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やすねこアート
プロフィール

2018年03月29日

写真集 「視点」 について 続

写真集を作成する目的は、
自分の作品を整理し、鑑賞するため、
親友にプレゼントするため、です。

写真集をつくる、段階で、
自分の撮った写真を作品だと
意識する瞬間なのです。

写真集をつくりにしても
個展を開くにしても
誰かに見てもらうための行為である以上
自分自身に何か自負心というか
見てもらいたい気持ちっていうか、
勿論そこには純粋に
見て見て
っと、気持ちの高鳴りを抑えられない
そういったこともあるかもしれないが、

しかし、どれも
突き詰めれば
自己満足、なんだよね。

こうして、ブログに書いていること自体
何かオコガマシイって思われているかも
大したものも撮れてないのに偉そうに、
そう思われているに違いないでしょうね。

それでも、写真を撮って
整理して、写真集にして
親友にあげたりして、
おまけにブログになんか出しちゃってさ。

結局、バカなんでしょうね。

でも、街並みの風景を写真に撮るのは
殆んど今は無意識的にというか
ハッとしたら撮ってしまいますね。

常に、ポケットサイズのデジカメを
まさにポケットに入れて、直ぐに撮れるように
してます。

ある程度写すと、PCで整理して
面白いのを何枚か集めて
写真集をつくる。

これは、もう
ライフワーク

あ、そうだ。
何で私が、この様な写真を撮り始めたのか?
興味、あります?



報道カメラマン、戦場カメラマンとか
カッコいいなと思ったけど、
でも、何か違うなって感じた。

モデルを撮って、
それを職業にしている人。
スタイリッシュでカッコいい、
だけど、何か違う。

フランクやクラインの写真集から
刺激を受けたことも確かだが、

自分の中でやはり影響の強い人は、
写真家 小林のりお
ですね。

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なんか
だらだらと書いてしまった。

だけど
何で撮るんだろう。

やっぱり
いいから、なんだろうなぁ。

あっ、この角度、いいなぁ。
この構図、なんか、 いいなぁ。

そんな感じで
一枚

それは、決して誰かに見せる目的で
撮影したわけでも無い。
単に、いいなぁ、と感じただけなのです。

ただ、みんなが、いいね、っと
思わないだけ。

しかし、
逆に、それだからこそ
この風景は、私のモノだ、と
心の中で叫びたくなる。いや、
叫んでいるだろう。

例えば、これ
a9.JPG

何か、いいんだよね。これ。
ただ、それだけなんだけど。


2018年03月25日

写真集 「視点」 について

私は、年に一度、写真集をつくる。
しかも、限定2部のみ。
1部は、親友の誕生日プレゼント。
もう1部は、保管用。

限定制作です。データはありますので、
ご希望であれば、販売もしております。
コメント欄にその旨をお知らせ下さい。

日常、私がこの目で見る全ての風景、景色、
映像、出来事、・・・
目に映る全てのもの、に


私は、仕事をしていても、
何をしていても、見える対象に
何かしらの期待をしながら
見ている。

ものともとの位置関係
配置、構図、
モノの形状、色、状態

全く意図しない状態の中に
私は、自分の中でカタチを
見出し、構図を確認し
自然が意図しない状態の中から
作品としての構図を切り取る。
四角いカッターで
「ザックリ」と
音をたてる正にその感じで
ばっさり切り落とす。

心の中で言う
「これはわたしのものだ」
この角度、この位置、
四角に納まっているモノの構図そのものも
これは私のものなのだ。
密かに「うふふ」と笑う。
独りその作品を鑑賞する。
「いいねぇ」

こうした鑑賞の中から写真集は出来上がる。
切り取った中から更に厳選して
十数枚選び出す。この工程も
「いいねぇ」

そして、このブログにやっと登場する
ってことになるのです。

この写真集「視点」は、作品の撮影は
2007年である。

私は、今は、道具にはこだわらない。
もちろん高価な機材があればそれに越したことはない。
しかし、無ければ、ポケットに入るデジカメでも
十分だ。写ればそれでよい。その時の
空間をザックリ切れれば、それでいい。

街を歩いていて
何気なく見る風景の中に
「うっ」と
何か感じる、そんな
場面に遭遇する。
その時に、直ぐに切り取りたいのだ。
だから、その時に道具があれば
何でもいい。

それが、私のスタイルになっている
のだと思う。私のやり方。

作品って、何か、作り上げていく感じが
あるけど、写真の場合は、何か
遭遇するって感じかな。しかも、
他の誰にも分らない、自分しか見えない
何かに遭遇する感じは、うれしいよ。
だって、同じように見ていても
他の人には見えていないんだもの。
それを、切り取る。
その感覚がたまらなく面白いから
それが、いままで写真を続けている
理由かもしれない。

当然、この風景も
a6a.JPG

私のモノだ。




2018年03月21日

立ち止まる時

街を歩いていて、ふと立ち止まる時がある。
電柱や、黄ばんだ外壁、道路の水たまり、
それらによって構成された構図が
たまたま微妙な感じで目の前に現れる。
また、全く意図していない配置が
たまたま面白い構図に見える時もあるし、
意図していない状態に興味がおこる
時もある。

この写真も、おそらく
この状態を意図していないのだと思うが、
それだからこそ、
何とも言えない雰囲気を醸し出しているのだと
思う。

私は、一枚一枚にタイトルは付けない。
たいていは、20数枚ほどの写真集として
捉えているので、写真集のタイトルとして
タイトルを考えることが多い。
まぁ、あんまりタイトルとして大げさに
捉えている事ではなく、街を歩いて
立ち止まる感じのように、スッと浮かんで
くる言葉をタイトルにする。


untitled-j.JPG

ここに挙げた写真も前の記事にも載せた
写真と同じ通りで撮影したもので、
一連の作品として写真集にまとめたもののうちの
一枚である。

写真集のタイトル「Untitled」

ありきたり、と言われればそれまでだが、
この写真は、写真集はタイトルそのものを
付けたくなかったが、無ければ無いで
そのことの方に何か違和感があったので、
月並みではあるが、このタイトルにした。
余分な先入観無く見たほうがいいけど。
まぁ、なかなかそんな都合よくもいかないけど。


結局のところ・・・

untitled-i.JPG

この写真、右下に日付が付いているので
いつ撮影したのかわかるが、
この日付を付けるか付けないかは
その賛否が大きく分かれる要素です。
先生によっては厳しく否定されるが、
私は、これも含め、作品だとおもう。

このタイプの写真は、好きだ。
今、この場所には、しっかり広告看板があり、
おそらく今後はこの状態の場面を見ることは
無いだろう。

私は、街のこうしたちょっとした隙間にある
微妙な空間が好きなんだ。ちょっとした発見、
気になる風景。

1989年あたりから写真を作品として
撮りはじめ、現在に至っている。
いろいろな人に影響を受けながら
自分なりにあれこれ試してみたりしたが、
そういう過程を経ても、なお
変わらないスタイルがある。
日常見る街の風景。あたりまえの様に
見える風景であっても、実は
何か気になるものが見えてくるのである。

他の人にとっては、何でもない様に見える
風景の中に、面白い瞬間が訪れる。

シャッターを押す。
その行為に至るまでの心の動きは
何とも言えず、ワクワク感がある。

純粋にシャッターを押す、と言うが
本当にそうなのか。純粋は、ここでは無知と
同じくらいの無防備さ。
ここの部分は、「接点」を扱った別の記事が
あるので、その箇所を読んでね。

なぜ、ここを撮ったのか。
「気になった」からです。
じゃぁ何故気になった?
多分、以前、これに似た作品を
見たことがあるからだ、きっと。
2018年現在に至るまで、
本質的に変わらない視点があるんだ。


2018年03月19日

おおぶショートフィルムフェスティバル 2018

大府フィルムフェスティバル.JPG


平成30年3月16〜18日
大府市で
ショートフィルムフェスティバルが開催されました。

3日間通しで1000円
とても満足できるものでした。

沢山のショートフィルムが見られて
良い刺激をうけました。

その中で、
受賞作品は以下です。
(ストーリー紹介はチラシの文面を
そのまま載せています)

奨励賞
「この暁にのぞむ」
ストーリー
男は女を連れて約束の湖を探す。男と女は一緒に暮らす仲だった。平穏な日々がすぎ、女はそれに侵食されていくが男にはわからない。見えざる手とそれに対峙する男の姿を描き出す。

監督賞
「N.O.A.(ノア)」
ストーリー
スマホの秘書機能アフリN.O.A.にアパートまでの道案内を指示する男、マコト。しかし、N.O.A.は超天然系女子。見当違いなことばかり言って、一向に命令を聞かない彼女にイライラするマコト。彼女はマコトが興奮していることに気づき・・・。

市長賞
「七曲りブルース」
ストーリー
平野一郎は和歌山県の地方新聞に勤める社会部の記者。かつては敏腕記者だったが、いつしか情熱を無くしてしまった。日々、街を歩いてネタを探し求めようとするが、すでに心は動かない。ある日、平野は、後輩から七曲り商店街に不思議な少女がいることを教えてもらう。昔ながらの商店街で落語を一人、演じる少女。なぜ、彼女は落語をいつも演じているのか。平野はそれを知るために彼女の住む漁村、雑賀崎に向かう。

優秀賞
「冬が燃えたら」
ストーリー
冬の終わり。青髪の主人公は母を車椅子に乗せて、北の最果て、網走を観光している。髪を青く染めている理由は、認知症の母が彼を息子だと認識するため。二人は楽しげに旅を続けているようだが、不安定な母の上場に息子は疲弊し、時に暴力的になってしまう。母の病状が悪化していくにつれて、主人公は母を愛おしく抱きしめるのだった。

最優秀賞
「海へ行くつもりじゃなかった」
ストーリー
面白味のない日々を暮らす麻来はフラれた元彼女の結婚式から逃げ出す。やけ酒をあおり路上でパントマイムをするリナに出会う。翌日2人は再会。一緒に海へ行くことになる。




2018年02月16日

やはり 信頼関係かな  その6


TVのCMで
血圧130を超えると・・・
と言ってドリンクやサプリを勧めている。
しかし、ある医者は
自分の年齢に110を足した血圧が
あなたの歳の正常血圧、と言っている。

検診でも、TVのCM通り。

んで、
どっちを信じますか?

私は、平成30年2月現在
52歳。110を足して162
血圧162でもOKってこと。
まぁ、状況によってプラスマイナス
10〜20は有るが、通常なら
高血圧だよね、これじゃぁ。
でも、正常に生活しているし、
体調も良好、何も問題なし。
しかし、仮に
周りから、高血圧だから気をつけろ
とか、変な圧力がかけられると
それが原因で体調がおかしくなるかも
しれないね。

しかし、わたしと同じような血圧で
体調がおかしくなる人もいるかもしれない。
それを引き合いに出して
高血圧だ、薬を飲め
と言って脅されるのは
いかがなもんか。
もちろん、体調が悪い人は
何らかの対処が必要かと思うが、
それだって、本当に
血圧が高くて、
それが根本原因でなっているのか
定かではないはずだ。
寝不足や、脱水、その他
気分が悪くなるような
物理的心理的な要因は
いくらでもあると思うが。

しかし、これも
一般的に言われている
血圧の説明をどこまで自分の中で
納得しているかにかかっている。

何でも薬、
風邪も薬
頭痛も薬、
腹痛も薬、
なんでも、体調に異変があれば
まずは薬、という人、

以前の私は、そうでした。

しかし、今は違います。
身体の声を聞き、
自己治癒力で
ゆっくり
じっくり
治すことを考えます。

食当たり、頭痛、風邪
薬なくでも全然、治る。

忙しく、ストレスが多い社会。
過酷な仕事、会社社内でも圧力。
過労死寸前の中で
薬にその解決を望んでいるのか。

信じるって
何を信じるのか。

誰と、何に
信頼関係を持つのか。

沈む船に身を託すのか
一本の流木に身を託すか

生きていて何ぼ

プライドだけでは生きられない。

野良でも
誰かの庇護を受けていても
生きることにどん欲でいたい。

すると、
みなを巻き込もうとして
動き回るんだよな。

すると、
腹が減る。

飯が食いたくなる。
おいしいもの食べたい。
食べている時、幸せな気分になる。

血圧、
んなもの
気にしなくなる。




2018年02月05日

やはり 信頼関係かな  その5

ユメル と 映画「AI」

これは、多分トラウマのように
なっているからだろうか、
どうしても
ぬいぐるみとか人形に
魂が入っていると信じてしまって
いるせいかもしれません。

しかし、これは、
動物とか植物にも
人間同様、魂が宿っていると
言うのとちょっと違うような
気がします。
動物、植物は人間同様
個々の個性があり
独立した個としての存在が
あり、自分の意思とは関係なく
動き、考えるわけです。
しかし、人形、ぬいぐるみの場合は
そうではなく、自分の信じるところに
魂が存在する位置づけになるわけです。
だから、この人形に魂があると
信じている限りそこに魂がある
ともいえます。
しかし、私自身が死んでも、あるいは
その人形から心が離れたとしても
それでも、この人形に魂があるとも
言えます。

子供は成長し
親から離れていきます。
それが自然です。
親からしてみれば
いままで言うことを聞いて
扱い易い存在なのが
だんだん、自分の能力を超え
生意気になり、言うことを
聞かなくなる。
それに比べ
人形は従順に持ち主の
傍にいて、持ち主の心を癒す。

映画「AI」の中で
ロボットの息子と
生身の実の息子が対象的に
描きだされています。
その描き方が上手です。
子供は決して優しい存在ではなく
とても残酷な存在だと思います。
自分も小さい時の記憶を
思い起こしてみると
正直、残酷な面があった様に
思います。

親にしたところで、
実の息子の代理で持っていたロボットと
生身の実の息子とどちらを選ぶと言えば
当然、実の息子を選ぶでしょう。
そうなると、
いままで大切にしてきた
ロボットは厄介な存在になってしまいます。

私は、幼稚園に行く前、
殆んど独りで遊んでいました。
一人っ子でしたし。
寂しいだろうと母は思い
私にぬいぐるみをくれました。

幼稚園に入り
友達が出来ました。
ぬいぐるみはベッドの脇に
置かれたままになりました。
友達と喧嘩をして
孤立すると、ぬいぐるみを
眺める時間が増えました。
そうして、徐々に
ぬいぐるみとの関係は希薄に
なっていきました。
その分、人との関わりが濃くなって
いきました。

しかし、それが
逆になるとどうでしょうか。
今まで、家族や、多くの友達が
いた人が、友達も死んで数が減り
家族も成長してバラバラになり
一人ひとり生身の人間関係が
希薄になってくると、
人以外の対象に感情移入してしまう。
動物であったり植物であったり
人形であったり。
しゃべるロボットは良き話し相手に
なるでしょう。

ユメルの存在は
とても癒しの存在になるでしょう。

しかし、ユメルは
あくまで人形です。
生身の人間は何時か死にます。
死んだ持ち主の傍で
それでもユメルは
語りかけます。

この状態を残された
家族が見ることになるのです。

生身の持ち主の存在は消え
ユメルが残ります。

しかし、
どんなものにも
魂があるのなら
人間とか
人形とか
形あるものから抜けた時
本当の意味で
魂同士仲良くできると
思います。
かわいがっていた動物たちも
あの世に行けば
言葉を交わすこともできるでしょう。
カタチが無くなれば
分け隔てなく仲良くできるのだから。


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2018年02月01日

やはり 信頼関係かな  その4

防犯のことでも
どんなにセキュリティーを厳重にしても
破られるときは破られるのです。

「セキュリティーを強化しました」
といって金をとる。

強化する。
破られる。

また、強化する
破られる。

更に、強化する
破られる。

結局、際限がない。
そして、最終的に
問題とされるのは、
セキュリティそのものの問題ではなく
それを扱う人間そのものに問題
があることに気付く。

そこには、発想の転換的なことが
必要だろう。

デジタルよりもアナログに近い何か。

しかし、時代を逆行しているわけではない。

むしろ AI に求められているのだろう。

さて、

どんなに信頼していても
そこに 金 が絡むと
ホントの意味で「信頼」が試される。

多くの場合、いとも簡単に
「信頼」は崩壊する、だろう。

特に、不動産絡みの信頼性は
そこに係る金額が大きいだけに
複雑だ。
目に見えない、カタチの無いものに
信頼を置くのではなく、目に見える
契約書にその信頼を置くのだろう。
しっかりした約束を決め、それを
書面にして、そしてそれを守る。
その一連の流れの中に「信頼」という
目に見えないものがあるのだろう。

やはり 信頼関係かな  その3

介護の問題。

施設の空きを待っている介護を必要としている
高齢者が数百人もいる施設がまだまだ多い
そいうですね。
しかし、実際、施設はというと
空きベッドがある?
こんな記事をどこかのブログで
拝読しました。

つまり、介護職員が不足しているのです。
就職難だから、仕事が見つからない
中高年ならこの介護職に就くだろうと
そう思っているかもしれませんが、
それは、どいうでしょうか。

向き不向きが大きく分かれるこの
介護職、誰もかれも出来るとは限らない
と思います。

自分はこの仕事
最初はやりがいを持って
やっていました。
しかし、どこかで
燃え尽きた感じがあったようです。
今は、意欲すら感じません。
知り合いの介護職員にも
元介護職員の人も
同じような感情を持っている人が
多くいるのです。

そうさせている何かが
この社会のシステムに
はびこっているのです。

それは、働いてみないと
決して感じられないことです。

だから、無責任に
外部の人たちが
介護職員の批判をするのですね。
問題はそこではないのに

2018年01月31日

やはり 信頼関係かな  その2


やたらと知識量を問われる
というか
それを売りにしている人も
いるわけですが、
特に専門家に多いです。
自分の独自の見解が
薄いと
どうしても知識量で
誤魔化してしまうことが
ありそうです。

技術職で働いていた時に
やたらと分厚いマニュアルを
作らされたことがありました。
「こんな分厚いマニュアルを
誰が読むのですか?」と
聞くと、
「こんなの誰も読まないよ。
だから、いいんだ。」
何のことだか、さっぱり分かりません
でした。しかし、これは
不具合を隠す隠れ蓑的なもの
だったのです。

これは、相互に尊敬の念が感じられない
典型例です。「こいつらに
俺がつくったシステムが
完全に理解できるわけがない」
多くの技術者は内心思っているはずです。
つくる人も、つくらせた人も
どちらも上から目線だと
思って互いをけん制し合っているのです。

ITや
IoTや
AI
なども
こういった感じで
見た目の技術ばかり見ていて
つくった人、つくらせた人の
相互関係の事など誰も
話題にすらしない。

本当は、ここが一番
問題なのに。

知っている人ほど、
その事実を隠している様に
思えるのです。

信頼関係。
大きな問題なのに
その周辺の
関係の無い事ばかり
問題にして

本質の大切なことに
触れない。

大切なことを
考えさせないように
誰かが仕組んでいるのだろうか?

2018年01月29日

猫の冒険   その40

1-07-2.jpg

自分が何処にいるのか
ちび黒猫は、しりません。
しかし、不安はありません。

自分がここにいる
ただ、それだけでいい、
ちび黒猫は、そう思いました。

そして、自分は独りではなく
支え合う仲間がいることに
安心を感じているのです。

自分が何者で
何処からきて
何処に行くのか
それは、今のちび黒猫には
どうでもいいことなのかも
しれません。
刹那主義ではありません。
無責任者でもありません。
楽観主義者なのです。

チャーチルは
こんな事を言いました。
悲観主義者は
あらゆる好機の中に困難を
見出し
楽観主義者は
あらゆる困難の中に好機を
見出す。




2018年01月27日

やはり 信頼関係かな   その1

さて、

最近、やたらと知識を問う番組が
多くなっていませんか?

高学歴の芸人が多くなったのが
起因してますが。

私は、学者でも評論家でもありません。
ですから、ここで何かを語るつもりは
毛頭ありません。

何が言いたいのかというと、

もし、自分が誰かに何かを
依頼しようとする時
何を基準に選んでいるのだろうか?
と、ふと思ったわけです。

極めて、個人的な意見です。

知識が豊富でも
芸人のようなキャラは
ちょっと苦手です。

YouTubeなどで
参考知識として聞くのは
とてもいいです。
面白いし楽しい。

しかし、その人に仕事の
依頼をするかどうか
考えます。

私は、その相手に
知識量は求めてはいません。
必要な時、その知識を得る
術を心得ている人を求めます。
その場で知っているに越したことは
ありませんが、必須条件では
ありません。
むしろ、依頼人の私の意見を
十分理解し、秘密厳守、
法令順守で
真摯に問題に取り組んでくれる人。
知らないことがあってもいいんです。
粘り強く調査できる気力
途中で担当が換わることなく
末永く付き合える人が
最終的に私が
必要とする人かもしれません。
信頼できれば、共に成長できるし
阿吽の呼吸も生まれます。

知識情報は
調べれば済むことです。
知識量こ誇示するチカラより
十分に思考し
相手を理解し
相手に納得した提案ができる
人、
そんな人に
仕事を依頼したい。

例えば、不動産。
不動産屋の担当者を
どう選ぶでしょうか。

外見?
年齢?
性別?
知名度?
知識量?
経験値?
信頼性?

私は、迷うことなく
信頼性 信頼度 つまり
信頼関係を重視します。

経験値があっても
知識量があっても
人は騙します。

2018年01月22日

猫の冒険    その39

1-07-4.jpg


人間の時間で一か月以上の時が流れました。
しかし、ちび黒猫は、その時間の経過を
体感できません。
一瞬のうちに過ぎたのか、
それよりもっと長かったのか、
相変わらず時間の感覚が無いのです。

それだからこそ
ちび黒猫は、思いました。
「今」を生きる、と

この瞬間を
精一杯、体感しようと
思ったのです。

問題を受け身でなく
能動的に捉え始めました。

ちび黒猫の旅はまだまだ
続きます。




2017年12月18日

猫の冒険     その38


ちび黒猫は、自分が何故ぬいぐるみになったのか
本当は、そのことが知りたかったのかもしれません。
生き物としての猫であった前世の記憶がある
ぬいぐるみのちび黒猫。しかし、
本当に、前世が猫であったのか、
単なるちび黒猫の妄想でしかないかもしれない。
猫のおもいが、たまたま近くにあったぬぐるみに
乗り移ったかもしれない。

しかし、ちび黒猫は、おもいました。
いったい何時から自分はぬいぐるみの姿を
しているんだろうか。ついさっきのようにも
思えるし、もう何十年も前の事にも思える。
とにかく、ぬいぐるみには時間の経過は
単に布の劣化でしか判断が出来ない。
埃の付き具合や布の傷み具合で
どれだけ時間が過ぎたかわかる。
おおよそ、であるが。

しかし、ちび黒猫にとって
時間は本当に重要なのか
今は、よくわからなくなっています。

気が付くと、場面がかわっている。
過去の記憶が曖昧になる。
過去に見た景色と同じ時がある。

ちび黒猫は、考えました。
しかし、考えることは、止めました。
ちび黒猫は、今まで考えていた考え方、
そのものに違和感を持ちました。
この考え方は、誰かが与えた考え方だ。
自分の考え方ではない。
これでは、答えがでない。
同じ場所をグルグル回っているようだ。

何かが、ちび黒猫を無限ループに押し込めたんだ。
ちび黒猫は、考えました。
考え方を変えるために、考えました。

2017年12月11日

猫の冒険     その37

bbi031F.JPG

DSC_0005.jpg


ちび黒猫は、
今かかえている問題は、自分が置かれている状況を
把握することは分かっているのですが、
そうかといって
それが分かったところで
それが問題解決になるのかと疑問になりました。
知ったからといって
それが本当に自分の為になるのだろうか。

ちび黒猫は、もう、どうでもよいと
思うようになりました。

しかし、これは、問題解決を放棄したわけでも
考えることを止めたわけでもありません。

それよりも
自分の置かれている状況を
むしろ楽しもうと思ったのです。

行けるところは何処でも行き
いろんなものを見てみたい
そう思ったのでした。

そう思うと
何故か周りが少し明るく見えてきました。

ふと気が付くと
ちび黒猫は、また別の場面に移行してました。

目の前には自分と同じ
黒猫が居ます。

ちび黒猫は、この黒猫と友達になりたいと
思いました。
ちび黒猫は、過去の記憶が途切れています。
この黒猫とは以前会っていたのかも定かではありません。
でも、ちび黒猫は、記憶がどうであっても
今、目の前にいるこの黒猫と
友達になりたいと強く思ったのです。
自分には、誰か友達が必要だ。
この訳の分からない世界で
独りで生きていくのは辛い。
この黒猫なら友達になってくれるのではないか
ちび黒猫は、そう思ったのです。

ちび黒猫は、相手も自分と同じ境遇なのではないかと
ふと、思ったのです。
前世は生身の猫に違いないと。

ものにも魂はあるのでしょうか。
わたしは、全てのものに何かしらのチカラが宿っていると
思うのです。それが魂と呼ばれるものに
近いのなら、魂はあると信じたいです。
それは、信じているその人の投影でもあると
思うのです。
信じているものの中にそれは存在する。
在ると信じれは、そこに在るのです。
だから、信じていない人には
そこには何も存在していないのです。
それをあからさまに
この世に存在しないと断言しても
その人にとってただ単に存在していないだけの話で、
おそらく実際には、信じている人には
その存在がわかるんじゃあないかと思うのです。

これから世界は、
信じる者と
信じない者と二分されるのです。

ちび黒猫は、それが分かるのです。


2017年12月04日

猫の冒険     その36

No-05.JPG

ちび黒猫は、また別の場所に居ました。
以前にも見た風景でした。
以前にも見たことのある 魚 がいます。
自分とは随分形状が異なっています。
なぜ、場所が移動したのか
ちび黒猫は、知りません。


さて、
この冒険は、一体何が冒険何だろうか?
疑問に思ったことでしょう。
まるで同じところをグルグル回っているようです。
何が冒険か?わけわかんない。
そうでしょう。
そうでしょうか。
冒険って、何なんでしょう。
まだ見たことのないところへ行くこと?
見飽きている日常の世界、この目の前の
この状況、この場所で、
見過ごしていたものに出くわした時、
そこにあなたは何を感じるか。
あまりに近すぎてそのことに全く
気が付いていない。
普段見慣れているものが
全く異なって自分の視界に入ってくる。
その驚きと恐怖

ちび黒猫は、今、何を感じているのか。
あなたは、分かりますか?

同じ空間に居ながら
世界が全く違って見える

ちび黒猫は、ふたつの世界の記憶を持っているのです。

2017年11月27日

猫の冒険     その35

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気が付くと、隣に黒猫がいました。
それは、自分と同じぬいぐるみでした。

そこは、見覚えのある場所でした。
ちび黒猫は、だんだんと記憶ができるよに
なってきました。以前のように
気が付くと以前の場所や記憶が
抜け落ちることはなくなりました。

ちび黒猫の記憶が確かなら
この場所は、以前いたことのある場所で
しかも、同じ位置です。
るまで時間が戻されたようでしたが、
こうなると
時間が進んでいるのか戻っているのか
それとも循環しているのか。区別がつかないです。

ぬいぐるみは、瞬間的に移動しますが、
そこで静止しています。
それは、鑑賞が目的だからです。
人間の鑑賞用に飾られているからです。
しかし、ちび黒猫はそのこを知りません。

ちび黒猫は考えるチカラが備わっています。
だから、いずれその事実を知ることになります。
彼はその事実を知りたいでしょうか。
その事実を受け止め、乗り越えることが
出来るのでしょうか。

ちび黒猫は、隣の黒猫に話しかけます。
しかし、静止しままです。何の反応もありません。

やはり、考えるチカラはこのちび黒猫にしかないようです。

ちび黒猫は、すこし悲しくなりました。
それは、考えるチカラがあるが故の悲しさでした。

「苦しいよう」
胸が苦しくて、苦しくて、声にならない叫びをあげました。


しかし、

ちび黒猫は、負けませんでした。
何らかの作用で、或いはキッカケで
自分に考えるチカラが備わったわけです。
それなら、他の仲間にもそれが可能ではないか?
そう思ったのです。
「何か方法があるはずだ」

まず、ちび黒猫は、自分のまわりを見回しました。
どこかにそのヒントがあるはずだ。

ちび黒猫は、冒険を続けます。

2017年11月25日

今を生きる意味を考えてみた

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映画「バタフライエフェクト」と「僕だけがいない街」に共通しているのは、
時間だとおもう。
もし、●●だったらという場面を何度も体験し、
最良の状況になるまで何度も挑戦している。
結果、周りの人たちは安心安全に生活できたが
当の主人公本人は切ない終わり方だ。この設定は、
原作者でなくても誰しもが一度は思い描くことだと思う。
特に今の現状が最悪の状態なら、尚更そうだろう。
「あの時、あんなことを言わなければ、
あの人と別れることはなかったのに」とか、
「あの人が生きていてくれたなら」とか
「あの時、こちらの道に進んでいたら、
今頃有名になっていたかもしれないのに」とか
仮定の後悔をすることがあるだろう。

自分もいろいろ想像したことがある。
30歳を目の前にして、いきなり会社を辞め、
留学したこと。
そして、そこで今のパートナーと出会ったこと。
もし、会社を辞めずにいたら恐らく
今の生活は無い事は明白であるが、仮定の話なので
どちらが最適だったとかそうでなかったとか言えない。
今は、いろいろ大変な事もあるが、最適だと感じている。

生活が大変な時は、なかなか今が一番いいと実感できないと
思うけど、大変を共有して一生懸命生きているその時を
過去として振り返ったなら、たぶん最適だったと
思うはずだろう。お互い意見の違いがあって
喧嘩をすることもあるかもしれないが、
一緒に生活できているこの状況は良かったとおもう。

しかし、上記の2つの映画は、僕としては悲しすぎる映画だ。
そのもそも最初から関係が無かったことにする結論も
ありかと思うが、これは、悲しすぎるし、
前向きな行為と思えない。

こんな考えを突き詰めてしまうと、
そもそも人間の存在自体無い方がいいと、そうすれば、
地球はこんな悲劇的な終わり方をしなくて済んだ
という結論だってありということになってしまいかねない。
そもそも二人が仲良くなければ
相手は不幸な人生を送らずに済んだという結論になれば、
そもそも二人が仲良くならなければいいという、
そもそも関係すら無い状態にもっていく結末はとても悲しい。
誰かを悲劇や不幸から救うためには、
他の誰かが犠牲になるしかない。しかし、その犠牲で
本来悲しむはずの無い別の誰かが悲しむのだ。
この修復は際限が無い。そして、
そもそもその修復が最良なのか最悪なのか分からない。
だから、私は、今こうして自分が生きているこの状態、
いろんな場面で様々な選択をしてきて、こうして生きて
今ここにいるこの自分が自分の選択が最良と
思わざるを得ないのです。今、自分が運が悪いとか
生活が困窮しているとかで最悪だと
思ってしまうかもしれない。それは
仕方ないかもしれない。しかし、それでも、
もし、仮に自分が自分自身のパラレルワールドを
見ることができるなら、今のこの現状が本当は
最良な状態だと気付くかもしれない。

だから私は、今を一生懸命生きていきたいと思う。

2017年11月20日

猫の冒険     その34

ちび黒猫は、ゴミ箱の中で
独り考えています。
なぜ、自分はぬいぐるみなのだろうか。
そして、どうしてぬいぐるみなのに
考えることができているのか。

滑り落ちて、受け身的であれ
動いていたのです。
その感覚は、どこか
懐かしさもありました。
それは、前世の記憶のような
懐かしさかもしれません。

自分もかつて
動いていた時があった。
それは、前世で。

前世で一体何があったのか。

そして、今世でなぜ
ぬいぐるみなのか。
誰によってつくられたのか。
それは、どういう想いでつくられたのか。

その時、ちび黒猫は、みました
まるで自分そっくりの黒色の猫でした。

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2017年11月13日

猫の冒険     その33

ちび黒猫は、落ちていく記憶はありました。
それは、滑り落ちていく記憶でした。
それは、静止しているぬいぐるみ本来の姿勢ではなく
それは、異常事態でした。
動いているのです。
というより、落ちていくのか。

思わぬ出来事でしたが、
ちび黒猫は、これで初めて
動くというのがどういうことなのか
体感したのでした。
しかし、それは、悲劇でもありました。

幸い落下した場所は、柔らかい場所で
損傷はありませんでしたが
問題はむしろ、落ちた場所にありました。
ゴミ箱でした。

このままでは、近いうちに
捨てられてしまいます。

ちび黒猫は、悲しくて悲しくて
独りで泣きました。


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