌な感じがした落下の感覚が
起こる少し前。

ちび黒猫は何かを見ていたのです。
彼はそのことを思い出したのです。
それは以前に見たことがあったかもしれない。
なんとなく、そう思ったりもしましたが
明確に覚えているわけではありませんでした。

高いところから下を見下ろしていた。
その記憶のみです。

そこの場所が何処なのかも
分かりません。

ただ、分かっているのは
彼は独りであったことだけ。

それが寂しい、ってわけでもありませんでした。
最初からその状態だったから。

しかし、彼には同じような
ぬいぐるみがいることを知っていますが、
彼らが何処からきて
何処へ行こうとしているのか
ちび黒猫は知りません。

ちび黒猫は、何故か前世の記憶が
残っているようでしたが
彼自身、それが前世の記憶なのかどうかも
分かっていません。

ただ、前世の彼は、自分自身のチカラで
動き回っていた、という感覚をなんとなく
感じているに過ぎません。

現実の自分にギャップを感じていることも
確かにあります。

自分の存在理由、ちび黒猫は
自分の存在理由を知りたいと強く思っています。

DSC_0050.jpg

2017年10月30日

生きて もどりたい

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生きて 戻りたい!
とてもとても強いおもいがあったと思います。

ゼログラビティ では、
空気もない過酷な宇宙空間に
一人取り残されました。
目下には母なる地球が見えますが、
宇宙服のままでは降りられません。
必死に脱出の方法を探します。
地球の大地ならどこでもいい
酸素の無いこの場所よりもいいから。

この宇宙からみると
日本も北朝鮮も同じ地球の大地
上から見ると同じに見えます。

しかし、何故か、大地に足をつけている
私達にとっては、その立っている場所が
重要になってくる。宇宙から見ると
たいした距離でもない日本と北朝鮮でも
立っている場所でとても違う。
地球を一つとみるなら
なんでお隣同士いがみあっているの?
と、そういうレベルの話になってくるのに
大地に立つ側から見るとお隣と自分の
立ち位置が非常に重要な問題となる。

蓮池さんも、当時
生活していた場所から
全く別の環境に連れてこられたわけで
生きて日本に戻れないのでは?と
感じていたそうです。
しかし、今こうして日本で
生活されています。

戻りたい、強いおもいが
あったからだとおもいました。

どちらも共通していることは
最後まであきらめなかったことだと
おもいました。

どちらの状況も
過酷でしたが、
へんな言い方ですが、
半ばその状況を楽しいんで乗り切った
そんな感じも受けました。
逆境の状況を逆に楽しむという
ポジティブに捉えなおす。
それがあったからこそ
最後まで生き抜くことが
出来たんだと感じました。

蓮池さんのお話も
ゼログラビティの映画も

”決してあきらめなければ
その先に光が見える”

そう感じることができて
これから生きていく上で
刺激を受けました。




猫の冒険     その31

ちび黒猫は、一瞬からだがふわりと浮いた感じになりました。
実際、彼の体は一瞬ではありますが、浮きました。
しかし、それは上昇の感覚ではなく
その逆でした。

ちび黒猫は、怖さのあまり気を失いました。
怖さというより
何が起こっているのかわからない不安でいっぱいでした。

ちび黒猫にとって、つまり
彼らぬいぐるみたちにとって、
動いていないことが
一番の安心なのです。

それが、常に動かされているような感覚に
させられるのはとても不安なのです。
不安な時は何も考えることができず、
冷静になることもできないのです。

今度の不安は更にひどいものでした。
今までに無い不安、
下に落ちていくのです。

ぬいぐるみにとって
一番嫌な感覚なのです。

誰か助けて欲しい
ちび黒猫は強く思いました。

2017年10月23日

猫の冒険     その30

気が付くと ちび黒猫は
隣に仲間がいることに気付きます。

ちび黒猫は考えています。
以前、気が付いた時、
自分は以前の記憶がありませんでした。
だから、自分はずっと同じ位置に
居続けていると思っていたのです。
始めからここが自分の居場所だと
思っていたのです。

しかし、実際は違うのです。
ちび黒猫は何かの力によって
常にあちらこちらに移動させられていたのです。

そのことに
ちび黒猫はだんだんと気が付いたのでした。

そして、また、違う場所につれてこられました。
いったい誰がこんなことをさせているのでしょうか。
まだ、ちび黒猫には分からりません。
見るものが全て新鮮で、困惑するよりも
驚きの方が大きいのです。

ちび黒猫は誰かの力によって
翻弄されながらも
自分の置かれた環境に
順応しようと一生懸命です。
それに、その状況を楽しんでいるようです。

今回は何か見慣れないモノが
目の前に登場しています。
しかも動いているのです。
ちび黒猫は何等かの力によって
既に様々な知識が入力されています。

とっさにちび黒猫は叫びました。

「あっ、水だ!」

ちび黒猫は怖くなりました。
ぬいぐるみにとって水は
あまりよくない存在なのです。

ちび黒猫は震えました。
早くここから違う場所に行きたい、
そう思いました。



1-03-2.JPG



2017年10月21日

私的 ぬいぐるみケア

ぬいぐるみは
好きです。

ふかふかしていて
触っていると
気持ちがいいし、
とっても和みます。

皆さんは
どうですか? 
ぬいぐるみ、好きですか?

沢山もっていると
ケアが大変なので
街で見かけても
その場で触るだけで
最近は購入はしてません。

家にも何体かいます。

皆さんは、ぬいぐるみのケアは
してますか?
どこかに置きっぱなしにしていたり
汚れるからと言ってビニール袋に
入れたままにしてませんか。
ビニール袋に入れたままの
ぬいぐるみ ...
何か息苦しそうで可哀そう。

私は週に一度ケアしてます。

私的なケアは
別に何か特別な器具を使ったり
薬品を使ったりすることは無いです。

キレイに洗った自分の両手で
優しく表面を撫でてあげればよいのです。
適度な湿り気を維持している
生身の人間の生皮が
ぬいぐるみのケアに一番適しているのです。
適度な柔らかさを持った生皮で
表面を撫でることで、表面に付いた
埃が上手に取れます。

この行為は、人間にとっても
ぬいぐるみにとっても
心地よい行為なのです。

ちょうど、猫ちゃんやワンちゃんを
撫でている感じですね。
撫でることで癒されるのです。

2017年10月20日

続けていくことで きっと伝わると信じています

最初にお断りしておきますが、
私は、美術評論家ではありません。
そして、これから記することは個人的な意見です。

卑猥性に、如何にして芸術性を持たせるか。
永年、芸術家は悩みながら、思考を巡らせてきたことでしょう。
法律的な見方でもやはり、芸術は、
それはそれとして認めるが、
卑猥であることは別の話だ、という感じで、
なんかよくわからんですね。

裸体を見て「素晴らしい」と思うか、
「いやらしい」と思うかは
主観的な問題だと言う意見がある一方で、
卑猥なものは理屈抜きに卑猥だ、
とする意見もあるのも事実です。
足をM字に開脚すると卑猥だとしても、
陰部が映らなければ良しとする見方もあります。
しゃがむ行為自体はだれでもするし、
その姿勢を写したからといって
直ちに卑猥という言い方はできないでしょ。

マニアの中には、
しゃがんで何かをしている後ろ姿に
卑猥性を感じる人もいます。

そうなると、身体のある部分を見て、
その人がどれだけ卑猥な想像力を
働かせることができるかにかかってきます。
いやらしい想像というわけです。
ある形状をみて、それを
身体の一部と似ていることを想像する人も
いるようです。形状を見る。
音や声を聞いて想像する。
匂いを嗅いで想像する。あるものを触って想像する。

創造する力がある一方で、
こうした類の想像する力もあるようです。
芸術的の創造も、この類の想像に類似している
かもしれません。制作する行為は
ある意味、自慰行為に似ていますから。
この自慰行為を正当化するために、
本当はエッチな想像をしているにもかかわらず、
「いや、これは芸術なんだ。」と
自分に言い聞かせているようにも思えるし、
他人に悟られないように、(本当はスケベなのに)
「これは芸術作品なんだ」と白々しく言い訳しているように
も見える。

じゃあ、猫の絵を描いている人まで
いやらしい卑猥な人だといえるのか。
それは極端だが。それは、僕から言わせると
芸術の域まで行かない単なる絵を上手に描いて
商売をしている人にしか見えない。
かわいい猫を描く。それを見て、何か癒される。
その役割をになう存在としての猫の絵。
それは、それの役割があるが、
これは芸術とは別の領域のように見える。

芸術には、どこか危ない一線を越えるような何かがある。
一見理解できないもの。
急に立ち止まらずにはおられないような気持ちにさせるもの。
在り来たりに見えるにもかかわらず
何故か気になるものとか。とにかく、
その人の心にへばり付いて離れない、
そんなようなものだと思うのです。だから、
最初から分かってしまうものは、
一瞬面白く思えるかもしれないが、
すぐに飽きてしまう。見るたびに
いろいろ考えてしまうものは面白い。

裸体、特に陰部は普段は見えない。
それに見せるものではないとされている。
同性のものは普段、自分自身が見て
見慣れているので別段面白いものでもない。
しかし、見られない異性のものに対しては、
ことさら興味があるこだろう。しかし、
普段は見られないから、いろいろと想像したりする。
そしてそれを創る。
自分がどれだけスケベなのかその痕跡を
わざわざ残してしまうわけだ。
それを悟られないように、立派な芸術作品だと
自分で言い聞かせて世に送り出す。
売れて名前が知られるには、
その要素が不可欠に思えてならない。
引き付ける一番手っ取り早い手段は
卑猥な行為だと思うからです。
似たようなものが並んでいてスッと目に留まるのが
この卑猥性だからです。人間の本能を
メディアが巧みに利用する手段です。
見て一瞬ドキッとする。その瞬間に引き付けるのです。
それは、動物の本能なので
仕方無い事なのかも知れませんが、
それが評価される芸術にも及んでいます。
つまり引き付けるキッカケを与えているわけです。
そして、それを越えて更に人間の本質に迫ろうとすると、
今度は逆に陰部を見た時のドキッとした感覚は無く、
寧ろ理解できない得体のしれないものとして
素通りされてメインストリームから外れるのです。
深く思考している作家に多いタイプです。
私のように。理解されない辛さは、辛いですが、
安易に一般受けするエログロとかにしたくないです。
芸術性は一人ひとりにあるものです。
それに気付けば、本質を問うことも可能です。
しかし、何故かメディアはそれをさせないように
しているようです。殊更、卑猥性に目を向けさせ
本筋から本質を外そうとして曖昧にして
より複雑にして理解不能にしている。

作品そのものに罪はありません。
いけないのはそれを利用している側にあるのです。
良くも悪くもアートは利用され続けてきました。
今後もそうでしょう。

しかし、例え自分の作品であっても
制作を続けていくことで
何時か誰かに伝わると信じています。

2017年10月19日

やはり私達は権力者達に操られているんだろうね  その3

お客は店員の態度が悪いとムカつき、
店員は客がムカつくと思っている。
A店の店員は、別の店に行けば客になる。
立場が変わっても、ムカついていることに
変わりはない。

店のイメージのため、店は
サービスを過剰にする。
そして、客はつけあがる。

客にムカついた腹いせに、
他の店の店員をイジメる。

同じ地域の人間同士対立させている。

なぜだ。

権力者は1%。
残り99%を操っている。だから
その99%が協力して1%に
反撃しないように、99%同士
仲違いをさせ、対立させ、
バラバラの状態にして、
互いを孤立させて
力を分散させ、
自分たちは弱い存在
権力に太刀打ち出来ない
と、思い込まされている。

しかし、
かと言って

弱小化させられた
無力だと烙印を押された
我々の中から、
誰が権力者に歯向かうだろうか。

だから、協力し合って
1%に立ち向かわないと
決して私達の生活は良くならない。

これは、誰にでもできることだ。

今、必要なのは、

” お も て な し ”

ではない。

” お も い や り ”

だ。

相手の立場に立って
自分の行動を、行為を
今一度、見直す。

自分の尺度で
相対的に
物事を判断してはいけない、
と思う。

何でも早く
済まそうとする人が
多すぎる。
しかし、その速度は
相対的で
絶対的な素早さは
存在しない。
その早さは常に
周りの誰かと比較した
相対的なものだ。

こんな些細な事でも
権力者は周到に
99%をコントロールしている。

2017年10月09日

猫の冒険     その29

DSC_0041.jpg

ふと気が付くと
ちび黒猫は別の場所に居ました。

見たこともないところでした。
しかし、以前よりも、彼の記憶は鮮明でした。
鮮明といってもはっきりした根拠はありません。
彼は、前にいた場所を微かですが覚えていました。
しかし、周囲がぼやけていて正確な場所の特定は
できませんでした。しかし、
彼自身、場所が変わったという感覚、というか
記憶が残っていたのです。
彼は、今の場所が記憶に残るように
いろいろと考えました。しかし、
よくわかりません。

ちび黒猫「ぼくは今独りだ。誰か他にいないのかなぁ。」

以前、誰かと一緒だったことを思い出しました。


2017年10月02日

猫の冒険     その28

DSC_0044.jpg

ちび黒猫は、目を覚ましました。
寝ていたのか、気を失っていたのか、
それは彼にもわかりません。

目覚めると、独りでした。
先程まで彼は夢を見ていたようでした。
自分がペシャンコになって道路に張り付いている
夢でした。まるで、何かに踏みつぶされたように
路面に密着しているようにペラペラの自分が
そこにいました。ちび黒猫は
とても怖かった。怖くて悲鳴を上げたいけど
自分の体はペシャンコになって声すら出ない。
その後も何回も踏まれ、布はボロボロになり、
やがて路面と自分が一体となっていくところで
目を覚ましたのです。

彼はいつも独りです。どこで生まれて、誰が親なのか
それすら知りません。記憶すらないのです。
そもそも彼の記憶すら誰かに刷り込まれていても
おかしくないのです。

しかし、さっきの夢は
一体何だったのか。
彼はずっと考えています。

時々、気を失う。
そして、目が覚める。
その度に、別の場所にいる。
独りの時もあるし、自分と同じ
存在に出会うこともある。

しかし、その相手に話しかけても
あまり的を得た応答が無い。
自分は他と違うのか。
なぜ違うのか、何が違うのか。

そもそもなんで自分だけが
こうして不思議がっているんだ。
誰かが、考えるチカラを与えてくれたのか。

考えるということは、それだけ何かを
知っている事だ。そして、知らない事に対して
それを知ろうとするチカラ、そして、それを
理解し、知識として蓄積するチカラがある
はずだ。誰かがそれを与えてくれたんだ。
それが誰か、今はそんなことはどうでもいい。
自分がこれかいろいろなことに疑問を持ち
それを見聞きし、理解し、知識をつける。
その過程で自分が一体何者なのかが
ひょっとしたらわかるかもしれない。
その時まで気長に待つか。

2017年09月26日

Phaさんの「ひきこもらない」を読んだ

ひきこもらない (幻冬舎単行本)




彼は、28歳の時、衝動的に会社を辞めたんだね。
実は、私も、同じ歳に、会社を辞めたんだ。
それは、日本から逃げるためだったんだ。
逃げるとは聞こえは悪いが、対外的には一応留学ということで、
日本から離れたんだ。今にして思えば、
その時はきっとphaさんと似たような気持ちもあったのかなぁ、
なんて思ったりもした。

その時の私は、もっと端的にというか
短絡的に逃げたいという気持ちが強かったように思えた。
機械が幾つかの部品で出来ているように、
プログラムがいくつかの処理が集まって出来ているように、
私が関わったシステムも無機質な
一連のコードの様に組み込まれ、あるいは取り付けられ、
不要なら外され、その繰り返し。
一体自分は何者だ、何のためにここにいるんだ。
そんな本質的なことすら霞んでしまってとても悲しかった。
というか、そいうった気持ちも麻痺してしまうくらい危なかった。
仕事を辞めて国内にいたとしても、
この社会が圧迫感を与え
どこにいても同じだと思った。
適当なところで結局元の場所に戻り、
またいつも通りの生活が始まる。
その繰り返しだと思った。だから、日本から出たのだ。
周りからは無謀だとか、戻ってから仕事あるのか、とか、
いろいろ言われたが、決めたことに揺らぎはなかった。
まぁ、この辺の話は、また別の機会にすることにして、
さて、この「ひきこもらない」でphaさんは、
こんなことを言ってました。

〈今は、自分と気の合う仲間をたくさん集めて、
そして仲間が集まる家や建物を近所にどんどん増やしていって、
街の中に見えないもう一つの街を作る、
というようなことができたらいいなと思っている〉


これは、面白い考えだと思いました。


2017年09月25日

猫の冒険    その27




IMGP0026.JPG
ちび黒猫は、気が付くとまた独りでした。
ポツンと独りテーブルの上に置かれています。

さて、ここで視点を変えて、
ちょっとこの話の全体を俯瞰してみましょう。
ここにはちび猫の他に見えない登場人物がいます。
ちび猫と同じ空間を共有している他の物体、生き物など、
そこには、ちび猫と同じ役割としての物体が登場します。
同じ空間には黒子としてぬいぐるみを操る影の存在も
意識させています。そして、
それらを俯瞰してこの話をつくっている作者の私がいて、
それをご覧になっている読者の皆さんがいるわけです。
この幾層にも重なった世界でこの話は進行しています。
しかし、ちび黒猫にはそんな事情は知る由もありません。
今の人間は
このちび黒猫に重なる立場にいるようには思いませんか?


IMGP0028.JPG

ちび黒猫は、前に何処に居たのか
思い出せないでいます。
もともとこの場所に居たのか、
それとも違う場所に居たのか、
あやふやなのです。

私たちは、
自分に前世が在ると思いますか?
前世の記憶が在りますか?
ちび黒猫は、正にそれと同じ感覚を味わっているのです。

ぬいぐるみにとって時間とは何でしょうか?
確かに時間の経過によって
布の劣化は避けられないので、
時間はせいぜいその程度でしか想像もつかない。

IMGP0029.JPG


ちび黒猫は独りで居ますが、
目の前に何やら大きな物体が見えます。
これは一体全体何なのか、勿論
ちび黒猫は知る由もありません。

IMGP0030.JPG


これは、リンゴです。
我々は直ぐにわかります。
何で直ぐにわかるのでしょうか?
過去に見てそれが何だか知っているからでしょう。
ちび黒猫はぬいぐるみであるにも関わらず
実にいろいろなことを知っているのです。
しかし、その知識が誰によって
授けられたのか分からないのです。

ちび黒猫は自分がぬいぐるみであることを知りません。
つまり、そこが問題点であり、出発点でもあるのです。



これは、別の見方が必要か

今日は、こんなことをふと思いました。

人は大きく分けると、「職人タイプ」と「研究者タイプ」の
二種に分類されるんじゃぁないかと思ったわけです。

例えば、スーパーのレジの仕事を例に考えを述べていきいます。
職人タイプの人は、担当者に言われた通りに
手際よく迅速に仕事が出来るように身体の動きを
無駄の無いように動かせるように
そして一つ一つの動作を出来るだけ早くするように鍛えます。
日々練習し誰よりも早く正確に仕事ができることを目指します。
それに誇りを感じ、プライドを持つでしょう。

しかし、研究者タイプはそんな事よりも、
このレジのシステムはどうなっているのか、
品物の分類方法は何を根拠に行っているのか、
そもそもレジに人は必要か、
といったレジの仕事とは何かといったメタの部分に
非常に強い興味を持ち、
早く仕事をすることには興味が無いため、
一般的に口ばかりで手が動かなく仕事の鈍い傾向にある。

通常、レジの仕事は研究者タイプは淘汰され
職人タイプがのさばる環境になる。
必然的にそうなってしまう。
職人タイプから見ると
ちんたら仕事をする研究者タイプを見ると
イライラしてイジメて排除する傾向にあるからだ。
職人から見たらちんたらしているように見えるが、
実際はちんたらではなく、
じっと思考している時間が多いと解釈すべきかと
私自身は思う。

何を隠そう、私は研究者タイプの人間だからだ。
レジの仕事を例にとったが、
レジの仕事が職人タイプに淘汰されるのは、
彼ら職人タイプが本能的に自主的に
そのようにしてしまっているようにみえるこの活動だが、
実際そうなのだろうか。
レジの仕事は、内から外への関所というか、電車の改札とか、
コーヒーのフィルターのように境界のようなところで
買い物客はスムーズにそこを通過することを望んでいる。
変な干渉が入って滞ることを嫌う。
だから、機械的に判断して処理できる職人みたいなタイプが
適しているわけだ。上で操っている経営者は
そのことを十分理解して意図的に人員を配置しているだろう。
しかし、経営者は直接手を下さない。
それを直接しているのは、同じスタッフである。
つまり、職人タイプのスタッフというわけだ。
職人タイプのやり方をことらさ褒めたたえ、
彼らのやり方こそレジの仕事のお手本だとばかりに
誇張して示すわけである。上からのお墨付きで
それが一般的になり、客の方も、迅速さにばかり評価が集中し、
時間のかかることを嫌うようになる。
素早くすることが美徳のように思われ
食品売り場は、スタッフも客も皆忙しない。
のんびり屋の私ですら、なぜかせかされたように
テンポが速くなっているように感じることが多い。
私は、だから、レジの仕事には向かない。
勤務しても、半日と持たないだろう。
まず、客から遅いとクレームが出され、
スタッフからイジメられ、
自信を失いボロボロになって去っていく。
じゃぁ頑張って練習して早くなればいいじゃないと
職人タイプの人はそう言う。しかし、
これは練習して治るもんでは無いことが
長年(半世紀生きてきた人生)の経験で証明されている。
これは、性格の問題なんだ。
だから、無理にセカセカして早くやろうとすると
ものずごくストレスを感じ、体がおかしくなる。
だから、人は自分がどちらのタイプにいるか
自身で把握しておく必要がある。

研究者タイプといっても別に大学を卒業してないとダメだとか、
特別な才能を持っていないとダメだとか、
そんなことではない。
仕事をしていても別のことを想像して動きが止まったたり、
空想、夢想して現実逃避してボーっとしてしまったり、
気になったことを追求してしまい他が見えなくなってしまう。
そんな様なタイプ。
身体的にテンポの緩い人はその傾向があると思う。
人と話をしていても職人タイプはそれでも手は素早く動いて
処理しているが、研究者タイプは話にのめり込み
いつの間にか別のことをしてしまっている。
もちろん次の待っている客のことは頭から抜けている。

私は、だから、レジが詰まっていてもあまり気にならない。
その間に人の動きをみたり、レジ横に並んでいる商品をみたり、
レジと客との対応を見ていたりするのが面白いから
待ち時間はあまり気にならない。
皆もゆっくりと買い物したらいいのにと思う。

わたしも、介護の仕事をしていたときは、
30分で買い物をしないといけない時は、
わき目も降らずせかせかしてレジが遅いとイライラしていた。
時間に振り回されているわけだ。
貧乏暇無しとか言うがそれは違うと思う。

誰かが私たちに仕向けている負の連鎖なのだ。
時間に追わされている感覚。
これから抜け出すにはかなり大変かもしれない。
皆それが当たり前のように蔓延している。
それが普通だと思わされている。
それに逆らって生きるのは、きつい。
負け組とか、怠け者、クズとか、
徹底的に非難され社会から爪弾きされる。
しかし、最近は、そんな非難を受けながら、
自分の生き方を貫いている人もいる。
研究者タイプは一部権力者を除いて殆んどが
脇へ追いやられている。
事実を暴露した医師やエンジニアが第一線から除かれ
非難されるこの社会でそれでも負けずに
立ち向かっている人たちがいる。
殆どが社会的発言力の小さい人たちだが、
ひと昔前に比べ今はいろんなところで
彼らの声を聞くことができるようにてきていると思う。




2017年09月18日

猫の冒険    その26

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気が付くと、ちび黒猫は、また別の場所にいます。
ちび黒猫は冷静に自分の居る場所を眺めています。
今度は慌てずに、何が起こったのか
見極めようとしているようにも見えます。
ちび黒猫は自分が覚えている記憶を
ゆっくりと、一つ一つ手繰っています。

ちび黒猫「どこまで覚えているのだろうか。
      目の前に、白猫がいる。
      前の場所にも居た。
      そして、ここにも、居る。
      しかし、この白猫は
      果たして、前の場所にいた
      白猫と同じ白猫なのだろうか。
      それをどうやって確かめるんだろうか。」

ちび黒猫は、白猫の記憶は残っていました。
前に居た場所は、今は多少おぼろげではありますが、
その前の場所にも白猫がいたことは覚えています。
確かに覚えていますが、それが、前の場所、その前の場所
で見た白猫と同じ白猫であるのか、ちび黒猫には
確認しようがありません。前の場所にしても
その前の場所にしても、ちび黒猫は漫然と白猫を見てた
だけでその違いが何処にあるのかも
細部の細かいところまでは見ていません。
しかし、通常は、一度見れば、二回目以降は
間違えることは無いはずなのですが、
なぜ、ちび黒猫は、同じ白猫だと確信が持てなかった
んだろう。それは、きっと白猫が前の場所でも
その前の場所でも全く同じ格好をしてちび黒猫を
見ていたからなのかもしれない。




2017年09月11日

猫の冒険     その25

1-06-3.jpg


ちび黒猫も白猫も止まったままです。

ちび黒猫は止まっているので、外から見ると
彼の思考まで停止しているように思ってしまいます。
確かに思考が停止している状態もありますが、
思考を巡らしている時もあります。
ちび黒猫は先ほどまで思考停止状態でしたが、
ふと我に返り、ちょっと考えました。
自分は、ずっとここにいなかったことを
思い出したのです。

ちび黒猫「君は白猫だね。」
白猫「”白猫”? 私が?」
ちび黒猫「そう、君は白猫。僕は黒猫。」
白猫「私は白猫で君が黒猫」
ちび黒猫「前にも言ったよね」
白猫「前?」
白猫「・・・・・・」
白猫はまた話さなくなりました。
ちび黒猫「お〜い。」
白猫「・・・・・」

ちび黒猫は、寂しくなりました。
どうなっているのか、よくわかりません。
周りで一体何が起こっているのか、
どうして黒猫だけそれを認識できているのか
そして、黒猫は自分が一体何なのか
知りたいと思うようになりました。
そう思うと、急に怖くなりました。

その時でした。

ちび黒猫は、自分の体が急に宙に浮いている
感覚になりました。明らかに自分の力では無い
何かのチカラが働いたようでした。しかし、
ちび黒猫が宙に浮いた瞬間、ちび黒猫は
またも意識を失っていました。しかし、
宙に浮いた瞬間の感覚だけは記憶の片隅に
今度は残っていました。


しばらくして、どれくらい時間が経ったのか分からないくらい
時間が経った頃、ちび黒猫の意識が戻りました。
当たりを見回して、ちび黒猫はまた混乱しています。
以前と居た場所がまた違うのです。


No-20.JPG


ちび黒猫「ここは、何処だ? 以前みたことがあるようだが。」

傍には、白猫がいます。今回は一緒に移動したようです。
ちび黒猫は、考えています。
どうして自分だけがあれこれ考えたりできるのだろう。
どうして、いろんなことを知っているのだろう。
ちび黒猫は何処でこの知識や考えるチカラを手に入れたのか
分からないのです。きっと誰かに与えられたのだと思いました。
しかし、なぜ、ちび黒猫なのでしょうか。
大きな力がこのちび黒猫に働いている。ちび黒猫の体を通じて
何かを伝えようとしているのでしょうか。もちろん
今のちび黒猫には知る由もありません。

2017年09月10日

猫の冒険    その24

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ちび黒猫「君は、いつもここにいるの?」
白猫「そうだよ」
ちび黒猫「ここは何処か知っているの?」
白猫「ここは、”私のいる”場所さ」
ちび黒猫「いや、そうじゃなくて、
      ここがどんなところか知ってるの?」
白猫「・・・・・・」
ちび黒猫「言ってること分かる?」
白猫「・・・・・・・」

白猫は、話してくれません。
止まったままです。もともと動かないですから
話してくれないとまるで時間が止まった様です。
実際時間が止まっているのか、進んでいるのか
逆行しているのか、分からないのです。
そこには時間が必要無い様です。
そもそも彼らにとって時間が何なのか分かるのでしょうか。

ちび黒猫も止まっています。


2017年09月09日

猫の冒険    その23

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ふと、次の瞬間、ちび黒猫はまた別の場所にいます。
目の前には白猫がいます。

ちび黒猫「僕は何をしていたんだろう」
白猫「何のことだい?」
ちび黒猫「何か考え事をしていたような気もするし、
      別の場所にいたようにも思うが、
      なぜだろう、よく思い出せない。」
白猫「私はいつもここにいるし、君も、ここにいる」
ちび黒猫「いろいろなことがごちゃ混ぜになっている。
      整理しようと考えるたびに、場所が変わったり
      記憶が飛んだりしているようだが。
      いったい何がどうなっているんだ。」
白猫「君は何が知りたいんだい?」
ちび黒猫「それが問題だ。僕はどうしてここにいるんだろう?」


ちびの黒猫は、ますます混乱しているようです。
記憶も自分のいる場所も断片的で
何を知っていて、何が知らないのか
何が知りたいのか
混乱しているようです。
ちび黒猫は何かを知っているようですが、
思い出せないでいます。知っていることも
幾つかあるようですが、思い出せません。
別の場所に移動しているようですが、
なぜ移動できているのかも知りません。
気が付くと別の場所にいて、その度に混乱しているようです。
なぜ、ちび黒猫だけが、そんな感覚に陥るのでしょうか。
何か特別なチカラが備わっているのでしょう。しかし、
それすらも、ちび黒猫は知らないのです。




2017年09月06日

ぬいぐるみ

猫の冒険 番外編

最初のぬいぐるみの出会いは3〜4歳ごろだと思います。
ちょっと三角っぽい楕円の様な中途半端な形状で、
チェック柄で口元はニッコリとして
片手だけがちょこんと出ているちょっと変わったぬいぐるみでしたが、
寝る時にいつも枕元に置いて寝ていました。

「どんぐりちゃん」と名付けてました。

今はもういません。
多分幼稚園から小学校に上がる際に捨てられたのかもしれませんが、
子供の私にとって「どんくりちゃん」が何時いなくなったのか思い出せません。
きっと親が上手にフェードアウトさせたのだと思うことにしました。

「ぬいぐるみは死なず。ただ、消え去るのみ」

布が劣化し、布毛が抜け、中の綿やスポンジが劣化してボロボロになり、
型崩れして、最後はボロ布の様になり少しずつ形を変えながらフェードアウトしていく。
今でもぬいぐるみは好きです。

ぬいぐるみ と ロボット

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猫の冒険  番外編

ぬいぐるみとロボット


A.I. Artificial Intelligence (字幕版)





皆さんは、映画「AI」をご覧になったことがありますか。

昏睡状態の子供の両親が
子を失う悲しみから立ち直るためにロボットを息子として受け入れる。
しかし、奇跡的に昏睡状態から目覚めた実の息子、
両親は最初、実の息子とロボットを両方受け入れようとするが
結局、実の息子を選びロボットは捨てられる。
ロボットは捨てられたことが分からず、捨てた母を探す。
彼の望みは最終的に叶えられるが、
とても切ないお話だと私は感じています。

この映画のDVDを購入すると特典映像があり、
その中で監督のスピルバーグがこんなことを言っていました。
「もし、あなたの歯ブラシに目鼻口があり
毎朝気の利いたジョークを言いながら会話ができる機能が
搭載されていたとしたら、まるで友達のような関係ができるでしょう。
しかし、ある時その歯ブラシが古くなって取り替えないといけなくなった時、
なんのためらいもなくその歯ブラシを捨てられますか?」
「人間は作ったものに対して責任を持つべきなのです。」と、
こんな感じの話をしてました。
ソフトバンクはペッパーを作りました。
これから益々新たな技術が盛り込まれ
更に高性能のペッパーが登場することでしょう。
その時、今のペッパーの運命はどうなるのでしょうか。
ポイ捨てですか?映画「AI」では、
解体ショーで無残に壊されていくロボットがとてもかわいそうでした。
まるで欲求を晴らすかのように熱狂的な観衆の中、
爆弾で壊されたりロケット代わりに飛ばされたりするロボットを見て
歓声を上げていました。
人間のために働いてきたり
癒しのために活躍したロボットの末路がこんな状態なのには愕然をする思いです。
でも、実際問題として現実的に多いにありうることだと思います。
ぬいぐるみの末路はもっと悲惨です。
持ち主の手を離れたら最後、ほぼゴミです。
あんなに人を癒すためにつくしてきたのにも関わらず、
愛着の無い第三者にとって単なる布の塊でしかない。
全てのモノに魂があるのならロボットにしてもぬいぐるみにしても
魂はあると私は信じます。モノが壊れるとお釈迦になると言います。
人が死ぬと仏になると言います。
それは、モノにも人と同じように魂があると考えられていたからではないでしょうか。
もちろんこれに賛同しない人も多くいるでしょう。それもまた事実です。



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2017年09月04日

静かな時間    その4

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http://www.art-meter.com/works/?ID=AW121189

作品を買う人、作家の作品を売る人
そして作家がいて、その関係が良好なら、
いい関係で、三者ハッピーだ。
買う人はどういう目的でもいい。
投資するなり、自分のコレクションにすなり、
自由だ。そして、三者の関係にのっかり、
良好にその関係が続いている時、
作家は世に注目される存在になっているのである。
つまり有名人である。しかし、自分の好きな絵が
有名画家の絵であるとは限らない。私は、
自分で描いているからあんまり人の絵を
買おうとして見ていないところがある。しかし、
絵をじっくり見ていると、そんな上手でなくても
描いている人の表情が浮かんできたり
無心で描いている気持ちが伝わってくるような
絵に遭遇すると、ググッとのめり込んで見てしまう。
手の込んだ写真のような細かい絵を見ると
絵のすばらしさは十分見えるが、
逆に作品が凄すぎるから
純粋な姿勢で見えなくなってしまって辛い。
一番大切なことは
作家がどういう立場で生きていくかということだ。
大金を手にしたいのか、
有名になりたいか、
そんなことより、気になる作品として、
純粋につくり続けていきたいのか、
作家は選ばなければならない。
どれを選択しても間違いではないと思う。
どちらに善悪があるわけでもないと思う。
自分がこの絵は人生最後の絵だと描いたとしても
それでもまだ、やり残している気持ちが常にある。
決して終わらないこの気持ち、
終わりが無いがいつか終わる。
その時まで、何かブツブツ言いながら
描いていることだろう。
(完)


2017年09月03日

静かな時間    その3

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http://www.art-meter.com/works/?ID=AW121189

この作品は、実は、
無意識のうちに
多くのアーティストの作品が影響を与えている。
私が気になったものは、
私というフィルターを通して私の手からすり抜け
何等の視覚情報として出力され、
それを次の第三者が見ることになる。そして、
その中で誰かが同じような驚きで
その作品を見て、刺激を受け、
何か作品を作るかもしれない。
その連鎖が、アートの本来の連鎖だと、
私は思う。
単に、クラブには、それは無いと思う。
皆思い思いに何等かの物を作るが、
それは、作品かなんか分からないまま、
それが、自己満足なのか、成り行きでできたのか、
見当もつかないまま
そこで先生と呼ばれている人に弄り回され、
先生のサブ作品なのか自分の出来損ないなのかも
分からず展覧会に出展したりしている。
先生にとって金を貰っているならお客さんだ。
持ち上げて気分よくしておけば金は貰える。
見る方も、本当に見たくて来る人はどれだけいるだろう。
殆どがお義理で見に行き、思ってもみないことを言って
相手を褒め、そのついでに
欲しくもない出来損ないを買わされるといった
訳の分からん連鎖が至る所に循環している。
私も、若い時何も知らない時、
その輪に入って浮かれていた。しかし、
そこで感じたのは虚しさだった。
私にとってアーティストとして得るものは
何も無いことに気付いた。
そしてさっさと独自の路線を歩くことになる。
誰にもつるまないで、創り続けるのは大変だと思う。
多くが、自分も結局そうだが自己満足に終始して
思うようにカタチになっていかないもどかしさを感じながら、
それでも、日々何かの発見を求め、悶々としながらも、
活動を続けている。
一時の面白さで浮き上がっても、
決してそれは、長く続かない。