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やすねこアート
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2017年07月29日

魚の記憶    その2

06-魚の記憶.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120532

作品の価格は相対的です。
このブログで私の作品を問い合わせて頂いてもOKです。
半分以下の価格で購入可能です。さて、
作品「魚の記憶」ですが、これは、
正直どのように着色するか、
着地点がなかなか見えず時間がかかりました。
魚の形状は早い段階で浮上してきました。
線の中から、何か形状が見えてくるのは
面白いもので隠し絵を見て
何かを探すのに似ています。しかし、
この場合、これという答えはありません。
この様に見えると思えば、それでOKです。
一旦何かに見えるとそれが固定されてしまって
そこから離れられなくなります。
面白い現象です。しかし、
別の視点から別の形状をイメージすると、
また別のイメージが浮上します。
どちらに思い入れるかで
そのあと残る形状が決まります。さて、
この一連の行為を見て
「描くっていったい何でしょう」と思いませんか。
例えば、空をぼんやりと眺めています。
晴れた良い天気です。
少し、あちこちに真っ白い雲が浮かんでいます。
時間とともにカタチを変えながら、移動します。
隣の雲にくっついたり離れたりします。
ただボーっと見ています。
ポカポカして気持ちいい状態です。
そうした時ふと気が付くのです。
「あれーこの雲の形、何かに似てるな。ああ、魚だ」と
そんな場面。たまたま、
その時デジカメをもっていてその瞬間を
写真に撮ったとします。
プリントした写真は私の作品となります。
自然な雲の動きには、意図的なのかそれはさておき、
雲を動かしているのは自然の力であり
瞬間を選択するのは私なのです。
それが何に見えるかは私の主観です。


2017年07月28日

魚の記憶    その1

06-魚の記憶.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120532

私の作品は、サイズはA3サイズです。
だいたいの実感感覚としては
100均で売っているランチョンマットの大きさぐらいです。
インターネット販売サイトで
12000〜13000円程度で販売しています。
決して安い金額ではありません。
それは私にもわかります。しかし、
アートは純粋ではあるのですが、
商品である側面も決して否定できません。

感動を伝える。そこには、ビジネスは見えません。
純粋にその感動を、つまり「いいな」と感じて下さい。

それと、この作品欲しいな、というのは
別のマインドが必要です。
作品価格の金額には様々なものが隠れています。
サイト運営に伴う手数料。
これは一まとめに取られているので、
どのように振り分けられているかわかりません。
権力者の懐に入っていくのもあるでしょう。
それから、作品を送る送料、画材代、そして、
もちろん画家の報酬。
それらがからみあった金額なのです。
しかし、作品の価値を判断して、
「これは安い」と感じるなら、
私の作品は買い時です。
著名人の一言でゼロが一つ増えることもざらです。
価格は正直あってないようなものといっても
過言ではないでしょう。お札といっしょです。
これだけの価値があると認められれば取引され、
価値が無くなれば紙切れになります。
だから、絵画は投資に使われるのです。
一万円の絵でも、
それが十万でも一千万にも一億円にもなる。
そんな世界です。
技術的な精度など関係なく、
大枚を出しても買いたいと思えば
そこで値段が付くのです。




2017年07月27日

猫の冒険   その19

BB010.JPG

黒猫三匹は少し高い位置にいて、下を見下ろしています。
彼らは黒猫がもう一匹いることがわかっているようでした。
下を見下ろしていたのは、もう一匹の黒猫を探して
いるんだと、「私」には見えました。

さて、ここで説明をしておきます。
「私」とは、この部屋で生活している
現実世界の「私」です。ブログを書いている私
ではありません。

(解説)
ここでは、3つの世界があります。
ぬいぐるみの猫の世界、
ぬいぐるみの猫が置かれている
この部屋に住んでいる「私」がいる世界、
それら二つの世界を俯瞰している読者さん達の世界。
それぞれの世界は自身が存在している世界から
抜け出すことはできない。しかし、ぬいぐるみと
「私」は空間を共有している。私達読者は
彼らの写真を見ることで視覚的に
その様子を見ることができる。

ぬいぐるみの猫たちに
どんなチカラが備わっているのか
もちろん彼ら自身は知る由もない。
しかし、このチカラは何も
ぬいぐるみ自身が持っているという
ことでも解釈できるが、決して
それだけではない。
「接点」に関わるもの
相互作用的なもの
影響を与えるもの、
直接的であれ間接的であれ
様々な作用を与え、与えられている。
何を信じるか見極めないといけない。
ぬいぐるみの存在は
何らかの影響を与えている。
そして、その影響は、
直接的であれ間接的であれ
見たり、読んだりして
黒猫の存在を認識した人は
その人の記憶にその画像が
記憶として残り、それが
いつしか心に作用してくる。
それは、もうこの世界に
関わっていることを意味する。
そして
関わった人を変えていくわけだ。


さて、話は段々と入り組んでいく。
しかし、それは人の営みも同じことだ。
こんがらがってしまった毛玉を解く
ためには、決して短気にならず、
根気よく見ていく必要がある。
これができるのは、
俯瞰している私達だけである。

関係U    その6

05-関係2.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120357

何かいいな、
と思うその感覚なのである。

よい感情を持てば、そこから、想像力が働くと思う。
興味を持つというか
どのようにしてそこに行き着いたのかを
想像するのは楽しい。
はじめはさらっと、そして、その後、じっくり見て欲しい。
見入ることで、日常の風景から非日常へ、
このような抽象画ならではに起こる現象といってよいでしょう。
何かを見る場合、
意識するしないに関わらず頭の中で、情報が処理されている。
それを出来るだけ少なくするところからスタート出来たら
より直観的に目に飛び込んで来た作品を
感じることが出来るかもしれません。
普通は、身構えて、
今から、作品を見るぞっと体がコチコチになって
リラックスせずにみてしまうことが多いのではないだろうか。
単に、ごくごく普通になんか空の景色を見るように、
例えば、晴れた日に空を見上げて
「あー、空、青いな、いい色だな」といった感じで見る場合、
直接的に何にも考えずに意識せずに
見たままを受け入れる。
しかし、自分がわざわざ美術館やギャラリーへ出向いて
今から見るぞと肩に力が入ると
例え自分がリラックス出来ていると感じても
やはり、純粋にスーッという感じでは
受け入れられないと思う。
このジレンマのような妙な感覚は
どうしてもつきまとうこともあるが、
やはり、これは見る側にも
いろいろと訓練なり勉強が必要になってくると思う。
それは単に、知識のことを言っているのではない。
行為であり、姿勢であり、
自分が何を望んでいるのか
自分自身が自覚していることでもある。
しかし、それは、大人でなければできないとか、
何か特別な事柄を勉強しないと出来ないことではない。
何かを求める。真剣な眼差しをもって
作品に対峙できれば、子供にだって
それは、可能であると思う。
しかし、それも、そんな大それたことではなく、
ごくごく普通に、純粋に感じる力があればよいと思う。
それはいったいどんなチカラなんだ、
と逆に問われてしまうかもしれない。
外見で人を判断したことは皆経験があると思う。
イケメン風とそうでないのを比べたときの第一印象は
良い方に目が向いてしまうだろう。しかし、
その本質は、そこでは判断できる人は、すくない。
外見ではとても難しい。しかし、
多くの実際的経験がある人から見ると
本質は外見からでも何かしらにじみ出ているものらしい。
それをかぎ分ける能力がある人は、
外見に惑わされないに違いない。
絵画の場合、別に善悪があるわけではないが、
たとえ一般的に評価が高い作品であっても
自分にとって受け入れられないものであれば、
それは良くない作品に見える。
無名で、誰も何の評価もない作品であっても
自分にとって、気になるような存在に見える作品もある。
その判断である。
長々と説明したが、要するにそういうことなのです。
だから、いろいろなものを見聞きし、
自分の頭で考え
自分にとって本当によいものって何だ
と常に考えている人であれば、
例え子供であっても、
感じる力は十分にあると思うのです。
他人がどうこう言っても自分はこれがいい
と思えるなら、そう言える。
これが大切なことだと思う。

私の作品は、
多くの人は見向きもしないことでしょう。
しかし、中には何を感じてくれる人もいるのです。
何年前にそういう方が購入して頂きました。
誰か一人でも共鳴してくれる、
ただそれだけでも、何か嬉しいものです。
(完)

2017年07月26日

関係U    その5

05-関係2.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120357

抽象画で重要なのは何だろうか。
多くの人は、
難解なものとして抽象画を敬遠してしまったり、
妙な新興宗教的対象のように崇めたりするように、
何も考えずにとにかくすごいみたいな見方をする人もいる。
抽象画を差別化している。

普通の人物画とか風景画よりも
面白いとかよくわからないところがいいとか、
作品を語ることで
ちょっと自分が賢くなったような錯覚をしている。
私はまず、変な差別化はしてほしくないと思う。
どの作品もそこには、作家の想いがあるはずだし、
カタチだけ上辺だけのものであれば、
どんな作品であっても陳腐に見える。
作品は、どんな描き方であれ、
それを見て何を感じるかだと思う。
風景画にしても、人物画にしても
そこに描かれている対象が具体的であるために、
ついついその人とか、風景に描かれているもの、
そのものに視線が行き、単に、
モノをみているだけに終わってしまう。
「ああこの建物を描いたのね」とか
「近所の〇〇さんを描いたんだ、上手いね」
といったように、そのモノであったり人であったり
単に何が描かれているかに
単にそのものしか見てない。
だから、有名な〇〇さんの描いた絵というだけで
単に販売単価が上がる。
一般の人たちはその評価をみて判断しているにすぎない。
それは、人を単にルックスとか学歴でしか見ていないのと同じ。
有名だろうが無名だろうが自分が好きな絵を見るべきだと思う。
つまり、その作品を見てどう思うかどう感じるかだと思う。


今 ここに存在している私について ふと思いました

医師の中村仁一先生が講演会でこんなことをおっしゃっていた。
ある外科医が、
これから手術を受けるかどうか決めかねている患者に
「この手術は90%成功します」といったら
患者がそれを信じて手術を受けたそうです。
しかし、運悪く失敗し命を落とされたそうです。
しかし、90%成功といっても、
その90%にその患者さんが入るとは
その外科医は言ってないわけです。
運悪く10%に入ってしまった。しかし、
いくら90%成功すると言われても
やってみなければ何とも言えないわけです。
つまり、生きるか死ぬか五分五分なんです。
結局。例え、99%成功する手術ですと言われても
自分が残りの1%に入っていれば死ぬわけです。
中村先生は手術は命を担保にした博打といっています。

話はかわりますが、ジャーナリスト池上彰氏は
FXはある意味ギャンブルだと言っています。
巷ではいろんな方々がFXに関して
いろいろな情報を提供しています。
経済の動向、政治の動き、その他
いろいろな要因を分析材料にして
値動きを予想しています。
一番得したり損したりするのは、
あるイベントが起こる前後です。
それが、雇用統計とかであったり云々。
しかし、そのタイミングにうまく乗っからないと
実際には儲からない。
一旦上がってもいきなり下がるかもしれない。
微妙な値動きまで専門家でも予想はとても困難だろう。
ある程度こうなる、とかまでで決して断言はできない。
これは、手術の時の外科医の発言に酷似している。
外科医の発言にしても、
「あなた」の手術は成功しますとは言ってないわけだし、
FXの専門家でもこのタイミングで買えば
あなたは必ず儲かるとは断言してないはずです。

どのようになろうとも、
人はどちらかを選択しながら生きているのですね。
右の道へ行くか左の道へ行くか。
「もし、あの時、右でなく左の道へ行っていたら、
今頃自分はどうなっていたのだろうか」と。
わたしは、こう思うのです。
もしもの選択の世界は、
今の現実よりも良くない世界だろう、と。
私は、大学受験に失敗したが、
結果的にその十年後会社を辞めて留学することになった。
当初はアメリカを希望していたが、
手続きがうまく進まず、カナダに留学となった。
そこで、親友になる人を出会い、
そして、生涯のパートナーとなる人に出会った。
結果的に最良の選択だったと感じた。
人生の節目節目で上手く行かずに落ち込んで
自分は運が悪いと思ってしまうことも度々あった。
しかし、失敗だと思いながらでも、
自分はこの方向に進むと感じ、
自分の足で一歩一歩進んだこと。
何か良くわからずに歩いているが、
歩いていると楽しいことも面白いことも
素敵なことにも出会う。
しばらくして振り返ると、
結果的に自分が最良の選択をして来たんだと気が付く。
もしもの世界を考えた場合、
おそらく今の世界は無いだろう。
親友になる人もなく、
パートナーにも会うこともなく、
自分が今生きているかも分からない。
分からない。分かりたくもない。
今以上の最良の状態が、
もしもの世界にあるとは思えないからだ。
最良の状態は、誰にとっての最良か。
自分自身にとっての最良か、
社会にとっての最良か。

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2017年07月25日

関係U    その4

05-関係2.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120357

思い返してみると
境界でかこまれた中を着色する行為は、
何かステンドグラスの色配置に通ずる共通点がありそうだ。
これらは、技法が異なっても、
どこかで潜在的に記憶として残っていて、
無意識にそれが、飛び出してくる。
どんな些細な体験であっても、それが、
記憶の断片となって、様々な作用で
行為に変化を与える。
夜の静かな静まり返った空気を肌で感じる、
遠くで聞こえる車の通る音、虫の鳴き声、
夜はいろいろな顔があり面白い。
夕方から日が完全に沈み、
夜になるところの完全なオレンジから
ダークブルーの闇に変わっていくまでの終末的な風景は
寂しさの中にも冷静さが秘めていて緊張する。
そして、夜が深まる。
この静けさは実際にその場にいて耳で聞いて
肌で感じなければ分からない。

「関係T」「関係U」の作品が出来たのは、
そこに至るまでの試みがあったからだと思う。
いくつかの試行錯誤を重ねて、
試みた行為で、なかなか面白いと思った。
この試みもほんの些細な点が、
一つのきっかけをつくるには十分である。
それが大切。
技術的なものは、何回もやっていくうちに上達するだろうが、
私にはストレスになる。
この今の描き方は、
七年ぐらいになるが職人技のような鍛錬さは無い。
精度を高めるより、
そこから外れる何かを探しているのかもしれない。
今の描き方がこの先どこまで続くかわからない。
長い時間をかけていくと
着色の仕方や配色の考え、線の引き方、
取り組み方にいたるまで変化してきたのがわかる。
それは自分の成長が、良い方向か悪い方向か
分からないように、
生活から影響を受けている作品制作もまた
分からないのだと思う。
日常生活から影響を受け、
作品は変化する。
変化は新しいアイデアを生み出す。
それが結果的にどうなろうと
自分の行為を信じるしかない。



2017年07月24日

関係U    その3

05-関係2.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120357

私は、自分のことを絵描きとは言いたくない。
それは、なぜか、
私自身、作品を絵だけに特化したくないからである。

今に至るまで、いくつかの体験があった。

陶芸の体験もあった。皿や茶わんを作った事もあるが、
粘土での小品をつくることを楽しんだ。
ここでこだわったのは
職人的なこだわりよりも面白い形状だ。
私は、職人的な性格の器用さは無い。
何十年も一つの技を磨き上げる事は
私には困難を伴い、精神的なストレスを感じる。
私の代表的な作品はロクロを使わず、
手びねりで皆があまり見たこともないような
形状のものが多い。
小品でかわったポーズのお地蔵さんをつくったり、
かわった形のコーヒーカップもつくった。
このように、陶芸を筆頭に

ステンドグラス、
彫刻、
織物、
シルクスクリーン、などにも挑戦したことがある。
きっかけは大学の演習であったり、
知人のアーティストから教えて頂いたりして
挑戦してみたわけだが、
絵画以外で今でも一番長く続けているのが
写真だ。
写真のことを語ると延々と長くなるので別の機会にするが。

さてさて、話は戻るが、
自分が今、描いている絵のスタイルが、
なぜそうなっていったのかというと、
一つは過去の体験したアートな活動に影響しているのだなと
最近思うようになった。
ステンドグラスのあの独特の境界線は
今思うと強烈にインパクトがあったと思う。


2017年07月23日

関係U   その2

05-関係2.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120357

この「関係T」と「関係U」の作品は少し描き方を変えている。
一つ一つの行為は描き方に大きく影響を及ぼす。
しかし、それは、ほんの一瞬の光がもたらすものだ。
カメラのフラッシュが光るように
何かがピカッと頭の中で光る。

これか?これだ!という感じ。

こうしてみよう、これやってみよう。
新たな考えが急にふと浮かぶ。
じわじわと底から浮かび上がってくるのではなく、
気が付くとワーッと目の前に出てくる感じである。
いきなり目の前でピカッとフラッシュされるようである。
瞬間くらくらするが、すっと我に返り

ああ、なるほど、こういうことか

と、ひらめくような、
この感じは面白い。だから描き続けるのだと思う。

「これは何?」

と聞かれても正直答えようがない。
そのような質問の答えとして
この作品が用意されているのではないから。
だから、この質問は、

「まずは感じて下さい。何を感じますか?」
と答えるようにしている。
答えというより別の質問に変えて、
相手に問うているわけである。
しかし、このようにしか言えない。
なぜ、こんな感じの作品を描いているのか。
それは、正直なところよく分からない。
分からないからこそ、
むしろこれを描いているともいえる。
風景を描いたり、人物を描いたりしてもいいが、
これといったテーマが見つけにくいし、
多くの作家がこの方面の作品の取り組みをしている。
だから、同じようなことをしたくない、
という気持ちが強い。


まだまだ これから 出来る事は いろいろあるさ

先ほど、日野原さんと篠田さんとの対談の再放送の番組をみた。
昨年の番組だろうな。
そこでの対談を聞いていると、何か励まされる。
それに、半世紀生きている自分って、まだまだだな、
って思えてきてしまう。
なんせ彼らの半分しか生きてないわけだから、
まだまだ新しいことに挑戦したって
やり直しができると希望がもてる。
しかし、失業してハローワークに行き、
紹介状を持って面接に行くと、
この年でよく面接にこれるなぁ、
ってな顔をされる。
あんたはもう介護や清掃とか、
いわゆる社会が底辺と呼んでいる仕事しかない、
とでも言うようなそんな態度を露骨にされる。
そこでは、半世紀も生きている人間は
何もチャレンジできないように感じてしまう。
これは、相対論だ。
どこで何を基準にするかで見方が変わる。
メディアや社会のシステムは
至る所でいろんな仕掛けをして
私達を縛っている。
或いは見えない柵で囲って
外に出さないようにしている。
一つのサラリーマンという囲いに入っている限り、
そこでの勝ち組負け組があり、
競争路線から外れると
競争の輪にも入れてもらえない。
そんな囲いが世界の全てだと
信じ切っている人にとって、
リストラは恐怖以外の何物でもない。
だから、死ぬまで必死でしがみつき、
結局過労でボロボロになる。しかし、
わたしは、運か不運かしらないが、
一般路線を外れまくっているので、
リストラされようと、嫌で会社を辞めようが、
全然めげない。
三十代で海外生活を経験し、
帰国後しても点々を仕事を職場を変えたが
ホームレスになることもなく何とか生きている。
もちろんいろんな人の協力のおかげでもあるが、
そうであっても、
いろんな世界や生き方をみているからこそ、
何とかなるという気持ちにさせてくれるのだ。
いろんな意味で生活が大変な人がいるだろうが、
下を向いた顔をちょっと上げてみるだけでも
景色は違って見えると思うよ。
一つの生き方とか同じ世界でサバイブするとか、
そうではなくて、外れた道の
反対側に全く違う新しい道があったりする。
それが  もし、草ボウボウの荒れ地なら、
自分が踏み固めて新しい道をつくってもいい。
目の前の敷かれたレールだけが道ではない。
踏み出せばそこには新しい出会いもあるだろう。
思いきって人とはなすのもいいかもしれない。
日野原さんや篠田さんの言葉を聞いていると、
これからまだまだいろんなことが出来る、
そんな気がする。そうなると、
やりたいことが色々浮かんでくる。
その希望が生きる支えになるんだね。
百まで生きるんなら、
まだまだ時間はたっぷりある。

さあ、何から始めようか?

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2017年07月22日

関係U   その1

05-関係2.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120357

実はこの作品は、作品「関係T」よりも先に描かれたものである。
「関係T」との違いは一部を着色しているか否かである。

本来、こうした作品の説明など、
作家はする必要もないし、
そんなことをしなくても、
作品を見る人に、それぞれ考えて欲しいことで、
こちらかあえて何か語る必要もないし、
むしろすべきではないと思っている人が結構いると思う。
作品は本来、語る代わりに見ることで訴える。
何かを伝えることを目的としているはずだ。
だから、作品そのものを見てくれ、
見ればわかるだろうと
作家は言うだろう。

確かにそうだ。

説明が必要な作品は
それのみではインパクトがないし、
何を伝えたいのかも分からないから、
いちいち解説をつけないと分からないと
思われているかもしれない。

しかし、それは、ちょっと違うかなと
私は思う。
見る側は出来るだけ解りたいと思っているはずだし、
それの助けになる情報が見られるのであれば
見たいを思うだろう。
作家が何を考えているのか、
作品に対する思いや考え、
どうな風に見て欲しいか、
このような考えで見ると入りやすいとか
あると思う。だから、
作家である私がじきじきに、
ここで作品の紹介をしているわけだし、
少しでも私の作品を好きになってくれれば嬉しいと思う。
気楽に描いているただそれだけではない。
いろいろな思いが浮上しながら、
時にそれと対峙し、
作品と対話を重ねながら作業を進めてきた。


ある意味、ゴジラって一生懸命に生きているんだなぁ と思った


私は、ふと思うことがあると、
ノートに書き留めたり、それが無いときは、
そこら辺にある紙切れなどに
書き留めるようにしている。
ふっと、湧き出ることがよくある。
疑問に思った事や
これはどういうことなんだろうということは、
それについて考えたり
知らないことは
調べたりするのが面白いからだ。
しかし、湧き出た瞬間に
どこかに記録しておかないと
すぐに忘れる。せっかく
面白ことを思いついたのに、
興味深い疑問が沸き起こったのに、
それを書き留めてなかったばかりに
忘れてしまって、それを探求すらできない。
これは寂しい。だから、
シャワーを浴びているときでも、
トイレに入っているときでも、
思いついたことがあると
書き留めるようにしている。
「ふと思うこと」  この「ふと」という状態は
何となく好きだな。
何かのきっかけで  ふーっと
浮上してくるんだな。
この感覚は何とも言えず面白い。
何か大事なことを忘れていて、
忘れたことを覚えているから、
一生懸命思い出そうとしている状態は
もどかしい。
関連するであろう他の言葉をキーに
連想しながら手繰り寄せる作業は
犯人を推理している感覚に似ているかもしれない。
といっても実際にそんな犯人探しなど
したこともないのだが、ふっと、
忘れていた事が浮上してきたときは、
やったー、とうれしくなる。ふと思うことは、
何気ない日常にちょっとしたスパイスを
与える感覚にも似ている。
ふっと、思い出すことができるためには、
常日頃、何かを考えていたり、
何かに疑問を持ったり、
そうでなくてもボーっとしている時であっても、
ふっと頭の中に浮上したりするもんなんだ。

そういえば、先日、レンタルでDVDを借りてみた。
映画館で見られなかった「シンゴジラ」を見た。
レンタル中四回みた。最初に見たときは、
やはりゴジラを倒すために奮闘する人間の活躍を
見ていた。いろいろ知恵を絞って頑張っている様子が
リアリティーがあった。しかし、三回、四回はむしろ
ゴジラの方に視点が向いていた。映画の設定では、
地球上で最も進化した存在だ。
もし、人間が絶滅したら、彼らゴジラが人間に代わって
頂点に立つことになる。ゴジラにとってみれば、
自分の周りで騒いでいるこいつら(人間)は
いったい何だ、と思っているに違いない。
ゴジラから見れば、我々人間はゴキブリみたいなもの
かもしれない。ゴジラにしてみれば、
たまたま陸に上がって歩き回ったところが
運悪く東京だったというだけのことかもしれない。
熊さんが間違って街に出てきてしまったみたいに。
だけどゴジラは熊さんじゃあない。
人類よりも進化した存在だ。ビビるのはむしろ人間の方だ。
映画の中で、ゴジラはどんどん大きくなっていった。
しかし、そう仕掛けたのは人間の方に
問題があったのではないか。
そもそも人間がいじめたり攻撃とかしなければ
デカくならなかったのではないか。
最初に接触した人間が何かしらの干渉を
ゴジラにしたに違いない。
最初から敵扱いだ。
ゴジラもきっと最初はもっと小さかったんだと思う。
そして海底でシーラカンスのように、
人知れずひっそり生きてきたんだと思う。
そこへ人間が入ってきて、引っ搔き回し、
きっとゴジラはいやだったんだと思う。
必死で生き延びるために変化してきたんだと思う。
そこだけ想像しただけで、何て健気なんだと思う。
まぁ、そんなことを勝手に思ってみたわけです。
実際のお話はどうなんでしょうね。
続編を匂わせた終わり方でしたね。

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2017年07月21日

関係 T  その3

04-関係1.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120182

見て何を感じるか、それが問題だ。

これは風景画ではなく抽象画でよく言われる言葉である。
勿論、具体的な何かを抽象化して
一つのメッセージのようにしたものもあるが、
この作品は、そうではない。
具体的な何をというよりもまず見て何を思うか、
そこが一番大切で
見る人にもそれを期待している。
これを単に難しいと、かわからんと、
いって切り離されてしまうのが寂しい。
まず、能動的に見てほしいと思う。
受け身で見てはそこからは何も見えてこない。
何だろう何が描いてあるのだろう
というところから出発して
全体の形状から
線一本一本に至るまで
ゆっくり見てほしい。ゆっくり見る時、
この作品と接する時間が
長くなると自然とそのみることから、
いろいろな考えなり思いが、浮上してくる。
それは忘れていた記憶かもしれないし、
新たな感情かもしれない。
それらがさらに次から次へと
自分の中で眠っていた思いや
考えをよみがえらせる。
時にそのことで不快になったり
恥ずかしくなったりするかもしれない。
または恐れや怒りを呼び起こすかも知れない。
結果的に浮上したこれらの思いから
ふと我に返り
いったい今のは何だったのか
自問自答ができたのなら、
この作品の鑑賞としては成功だと思う。
つまり、それは、作品を見ることで、
何か引っかかるものが浮上したことであり、
作品と鑑賞者とを結びつけることが出来る。
(完)


2017年07月20日

関係 T  その2

04-関係1.jpg
http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120182

作品を商品とするなら、
クライアントも描く前からいるわけだから、
ちんたらして作業などできないだろう。

私はそれとは真逆の作家だ。
それだからこそ、一枚の絵に
長い時間をかけられるのだ。
誰かから頼まれたわけでもなく、
自由に描けるから、
時間を気にせずに描けると思う。

作品と対話をしながら一つ一つ着色していく。
この過程を楽しむ。
結果として作品を見た人は、
何を思うのだろうか。

作品「関係T」は線の交わりが多い。
交わりは出会いであり関係だ。
よい関係もあるが悪い関係もある。
どの交わりに感情的になるのか、
見分けられるか。
それに、こだわりながら見ていると
だんだん面倒くさくなる。
意識が上の段に浮上し
本人ですら気付いていない。
評価を無意識のうちに
自分自身でしている。

一人の人間が一生に関わる関係は
いくつあるのだろう。
それを見ているようだ。
人それぞれ
いろいろな出会いがあったはずだ。
だから、この作品でのこの箇所あの箇所が
特に気になるということになる。
一つの出会いが、
いくつかの関係に作用し変化していく、
これはひとつのネットワークだ。
関係相互さらに関係が深まり果てしなく広がる。
そうなると一つ一つの交わった箇所
そこに至る線の流れに思いをはせる。
このように、一本の線、
一つの交わったところを見るといった部分から、
絡み合った全体を見るに至るまで、
見方はいろいろあるし、
それによって感じ方が異なる。

見て何を感じるか、それが問題だ。


2017年07月19日

関係 T  その1

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http://www.art-meter.com/works/?ID=AW120182

この作品も私が手掛けているSenseOfTouchシリーズの一つである。
シリーズを始めて七年近く経つ。
始めは一つの試みだった。
いろいろな描き方、作風を模索していた。
これもその一つだ。
しかし、この描き方にしても、
誰でもが一度は描いてみたことのある描き方だろう。
しかし、よく考えて、自分の行為を振り返ってみた。
確かに、
最初のアプローチは誰でもが通る
一つのパターンのような行為であったが、
他の人は、その後、
たいてい、次のもっと目新しいものに
視点が移っていく。
つまり、初心者や新参者は、必ず
この道を通るが、ほとんどが素通り。
ちょっと、試してみて、次に行く、
その繰り返しだ。
私のこの作品のような描き方は
いろいろな試みの一つとして
面白がってやるものの、
それを突き詰めようとせず、
次の試みへと続く一つの過程のような
ものとして皆は捉えている。
多くの作家がここに停滞しないのは、
この描き方が通常とは異なることと、
本来の写実的な描き方を練習したい場合には
不向きな手法であること
などの理由が挙げられるが、
つまり、本来自分が技術を磨きたい
と思っていたデッサンとかといったものの
妨げになると思たんだと私は感じた。

私は、七年続けている。
つまり、この描き方は私のモノだ。


2017年07月18日

ゆっくりと静かに  その6

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http://www.art-meter.com/works/?ID=AW119953

しかし、鑑賞する人にとっては、
結果しか見ることが出来ない。だから、
本来見る側にも作家に匹敵するくらいのマインドが
必要なのかもしれない。或いは、
それ以上の見る目がないと作品を本当に
味わうことは出来ないのではないか。つまり、
見る人は結果しか見えないのに
その背後にある始点から終点までの工程も
その結果から、結果を見て、
想像しないといけないのだから、
そうでなければ、解釈は難しい。
「ゆっくり静かに」の作品は、
作業量的には少なそうに見える。
実際、作業の量としては少ないが、
そこに至るまでは、
それ以上に時間がかかっている。
見る側には、別に
そんな点まで想像する必要はないのだが、
結果である作品には、
そうした背後のものは見え難い。
その代わりに見る人には、
普通の時よりも少し多く
見つめることになるだろう。
見て何を感じるか、
それが問題だ。
(完)

2017年07月17日

ゆっくりと静かに  その5

03-ゆっくり静かに.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW119953

しかし、こうした一連の行為は、
自分自身の行為なのか、
純粋に自分で考え
自分の意志でおこなっているのだろうか。
単に何かに操られて描いているんじゃあないか。
何か神様のようなものが情報を提供して、
それを受けて描いているの過ぎないのではないか。
そう解釈されそうにも思える。
そう解釈されても、否定できないかもしれない。
しかし、現実的には外見上
私が全て描いているわけであって、
しかも、誰かからこれを描いて欲しいとか
クライアントがいたわけでもなく、
自分の意思でつまり、まさに、
自分で描いた作品だしと解釈できる。
しかし、先に説明した通りこの作品は
描いている過程で何か描きたいか決まっていき、
着色の配色もそこから決まり
そして、その後に目標点が決まる、そんな作品だ。
見る人は描かれた結果としての
作品しか見ていないから、
その工程が見えない。
作家である私は、その工程が最重要なのである。
多くの作家は、その点では同じではないだろうか。
ふと思った。たとえ描きはじめであって
そこで目標となる着地点のイメージが
あったところで、
その間で様々なことが作家に起こり、
着地点を変更することはよくあることではないか。



猫の冒険  その18

1-04-3.JPG

一体ここは何処なんだ。
黒猫は気が付くと別の場所に
いました。  白ねこがいない。
黒猫は自分が、自分の色が黒い
ことに気が付いていませんが、
相手の色はわかります。
いつの間にか、
黒いのが2体転がっている。

「おーぃ」

黒猫は叫んだ。
この叫びは私達には届かない。
同じ空間にいながら
まったくの別の
世界で、生きているのだから。

しかし、私たちと彼らの世界の
接触する点、つまり接点があるはずた。

この部屋には、謎が渦巻いている。



(解説)
他の記事でもご紹介しましたが、
「接点」というテーマは
私の中で大きなテーマに位置付けられて
います。ライフワークの写真と絵画でも
「接点」つまり異なる多種との接触に
とても関心を持って取り組んでいます。
写真にしても絵画にしても
私なりのこだわりをもって取り組んで
います。費やしている時間は
おそらく20年を超えるでしょう。
だから、これはもう
「私のもの」、「私のテーマ」です。
自分のテーマは、アートをする人
全てに必須であるにもかかわらず
それを見つけ、探求するまでには
個人差があり、それを見つけてアートを
始める人もいれば、アートをやると
先走ったものの、それが見つからず
ドロップアウトする人もいます。
殆どが後者でしょう。
私は、道草をしながら歩いています。
でも、歩みをやめようとは思っていません。
私のテーマは私固有のテーマで
例え、誰かが同じ名前のテーマを使って
いたとしても、その趣旨は異なるはずです。
固執する人間だと思われるかもしれませんが、
アートの世界は決して奇麗な世界ではないです。
興味あるアイデアは直ぐに盗まれます。
そして、最初に宣言したり、発表した者が
権利者になります。それは、いつも
メディアに一番近いところにいる作家、
権力者に見初められた作家達に限られますし、
声の大きい彼らにとって、声の小さい
私たちの声は公にはあまり届かない。
だから、せめてここの場所だけでもいいから
自分の思いを出しておきたい。
私にとって、今は唯一
聞いてもらえる場所だからです。

読んでくれてありがとう。

2017年07月16日

ゆっくりと静かに  その4

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http://www.art-meter.com/works/?ID=AW119953

「ゆっくりと静かに」作品の場合は、
やっぱり、始めに葉のイメージが飛び込んできたわけである。
だから一片を見て、それがイメージ出来たが、しかし、
そこからすぐに全体のイメージが見えたわけではなく、
そこからは一枚の葉のイメージしか起こらず、
かなり長い間、時間をかけ全体のイメージを浮かび上がらせた。
はじめの一片は重要であるが
その重要の中の重要な部分は
そこの箇所を何色で着色するかである。
これがたぶん、はじめの行為で
一番大切なとこになるわけである。
なぜなら、葉のイメージであって、
その一片を着色する際
それを連想させない色で着色した場合、
明らかに次に続く連鎖が切れる。つまり、
葉というイメージはそのイメージを
こわすようなことになっても果たして、
自分がその時、間違った色を
塗ったことになるのかもはっきりしない。
その色でイメージしたものが、
崩れてもその色によって別の何かが
浮上するからである。それは、
意図していたものとは違う。
連鎖が切れた瞬間、
大切なところが消えたと思うかもしれない。
意図しないものが浮上し慌ててしまう。
しかし、じっくり時間をかけて、じっと見てみる。
これこそが、本当に
浮かび上がらせたかったものかもしれないからだ。
そうなると、そこにも何らの力が、かかったわけである。
それは、一体何か、
それは、未知のチカラと呼ぶしかないものかもしれない。


2017年07月15日

ゆっくりと静かに  その3

03-ゆっくり静かに.jpg

http://www.art-meter.com/works/?ID=AW119953

それから、描いたものをじっくりと見る。
ここで、描いたものと初めて対峙するわけである。
単に自分の気に入った形状である場合もあるし、
何かの形に見える時もある。その最初の一片が、
何に見えるのかということ、ここが、
この作品のつまり今自分が行っている作風で
描いている作品において、一番重要なところである。
それが、もし、対話であるなら、
その対話の糸口になる点なんだろうか。
出来事が起こる始まりの点とでもいおうか、
プレゼントを開ける瞬間というか、
何と言って表現したらよいだろう。
とにかく、ここが始まりの点になるわけである。
しかし、ここの点は、単に始点に過ぎず、
更に対話を続けないと、作品は出来ない。
時に自分の中に
その始点から連想されるイメージが
浮き上がりそうになるように
作品の流れを変える場合も、
ある始点から続く二番目のピースを
探す行為をするわけである。
そのイメージに合うようなピースを探し始める。
その連鎖で浮かび上がったイメージが
カタチづくられる。それは、対話ではあるが、
何か、自分で誘導して
話を聞き出している行為にも見える。
それとは反対に一片一片が
何かに見えてくるまで対話を続けることもある。
たいてい場合、この行為を大体の形が
見えてくるまで一片一片を一つ一つ
対話でつなげていく。それは、
連続して行う場合もあるし、
時間をかけながら一つ一つに
長い時間の幅があるわけだが、
見えてくるまでじっくりと対話する。