アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2024年11月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
写真ギャラリー
最新記事
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
やすねこアートさんの画像
やすねこアート
プロフィール

2017年09月02日

静かな時間    その2

11-静かな時間.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW121189

何のために描いているのか、
それは突き詰めて言うなら

自分のため、

巷では絵画クラブとか、造形クラブとか、陶芸クラブとか、
なんとか同好会とか、実に多くの集まりがある。
そのそれぞれに何かその集まりに
社会を変えてやろうとかといった想いを持った人が
どれくらいいるのだろうか。
もちろん、何かを発信し続けている団体や個人もいる。
この私であっても小さな気付きを伝えたいと
作品を発信している。
作品をつくるのは確かに自分のためであるが
その作品の発表の行為は外向きの活動だから
誰かが私の作品を見ることで何等かの反応が
あると期待しているが、それは単なる自己満足かも
しれないけれど、そうだとしても、それが、自分と
同調するにしても反発するにしても、その人にとって
単なる異物でしかないとしても、作品の存在によって
なんらかの反応があったとしたら、そのことだけでも
発信したことの意味があると思える。
これからもそのつもりで活動していこうと思う。
人は、考えるきっかけがあると、考える。

何だいったい。と

理解不能の最初の段階から、
何が描いてあるのか何だ何だと思っている内に
頭で考えているばかりではなく
全身で何を感じとろうとセンサーを
張り巡らせていることに気付く。
そして、そのうち、そうしている自分について
何で自分はこの絵が気になるんだろうと
考えるようになる。
何かを見てから考えるまでのパターンだが
そのきっかけを与えるものって何だ。
そう思うと、その一つとして
アートがあるのかなと思った。



2017年09月01日

静かな時間    その1

11-静かな時間.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW121189

前回まで、いろいろと絵のこと、アートのことをつぶやいてきた。
絵を描く行為は純粋だ。
だから、作家の行為に罪はない。私はそう思う。
ただ、それを利用する人達の行為にかかっている。
自分は今、社会のシステムから外れようとしているのか。
いや違う。システムの外に出ることはできないだろう。
しかし、システムの中のイレギュラーな存在として、
そうした生き方にシフトしてしまっていることは
確かかもしれない。たぶんそうだ。
私の意見など誰も見向きもしないとても小さな存在。
でも、存在は小さくても影響は大きくすることは
出来るかもしれない。
私は、私と同じような生活をしている人たちに
何か伝わるだろうか。
今回の作品は、全部、塗り終えていません。
しかし、個人的にはこの部分で
ストップをかけてよかったと思う。
出来るだけ、塗らずに描けるか挑戦してみた。
最小限度のため、といっても
始めからそのつもりでもなく
感覚的に塗っている中で、
形状が見えてくる、
それを繰り返しながら、着色を進めていく。


2017年08月31日

ぞうのいるところ    その5

10-ぞうのいるところ.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW121055

きちんと見るには、
見る側が全くの無防備だと対話がうまく進まない。
何が見えるか、背景にある乾いた土、色。
私たちは日常、下ばかり見ていないか、
どうして上を向かないのか。
誰かにコントロールされているのか、
まるで空気のように目に見えないくらい
日常生活にはびこっている様々なもの、
アートも結局のところそうした支配の一部。
支配する彼らの利害関係によって
美術の歴史など簡単に書き換わってしまうだろう。
そうした支配から抜けるには。

そんなことよりも自分にとってのアートを
自分の中にしっかりとした芯として持つ。
そして、まわりに流されず、
これだと言ったものをブレずに続けていくこと。

そして、見る側は純粋にいいなと感じるものに
目を向けるだけでいい。
皆がいいからといってそれがいいとは限らない。
一部の支配者が勝手に決め込んで
彼らの好みに自分の好みを合わす必要などない。

結局彼らのコレクションを拝んでいるだけだ。

気になる絵は、人それぞれだ。

誰かにとって気になる絵が描けたら私は幸せだ。
(完)

2017年08月30日

ぞうのいるところ    その4

10-ぞうのいるところ.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW121055

さて、作品に話を戻す。

対象となる象の顔の角度とか微妙で、
自分としては、いい感じと思っている。
偶然がかなり入っているが、
だからこそ、この味のある角度が出たのだと思う。
背景の土地の色はオレンジだ。
とても乾燥した感じ、象は土の感触を知っている。
しかし、私達は何処まで知っているのか。
はだしで土の上を歩いたのはいつだったか。
浜辺やプールサイドではない。
運動場などの人工的につくられた環境でなく、
自然むき出しの小石があって歩くと時々チクチクする
そんな土地。歩いた経験すらない人もいるだろう。
絵って、美術館の広いスペースで
空間の広さを感じながら見るのっていいな。
肌で空間を感じる。
静かに対流する空気を耳元でかすかに感じる。
そうした空間の中でじっと絵を対話する。
それもいいが、それを自分のものとして
自分の部屋の壁にかけてじっくりと椅子に座って
コーヒーを飲みながらゆっくりじっくり見る。
毎日毎日みていると、
一つ一つ違ったところに注意が向いたり、
まったく気が付かなかった別の側面が
見えてくるときもある。
これこそ究極の贅沢だと思うな。



2017年08月29日

ぞうのいるところ    その3

10-ぞうのいるところ.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW121055

賞が付いた作品を見せられると、
「なるほど、これがねぇ」
確かに上手に描けてる、が、
でも、この賞の本当の目的って何?
これは、本音と建て前でかなり異なるわけだが、
建て前は公認に価値付けとか
作家の育成とかいってるけど、
本音は、企画側は別に誰でもよいと思っている。
コンテストは、その企画団体が
何をしているのかを公に示し、
認知してもらうことが目的であり、
できるだけ多くの人にコンテストに
参加してもらうことで、この認知を広め定着させる。
そして、受賞者を優遇する。
メディアにも出し、名を広め活躍の場を広く提供し、
まさに賞にプレミアを付加する。
そして、この企画を定期的に行い定着化させることで、
それに関連するビジネスが発生する。
評価する人が有名人になりメディアに取り上げられると、
その企画の知名度がさらにあがり賞の価値も上がる。
評価する人、それを伝える人、広告する人、
それらの人たちに仕事が発生し利益が生まれ
さらにそれを目指す人たちが発生し、
それを育成する機関にまでビジネスの裾野が広がる。
参加する人も増え、受賞するための
様々なノウハウがうまれ教育機関にまで
ビジネスの裾野が広がる。
アイドル、音楽、踊り、お笑い、文学、マンガ、俳優、
芸術芸能あらゆるジャンルにおいて
このシステムが成り立ち、
上手く機能し循環している。

そして、その全てを上から操っている権力者の存在。

ボードゲームの駒としてしか見られていない私達の存在。
そこから、外れることはつまり、
ゲームにも参加していないことなので、
駒ではなく、ゴミだ。
テーブルの上からはじき出され、どこかへ飛ばされる。
どこに飛ぶのだろう。
私は、そんな飛ばされた駒かもしれない。
彼ら権力者が遊んでいるゲームに組み込まれ
動かされている。しかし、
それに気が付かないように複雑にルールが決められ
疑問を起こされないように様々なしかけで
私達を翻弄し試練をあたえ働かせ疲れさせ
考える意欲をそぎ落とし、
従順にルールを守るものを褒めたたえ
チカラを与え仲間を支配させ、
ルールを暴こうとする人を外れモノとして非難し
仲間外れにし、チカラを奪い排除していく。
そして、まだ知らない純粋無垢の人洗脳していく。
これは、私の独り言だから無視してもらっても構わないが、
立ち止まって、自分の頭で考え、
疑問に思うことは必要かと思う。



2017年08月28日

ぞうのいるところ    その2

10-ぞうのいるところ.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW121055

今回の作品は、着色も微妙に色を変えたり、
重ね塗りしたり、色の選択においても
難しい作品だった。なんとなく着色したものの、
何かひっかかりをもったまま少し距離をおいた。
気が付くと一年経っていた。
数か所着色したものの、
すぐに行き詰まりそれからまた一年経つまで
何もできなかった。
何も新しいものが浮上してこなかったのがその理由だ。
対象の形状の着色はある程度色の想定はあったが
背面については全く無かった。
だから、一番近い土のイメージで色を選んだわけである。
この作品の象、いつもは目が最初に浮かび上がると思うが、
実はこの象に限っては、鼻からである。
なぜか、鼻の部分がホント妙に鼻に見えて、

こりゃ象だ、

っと感じ鼻から辿って目を探したのである。
目以外のパーツが最初に浮上したのは、
今回の作品が初めてである。

二十歳のころ人生成り行き任せで、
それでいて何がやりたいかも明確でなく、
もがいていたのだが、
まぁ流れにまかせてしまっているところもあり、
生き生きと生きている状態ではなかったように思えた。



2017年08月27日

ぞうのいるところ    その1

10-ぞうのいるところ.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW121055

この作品は
私の中でも少し気になっている作品の一つだ。
この作品制作を機会に
着色の仕方に少し視点を変える行為が加わった。

私の作品の中で着色という行為は
制作のかなり重要な位置づけになる。
着色する箇所で内容が大きく変わるからだ。
特にこの作品は微妙な濃淡に注意した。
薄かったところを再度塗りなおした経緯もある。
着色はなやみながら着色した作品である。

線引きからあまり時間をかけずに
対象のイメージが浮上した。
その時は、比較的早く
この作品が仕上がると内心期待していたが、
結果的にいつも通り長い時間がかかった。
思っていた以上にすすまないとか
予想していたのとは違うということは
よくある。この対象のイメージは
線引きした線をほぼ全部使用して
構成されている点で、
難度の高いものとなった。

ちょっと、話はそれるが、
文中での「線引き」という言葉について
再度説明しておく。
このブログ中で使われる
「線引き」という言葉は、
私個人の造語であり、
一般に定義されている線引きとは異なる。
ここでいう「線引き」による形状は、
私の作品の作風となる描き方で
スケッチブックに一本の線を引き続け、
それが糸が絡まるようにぐちゃぐちゃと
絡ませながら、それでも離さず引き続け、
その線がスケッチブックから離れる時もあるが、
それでもそこから戻って更に
スケッチブックに引き続けてできた線の塊
のような対象を指し、「線引き」は、その行為を指す。



2017年08月26日

光と黒猫    その7

09-光と黒猫.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120949

さて、私の作品であるが、
背景は黄色で着色している。
これも、実際にぶっちゃけた話をすると、
心理的な視覚現象として黄色地に黒色は目立つのだ。
道路標識で注意を仰ぐ標識は黄色地に黒字だろう。
こうした色彩理論は知っていると
無意識的とはいうものの単に知識を思い出しているに過ぎない。
知っているとそれを的確に再現できるが
知っていなくても
それに近いパターンを見つけることは可能だろう。
私は、黒猫を描いた時点で、
この黒猫を際立たせるために、
背景は黄色地と無意識に思い出すだろう。

しかし、光の中にいる猫を描きたかったんだ。

私は、ついつい難解なタイトルをつけてしまう。
しかし、タイトルはシンプルであった方がいい。
着色する配色であっても色数が少ない方が
メリハリがあるが、偏りすぎもまた、禁物だろう。
(完)


2017年08月25日

光と黒猫    その6

09-光と黒猫.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120949

そして、これもまた誤解していることだと思うが、
私と貴方が違うように描くスタイルとか
感じ方は確かに異なるが、
そこに優劣があるとは思えない。
私がセンスが良くて貴方がセンス悪い
ということではないと私は思う。
一般的に言われている美的センスは
持って生まれたセンスではなく、
権力者の偏見で設定された物差しに過ぎない。
それをいち早く猿真似できたものが
評価されているに過ぎないと、私は思うのです。

考えてみてください。

生まれたとき、何がよくて何が悪いって
判断できますか?
確かに色彩理論の中で
生物学的に反応する色のパターンはありますが、
それをどう使うかはまた別の問題だと思うのです。
ある特定の色に異常に反応すると言っても
それは後天的にその配色に
トラウマ的要素が介入したに過ぎないんじゃあないかな。
有名になるとか、売れるとかは、
単に技術的な要因だけではなく
プレゼン力やマーケティング、営業力など
パフォーマンスの能力の方が大きい。
だから、私の様に誰からも相手にされていないアーティストは
本当の意味で純粋に余分なパフォーマンスをせず
自分のアートとして楽しんでいることになる。




2017年08月24日

光と黒猫    その5

09-光と黒猫.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120949

さて、猫を描くと決まると、
足とかしっぽの形状を探し始める。
形状の特定は、その対象が大きくなればなるほど
形状探査は困難になる。
しっぽにしったてそんなちょうどよい位置に
しっぽが表れるとは限らない。
無理やりこじつけても体が歪になってしまうので、
慎重に探さないといけない。
じっとスケッチブックを見つめ対話を続ける。
対話は、常に騒がしいものではなく、
沈黙の中でも起きる。
こうして対話していても、
いつも通り日常の生活の時間は過ぎていく。
そこにはいろいろなハプニングもあり、
サプライズもある。
気が付いていなくてもリアルな世界では
多くのことを体験している。
自分が無意識に選んでいるように見えても実は、
学習した知識がさり気無く手助けしているだろう。
構図にしても実体験や過去の経験の中から
気に入った構図の投影しているだろうし、
配色にしても以前に身に付けた色彩論の
カラーシステムに則って知識を総動員して
一見無意識的に行っていても
その背後で嫌らしくもこうした知識が
目まぐるしく動いていることだろう。
美的センスとか言っているが、
持って生まれたものよりも刷り込まれた偏見の方が
影響は大きいと私は思う。
誤解の無いように言っておくが、
誰でも訓練すれば写実的な技術は身につくはずだ。


2017年08月23日

光と黒猫    その4

09-光と黒猫.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120949

そうなると、
猫に見合う形状を探し始める無意識的な散策が始まる。

次々と浮かび上がってくる場合、
まずは、一晩寝かせる。
この形状で本当に良いか、
少し距離をおいて冷静になる。
そして、数日して、それでも、同じようなものが見えたなら
後はその見えた通りに着色していこう。
猫の着色は、始めから黒と決めていた。
しかし、真っ黒ではないところどころ白のあるブチである。
実際はそんな感じだが、これは黒猫として対処している。
猫の存在自体かわいいし、インパクトあるし、
ほとんどの人が好きなため、
本来題材自体NGだ。しかし、
私の描き方で一度猫を描いておきたかった。
絵が描けるということは幸せなことだ。
働いている人にとっては、
なかなか描こうとする時間が取れないだろうし、
仮に時間が取れたとしても疲れて描けないかもしれない。
メンタルが疲労し気力が吸い上げられ
描く気力がなくなってしまっているかもしれない。
実際私も、介護の仕事をしている時は
休みは体を休めるのに精一杯で
なかなか十分に描くことに時間が取れなかった。




2017年08月22日

光と黒猫    その3

09-光と黒猫.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120949

今回のこの作品の場合でも、
それがどちらかは、はっきりしていないところおもあり、
曖昧になる時もある。メンタルがギリギリのところで、
何か救いを求めている時もある。
何のためなのかどうでもよくなってくる時もある。
冷静であっても、自分の考えが
奇麗ごとに見える時もあるだろう。
メンタルギリギリでどうでもいいと思っている時の方が
純粋にこうしたい、こう描きたい、誰かのために描きたいと
思い感じながら描いているのかもしれない。
あまりにも純粋であるが上に思い出そうとしても
思い出せないことになる。
芸術の本質は、権力者は我々アーティストには、
知らされたくないだろう。
絶妙なタイミングで作家からだいじな記憶を
消去しているかもしれない。
のりにのって描いている時は質がみえていたのに
後になって思い出せない。
だから、どんな状態で自分が描いているのか
思い出せない。
何らかのチカラで封じ込まれてしまっているかもしれない。

さて、私は、スケッチブックを上下逆にして目を浮上させた。
その目は、以前に描いた魚の目とは違う、
鳥とも違う、もっと別の生き物の目に思えた。

一瞬パッと光った。

その時、私は、意図的に猫を描きたいと思った。


2017年08月21日

光と黒猫    その2

09-光と黒猫.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120949

洗脳は、芸術そのものにもある。
それは、芸術は純粋であるという見方だ。
これは、違う
ここでは芸術の対象として
絵を話題にするが
純粋なのは、描かれた絵そのモノであって、
それを描く作家、見る人、評価する人、
売買する人、誰一人純粋であるとは言えない。
およそ作家が描く行為ですら、
純粋であるとは思わない。
人間の感情はどちらかに傾いているわけではなく、
混在している。そういう意味で純粋ではない。

作家と画商との関係は、
映画やドラマにも登場している。
例えばドラマ「鍵のかかった部屋」
映画「アキレスと亀」に登場する画商が
皮肉っぽく描かれている。あながち嘘じゃぁないと思う。

さて、色を選択するのは、
とても慎重に行っていることも確かだが、
先にも言ったように身構えると何も浮上しない。
だから色にしても、イメージにしても、
出てくるまで気長に待つしかない。
力んでも決して良いものは出来ないと思う。

ある日、この線引きしたイメージのスケッチブックを
上下逆にしてみたのである。
すると、瞬時にして目が浮き上がってきた。
じっと見る。目はとても重要なパーツであるが、
何かイメージが欲しい場合、
無意識的に目を探している自分の目に気付く。
それが無意識の時もあるし、
具体的に目という明確な線をもとに
目に見えそうな形状を探している。


2017年08月20日

光と黒猫    その1

09-光と黒猫.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120949

この作品も時間がかかった作品の一つだ。
使用色は三色のみとシンプルな仕上がりだが、
着色までにずいぶんと時間がかかった。
時間がかかった理由は、対象が見えてこないことだ。
どんなイメージが浮かぶか期待しても
全く何も浮かんでこない。
線引きの段階で、その後の工程を
捨ててしまうものは多い。
これも結局その一枚かと思ってほおっておいた。
例えば、配色を考える場合でも、
なかなかイメージが浮上せず、悩むときがある。
身構えてしまうからだ。
配色にしても、構図にしても、身構えると離れる。
ただ見てスーッと入ってくるものでないといけない。
だから、身構えるのではなく、感じる事なんだ。
色には、先人がいろいろなイメージをつけている。
例えば、ピンクと女性を結びつけるものがよくある。
或いは、子供のイメージとか、ソフトな感じの淡うい薄い色、
薄い黄色とか、ひよこ色は幼児のイメージ、
このように、色に具体的なイメージが付いている。
これは、こうしたイメージがあって、
それを色と結びつけたのか、
色とイメージを作り、いつの間にか、
人がそれにそのイメージ洗脳させられたのか、
どっちだろう。ピンクは明らかに男性にとって取り入れにくい。
それでも最近は、ピンクに対しては、
抵抗力が以前ほどでもない。しかし、
私が子供のころは女性をイメージする色
或いは使う色は絶対に使えないし
使っているところを見られたくない。
そこには、他人の目、他人の評価があり、
見事に洗脳に引っかかたわけである。



2017年08月19日

転生    その3

08-転生.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120846

タイトルはかなり後になってから付けた。
3尾の魚にどんな役割を持たせようか考えてみた。
ピンと伸びた左上の魚、
これを主役にしようと思いました。
右にクリンと曲がった魚はサブ、
そして、下を向いた1尾の魚は主役の魚の抜け殻。
生まれ変わった主役の魚という設定。
背景は川である。
この作品も他の作品と同じく
着地点がこうなるとは最初から思っていない。
この絵の面白さは、描きはじめから何が描けるか
未知のところにある。
先の見えないところを手探りしながら仕上げていく。
人生そのものだ。

(完)


2017年08月18日

転生    その2

08-転生.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120846

着色は対話の時間だ。
外からのノイズがない夜の深夜がいい。
紙面を色鉛筆が擦る音まで克明に聞こえる
深夜がよい。
深夜に描くメリットのもう一つは
塗っていても向こうの世界と
つながりやすいことかもしれない。
魚の、のところは何とか構想は立てたが
結局のところ何も浮上してこない。
この時期は同時期に複数の作品を手掛けていたので、
4〜5年描いたり描かなかったり
煮詰まっていた作品で相当距離をおいていた。
その間、日常生活では、
転職したりして生活習慣も仕事に対する意識も変わった。
当時の意識そのものが変わってしまったようだ。
もっと楽に生きたい。
そう思うようになった。
当時は仕事で精一杯で休みは体を休めるだけ。
何もやりたくなかった。
そんな状態で絵など描けなかった。
そうして、年月が空いた。
作品は結果だけ見ると、
ああ、そこに青色が塗ってあるな。
それでおしまい。
しかし、そこを青で塗るってことを決めるに
これだけ時間がかかったといえるものがない。
魚は決まった、しかし、どう描こうか。
向きカタチ、何も浮かび上がってこない。
そこから更に何もしない時間が一年。
そうして、もう一年。そうして、もう一年。
他の作品も並行して制作していくことで
作品制作の刺激に繋がる。
そこからかなり直観的に魚の形状が浮かび出し
面白い構図となった。
私の作品は余白が多いが
作品の中にどのように余白をちりばめるか、
これも意外と意識すると難儀だ。




2017年08月17日

転生    その1


08-転生.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120846

さてさて、この作品は
線引きの後、着色するまでの期間が
非常に長かったものの一つだ。
ほぼ、一年強何も手を付けられなかった。
それより何も浮かび上がってこなかった。
それが非常に苦しかった。
線引きの段階で
「だめだ何も浮かんでこない。失敗だこれ。」
と感じていたものだった。
そのころ作品「魚の記憶」を手掛けていて
これは早い段階で着色がすすんでいた。
しかし、この着色のおかげで、
今回の作品にも大きな影響を与えた。
最初は目だ、これが影響した。
そして、対象が魚までみえてきたが、
そこで手が止まった。手が止まると、
襲い掛かる一言、

「何のために描いているの。」

描く意味が分からなくなってくる。
後頭部をいきなり殴られる恐怖。
何か社会に訴えるとか、
そんなんじゃないでしょ。
自己満足でしょ。
後ろからささやかれる。

「たいしたことしてないのに偉そうなこと言うな。」

何かパッと頭の中で開くんだ。
ポップコーンのようにポンと弾ける感じ。
ああ、これか。
なるほどな。
そう思うと試したくなる。
そして、ほお、と頷く。
物理の思考実験を
実際の実験へと移行するときの
ワクワク感に似ているのかもしれない。



2017年08月16日

ちぇりーれっどくりむぞん  その9

07-ちぇりーれっどくりむぞん.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120732

芸術にはチカラがある。だからこそ、権力者はそれを利用している。
芸術にチカラがあるから、それは底辺の私達一人ひとりにも
世の中を変えていくチカラがあることを示している。だから、
金や地位、名誉などでそのチカラを売り渡してはいけない。
そうしはものを越えたところにそのチカラを発揮すべきだと思う。
自分で発表の場を探し、自分でプロデュースし、自分の頭で
考え、発表し世に問うのだ。権力者お任せの企画で自分の作品を
無駄に発表するな。権力者は貴方たち芸術家を利用し私腹を肥やし
骨の髄までしゃぶるつもりだ。底辺から立ち上がるべきだと思う。
私は、底辺だが、底辺から立ち上がりたいと思う。


着色クリムゾンは抵抗の赤。
しかし、何の先入観の無い普通の人なら
赤い鳥である。それ以上でもそれ以下でもない。
なぜ、この色で塗ったのだろうか。
あれこれ言ってみましたが、
実際のところ何が描いたいかというのは
描いている時は何も考えず
無の状態で描いているのだと思う。
一日中ずっと描いているとあるところで
意識が朦朧とする。
気が付くと塗りながら寝ている。
塗りながら寝ている状態って何だろうと思う。
現実の世界から夢の世界の接点が
スーッといくその入り口のところなのだろうか。
その時、ちょうど気持ちの良い瞬間なのだろう。
その時に塗った色は気持ち良い色なのだろうか。
描いている時はそんなことがよくある。
メンタルも疲労するときがある。
何が描きたいか、これでいいのか、
自問自答はあるし、
いろいろなことを思い出したり考えたり
調べたり自分なりに精一杯のことをする。
つまりそれも自己満足なんだが、
そうしないと自分の作品を好きなれない。
さんざん悩みながら描く、
苦しいようで実は楽しいものである。
作品はどこで終わるか作家が決めないといけない。
作品はどこで終えても、
それが作家の意志であればそれが完成である。
完成といいながら心のどこかでは
ずっと未完成の強迫観念が付きまとう。
もう少し、もうちょっと。未練がましく
終止符が打てないと作品に締まりがなく、
傑作も駄作になりかねない。だから、
時に作品と距離を置き、時間をかけそして対面する。
作品は本来、時間なんだ。しかし、
見る側はそれは見えにくい。
見る側は全く逆から遡って、
作家の終点から始点の旅路を思い描く。
だから、いつまでたっても
作家と鑑賞者がかみ合わない点にでくわす。
このブログが作品の説明に
どれだけ役にたっているかはなはだ不安だが、
何を思い考えながら描きすすんできたのか
わかってもらえるかもしれない。
(完)



2017年08月15日

ちぇりーれっどくりむぞん  その8

07-ちぇりーれっどくりむぞん.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120732

私がこの作品のトリに
クリムゾン色を付けたことは
やはり、無意識に沸き起こる
抵抗の印なのかもしれない。
芸術がそもそもはじめから
権力者のツールとしてはじまったものなら、
芸術を権力者から取り戻すこと自体
意味の無い行為なのだろうか。
私たち作家は、一体何だろう。
権力者たちのためにせっせと
絵を描いているのだろうか。
絵は作家のものだ。
作家が生み出したものだ。しかし、
それも幻想で
マインドコントロールされた作家が
勝手に思い込んでいるだけかもしれない。
本当は、権力者が上から見下ろして
操り人形のように操っているのかもしれない。
ただ、作家本人に自分が操られていないように
権力者が配慮しているだけかもしれない。
権力者は決して本当のことを言わない。
言ってしまえば、作家は絶対に
作品などつくって富裕層に売ろうと思わないし、
作品に高い値など付けないだろう。
しかし、かといって多くの作家はそうはしない。
まるで有名になるのはそういうことだ
というかのように。だとしたら、
作家も共犯だ。

私の作品も富裕層が買い有名にでもなったら
権力者の思惑通り、シナリオ通りの成り行きになる。
私もあちら側の人間に成り下がってしまう。
反骨心ある作家が有名にさせられ、金を盛られ、
地位と名誉を盛られ、まやかしの愛を盛られ、
完全な腑抜けにさせられ操り人形になる。
そして、公の席で芸術を語り、自慢し、
成功者としてご機嫌な気分になる。

誰もが自分の作品をコンテストに出したがる。
賞をとりたがる。または、
有名な画家に褒めてもらいたがる。
つまり、自分の作品が公で認められることを望む。
それは、権力者が認めたってこと。
しかし、これは認めたんじゃなくて、
シナリオ通りの人材が表れただけにすぎない。
評価などは後でいくらでも書き換えられる。

曖昧なんだよ芸術って。





2017年08月14日

ちぇりーれっどくりむぞん  その7

07-ちぇりーれっどくりむぞん.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120732

メディアに登場する作家にしろ俳優にしろ
容姿や振る舞いを見ると、
一つの方向性というか
その権力者の好みが見えてくる。
権力者のコレクション的存在の
ある意味権力者がしている
ゲームの駒にすぎないことが見えてしまう。
その作られたシナリオが作られる作品を
大衆は楽しんでいる。
この楽しみ方まで権力者は想定している。
いったいどういうことだろう。
実際起こっている事実を捻じ曲げようとして
そうしたシナリオをつくるかもしれない。
どちらにしても権力者の都合の悪いことは
隠すように別の何か興味深い対象を
目の前にちらつかせて本当の事実に
たどり着けないようにしているかもしれない。
大衆は権力者にいいように扱われて
踊らされて我々が騒いでいるのを
演劇でも見るように楽しんでいる。
この余裕こいている姿勢は知らないから、
反撃しようもない。

しかし、私は知っている。
目覚めている人を知っている。
目覚めた大衆は、コントロールされないように
一生懸命に事実を知ろうと努力している。
可能性を信じるものと、
それを閉ざそうとするものとの戦いなのだ。
私たち無名の作家たちには、
まだ権力者の知らないところで
反撃を開始することが出来る。