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やすねこアート
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2017年07月14日

ゆっくりと静かに  その2

03-ゆっくり静かに.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW119953

そういう点で言うと、私の描き方は、

他と違うだろう。

普通はこうだ。
例えば、ここに花があって、それを描く場合、
描画の目標は花だとわかっているから、
始めがどこの線からであっても、
花という完成をもって終点とする。
何かのイメージを描くといっても、
そのイメージが初めにあるのだから
それをどう処理するかを考える。
つまり目標は定まっているということだ。
だからはじめの一本の線が引けるわけある。
しかし、描く対象も見えず、
何が描きたいかそのイメージすらない状況で、
最初の一本の線を引くことはできるか?
普通はできない。
というか、普通の考えで描こうとする限り
まず描けないことになる。
しかし、私は、花や動物とか、
描く対象もなく、イメージすらない状況で、
一本の線を引いている。
何だ一体。
私の線は最初何かの対象のために
引いているわけではない。
全くの自由な線だ。
だからその時は自分が
何を描いているのか決めていないし、
描きたいイメージすら頭の中にない。
ただ、引きたい方向に自由に手を伸ばし
思うままに線を引き続ける、それは、
見ていると向こうの世界から
何かを伝えてもらい、
それを、描いているようにも見えてしまう。
相手からの何か知らないが情報を描き写す。
その時は、自分には何が描きたいかとか
何を描こうとしているのかは分かっていない。
そんな状態で線を引く。

2017年07月13日

ゆっくりと静かに  その1

03-ゆっくり静かに.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW119953

この作品は、描き始めた時期はかなり前になる。
はっきりいつだったのか忘れるくらい前になる。
そして、これは着色にかなり配慮した
作品のうちの一つでもある。
原色でない、穏やかな想いを出したいと思い、
色選びには時間がかかった。
色選びというか、
自身の気持ちの整理がついていなかったわけで、
色選びを理由に時間をかけたのだ。
そんなわけで、着色の着地点も
なかなか決められなかった。
そんな作品である。
やはり、この作品もイメージは葉である。
葉を選ぶことが多いな。
そんな風に思って見ていると、
この線が描く曲線や交点が作る形状って
意外と葉のイメージが多い事に気が付いた。
それでおのずと高い確率で葉がイメージされてしまうし、
そのことで心理的に葉のイメージが根底にあって
葉を探していなくても、無意識的に
形状を葉の形にしたてているのかもしれない。
よくわからない。
さて、気分がよいのは、緑の中で
気持ち良い空気を吸っている時だろう。
はじめに描いた線は確かに描くという目的で
描いたことには間違いないが、
目標となる形状も
なくどこが終点か分からないまま引かれた線である。



2017年07月12日

消えない記憶  その2

02-消えない記憶.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW119769

全く違う、自分にとって問題無いものでも、
他にとって重大な問題なのである。
自分自身に置き換えるとよくわかるのだが、
他人事だとあまりピンとこない。だから、
他人にとっては心地よいイメージとして見えるか
また別のイメージとして何か違和感を感じることもあるだろう。
そういう意味で、この絵は、不思議さがある。
描き込みによって、違和感が生じてしまったのか、
たぶんそうだが、対話によって自分の内面の底に潜む
ドロンとした黒い塊をひっかきまわして
、浮き上がらせてしまったようだ。  (完)


2017年07月11日

消えない記憶  その1

02-消えない記憶.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW119769

この作品は、着色作業の比較的多い作品の一つだ。
最初に飛び込んできた葉のイメージを元に、
展開した作品になったつもりであったが、
結果的に、自分の嫌っていたイメージを
構成してしまって、愕然としてしまった。
葉にとりつくものの存在が背後にあり
全く意識もしていなかったところから構成されてたせいで、
最後まで自分がそれを描いていたことに気が付かなった。
描きたくない対象は、普通は描かないが、
結果的に描き込んでいるとは一体どういうことなのか。
これは、新たな視点を与えてくれたという点で
注目したい作品だ。
この作品は、見る方向によって私の嫌なものが
イメージとして浮上するので怖さが私自身にあって
なるべくその方向でこの絵を見ないようにしているのだが、
そう意識すればするほど、かえってそのイメージが
鮮明に浮き上がり私に迫ってくる。
これは無意識でなければとても描こうとする気が起こらない。
自分にとって、どうしたいのか、
怖いものは、消せない記憶だ。
思い出さなくても、
ちょっとしたことで浮き上がって私を脅かせる。





2017年07月09日

今、この瞬間  その8

01-今この瞬間.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW119426

そして、私の作品の難解さは
もう一つ別のところにある。
作家が最初から何を描こうとしているのか
分からないところにある。
無意識の一本の線から始まり、
自問自答の中、
向こうの世界からの対話で着色をすすめ、
結果的にある形が出来上がる。
もう少し厳密にいうなら
対話が始まり、始めの一片が決まると
だいたい着地点が見つかるが、
どこを最後の一片にするかまで決められない。
逆にいうと始めの一片だけが最重要であり
どこで最後の一片にするかはどうでもよい
ともいえる。
全体の配色や構図を見ながら最後の一片は
自分で決めることになる。しかし、
そこにも向こうの世界との対話で
どこで終えるかを決めることになるのだが、
その辺曖昧さが残りはっきりしない。
だから、結果的に
自分の気に入った結果なるかどうかも
はっきりしない中で作業が進むことになる。
だから、途中の着色の作業は大変さがある。
どうなるか分からない面白さがある反面、
たんたんとして先が見えないもどかしさがある。
その間にいろいろなことを考えながら
着色することなになる。作品「今この瞬間」は、
結果を見るとさほど作業時間が
かかっていない様に見える。
実際の着色作業なりは、確かに
時間はさほどかかっていないことはたしかだ。
しかし、線を描き着色するまでに
はかなりの時間がそこには流れている。
つまり、向こうの世界とかなり
対話したことになったわけだが、
その対話の中のわずかな瞬間、
ハッと見えた瞬間があったのだ。
それをすかさず切り取ったわけである。
(完)


2017年07月08日

今、この瞬間  その7

01-今この瞬間.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW119426

そこには、
日々生活をしないといけない人間の
さけられない意識があるからだと思う。
一つ一つの仕事が単純であれば気持ちがいい。
ごちゃごちゃ複雑なものはストレスがかかる。
スッキリいきたいものものである。
時にはごちゃごちゃも面白いが
それはあくまでシンプルが前提でのごちゃごちゃで、
いつもごちゃごちゃとは違う。
また、ごちゃごちゃとシンプルとの融合だど
シンプルさがきわだつことで
ごちゃごちゃが必要になる時もある。
このバランスが大切な時もあるが、
それはいつもではない。「今この瞬間」の作品が
それが何処まで出来たか判断が分かれるところである。
更に私のようなこの作品では、どこで終わるのかも
重要な決定要素にもなる。
画面すべて塗りつぶせばそれで終わりと単純ではない。
たいていの私の作品の場合、
全てを塗りつぶすことはまずない。
どんなに塗っても塗らないところは必ずある。
塗らないところが多いものもある。
作品「今この瞬間」が、その例でもあるが、
私はここまでしか塗れなかった、
逆に私はここまででいいとおもった。
自分が全て伝えると作品は面白くない。
見る側に考える余地がなくなるからである。
分からない箇所が多ければ多い程、
謎があって面白くなる。
かといって分からないところが多すぎると
何だか分からず面白さが欠け
逆に作品として見てもらえなくなる。
難しいところだ。

2017年07月07日

今、この瞬間  その6

01-今この瞬間.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW119426

それを見て自分は何を感じるのか、
それが出来るか出来ないかだけである。
それは無意識では入ってこない。
一本の線を意識して解読できれば
そこから見えてくるものはいくらでもあると思う。
一本の線を引くときは、そこには、
極力何も考えない何も意識せず、
スーッと気持ちよく引く、
その行為でうまくいけばいくほど、
意識して見ると、いろいろなものが見えてくるのだと思う。
「今この瞬間」の作品は
極力単純な仕上がりにしようと思っていた。
あまり多くの色を入れても逆に
対象のイメージが薄くなりそうで、難しくおもった。
勿論、多色で鮮やかな出来上がりになることも確かだが、
出来るだけこの作品は素朴な出来上がりにしたかった。
まさに瞬間を切り取った感じにもしたかったかもしれない。
極力シンプルなのは作品として好きだからだ。
日常の物でも単純なつくりの方がスマートにみえると
私は勝手に思い込んでいる。
美の意識の中にシンプルさは常にある。
単純な工程であったり形状や一つの一片の曲線が
無駄の無い線であることが良いなと感じるわけである。

2017年07月06日

今、この瞬間  その5

01-今この瞬間.jpg


http://www.art-meter.com/works/?ID=AW119426

自分の体がフィルターになって
向こうの何か知らない力が作用して
結果として作品が出来上がる。
それは、それで何か不思議なことだが、
自分としては複雑である。
本当に自分の作品なのか否か
明らかに描き始めた始めの
一本の線からでは結果的に
何を描こうとしているのか知ることは
出来ないし、描いている本人ですら
知らない。だから、向こうの
何か知らない力で手が動いていると
言われればそうかもしれないと
考えるかもしれない。しかし、
向こうの世界の何かと言っても
それが何かも分からない。
操られているのか、
手伝ってくれているのかも
わからない。しかし、向こうの世界の
何かと言ってもそれが何かも分からない、
何かが作用しているのだと思う。
しかし、それを可能にしているのが
自分の知識と技術であることも否定できない。
知識がなければ向こうからのメッセージも
受けられない。この様に
不思議な行為によって作品が
仕上がるわけである。ただ、
漠然と見えているだけだと
子供の落書きであるといっても否定できない。
まさに落書きの何物でもない。しかし、
それをどう見るかなのではないか。

2017年07月05日

今、この瞬間  その4

01-今この瞬間.jpg


http://www.art-meter.com/works/?ID=AW119426


心の中に何かを見たいという気持ちがあると、
その形状を線で囲まれたいくつかの
形の中から探そうとする。
例えば、この形は何か葉っぱに見えるなあ
と思ってしまうといつの間にか
葉になるうる形状を探していることになる。
顔を探そうとしたこともある。
目とか手とか体の一部を探そうとしたこともある。
最初の一片からすべてが始まる。
作品「今この瞬間」はまず、人の顔が
最初に飛び込んできた。
ホホウ、横顔だな。
後はそこから続くパーツを探すことになる。
いつも全て探せるわけではない。
途中までの時もある。しかし、それは、
それでしかたない。
しかし、最初の一片から向こうとの
対話が始まっていることに気が付く。
着色する間その対話が続く。
その時はまるで向こうの世界の
何かの力が
自分の手をつたって作業している
ようにも思えてくる。ここは黒色で塗ろうと
黒でここの囲まれた範囲を塗る。
なぜ黒か自分で自問自答するが
向こうの声かもしれないと思うと
黒色を選択したのはいったい自分なのか
向こうの誰かなのか、
こうして出来上がった作品が果たして
自分の作品なのだろうか、
自分と向こうの世界の
何かのコラボなのか。
曖昧になってくる。しかし、
向こうの世界の何かなんてものは
現実には見えないわけだし、
普通は私一人の作品だと思われる
わけだから、そんなことを心配することも
ないのだが、当の本人である自分としては、
自分の中で起こっていることが
わかるので悩むのである。

2017年07月04日

今、この瞬間  その3

01-今この瞬間.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW119426

何々何だこれは。
それが具体的な対象として浮かび上がる場合もあるし、
そうでない場合もある。
それは時に自分の中に引っかかっている何か
を無理やり融合させてしまう時もある。
気が付かずに作業を続けて
最終的に描き上げたものを見ると、
自分の嫌なものが見えてしまうこともある。
それは、最終的に描き上げないと見えないので
質が悪いのだが。でも、そこで気が付くこともある。
克服できないにしても、やっぱり嫌だなと思う。
さて、ある線と線とで囲まれた形を見て
何かをイメージできると、そこから連鎖反応的に
隣の形、その隣の形も
意味を持つ形に変わっていく。
それらが更に一つの形に見えてくる。
そして、着色する。これが意外と楽しいのである。
面白い。その時の自分の知識量、気持ち、
感情でいろいろな形に見えてくる。
それをカメラのシャッターを切るように着色していく。
今この瞬間、自分はこう見えたんだと
空を眺めて
雲が
いろいろな形を変えていくのを
ながめているように
いろいろな形が表れてくる。
それは、気付かないでいると
次の瞬間にはもう
見えなくなってしまうものもある。
逆に一回でもそのように見えたら
どうがんぱってみても
それを視界から消すことは出来ない
くらい強く見えてしまうものもある。
どう見てもそのように見えてしまう。
一片一片の形は面白い。しかし、
もっと面白いのは
そのように見えている自分の
内面かもしれない。

2017年07月01日

今 この瞬間  その2

01-今この瞬間.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW119426



そもそも線を引く段階で結果的に何を描き上げるかすら見えていないのだ。
一般的にというか、たいていは、ある対象を見て、或いは
イメージしているから描く時には描き終わる時にどうなるか、
例えば花とか人とか対象があるわけで
たぶんそれを描き上げる目標があるわけだ。
どこに線を描きどこに何色を塗るか検討しながら
作業をすすめていくわけで
何を描きたいかわからない状態で線を引くことは普通はしないはずだ。
ところが私の場合は普通ではない。
何を描きたいからと線を引き始めるわけではない。
吐き出すように手を動かし気持ちがスーッとする方向へ線を引く。
ひとしきり線を引き終えてから徐にその痕跡をながめる。
ここからが自分と自分の中の何かとの対話になるわけである。
対話は時間がかかる。
始まりは、瞬時の時もあるし何日も何か月も何も見えてこない時もある。
自分の中にそれだけのものが用意出来ていなければ見えるはずもない。
だから自分に問いかける。自分はそれを見て何を感じるのか。
何がみえるのか。見えてくるまで気長に待つ。
時に描いた線を忘れるくらい時間をあける、距離をおく、
そして、この線を引いたことを忘れるくらい時間が経って
おもむろに描いた線をながめてみる。
そうした行為を何度も何度も行うと
ある時ふと興味深い形が浮かび上がってくる時がある。
その瞬間何か向こうの世界とつながった気分になってハッとして
そして何かうれしくてワクワクしてくる。




2017年06月22日

今、この瞬間  その1

01-今この瞬間.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW119426



真っ白な画用紙に線を描き始めて
着色し終わるまで結果的にとても長い時間がかかる。
描き始めた時は、そんなに長くかかるとは
思ってもみなかったわけだし、始めからそんなに
長くかかるなら、そもそも描くことはやめてしまって
いたかもしれない。しかし、一旦描き始めた以上
描き終わるところまで描きたいと思うだろう。
ふつうはそう思うし私もそう思う。
では、なぜ描くのか。行動には理由があるわけだ。
しかし、自分のことになると自分自身に問うて
その理由が曖昧になっていることに気付いて
愕然となる。もちろん描きたいという欲求から描くわけだし
こうして文章を書いているのも
それを何とか分かってもらいたいから書いているわけである。
描きたいと思うときはそれが結果的に誰かに見てもらおうと
思う以前に描きたいという欲求があってのことだと思う。
何か自分の中にたまっていて
それを外に出すような感じだと思う。
何かもやもやしたものとかがあって、何と言ったらよいか、
それはまるで便意をもよおすような感じかもしれない。
早く出したい、出してすっきりしたい、
そんな欲求なんだろうか。
それとも、面白いネタがあって誰かに話したくてたまらない
ようなことである感じにも似ているかもしれない。
とにかく自分の湧き出してしまった何かを
とりあえず出しておきたい、そんな感じなんだろう。
私の作画の工程は、線を引く、着色する、
の大きな二つの工程があり、
それぞれの工程は完全に切り離されている。
この着色をするために線を引いたからといって
着色時にそうするとは限らない。




2017年02月13日

猫の冒険 その17

No-19.JPG





私達と彼ら(ぬいぐるみたち)の間には世界観の違いがある。
それを理解しようとする前にその理解のキーとなるもの
というかそうした違いというものに、つまり、
違うというものに気付こうとする視点を促す見方の例を見てみる。

私達は時間の概念があるというか
時間というものを感じながら生きているとでもいったらよいだろうか。
私達が動いているのも時間に関係したことだし、
時間によって空間のA点からB点に移動しているし、
A点にずっといても時間によって状態が変化している。
私達は時間と空間を感じながら生きているのでしょう。
彼らはそれを感じることができるでしょうか。
時間というのを経験しているのでしょうが、
彼らのいる空間をどのように認識しているのでしょうか。

2017年01月13日

猫の冒険 その16

No-17.JPG


「世界が動いていて、僕らが止まっているのか?」

「それとも、僕らが動いていて、世界が止まっているのか?」


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2016年12月17日

アーティストであるとはどういうことか その13

現実に生きていると、
思いであったり、
考えであったり、
アイデアであったりしても実行を伴わなければ、
それが結果として、つまり、
行為の結果として実行の結果として
何か見えなければ、
示す事ができなければ、
誰にも相手にもしてくれない。
生きるためにはお金がいる。
生活の糧を生み出す方法を見つけておかなくてはいけない。

そこで、
わたしは、
これからの自分の生き方、
ダウンシフトの生き方を実践していきたい。

必要な分だけ働き、
家族との時間も大切にする。
そんな生き方。

わたしは、
今までの生き方と
これからの生き方を
分ける必要があるのだと感じている。

アーティストであっても例外ではない。
今は、旧勢力と新勢力との
せめぎ合いの期間だと感じている。しかし、
時代は停滞もできなければ、逆戻りも出来ない。

新たな時代、
個々の力が大切な時代になるんじゃあないかなぁ。
アーティストだって、
今まで思われていたタイプの
アーティストではないアーティストが
アーティストとして登場してくるだろう。

わたしは、今思っている。
ダウンシフトできるダウンシフタ―ズこそが
これからのアーティストになりうるのではないかと。

これは面白くなってくると思いますよ。
ただ、
この変化についていけない人や
新しい感覚を元から持ち合わせていない人なんかは
激しく抵抗して
旧タイプのアートを誇示し続けることでしょうが、
多分無駄な抵抗です。

私たちダウンシフタ―ズが
その抵抗勢力に流されない限り、
自ずと新しい時代にシフトしていくと思います。

シフトできる人達は気付いているはずです。
何かおかしい今の社会に。

だから、私の極めて個人的な意見としては、
アーティストであるとは、
ダウンシフタ―ズであること! 
これです。




2016年12月16日

アーティストであるとはどういうことか その12

先日、携帯ショップにいった。
格安のサービスの説明を店員はしていた。
私の心理としてはここの商品に興味があったので
来た訳だが
初めのうちは相手の話すメリットの
面のみの説明でも違和感なく入っていた。
しかし、料金の説明になると、
話が細かくなって比べるものがないだけあって
それが言われるように徳なのかどうかがわからない。
機能、料金、キャンペーン割引
それぞれを分けて比較しないといけない、
しかし、話のテンポが自分にとって速く感じ
多分多くの客がそう感じているかもしれない。
それがものを買わせるテクニックになるわけだが、
相手にあまり考える時間を与えない、
まくしたてるようにあれこれと説明を重ねていく。
そして、どうですか、お徳でしょう、
とつめよってくる。
今申し込まないと商品がなくなるとか、
キャンペーンが終了するとか、
相手も必死ってかんじがする。
そして同じ説明を求めると変な顔をする。
よく分らないから再度説明を要求しているのだが、
当人の説明の不十分さに気がつかない店員にとっては
聞いている客がバカだとおもっているのだろう。
言えば伝わる、そう思っているのだろうか、
あの店員は。
相手に分るように、
分っていない様子なら説明の仕方を工夫する努力が
店員にはない。
こちらは何も分らないことに怒っているわけではない
のにもかかわらず、
さも自分に非があるなんて毛頭思っていない様子。
しかし、こうした相互の不理解は
何も店員と客との関係だけではない。
アートだってそれはある。
しかし、その不理解さが寧ろ
面白い効果を生じさせることが多々ある。
それが、そのことによって
本来見えるものが逆に見えなくなっていることも確かな事だ。





2016年12月15日

アーティストであるとはどういうことか その11

つまり、何の為に描くのか。
単に自己満足だけではない。
何かがあるはずだ。
確かに描きたい衝動があって描くわけだが
何かモヤモヤしたものを
吐き出すとかの目的の場合であっても
決してそれだけではない
それだけだと単に自慰行為に過ぎず
それだけでは決して満足するわけではない。
つまり描く行為の中には
決して自分のためだけのことではなく
見る人のためにも
何かしらの配慮があって描いているんだと思う。
絵を見た人が喜んでくれるとか、
気持ちが軽くなったとか、
気分が楽になったとか、
何か新しい視点が見えたとか、
その人に良い刺激があると描いている人もうれしい。
それが大切で
描くことのポイントになるんだろう。





2016年12月14日

アーティストであるとはどういうことか その10

例えば
私に巨万の富があり、つまり、
金に不自由がないとしたら、
私は世に影響力のある作品がつくれる芸術家を育てたい。
全てのジャンルでそれぞれ力を発揮できる人を育てていきたい。
そのための資金は十分に出す。
そんな状況を連想してみよう。
育てた芸術家の卵はやがて大きく成長し
彼らの後継者を育てるようになる。
ある組織をつくって集団の力を強くする者もいるだろう。
しかし、すべての頂点にいるのがこの私になるわけである。
そしてある意味において私の考え方次第で
芸術の方向性はいくらでも変えることもできるだろう。
育成した者の中には私の考えに反発する者も出てくるだろう。
しかし、他の私に同調する勢力に十分資金と
環境を提供すれば反対勢力を抑えることも可能だ。
時には同調する者と反発する者を争わせてもいい。
どうであれ、頂点の思う通りに人が動き流行が動く。
資金を増したければ様々な組織を作り運用すればよい。
例えば○○協会をつくる。○○財団をつくる。なんでもいい。
大金の出る賞をもうけ人を集める。
メディアを金であやつりこの賞がいかにすごいかをアピールさせる。
名のある評論家などを高額で雇い好評価の文章を書いてもらう。
受賞者が十分活躍できる環境を提供し彼らの後継者を育てる。
そしてそんな彼らを集めエリート集団をつくり
メンバーをつのるために資格を設けそれを受けさせる。
資格にはある一定のメリットをつける。
弁護士や医者のように。そして、
彼らを支えるサポートメンバーと称して更に資格を設け、
難易度を少しずつ下げ幾つかの資格をつくり、
おおくの受験者を集める。受験料を支払い受験する。
試験に受かれば講習の名目で支払いをさせ、
免許更新をさせ支払いをさせる。
合格するための予備校をつくり授業料を支払わせる。
社会的評価を得たいから人々は喜んでそれに参加して、
そうでない人達はそれを褒め称える。
お金は最終的にどこに吸い上げられているのでしょう?
すべて頂点である私のところです。
私はお金のためにしているのではない、
信念をもってしている、そう考えている人もいるでしょう。
しかし、この大きな流れの中では
それらも全部ひっくるめて操られているわけです。
さて、こんな私を倒すにはどうしたらよいでしょうか?
まずは知ることです。仕組みを知り、
自分の置かれている位置を知ることです。
そして、したたかに抵抗する。システムは壊れるか?
壊す事に意味があるのか?
今の権力者によってシステムが稼動している、
この権力者を立ち退かせ我々の手でシステムを稼動させよう。
コンピュータを止めずに
システムだけをゴッソリ綺麗なものに変えよう。
それだけで世の中は変わる。
絵描きにとって
世の中の仕組みをつくっている大きな存在がいることに
とても創造が及ばないと思う。
絵を描く人はただ描ける環境が与えられ
生活するのに困らない糧が得られればそれ以外余計なことは考えない。
逆に飢えさせれれば余計に創作意欲が湧いて
世の中の不平等に対して絵にしたり、
心の飢えを満たす為に薬漬けになって
おかしくなった自分を表現したりと
悲観不幸をことさら餌にして作品をつくる。
満たされない生理的欲求の為に
自慰行為のおかずになる絵を描く人も出てくる。
そうした画家はいろんなことに敏感なある意味優れた画家だ、
だから、逆に権力者はおそれている。
自分達のシステムがみつかり
吊るし上げられることをおそれている。
そうならないために視点を別の面に向けさせる。
ばれそうになるとやたらと褒め称え
自分たちの側に引き入れ逆らえないようにさせ、
裏切った者は薬漬けにしたりして不能にさせる。
それ以外の反逆者は絶対に浮かばれない生き方を強いられる。
極貧の中で抵抗し続け評論家の批判にあい、
無名のまま消えていく。ずっと続いているこのシステム。
そろそろ変えましょう!
絶対変えられると思う。
なにせ無名のアーティストの方が多いから。
でも、彼ら権力者に真正面から戦っても無駄です。
まともにやって勝てる相手ではないですから。
ここはしたたかにいきましょう。
純粋である為には無知であってはいけない、
盲目であってはいけない。
知るべきことはしっかり知り
汚い水に染まることなく寧ろ浄化するくらいの力で生きて生きましょう。
そんな芸術家が増えれば権力者たちが喜ぶアートではなく
アートという枠がなくなるようなアートが増えることだろう。








2016年12月13日

アーティストであるとはどういうことか その9

アーティスト・画家は
絵だけを描いていたらいいのか?
それだけでいいのか?
職人ではないはずだ。
絵描き、せっせと絵を描いて生活する。
描きたい絵でも描きたくない絵でも頼まれれば描く、
その人が何を考えていようとどんな生活であっても、
そんなことはどうでもよく、
依頼人の望む絵が描ければそれでよしとする職人。
私は職人をどうこう言うつもりはない。
誤解を招くのでそれ以上は言わないが、
アーティストと職人は分けて考え
そしてどちらが上か下かという考えをしていることではない。
つくる人たちの中の一つとしてアーティストを見るただそれだけ。
画家アーティストは絵を描いているだけでいいのか。
一つの世界つまり学校でも
社会に出ても一つの分野しか見てないと他に
視点が向いていかなくなるような気がする。
それが良いとか悪いとかではなく、
何が必要なのかをそれぞれがみきわめないといけない。
あれもこれもすることすることは必要ないけど、
生きていく中でいろいろ体験するものは大切だ。
今は何かが気がつかないうちに変わろうとしている。
自分から一歩前に進まない限り見ていても見えない。
本当か見えない。見ていても知らないから問題意識すらない。
それすら感じない。
感じなくなるのは自分が考えがなくなっているからだ。
忙しく働きそれを美徳だと間違いしている人もいる。
受身ではなく、一歩前に自分の足で進んでみよう。
それが出来たら今とは少し違う風景が見えると思う。
そして考えるはずだ。それは決して難しくない。しかし、
それすらさせない権力者の巧みな戦略がある。
気付かれないように変えていく。
気が付いた時には既に枠の中に入れられ、
ルールが決められそして勝手にそのルールでゲームがスタートし
互いに争わさせる。
権力者は上からそれを楽しんでいる。
まずは、立ち止まることだ。
今はそれすら難しいことだ。
皆立ち止まるとそのまま落ちて二度と浮上することはない
と思い込まされている。
だから、止まるのがこわい。
だから、必死で何かにしがみ付いて走っている。
しかし、立ち止まらないと見えない風景がある。
しかし、止まれない。簡単なこと、
立ち止まればいいだけなのにできない。
落ちてしまう恐怖で止まれない。
私は止まった、そう、私は止まったんです。
すると分るんです。
落ちるって自分で勝手に思い込んでいるだけであると。
権力者に思い込まされていることに気付くと
落ちるとその人がころがれば足元にはたちまち川が現れ
足元からじわじわと落ちていく
自分がそう思えば思うほどそれが現実のようにリアルになり、
さらに深く深く落ちていく思うとおりの道を辿ることになり
落ちて浮上してこなくなる。
しかし、それはあくまで自分が思ったからそうなったなでのことで
思わなければ別の風景が目の前に広がる。
思い方の違いでいくらでも変わる。
別の風景が見えていてもまたこわいという気持ちが心をよぎると
風景も一変する。
全自分の心次第のようだ。
まずは、立ち止まって落ちないことを自分に言い聞かせ
自分を信じて立ち止まることだ。
でもやっぱりこわいようなぁ。
ちょっとでもこわいと思うと止まれない。
またすぐに走ってしまう。
こわいって思う以上足元に川ができてしまうからだ。
急に立ち止まれないのなら走る速度を緩めてみよう。
走るのではなく歩くぐらいでどうだろうか。
それでも走っているよりかは少しはゆっくり風景が見えると思う。
見える風景をゆっくりと見てほしい。
見て欲しい。きっと何か気付くと思うな。




2016年12月12日

アーティストであるとはどういうことか その8

価値は誰が決めているのだろうか。
例えば、何か手作りのものを売ろうとする時
材料に1000円
人件費に1000円がかかったとするなら
最低でもそのかかった金額が得られなければ生活できないし
1000円無ければ次につくる材料も買えない。
しかし、出来たものに1000円の価値すらないのであれば
何も売る事はできなくなってしまう。
しかし、売れないものはどんどん値が下がる。
そして価値あるものは中古であっても高額で売れる。
これは経済の話になるのでここでは深入りはしない。
ただ作った人の知らないところで
価値が上がったり下がったりしている。
作家は何のために作品をつくっているのか
そして今こうしてブログを書いている自分は
何のために書いているのか。
頭の中に何かモヤモヤしたものがある。
とても疑問に思うことや何故だろうと深く考えることや
このモヤモヤを自分なりに解決したいと思うとき
まず書いてみたり描いてみたりする。
書くことはまずノートに書きブログに投稿する。
ブログだけでは私が死んだ時消されてしまうので
何も残らないがノートは残る。
だからその時に思っていることなどを
見直すことも出来るし自分がいなくなっても
誰かが見るかもしれないし。
そして読んで何の価値もないと感じて
捨てられるかもしれない。
そうなれば結局時間とともに
何にも残らない。
世の中ではそうやって何の痕跡もなく消えてしまうものがほとんどだ。
おそらく自分もその一人だろう。
しかし、ゼロつまり無というか何も無いということではなく、
つまり、今私は空気を吸って生きているが空気は見えない
一見何も無いように見えるけど何も無いということではなく
空気がある。それと同じで今まで登場してきた全ての生き物、
生き物だけでなく形あるもの、
それ以上にもっと大きなものなど
きっと私たちのまわりにただよって世界を満たし時に
私を見守り時に何か気付きを与えてくれる一つ一つの小さなものでも
多く集まれば何かの作用を生み出すかもしれない。
その中の一つの変化か核分裂のように連鎖反応で
大きな力を生み出すかもしれない。
だから、小さな一つも侮れないし小さな力でも
集まれば大きな作用を生み出す。
ブログに書くと誰かが見てくれる。
その中の誰かの心に何か小さな変化を与える事ができたら、
このブログを書いた意味がある。
たった一人でもいい。伝われば嬉しいと思う。
私が絵を描き続けていこうと思ったのは、
一人の購入者のおかげだと思っている。
何か心に引っ掛かるものがあったのでしょう。
その方は私の絵をじっと見ていたそうです。
その方がどんな方かも分らない、
その人に何か深いものが伝えられたのだと感じました。
素直に嬉しく感じました。絵を描くことの目的というか、
なぜ描くのかの根本にはこのことが深く関係しているようです。
描く事の理由ははっきりいって十人十色です。
一般論として断言していうような上から目線の評論は
あまりあてにしないほうがいい。
一般的にいって答えがないというのが答えなのかもしれない。
しかし、自分を見失っていると
権力者に操作されていることに気が付かない。
権力者がつくった枠に入れられ勝手にルールを決められ
競争させられ意味の無い争いをさせられ、
勝負させられ、
その枠の中のことだけしか考えないような人間にさせられてしまう。
ルールの中で争っている以上
そのルールをつくった権力者に立ち向かうことなど出来るはずも無い。
ましてその存在すらも気が付いていないのかもしれない。
枠をつくっているのは誰だ?
ルールをつくっているのは誰だ?
それを出来るだけ多くの人に伝えないといけないと思う。
その人が出来る手段で。
小説が書ける人は小説を書いて、シンガーなら歌って、
画家なら描いて、哲学者なら私たちを目覚めさせて欲しい。