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2022年09月09日

承認欲求を越えたところにあるもの

なかなか更新ができていません。記事を楽しみにされている方には申し訳ないです。

しかし、多くの読者は一期一会的な存在であることも承知しています。
それに、私の書く記事は、最近はほとんど自己満足的な捉え方をしています。
(そもそも自己満足で始めているのですが(笑))

作品が分かりやすく強く影響するものは、何かを知って、そこから何らかの活動を促す起爆剤的な存在でもあります。多くの場合、刺激を受け何らかの活動をしています。
私の作品はどうなんでしょう?観て欲しいと言う承認欲求が強かったところもありますが、今は、承認欲求を超えたところに意識があるようです。自分のツボにハマった事だけを表現の対象としている、そんな感じがしています。これが無いと多分自分を見失ってしまう、そんな想いでつくっていると思いますね。他人はただ観て通り過ぎる、何も反応無し、ある意味 関心無し、コメント無し、この状態は、正に「自分だけの世界」だと思います。他の人が入ることが出来ない領域、それを貴方が観ても何も反応出来ない世界、おそらく共感も出来ないでしょう。「日常のふとした瞬間、何気ない場面が何故か気になってしまう、私の周りの世界は私にとって面白い風景に囲まれている」凝視する瞬間にそれが見えて来ます。

写真を自分の活動として意識してから30年以上経ちます。
直接のアクションを起こすか起こさないかは別として、以前は誰かの承認を得たいと無意識的にでも感じていたんだろうと最近ふと思うのです。フランクの写真は多くの若い写真家を惹きつけました。私も同様です。マニアックな写真家の名前を口にして、さも写真に詳しい事を見せつけてイキがっていた頃もありました。自分は評論家でも研究者でも無い、だから知識で頭デッカチになってはいけないと感じ、感覚を研ぎ澄ます事に力を注ぎました。「普通に見過ごされそうな、極々普通のありきたりな風景ではあるが、しかし、じっと見つめると何かそこに不思議な構図が見えて来る」私の頭の中の何処かの回路が異常な動作をして私にこの意味不明な行動をさせるのか、それは知りません。

私が写真を始めた頃はフィルム写真が主でデジタルの存在すら感じられない時代でした。
その時の写真は一期一会、現像するまで分かりません。削除もできず無駄に残っているカットも多く、その無駄から良いものを選ぶ感覚でした。今とはおよそ感覚的に想像付かない選択でしょう。フィルム写真は確かにデジタルでは出せない何か趣きがあり私好きですが、今となってはデジタルの方がむしろ自分にあっているのかと感じています。まず、フィルムや現像にお金が掛からない、無駄なカットでフィルムを無駄にする事も無い、その分、資源を無駄に使わず現像などの薬品を使わないので環境にも優しい。それも私がデジタルを選ぶ大きな理由の一つです。また、撮影した写真をその場で確認できる事もデジタルの大きな利点です。見た風景と撮った風景は違います。思わぬ効果が出て驚く事も多々あります。デジタルの一期一会の瞬間です。

フィルムが当たり前の時代からデジタルが当たり前の時代の両方を経験出来たことは幸運でもあったな。この変化は、コロナによって社会のシステムが大きく変わったことの様に大きな変革であったと私は思います。今の20代だとフィルムは全く新鮮なツールに見えるでしょう。あえて面倒くさくてお金のかかる方法で写真を楽しむ逆行した行動は、今の私には合わないなぁ。それこそ金持ちの道楽で、本来的ではないと思います。まあ、これも好き好きですがね。

写真を鑑賞する時、何を読み取るのでしょうか。
写っている対象物は個々に具体的なモノです。それが何かと論じたりするのでは無く、構図や、雰囲気、醸し出される味の様な視覚感覚で感じ取られる不思議な力を感じて欲しいです。読み取ると言うより感じ取るのです。私が先生なら、まず、グダグダ考えるのでは無くとにかく撮る事をすすめるかな。感覚が麻痺するほど撮り続ける、日々意識することで何が撮りたいのか感覚が教えてくれる、写真を撮る事で自分が何と向き合っているのかわかって来ます。まぁ、私は先生では無いのでほどほどに聞いておいてください。

何らかの評価があって、需要があり、商品として価値を見出すことのみに視点を置くと、現代としてのアートがみえてきます。一つの市場に乗る事で社会的なブランドにもなりえます。いつの間にか周りの評価によってそのアートが定義され人格の形成まで世間によって作られてしまいます。評価のために作り続ける自分に気が付かないまま、社会から造り上げられてしまった自分に押し潰されながら「自分もどき」を演じてそして本当に自分がしたかったことがこれで良かったのかも解らぬまま社会に求められるまま結局歯車として社会に組み込まれます。本人はおそらく知らないまま死んでいくんでしょうね。社会の大きな力は、適材適所で彼らを使っています。私は無意識にそれを拒絶している。

写真集「きづかないふうけい」は、
誰一人、気にもしない風景に一人寄り添ったそんな作品に仕上がっています。
誰も気付かない風景に誰が評価するんだ、とあきれますが、私が気になっているから仕方の無いことです。これは私が切り取った「私だけの風景」なのです。このブログで少しだけ鑑賞頂けます。
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整理してその時の想いを綴っておくことは私にとって必要なことなのです。
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こうした一連の行為の過程を貴方が見ているわけです。貴方はラッキーですよ。ここまで読んで頂けたのは嬉しいです。それだけでもこの文章を書いた意味がありました。自己満足だと言っても、同じ様にわきおこる何かを何らかの形にできないものかモンモンとしている人がこの記事を読んでいるかもしれません。

評価があり価値があるのは、共通するある一定の基準が基になっています。ある一定数の同意がある事です。業界共通のコードなどがあり評価の一定基準を満たす事を求められます。それを植え付けられたり習得する事で市場にのるわけです。自分の味方になってくれる評論家がいると幸運ですね。評論家によって分かりやすいコードに置き換わることでより良く作者を理解してくれる訳です。多くの人からの支持で成長する作家もいます。

お金を払うにはそれなりの期待があるわけでそれを満たす何かがあるわけです。共通コードの価値を買うわけです。

私は絵も描いています。主に抽象画を描いています。
趣味なのか、と言えば、それで終わってしまいます。自己満足って言われれば、そう言うふうに思われても仕方ないなとは思います。しかし、自己満足というよりそうせざるを得ない欲求みたいなものが何処かにあるから、心の想いのはけ口でもあるのです。ただ、思うまま描いているので理屈で鑑賞するのでは無くそれを観て何かを感じて欲しいと言う表現の方が合っている。具体的なものはありません。感覚的に感じて欲しいと思います。

写真は具体的な現実の切り抜きですが、そこを通り越して抽象的に捉えてみます。
多分、ここのところがよく理解されていないため私の作品は、展覧会やコンテストを主催したりそこに応募しようとする写真マニアには受け入れられないと思っています。彼らのテーマ性や視点が明らかに異なるため、そもそも私の作品には見向きもしないからだと私は捉えています。だから、クラブや集まりに行っても浮いてしまいます。いたたまれなくて結局やめてしまう。草木や動物、絶景、家族風景、美女ヌード、物撮り、などなど。見た目は華やかであるし注目するし、共感もされやすい。誰もが写真というといわゆる「ばえる」写真に目がいってしまうのは一般的であるしおおよその写真を撮る目的や撮りたい写真とはこう言った対象であることは皆の共通認識にもなってしまっているわけで、そこからあえて外れてまで写真を撮ろうとも思わないし撮る意味を見出してもみない。その中での私の作品はおそらくかなり異質に見えるかもしれない。写真家の中には「ああ、そういう写真を撮る人もいますね。よくわからんけど」と発言する方もいます。そうです。私のようなタイプの写真を撮る写真家はいます。私はその彼らの影響を受けたことはおそらく間違いないと思います。しかし、これらの写真家はメジャー路線には上がってこないマイナーな部類です。淡々と自分の視点の赴くまま行動しているはずです。一般受けする写真では無いのでほぼほぼ注目される事もありません。逆にそれこそ「自分だけの風景」に没頭出来るとも言えます。写真とは、私にとっての写真とは本来そうあるべきだと思っています。
 しかし、だからと言って一般受けする写真を拒絶しているわけではありません。綺麗な風景、可愛い猫ちゃんの写真も私は大好きです。写真はいろいろあっていいと思います。その中の一つとして私の写真もあるわけです。ただ、ばえる写真の中では埋没してしまう写真であることは確かです。だからこそ、あえて個別で語りかける必要があるのです。クラスでも声の大きい人とか人気者は目立つが大人しめの地味な人は注目もされないでしょう。ただ、一人ひとり話すと興味深いことは見えると思いますよね。それと同じです。

断片的に、想うままに書いてみました。
ここまで読んで頂き、本当にありがとうございます。それだけでも感謝です。
興味を持って頂けましたら、他の記事も併せて読んで頂けると嬉しいです。




2020年05月17日

写真って自慰行為、だよね。 写真撮るのにそもそも何で学校に行ったり、誰かに教えてもらわないといけないの? カメラの使い方だけ本を見たらいいじゃん。誰かの真似して綺麗な写真撮っても それはあなたの「写真」ではない、ただの写真。 でも、こだわり過ぎている私は変人。 そもそも上手い写真撮れてるって見せびらかせている奴ら 私を含め 皆 自慰行為の自己満足 ぞくぞく   大義名分 綺麗事 偽善 卑猥の肯定

接点.JPG

私が「接点」にこだわっているのは、
二つの異なる世界を意識したからなのだと思う。

何人かの写真家は、おそらくそれを意識してはいるだろうが、
偉そうに私が言える立場でも無いし、語りたくもない。

ただ、どこかで、この感覚を分かって欲しい、というか
共有したい、というか
「あなたもその感覚、分かるでしょ」と
隣で同じようにシャッターボタンを押している君に
語り掛けたいけど、・・・

「おまえもか。そうだよな。わかるよ」

私は、何かを伝えたいのだろうか?
いや、違う。

何だこの違和感は?
何か面白い、
でも、皆、見ていない。視野に入っても見えていない。
皆、立ち止まらずにただ通り過ぎるだけ。
私だけ、立ち止まっている。

迷っているのか、私

皆が当たり前としている当たり前が見えない。
そして、皆が見えていないものが見えている私。

しかし、そこにある接点を私は見ている。
かろうじてつながっていることで生きている私。

私にとって写真とは、そんなもの



2020年03月25日

「接点」と言うタイトルの写真集です。接点って何だ? そんなことを感じてくれたらそれでいいと思います。

接点.JPG

私の写真の中に流れる一つのテーマが
「接点」です。

接点って何だ?

あるものとあるものとの接する点、
それが接点。
あるもの、それが、外の世界、
あるもの、それが、内面の世界、それらが
接するところ。
海外と日本、あなたとわたし、
見ていると見られている、
二つの対象が接する点を撮りたい。

私は、4年ほとカナダに住んでいたことがありました。
そこで見た身近な風景も何枚か撮っています。
中には、日本とよく似た風景もあり既視感を
感じます。そういう狙いもあって
この写真集をつくりました。

当たり前の風景です。でも、そこには、
私もいます。

いつも問われる、「どうして、この写真を撮ったの?」と。
その質問はどうかと思う。
どこを撮った、と言うよりも、そこから何を感じるか、
ですよね。こんな話をし始めると嫌がられるから
ただ、ニコッと笑って、「気に入ったからね」と
何か、答えにもなっていない答えを毎回返しています。

興味ある人には見せています。「何だその程度か」と
そんな顔をしている人もいます。それでいいと思います。

見て、「うわぁぁぁぁぁぁぁ」となる人もいます。
不思議です。

つまり、接点って、そういうことです。
ちょうどいい感じに接触する点、それが接点です。

いつも、そんな風にセカイを見ています。



2016年10月11日

接点写真の接点とは その15

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さて、接点の話しに戻ります。いろいろ話してみましたが、
結局のところ写真に必要な要素は絵画と同様、
構図という、ものの配置、その関係、位置関係で、
人はそこに何を感じるかということに
つきつめて考えると行き着くのかな。
生きるために必要な空間認識みたいな
ものとものとの配置を意識している。
何でこれがここにあるのだろうと思ったり、
それが心地よいものに見えたり不快に見えたり
いろんな感情が入り混じってシャッターを押す。
良くも悪くも印象に残るものはやはり
何か気になるものであり
それが初めて見た風景でも親近感覚える既視感なのだろうが
私の言う接点写真の接点とこの既視感は少し違うのです。
確かに同じグループかもしれないが
私の言う接点は写真としての存在価値を問う存在なのだ
と思うのです。
見てからシャッターを押すまでに間に起こる現象、
視覚情報が処理されシャッターを押そうとする行為を
起こさせる何かがそこにある。
それはまさに意識的に行われる。
だか、写された写真を見ると
漠然と目に見える場合とはどこか違うのです。

つづく














2016年10月04日

接点写真の接点とは その14

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何かのコンテストや賞が付くもので評価された人だと思うが、
それは以前にも説明したように才能やセンスよりも
損得の方が大きいと思う。
賞を付ける団体でも話題性を持たせ
団体に多くの利益をあたえる人材を選ぶはずです。
それは団体にとって必要な才能でありセンスであって、
その人に必要な本当に必要な才能とかセンスではない
ように思えてしまう。
団体にしても社会を動かしている大きな力にしても
社会をある方向に向けたいと権力者が思えば
それに合うように流行が変わったり
イメージを広めることができる。
権力者の考えに気付かれないように
密かにイメージを流せるわけだ。
そうした宣伝要員としてアーティストを作り上げる
ことは可能だ。純粋なアーティストは
自分の才能が評価されたと
勘違いして知らないうちに
権力者の操り人形とか広告の材料としての商品として
扱われることだろう。そしていつしか
純粋なアーティストも権力者側の人間になっていく。
それに疑問を持ち
立ち向かおうとするアーティストはいつも
簡単に消されていく。
だから1つの作品を見る場合、
それが有名無名とか〇〇賞を取ったとか、
この写真家の撮った写真は〇〇万円だとか
そんな飾りは全部取って
自分が本当に「これは、良い」と思う写真を
見出す力を養って行けば良いと思う。
どんな人が撮ってもそれが
自分にとっていいと思える写真ならそれは傑作です。
一人一人が能動的に思考という行為をしていくことで
自分にとって良いものを選択できるようになると思うのです。

つづく














2016年09月27日

接点写真の接点とは その13

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雇われて写真を撮っている人は
本当に自分の撮りたい写真とは別の写真を撮っていることでしょう。
それが時に違法な写真になってしまうこともある。
それにウソの写真を作り上げてこれが真実です
と見せることも時にはしているでしょう。
画像処理しなくても文章を少し加えるだけで
その意味する対象が180度変わってしまう事もある。
それは写真家そのものにもいえる。
確かに撮る技術は必要だが
最近はコンピュータを使えば小学生でも、
どんな写真でもよく見せることができる。
センスの問題だといっても
それを補うように、
よく見せる撮り方とか
センスがあるように見せる撮り方を解説したテキストが
巷にあふれている。
それを利用すれば、写真好きな人であれば
皆がいいねと評価する写真はいとも簡単に撮れる。
そうだとすると
メディアで取り上げられているいわゆる有名な写真家と
呼ばれる人たちは
どういう基準で選ばれているのか、
ということになる。

つづく














2016年09月20日

接点写真の接点とは その12

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もし、生活をかけてそれをするとき
評価はやはり無視できないが
自由度は低くなるでしょう。
自分は結局のところ
自己満足のために撮っているとしか見られません。
それは否定できないところです。
主に発表しているところはネット上だけだし、
友人ぐらいしか評価しないような写真です。
発表しているといってもネットにあげているだけだろ、
と言われればそれまでです。
今、唯一出来ることは
ネットで発表するか友人にフォトブックを送るくらいです。
しかし、それでも写真は好きです。
他人から見てナニと思われる対象でも
自分が面白いと思えるものを撮り続けていたい。
見てくれる人が1人でも面白いなと思ってくれるなら
それでもいいと思っています。
好きなように撮るのが一番いい。

つづく














2016年09月13日

接点写真の接点とは その11

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高校生の頃は実際のところよく分からずに撮っていました。
闇雲にといった感じです。
誰かの撮影スタイルを真似てみたり、
彼らが使っているカメラを使ってみたり、
よく分からないときは形から入ることもしてみました。
その中で少しだけわかったことを
少しずつ実行して
今の撮影スタイルになっていったんだと思います。
しかし、自分のスタイルが確立するのと
社会的評価は一致するとは限りません。
確かに評価を無視したところには
自己満足でしかないですが
評価ばかり気にしていても
それが本当に自分スタイルになっているか
分からなくなってしまうこともあるでしょう。
相手が好む写真を撮るのも1つのスタイルですが、
これが撮りたいというのもスタイル。

つづく











2016年09月06日

接点写真の接点とは その10

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写真は単純に面白いです。
その点については無理に言葉にしない方がいい。
続けていると、何をやっているんだか、
と呆れてしまいますがそれでも面白い。
何が面白いと聞くなら、
じゃぁ実際撮ってみなよといいたい。
言葉じゃないんだね。
だからこの接点を説明するのは正直苦労する。
多分まだまだ十分に伝わっていないので
この後も続けるつもりです。

つづく












2016年08月30日

接点写真の接点とは その9

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そうなると何気無い日常の場面でも
ジーッと見ていると、その内、何か引っかかる要素が、
ニョキニョキと出てくる。
そして気がつくと何だかおもしれーじゃぁねーかー、
と感じてくる。
ホホー、ちょっとこの角度で撮って見よう。
ホホーいいねって感じで。
でもその場でそう感じても
実際プリントしてみるとがっかりしたり、
逆にいいねと再発見したり、いろいろです。
毎週毎週そんなんことを数年間していると
確かに見方が変わってきます。そう感じる。
見ているもの全て撮りたくなる。
そんなことは無理だけど全て撮りたい。
全てすばらしと思えてくる。
自分が気になった場面は記憶しているが
それも時間とともに少しずつ変化したり美化したりする。
それでも好きな風景は残っている。
日常見る風景にそれと似た場面に出くわすとハッとする。
記憶が呼び起こされる。そして、
今目の前で見てい風景と記憶している情報としての風景が
バーンとぶつかるわけです。そして化学反応が起こる。
その繰り返し。
歩いていてそういう状態になるとシャッターを押します。
全く初めての風景であってもどこか自分の中で
心地いい何かが発せられればやはりシャッターを押します。
やはり気になるからです。
街でも撮影するといっても
何も特別なものを探して撮るわけではない。
普段、皆が見ているもの散々見て見飽きているものを
あえて私はよく見る。
ちょっと後ろに回って見たり
横から見たり少し見方を変えただけでも違うのです。
変えなくてもひたすらじっと見る。
すると何か気になってくる。
そこを見つけるのがまた面白い。
それをひたすらやる。
接点写真の接点とは
このあたりからきているんじゃぁないかな。

つづく










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