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2022年12月25日

なぜ、あなたは描くのか? 生活のためとか、褒めてもらいたいからとか、そんな陳腐な事を聞いているんじゃ無く、もっと本質的な事



「絵も人間と同じ。肩書きで判断してはいけない」
                  赤瀬川原平

確かに、ハッと驚く様な作品に出くわす時があります。
それは、おそらく、人としての生理的反応の様に感じます。
綺麗な夕焼け、気持ちの良い朝日、可愛い猫、など、
およそ人間の歴史としてDNAに刻み込まれた情報の様に
普通に感じる感情や感動などの心理的な効果を狙った作品は
あります。その共通項の多さが一般的評価につながり
そして、一般的価値判断となり、つぎの評価へとつながるのです。
そこに利得を目当てに色々な人が集まり権威を持たせて
それぞれ肩書きを付けて差別化をする。アート業界の
「界」など。

昨日から某大手百貨店で開催された芸人画家の展示会を観に行きました。
いとこからチケットをもらったので行ったわけです。
画家である彼の姿勢は、嫌いではないです。
ただ、彼を利用して金儲けしている周りの人達が気持ち悪く見えました。
百貨店で開催すること自体がそれを感じさせます。
彼に罪はありません。彼にしたって生活がありますから、
それは仕方がないことです。業界そのものがそうであるので
何も言えません。良いも悪いも上手に取り込んで美化させてます。

アートに癒やし治す力が有るのなら、何れ浄化されると思いますが。

対極にいる作家は、自らの救いを求めて今日も手を動かしている事でしょう。
私もその1人です。


2022年11月14日

見慣れた景色がなんか不思議に見えて来るのです。ジッと見る非日常的行為。無防備に飛び込んで来る風景は私の心の深いところに触れ、ハッとします。そしてウン?何だろこの感じは?そんなことをしながら散歩をしています。何気なく普通に生きている中でスーッと気持ちが落ち着く時があります。心を癒すのはふとした事のちょっとした瞬間にあります。

ご覧いただきましてありがとうございます。しかし、これは自分自身の為に書いている記録です。

何らかのキッカケでここに辿り着いた事でしょう。
ひょっとして何か調べ物でたどり着いたのでしょうか?それとも純粋に私の作品に興味があって立ち寄ったのでしょうか。後者であれば嬉しいですね。
調べ物でたどり着いた方には申し訳ありませんが、あまり役には立たないでしょう。ここは私自身の為に開いたサイトです。今現在想い考え悩み等を書き残して自分自身記憶の整理の為に書き残しているサイトなのです。そんな私の思考行為を足跡に興味がございましたらお気軽読み進んで下さい。もしかしたら、何かに共感するかも知れませんね。

みえているもの.JPG


自分にとっての創作活動って何だろう、と考えることがあります。結局、
私にとって、芸術🟰癒し行為、なのです。これが私の芸術の定義ですね。

自分の思考も何らかの形で残しておかないと自身ですら忘れてしまいます。こうして書き留めておくと振り返って読み返すと思考の経過が確認できます。とても便利です。

「日常の場面でも、ちょっと立ち止まって一歩引いて見ると、ちょっとした違和感を感じませんか?それは、貴方が今までそんな様な事をした事がなかったからです。貴方はきっとそう感じるはずです。その違和感はどこから来るのか。しかし、全ての場面でそれが起こるわけではありません。」
前回は、ここまで話して終わってました。今回は、この続きです。

前回で載せた写真は、昨年の作品からの掲載です。写真はいつも歩く散歩コースで撮影しました。何処かは言いません。特にそれは重要では無いからです。この場面は、おそらくほとんどの人が知らずに通り過ぎてしまうところです。私は歩く時よくみます。構図や光の当たり具合とか個人的に気になるものがあると見てしまいます。じっと見る行為は風景との対話のようです。風を肌で感じ、風の音を聴き、日の光、空の色、地面の感触を感じます。立ち止まってジッと見ます。また歩き立ち止まってジッと見るのです。ところどころでその繰り返しをしています。見慣れた景色がなんか不思議に見えて来るのです。ジッと見る非日常的行為。無防備に飛び込んで来る風景は私の心の深いところに触れ、ハッとします。そしてウン?何だろこの感じは?そんなことをしながら散歩をしています。何気なく普通に生きている中でスーッと気持ちが落ち着く時があります。心を癒すのはふとした事のちょっとした瞬間にあります。ホッとした瞬間と言ったらよいでしょうか。

写真を撮る、パソコン内で写真を整理する、その中から何枚かを選び写真集を作成する。この一連の行為が私の癒しの行為となります。
「あっそうですか」つぶやきが聞こえてきます。何も特別な事などしていません。淡々と作業している様にも見えるでしょう。何も特別な道具は有りませんし、使ってもいません。気軽にできる事を楽しんでいるただそれだけです。

さて、

皆さんは、何を考え写真を撮るのでしょうか。頭でめまぐるしく情報処理をするでしょ。でも、そこからポッと光るものが浮かび上がる感覚を味わったことは有りますか。

初めてカメラを手にして撮影する多くの場合、数年位、闇雲に我武者羅に写真を撮ってそれこそ発表できるところはどこでも出す様な活動をしている間、貪る様に専門書や評論、エッセイ等思考の参考になるものを片っ端から読み漁る時期を通り過ぎますが、通常これが始めてから10年くらいの間にする活動でしょうか。私も通過しました。それはそれなりに楽しかったし出会いもありました。しかし、それを過ぎるとそれぞれの道を歩み始めます。多くは王道ですね。安全パイです。賞を取れば活躍はできるでしょうが、多くの場合は埋没します。しかし私は脇道に外れました。道路脇の道は凸凹ですが、面白くもあり、いろいろな発見もあります。

ここまで読み進んでいる方はおそらくわかっている事と思います。

日常の場面が、日常の風景に、私の言葉で言うと、気になる風景、になる瞬間って一体自分自身の中で何が起こっているのか考えたことはありますか。まず、そうなる自分に気持ちがなるには、メンタルの変化が大きいです。心の余裕が無ければ思考が働きません。たとえ忙しくても夕日の光は全ての人に当たります。つまり、見て感動するチャンスは平等に与えられているのです。しかし、忙しさのあまり気持ちが動かないのです。しかし、どんなに忙しくても、見た瞬間にスーッと心に入りサーっと浄化する感覚を味わうと気持ちがホッとして疲れた自分を癒してくれます。癒しの作用が無いと場面としての構図が気になる風景として浮かび上がってこないはずです。

今日も生きています。
私のやり方で。




2022年11月06日

私は評価対象境界外の写真家として自分を位置付けています。だから誰からも評価されないし、そもそも彼らも私をどう評価したらいいか分からないわけです。

A06.jpg
『写真集: むこうのたいよう』の中の一枚

むこうのたいよう.jpg



今日も生きています。

この言い方は、ネガティブに捉える人とそうでない人と分かれますが、私はいたって肯定的に発言してます。
この世にいる限り、生きていることがまず前提としてあります。
健康というか元気と言うか、生きていく覚悟というのは大袈裟かもしれませんが、生きていこうとする気持ちにさせるのは身体が正常に機能していて感じる気持ちだから、そう言った状態を健康というなら、健康は大切です。
健康だから何だと言う人は、まだ、その人が健康だから言えている事だと思います。死にそうだから死にたいは、楽になりたいからでしょ。辛い時、分かります。そこから逃れたいですから。でも、逃げるよりも乗り越えたいと思う時があります。人生でそう言った事が見つかる事もまた幸運だと思います。逃げるにも体力が要ります。心が弱って元気が出ない時はあります。しかし、逃げるには体力が要ります。だから、気持ちが凹んだ時も、パートナーと一緒に散歩します。身体を動かせる事、その事に感謝します。歩くと気分が変わります。だから、今日も生きていけるのです。

評価対象境界内で同じ様にそこでのルールに則って活動しない限り、そもそも評価の対象にもならない。日本での写真家の業界内の文脈に沿って自身を位置付けないと評価の対象にもならない。皆、この流れに乗る為に大枚をはたいて、或いは媚を売って、地道な営業活動の末勝ち取った立ち位置を死守しようと懸命に活躍し続けている事でしょう。馴染まない多くは脱落します。

 私は評価対象境界外の写真家として自分を位置付けています。だから誰からも評価されないし、そもそも彼らも私をどう評価したらいいか分からないわけです。下手な評価をして後でそれがアダになりかねないからです。どんな作品も誰かの心に響くものです。私はそれだけで充分なのです。既にその評価は受けています。それだけで充分に写真家を名乗って良いと自負してます。自分で言うのもなんですが、「孤高の写真家」と思ってます。

さて、写真についてです。つまり、私の写真についてです。
接点写真をyahooで検索してもヒットしないって事は、これはある意味私の単語なんでしょうね。
ある意味嬉しいです。「接点写真コピーライトマーク️」ですね。
一眼レフを手にしたのは高校生の時でした。でも、それはただ闇雲に撮っていただけであまりそれは経歴としてでは無いですね。実際には25歳位でしょうか。働いて少しお金があってので、現像引伸機材を一式揃えて、市販の現像の仕方の書籍を見ながら独学で始めました。そこが出発点ですね。専門の学校にも行ってないし、写真クラブなどで先人から仕方を伝授してもらった訳でもなく、見よう見まねの独学です。だから、コネも人脈も無い、一匹狼の自称写真家ですね。今は、デジカメに移行してしまいましたが、写真は30年以上続けている訳です。最近の私の作品を見てもわかる様に一貫して作風は変わっていません。つまり考え方、捉え方、感じ方、想い、全てにブレずに来たわけです。99.9%評価無しの孤高の写真家ですね。正に自分自身のために撮っている。なぜか、それは、上記の生きている、と言うことに関係してます。生きていこうとする気持ちには何かが、少なくとも私には、何かが必要なのです。それがこの写真行為です。この世界と私をつなぐ接点。私を癒すもの。原点は今も変わらずここにあります。

私の写真行為は、もちろん今職業として活躍されているカメラマンや写真家とは違います。プロの多くは、まず大学や専門学校で写真技術の指導を受け指導教官の勧めでコンテストに応募して運が良いと賞をもらったりします。あるいは卒業後弟子を取る様な写真家を紹介してもらい修行しながら写真家の道を歩んでいくでしょう。でも彼らは先生が目をかけた極一部の人達です。多くは先生の視野に入らずあまり望まない現場におくられるか、学んだ事とは全く別の仕事に就くことになります。しかし、彼ら中でも夢を諦めない人達はコンテストに応募し続けるか、学生時代に培った人脈を頼りにグループ展をしたり個展を開くなりして何処かでチャンスを狙っています。
 そうかといって、私はアマチュアのカメラマンや写真家ともちょっと違います。つまり、アマチュアの趣味的要素は微塵も無いわけです。何かの協会やサークルやクラブ等に属しているわけでもありません。
 純粋に自分のやりかたで来たわけです。唯一こうしてブログに載せているだけです。
だから、ここにたどり着いた読者の貴方は奇特な方ですね。



日常の場面でも、ちょっと立ち止まって一歩引いて見ると、ちょっとした違和感を感じませんか?それは、貴方が今までそんな様な事をした事がなかったからです。貴方はきっとそう感じるはずです。その違和感はどこから来るのか。しかし、全ての場面でそれが起こるわけではありません。

次回は、その辺のところを話してみます。

今日も生きています。
私のやり方で。




2022年10月23日

私の「接点写真」 入門

今日も生きています。

今回より、ようやく私の接点写真入門をはじめます。
自称「接点写真家」です。

さて、私の言う「接点写真」ってそもそも何でしょうか?
そこのところを話してみたいと思います。
しかし、あくまで自分向けに書いていますのでご承知おきください。
私の写真に興味がある、良いなと感じる方には良い機会かと思います。

道を歩いている時、ある物体を見ます。
これは、意識的に見ているのか無意識のうちに目に入っていくのか分からないです。分けられないですね。見ながら歩かないと危ないからです。だから、通常は、撮るために見ている訳ではなく、安全に歩く目的で見ているのです。
しかし、そうして見ている中に、ふと何かに反応するのです。
過去の記憶であったり、不思議な雰囲気だったり、多分、その反応は私固有のものだと思っています。
多分、そこが他の人との作風の根本的な違いだからです。
とにかく、そこで物体を見ます。
その時、私の記憶のイメージ、表象っていってもいいですが、そこと反応する時私はデジカメのシャッターを押します。これが私の「一連の行為」です。
後日、取り込んだ写真を改めて見ます。取り込んだ多くの写真の中の何枚かに一連の行為の記憶が接します。取り込んだ全ての写真が接するわけではありません。行為の記憶と実際に撮れた写真にズレがあると両者は接することが無いからです。取り込んだ「写真」と一連の行為の記憶とが接するところ、そこが接点です。接点写真は、こんな感じです。
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何か難しく説明しましたが、おおよそ人は無意識のうちにこんな感じで撮っていると思います。
ポイントは、何に反応して撮るか?ということです。



この入門は、私だけの入門でして、皆様向けに出来ていません。
ですから読者の配慮無くいっさい独自の考え方や見方で写真と言うものを語っています。研究者や職人さんの学説、流派、伝統等全く考慮しておりません。常識と言われている写真の撮り方、評価基準は考慮しておりません。
しかし、私も誰かの影響を受けていることは間違いありません。ですから、みているひとの誰かには、共感していただける事と思います。
これが私の写真です。これを貫き通します。
そうする事で私は私の存在を実感できるのです。

今日も生きています。


2022年10月15日

結局のところ、私は、評論家でも無い、研究者でも無い、プロデューサーでも無い、キュレーターでも無い。私は、アーティストなんだな、と思ったんです。

私の抽象芸術 入門 へようこそ。
これは、私だけに向けられた、私の為の入門です。
残念ながら、他の人向けではございませんので悪しからずです。

今更ながら、私は、アーティスト、つまりは、芸術家なんだなと
自覚したわけです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【私のFacebook の投稿から】

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まぁ、いろんなことに想いを馳せたり
いろいろ想像したり
時には何かを思い出したり
あることを考えたり
場合によっては考えが飛躍したり
何かを発見したり、してみて下さい。
素通りしても構いませんが、
思考停止にはくれぐれもご注意を。

私の作品は、まさに
観る人に「見えてはいるが見えていない」何かを
共有していただくことで
その人の可能性を引き出す効果を狙っています。

しかし、この試みもするかしないかは
あなた次第で、
まぁ、興味もなければそもそもこの記事自体読んでいないわけで。。。

私はむしろ自分の作品に救われていることが多いです。

「本質的には芸術の目的は癒しなおすこと」
           グレン・グールド


【写真の解答】
ティッシュペーパーを丸めてゴミ箱に捨てた後、何を思ったか、ふと拾い上げて見た時に、「おっ」と思ってテーブルに乗せて写真を撮ったものです。

さて、上記の解答を見た上で、再度、この写真を鑑賞して下さい。
あなたには、何が見えますか? 何を感じますか? どんな感情がわきおこりますか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

有名、無名、金の有無には関係無く、
本質です。アートの。
金のためでも無く、ただ、好きで面白いからしている。
絵画にしても写真にしても。
これだけ続いているのは、やっぱり好きなんですね。
仕事では無く、有償無償に関わらず、好きなんですね。
こうして考えたりつくったりすることが。

別に、共感や評価など関係無く、ただ、したいからしている。
それだけです。

自己満足でしょう、そう言う人もいるでしょう。
どうぞ、言いたいだけ言えばいい。
(そう言うヤツに限って、何もして無いし、出来んヤツだから)

私にとって、作品をつくることが生きていける支えになっているのです。
まさに、癒し治すこと。




誰もみていないから、思うままに書いているが、別に、みせつけるわけでもないが、ブログで書く以上実質的に見せつけていることになってしまっているわけだが、溜まっているモヤモヤを吐き出しているわけだから読んでいる人にはよく分からない内容になっているかもしれないけど、自分の気持ちを落ち着かせる為に書いているから別段気にもしていない。

「私の抽象芸術 入門」は、私による 私の為の入門です。
ただ、気になる人だけ読んでいることと思います。

絵って、どんな時に描くんでしょうか。ふと思いました。
忙しい時ほど、時間をあえて絞り出して深夜悶々と描くわけです。
ストレスを極度に感じている時、特に描きたいという衝動が起きます。

何だろう?

しかし、別にそんな状態でもない時でも、ふっと描きたいと思う時があるのです。
何かが頭の中にフッと降りてくるそんな感じを受ける時もあるのです。
しかし、描いたからといってどうする事もなく、本当に溜まっているものを吐き出す感じです。
かと言って、不要なものを出しているわけでもなく、
描いたものは、私は作品と呼びたいですね。
私独りだけが私の作品を擁護しているのです。
唯一私だけに守られている貴重な作品なのです。
だから愛おしさはあるのです。
誰からも評価もされない、だから何の肩書きも無い無名の存在に、私は心惹かれるわけです。

そんな私が、誰かに何かを言ったところで相手は当然ながら聞くわけも無いのです。
だから、既にここまで読んでいる貴方はスゴイと感心してしまいます。それだけでも感謝です。

私の周りには、一期一会に溢れています。
なぜなら、同じに見えても瞬間瞬間異なるわけですから一つとして同じモノは無いはずだからです。
今日見ているモノが明日もあるとは限りません。
人の関係もそうです。
「また明日ね」と言った人と二度と会うことがなくなる、って事もあります。
同じ場所で見た風景も明日同じに見えるけどやはり違うのです。
朽ちていき、やがて無くなるのです。

さて、前置きが長くなりました。
芸術の本当のところを自分自身、どう感じているのでしょうか。
これに踏み込む前に、一つお話しをしたいです。
皆さんはお肉好きですか?焼肉とか唐揚げとか。私も好きでした。今は出来るだけ肉は食べない様にしています。理由はここでは差し控えますが、ここ数年で明らかに減少しています。
そもそも、私達は、本当に肉が好きなんでしょうか?高い肉って言ってますが、その違いが本当に分かっているのでしょうか?私は、分かっていないと思います。私は、肉そのものが好きと言うのでは無く、それを味付けした物体に美味を感じているに過ぎないと分かったのです。同じ様な肉の感触であればそれがコンニャクであっても良いわけです。焼肉の様なタレでそれが再現出来れば肉の代用として十分では無いでしょうか。唐揚げもしかり。肉の代用品が有れば食材を替えるだけで食生活は変えないで生活習慣病を改善出来るかもしれません。しかし、そこに気が付いてくれる人は少ないなぁ。

芸術も、今の芸術は上例の様に焼肉と言う一つの形が出来上がってその中身が誰であっても構わない、そんな匿名性なものに成り下がってしまったように見えます。

まずは問題提起です。
学校で知識としての芸術は、私は、学んだ方が良いと思います。
まとまった体系的な情報は必要です。
それは、外の世界と内の世界を知る為です。

その先の事を、今、ここで見ています。

まずは、私の作品を見て下さい。
(未完なので作品の一部のみお見せします)
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「見て、何を感じるのか」

全ては、ここからスタートします。




☆ 最後まで読んで頂きましてありがとうございます。




2022年09月09日

承認欲求を越えたところにあるもの

なかなか更新ができていません。記事を楽しみにされている方には申し訳ないです。

しかし、多くの読者は一期一会的な存在であることも承知しています。
それに、私の書く記事は、最近はほとんど自己満足的な捉え方をしています。
(そもそも自己満足で始めているのですが(笑))

作品が分かりやすく強く影響するものは、何かを知って、そこから何らかの活動を促す起爆剤的な存在でもあります。多くの場合、刺激を受け何らかの活動をしています。
私の作品はどうなんでしょう?観て欲しいと言う承認欲求が強かったところもありますが、今は、承認欲求を超えたところに意識があるようです。自分のツボにハマった事だけを表現の対象としている、そんな感じがしています。これが無いと多分自分を見失ってしまう、そんな想いでつくっていると思いますね。他人はただ観て通り過ぎる、何も反応無し、ある意味 関心無し、コメント無し、この状態は、正に「自分だけの世界」だと思います。他の人が入ることが出来ない領域、それを貴方が観ても何も反応出来ない世界、おそらく共感も出来ないでしょう。「日常のふとした瞬間、何気ない場面が何故か気になってしまう、私の周りの世界は私にとって面白い風景に囲まれている」凝視する瞬間にそれが見えて来ます。

写真を自分の活動として意識してから30年以上経ちます。
直接のアクションを起こすか起こさないかは別として、以前は誰かの承認を得たいと無意識的にでも感じていたんだろうと最近ふと思うのです。フランクの写真は多くの若い写真家を惹きつけました。私も同様です。マニアックな写真家の名前を口にして、さも写真に詳しい事を見せつけてイキがっていた頃もありました。自分は評論家でも研究者でも無い、だから知識で頭デッカチになってはいけないと感じ、感覚を研ぎ澄ます事に力を注ぎました。「普通に見過ごされそうな、極々普通のありきたりな風景ではあるが、しかし、じっと見つめると何かそこに不思議な構図が見えて来る」私の頭の中の何処かの回路が異常な動作をして私にこの意味不明な行動をさせるのか、それは知りません。

私が写真を始めた頃はフィルム写真が主でデジタルの存在すら感じられない時代でした。
その時の写真は一期一会、現像するまで分かりません。削除もできず無駄に残っているカットも多く、その無駄から良いものを選ぶ感覚でした。今とはおよそ感覚的に想像付かない選択でしょう。フィルム写真は確かにデジタルでは出せない何か趣きがあり私好きですが、今となってはデジタルの方がむしろ自分にあっているのかと感じています。まず、フィルムや現像にお金が掛からない、無駄なカットでフィルムを無駄にする事も無い、その分、資源を無駄に使わず現像などの薬品を使わないので環境にも優しい。それも私がデジタルを選ぶ大きな理由の一つです。また、撮影した写真をその場で確認できる事もデジタルの大きな利点です。見た風景と撮った風景は違います。思わぬ効果が出て驚く事も多々あります。デジタルの一期一会の瞬間です。

フィルムが当たり前の時代からデジタルが当たり前の時代の両方を経験出来たことは幸運でもあったな。この変化は、コロナによって社会のシステムが大きく変わったことの様に大きな変革であったと私は思います。今の20代だとフィルムは全く新鮮なツールに見えるでしょう。あえて面倒くさくてお金のかかる方法で写真を楽しむ逆行した行動は、今の私には合わないなぁ。それこそ金持ちの道楽で、本来的ではないと思います。まあ、これも好き好きですがね。

写真を鑑賞する時、何を読み取るのでしょうか。
写っている対象物は個々に具体的なモノです。それが何かと論じたりするのでは無く、構図や、雰囲気、醸し出される味の様な視覚感覚で感じ取られる不思議な力を感じて欲しいです。読み取ると言うより感じ取るのです。私が先生なら、まず、グダグダ考えるのでは無くとにかく撮る事をすすめるかな。感覚が麻痺するほど撮り続ける、日々意識することで何が撮りたいのか感覚が教えてくれる、写真を撮る事で自分が何と向き合っているのかわかって来ます。まぁ、私は先生では無いのでほどほどに聞いておいてください。

何らかの評価があって、需要があり、商品として価値を見出すことのみに視点を置くと、現代としてのアートがみえてきます。一つの市場に乗る事で社会的なブランドにもなりえます。いつの間にか周りの評価によってそのアートが定義され人格の形成まで世間によって作られてしまいます。評価のために作り続ける自分に気が付かないまま、社会から造り上げられてしまった自分に押し潰されながら「自分もどき」を演じてそして本当に自分がしたかったことがこれで良かったのかも解らぬまま社会に求められるまま結局歯車として社会に組み込まれます。本人はおそらく知らないまま死んでいくんでしょうね。社会の大きな力は、適材適所で彼らを使っています。私は無意識にそれを拒絶している。

写真集「きづかないふうけい」は、
誰一人、気にもしない風景に一人寄り添ったそんな作品に仕上がっています。
誰も気付かない風景に誰が評価するんだ、とあきれますが、私が気になっているから仕方の無いことです。これは私が切り取った「私だけの風景」なのです。このブログで少しだけ鑑賞頂けます。
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整理してその時の想いを綴っておくことは私にとって必要なことなのです。
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こうした一連の行為の過程を貴方が見ているわけです。貴方はラッキーですよ。ここまで読んで頂けたのは嬉しいです。それだけでもこの文章を書いた意味がありました。自己満足だと言っても、同じ様にわきおこる何かを何らかの形にできないものかモンモンとしている人がこの記事を読んでいるかもしれません。

評価があり価値があるのは、共通するある一定の基準が基になっています。ある一定数の同意がある事です。業界共通のコードなどがあり評価の一定基準を満たす事を求められます。それを植え付けられたり習得する事で市場にのるわけです。自分の味方になってくれる評論家がいると幸運ですね。評論家によって分かりやすいコードに置き換わることでより良く作者を理解してくれる訳です。多くの人からの支持で成長する作家もいます。

お金を払うにはそれなりの期待があるわけでそれを満たす何かがあるわけです。共通コードの価値を買うわけです。

私は絵も描いています。主に抽象画を描いています。
趣味なのか、と言えば、それで終わってしまいます。自己満足って言われれば、そう言うふうに思われても仕方ないなとは思います。しかし、自己満足というよりそうせざるを得ない欲求みたいなものが何処かにあるから、心の想いのはけ口でもあるのです。ただ、思うまま描いているので理屈で鑑賞するのでは無くそれを観て何かを感じて欲しいと言う表現の方が合っている。具体的なものはありません。感覚的に感じて欲しいと思います。

写真は具体的な現実の切り抜きですが、そこを通り越して抽象的に捉えてみます。
多分、ここのところがよく理解されていないため私の作品は、展覧会やコンテストを主催したりそこに応募しようとする写真マニアには受け入れられないと思っています。彼らのテーマ性や視点が明らかに異なるため、そもそも私の作品には見向きもしないからだと私は捉えています。だから、クラブや集まりに行っても浮いてしまいます。いたたまれなくて結局やめてしまう。草木や動物、絶景、家族風景、美女ヌード、物撮り、などなど。見た目は華やかであるし注目するし、共感もされやすい。誰もが写真というといわゆる「ばえる」写真に目がいってしまうのは一般的であるしおおよその写真を撮る目的や撮りたい写真とはこう言った対象であることは皆の共通認識にもなってしまっているわけで、そこからあえて外れてまで写真を撮ろうとも思わないし撮る意味を見出してもみない。その中での私の作品はおそらくかなり異質に見えるかもしれない。写真家の中には「ああ、そういう写真を撮る人もいますね。よくわからんけど」と発言する方もいます。そうです。私のようなタイプの写真を撮る写真家はいます。私はその彼らの影響を受けたことはおそらく間違いないと思います。しかし、これらの写真家はメジャー路線には上がってこないマイナーな部類です。淡々と自分の視点の赴くまま行動しているはずです。一般受けする写真では無いのでほぼほぼ注目される事もありません。逆にそれこそ「自分だけの風景」に没頭出来るとも言えます。写真とは、私にとっての写真とは本来そうあるべきだと思っています。
 しかし、だからと言って一般受けする写真を拒絶しているわけではありません。綺麗な風景、可愛い猫ちゃんの写真も私は大好きです。写真はいろいろあっていいと思います。その中の一つとして私の写真もあるわけです。ただ、ばえる写真の中では埋没してしまう写真であることは確かです。だからこそ、あえて個別で語りかける必要があるのです。クラスでも声の大きい人とか人気者は目立つが大人しめの地味な人は注目もされないでしょう。ただ、一人ひとり話すと興味深いことは見えると思いますよね。それと同じです。

断片的に、想うままに書いてみました。
ここまで読んで頂き、本当にありがとうございます。それだけでも感謝です。
興味を持って頂けましたら、他の記事も併せて読んで頂けると嬉しいです。




2021年10月19日

【私の抽象芸術入門】は、前から言っていますが、私のための抽象芸術入門なので、あなたのためにしているわけではありません。生きていくために必要な事を自分でしているだけです。この記事を書くのもその一つです。

写真と絵画(特に抽象画)、特に写真は、
私のライフワークになりました。

別に、プロではありません。
(拒否しているわけではありません。
依頼があれば、お引き受け致します)

どこかの協会や活動団体に属していません。
誰かの弟子でもありません。

全く、孤立無縁の活動です。

展覧会は、していません。唯一、作品を見せているのは
ここだけです。無断で私の作品画像を使っている人が
いるかもしれません。多分、いるでしょう。
個人で楽しむ分には、特に、何も言いませんが、
営利目的で使用の場合は、法的な対応をさせて頂きます。

展覧会は、あえて開かないのではなく、
費用面で開けないだけで、みんなに観てもらいたい気持ちは
あります。
適当な場所をご存知の方は、お知らせください。

さて、
質問です。
皆さんは、何で、写真を撮るのですか?


幾つかの回答がありますね。
しかし、本当の意味で
何で撮るの? と、問われたら
そのl回答から幾つか本当の回答が抽出されます。

結局、自分の為、なんですね。
他は、全部言い訳ですね。

承認欲求であったり、自己満足であったり
存在証明であったり、
解釈は何だっていいんです。
プロでも無名でも
やっていることは大して変わらない。

その写真、作品を、残すか残さないかは、
残された人達が決めます。私ではありません。

虚しさもあるのに
何で、撮るの?

それは、自分の中で
揺れ動く、不安定な気持ちを
何とか、落ち着かせるために
自分自身が自己防衛として
動いている活動なのでしょう。

こうして書くのも
書く事で
気持ちを整理しているのだと
思います。

全て、自分のためです。

ただ、
私の作品を観て
何か、その人に
何かしたのなら

それは、それで
面白いと
思います。

そうした楽しみも
写真を撮る目的でもあるからです。

A11.jpg

2021年07月31日

「芸術の目的は癒し治すこと」〜 誰を癒し治すのでしょうか? 作品を鑑賞している人でしょうか。自分自身を癒し治す、と 私は思うのです。

本質的には、自分自身を癒すことが作品制作の目的だと
私は思うのです。

人に「上手いね」と褒めてもらうと嬉しいですね。
嬉しいから、また描く。そして、いつしか
褒めてもらうために描く、ということになる。
上手い事を認めてもらうために描く、ということになる。
何か特別なチカラが自分にはあると勘違いすることになる。
目的が
自分自身から離れていくと、いつか
辛くなる。

知らない内に利用されていることもある。
金儲けに利用されるケースは多い。
女性や障害者の作家にその例は多い。
意外性や話題性、商業ベースにのっかるのなら
何でもあり。仕掛け人は、金儲けのために
何でも使う。散々搾り上げて
使えなくなると、次の。。。。と
その繰り返し。

挙げ句の果てに「理解されなければ、受け入れられない」
とか、自分のためなのか客のためなのか
分からずに、ますます自分自身から離れていく。
「客に理解されなくて作品と言えるか?」
そこまで言われると、
誰かが意図的に流行るものを決めて
計画的に浸透させる。
一部は神格化し、その陰で、本質的重要性をあやふやに
していく。美しさの基準は、自然美とか
なんらかの自然法則からではなく、
支配してきた者達が決めてきたこと。

あなたが、純粋にイイと感じる、
そのことが、大切。
他の基準を押し付けられるのではなく、
良いと感じる何か。
もちろん、潜在的に既に植え付けられてしまっているかも
しれないが、他と違う事に価値を見出そう。

描くことは、癒しなのです。

まず、
自分に溜まったモヤモヤを吐き出そうよ。
「よく出したね。スッキリしたね」
描くことで何とか正常を保てるのなら
吐き出すことが描くこと、制作すること
だから、吐き出してスッキリしたなら
それは癒しでしょう。

私の作品も結局のところ、そんなもん。

写真を撮ることは、私の癒しの一つの手段です。
絵を描く事と同じ。

さて、
今年も写真集をつくりました。
2冊限定です。
カナダにいる親友には、毎年送っています。
1冊は、親友のために、もう1冊は自分の癒しのために。
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本来なら、写真展でも開いてみんなに観ていただく
ことも考えました。しかし、
これは私にとっての癒しなのです。
共感の無い場所に置きたくないです。

いつか、気に入った所を見つけたら、
お目にかかるかもしれないですね。

自分自身「ああ、いいなぁ」と思う瞬間
その場を共有できる事が嬉しいのです。

2021年06月06日

【私の抽象芸術入門】 やっぱり、描き続けている。こだわり、だろうか。よく分からない。だからなのだろうか。 何かいつも発見しているんだろうな。その発見が意外と面白いんだろうな。

私の抽象芸術入門

今回も私のために書いています。
私にとっての芸術入門。

子どもが描く抽象絵画は、私は好きではありません。
そもそもそれが抽象画なのか
ただの成長過程のお絵かきなのか
おそらく描いている本人にも分かっていない
実に不安定な存在と私は感じています。
もちろん、それを好んで評価する一部の
よく分からない専門家も居ますが、
ふーん、と言った感じですね。

3歳の子に
人生って何か、聞けますか?
と言うか、聞く意味あるのか?って思いますよね。

だから、3歳児の描く一本の線と
80歳の人が描く一本の線と
私は違うと信じています。

それは、線を見て誰が描いたか、ではなく
80歳の線だと信じて見ることに
意味があると思うのです。


私は、もう何年も同じテーマに取組んでいます。
それは「関係」です。

曲線で描く抽象絵画です。
制作は2段階の工程で行っています。
それぞれに発見のある工程です。

制作には長い時間がかかります。
その間の空白も
私には大切な時間です。

悩みながら、しかし、楽しんで描いています。


偶然、このブログをご覧の方は
とてもラッキーですね。

一緒に感じて頂けた、嬉しいです。

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2021年05月03日

なんでもないこと、でも、ハッとすること。 あなたに会う最後の日と思って。

あなたは、一日平均何枚の写真を撮っているのでしょうか。
最低1枚は撮るのであれば、年間365枚、
3枚以上であれば軽く1000枚は超える。
フィルム写真の時代であれば、年間1000枚撮ると言えば
写真を趣味としていると言えるだろう。おそらく。
フィルム写真は大抵1本24枚撮りだから
年間42本は最低使用することになる。
物理的にいってネガフィルム1000枚はちょっとした量だ。

しかし、この1000枚の内、残して置きたい私自身が
「いいなぁ」と思える写真はほんの数枚に過ぎない。
しかし、この数枚を残す痕跡はしっかりと残っている。
これは破棄しない限り消せない。
しかし、時間がたち改めて眺めるとその時外した写真が
気になったりする。

しかし、デジタルでは、こうした事は起こらない。
消したら、それまで、はい、さようなら。

コンテストで見る写真。
素晴らしいですね。でも、私には、撮った人の顔が見えない。

多くの人は、自分て撮っておきながら、数年経って
自分で撮った作品と覚えている人がどれだけいるのだろうか?

素晴らしい作品だが、その人の特徴が消され
単なる消費物として社会に消化される。

私は、ただ、撮った写真であっても、一つの作品として
一つ一つ大切に思ってみている。
目にした風景、映像、場面。
配置や構図にグッときたりビビッときたり
その場面に出会えただけで一期一会、感動です。

何時もあっている人だって、一期一会です。
明日会えるかどうか誰もわかりません。
今日が最後の日、そう思うと、全てが全く違って見えます。

おそらく多くの人はそんな事を考えていないでしょう。
忙しく働き、当然のように明日があると
思い込んでいる人にとっては。

今日が、あたなに会う最後の日、であれば、
あなたは、何を望み、何をしますか?
何か特別なことをしますか。
何時も通りですか。
どちらにせよ、あなたに送る視線は全く違うでしょう。

写真を撮る、とは

一期一会として見ている場面場面で
ハッとしたところを切り取る、
写真を撮るって、そんなこと。

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2021年05月02日

写真は私のライフワークだ。だから、プロとかアマとか関係ないね。撮りたいから撮っている。ただそれだけ。だから、道具も選ばない。

「本格的な写真が撮れる」との謳い文句で
新発売のカメラが売り出される。
いいですね。形もカッコイイし
欲しくなりますね。

しかし、それがあなたの写真の「質」を
向上させる要因になりますか?
解像度など技術的な部分は確かにあります。
しかし、それをあなたの作品の謳い文句にしているのであれば、
「あ、そうですか」ですね。
それなら、先端を追求されればよいですね。

まぁ、それも一つですね。

しかし、私は、あんまりこだわっていないかなぁ。

「カッコイイなぁ」と
そりゃあ思いますよ。確かに。
お金があれば買いたいなぁ。そりゃあ思いますよ。
でも、私が撮りたい作品はそれとは関係ないです。
機材は、自己満足だけです。作品ではない。

私は、今、使っているデジカメは
「ニコンのCoolPix」というコンパクトデジカメ
ジーパンのポッケにスルっと入る小型のカメラ。
いつでもどこでもスッと取り出せて早打ちマックのように
瞬時にボタンを押せる。街の写真家なら
理想のツール。と、私は思っています。

なにげなく撮る。その何気なさが
わたしの写真の原点、です。


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2021年04月27日

写真に優劣は存在しない。あるのは「好き」か「嫌い」かだ。

今回も「私の抽象芸術入門」から
不定期で書き込んでいます。

今日は、『写真』について。

25歳ぐらいからモノクロ用にフィルム現像からプリント引き伸ばし機までそろえて
独学で写真をはじめてから30年。
その辺でプロで活躍している20代の写真家よりは長く写真に関わっているわけです。
もちろん彼らと張り合うつもりは毛頭ありません。
彼らにもスゴイものを持っているからです。
つまり、写真に優劣は無いと思っています。
これは、私の持論です。

偶然にも、その人の周りに賛同する人がいたり
仕事になるニーズがあったり、
貴方が外見上魅力的なタイプであるなど
環境的、人的タイミング、時間のタイミングなどで
偶然にも、自分の写真に光が当たったに過ぎないと
私は思っています。
どんなパトロンがつくかで運命が決まるわけです。

だから、有名な写真家だからといって
スゴイ写真を撮っているわけではないのです。

あくまで個人的な意見です。
目くじら立てて反論しても無駄です。
私には、何の力もありませんから、
私をつぶしたところで貴方に何のメリットもありません。

あくまで個人的な意見です。
しかし、あながち嘘ではないと思いませんか?

30年以上、写真に向き合っていると、
実に、真摯な気持ちになってきます。

そして、何が撮りたいのか。
撮りたくないのか、わかるのです。

ただ、その感覚だけでシャッターボタンを押しています。

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2021年03月28日

私の抽象芸術入門 ー 孤高であること。私だけのもの

あなただけ分かっていてもダメなんです。
みんなが分からなくては。
だって、判断しようが無いでしょうが。

分からんといけないんでしょうか?

自分の撮りたいものを撮っているだけです。

「あっ、いいなぁ」
それだけの感覚で、いいんです。

それが抽象かどうかどうでもいい。
ただ、私が撮っているもの、
どう括られているのか分からないから
とりあえず、抽象、って事で。

観ている人が、どう思うのか
今の私には関係ないですね。

ただ、知らせられる方法で伝え
共鳴出来る人だけ
感じてくれたら、それでいい。

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色褪せた電柱のコンクリートの色。
夕焼けに照らされたアパートの壁。
何らかの気配を感じる空間に身を置くことで
何かみえるんです。

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対話なんだろうか。
何かと対話している、そんな感じ。

あれ、撮ってみなよ。
これ、いいね、
って言う具合に。

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空をじっとみる。
何も考えず、感じる、
ただただ、見る。

いつの間にか、空間と一体になる。
肉体から意識が抜け出し、自由になる、
そんな感じ。

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写真集「ただそれだけ」は、
私の親友に、そのためだけにつくった写真集。
普通は、作らないんだよ、なにしろ、孤高ですから。



2021年03月27日

私の抽象芸術入門  生きている以上 何か見ているわけだし 感じているはず。 であれば、皆、何らかの影響を人なり自然現象から受けているわけです。 自分から生み出されたとか何かおこがましい。 あなたはどうなの? 褒められたい為に誰かを真似ているの。 

誰かに見てもらい為に、あなたは描いているのでしょうか?
ある段階では、確かに、そうでしょう。

絵の勉強なんかしたことも無いのに
ある日突然描き始める。
天才だ。  誰が?
いくらでも、そして誰でも
メディアの力でいくらでも持ち上げられる。

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まるで、◯◯◯◯の様だ。
褒め言葉。

記憶の何処かで、その人がいたんでしょ?
別に驚かんけど。

本来、描く絵は
他人が見ても分からんぜ、正直な話、
それを分かったフリして、。。。

描くって自慰行為でしょ。
普通、見せられないよね。

本来、自分でこっそり楽しむ、もんじゃぁない?

私の抽象芸術入門は、
【私の】ための 【抽象芸術入門】 なのです。

私も、皆さんと同じ
多くの人に影響を受けています。

こんな事をあえてこのブログで書くことの意味は?

自分のためです。もちろん、人に読まれます。
何処かで誰かに気にして欲しいと思っているのか?

自分はクリエイティブな事をしている、
それを本気で思っている人に
ある意味で知って欲しい、って言うか

どうなんだろう。

絵を描く、
何だろう。
単に自慰行為では無く
対話なんだろう。私にはそう感じる。
誰と対話しているんだろう。
分かるかい?

感じたものを
ただ描く、着色する。

これが私の絵なんだろうな。

そこに感じてもらえるだけで嬉しいな顔1(うれしいカオ)


2020年10月11日

【私の抽象芸術 入門】 「嫉妬」は無くならない。 正直言って何時も嫉妬してばかり。でも、それも含めて自分を受け入れる。最近、そう思う。

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何かをつくる。
しかし、ただつくるだけ、では無いとおもう。
自分が誰かに見せなくても、誰かが見ているってこともある。
意識的に隠さない限り、何かすれば
誰かがみているわけです。

つくる人は、「別に見せるもんでも無いですよ」と
いいながら、結局、誰かに見せてるし、そでなくても
誰かに見られているわけです。

大抵、それを皆が意識無意識に関わらずそうしているように
思えます。

見てもらいたい。どこかに
作る側の心理があるはずです。

そして、いいね、を期待している。

そして、誰かと自分を比べていくことに
無意識ながらそうしてしまっているのだと
思います。

自分もそうだと思います。

でも、それも含めて
受け入れたいと最近思うようになりました。

無理に消せない。
素直に生きていきたい。


2020年08月12日

いまさら写真?といっているが、今や道具やソフトウェアでの加工次第でほぼ誰しもが写真家同様の作品ができる時代。雇われればプロ?コネやツテで仕事が出来ればフリーランス?多くはそれ。大御所の懐に取り入ってチャンスをつかめば写真家として名が売れるが、私は、傑作を撮る人は素人もプロも関係無いと思っている。それで金を稼いでいるとかいないとか関係無く、傑作は存在する。

「私の抽象芸術 入門」
今回は、写真です。
写真って、現実の世界を切り取って
どこが抽象なんだと思われるでしょう。
抽象ってもっと広い意味があります。
写真は確かに現実を一瞬切り取って
それを見せているわけですが、
切り取った時点で、それは、まさに
現実から切り取られたわけで、
その瞬間から現実ではなくなっているとも言えます。

わたしは、普段、なにげに街の風景を見ています。
用事で急いでいる時などは、目に入った風景は
見えていても実は見ていない。単に
目的の場所に行くための情報に過ぎない。

しかし、切り取られた写真は、どうでしょうか。
一瞬の時間の世界を、その状態の風景を
長い時間眺めているわけです。
そこに非現実の時の流れがあるのです。
その風景を通して、それを撮影した人の想い、
考えに思いを巡らします。

写真の鑑賞は、「きれいな花」「かわいい猫」
「美しい夕焼け」といった上辺の良さでは無く
その中にある撮影した人の内面まで踏み込んで
鑑賞できる写真が私は「スゴイ写真」と思えるのです。
例え、軽く一瞬を撮影したとしても
シャッターを押すまでのその人の性格
人柄があって、その行為をさせると思うのです。

私が、初めて写真を勉強したのは、この本からでした。
写真用語事典

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当時、1990年代、インターネットで何か検索する時代でもなく
写真もフィルム写真が全盛期でした。調べたり、勉強するには、
書籍しかありませんでした。しかも、今より勉強する書籍の量は
少なかったです。唯一、私が参考に出来たのが、この
「写真用語事典」でした。もっとも写真に必要な情報そのものは
必要最小限度で良いのです。用語の意味、表や数値の見方、ぐらいです。
特に、撮影での必要情報は、これです。
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絞り値とシャッタースピードの関係表
これを記憶しておくと、どの感度のフィルムを使っても
この関係で適性の設定ができます。機械式のカメラでは、
この情報が無いと写真は撮れません。

しかし、しかし、しかし、
今は、デジタルです。
しかも、画像の質は日増しに向上しています。
今更フィルムに戻る必要も無いと
個人的には思っています。
フィルムは環境にも悪いしね。

だから、今は、こんな絞り値、シャッタースピードの
関係なんか知っていなくても十分に写真は
撮れます。つまり、技術的な格差はほぼ無いと
言っても過言ではないでしょう。
多少の金と時間があれば、誰にでも技術の習得は可能です。
今は、皆が写真を撮ります。一億総写真家の時代です。

今は、「どうしてあなたは、この写真を撮ったのか」
が、より重要になるのです。
ハード面ではなくて、ソフト面がより重要になっています。

それこそ、作品があたなそのものなのです。

「私の抽象芸術 入門」では、
このことにこだわって進めていきます。

技術的な事が知りたいのであれば、他の優良サイトが
幾らでもあります。そちらをご覧になった方が良いでしょう。
ここでは、触れません。予めご了承ください。

今回は、「はじめに」と言う意味で書いています。
私の作品をご覧になって、共鳴したとか
同じ想いを感じて頂けたらなら、次回も
どうぞご覧になってください。
感想も頂けたら嬉しいです。



どうして あなたは シャッターを押すのか?

2020年08月10日

2020年9月19日(土曜日)、20日(日曜日)、おおぶ映画祭

今年で3回目になりますね。
私は、2回目から運営委員の一人として、この映画祭に関わってきました。

https://www.obufilmfest.net/

2020年06月25日

思い出は、私がしっかり覚えています。そうすることで、その人は私の中で生き続けます。

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この煎餅は、私の母の好きな菓子の一つです。
私自身、年齢を重ねる毎に、
いかに今まで親との対話が無かったことに
気付かされます。

母が、まだ幼少期の頃は、
行商の人が、魚や乾物などを売りに来たそうです。
当時は、物々交換だったそうです。
魚を売りに来た人は、米が欲しいので、
農家である母のところに来ては
魚と米を交換していったそうです。

行商の人の中には、お菓子などを売りに来る人も
いたそうです。この煎餅もその内の一つです。

母は、今は、スーパーで買います。
よく買って来るので気にはなっていましたが
そんな理由があったことは、最近まで知りませんでした。

昨日、私もこの煎餅を買って食べました。素朴で何か
懐かしいような、そんな味です。

互いにいつまで生きるのか分かりません。
だから、会うたびに会話を大切にしています。

母の記憶、思い出を知ることで
私の中で母は、生き続けるでしょう。

こんな当たり前の大切な事を教えてくれた人は、
私のパートナー(妻)です。
彼女との対話をとても大切にしています。
私は、話上手ではありません。もっぱら聞き役ですが、
日々良く話します。
時々、ケンカもします。でも、彼女のお陰で
生き方が変わったことは間違いありません。

彼女が私を変えてくれたように
私も知らないうちに誰かに影響を与えているのでしょうね。

自分が楽しく生きること、
きっとそれが良い影響になると良いな。




2020年05月17日

写真って自慰行為、だよね。 写真撮るのにそもそも何で学校に行ったり、誰かに教えてもらわないといけないの? カメラの使い方だけ本を見たらいいじゃん。誰かの真似して綺麗な写真撮っても それはあなたの「写真」ではない、ただの写真。 でも、こだわり過ぎている私は変人。 そもそも上手い写真撮れてるって見せびらかせている奴ら 私を含め 皆 自慰行為の自己満足 ぞくぞく   大義名分 綺麗事 偽善 卑猥の肯定

接点.JPG

私が「接点」にこだわっているのは、
二つの異なる世界を意識したからなのだと思う。

何人かの写真家は、おそらくそれを意識してはいるだろうが、
偉そうに私が言える立場でも無いし、語りたくもない。

ただ、どこかで、この感覚を分かって欲しい、というか
共有したい、というか
「あなたもその感覚、分かるでしょ」と
隣で同じようにシャッターボタンを押している君に
語り掛けたいけど、・・・

「おまえもか。そうだよな。わかるよ」

私は、何かを伝えたいのだろうか?
いや、違う。

何だこの違和感は?
何か面白い、
でも、皆、見ていない。視野に入っても見えていない。
皆、立ち止まらずにただ通り過ぎるだけ。
私だけ、立ち止まっている。

迷っているのか、私

皆が当たり前としている当たり前が見えない。
そして、皆が見えていないものが見えている私。

しかし、そこにある接点を私は見ている。
かろうじてつながっていることで生きている私。

私にとって写真とは、そんなもの



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