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やすねこアート
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2017年08月13日

ちぇりーれっどくりむぞん  その6

07-ちぇりーれっどくりむぞん.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120732

生ぬるい洗脳。
権力者の美意識を浸透させ
逆らえないようにさせる。
ブランドがその例だろう。
一本に伸びた価値基準が美術界にも君臨している。
これは、下々の個人的な意見だ。

本来のアートって何だ。

権力者の価値観を押し付けられて
私たちはいったいどうなるんだ。
権力者の奴隷になるのか。
違うだろう。
そんな押し付けられた価値観で評価するなよ。
受け身になるな。
書いてあるものを疑え。
先生の価値観を疑え、
自分の内なる声に耳を傾けよう。
本当に好きな絵が見えてくるはずだ。
本当に描きたい絵が見えてくるはずだ。
心の赴くままに動けばいい。
考えよう。自分で見て、
自分で考える。
直ぐに答えは出ないだろう。でも、考える。
そして、とことん見る。感じる。
悩む。苦悩する。そして、考える。
分かった時、きっと感動する。
自分で獲得した美意識。
誰が何と言おうと揺るがない価値観。
それは、素晴らしい。
その力がアートにはある。
そう信じている。


2017年08月12日

ちぇりーれっどくりむぞん  その5

07-ちぇりーれっどくりむぞん.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120732

しかし、騙している連中は
罪悪感は無いのか。あるわけない。
そもそも彼ら自身、騙しているとすら感じないから。
彼ら下々に生きる意欲を与えている、
何て良いことをしているんだ私達は、
そう勘違いしている。

堕落、

今、美術界にはびこっている
カビの様な得体のしれない存在。
しかし、もう一方では、
それを浄化する動きもあることも確かだ。
それは、同じ勢力内での陰と陽の戦いでもある。
もちろん私は浄化する側であり続けたい。
画商は作家に手引きをして作品を作らせ
コレクターに投資目的で売る。
オークションでの売買で
金の循環サイクルが出来るわけだ。
マネーロンダリングも当然そこで行われると聞く。
一つのマーケットができる。
全て権力者の思い通りに物事が進んでいる。
抵抗しているのは売れない作家だ。
彼らの声は誰も聞く耳を持たない。
彼らはホントに売れないのか、
売れないように権力者が操作しているのか、
「こいつには表舞台には絶対に立たせない」と
目をつけられてしまうと、
その枠外で活動することであり、それは、
言ってみれば村八分であり、
それは美術界では死を意味する。
作家は歴史の教科書に
名前が載ってナンボのもんだ。
無数に存在する作家の中で
一体どれだけ名前が載るのか。
そのために引き起こされる
ドロドロした競い合い。
殆ど魂を売り渡したか、
売られたのどちらかだ。
彼らは権力者を利用し、
権力者に利用され、
そして歴史が作られる。
いってみれば、
権力者のお気に入りリストだ。
それを、下々の私たちが芸術として見ている。



2017年08月11日

ちぇりーれっどくりむぞん  その4

07-ちぇりーれっどくりむぞん.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120732

話を戻して、
何が言いたいかというと、
違う視点、ということ。
作品って、本来は純粋なもの。
そうであると信じる。私は。

しかし、作品は、イコール、商品でもある。
これは事実。例えば、
作家としても、売上を上げたいという野心があれば、
純粋に買ってもらえる絵を描くしかない。
変な、クライアントが求めてもいない
訳のわからん抽象画なんかよりも
かわいい猫の絵を描いた方が売れる。
あるいは、きれいな星空に飛び上がるイルカの絵も
奇麗で富裕層が買いそうだ。
或いは、性的興味や興奮が見える作品なんかも売れる。
芸術といえばお父さんも家族の前で堂々と
裸体画を手にすることができる。
高価な作品にするなら
富裕層が絶対買ってくれそうな作品を注意深く制作する。
作家も美女やイケメンならなおのこと
富裕層の注目を集めることだろう。

これは、私の思い込みか、
必ずしもそうではない。
誰も言わないだけ、
言っても無駄、っていうほど既に
当たり前のことの様にされている。

初心な素人がかわいそうに上手に言いくるめられ、
たいして上手くなるわけでもないのに
高い会費を払いせっせと足蹴もなく通い、
作品を飾ってあげると言って手数料をふんだくって
会場の端に飾り、
雑誌に載せてあげるといって
これまた高い出展料を巻き上げ
手ごろなコメントを誰だか知らん画家先生か評論家か
知らん連中が書き添える。
それでも、それを満足して大事にしている人たちがいる。
騙されている人たちは、それでも幸せだと思う。
自分の成果に一喜一憂し描くことで
生きる意欲をもらっているから。



2017年08月10日

ちぇりーれっどくりむぞん  その3

07-ちぇりーれっどくりむぞん.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120732

私は作品に接点という言葉をよく使う。
この現実世界と向こうの世界との接点とか、
思考と現実のとの接点、
日常と非日常の接点とか、
私の頭の中のイメージと実際のものとの接点、
二つの相反するものとの接点とか、
とても興味深い。
私の作品のある部分は無意識行為で描かれている。
その時の手は、
接点である紙の上を自由に走り回っている。
線は気ままに走り続ける。
線の描写、

今、午前三時、

この記事を書いていると
書いていてもスーッと意識が遠のいて
そしてハッと我に返る。

上野千鶴子さんが
こんなことを本で書いていました。
日本から離れて海外で留学すると
帰国してみて気付くことだが、
日本でずっと住んでいる日本人と
明らかに何かが変わってしまっていると、
いってました。
同じものを見ていても違うそうです。
意識が変わってしまって
もう元には戻らないらしいです。

そう言えば、”接点”の発想は
カナダに行ってから意識し始めたワードだ。
それまで2つの接点、
2つの異なるものとか見方とか
考えの接点といったことは
考えてもみなかった。
私は海外で約四年間過ごしたが、
帰国してカルチャーショックを受けた。
その一つが携帯の普及率の高さでした。
あれから十数年たちましたが、
上野さんの言う通り
元の日本人に戻っていないようです。
日本から出なければ体験できない不思議な体験、
どこか完全に溶け込めていない
日本にいる在日日本人なのでしょう。
外国人とも違う。そして、日本人とも違う。
不可解な存在。
だから、就職しても、完全に溶け込めない気分になります。
何か違う、そう感じてしまうのでしょうか。
しかし、だからこそ、
何か違うことをしてみようという意識にさせることも
自分の中にはあるのだなと感じます。



2017年08月09日

ちぇりーれっどくりむぞん  その2

07-ちぇりーれっどくりむぞん.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120732

なんともいえない、
夜の静かな空気、匂い、
今も忘れない。

夜の静寂は心に深く刻まれる。

事務職を退職した後、
プログラミングの勉強をしていた。
学生時代の夜のドライブ、深夜の湖の波の音、
月明りに照らされた湖面の陰影。
プログラムの解析をしていると幾度かトラブルで中断する。
出力して一行一行机上作業である。
変数に値を入れ一行一行検証していく地道な作業。
時計の秒針が単調なリズムで深夜の存在感を際立たせる。
夜になると現れるものがいくつかあるが、
これもそのうちの一つだ。
深夜は独特の雰囲気を醸し出す。
だから、昼に比べ何か妙な雰囲気になる。
このシーんとして静かな空間は、
現実の世界の空間であるにもかかわらず、
非日常的な感じがする。




2017年08月08日

猫の冒険    その22

No-06.JPG

チビ黒「でかい黒さん。なにしてるの?
     あれ、何か見てる?」
でかい黒「やあ 」
チビ黒「あれれ、この場面、以前も見たような・・・」


チビ黒は少し混乱しているようです。
この場面は確かに以前の場所と配置です。
まるで、時間が遡ったかのようです。
しかし、まだ、このチビ黒猫の彼には、
時間の概念は無いようです。彼は
多分、今のところ、場面が変わったことえで
変化を感じ、何かが起こっていることは
理解しているようですが、それが時系列で
出来事が進んでいるのか、遡っているのか、
循環してるのか、ランダムに進んでいるのか
さっぱり把握していません。というより、
そんな状態であることすら認識していないようです。
単に、場面が変わったからといってそれが
必ずしも時系列で進んでいるとは限らないのです。

チビ黒は、今、一生懸命に考えています。


ちぇりーれっどくりむぞん  その1

07-ちぇりーれっどくりむぞん.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120732

さて、この「ちぇりーれっどくりむぞん」の作品も、
作品「魚の記憶」に続く生き物のイメージが
浮上した例であるが、作品「魚の記憶」に比べ
着色の直観的選択は早かったと思う。
こうした比較を自己分析してみるのも面白いし、
見る人は、それを聞いて鑑賞に想いを馳せて欲しい。
この作品で最初に浮かんできたものは、
口ばしと目でした。

なぜ、この絵を描くようになったのだろうか。

描く理由は何だろうか。

そこからスタートしたいと思う。

さて、このブログを見ている人で
どれだけの人が仕事で夜勤の経験があるか。
私は夜勤の経験がある。
最近での記憶は介護施設での夜勤だが、
ずっとずっとさかのぼると二十歳の時だ。
大学受験に失敗し煮詰まっていた時だ。
何を思ったか私は、とにかく働いてみたいと思った。
当時は、何もしていない自分が
自分自身許せなかったのか、
どこにも社会に属していない自分の居場所を
求めたのだろうか、今となってはあやふやだが、
とにかく就職活動をしたわけだ。
地方から東京に出て、
あてもなくハローワークで就職活動し、
警備会社の事務職の仕事を得た。しかし、
入社早々、臨時で警備員として
1〜2週間夜勤の勤務が入ったんだ。
元土木作業員の人や元自衛官の人とかと混じって
研修を受けたわけで、正直面喰ったが、
似合わない制服を着て二週間ではあったが
何とか務めを果た。当時、
あの時は冬で寒かった。
ただ、立っているだけで寒かった。
交代の人が来るのが待ち遠しく、
休憩は室内に入れるので、コーヒーを飲みながら
暖をとった。ビルの休憩室からの外の夜景、
深夜の夜景、高層ビルの上階に点滅する
赤いライト、一つ一つの窓から見える明かり。
空は澄んで奇麗だった。

俺、何やってるんだ、こんなんでいいんか。
自問が続く。

でも、今思い起こせばこんな体験は
もう二度とできない。
当時は大変だったけど、
面白かった。




2017年08月07日

魚の記憶    その11

06-魚の記憶.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120532

多くの有名作家の裏にはパトロン的存在がいる。
つまり、高額で作品を買う人がいるということです。
作品は、商品ではない、汚いことを言うな、
とおしかりを受けそうですが、しかし、
それは単に、きれいごとにすぎない。
作品が商品的存在だけだとは私は思っていません。
しかし、作品の目的の一つに
商品があることも確かだと思う。
長い美術史でそれをものがたっている。
価値とかを決めるのは底辺の私たちではなく、
権力者、お金を持った権力者が決めているわけですね。
彼らが自分の利益のために
作品を高く評価し、値を吊り上げ利益を得る。
「なぜ政府は信頼できないのか(ピータ・シフ著)」の中でも、
お金を「魚」に見立てて話が展開していく。
その魚が私の頭の中にイメージとして残っていたのだろうか。
この作品にもみごとに魚が浮上してきたわけだ、
意図したことではないが、どこかで
引っかかっていたことだろう。
作品は視覚的に訴えることが出来る。
大衆操作にはよく使われるだろう。
全ては権力者のために、1%のために、
それが続いてきたわけだ。しかし、
それはもう終わってほしい。

そのためにも一度、作品を購入するという
新しい体験をしてほしいと思う。
先にも言ったが、
単にコピーを所有するのと
本物を所有するのとでは、
全く違う。
その重みが違う。
何を言っているんだ、
そう思うかもしれない。
絵は生活する上で真っ先に
必要となるものではない。しかし、
考えて見て欲しい。
何も置いていない部屋であっても、
たった一枚の絵が飾ってあるだけで
単なる空間から一つの部屋となるような気がする。
ひょっとして絵を見る事で勇気付けられて
明日も生きていこうと思えるかもしれない。
つらいことを癒してくれるかもしれない。
そういった精神的栄養は食べ物からでは得られない。
そのために自分のお金を出すことの意味があると思う。
(完)

猫の冒険    その21

1-06-3.jpg

黒「君は白い色をしてるね。僕と違う」
白「ボクは白いんだ。あなたは何色なんだい」
黒「僕は黒だよ。」
白「そうなんだ、あなたは黒。そして、
ボクは白」
黒「そうだ。」
白「私は、白。あなたの黒とは違う」
黒「そうだ。」


黒猫の彼は、唯一自分自身の形状を把握している貴重な存在です。
なぜ、彼だけが自分の形状を認識できているのか、
現段階では、なぞ、です。
彼が自身の形状を認識できているから彼の仲間が横にいても
同類と認識できたのです。
しかし、相手は、相手自身がどんな形状をしているのか
自身では知らない。多分目の前にいてコミュニケーションを
している相手と同じ形状をしているんだなと漠然と感じているに
過ぎません。
彼と接触して対話したぬいぐるみは徐々に考えることを
覚えていきます。そして、互いに置かれている状況を認識
していくのです。

2017年08月06日

魚の記憶    その10

06-魚の記憶.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120532

仮に買うとなればそれは、
株と同じ、投資目的となる。
つまり、ビジネス。
投資としての商品、それが作品。
作品が高い値段で売買されている理由の一つだ。
なぜ有名作品が誕生するか、
それは、富裕層の中で
自分の所有する作品を買った金額より高く
売りたいために付加価値をつけるために
仕組んでいるためではないか。
そう思えてならない。
作家、ギャラリー、コレクターとの関係。
これが好循環で機能したとき
相互にウインウインの関係が出来上がる。
作品に高値が付く。
あらかじめ安値で作品を保持していたコレクターが
オークションに出しもうける。
しかし、そこで売られている高額なアートが
本当に自分が好むアート作品なのかといえば
全然違う。お金ではない、
何かを自分の目で見なけばならない。
自分の頭で考えなければならない。
でなければ、裸の王様だ。
無知を露呈し恥をかくのは貴方自身なのです。


猫の冒険    その20

image.jpeg


(解説)
「猫の冒険」を楽しんで頂けるために、時々、解説をして
内容の補足説明をしていきます。参考にして頂けたら幸いです。

この「猫の冒険」に登場する主人公的存在がこのチビ黒猫です。
まだ名前は付けていません。ぬいぐるみに性別は無いのですが、
形状から何となくオス猫っぽいので性別はオスにしました。
これも形状から、大人ではなく、かと言って生まれたての子猫でも
無く、人間でいうと10代後半あたりを設定してます。
まあ、悩み多き年頃です。

名前が付いていないのは、彼らが目の前にある個体の認識が
まだよくわかっていなくて、そもそも名前そのものの存在自体の
認識が無いためです。今後、話が展開し、成長していく中で、
そうした概念も芽生えてくるでしょう。

彼には、私は特別のチカラを与えています。
それは、考えるチカラです。
彼は、自分が置かれている場所の認識まではまだ
できていません。今わかっているのは、彼と同じ存在が
他にも存在していること、そして、彼らとコミュニケーションを
とることが可能であること、さらに、彼らの他に彼らとは別の存在、
同じ空間でありながら、彼らと全く世界が異なる存在が
存在していることを彼は漠然と認識している。そして、
なぜか、彼だけが、その世界が異なる存在の「私」の声が
分かること、しかし、互いに意思の疎通はできない。

私は、上記の事を設定しました。チビ黒猫は、目覚めた時から
上記の状態のチカラを得ています。しかし、彼自身、なぜ
そのチカラがそなわっているのか知りません。

彼は、
彼がどのように成長し、自分の置かれている状況を把握し、
なぜ、このチカラが備わったのかを探す冒険をします。

そして、なぜ、彼自身がここに存在しているのかが
徐々に明らかになっていきます。


(補足)
数年前に同じタイトルでストーリーを考え
コンテストに応募したことは初回にお話ししました。
今、このブログで展開されているお話は、
コンテストに出展した作品のコンセプトは受け継いで
いますが、話の展開は異なります。
ブログオリジナルで展開しています。

2017年08月05日

魚の記憶    その9

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http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120532

絵の存在っていったい何でしょうね。
現実的こんなことを誰かに言われたら、
どう答えますか。
生活に目を向けてしまうと、
絵など芸術は薄くなります。
しかし、人間は本来、
芸術好きなんだと思いますよ。
生きるためには、食べ物が必要だが、
それが本当に体の栄養になるかならないかは
その人の精神状態にもよります。
どんなに栄養があっても、
死にそうな気持であれば、
消化不良をおこしますし、
たいして栄養価のあるものには見えない
食べ物でも、ほんとに楽しんでおいしく食べれば、
生きる活力につながる。だから、
衣食住にアート。何もなくても
アートマインドがあれば生活に潤いが生まれる。
お金など関係ない純粋なアート。
ちょっと紙を折るだけで「いいね、これ」と思わせる技。
食材の切り方で見た目は変わる。
ちょっとしたこと。
お金がないときであっても、
アートは楽しめる。
それを知らないと、作品を買う立場になっても
本当に自分にとって良い作品にはめぐり逢えない。
お金を出して絵を買おうと思わない人に
絵をすすめるのは難しいですね。
見るだけならいい。
そんな人に働きかけるべきかという問題が
生じる。そもそも、
そういう人が説得されて買うだろうか。


2017年08月04日

魚の記憶    その8

06-魚の記憶.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120532

コンテストに入選する作品は、
作家が確かに作品に込める想いは強いと思いますが、
そのベクトルの矢印が少し違う方向に
向いているんじゃぁないかと思う。

何が芸術って複雑だね。

だけど本来はシンプルなはずだよ、きっと。

グレングールドが言う
「芸術の目的は癒しなおすこと」
に同感です。

衣食住に比べ、絵などの芸術作品は、
必要性が低い、腹が減っていれば、
絵よりもおにぎりが欲しいですよね。
作品の必要性はその程度になってしまいます。
今月の食費が苦しいのに何で絵なんか買うの、
と怒られそうです。確かにそうです。
生活にホントに必要なものは、
食べ物であり、住まいであり、着るものです。
それらが満たされて
その次に生活の質を上げることで芸術が
やっと入ってくる。そんな感じだと思います。
一般的な見方はそうです。


2017年08月03日

魚の記憶    その7

06-魚の記憶.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120532

だから、塗ってもいても「何だこりゃ」
というものも多く、
今は、それとは別に何かに見えるなら、
それをクローズアップしてみようと
している時もある。具体的な形状であっても、
実物と始めから違っているわけであり、
何かそれらしいモノとして見立てているに過ぎない。
描く行為一つ一つの動作を含め、
全てが作家の一部です。
もちろん技術的な差はあるでしょう。
しかし、私は、それは、
そんなに問題無いと思っています。
最近はとくにそう思います。
作家は職人ではない。だから、
技術を磨くことばかり考えて
ただただ、手を動かしているのは、
機械で饅頭をつくっているような感じがしてならない。
職人の様な枝にばかり目が入っていまうのであれば
機械でいいじゃんと思えてくる。
Ai も発達していることだし、
細やかなコツも十分出来ると思う。
細かい描写などのテクニックで驚かすのも
勿論悪くないが、単にそれだけなら
写真でもいいじゃんと思えてくる。
そこに作家が入り込んでいないと分からない。

偉そうに言っているが、これは自分でもいえることで、
写真にしても何にしても、
その人が作った事が分かるものが本当は、
それが作品だと思う。
何か誰かの真似をしたり、
単に上手くかけたからといって
ただそれだけで作品としては何か違う
と思う。自分が持つクセでも何でもいい。
作品にそれが入っていた方が作品と呼べる
かもしれない。上手く描けたと本人が
単に思っている絵でも他人が見て
同じように思うかどうか分からない。
たぶん思わないと思う。
自分の想いを込めて
これが精いっぱいの作品であれば、
その方が相手にも伝わるはずである。
大好きな人に何かをつくってプレゼントする
ようにそれが押しつけでない限り
相手にもその思いは伝わるのと同じように、
作品にその作家の思いが必ず入ってくると思うのです。



2017年08月02日

魚の記憶    その6

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http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120532

作品の着色で何がポイントか
それは色決めである。魚を何色にするか、
これはさすがに決まるまで時間がかかる。
全体をどのようなムードにしていくか、
明るい感じか否か、落ち着いた感じにするか、
そうでないか、魚の形状の雰囲気から、
どんな感じにするかを決めるわけです。
この作品では、明るい感じにしていこうと決めた。
しかし、その決定するものは、
どこから来るのだろうか。もちろん、
形状を考慮するといったが、
それは、あくまで目安であって、
最終的に決めるのはまた別の要素のような気もする。
このところは、まさに
私本来の感覚が大きく関わるので、
対話というより、自分の希望を
作品に伝える感じだ。
「これで行きましょう」(いいよ)ってな感じで。
ここの部分のおかげで、
単にこの作品が
私が単にフィルターではないことの
証明でもある。
線を引く時であっても、
着色箇所を決めていくときでも、
自分の意識よりも向こう側の
対話による情報伝達みたいで、
単に線を引いたり着色したりする
媒体のように思えてしまうが、
実際のところこの時であってもどこかで
「ここはこれでいこうよ」(そうだね、そうするか)
みたいな対話であっても、
こちらの意見をまずいって了解を取りながら
進んでいる感じかもしれない。
線の形状などは、ゆだねる部分は多いが、
こちらの意志で曲がるところを多くするか、
はみ出しを多くするか、少なくするか、
形状の傾向は、
こちら主導で進めている感じもする。
線を引くスタイルで描き始めた時は
具体的対象を浮かび上がらせることなく
着色のみ考慮して全体の配色にも
気を使いながら不思議なパターンなるのを
面白がって着色してた。
その時はまさに私がフィルターになって
向こうの世界からの何かを
伝えている感じになっていた。





2017年08月01日

やはり私達は権力者達に操られているんだろうね  その2

「休まず何時でもやっている」ところが多すぎます。
しかし、これは、避けられないところでしょうか。
正月とかでも営業しているところが多いね。
休めるなら休んだほうが社会のためにもなると思います。
私は、介護の仕事をしてましたが、
介護は盆正月関係無いですから
正月も仕事をしましたが、
別に正月休んでも問題無いのに
休みにすると損をするみたいな気持ちになるのか
ちょっとでも儲けようとするのか
サービスとかの名目で店を開ける。
それが慣習になると無理してでも
休みを返上して仕事をするようになり、
そうして結局無理をしてしまう。
結局それに振り回されるのは社員、
しかも末端の社員。
そして名ばかりの上司、店長。
盆正月店を開けるようになったのは
たぶんコンビニが出始めた頃ではなかったでしょうか。
それ以前は、正月なんかはシーンとして
街も静かでした。今では、もう
以前のようには戻れないでしょうね。
時代を逆行することはできないですね。
でも、違う解釈で
休みを取り入れてもいいと思うのですが。
昔を同じには出来ない。しかし、
休みは増やすことはできると思う。
社員もよい正月を過ごして欲しいために
あえて正月を休みますと告知すれば、
お店をよく理解している客なら分かってくれるはずです。
しかし、それすらもできないほど、
おそらく日本は過剰の渦に
飲み込まれてしまっているのだと思うのです。
「かつては、不便さこそが「普通」だった」と、
フリーライターさんが言ってます。
便利であることは、その裏でその分、
負荷がかかっている。
遅い時間にでも配達してるということは、
その時間まで配達している人がいるのです。
24時間開いている店は、
深夜にも働いている人がいるのです。
過剰なサービスを普通を感じては
おかしいと思わないといけないですね。

過剰は異常です。

時間がかかるのなら、頭を使って、
その時間を別の事に使えるような
有効な方法を考えるべきだと思います。
なぜ、そう言えるのでしょうか。
みな、答えを直ぐに求めすぎています。
〇✕とか、語句や単語の暗記物、
知識量を競う番組が多く、
賢い人は、そういった量的な知識量に
長けていると刷り込んでいる。
じっくりと時間をかけて考えて解くことを
軽視したり鈍間のように捉えられてしまっています。
質的な問題はあまり人気がないようです。
時間がかかり、哲学的で曖昧であったりするとに
起因してますが、今のテンポに合わないため
メディアも取り上げない。しかし、
本質的で権力者にとっては
結構痛いところをついている事なので
あえて興味を抱かせないように真逆の行為を
強いているようにも見えます。
あまりにもクイズ番組が多いのも頷けますね。

超権力者は何を企んでいるのでしょうか。

末端の私達には知る由もありません。しかし、
彼らは、彼らの脅威になるような存在はつくらないはずです。
従順で、それでいて知的な存在、
それを上手に育成しているように見えます。
単純に考えて自分が権力者ならそうします。

話は戻りますが、本来的には
客にしても店員にしても対等だと思うのです。
客は品物を受け取った代わりに代金を店員に支払い、
店員はお金を受け取った代わりに品物を渡す。
品物とお金の価値は同じであるはずです。
しかし、お金は特別なものという
何か偏った考えがあると
それをもっている者の方が偉いと
勘違いするのでしょうか。
では、金とお金ではどちらが偉いのでしょうか。

さあ、いつの間にか私たちは、
仲違いをしているようです。
私たちはどちらにも属しているはずです。
店員の側に立つ場合と客の側に立つ場合と。
なのに互いを痛めつけている。そして、
イライラしストレスを感じています。
問題をお互いの事として捉えている。
しかし、本当の問題はそこではないと思うのです。

誰が私達を互いにイライラさせてるように仕向けたのか。

互いにイライラさせ問題をその点に移動させ、
本来の問題に目を向けさせなくしている。

今回は、ある記事を読んで
ふと思ったことを書き留めておきました。
この問題は常に自分の頭にあって、それは、
絵を描いている時でも写真を撮っているときでも、
勉強している時はもちろん、
街を歩いている時なんかはよくおもい起こされます。
ですので、別の機会でもこの話題に触れ、
書き留めることがあるでしょう。
その時にまた、お話します。

やはり私達は権力者達に操られているんだろうね  その1

最初に言っておきますが、私は、
学者でも評論家でもジャーナリストでもありません。
ただ、人生を半世紀以上生き、
幾つかの教育機関で学び、
幾つかの職種と職場を渡り歩き、
多種多様な人との出会い、
異国での生活、などを体験してきました。
多分、私以上に多様な経験、
大変な体験をされてきた人はいるでしょう。
そうであれば、なおのこと、
今の日本の過剰労働に異常さを
感じていることでしょう。

私は、上記でも言ったように
知識人ではありません。
だから、ここでもっともらしいことを述べたとしても
何の効力も無いことは十分に承知しています。
だから、まあ、勝手なことも言えるのでしょうが。
しかし、今起こっている出来事には
何かしらの理由、意図があるわけで、
それはみんなも薄々わかっているのかもしれません。
しかし、この異常さは異常です。
ただ、傍観しているならSF映画でも見ている感覚ですが、
私は、ここに存在しています。
このままでは、大切な友人知人、
生活しているこの街、この国、この社会が
おかしくなってしまう。
しかし、私に何ができるのか。
たいした発言もできないし、
発信力のある知識人でもない。
活動家でもない。
一歩前にでるだけでも大変な決意と
勇気が無ければ踏み出せない、
そんな存在です。
でも、それが出来るように日々努力しています。

今できることを精一杯やってみる。
そう決意し、その一つとしてこのブログを書いています。
ただ、偉そうに大それた事などできませんし、
そんなつもりは毛頭ないです。
私の経験の中で、
こうしてじっくりと芸術や社会の問題について
考える時間が多少なりとも与えられている今、
「考える」時間が与えられている事に
まずは感謝しています。
いろいろな方の支援でこうして心身とも
落ち着いた状態で活動できることに感謝しています。
そして、そうした状態だからこそ、
今の日本の社会の労働の過剰さに
違和感を感じられるのです。
渦中にいるとその状態が理解できません。
自身がそのテンポで生活しているからです。
道をそれ草原をのんびり歩くと
道中の過剰さが見える事でしょう。
しかし、もし、それを知らないで
道を走り続けている人がいるとしたら、
そしてその人が死にそうになっているとしたら、
異常さに気付く何かを伝えたいと思いました。
しかし、それは、単に上から目線での
戯言に過ぎず走っている彼らから見ると
私の方こそ異常な状態に見えるのでしょうね。

難しい問題です。

社会が複雑化し、職種や環境、ライフスタイルで
細かい層に分けられ、
それぞれが相いれない意識が根付いてしまっています。
だから、それぞれが、それぞれがしていることに
異常さを感じ、互いを非難している。
過剰さの賛否がよく問題にされます。
どちら側かに付けば、相対する側が非難の対象になります。
その時の自分の社会的状況で
或いは経済的状況で、
或いは精神的状況で自身の賛否も揺れ動く場合もあります。
しかし、もし、問題の本質に迫った時、
賛否とか善悪とかを越えた、
進むべき道が見えるのではないでしょうか。
今書いていてそう思う次第です。

つまり、こうです。
過剰さに賛否はそもそも無く、
それらすら、上で操っている強力な権力者がいる。
おそらく、彼らは地球の自然、
自然現象まで操っているんじゃぁないでしょうか。
故意に地震や台風をおこしたり、
経済をかく乱したり、戦争を起こさせたり、
地球の運命の運転を彼ら権力者が操作している。
安全運転するのも暴走するのも自由。
今はどんな状態なんでしょうか。
末端の私には知る由もないですね。きっと。

しかし、身近で起きている出来事から、
何かおかしい、誰かに操られているんじゃないか、
そんな風に思えてくるようになりました。
それは、おそらく自身の体験からにも
起因するでしょう。
いろいろな事実からそれを想起することも可能です。
例えば、仲間内で喧嘩をさせておけば、
本来起こしている第三者の行為は見えなくなるし、
気にも留めなくなる。彼らが喧嘩している間に
権力者である第三者は本来の目的を遂行する。
バレそうになると話題をすり替える。
別の誰かに責任を転嫁し尻尾切りをする。
当事者間で内部崩壊させ、問題をずらす。
常套手段が横行されているのを誰でも
幾つか目の当たりにしたのではないでしょうか。
黒幕は絶対に見えない。
殆ど誰もその存在を知らない。
だから、そもそも存在の有無まで賛否両論あり、
それすら煙に巻いている状態です。
私達が正面切って立ち向かった処で勝てるわけもないです。

私達にできることは、
私達が生き延びる術を自身が身に着け
生き延びることしかないのだと思うのです。

それには、彼らが何をしているのか、
何を企んでいるのかを少しでも知ることではないでしょうか。
知れば回避できます。
多くの人が情報を共有できれば
生き延びることが出来ると思います。
世の中には正しいことをしている人は何人もいます。
私に出来る事は彼らを応援すること、
例えば、自然農法での作物を買う、
遺伝子組み換えの作物は買わないようにする。
不買運動は小さいけど直ぐできる活動です。
ちいさなことでも一歩一歩していきたいです。

さて、今回この記事を書きたいと思い至ったきっかけは、
2016年11月22日にフリーライターさんが投稿した
「日本の過剰労働は、「お客様」の暴走が原因だ」
という記事を読んだのがきっかけです。
だいぶ前の記事ですが、PCに保存してあったのを
たまたま先日読み返して、そして、思うところがあって、
この記事を書くに至りました。
このフリーライターさんは、
そもそも過剰労働の原因は、客にある、といってます。
実は私もそう思っているのです。
特に問題になっているのは、
「早くやる」「休まず何時でもやっている」
この2点に集約されます。


「早くやる」は、
例えば、土日が定休日だと処理に時間がかかることに
客がクレームすれば、土日返上で
仕事をせざるを得なくなります。
細かい事だと、スーパーのレジが
ちょっともたもたするだけで客がブチ切れるとか、
駅のホームの立ち食いソバみたいに
速さがエスカレートし過ぎています。
店員も早くすることばかりで、
それを見ている客も無駄にセカセカし、
それが相乗効果になってその場の雰囲気も
慌ただしい決して落ち着いた雰囲気とは思えない状況を
生み出しています。
それはリラックスするような場であっても、
そこに行くには予約をしたり、
予約した時間に間に合うように行くストレスもあるし、
行ってもそこにいる時間にも制限があるだろうし、
そもそもセカセカモードの人が
ちょっとその場にいったからと言って
くつろげるかどうかも疑問でしょう。
今のサービスははっきり言って過剰ではないか
とも思えます。というか、親切すぎるというか、
ある意味手取り足取り感覚で
何でもやってもらえる感覚が異常に思えます。
例えば、家電量販店にいって、
PCを買う場合でも、
全く何も知らない状態でもモノが買えてしまうのが現状です。
店員があれこれ丁寧に説明するから
知らなくてもそれなりに買えるし、
買って帰ってすぐに使えます。
私が、30年以上前の時には、
そんな状態ではありませんでした。
店員がまず、ぶっきらぼうでしかも
やや上から目線での物言いな態度で接してきます。
当時は今ほどPCが普及しているわけでもなく、
エンジニアかそれに関わる仕事をしているか
マニアぐらいしか買わないようなものだったので
そうかもしれませんが、
客の方もある程度知識を持っていないと
店員に相手にもされない感じでした。
だから、どんなメーカーがあって、種類や機能を勉強し、
相場が幾らかを把握して購入の際は値段交渉までしました。
店員はそこまで知っている客に対しては対等に接し、
適正な価格で売買に応じてくれました。
だから、全く知らずに店員のおまかせで購入しようとすれば、
とんでもない粗悪品を相場よりも高く売りつけられます。
客も店員を見ているし、店員も客を見ているのです。
そうした緊張関係の中での売買は双方で
クレームがでることはあまりありません。
客もその製品の事を勉強してくれば、
店員もそのように見てくれます。
店員もど素人のアイドル店員ではなく
マニアックに良く知っている店員が多く、
客もそれなりに知識があると一目置いてもらえます。
そういう関係になると業界の裏情報とかも
教えてくれたりして、
インターネットが普及していなかった当時は
貴重な情報源の一つでした。
よく、騙されたとかでクレームしたり、
ちょっとしたことで難癖つける客がいます。
自分は何もしらんくせに粋がって買うから
騙されるわけであるのに、それを棚に上げて
相手の責任だけを追及する客も多いです。
そうなると、店員も客に対してあまりいい感情が
起きなくなり上辺だけの仮面おもてなしになってしまいます。
金があると横暴に振舞う態度を子供がみていると、
子供はそれを真似ます。
成金の子供が大金をチラつかせ
大人の店員に横暴に振舞うこともするでしょう。
そうされた店員は、自分が客となった時、
同じような感情を別の店員にもするでしょう。
負の連鎖です。この連鎖を断ち切るのは、
店員側ではなく客です。
客がもっと賢くならないといけないのです。
そう思います。そして、
店員は商品に対して愛着をもって臨んで欲しいと
思います。商品知識は個人差があるので
たまたま客のほうが知っている場合は
バカにされますが、それでも商品に対して
こよなく愛着を持って接しているのなら
その気持ちは客にもつたわります。
客は、きっといい製品なんだろうなと
感じるはずです。それを、商品知識も無い、
愛着もない、ただ売っているだけであれば、
客の方もがっかりするし、
これなら自販機で物を買っているのと
同じ感覚になります。そうなると、
それ以外の事が目につきます。
店員の言葉使い、態度、身なり、間の取り方、
細々したことが気になり
それがクレームつながると思うのです。
以前は、そういった店員も多かったと思います。
量販店が出来てから変わったのでしょうか。
量販店が出始めた頃は、
例えば、PCなんかは量販店では
圧倒的に安く購入できました。
それは徹底したコストカットだと思います。
あの当時は、こんな感じだったと記憶してます。
店員は商品の説明は一切しなません。
店には、箱からまだ出されていないPCが積まれ、
箱に書かれてある記載を客が見て判断し、
それをレジに持っていき代金を払う、
それだけのお店です。
だから、あらかじめどの製品を購入するか
決めてから行かないと無駄足を踏むことになります。
でも、今は多くのお店では
店員が用もないのによってきてあれこれ説明してきます。

魚の記憶    その5

06-魚の記憶.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120532

私は、油絵も描いています。しかし、
今回の作品は色鉛筆での着色です。
油絵に比べると扱い易いです。
油絵よりも安いはずです。
普段実物の絵なんて
あまり所有する機会無いですよね。
自分の絵でない。誰かの絵。
将来その絵がどうなるか
価値あるものに成長していくか
それはともかく
自分の気になった作品が
自分のものとして手元にあることは
何か不思議なことでもあるし、
ちょっと嬉しいことである。
自分はそう思う。さて、
作品についてであるが、
私は浮かび上がらせる対象として魚を選んだ。
しかし、始めから魚を描きたくて線を描いたわけではなく、
魚が浮かんできたのだ。
やはり、最初に浮かび上がるのは魚の目だ。
目の形状によって
浮かび上がる生き物が決まってくる。
作家の目が対象の目と向き合うわけである。
そこから対話が始まっていくのである。
対話がうまく進まないと
なかなか全体が浮上してこない。
だから、時間をかけて対話する。
日常生活でも対話は大切です。
些細なトラブルの多くは対話不足であるからです。
最初の段階からじっくりと
対話をする習慣がついていないければ
互いを理解できない。
習慣がついていれば理解できるようになるし、
何かが生じても深い問題にはならないと思う。


2017年07月31日

魚の記憶    その4

06-魚の記憶.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120532

絵は、非日常的なものだから、
生活用品ではない。
だから、購入対象者はたいてい
富裕層の人たちになる。
金額に関係なくこれが欲しい
というお客でないかぎり一万円を超える絵を
買おうとは思わないだろう。
私だってよっぽどの理由でなければ買えない。
日々の生活のために食費を気にしたり
買いたいものを我慢したりしている人は、
まず、絵を買おうという発想は無いと思う。
だから、せいぜいコピーしたものであったり、
画集であったりする。
自分で実際に絵を描いてみるとわかると思うが
コピーなどのペラペラの紙とかでなくて、
例え画用紙であっても実物を手にした時
コピーなどは全然違う質感を感じるはずだ。
本物はそれだけ重みを感じるはずである。
ある時間作家はその絵に取り組み、対話をし、
様々な思いがそこに込められている。
そのオーラが作品から伝わってくる。
ジワーッと、それが自分の好きな絵なら
なおさら強いオーラを受け取っていると思う。
この世界に一枚だけの、この絵を持っている。
例え、着色に多少のムラがあったり、
線が僅かに震えていたりすることを発見しても、
そこが妙に好きになるものである。
作家がその時描いていた場の状況を
思い浮かべたりもできる。
絵を買おうと思わない人のほとんどが
以前に購入した経験がないからだ。
一度でも買おうという行為をするとき、
やはり、神経を研ぎ澄まし、
自分の本当に欲しいものを
真剣に決めると思います。
大きな買い物をするときも同じですね。
でも絵は完全に趣味であるので、
そういう点では、どうしても欲しいものではないと
買えないですね。

2017年07月30日

魚の記憶    その3

06-魚の記憶.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120532
街の風景もそうです。
この方向から見えるこの構図に
ビビビときたら写真を撮る、
そういうことなんです。
やっている行為はよく似ています。
絵を描く場合、といっても
今の作風で描く場合だけに限っていますが、
まず、思いのまま線を引きまくります。
その線から何らかの形状を浮上させる。
何かを見つけるという行為が面白く
一つ一つ見つけながらテーマを決めていく。
これはある意味、対象との出会いなのですね。
作品の説明はたいていの場合、
評論家であったり
その作家を研究している研究者であったり
するわけで、彼らが説明などをする場合は、
作家が本来隠しておきたい秘密なども
ズケズケと晴らしてしまうこともあり、
不本意な感じがあるが、
作家本人が語る場合は、
作品の核心部分を語ることもできれば、
この部分は話したくないと思えば話さない、
選択できる。作品はやはり作家にとって
子供みたいなものだから、
他人にあれこれ批判されるのは気分がよくない。