アートメーター
アートは理解するものでしょうか。
分かる、理解することはあるのでしょうか。
多くはそう思い込んで自己満足しているだけに過ぎないと私には思えるのです。
それなりに何らかの組織、協会、団体に関わったり、受賞等を経て認められ、それを後ろ盾にする事で世に知られる存在になりえているわけです。成功しているアーティストの話です。後ろ盾があるからこそ多くの人に知られてようやくその人の作品を観てみようと思うわけです。マスコミや専門家、評論家が褒め称える事で観る前から高い評価を受けている人だ、価値ある作品だ、だから下手な発言をすると自分が無知だと思われるから気を付けよう、と言ったバイアスがかかり、正常に作品に向き合えない事も確かにあります。私は、評論家のコメントは強制力だと思っています。純粋にその人の作品に向き合えないです。ただ、私は、評論家は必要無いと言っているわけではありません。彼等はアーティストを歴史の文脈で研究分析する上で研究者同様必要とされているからです。
例えば、出版されている写真集は評価された写真家が撮ったものです。しかし、この写真集が出来上がるまでに何人かのプロの専門家が何らかのカタチで写真集に関わっているはずです。写真はボタンを押せば誰にでも撮れる時代です。何を撮るか、構図や色合いなど、大して差は無いのです。だからこそ安心出来る後ろ盾が必要なのです。写真家は後ろ盾のおかげで何が社会的に評価されるのかを身につけていきます。後ろ盾に気に入られるとその様な撮り方で撮影するように自然と無意識的になっていきます。後ろ盾の意図を素直に受け入れ従順に振舞えば更に評価は上がります。そうでなければ社会的に消されます。この様にして後ろ盾の好んだカタチになっていきます。大物のお墨付きが付けば世間の目に触れる機会も増え、名の知れた存在になります。中には酔倒するようなファンもできるでしょう。アーティストは、後ろ盾自身にとっても生き延びるために必要な存在かもしれません。
社会の在り方を方向付けるのにアーティストは上手に利用されています。じゃあまともなアーティストは社会に無関心なのか、と問われそうですが、そうでは無く、作家自身に真摯に向き合っているのか、と言う問いかけなのです。アーティストは今を生きているわけです。社会の関わりを無視できないでしょう。関わりの中で自身の生きる意味を探す、その行為としての制作活動があると思っています。しかし、社会的に何の評価も受けていないアーティストは多いです。彼等は多方評価も受ける事なく消えていく存在です。彼等は関わりを持ちたいと思っていても社会側はあまり関心無い様です。私も社会的に何の評価も受けていないアーティストに過ぎません。それでも続けているのは、誰のためでも無く自分自身の為なのです。個人的には本当のアートはそこが原点だとおもっています。アートとかアーティストという言葉はそこには存在しないかもしれません。
アートは理解するものでしょうか。
分かる、理解することはあるのでしょうか。
多くはそう思い込んで自己満足しているだけに過ぎないと私には思えるのです。
私は、自分と向き合う為に描いています。作品を大切に思えるのは生み出した自分しかいないからです。少なくとも私だけはこの作品の擁護者であるべきだと思っています。作品は私に何かを伝えている様に最近感じ始めています。それが何なのか知りたい、ってことが今の関心のある事です。
ブログの記事では、その時その時で感じ方が微妙になったり脱線したりします。それは試行錯誤の現れで、それを感じる事が出来るのは正にこうして過程の記録をしてきた成果です。読み返して当時の心理状態、思考が分かります。自身にとっての良い探求資料です。自作の絵や写真の存在が何を意味するのか、何を私に伝えたいのか自分自身の探求なのです。その時その時の内からでる言葉、手が描く曲線、配色、それに、自分が切り取る風景の欠片の中に私は何を見つけるのか、ワクワクすることでもあります。
私は心に引っかかる何かを吐いて出したものがまさに私のアートなのかな、と思うのです。しかし、それは排泄物ではなく、私を私として確認できる何かとても大切な何か。何か自分に対するメッセージでもあると感じます。生まれてくる作品は私に何かを伝えているのです。大切な何かを伝えてくれているのですね。不思議さがあり、それを楽しんで制作しています。
「今まで、それを誰かに観て欲しい願望はあったのでしょう。今は、無いですね。何故なら、自分にとってのメッセージだとわかったからです。ブログに載せているのは、自分にとっての記録に過ぎません。時折読み返す事で、自身の成長過程が自身で確認できるからです。それ以上の目的は今はもうありません。たまたまこのブログに辿り着き何か興味を持って観ているのなら嬉しいですね。」。。。話を戻します。
事あるごとに頭の片隅にある引っかかりを思い出しジワっと染み込む不思議さを楽しんでいます。
私は、自分の作品が好きです。自分で観て自分でジーンと感じています。「これ、いいなぁ」と、自分で観てニヤニヤしています。そこには、自分自身に語りかける何かがあるのです。他人から何らかの評価を受ける対象ではありません。純粋に自分自身の感動用としての位置付けが高いです。だから、自分自身で鑑賞してお腹いっぱいになります。だから私は、他人の作品を観て感動することは減りました。ただ、自分が気付かない切り口を持っている人の作品は興味があります。それは、刺激になります。巧みさにはスゴイと感じます。しかし、多くは感動しません。ただ、全ての人の生み出した作品は敬意を持って観ています。それぞれ皆、大切な想いで生み出されたものだからです。それぞれはそれぞれの道を進んで欲しいと思います。何処かで接点があればそれは奇跡で嬉しい事です。だから、接点と言う言葉は好きです。
アートは理解するものでしょうか。
私にとっては、そこにあって感じるもの。
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