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やすねこアート
プロフィール

2020年04月27日

私にとって、写真と絵は、 アートとか芸術とか言うものではなく 純粋に自分の行為そのものと化している ようなもので、それが損得に動かされない 純粋行為となる自分の存在たらしめている ようなものなんだとおもう。

N001aab.jpg


以前は、人の評価を気にしていたりもした
時期があったり、お金に結びつけようと
欲を出したりもした。

プロの仕上がりっていうのもあるだろう。
確かに洗練されている。
こんなことを言うと怒られるかなぁ。
しかし、純粋に誰もフィルターを通さずに
吐き出されたものがそのプロの作品にあるかと
問われれば甚だ疑問が残る。

プロにはそのプロの先生がいるわけだし
助言というかたちで味付けをする黒幕も
いるだろう。私も長い間作品をつくっていると
小さな賞を幾つかとったことがあるけど、
必ずと言っていいが、後ろで後押ししてくれる
誰かがいる。例えば、こんな様に
「ううん、君ね、それ、横にしてみたら?」とか、
「この線、邪魔じゃぁない?」とか、
要は、それをしたら賞あげるよっていう影の助言。
それ大きいんだよね。後ろにそういう人が居るかいないかで
全然違う。

「君の作品は、このコンテストでなく、あのコンテストに
出した方がウケる」とか。こっちは
何も知らずに「はあ〜」と、言われるまま、あのコンテストに出し
案の定、賞を取る。そんなことがいたるところである。

自分がいいと思って見せたとしても
それを引き上げてくれる誰がの存在がどうしても
必要になる。一人の行為は単なる
マスターベーション

恥ずかしい自慰行為をせっせと繰り返し
最後には本当に恥ずかしくなって
二度と皆の前でしなくなる。

自分の内面をさらけ出す行為は
本来ならあまり人には見せないわけだし。

だから、作品は、誰にも見せずにひっそりと作成する
のが本来の姿かもしれない。
だから、世の中には、ものすごい作品がきっと
どこかで埋もれていることだと思う。
それでいいのかなぁと思う。
幸運な人は、偶然その人と友達になって
その作品をこっそり見せてもらえるかもしれない。
ホント、幸運なことだね。それが、本来の
楽しみ方かもしれない。

本来は、内々で楽しんでいることを
「これは、金になる」って、商売にしたりする人が
現れたりすると、作家はさらし者或いは道化と化して
その人本来の純粋さがそこから奪われてしまう。
お金ってオッかねぇ


勝手な妄想をするな。

ごもっともですね。
ただ、私は、私自身、そう解釈しています。
勝手にそう思っているので信じる信じないは
あなた次第ですが、
全て、間違っているわけでも無いと思いますが、
いかがでしょうか。

そう思うと、何か、すっとするのです。

誰も見向きもされず、誰に何を言われても
ひたすら、自分の表現したいことを
したいようにやる。ただそれだけ。

それを商用に使おうと、政治的に使おうと
どうぞご自由に、ってな感じですね。
評価したければどうぞ。
何を言われても、自分のしたいことを
坦々とするだけです。

私の作品を見て、密かに何かビビビっと感じたなら
こっそりとお知らせ下さい。
いっしょにビビビを語り合いましょう。


存在しないものと存在するものa.jpg




2020年03月25日

「接点」と言うタイトルの写真集です。接点って何だ? そんなことを感じてくれたらそれでいいと思います。

接点.JPG

私の写真の中に流れる一つのテーマが
「接点」です。

接点って何だ?

あるものとあるものとの接する点、
それが接点。
あるもの、それが、外の世界、
あるもの、それが、内面の世界、それらが
接するところ。
海外と日本、あなたとわたし、
見ていると見られている、
二つの対象が接する点を撮りたい。

私は、4年ほとカナダに住んでいたことがありました。
そこで見た身近な風景も何枚か撮っています。
中には、日本とよく似た風景もあり既視感を
感じます。そういう狙いもあって
この写真集をつくりました。

当たり前の風景です。でも、そこには、
私もいます。

いつも問われる、「どうして、この写真を撮ったの?」と。
その質問はどうかと思う。
どこを撮った、と言うよりも、そこから何を感じるか、
ですよね。こんな話をし始めると嫌がられるから
ただ、ニコッと笑って、「気に入ったからね」と
何か、答えにもなっていない答えを毎回返しています。

興味ある人には見せています。「何だその程度か」と
そんな顔をしている人もいます。それでいいと思います。

見て、「うわぁぁぁぁぁぁぁ」となる人もいます。
不思議です。

つまり、接点って、そういうことです。
ちょうどいい感じに接触する点、それが接点です。

いつも、そんな風にセカイを見ています。



2020年03月21日

私は、4人の写真家から刺激を受けました。 ロバート・フランク、 ウイリアム・クライン、 小林のりお、 武田花

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「ロバート・フランク 写真集 アメリカンズ」



The Americans

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眠そうな町?武田花写真集

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「街を歩きながら気が向くとさりげなくパチリとシャッターボタンを押す。」
いわゆるストリートフォトグラファーですが、
もし、あなたがそうなら、おおかた上記の4人の内の誰かから
影響を受けているに違いないでしょう。
仮に、小林、武田ではないにしても
少なくともフランクやクラインの何方かからの影響は
必須でしょう。それは、この2人からストリートフォトが始まったとといっても
過言ではないと思うからです。
いっておきますが、これはあくまでも、私の個人的意見です。
反論はもちろんあるでしょう。さてさて
特にフランクは私にとっては強いですね。

何が凄いんでしょうか。
私は、彼らの研究者でも評論家でもありません。
純粋に彼らが撮る写真に惹かれただけです。
その観点でから言わせてもらえば、
「撮りたいものを撮る」って事ですよね。きっと。
これ、凄い事ですよ。
フランクが登場する前は、写真は、
何か特別な場面や状況、例えば
誰も行かない場所とか、戦場とか
そう言ったものを撮って発表するのが
当たり前の時代に、身近なありふれた風景など
誰も見向きもしなかった時代にあえて
それを撮って発表したわけです。
当然、アメリカでは評価されず、最初は
フランスで評価されそしてアメリカがその後で
認めたみたいな流れです。
今では、当たり前の様に評価されている作品ですが、
最初はなかなか難しいわけですね、
見向きもされないものを撮るのは、一つの
抵抗でもあるわけですね。
そこ、強く惹かれます。
「何、これ?」「なんでこんな写真撮るの?」
って言う写真、撮りたいです。奇抜ではなく
ありきたりの場面。そこを自分切り口で切り取る、
そんな写真、撮りたいなぁ。

そんな感じで20代からずっと身近な風景を撮っています。
20代から出来上がったこのスタイルは50代になっても
変わることは無い。だからこれはもう
私、そのもの。

2020年03月10日

「Untitled」と言うタイトルの写真集です。タイトルの付け方はいつも直感的です。しかし、このタイトルは、ある作家の影響を受けていると思います。

Untitled.JPG

写真と絵は、なんだかんだと言いながらぽつぽつと続けているようです。
いつも懐のでかいパトロンがこないかなぁと期待はしているのですが、
別にイケメンでもないし、話題性のあるテーマで作品を制作しているわけでも
ありません。しかし、ほんのわずかな人の間で支持があります。
私は、それが大切だと思っています。誰か一人でも
何かを感じてくれれば、それが変化につながります。
それよりも、つながるのです。何かが共有されたというか
正に伝わったわけです。これは、すごいことです。

私が、こうして私の作品を見せる、
そして、それを誰かが見る。
そして、良いも悪いも何かを感じるわけです。
それが、みた人に何か影響を与えたわけです。
その人自身が何か少しでも何かが変われば
そこに何か変化が起こるわけです。
明日以降に起こる何かの決断が少し視点を変えて
決められるわけです。そこが大事なんですね。

さて、この作品を撮るきっかけはというと
名古屋の駅地下を歩いていたときにこの場面を目にしたわけです。
ビビッとしました。「何だこれは」と
こりゃぁ何だ
こんなんありか?と
何も広告はってないじゃん。こんなんでいいの?と
最初はそう思ったわけです。しかししかし
毎回見ていると、何だ何だ何だ
何か自分の中で化学反応が起きて
何かとんでもないことが気持ちの中でおきました。

よくよく想いおこしてみると
これが私の原点なんだとおもいました。
こうやって視点がかわっていくんだなと
その時感じたわけです。

何がどのように変わったのか
それは、わかりません。

ただ、面白いと思えたのです。だから撮りました。

こうしてまた一枚、作品ができあがっていくのです。


実は、この写真集、非売品なんです。
親友と私の分の2冊しかこの世にありません。

ただ、どうしても欲しいというご希望がございましたら
コメント欄にその旨を記載してお伝え下さい。

2020年01月20日

ものすごく不安になる時、私は、写真を撮るのです。それは、何かを繋ぎとめるためなのでしょうか。切り離すためでしょうか。

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皆さんは、どんな時に写真を撮るのでしょうか。
やはり、何か特別な時でしょうか。
見慣れない風景とか、絶景と呼ばれる風景とか、
めったに起こらない場面に遭遇した時でしょうか。
つまり、日常的でない風景なんでしょうね。
特別な場所とか、人に会った時とかね。
でなければ、普通は写真を撮らないってことなんですよね。

見慣れた風景は別に撮る必要なもない。

いつも通る道、日々の生活の場では、目新しいものはありません。
だから、実際、見ているようで実は見ていないことが多いです。


意識すらしない見ている風景に、あえて意識する。

日常の見慣れた風景なのに、あえて切り取ると、
意外と、見慣れているのに見ていないことに気が付くのです。


一度見たものは、二回目視界に入っても、見ていないのです。
いつまでも意識し過ぎてしまうと次に進まない、
単に生きていく上において余分なだけです。だから省く。

世の中のスピードが速くなればなるほど
そこから零れ落ちていく情報は置いてきぼりになる。
そして何時か忘れ去られていく。或いは意識から外される。
日常見慣れた風景は、その対象でしょう。
立ち止まれば、「ハッと」する風景は、実は日常の生活では
よく見られることなのにも関わらず、そこに関心が向かない。

「はやくはやく」と急かされて、大切なものが置いてきぼり。
でも、気が付いて取り戻そうとしても、もう、そこには無い。

テンポは洗脳だと思います。(個人的な意見です)
タンタンタンタン・・・・
速いテンポに誘導され、馴らされ、自分の身体が
付いていけないのに、そのテンポで生活している。
気が付くと、心臓がバクバクして、
目まいがして、イライラして、
それ、どこまで続くのでしょうか。気が付くと
摩耗して、動かなくなり、ゴミとして廃棄される。

上にいても下にいても、結局、使うか使われるかの
違いで、部品には変わりはない。

皆がそれに気が付いて、
時には、立ち止まって目の前の風景をじっくり眺めてみると
いいなと思う。それが、ゆるされる社会って
そんな社会なら
もうちょっと生きてみようかなと思う。


私は、よく
立ち止まって、写真を撮ります。
立ち止まらなくては、写真は撮れませんから。

次回から、私の「写真集」の紹介をしていきたいと思っています。

2019年04月10日

私の抽象芸術入門

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入門ですか?


「はい、そうです。これは、自分自身のための入門です。」
だから、「「「私の」抽象芸術」(の)入門」なんです。

だから、関心の無い人にとっては、
全く、興味も無い もの なんです。

そもそも、私は、大衆に媚びた作品を描こうとも思わないし、
描いて生活できるとおもってもみないし。

しかし、それでも
描いて
観てほしいと思っています。
決して見せびらかしたいとかではないです。
私なりの共有の仕方というか。それを媒介にして
何かつながりを持ちたいと思っているんです。

あるところでは、それは、誰かの何かに
影響をおよぼしているかもしれない。

今までに、たった一人だけど、
何かの影響を与えた。

それで、いい。
それだけで、いい。

2019年04月01日

私の抽象芸術入門    絵画9

(前回)のつづき

最近、ずっと考えているのは、

『関係』

という言葉

kankei0002.jpg
作品:関係0002

皆さんは、どんなふうに感じているでしょうか。

おおくの場合、関係は、
人間関係、ってことを思い浮かべるでしょうか。
そうでしょう。

私自身、この『関係』を考えた場合、
人間関係をやはり起点としました。
自分と自分との関係、
ここがやはりスタート地点でしょうか。
自分で問い、自分がこたえる。
そのループが一つの関係として捉えられる、かもしれません。
そして、二人との関係、
三人との関係、が考えられます。
しかし、四人以上になると、どうでしょうか。
自分って、自分との関係をどうみているのでしょうか。
(自分)と(自分)?
(自分、自分)?
((自分)、自分)?
((自分、自分)、 _ )?
では、二人は、
(自分、相手)?
では、三人では、
(自分、相手1、相手2)?二人に同時に向けられないから
((自分、相手1)、相手2)どちらか一方しか見れないか
(自分、(相手1、相手2))二人を客観視する自分か、
三人の場合、必ず、2対1になってしまいます。
それは、不均衡で誰かが半端者とされてしまいます。
だから出来れば、偶数でいたい。細かく分かれても
1対1になれます。
だから、家族3人が仲良く・・・っていうのは
とても難しい。だれか一人は疎外感を感じているはずです。
そして、それを補うのは外部の関係です。
そうして、1対1の関係をつくり、安定します。

1対1の関係でも、
その1人が、さらに別の関係を結ぶと複雑になります。
しかし、一見複雑に見えても、元が
1対1としてつながっている限り、
この1対1の関係に揺らぎはありません。
だから、

1対1の関係はとてもだいじなことなんです。

2019年03月13日

私の抽象芸術入門    絵画8

(前回の続き)


私は、絵が下手な芸術家です。
えっ?どう言う事ですか?
矛盾したこと言ってませんか?
あなた、頭おかしいんじゃぁないですか?

確かに、おかしい かもしれません。

どういう事でしょう?

逆に聞きますが、
上手 下手 って、誰が決めているのですか?
先生? 親? 兄弟身内?
友達?
それとも、 自分自身?

上手ってなんでしょう?
本物そっくりに描けたから?つくれたから?
相手よりも本物に近いから?細かいから?
それとも誰かに褒められたから?
基準は何でしょうか?

おそらく、それは、
私たちの知らない、上の上の上・・・・方で
何かの策略か見えない力か
人々をある方向に向けさせるために
利用している道具とされているに
過ぎないかもしれないのです。

もし、そうなら、自分が自分の意志で
上手下手と言っているように見えても
実は、洗脳的に判断基準を刷り込まれているに
過ぎないことになります。これは、
とても怖い事です。

自分が純粋に感動して素晴らしいと思っていても
メディアの洗脳によりそうさせられていることに
気付いていなくてもそう反応してしまう。

芸術って、自分のあふれ出す想いを溜めておけず
吐き出してしまう行為だと私は思うのです。

だから、上手に描こうとか、そんなんではなく
描かずにおられない衝動みたいな
そんなもんでしょう。

絵が上手っていう言われ方は
小さい時から言われたし、その度に気になっていた。
そして、絵を描くのは写実的に描くのが絵って・・・
最近は以前よりも柔軟になってきているが、それでも
根底には上手下手が存在している。どこかに

だから、絵が上手っていうのは、世渡りが上手な絵描き
もしくは芸術家ってことかもしれません。どうしたら
一般受けするか?先生に褒めてもらえるか?

自分の絵は、面白いかもしれないけど
未だに誰にも何の評価もされていない。

これは、ある意味、
「自分のものだ」

例えば、これ
DSC_0046.jpg

あなたは、何をおもうでしょうか。


2019年02月05日

私の抽象芸術入門    絵画7

(前回のつづき)

みなさんの想いは何ですか?

どうして、
それでもあなたは作品をつくるのですか?

自分の作品は、風景とか人物の写実とかよりも単純な構成シンプルな思考の
作品をつくろうとする傾向があるようです。
ポロックとかロスコの作品は私にとっては気になる作品です。
彼らの本質的な苦悩や思考は、正直なところ分かるわけはありません。
ただ、感じるところは何かあるでしょう。
彼らの生きざまや歴史は、当事者や関係者、はたまた
研究者ではないので詳細は知りません。かれらの情報は、
書籍上での内容でしかありませんが、純粋に作品を観て
私が、探している何かの一端がそこにあるのかもしれないという
想いがあって、無意識で彼らの作品が気になっているのかもしれません。
考える前に、直接何かを感じる作品をと思いますが、
実際みると何かを考えている自分がいます。

kankei0001.jpg
(タイトル):関係0001

2019年02月03日

私の抽象芸術入門    絵画6

前回の続き

簡単に描けるが、同じモノは描けない。
単純そうだが、トレースするのは難しいね。
習わなくてもできるが、習っても出来るものではない。

全てが逆説的な作品でもあるのです。
kankei0001.jpg
(タイトル):関係0001
しかし、単純でもあり複雑でもある。
想像するのか、感覚的に捉えるのか?
全てはあなた次第ってことになります。

絵画って、結局、そんなものです。

対面を保つため、大義名分をとなえます。
大上段にかまえて
或いは、一段上がって
モノを言う

最初から、その立ち位置では
最初の時点で上下関係がついてしまいます。

芸術は、今もそんな関係です。
そのことに誰も疑いの目を向けない。

一段上がる為に、
金を払い、
学校に行き、
単位を取ったり、
応募して
賞を取ったりして
一段、上に上ります。
そして、下を見下ろす。
その繰り返しを延々と・・・・

その関係世界にいる限り
評価の対象になり、
世間が認め
存在の承認が得られるわけです。

そのルールに従わない限り、
評価の対象にすらならない。
相手にもされない。

芸術は自由であるのに
芸術家は、なんか
少しも自由に見えない。
狭い世界の中にいて誰かを踏み台にして
上を登っているに過ぎない存在なのでしょうか。

勝っている時は、いいです。
有頂天ですから。

負けの多くは、路線から外れています。
脇道ののどかな田園風景の中を
日向ぼっこするように気持ちよく生きています。

前世の私は、路線上の人だったと思うのです。

今は、日向ぼっこして気持ちよく生きています。

どこにいても
どんな立ち位置でいても
絵は描けるのです。

私が伝えてあげられるのは、
心の絵画です。


2019年01月03日

私の抽象芸術入門    絵画5

(前回の記事はこちら)


さて、
いったん整理しましょう。

つまり、そもそも「抽象」っていっているのって
一体何を言っているのでしょうか。

そもそも描くということで表現しようとしているのに何で言葉として、訳の分からない内容をでっち上げて煙に巻こうとしているのか?って思っていることでしょう。

ただただ線を引っ張って、ぐちゃぐちゃと落書きの様に描いて、はい作品の出来上がりって、大人をからかっていませんか?って、そういうことなんでしょう。一体何なんですか、この線をぐちゃぐちゃした落書きのようなのは?絵なんですか。作品なんですか。そこに貴方の何かしらの考えとか、何を描写したものとかあるんですか?様々な問いが飛んできそうですね。

確かに、何かを見て描く、と言うことからすれば、私の絵は、絵ではないでしょう。別に人物とかモノを描いているわけではないので。

じゃぁ、私のしていることは、単に表現といっているけど、何なん?

人ってさぁ、何で、絵を描くのでしょうか。

「描きたいから」ですよね。  でも、「何で?」

何も出来ない自分が、「これなら出来る」って、絵を描く。
まぁ、それもあるかな。目立ちたい、有名になりたい。人と違うことしたい。したいことで生活できるようなことしたい。自分が自分であることの証。自分が正気を維持するための行為。別の世界とつながる方法。対話。

結局、何でしょうか。

本当に、分かって、作品をつくっているのでしょうか。
意図的に、作品を作る、っていう人もいれば、偶然をあえて利用する人もいる。しかし、結局のところ、どんな方法にしても、最終的に意味付けするのは、自分であり、それを評価する他者がいるわけです。

デュシャンが出る前に同じことをした作家はきっといたはず。だけど、その人が後世に名を残せなかったのは別だと思うのです。行為や表現をしても、それを正当に評価し伝える人に伝わっていないと最初にしたとしても名は残らないでしょう。今もそれは同じです。才能があるのに埋もれてしまっている人は多いし、そうしたアイデアを上手に盗みあたかも自分が生み出したかのように装って名を売る人もいるでしょう。行為自体は誰にも分からず、当の本人ですら、自分のした事を忘れてしまっているかのように振舞う。テクニックと創造性は違います。精巧に制作できるチカラがあっても誰かの真似しかできなければ、単なる職人技でしかない。想像は、テクニックとは別の場所にある。多くの人はそれは同じ場所にあると思っているからもがいているのかもしれません。デュシャンは、それが分かっていた人なんでしょうね。私は芸術評論家でも何でもないので根拠のある発言では無いことを言っています。それは了解してください。ただ、私個人的に思っていることです。だから、絵が上手とか手先が器用とか、それと、創造性と別だと私個人的に思っているのです。つまり、人の顔を上手に描けるとか、皿が上手に作れるとかそうではなく、どんなことが想いつけるか考えつくかってことなんだと思います。

だから、私は、全ての人は芸術家になれると思っています。つまり、ある特定の特別の人にだけ芸術家になる資格があるのではなく、すべてのひとにチャンスはあると思っています。特別の人だけ、と思っている人は、そう暗示にかけられているだけでしょう。あるいは、自分の立場を取られたくないから相手を脅しているだけかもしれませんよ。私にも、貴方にも、芸術家になるチャンスはあるのです。

まずは、それを踏まえた上で、話を進めていきます。

自分で何かをつくる場合、やはり、何かを観たり、触れたりして、そこから得られる情報をもとに自分が自分の経験や体験を混ぜて、その化学反応から創造って生まれるのでしょう。ありきたりですが、私はそう思っています。

kankei0001.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW133354

私は、この表現(上の絵)にこだわっています。もう、かなり長い間こだわっています。
普通にみると、ただぐちゃぐちゃ線を描いただけに過ぎません。確かに、そう言われてしまえば返す言葉はありません。しかし、それでも私は、この表現にこだわっています。自分の中では、この表現は年数が経つにつれ洗練され内容に深みが出ていますが、それでも、普通にみれば、ただぐちゃぐちゃ線を描いただけなのです。しかし、私と同じ想いがある人だったら、ひょっとして何かを感じるかもしれません。一人でもいたら、私の行為は成功したことになります。自分以外の人に何かが伝わったわけですから。

私は、書くことで気持ちを整理します。吐き出したい気持ちを書いて、読み返して、また、書いて。
その繰り返し。そして、この行為が無いと、描くっていう行為も上手くいかない。
私は、そう思っています。

(もっと知りたい方。お気軽にご連絡してください。
リアルな教室での講座依頼もお受けしております。)

2018年10月13日

私の抽象芸術入門    絵画4

(前の記事は、こちら
私の抽象芸術入門 絵画3



さて、今回は、まず
わたしの作品をご覧になるところから始めましょう。

これです、

04-関係1.jpg


一体これ
何なんでしょう。 何かを連想してしまいます。
私は作品のタイトルによく
「Sense Of touch」 (訳:触覚、 蝕感覚)
を付けます。それは、表象と現実の対象が接触する点を
捉えようとしているからです。ですから、
訳はあえて「接点」としています。
「だけど貴方の描いてるのは、平面だろ。
点じゃねーよ」と突っ込まれそうですね。
遥か遠くから見れば、「点」ですよ、そんなもん。

私が何故、「接点」にこだわっているのは、
以前に書いたブログ記事
「接点写真の接点とは何か」でいろいろ語った。

絵画の方がより実践的かもしれません。
私の絵画の作品は、
線を「引く」「観る」「ねかす」「観る・発見する」「着色する」
などの一連の動作に対して、無意識的に線を引く自分と
冷静に発見しようとする自分がいます。
天井のシミが何かの生き物に見えたり、
空に見える雲のように、変わりゆく雲の形状に
様々な巨大生物を発見する。

「接点」って何でしょう
一体、「何」と「何」が接するのでしょうか?
現実と虚構? 疲労困憊している時など
現実と虚構の区別が曖昧な時があったかもしれない。
でも、その曖昧さの経験が無いと感覚が
鍛えられないかもしれません。

頭の中のリンゴのイメージは、当人だけのモノです。
でも、それぞれ持っています。だから、リンゴって言っても
そのイメージは沸いてきます。

いろんな場面ですら、表象のイメージとして
知らないうちに蓄積されているのだと思いますね。

だから、無意識的にでも引いた曲線群の中に
ピピンと反応する形状が、きっとあったんでしょうね。

曲線群の中から、形状を見つけ出すのは
意外と面白いですよ。

「今、あなたは、この絵が何に見えるのでしょうか」

人によって、或いは、タイミングによって
形状が見え隠れしてしまう。
この感覚って不思議で
自分もついさっきまで見えなかったものが
今、はっきり見える、なんてこがあります。
この感覚、何でなんだろう?この不思議さを
楽しむ反面、何でだろうって、気になって
仕方がない。

2018年08月22日

私の抽象芸術入門    絵画3

(前回
私の抽象芸術入門 絵画2
のつづき)

「寝かせる」
それは、描いた作品をしばらく
ほったらかしにしておくことです。

その時間が長ければ長い程
良いのです。(個人的見解)

その行為は、より客観的に
自分の作品に向き合えることでも
あるのです。(これも、個人的見解)

なぜ、客観的が必要なのか、
あたかも自分の作品を
他人の作品をみるように
そんな行為をしなければいけないのか。

皆さんは、そう感じるかもしれません。

以下を読む前に
一度、みなさん、ちょっとだけ
考えてみませんか?

私は、こう思うのです(←ここをクリック)

2018年08月12日

私の抽象芸術入門    先生はそもそも何をやっているんですか?

いつも、読んでいただきありがとうございます。

先日、偶然に図書館で「美術教室」のチラシをみつけました。
受講生募集!
抽象画コースと油彩画コース
「初心者の方のご応募
お待ちしています」
と、書いてある。

ふむふむ・・・

しかも、受講料  無料
チラシには、
講師の名前、写真
経歴
作品出展歴
しかし、
この講師がどんな作品を制作したのか
写真は無い。

これは、いったい、どういうことか?


何故、受講料 無料なの?

講師にとって、教えることは、生活の糧では無い、
ってことに、みえます。
(すでに、勝ち組の先生か?)
それとも、もっと何か目的があるのでしょうか?

奇麗ごとをコメントするようでしたら、
それは、やめて下さい。

私の講座を読んでいる方は
どうして読んでいるのですか?
やはり、何か興味があってのことでしょう。
私と同じ、ちょっと変わった方とお察しします。

私は、何も隠し事はしません。
私は、この私の講座を発信しているのは、
純粋にまず、発信したい、という気持ちからです。
それから、自分を知ってもらいたい。
そして、自分の作品を知ってもらいたい。
そして、そして、自分の作品を好きになってくれたらいいな。
そういった想いが根底にあります。

それには、そもそも「あなたにとっての抽象画」って何?
が分かっていないと、わたしの作品も ??? と
なってしまうわけです。

ですから、

まず、いきなり「あなたの抽象画」って言われても
困りますよね。

だから、まず、私の抽象芸術を
幾つか、疑似体験してもらおう、と
思っているわけです。

そういう、観点から巷の美術教室の講座を見ると
本当に何を伝えたいのか
はっきり言って、ようわからん もの 多くないですか?


次回から、また、講座 再開します。

2018年08月04日

私の抽象芸術入門    絵画2

前回の
(私の抽象芸術入門 絵画1)
の続きです。


私は、気持ちの赴くままに線を引きました。
それは、きっと 気持ちが良かった 線 です。

あっ、改めて説明しますが、
この『私の抽象芸術入門』のタイトルは、
一般的な「抽象芸術入門」ではなく、
『私』にとって
抽象芸術」について
紹介している(つまり「入門」なのです。)

作品の説明を続けます。
あっ、「説明」って言葉、嫌ですよね。
作品って、そもそも説明するものではなく、
見て感じるもの
見る人にうったえる何かですから、
こちらが作品そのもの以外で
作品について、何かあれこれ発言するのって
それは、蛇足的な無駄な事のように
感じてしまうことでしょう。それに、
本来、そんなことはすべきではなく、
純粋に作品を鑑賞して欲しいと思うわけですが、

それでも、あえて、何故ここで
自分の作品をわざわざ
蛇足的に説明なんかしているのだ?ということに
なりますが、
有名な人は、誰かにこのことをしてもらっている
はずです。キュレーターであったり
画廊のスタッフであったり、大学教授
評論家が作品や作家を絶賛してくれれば
何も苦労して自分が自分自身の作品や作風を
紹介する必要なんて無いのかもしれません。

わたしは、お金も無ければ、コネもありません。
唯一発表できる場が、このブログってわけです。

それなら、ただ「作品」を掲げておけばいいじゃん、
って、思う方もいるでしょう。
何もごちゃごちゃ変なコメントを書かなくても
みれば分かるじゃん。その意見ももっともです。
そう言われると辛いです。反論しようがない。
ただ、一つ言えるのは、作品とは別のところで、
つまり、作品をつくる作家と鑑賞者との間での
コミュニケーションがあってもいいのかなぁ、と
思うことです。
作家が何かごちゃごちゃと書く、それを
鑑賞者が読む。そこで、作品の鑑賞が深まる
かもしれないし、それとは別に、作家に親近感を
持つかもしれないし、作品を通してつながることが
できれば、楽しいと思ったりします。そういった
意味で、書いているのです。
それは、さておき・・・

私の作品は、一気に描き上げる描き方ではなく
幾つかの段階を経て仕上がっています。

線を描くのは、最初の段階です。
次の段階は、
作品を「寝かせる」、行為です。

「寝かせる」って何だかわかりますか?

(つづく)




2018年08月03日

私の抽象芸術入門    絵画1

さて
今回は、絵を見て頂こうかと思います。

senseOfTouch-5x.JPG


これは、私が、作品に「sense of touch」を
コンセプトタイトルとして描き始めた頃の作品です。
初期の作品は、それなりの特徴があるのですが、
それは、また、次回にお話することにして、
今回は、作品の制作について触れて置きたいです。
私が伝える「抽象画」というのは
まさに、ここからと思っています。
余談になりますが、巷に溢れている
「抽象画入門」の書籍には、多くの大作家が
特徴を交え紹介されています。紹介した分だけ
抽象って捉え方がありますので、その分、
見る側は、頭が混乱したことでしょう。
そして、最終的に行き着くのは
結局あなたにとって「抽象」って何?
と言うことになます。
結局のところ、この最後の所は
自分で考えない限り、答えは出ない。
じゃあ、教えてもらったからと言って
自分で考えられるようになるのか?と言えば
うう〜ん、  それはどうかな、
ってなことになる。

ブルースリーが言った
「考えるな 感じろ」

これが抽象画を考える上で実は大切なんだと
私は思うのです。「何が描いてあるか」ではなく
「どんな気持ちになったか?」
「どんな気分になったか?」

私達は日々、いろいろなものを見ています。
しかし、本当にみているのでしょうか。
生活する上で必要な事項は確かに見ているでしょう。
しかし、それだけで、それも情報処理として
単に処理しているに過ぎない。

例えば、私の住んでいるアパートから
スーパーマーケットに行く途中に
川が流れていますが、そこに、
鯉がいたり、亀がいたり、ネズミがいたり、シラサギがいたり、
そうした生き物が住んでいることに気が付いている
人達がどれだけいるんだろう。
これは、見ようとしない、こと。

私はまず、見たものを描く、ってことから
いったん離れようと思いました。
理由は上記の通りです。

つまり、感じたものを描いてみたのです。

感じたものを描く場合、見たものに
重点が置かれず、むしろ行為に重点が
置かれる。行為がなければ、つまり
手を動かさなくては、作品は何も生まれません。
じゃぁ、どう動かすか。線を引くか
ペンをぶつけるか、点を打つか
線を引くか、何をやるにしても自由だ。
そこに、上手も下手もない。

私は、まず、線を引きました。感覚の赴くままに
引きました。何も考えず引き続けているとき
スーッとその線に引き込まれてしまう。
何だろう。

(つづく)



2018年07月31日

50代 で 介護 の 仕事 を しようとしている あなたへ

前回の
50代で介護職を探している人
続 50代で介護職を探している人


続編です。

時々、このタイトルでヒットしてこの記事を読まれているようです。

就職活動をしている40代、50代、そして60代の特に男性に
私は、読んで欲しいと思っています。
幾つか就職活動をしたにも関わらず、どこにも上手く就職口が
見つからず、止む無くこの最後の砦である「介護」に行き着いた方。
そんな方に読んでもらいたいですね。

介護は大きく2つに分けられます。
〇 病院系かそうでないか(病院系列でない職場)
〇 施設系かそうでないか(訪問系)
〇 高齢者対象か障がい者対象か
〇 身体介護か生活介護か
〇 介護職か介護関連職か
です。
いきなり身体介護はちょっと、という方は
介護関連職で働けるところを探してみるのも
一つの手です。例えば、福祉関連用具を扱っている業者
タクシー業界、などです。
男性なら、自動車の二種免許を取って
介護タクシーのドライバーなどもチャンスは大です。
メリットは幾つかあります。例えば、
介護の会社の中には介護タクシーの部門もあることが
あり、仕事をしながら免許を取得できる会社もあります。
タクシー業界でも、入社後介護の資格を取れる会社もあります。
一般的にニーズがある割に人の出入りが多い業界でもあることから
就職しやすいメリットはあるかと思います。
介護で収入が良いところはやはり施設系ですが、
未経験の40代、50代は少しハードルが高いかもしれません。
なぜなら、とにかく扱う人数がはんぱないので最初戸惑うことが
それこそ半端ないです。20代が大半を占める施設系で40代
50代が一番下っ端でこき使われる心境を想像して下さい。
やるせないです。おまけに余程体力に自信が無いと
ただでさえ20代に比べ動きが鈍い40代50代が
この施設系でサバイブできる確率はそんなに高くないでしょう。
脅すつもりはないですが、覚悟が必要です。
止む無く施設系を選ばざるを得ないなら、
まずは、プライドは捨てて下さい。それから
身体を鍛えてください。
それが無理なら、訪問系を選択することを
お勧めします。訪問系は、利用者宅に訪問して
介護支援をする仕事です。一日に何件か周り
ケアをします。通常は、利用者宅で、利用者、介護者
一対一です。一人で不安ということから
訪問系を敬遠される方も多いでしょうが、違います。
対策は万全ですので全く心配ご無用です。
未経験者にとって、訪問系は最も入りやすい職場だと
私は考えています。なぜなら
訪問系の方が施設系に比べかなり選択肢が多いと
思います。訪問系では、先に紹介した介護タクシーなどが
あります。NPO法人、株式会社、個人事業など
組織形態も多様です。さらに、働き方も
正社員から週に一件だけとかのパートもOKです。
慣れない場合、件数や週に働く日を決めることもできます。
最初は収入が心配だと思いますが、長く働くことを考えるなら
無理のない段階を踏んでチカラをつけて行った方が賢明です。
いきなり無理なことで意欲をそがれてしまったら
もう立ち直ることは難しいです。
介護は、職場のスタッフ同士の人間関係が一番のネックです。
後は利用者との相性です。この2点がクリアできれば、
その職場で長く続けられると思います。
辛くて職場を変わることは、何も恥ずかしい事ではありません。
介護職では、当たり前の事なので、全然気にせずに
合わないと思ったのなら、メンタルがやられる前に
サッサと他の介護事業所に転職した方が賢明です。
介護職であれば、経験は重視されます。転職で
収入が大幅に減ることはないと思います。
転職などを繰り返し、居心地がよさそうな事業所があれば
そこで少し頑張りましょう。経験年数が合計3年であれば、
介護福祉士の試験が受けられます。それを取れば、
サービス提供責任者の仕事ができます。業界でいうところの「サ責」です。
仕事は増えますが給料を上げてくれるところもあります。
経験5年になれば「ケアマネジャー」の試験が受けられます。
ケアマネジャーになれば、身体が弱っても仕事は続けられます。
これがあれば定年後も仕事は続けられるのではないでしょうか。
キーポイントは
職場の人間関係と利用者との相性です。

未経験だと、訪問系でも就職が難しいかもしれません。
そんな時は、NPO法人の事業所に行かれることを勧めます。
最初は給料はめちゃくちゃ安いです。でも、いろいろな経験
ができます。少し経済的に大変かと思いますが、チカラはつくと
思います。

ザっと説明しました。上記の内容を読んで
「無理だ」「難しい」と思われるなら、
介護の仕事は選択肢から外して下さい。他の職種を探しましょう。

そうは言うものの、生活するために止む無く、
そう考えられて、いったんは介護業界から離れても
結局のところまた介護業界に戻って来る方もいます。

そういう方に対して、私は何も発言することは出来ません。

世の中には、生まれつき、働かなくても生きていける人も
いれば、学費も無く、才能があるにも関わらず
働かなければならない人もいます。どれも人生、と
私は思っています。どちらを羨んだり妬んだり
見下したり、そんなことはサラサラ思っていません。
自分が稼ごうが、相手に稼いでもらおうが、
稼がなくても生活できようが、誰かに支援してもらおうが、
どんなことをしてでも、生きていれば、
私は、それでいいと思います。どんな方法であれ、
生きていけてるのなら、それは、それで良いと
私は、思います。


ご質問があれば、お受けします。




多くの人から影響を受ける

2018年07月30日

私は アート が 好きなんです

私は、アートが好きなんです。やっぱり

幼稚園に入る前の歳から
何か絵を描いていたり
紙細工をつくっていたり
手先が器用だったんです。(笑)

しかし、小さい時
周りの大人から「大きくなったら何になる?」
と聞かれ、素直に正直に
「絵描き(芸術家)」って
答えました。
大人は「ああ、そうか」といいながら
顔は何となく渋い顔をしていいます。
「絵描きかぁ、まぁ悪くないが
食っていけんぞ」との回答。
遠回しに止めておけということなんです。
かなり否定されました。
そんなことを言われ続けていたので、
自分の気持ちは封印しました。(泣)
実際、サラリーマンになるより、ずっとズット
難易度は高いです。つまり、生きていく上で。
わたしは何時しか「あきらめ」の洗脳を受けてきたのです。

そして、その反動が大人になって、きているのです。
結局ライフワークとして写真を続けています。
でも、プロではありません。金も無いので個展すらできてません。
でも、自主活動は続けています。

これらは、まぁ、つぶやきですわぁ。
無名の個人が何を言っても何のインパクトもない。

しかし、発信し続けることに、私は、意味があると
信じています。

なぜなら、私、アートメーター ってところで
作品を売っているのです。

私は、極めてマイナーな作風なので
一般受けしないのですが、
それでも、何らかの「琴線」に触れたのでしょう
気に入って購入された方もいます。
それって、やはり
何らかのカタチで誰かに影響を与えたわけで
それは、ほんの小さいことだけれども
何らかの役に立ったというわけだと思うのです。

そんな自負心から
「私の抽象芸術入門」を開講してます。
アートについて、一緒に考えてみませんか。


それから
私のブログの構成を紹介しておきます。

1.書籍や映画などの紹介
2.個人的な絵画に関する想い
3.個人的な写真に関する想い
4.アート全般に関する私の考え
5.自分に影響を与えたいろんなこと
などです。

誰にも知られていない一人の
作品をつくる作家として
自分の経験してきたこと考えてきたことなど
伝えられることは全て伝えていくつもりです。

一人でも多く、私の作品のファンになって頂けることを
願っています。応援よろしくお願いします。


2018年07月29日

私の抽象芸術入門    写真1

私は、「接点」というキーワードを元に
自分の写真を撮っています。

この「接点」って何なんでしょう。
幾つかの芸術団体が接点という言葉を使って
活動されていますが、それらには
何の接点(関わり)もありません、
念のため。

私の「接点」は、
従来の辞書的な接点の意味を含んでいますが、
それはあくまでも含んでいるだけで
同じではありません。

幼児から現在に至るまで、
目で見写る風景の中で
何等かのカタチで心に残っている映像を
頭の中で記憶しています。
時間とともにそれは一般表象化され
定着していきます。
例えば、リンゴといって頭の中で
リンゴをイメージできるのは表象があるからです。
でなければリンゴと言われてもそれが何か分かりません。

私が見た風景の中で思い起こされるもの、
それは、過去の想いでとともに
フラッシュバックする景色。
心清められる想いをする景色もあれば、
苦しくなる景色もある。
どんなカタチにせよ、
思い起こすことができる風景は幾つかあるはずだ。

そして、ファインダーから覗く風景の中に
その面影を思い起こさせる作用をする風景に
出くわすことがある。
「どこかで見た風景。だけど、違う。
この風景も良く見ると不思議な構図で面白い」
なんて思いながらシャッターを押す。

一体何が頭で起こっているんだろうか。
一体何で写真を撮るんだろう。
私の写真は常にその禅問答のような問を考え続けていました。

私がシャッターを押すのは、
表象の風景が何らかの作用で
呼び起こされるためなんじゃぁないかと思ったわけです。
つまり

(見ている風景)←→(表象)

(見ている風景)←→((見ている風景)を見て呼び出される表象)
→そうなることで何か「むむっ」した作用が体を駆け巡り、
シャッターのボタンを押すという行為になる。

単純な作用だ。
それをこうして説明できるまで結構な時間を費やした。

つまり、私の「作品」の誕生なのです。
せめぎ合う二つの風景が接する点、
これが私の言う「接点」なのです。


最初は、これらの情報を元に私の作品をご覧ください。

そうですね・・・

まずは、この一枚からいきましょう。
a6a.JPG

2018年07月26日

私の抽象芸術入門    それでは2

ご覧頂き ありがとうございます。

さて、前回の質問ですが、どうですか?

言葉って、何かを拘束しますよね。
「芸術」にしても、「アート」にしても
「批判」にしても、「評価」にしても
「作品」にしても、「活動」にしても
どのように言っても、何らかの束縛を受け
型にはめられたり、意味付けされたり

しかし、何か、発しないと 伝わらない ことも
確かなことなのです。

私も、束縛して言葉を使いたくないです。
絵は絵として、映像は映像として そこにあるからいいじゃん。
本来それで いいと私も思います。

言葉で説明は全く必要無し。  もっともです。

しかし、裏のチカラが何らかのカタチで働き
ある特定の人が表舞台に現れると
そこで、光の当たる人とそうでない人が現れるのです。

そこには、やはり
肩書がついてまわります。

あのTVで活躍されている〇〇が選んだ人だから、とか
〇〇賞を受賞した人だから、とか

何かを評価する時に、
何らかの指標をあてにする。というか
せざるを得ない。

なんで?

鑑賞する人が、そこまで高みに意識が上がっていないから。
そこに至る知識や経験を持ち合わせていないから。

そんなところでしょうか。

スポコン(スポーツ 根性論)みたいに
「一生懸命長年やってきたんだ。
それでやっと認めてもらって賞を取ったんだ。
あんたみたいに、ちょこっとカジッただけの
素人に毛の生えたようなやつに何がわかるんだ?」
そんな感じでしょうか。

わたしは、何か
それは、あなたのいいたいことは分かりますが、
何か 違う気がするんだなぁ。

確かにやり続けないと見えないことはあります。
それは理解します。でも、それだけじゃぁない。

その人、
人、それぞれが持つ感性
センス
いろんな経験から醸し出される、ある種の直観、
って言ってもいいかもしれない何か。

寧ろ、こっちの方が大切かも

誰かの評価にすがるのは
分かります。それによって
世に知られるわけだし、
それによって、仕事の依頼が来るわけだし、
それで、生活できるわけだし、


話は、変わります。

私は、小学生の頃
友達は少ない方でした。
それは、私が少し変わっていたからです。

私がたいてい友達にしたいと思う子は
私のように、変わった子です。
クラスに溶け込めず、独りで何かしている子
でも、その子は、独りでいることに
全然平気です。校庭でみんながドッジボールを
して遊んでいても、独り地面のアリをじっと眺めていたり、
ボーと空を眺めていたり、見ていて
何か不思議なオーラを醸し出している子。
何が好きでどんな生活をしているか謎めいている子
そんな子に非常に好奇心を覚え、思わず声をかけて
しまいます。そして、いつしか、友達になっている。
時に彼の思考や行為に感化されることもある。
しかし、彼はけっして成績も良くないし
器用でもない。むしろ集団生活では不器用な彼に
非常に心惹かれるわけです。


今も、それは変わりません。
「この人とつながると仕事が増える。」
あるいは「この人とつながると金になる」
こんな考えでつながろうと考えたことはありません。
私に親しく声をかけてくる人の大半が仕事や金目当てです。

私に声をかけても 「こいつは金にならん」
そうおもうと 去っていきます。

今の芸術の世界は何かそんな雰囲気ないですか?

新人発掘も「こいつは金になる」
これが基準でしょう。
発掘して、育成して、宣伝して、表舞台に立たせるために
裏方はどれだけ資金を投入しているのでしょうか。
それに見合う利益をもたらす人が
すなわち、有名人 ってことですね。

どんなに「いいねぇ」と思われても
「これを買う人、いないよ」
マイナーな強烈さは 単に 変な奴
なのです。

わたしは、世間の評価が何であっても
一つ一つ自分で確認します。

評価され、額に入れられ
高額な値段の付いた作品は「商品」ですね。
つまり、富裕層の「投資」の対象なんです。
世間で言われている「作品」って。

一つのモノを見ていても
階層によって、捉え方が違うんです。
純粋に信じている人にとって、作品は
正に、作品なんです。
でも、それを「投資」材料として捉えている人も
いるのです。そして、結果的に富裕層の
マネーゲームによって芸術家達の層の経済は
成立しているわけです。芸術家が十分に生活できるのも
彼らのおかげなわけです。
純粋に信じる人は清いです。それが見方のあるべき姿ですが、
彼は大枚はたいて作品を何枚も購入することはできません。
それは、投資ができる富裕層しかできません。
その矛盾を抱えながら芸術家は生きているのです。

さて、
それらをふまえ、ここまで根気よく読んで頂き
ありがとうございます。
きっとご自身なりに芸術を考え
模索されている方だと思います。

次回は、私が撮影した写真を元に
お話を進めていきたいと思います。

では、また