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2023年10月14日

私の創作行為は、誰も知りたくも無いでしょう。そもそも私の作品自体に関心すら無いでしょうね。今の私にはそんなことはどうでもよいと思っています。自分にとって気に入る存在、そこを大切にしています



変化が無い事に、その様な状況下で何かを感じ取るのは至難の業ですが、そこから何かを見出すことができた時は、自分の中で「スゲェ」と思ってしまうものです。しかし、変わらないといっても同じでは無いのです。変わっていないと錯覚しているだけなのです。
映画に非日常性を求めるのは現実の社会で何かを見出せなかったからでしょうか。

今回も自分の為に書いています。
このブログにたまたま辿り着いて来た方には、この長い文章を読む気力も興味も時間も無いのでおそらく最後まで読まないと思います。その事を想定して今自分が思っている本心を正直に書いていきます。興味ある方はそのままお読みください。

IQの高低は、確かに評価基準の一つですが、一側面に過ぎないことも確かでしょう。身体能力の高低もあるし、サバイバル本能の高低もあるし、一つの機能だけを殊更騒ぎ立てるのは仕方のない事かもしれませんね。写真のような精密な描写が出来る人だけが絵画的才能が高いと評価されるとしたら絵画の世界は狭い視野しか持たないつまらない世界になります。私はこの世界に生まれた人には何らかのそこに存在する理由があると思っている人です。どんな些細な事でもその人にしかできない何かを持って来ていると思うのです。自分を基準に相手を見ると高低差しか見えない人とそれぞれいるなぁと思える人とで人生の楽しみ方が変わってくるんだろうなと感じています。差しか見えない場合、同時にそこには損得勘定が働いているようにも感じます。人間ですから自分も含めそう感じると相手を非難したりするようになります。そういった感情に浸ると逆に相手も自分をそんなふうに思っているんだろうと思うようになってしまいます。そうなると生き辛くなります。そう感じていた時期がかなりありました。親戚の死や親の高齢や自分も還暦が近くなって「死」について考える機会が増え「一期一会」の意味を自分なりに自分の言葉として考えるようになりました。一期一会を感じると怒りも悲しみも大幅に軽減されとても気持ち良く生きられます。身近な人との別れ、それは関係が無くなり会わなくなることや旅立っていくことなどありますが、そういった事も含めて人生なのだと捉えると気持ちが楽になります。それを無理してそう思い込むのではなく自然と受け入れるようになって来たと最近感じるようになりました。一生懸命練習してもなかなか上手くいかない。それは今はそのタイミングでは無い、時期を待てという事なのかと捉えると諦めずに続けていこうと思えるようになります。ずるい事を先回りしても自分にその能力が備わっていなければ結果失敗します。今、上手くいってなくても続けていく事でその時期が来れば上昇の風に乗ることが出来るでしょう。それを信じています。

知識の積み重ねや論理的思考を鍛え上げた上で更に柔軟な発想力と創造力に長けた人、いわゆる天才的な人は確かにいます。学問や科学技術的な分野の人です。同じ様に芸術の世界にも並外れた能力や技を持つ人がいます。天才的といわれる人ですが、この人は前者とは趣きが異なっているように私には思えます。あくまでも個人的な意見です。前者と後者は明らかに路線が異なっていると私は感じます。学者でも評論家でも無い私には言葉足らずで上手く伝えられません。あくまでも今まで生きてきて感じてきた感想です。柔軟な発想で楽しくこの世を生きている人にとって目に映るこの世の景色は私とは異なる事でしょう。同じものを見ていてもきっと違って捉えているのでしょう。どちらが良いとか幸せとかそれは決めることはできないと私は思います。いろいろあってそれで良い、と私は思うのですが、必ずしも相手はそう思っていないことがほとんどです。自身にしても今日と明日では異なると感じます。私自身上手く伝えられないと言いながらこうして記事を書いているのはどういう事なのか、自分なりに思いますが、やはり、自分自身の為の記録なんだろうと再認識しました。自分が今想い考えたことを自分自身が忘れないように書き留めておこうと思ったのです。あと何日、この世の景色を見ていられるのでしょうか。大好きなパートナーもその時が訪れば旅立つことになるのです。今は自分に触れる全てのものが愛おしく感じています。ここで生きているその事自体に特別な想いがあります。

誰かに見せる、そして誰かが見た瞬間にその対象が作品として成り立つことになるのでしょう。
誰かに見せる、という行為は、それがアートを含めどんな行為であっても人に見せる行為の動機には承認欲求が必ず含まれているんでしょうね。そうでなければ人に見せたいとは思わないはずなんです。見せたいから見せる。見せたくないから隠す。アーティストでもその使い分けはしていることでしょう。見せたくないものは、そのアーティストにとっては大切な何かなんでしょう。大切なものかその人にとっての恥部か、どちらにしても人には見せたくないのです。その人にとってのそれは未だ作品と位置付けてはいない存在だと思うのです。だから作品とは人に見せるものなんです。作品は、そのアーティストが見せたいものですが、公開しても知られなければ、そこにあっても存在していないのと同じようです。社会ではアーティストの意向に関わらず社会にとってのニーズが無ければ一般的に一部の変わった人にしか目に留まりません。多くのアーティストの作品はそうです。私もその一部です。

分断がおきています。少なからずそう叫ぶ人がいるのでさほど驚く事でも無いでしょう。考えるべき事は、その事に翻弄されているか否かなのでしょう。影響力がある人がメディアで叫ぶとそちらに私達は視線が向いてしまいます。分断良く無い、何とかしないといけないですね。とか、分断は避けられない、少数側を擁護しなくてはいけないですね。とか、そちらに視線が向いてしまいます。優位に立っている人が分断についてことさら強調しています。分断を差別といったり格差といったり言葉を変えそこにあたかも境界線がある様な言い方をしています。「現実にあるんだからしょうがないだろう」と言ってしまえばそれまでですが、その事自体に洗脳や誘導があったりします。裸の王様みたいにそこにある、と言い張れば存在していなくてもあたかもそこにあるかのような思い込みをしてしまうのでしょう。格差にしても差は、力を持ったものがつくりあげているのでしょう。少数派や弱者にその差を植え付けます。多数派や強者に歯向かわないようにするためです。戦意を喪失させ無気力化させるのが狙いです。そうしておいて弱者支援って違和感があります。分断することで誰が得をしているのか、俯瞰して見る視線は必要かと私は思っています。人は個々に違います。それをどの様に意識することが大切です。違いを違いとして意識することです。無理に同調したり、平等感をもたせたり、皆んな仲良くとか、そう言った偽善的な上辺だけの取り繕いではなく、もっと本質な事、自分のことをしっかり考え、それと同じくらい相手のことも考える姿勢といったコアな本質に目を向ける行為が求められているのかなと感じるのです。とても言葉足らずです。想い感じていることを上手く伝えられません。
わざわざ分断させておいて、それをことさら問題視して差別や区別を助長して争わせたり偽善的に擁護したり、何処か本来性から外れた方向に社会が進んでいるように仕向けているように感じます。

今、ここで書いていること、これは、別に誰かに頼まれて書いているわけではありません。今この瞬間、書きたい書いておきたい。書いておかなくては忘れてしまうから書いているんだと思うのです。今、自分が考えたこと、少なくとも自分の気の済むまでの間は、これを書き残しておきたい。結局、それは自分が今ここに居て考え書き残した事を誰かに覚えていて欲しい承認欲求でもあるのでしょう。それでもいいんです。人はそれぞれ何かを残そうとします。母親は、編み物が好きです。得意でもあり彼女のライフワークでもあります。昔はいろいろなものを制作していましたが、高齢になり今は一日に巾着を一つつくるのが精一杯です。ハンドメイドはプレゼントとしては最高だと思っています。その人の存在を感じるからです。料理が好き人は知人に料理を振舞うでしょう。私なら絵と写真かな。歌が好きな人は歌を歌い相手に感動をあたえます。ハンドメイドのプレゼントが苦手な人もいます。重荷に感じるそうです。
高価なモノを購入してプレゼントする事に慣れきってしまうとハンドメイドは陳腐に感じるでしょう。人それぞれ想いは異なります。私は、
自分の時間を使ってこうして書いています。書きたいから書いておきたいから書かずにはおられないから書くのです。
その根底にはやはり自分が今この場所に存在している想いを残したいという承認欲求なのでしょう。そんなもの何れ無くなるわけですがそれでも書いている自分がいます。不思議です。

結局、目の前の事しか関心無いでしょう。一歩先の事とか脇道に咲く花を見る余裕が無いのでしょう。自分もそうです。必要があったり、行動を促す関心のある事でしか、そもそも見ない。

雨上がりの夜空を見上げる。そのまま星空に溶け込んでしまいたい。


映画「あん」で、徳江と言う名の女性が言った言葉が記憶に残っています。

「私達はこの世を見る為に、聞くために、生まれてきた。この世は、ただそれだけを望んでいた。
…だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ。」

自分が自分の存在っていったい何だと分からなくなった時、疲れ果てて夜空を眺めます。雨上がりの澄み切った星空に自身が吸い込まれそうになります。自分は一部でもあり全体でもある。溶け込んでいて分けることはできない何かなのだろうなと感じるのです。
そんな時にこの映画に出会いました。徳江さんの言葉に頷きました。自分で解釈して何かを発するとどうしても綺麗事の様に聞こえたり、何か上か目線的に語っている様に見えたり、言葉の表現に乏しい私には誤解を招いてしまうので、言及はしません。興味あれば一度ご覧下さい。

あん

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自分の為に書いているブログですが、誰かが見ているという前提で書いています。

見ていないけどそこにある風景03.jpeg





私は、
「関係」というテーマで絵を描いています。

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私は、研究者でも評論家でもありません。純粋に自作を探求しているだけです。あえて言葉にして他者に伝えるなら「関係」が思い浮かびました。
私の創作行為は、誰も知りたくも無いでしょう。そもそも私の作品自体に関心すら無いでしょうね。今の私にはそんなことはどうでもよいと思っています。自分にとって気に入る存在、そこを大切にしています。

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