しかし、多くの読者は一期一会的な存在であることも承知しています。
それに、私の書く記事は、最近はほとんど自己満足的な捉え方をしています。
(そもそも自己満足で始めているのですが(笑))
作品が分かりやすく強く影響するものは、何かを知って、そこから何らかの活動を促す起爆剤的な存在でもあります。多くの場合、刺激を受け何らかの活動をしています。
私の作品はどうなんでしょう?観て欲しいと言う承認欲求が強かったところもありますが、今は、承認欲求を超えたところに意識があるようです。自分のツボにハマった事だけを表現の対象としている、そんな感じがしています。これが無いと多分自分を見失ってしまう、そんな想いでつくっていると思いますね。他人はただ観て通り過ぎる、何も反応無し、ある意味 関心無し、コメント無し、この状態は、正に「自分だけの世界」だと思います。他の人が入ることが出来ない領域、それを貴方が観ても何も反応出来ない世界、おそらく共感も出来ないでしょう。「日常のふとした瞬間、何気ない場面が何故か気になってしまう、私の周りの世界は私にとって面白い風景に囲まれている」凝視する瞬間にそれが見えて来ます。
写真を自分の活動として意識してから30年以上経ちます。
直接のアクションを起こすか起こさないかは別として、以前は誰かの承認を得たいと無意識的にでも感じていたんだろうと最近ふと思うのです。フランクの写真は多くの若い写真家を惹きつけました。私も同様です。マニアックな写真家の名前を口にして、さも写真に詳しい事を見せつけてイキがっていた頃もありました。自分は評論家でも研究者でも無い、だから知識で頭デッカチになってはいけないと感じ、感覚を研ぎ澄ます事に力を注ぎました。「普通に見過ごされそうな、極々普通のありきたりな風景ではあるが、しかし、じっと見つめると何かそこに不思議な構図が見えて来る」私の頭の中の何処かの回路が異常な動作をして私にこの意味不明な行動をさせるのか、それは知りません。
私が写真を始めた頃はフィルム写真が主でデジタルの存在すら感じられない時代でした。
その時の写真は一期一会、現像するまで分かりません。削除もできず無駄に残っているカットも多く、その無駄から良いものを選ぶ感覚でした。今とはおよそ感覚的に想像付かない選択でしょう。フィルム写真は確かにデジタルでは出せない何か趣きがあり私好きですが、今となってはデジタルの方がむしろ自分にあっているのかと感じています。まず、フィルムや現像にお金が掛からない、無駄なカットでフィルムを無駄にする事も無い、その分、資源を無駄に使わず現像などの薬品を使わないので環境にも優しい。それも私がデジタルを選ぶ大きな理由の一つです。また、撮影した写真をその場で確認できる事もデジタルの大きな利点です。見た風景と撮った風景は違います。思わぬ効果が出て驚く事も多々あります。デジタルの一期一会の瞬間です。
フィルムが当たり前の時代からデジタルが当たり前の時代の両方を経験出来たことは幸運でもあったな。この変化は、コロナによって社会のシステムが大きく変わったことの様に大きな変革であったと私は思います。今の20代だとフィルムは全く新鮮なツールに見えるでしょう。あえて面倒くさくてお金のかかる方法で写真を楽しむ逆行した行動は、今の私には合わないなぁ。それこそ金持ちの道楽で、本来的ではないと思います。まあ、これも好き好きですがね。
写真を鑑賞する時、何を読み取るのでしょうか。
写っている対象物は個々に具体的なモノです。それが何かと論じたりするのでは無く、構図や、雰囲気、醸し出される味の様な視覚感覚で感じ取られる不思議な力を感じて欲しいです。読み取ると言うより感じ取るのです。私が先生なら、まず、グダグダ考えるのでは無くとにかく撮る事をすすめるかな。感覚が麻痺するほど撮り続ける、日々意識することで何が撮りたいのか感覚が教えてくれる、写真を撮る事で自分が何と向き合っているのかわかって来ます。まぁ、私は先生では無いのでほどほどに聞いておいてください。
何らかの評価があって、需要があり、商品として価値を見出すことのみに視点を置くと、現代としてのアートがみえてきます。一つの市場に乗る事で社会的なブランドにもなりえます。いつの間にか周りの評価によってそのアートが定義され人格の形成まで世間によって作られてしまいます。評価のために作り続ける自分に気が付かないまま、社会から造り上げられてしまった自分に押し潰されながら「自分もどき」を演じてそして本当に自分がしたかったことがこれで良かったのかも解らぬまま社会に求められるまま結局歯車として社会に組み込まれます。本人はおそらく知らないまま死んでいくんでしょうね。社会の大きな力は、適材適所で彼らを使っています。私は無意識にそれを拒絶している。
写真集「きづかないふうけい」は、
誰一人、気にもしない風景に一人寄り添ったそんな作品に仕上がっています。
誰も気付かない風景に誰が評価するんだ、とあきれますが、私が気になっているから仕方の無いことです。これは私が切り取った「私だけの風景」なのです。このブログで少しだけ鑑賞頂けます。
整理してその時の想いを綴っておくことは私にとって必要なことなのです。
こうした一連の行為の過程を貴方が見ているわけです。貴方はラッキーですよ。ここまで読んで頂けたのは嬉しいです。それだけでもこの文章を書いた意味がありました。自己満足だと言っても、同じ様にわきおこる何かを何らかの形にできないものかモンモンとしている人がこの記事を読んでいるかもしれません。
評価があり価値があるのは、共通するある一定の基準が基になっています。ある一定数の同意がある事です。業界共通のコードなどがあり評価の一定基準を満たす事を求められます。それを植え付けられたり習得する事で市場にのるわけです。自分の味方になってくれる評論家がいると幸運ですね。評論家によって分かりやすいコードに置き換わることでより良く作者を理解してくれる訳です。多くの人からの支持で成長する作家もいます。
お金を払うにはそれなりの期待があるわけでそれを満たす何かがあるわけです。共通コードの価値を買うわけです。
私は絵も描いています。主に抽象画を描いています。
趣味なのか、と言えば、それで終わってしまいます。自己満足って言われれば、そう言うふうに思われても仕方ないなとは思います。しかし、自己満足というよりそうせざるを得ない欲求みたいなものが何処かにあるから、心の想いのはけ口でもあるのです。ただ、思うまま描いているので理屈で鑑賞するのでは無くそれを観て何かを感じて欲しいと言う表現の方が合っている。具体的なものはありません。感覚的に感じて欲しいと思います。
写真は具体的な現実の切り抜きですが、そこを通り越して抽象的に捉えてみます。
多分、ここのところがよく理解されていないため私の作品は、展覧会やコンテストを主催したりそこに応募しようとする写真マニアには受け入れられないと思っています。彼らのテーマ性や視点が明らかに異なるため、そもそも私の作品には見向きもしないからだと私は捉えています。だから、クラブや集まりに行っても浮いてしまいます。いたたまれなくて結局やめてしまう。草木や動物、絶景、家族風景、美女ヌード、物撮り、などなど。見た目は華やかであるし注目するし、共感もされやすい。誰もが写真というといわゆる「ばえる」写真に目がいってしまうのは一般的であるしおおよその写真を撮る目的や撮りたい写真とはこう言った対象であることは皆の共通認識にもなってしまっているわけで、そこからあえて外れてまで写真を撮ろうとも思わないし撮る意味を見出してもみない。その中での私の作品はおそらくかなり異質に見えるかもしれない。写真家の中には「ああ、そういう写真を撮る人もいますね。よくわからんけど」と発言する方もいます。そうです。私のようなタイプの写真を撮る写真家はいます。私はその彼らの影響を受けたことはおそらく間違いないと思います。しかし、これらの写真家はメジャー路線には上がってこないマイナーな部類です。淡々と自分の視点の赴くまま行動しているはずです。一般受けする写真では無いのでほぼほぼ注目される事もありません。逆にそれこそ「自分だけの風景」に没頭出来るとも言えます。写真とは、私にとっての写真とは本来そうあるべきだと思っています。
しかし、だからと言って一般受けする写真を拒絶しているわけではありません。綺麗な風景、可愛い猫ちゃんの写真も私は大好きです。写真はいろいろあっていいと思います。その中の一つとして私の写真もあるわけです。ただ、ばえる写真の中では埋没してしまう写真であることは確かです。だからこそ、あえて個別で語りかける必要があるのです。クラスでも声の大きい人とか人気者は目立つが大人しめの地味な人は注目もされないでしょう。ただ、一人ひとり話すと興味深いことは見えると思いますよね。それと同じです。
断片的に、想うままに書いてみました。
ここまで読んで頂き、本当にありがとうございます。それだけでも感謝です。
興味を持って頂けましたら、他の記事も併せて読んで頂けると嬉しいです。
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