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posted by fanblog

2017年10月20日

続けていくことで きっと伝わると信じています

最初にお断りしておきますが、
私は、美術評論家ではありません。
そして、これから記することは個人的な意見です。

卑猥性に、如何にして芸術性を持たせるか。
永年、芸術家は悩みながら、思考を巡らせてきたことでしょう。
法律的な見方でもやはり、芸術は、
それはそれとして認めるが、
卑猥であることは別の話だ、という感じで、
なんかよくわからんですね。

裸体を見て「素晴らしい」と思うか、
「いやらしい」と思うかは
主観的な問題だと言う意見がある一方で、
卑猥なものは理屈抜きに卑猥だ、
とする意見もあるのも事実です。
足をM字に開脚すると卑猥だとしても、
陰部が映らなければ良しとする見方もあります。
しゃがむ行為自体はだれでもするし、
その姿勢を写したからといって
直ちに卑猥という言い方はできないでしょ。

マニアの中には、
しゃがんで何かをしている後ろ姿に
卑猥性を感じる人もいます。

そうなると、身体のある部分を見て、
その人がどれだけ卑猥な想像力を
働かせることができるかにかかってきます。
いやらしい想像というわけです。
ある形状をみて、それを
身体の一部と似ていることを想像する人も
いるようです。形状を見る。
音や声を聞いて想像する。
匂いを嗅いで想像する。あるものを触って想像する。

創造する力がある一方で、
こうした類の想像する力もあるようです。
芸術的の創造も、この類の想像に類似している
かもしれません。制作する行為は
ある意味、自慰行為に似ていますから。
この自慰行為を正当化するために、
本当はエッチな想像をしているにもかかわらず、
「いや、これは芸術なんだ。」と
自分に言い聞かせているようにも思えるし、
他人に悟られないように、(本当はスケベなのに)
「これは芸術作品なんだ」と白々しく言い訳しているように
も見える。

じゃあ、猫の絵を描いている人まで
いやらしい卑猥な人だといえるのか。
それは極端だが。それは、僕から言わせると
芸術の域まで行かない単なる絵を上手に描いて
商売をしている人にしか見えない。
かわいい猫を描く。それを見て、何か癒される。
その役割をになう存在としての猫の絵。
それは、それの役割があるが、
これは芸術とは別の領域のように見える。

芸術には、どこか危ない一線を越えるような何かがある。
一見理解できないもの。
急に立ち止まらずにはおられないような気持ちにさせるもの。
在り来たりに見えるにもかかわらず
何故か気になるものとか。とにかく、
その人の心にへばり付いて離れない、
そんなようなものだと思うのです。だから、
最初から分かってしまうものは、
一瞬面白く思えるかもしれないが、
すぐに飽きてしまう。見るたびに
いろいろ考えてしまうものは面白い。

裸体、特に陰部は普段は見えない。
それに見せるものではないとされている。
同性のものは普段、自分自身が見て
見慣れているので別段面白いものでもない。
しかし、見られない異性のものに対しては、
ことさら興味があるこだろう。しかし、
普段は見られないから、いろいろと想像したりする。
そしてそれを創る。
自分がどれだけスケベなのかその痕跡を
わざわざ残してしまうわけだ。
それを悟られないように、立派な芸術作品だと
自分で言い聞かせて世に送り出す。
売れて名前が知られるには、
その要素が不可欠に思えてならない。
引き付ける一番手っ取り早い手段は
卑猥な行為だと思うからです。
似たようなものが並んでいてスッと目に留まるのが
この卑猥性だからです。人間の本能を
メディアが巧みに利用する手段です。
見て一瞬ドキッとする。その瞬間に引き付けるのです。
それは、動物の本能なので
仕方無い事なのかも知れませんが、
それが評価される芸術にも及んでいます。
つまり引き付けるキッカケを与えているわけです。
そして、それを越えて更に人間の本質に迫ろうとすると、
今度は逆に陰部を見た時のドキッとした感覚は無く、
寧ろ理解できない得体のしれないものとして
素通りされてメインストリームから外れるのです。
深く思考している作家に多いタイプです。
私のように。理解されない辛さは、辛いですが、
安易に一般受けするエログロとかにしたくないです。
芸術性は一人ひとりにあるものです。
それに気付けば、本質を問うことも可能です。
しかし、何故かメディアはそれをさせないように
しているようです。殊更、卑猥性に目を向けさせ
本筋から本質を外そうとして曖昧にして
より複雑にして理解不能にしている。

作品そのものに罪はありません。
いけないのはそれを利用している側にあるのです。
良くも悪くもアートは利用され続けてきました。
今後もそうでしょう。

しかし、例え自分の作品であっても
制作を続けていくことで
何時か誰かに伝わると信じています。

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