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2020年01月31日

ジャパンナレッジ(正月廿八日)



 クレジットカードを作ってまで入会したジャパンナレッジだが、会費、年間2万円+税金分使っているかと自問自答すると微妙だけれども、いつでも『日国』や『国史』を引けるという安心感は金に換えられないものがあるし、『全集』や『東洋文庫』も読めるとなると、やめるという選択肢は出てこない。読めると実際に読むのとは別問題だけど、その気になれば読めるというのが、読書家にとっては大切なのである。いわば、大量に購入したものを積読本として所有しているのと同じ状態なのだから、年々投資額は膨らんでいくとはいえ、これだけの額で本持ち気分を味わえるのだから、安いものである。
 不満は、紙の本で読みたいなあというのと、『国歌大観』が収録されたのに、個人契約では利用できないこと。個人で利用できないものには、JKブックスなんてものもあって、『群書類従』や吉川の『人物叢書』など利用できたら嬉しいというものがある。正直、外国語の辞書やなんかいらないので、それを削って、歴史関係を充実させたコースを作ってくれんかなあとは思う。最近刊行されたチェコ語日本語の辞典が収録されない限り、外国語の辞書は使う機会はない。

 それはともかく、これまでは、月ごとの契約の場合には、クレジットカードを登録することで自動更新ができるようになっていたが、年間契約の場合には、毎年契約の切れる月に契約更新の手続きをしなければならないのが面倒だった。大した手続きではないのだけど、ものぐさ人間には面倒くさかったのだ。
 それが昨年の後半に入ってだと思うが、年間契約でも自動での契約更新が可能になったとメールで連絡があった。クレジットカードで処理するから、お金を使う実感はないとはいえ、チェココルナにして4000コルナ以上。ちょっとだけ悩んだのは事実である。結局は自動更新の手続きを済ませ、銀行の預金がなくなるまでは契約が自動で継続されることが決まった。もちろん解除は可能だけれども、そんな面倒なことを自分がするとは思えない。

 その後、ジャパンナレッジのサイトで、料金を二重請求してしまったというお詫びの告知があって、自分はどうなんだろうと不安になったのだが、対象者にはお詫びのメールが行くというのでメールが来ていない以上は問題ないのだろうと安心していた。そうしたら、今日ジャパンナレッジからメールが来ていたのである。
 もしかしてと思って開いてみたら、二重請求とは関係のないメールで、1000円分の図書カードネットギフトというのをくれるというメールだった。どうも年間契約の自動更新を申し込んだ人にプレゼントというキャンペーンをやっていたらしい。あってもなくても申し込むのに変わりはなかったから全く気になかったのだが、もらえるものはありがたい。でも図書カードネットギフトってのは何ぞやである。

 説明のページへのリンクがついていたので見てみると、かつての図書券が、何でもカード化すればいいと思われていた時代に、姿を変えた図書カードの進化版もしくはバリエーションらしい。何が違うのかは知らんけど、図書カードも図書カードNEXTとかいう何でこんなところで流行を追うかなあと嘆きたくなるような名称のものに変わっているようだ。
 かつての図書券と同じものなら、日本にいる人にあげてしまおうかとも考えたのだが、有効期限が10年ぐらいあるので、そのうち日本に行く機会もあるだろうから、そのときに使えばいいかと思い直した。念のためにネット上で使えないのかと確認したら、紀伊国屋や、hontoで使えることがわかった。紀伊国屋の電子書籍は使えないので、hontoで電子書籍を買うことになりそうだ。とはいえ、たったの1000円、何を買うかで悩むことになりそうだなあ。

 その図書カードのサイトで「図書カード使い放題」という本の雑誌社が提供している記事を発見してしまった。使い放題といっても3万円なのだけど、作家たちに3万円で自分の欲しい本を買ってもらうという企画である。3万円なら使いごたえがあるよなと思いながら何人かの、作品を読んだことのある作家の記事を読んでみたのだけど、みんな楽しそうに買い物をしていてうらやましくなる。
 ジャパンナレッジのプレゼントが全員に1000円じゃなくて、抽選で3万円、いや10万円とかだったらよかったのに。1000円分本が買えるとわかったときのちょっとした嬉しさはどこかに行ってしまった。抽選だとあたらない可能性のほうが高いのだけど、もともと応募したつもりのないキャンペーンだから外れても痛くもかゆくもないし、その分当たったときの驚きと喜びは大きくなる。とはいえ、1000円というのも、全員ではなく抽選だった可能性もあるのだけど。
 さあ、久しぶりに買うべき本を探すかあ。これがネット上じゃなくて、本物の本屋だったら嬉しさ倍増なんだけどなあ。
2020年1月29日23時。









posted by olomoučan at 07:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係

2020年01月30日

再帰代名詞の使い方4格短形(正月廿七日)



 チェコ語の4格は、原則として日本語の助詞「を」に対応するので、3格に比べればはるかに使い方がわかりやすい。それは当然、この再帰代名詞にも当てはまることで、「se」を付けることで意味の変わる動詞の解釈はしやすいし、そこからある程度のルールめいたものを導き出すことも可能になる。あくまでめいたものであってチェコ語の勉強や使用には役に立たないのだけど。

 前回「si」が使われる場合を説明した動詞「umýt(洗う)」だが、「se」とも一緒に使われる。その場合、「自分を洗う」ということで、シャワーやお風呂に入って体全体を洗うことを意味する。覚えておいた方がいいのは、シャワーを浴びるという意味の「sprchovat」も、風呂に入るという意味の「koupat」も、自分の身体を洗う場合には「se」が必要になることである。「se」を使わない場合には洗う相手を4格で加えなければならない。
 また、これも初学のころに習う「mít se」も、「自分を持つ」と考えれば、質問の「jak」にしろ、答えの「dobře」にしろ、「自分をどのような状態で持っていますか」「いい状態で持っています」と解釈すれば、主に体の調子を表わす表現として使われることにも納得がいく。この伝で「zabít se」が「自分を殺す」で「自殺する」という意味になるのもわかりやすい。

 日本語使用者の観点から言うと、「戻す(vrátit)」と「戻る(vrátit se)」や、「見つける(najít)」と「見つかる(najít se)」などのように、「se」をつけることで、他動詞が自動詞化するというものもある。「閉める(zavřít)」と「閉まる(zavřít se)」、「開ける(otevřít)」と「開く(otevřít se)」もそうである。
 もちろん、日本語のすべての他動詞、自動詞の組み合わせがこれに対応するというわけではない。「končit」は、日本語の「終わる」が自動詞としても他動詞としても使えるようになっているのと同様「se」がなくても自動詞的に使えるし、対義語の「začít」は、主語によって「始まる」「始める」のどちらの意味にもなる。

 また、「驚かす(překvapit)」と「驚く(překvapit se)」や、「動かす(posunout)」と「動く(posunout se」」の組み合わせのように、他動詞といっても使役形から派生したものと自動詞の組み合わせになるものもある。だから、「引っ越しさせる(stěhovat)」に「se」を付けて「引っ越す(stěhovat se)」になるという、日本語では使役の助動詞を付けた形が、基本となるペアがあるのも仕方がないのかと思える。

 逆に、「se」を付けることで再帰受身とよばれる受身形を作れるし、「uvidět」という動詞の使い方を考えると「se」が古典文法で言うところの自発の意味を付け加える場合もあるような気がする。「uvidíme to」も、「to se uvidí」も現状では結論が出せず、「(結果がどうなるか)見ておこう」とか「(結果は)見てのお楽しみ」と言いたくなるような場面で使うのだが、「se」がついた方が、「なるようになる」という突き放したような印象を与える。そこに古文の自発の匂いを嗅いでしまうのが古文読みたるゆえんである。
 ちなみに、「uvidět」は、不完了態の動詞「vidět」の完了態で、「見える」とか、「見る」でも意識してみるのではなく、視界の中に入ってきたものを見るときに使う。だから、4格を取る他動詞ではあるのだけど、日本人には自動詞っぽく感じられる部分があって、それに「se」をつけると、さらに自動詞性が強くなって自発に感じられるのではないかと。まあ、言語学の徒であれば、こういうのをネタに、使役から受身、自発にかけて広がる動詞の意味の位相の分析なんてことも考えるのだろうけど、我が任にはあらずである。

 さて、「si」を使った場合と同様に、「se」でもお互いにという意味になるものがあり、その一つが「uvidět」である。「Uvidíme se」で「お互いに見合おう」ということから、「会おう」という意味で使われる。「domluvit」は「最後まで話す」という意味だが、「se」をつけると、「最後まで話し合う」ということで、「話し合って決める」という意味になる。
 例を挙げていけば際限がないのだが、一言確実に言えるのは、3格の「si」を使うものより、はるかに理解しやすいということだ。

 それで終わってはつまらないので、ちょっと理解しづらい「se」を使う動詞をあげておく。「dát」は「si」と共にも使えたが、「se」とも一緒に使う。大学書林の『チェコ語日本語辞典』には「dát se」で「着手する」という意味が上がっているが、そんな意味で使ったことはない。
 物、もしくは動作を主語にして「dá se」で、「できる」という意味になる。能力云々ではなく、状況的に可能かどうかをいうもので、「jde to」に近いので、「行ける」とか、「何とかなる」という意味に理解してもいいかもしれない。モラビアではワインを「dá se」「nedá se」「pro Pražáky」という三つのカテゴリーに分けるなんて冗談はどこかで紹介したかな。
2019年12月28日23時。










タグ:動詞 代名詞

2020年01月29日

アホマスコミ(正月廿六日)



 中国で新型ウイルスが猛威を振るっている中、チェコでもニュースなどで詳しく報道され、大きな注目を集めている。チェコもゼマン大統領の朝貢が功を奏して、中国との間に直行便が飛んでおり、中国人観光客の数が増え続けているだけでなく、中国に進出しているチェコ企業や旅行先や留学先として中国を選ぶ人も増えているため、感染した人がチェコに入ってくる可能性は皆無ではない。
 チェコも日本と同様、まともな、正確な情報を伝えることに主眼を置いて冷静な報道を続けるメディアもあれば、国民の不安をあおることで売り上げやら視聴率やらを挙げようとするメディアも存在する。そんなメディアにとってみれば、今回の騒ぎというのは、あることないこと書き飛ばせる最高の機会のようだ。

 そんな状況で、新型ウイルス対策に関して、今日の午後厚生大臣や厚生省衛生局長の記者会見が行われた。注目されたのは感染者の入国を防ぐためにどんなことをするかということだったが、現時点では取り立ててできることはないという発表だった。もちろん、その前に現況の分析が語られ、どうしてマスコミで報道されている対策を取る意味がないのかを丁寧に説明していた。

 その一つが、プラハの空港で入国者に対して、体温センサーを使って熱のある人を隔離して検査するという対策なのだが、これについては、導入できない二つの理由を挙げていた。一つはウイルスの潜伏期間を考えると、入国の時点では感染していても熱は出ていない可能性も高く、導入しても感染者がすり抜ける可能性が高いこと。もう一つは、現在悪いことにチェコでもインフルエンザの流行が始まっていることで、熱だけを判断の基準にすると、インフルエンザで熱を出している人が軒並み引っかかって、検査する側も、される側も大変なことになるという。
 実際、特に新型ウイルスの騒ぎがなくても、飛行機の中で動けなくなるような高熱を出した場合には、飛行場で隔離されて問題がないことが確認されるまで外に出してもらえないはずである。だから、本当に発症して重症化してしまった患者が飛行機に乗っていた場合には、ほぼ確実に発見され一定期間隔離されることになる。以前、知り合いが一度乗り継ぎの飛行場で引っかかってチェコに来るのが遅れたことがある。

 また、中国からの直行便の乗客を対象にした検査にしても、チェコだけがその検査を導入しても効果が限られているという理由で現時点の導入を否定した。中国からチェコに来る人の多くは、他国の空港を経由してプラハに入ったり、他国の空港から鉄道でチェコに入ったりするので、現時点でのリスクの小ささと、検査の導入の効果の小ささを勘案すると導入する意味がないという。実際これまで感染を疑われた人は、直行便ではなくよその国経由でチェコに入ってきた人ばかりのようだ。
 そして、重要なのは中国から戻ってきたチェコの人たちに正確な情報を与えて、少しでも疑わしいと思ったら病院にかかるように指導することだと付け加えた。もちろん、必要がない限り人ごみの中に出ないとか、健康的な生活を心がけるなんていうのは、例年のインフルエンザ対策と大差ないのだから、一般の人が何か特別な対策をしなければならないわけではないとも言っていたかな。

 全体としては、きわめて穏当な内容の発表だったと思う。言い方は悪いが、現時点では対岸の火事なのだし、いざという時の準備をしながら状況を監視するぐらいしかチェコにできることはないだろう。ここで、国が冷静さを失ったら、前回の新型肺炎のときと同じことを繰り返すことになりかねない。その反省も、今回の冷静な対応に現れているはずだ。
 以前の新型肺炎のときには、タミフルが効くらしいということで、慌てたチェコ政府は、製薬会社の売り込みもあったのだろうが、大量のタミフルの備蓄に走ったのだ。あのとき政府は、鬼の首を取ったかのように薬の確保に成功したことを自慢していたのだが、最終的に大枚はたいて購入した薬はほとんど使われないまま後日廃棄処分されたようだ。マスコミのあおりを受けた政府が、他の国に先駆けて確保しようと交渉した結果、製薬会社に大儲けさせる結果になったのだった。もちろんこの件で政治家も役人も責任を取るなんてことはなかった。

 さて、クソマスコミの話だが、これだけの記者会見を受けて質疑応答に移った瞬間、「空港ではどんなチェックを導入するのですか」など、何らかの具体的な規制が行われることを前提とした質問がいくつかとんだ。お前ら今の今まで何を聞いていたんだ。現時点でできることはないと言っていただろう。外国人が本読みながら片手間に聞いて理解できたことが理解できなかったのか。相手の話をろくに聞かないで、頭の中で作り上げたストーリーをもとに、政府の無体策を批判するとかやるんだろうなあ。
 こういうのの存在を考えると、報道の自由だとかなんだとかが全く意味のないものに思えてくる。マスコミを特別視するのはそろそろやめる時期に来ているんじゃないのかねえ。報道の自由なんか存在しなくても、本物のジャーナリストであれば伝えるべきことを伝えるはずだしさ。もんだいはそんなジャーナリストが存在するかどうかである。チェコにはいそうだけど、日本にはいなさそうだなあ。
2020年1月27日24時。











posted by olomoučan at 07:04| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2020年01月28日

コトバ(正月廿五日)



 確か我がチェコ語の基礎を築いた教科書『チェコ語初級』だったと思うが、プラハにあるデパートとして「Bílá Labuť(ビーラー・ラブテュ=白鳥)」というのが登場したと記憶する。旧共産圏にもデパートがあるんだなと感心はしたのだが、買い物が苦手なこともあって特に行きたいとは思わなかった。怖いもの見たさはあったので、オロモウツにあれば話の種に見に行っていただろうけど。
 その後、オロモウツに来て、日本語のできるチェコ人と話す機会が増えて、こちらのイメージするデパートと、チェコの人のイメージするデパートはかなり違っているのではないかという印象を持った。「obchodní dům(オプホドニー・ドゥーム)」「nákupní středisko(ナークプニー・ストシェディスコ)」「nákupní centrum(ナークプニー・ツェントルム)」など、日本語のデパート、ショッピングセンターなんかに対応するチェコ語はいくつかある。

 その中で一番デパートに近いのはオプホドニー・ドゥームだろう。上のビーラー・ラブテュもチェコ語でそう呼ばれているし。ただ、オロモウツにも、「コルナ」というオプホドニー・ドゥームがあるのだけど、これがデパートというにはちょっとあれな存在で……。チェコには、少なくともオロモウツにはデパートはないと断言してきた。シャントフカも、ガレリエ・モリツもデパートというにはちょっとね。
 それで、久しぶりに黒田龍之助師の『その他の外国語エトセトラ』を読んでいたら、プラハのデパートが登場した。それが「Kotva(コトバ=碇)」である。ここが多分チェコで一番有名なオプホドニー・ドゥームなのだが、外から黒い外壁は見たことがあっても、中に入ったことはない。それなのに、チェコに(日本的な)デパートはないと言いきってしまうのは、よくないよなあなどと考えて、先日プラハに行った際に、帰りの電車まで時間もあったので、足を向けることにした。

 プラハの旧市街広場からもほど近いところにあるというのに、きわめて現代的な建物であるという点では、ブルタバ川沿いの「タンチーツィー・ドゥーム」と似ているが、こちらの方が周囲に溶け込んでいるような印象を与える。共産党政権時代の、それも1970〜75年という正常化の時代に建設された建物は、正面から見るとでこぼこのある特徴的な形をしている。オロモウツにあったプリオールとの違いを言うと、外面にガラスがふんだんに使われているところだろうか。壁の黒といい、むしろ新しくなったガレリエ・モリツを思わせるところがある。共産党の時代の建築というのも、なかなか侮れないのである。
 中に入ると、日本のデパートよりも狭いけれども、雰囲気は似ている気がした。一応1階だけでなく、4階ぐらいまでエレベーターで上がって確認したところ、これならデパートと言ってもいいかなあという印象を持った。コトバがいろいろな商品の売り場を設けているのではなく、いろいろなブランドがテナントとして入っている点では、他のところとあまり変わらないのに、なんでだろう。

 ということで、時間もあったし確認のために、近くにあるパラディウムというショッピングセンター?にも入ってみた。それで気づいたのが、コトバはテナントとテナントの間が壁で仕切られておらずフロア全体を見通せたことだ。それに対して、パラディウムやシャントフカなどはそれぞれのテナントが壁で仕切られた閉鎖的な構造になっていて、一度中に入ると隣の店の様子は見ることができない。だからデパートだとは思いにくかったのか。
 コトバのテナントの中には、商品の陳列がまばらでちょっと空虚な空間を作り出しているところがあった。それを見てオロモウツでも壁の仕切りのないところを見たことがあるのを思い出した。ただその店にはテナントが一軒、もしくは売り場が一つしかなく、残りは床がむき出しになっていたから、デパートだなんて思えなかったのだ。今もあるかなあ。

 つらつらとチェコのデパートについて書いてきて、日本でもデパート論争があったのを思い出した。東京なら三越とか高島屋なんかは、何の問題もなくデパートと認識されていたし、田舎に行けば田舎の地元にしかない老舗のデパートが存在したものだ。問題は、全国チェーンのスーパーからデパートっぽくなったダイエーとか、西武デパートのの子会社の西友なんかで、この手の境目にある店をデパートと認識するかどうかは、個人差があった。それで、デパートかどうかで飲み屋で論戦をして、互いに田舎者とか言い合っていたんじゃなかったか。

 デパートは百貨店ともいうが、昔川崎の南部線沿いに住んでいたころよく買い物をしていた古本屋が「○○百貨店」の中に入っていた。「○○」には駅名が入るのだが、どこの駅だか思い出せない。とまれ、その百貨店というのが、街の外れの農地の一角にある平屋の建物で、戦後すぐの闇市の時代から続くと言われても信じてしまいそうなトタン屋根のバラック風だった。入り口には花屋ともう一つお店があって、奥に古本屋が入っていたのかな。最初は気づかなかったのだが、ある日「○○百貨店」とあるのを見て愕然とした。
 これが百貨店で、つまりはデパートなら、チェコの田舎の村にある、いろいろな商品を売っている小さなお店「smíšené zboží」もデパートでいいような気もしてきた。でも、オロモウツのコルナもデパートでいいやとは言いたくないから、言葉へのこだわりってのは度し難いものである。
2020年1月26日24時。









2020年01月27日

プラハにて(正月廿四日)



 先週の土曜日にプラハに行ったときのことを、まだ全部書いていなかった。プラハに行ったからといってそのときの話を書かなければらないということはないのだが、ネタに苦慮する昨今、こういう機会は有効に活用しないともったいない。その結果、冗長で内容の薄い記事なったり、すでにどこかに書いたようなことの繰り返しなったりするかもしれないが、もともと大した内容のある記事なんて書いていないし、このブログの記事を通読するなんて頭の痛くなることをする人もいないだろうから、気にしないことにする。
 久しぶりに乗ったレギオでは、担当路線が増えて人員が不足して乗務員の担当する車両が増えたのか、今までよりもあわただしい感じで御用伺いに来ていた。いつもはもらえていた大き目のクッキーそれをプラハ駅に近づいたら食べようなんて計画していたのに、もらえなかったので空腹を抱えてプラハのトラムに乗る羽目になってしまった。ただでさえ遅れていくのに、駅で買い物をして遅れを大きくする気にはなれなかったのである。

 雪の予報も出ていたというプラハは、ぱらついた小雨がやんだばかりという感じで、オロモウツよりもかなり暖かく、着ていた服で寒すぎるとか暑すぎるということはなかった。トラムも時間通りに運行し、予定通り30分ほどの遅れで、ブルタバ川対岸の所定の場所に到着した。これはレギオがオロモウツの時点であった遅れを取り戻して、プラハの駅に時間通りに到着してくれたおかげでもある。
 以前は、一度遅れ始めるとずるずると遅れが大きくなることはあっても、小さくなることはなかったのだが、最近は路線改修や機関車や客車の刷新のおかげか、たまに遅れがなくなることがある。ネットで遅れが出ていることを確認してのんびり駅に向かうと時間通りに到着してあせることもある。さすがに時間よりも早く出発してしまうことはないから、そこは安心なのだけど。

 プラハ行きの目的だった集まりが終わった後、昼も過ぎたということで何人かで昼食に出かけた。日本人が多かったせいか、アジア系のレストランに行くことになり、あれこれあってベトナム料理の店に入った。メニューを見て選びながら驚いた。何でみんな日本人なのにそんなにベトナム料理に詳しいんだ? メニューにアルファベットで書かれたベトナム語と思しき料理の名前をカタカナで発音しながら、あれがいいこれがいいと言っている。えっ、ベトナム料理の名前って日本では常識になってしまったのか。
 こちとら日本料理以外で現地風の名前で覚えているのは、中華のクング・パオしかないぞ。と書いて、これが本当の中華料理ではなく、チェコでチェコ風に改造された結果誕生した料理だという説があるのを思い出した。どんな料理かと言われても言葉で説明できるほどには覚えていないのだが、チェコの中華っぽいお店にはたいていあって、食べられないほどまずいものが出てくることはほぼない。だから、困ったときにはこれなのである。
 結局、料理名ではなく料理の説明を読み込んで、チャーハンぽい料理を頼んだ。メニューに書いてあった通り、パイナップルの切り身(?)が入っていたのにはちょっと驚いたけど、また来たいと思えるほどに美味しかった。自分でプラハでこんなお店にたどり着けるとは思えないから、やはり先達はあらまほしきものである。

 店内は料理の煙でいい匂いが漂っていて、食欲をそそった。ただ、この手の料理の匂いというのは、そのときはよくても服に染み付いて後が大変なんだよなあと考えて、禁煙席すらなかった昔のチェコのレストランを思い出す。特にビールを飲む人の多い飲み屋では、冬になると窓も締め切るので、白い煙がもうもうと立ち込めて入るのをためらうほどだった。90年代初めの日本の居酒屋も状況は大差なかったのだけど、あのころは若さゆえか、鼻が悪かったのか、服に染み付いたタバコの匂いなんてあんまり気にしなかった。
 その後、禁煙席と喫煙席を分けたり、昼食の時間帯だけ全席禁煙になったり、徐々にレストランや飲み屋での喫煙に制限がかかるようになり、最近全面禁煙が導入されたのだが、一番よかったのは分煙の時代の、喫煙席の空調がしっかりしていて煙がまったく禁煙席に流れてこないようになっているレストランだった。現在の全面禁煙は、店の中は問題ないのだが、店の前でたむろしてタバコを吸っている連中が多くて出入りの際に邪魔になる。

 この路上での喫煙は、以前もなかったわけではないが、全面喫煙の導入によって格段に増えた。この日、昼食の後、帰りの電車の時間までちょっと街をふらついている間にも、歩道ではた迷惑にも喫煙している集団に何度もぶつかって、わずらわしいことこの上なかった。オロモウツ程度の人出ならまだしも、人ゴミと呼ぶにふさわしいレベルのプラハの雑踏では、歩きタバコの多さもあって危険ですらある。
 それにこの手の路上喫煙者はマナーもよくないので、路上にタバコの吸殻が散乱して景観を汚す原因にもなっている。その清掃にはまた無駄なコストがかかるのだから、喫煙者は路上に追い出すのではなく、喫煙所を設けてそこに押し込めるのが一番いい。日本でもオリンピックに向けて全面禁煙とか言ってたけど、街の柄が悪くなって汚れが増えるだけだからやめたほうがいいと思う。一番いいのは今からでもオリンピックの開催を返上することだけど、そんな気骨のある日本じゃないしなあ。

 ということで、またまたプラハでしょうもないことを考えたというお話である。
2020年1月24日24時。













2020年01月26日

チェコ全敗(正月廿三日)



 一次グループで、オーストリアに勝てなかったこともあって、二次グループでは苦戦するだろうとは見ていた。大会のフォーマットも違うけれども、二年前の快進撃の再現が可能だとは思えなかった。それでも、一試合も勝てないというのは予想外だった。ベラルーシには勝って、ドイツに勝てるかどうかが見所だと思っていたのだけど……。
 二次グループでは、一次グループのABC三グループの上位二チームがグループ1を形成する。同じグループだったオーストリアとの対戦はなく一次グループの結果を持ち越すから、二次グループで4チェコが対戦するのは、グループAのクロアチアとベラルーシ、Cのスペインとドイツということになる。

 最初の対戦相手は、スペイン。前回の大会で一次グループの初戦で対戦して、15点以上の差で負けた相手である。前回はその大敗がきっかけでチームが奮起したのがいい方向に向かったという面もあるのだけど。今回は大惨敗と言うほどの差は付かなかったようだが、接戦とか善戦とか言えるようなものでもなく、普通に負けたという印象。
 前半からリードを許し、9−14と5点差で前半終了。後半に入ってもリードをどんどん広げられ、一時は10点差だった。それを最後に何とか6点差まで縮めたところで試合終了。25−31。スペインの壁はとてつもなく高く、そして厚いというところだろうか。終盤点差を詰められたのも、メンバーを落としてきたからだという可能性もあるし。
 チェコではズドラーハラが8得点と活躍したが、そのうち3点が試合が完全に決まった55分以降というのが何ともなあ。カシュパーレクが6得点で二人だけで14得点と半分以上の点をたたき出している。これはスペインチームが出場選手がほぼ全員得点を挙げ、最多得点の選手でも5点しか挙げていないのと比べると対照的である。

 二試合目は、チェコが勝てる可能性が一番高いと見ていたベラルーシだったのだけど、勝てなかった。スペインに負けた次の試合で勝っていれば、前回の大会のように波に乗れたのだろうけど……。この試合も前半からリードを許し、11−13で前半終了。一次グループの勝った二試合は前半、1点差、2点差で負けていたのを逆転して勝ったから、この日もいけると思ったのだけど、二次グループは甘くなかった。
 後半に入ってからも同点まではいけても逆転することはできず、終盤にちょっと突き放されて25−28と3点差で敗戦。この試合でもズドラーハラが7点、カシュパーレクが6点と二人だけで半分以上の得点を決めている。この二人が調子を維持していることだけが救いか。二年前のズドラーハラはこんなものじゃなかったけど、あれは繰り返せるようなものではない。

 三試合目は旧ユーゴスラビアのクロアチア。前半は9−11と前の試合と同じで2点差負け。違いは中盤にチェコがリードした時間帯もあったこと。後半開始早々に4点差をつけられたが、その後何度か同点に追いつき、60分に同点に追いついたと思ったら、勝ち越し点を許して21−22で三連敗となった。
 得点経過から言うと、二次グループの試合で一番勝てそうだったのだけど、スポーツニュースではクロアチアが一部の主力選手を休ませたようなことを言っていた。チェコとの試合の時点で準決勝進出は決まっていたので無理する必要がなかったのである。この試合でもズドラーハラは7得点だったが、カシュパーレクは疲れが出たのか3得点に終わっている。

 二次グループ最終戦はドイツとの試合。前の試合でオーストリアとベラルーシが引き分けていた関係で、ドイツのグループ3位、チェコの最下位はすでに決まっていた。モチベーションの上がらなさそうな試合は実力の差がそのまま出たのか、前半が10−13とドイツの3点リードで終わると、後半に入ってすぐチェコが14−13と逆転に成功。ただその後が続かず、すぐに再度逆転されて、最後は22−26と4点差で負けてしまった。
 この試合ではズドラーハラもカシュパーレクも、それぞれ2得点、3得点とドイツの守備に押さえ込まれてしまったようだ。ババークが5点取っているけど、他の試合でもババークが5点取ってくれていたらと思わずにはいられない。守備はオーストリア、スペインとの試合を除けば、それなりに機能していた。点の取れなさが最大の敗因といってよさそうだ。

 ズドラーハラとカシュパーレクのセンターの二枚看板に、サイドかポストかに、理想は両方だけど、得点が計算できる選手がいれば、もうちょっと勝負になったんじゃないかと思う。その意味でも、ポストで1番の選手であるペトロフスキーの欠場が痛かった。それにセンターにもう一人カシュパーレクのような大型選手がいるとまた違ったのかなあ。
 ズドラーハラもババークも、ベチバーシュも凄くいい選手なんだけど、スピードとタイミングで勝負する技巧派で、守備の挙げた手の上から問答無用でズドンとシュートを決めるような迫力はない。イーハとカシュパーレクの活躍する時期が重なっていたらいい夢見られたんだろうなあ。とまれチェコ代表がこの大会で5位に入って東京オリンピックに出場するという夢は絶たれた。ということは通訳として売り込もうというこちらの計画も立てる前から消滅してしまった。

 二次グループの結果、準決勝進出はチェコのグループ1からは、スペインとクロアチア、グループ2からはノルウェーとスロベニアという結果になった。オリンピックをかけた5位決定戦はドイツとポルトガルの対戦。チェコの最終順位は勝ち点0で12位。一試合でも、それが負け試合でもいいからテレビで見たかった。
2020年1月23日24時30分。









2020年01月25日

再帰代名詞の使い方3格短形(正月廿二日)



 ちょっと遅れたけれども先週予告した再帰代名詞の使い方である。とはいえ、4格短形の「se」がないと使えないものに関しては、そんなものとして覚えるしかないのであれこれ喋々することはしない。それに「se」を使った「再帰受身」と呼ばれるものについても、かなり意味不明になったけれどもここに一度書いているので、関係することは書くかもしれないが、まとめて説明するようなことはしない。

 最初は、三格短形の「si」がつくことによって、意味が微妙に変わる動詞の使い方とその解釈である。自分が納得するためのこじつけのようなものなので、これを読んだからといってチェコ語の理解が進むとは思えないということは、事前に申し上げておく。
 最初に取り上げるのは、「půjčit」と「půjčit si」の組み合わせ。「si」が3格で動作の向かう方向を表わすことを考えると、「自分に貸す」ということから「借りる」という意味が導き出されたと理解できるのだが、自分のものを「自分に貸す」ことはできないわけで、所有者がわからないものや他人のものを勝手に「自分に貸」していたのかなんてことを想像してしまう。実際には「貸す」と関連する動作ということで「借りる」になるのだろうけど。

 日本語では、動詞だけで特に動作の対象となる人を求めない「取る」だが、チェコ語の場合には3格が必要になる。そして「自分のために取る」ときに「si」を使って、「vezmu si」としなければならない。この動詞、仕事を「取る」、つまり引き受けるときにも使うのだが、そのときは「si」は不要になる。普通は自分が欲しいから、何かを「取る」わけだけど、仕事はいやいや「取る」ものだから、「si」はいらないと考えておく。薬は、いやいやだけど、自分の健康のためだから「si」が必要でいいのかな。

 一般に3格というのは厄介なもので、この動詞と一緒に「si」以外の人の三人称を使うと、「その人のために」という「si」を使った場合と同じような意味になることもあれば、「その人の」といういわゆる関係の3格的な意味になることがある。例えば、「Vezmu ti tu knihu」と言うと、相手が欲しがっている本を見つけたときには前者の意味で、相手の持っている本を取り上げるときには後者の意味で使う。訳すとすれば、うちにいる相手に電話で「(欲しがってた)あの本持って帰るね」と言うのが前者で、「あの本もらうよ」と言うのが後者である。

 チェコ語の勉強を始めたばかりのころに、教えられる表現の一つに「dám si」というのがある。これはレストランなどで注文をするときによく使う表現なのだが、当時は特に深く考えることなく覚えて使うことで満足していた。「chtít」を覚えてからは、自分ではほとんど使わなくなっていて、たまにチェコ語を勉強している日本の人が使うのを聞いて、そう言えばそんな言い方もあったねえと懐かしく思うこともしばしばだった。
 これも、動詞「dát」の本来の意味から考えると、「自分に与える」ということになる。お店にある商品や、メニューに載っているものの中から、選んで「自分に与える」のである。この場合、お金を払うという行為は当然だとみなされるのか、お店で、日本語だと「これ買います」と言いたくなるような状況でも、動詞「koupit(買う)」を使わずに、「dám si」とか「vezmu si」と言うことが多い。特に「vezmu si」は、普通「取る」と訳すので、慣れるまでは、お金を払わないようなイメージもあってなかなか使えなかった。日本語で「これもらいます」というのと似ているのかな。ちなみに「買う」を使っても、「koupím si」と「si」が必要な点は同じである。

 関係の3格的な「si」としては、動詞「umýt(洗う)」と共に使うものがある。日本語だと「手を洗う」「頭を洗う」で特に自分という言葉がなくても問題はないのだが、チェコ語の場合には自分の体の一部を洗う場合には、「si」が必要になる。当然他人の手などを洗ってあげる場合には、その人を表す言葉を3格にして使う。皿などの物を洗う場合には、特別な場合を除いて3格は不要だと思うけれども、自信はない。やっぱ3格は厄介である。

 再帰代名詞のもう一つの重要な役割に「お互いに」という意味を付け加えるというものがある。この場合、主語、もしくは動詞の人称変化は複数形になる。日本では「この素晴らしき世界」と原題がどこかに行ってしまった映画はチェコ語では「Musíme si pomáchat」である。動詞「pomáchat」は「助ける」という意味で、助ける相手は3格で表す。単数で「pomáhám si」だったら、「自分で自分を助ける」になりそうだけど、複数形で「pomácháme si」となると、「私たちは助け合う」という意味になる。
 同じように、動詞「psát」は、普通は「書く」と訳されるが、手紙やメールを書いて送るときにも使えるので、「Budeme si psát」と言うと、「(手紙やメールを)書いて送り合います」、つまりはちょっと古いけど「文通する」という意味にもなるのである。もちろん単数なら、自分のために書くというところから、メモを取っておくような場合にも使える。

 最後にこじつけの理解もできない、形容詞に「si」が必要な例を挙げておく。形容詞「jistý」は、「確かな」という意味なのだが、「si」と共に述語で使うと、「確信している」という意味になる。ということで「Jsem si úplně jistý tím, že vám tento článek nepomohl k lepším pochopení češtiny(私は、この記事がみなさんのチェコ語理解の向上に寄与しなかったことを確信している)」ということにしておこう。
2019年1月22日22時。












タグ:代名詞 3格

2020年01月24日

上院議長没す(正月廿日)



 元日にはテレビで念頭演説を行い、最近は台湾を訪問を計画して中国政府だけでなく、中国に媚を売るゼマン大統領を初めとする親中派にも批判されるなど、活発な政治活動を続けていた上院議長のヤロスラフ・クベラ氏が亡くなった。享年72歳。上院の自らの執務室で突然倒れ、病院に運ばれたもののそのまま帰らぬ人になったらしい。

 チェコの上院も、日本の参議院と同様にしばしば不要論が起こるのだが、議員の存在感もほとんどなく、明確に上院議員としてチェコ中の人に認識されている人としては、長らく議長を務めていたピットハルト氏とこのクベラ氏が双璧だと言っていい。ビットハルト氏はビロード革命の際の市民フォーラムの立役者の一人で、キリスト教民主同盟から上院議員に選出され、長らく議長を務めた。2004年の大統領選挙に立候補している。
 クベラ氏が上院議員に最初に選出されたのは、2000年のことで、以後2006年、2012年、2018年と4回連続テプリツェ選挙区で当選している。2018年の選挙のあとに、所属する市民民主党が上院の第一党になったこともあり、議長に選出された。それ以前から辛辣な、それでいてユーモアあふれる議会での発言で話題になることも多く、知名度は高かった。

 クベラ氏は、典型的な地方政界から中央政界に進出した政治家の一人で、政治家としての職務をいくつも兼任していた。1994年から上院議長に選出された2018年までは長期にわたってテプリツェ市の市長を勤め、2016年からはテプリツェのあるウースティー地方議会の議員も務めていた。テプリツェでは、市長を退いた後も市会議員は続けていたので、2016年からは3職兼務状態だったわけだ。日本的な常識ではありえないと思うのだが、こちらではこれが普通である。最近は批判を浴びて兼職を避けるように指導する政党も出てきてはいるけれども、それを拒否する人もまだ存在する。
 クベラ氏が市長になった当時のテプリツェは、旧東ドイツとの国境地帯にあることもあってひどい大気汚染に悩まされ、温泉街を徘徊する街娼の存在もあってあまりよくない意味で有名だった。クベラ氏はその状態の改善に力を注ぎ、大きな成果を挙げたことで、テプリツェをプラハに次ぐ、場合によってはプラハ以上の市民民主党の牙城に作り上げた。ただし、テプリツェで市民民主党を支持している人は、党ではなくクベラ氏を支持しているのだとも言われる。

 このクベラ氏にとって最大の価値を持つのは個人の自由で、個人の自由を制限するような法律には徹底的に反対することで知られている。上院議員になった一期目のEU加盟を巡る議論が盛んだったころには、EUに規制が多すぎることを強烈に批判していた。特に今日のニュースでも流されていたけれども、「日曜日にセックスをすると月曜日の仕事の能率が落ちるから、このままいくとEUが禁止するに違いない」なんてことを上院の会議の場で発言したのは語り草になっている。
 近年は特に禁煙ファッショに強硬に反対しており、レストランなど飲食店での全面禁煙にありとあらゆる手段で抵抗していた。これは、もちろん本人が救いがたいほどのヘビースモーカで、どこでもここでも煙草を吸わないではいられないというのも理由だろうが、禁煙にするか喫煙にするかを決めるのは飲食店の経営者の自由とするべきであって、禁煙を法律で一方的に強制するのは許されないという主張には一定の説得力はあった。

 2018年だったと思うが、大統領選挙に際して市民民主党の推薦する候補者に擬されたことがある。そのときは、ユーモアも交えながら、「煙草を吸う連中が全員、煙草を吸うという理由で支持してくれて、クベラ支持者がクベラだという理由で支持してくれれば勝てるかもしれない」なんてことを言っていたのだが、最終的には推薦を辞退して出馬しなかった。大統領を務めるには健康に問題があると思っていたのかもしれない。
 ただ、今思い返せば、大統領選挙で勝つためにはゼマン支持者を切り崩す必要があったことを考えると、決選投票の場合はドラホシュ氏よりも、クベラ氏のほうが勝ち目があったのではないかとも思う。ドラホシュ氏は、政治的に大きな声で発言する学歴が高いエリート層の支持は熱狂的に集めることに成功したが、比較的低学歴の人の多いゼマン支持層には全くと言っていいほど声が届いていなかった。

 クベラ氏は過去に、共産党に入党しているが、それは1967年の「プラハの春」の民主化運動の展開の中でのことであり、民主化運動が暴力的に押しつぶされた翌1968年には党を離れている。自ら離党したのか、言動を問題視されて除名されたのかはわからないが、上に登場したピトハルト氏も含めて、プラハの春の後に共産主義に絶望して共産党を離れた人は多く、後に、それらの人たちがビロード革命と社会の民主化の中心を担うことになる。クベラ氏もそのうちの一人で、特に当初は地方の政治の民主化に貢献したのである。

 チェコのマスコミは、日本の下衆マスコミと違って死者や遺族を鞭打つようなことは避けるので、クベラ氏の死因は報道されなかった。おそらく遺族が公表を避けたのだろう。あれだけ煙草を吸っていながら、定期的に病院で検診を受けるなんてこともしていなかったらしいし、本人にとっては煙草が原因で亡くなるのは本望というところなのだろうから、以て瞑すべしである。
 これで、また一人、共産党政権の時代を生き抜いたたくましい政治家が姿を消した。世代交代が進むと言えば聞こえはいいけど、その結果、既存の政党は官僚的で優等生的な政治家ばかりになって、バビシュ氏やオカムラ氏のさらなる跳梁を許すことになるのではないかと不安になってしまう。
2020年1月20日24時。










タグ:訃報 上院

2020年01月23日

プラハへの車中で環境問題に関する問題に思いを致す(正月十九日)



 7時半過ぎに到着したオロモウツの駅の構内も、レギオジェットの到着を待つホームも意外なほど人が多かった。気温は0度ぐらいだというが風が吹いていて寒く感じる。今回は一番厚手の上着は避けて、重ね着で暖かさを確保しようと考えたのだが失敗だったかもしれない。下着から合わせて6枚も重ねているんだけどね。この冬場の服装選びは何年たってもうまくならない。
 電車は5分遅れの表示だったから、10分近く遅れて入ってきた。自分の車両はこの辺だろうと予測して立っていた場所がかなりずれていてちょっとあわてた。オロモウツで降りる人もまた意外に多く土曜の、ショッピングセンターを除けばほとんど死んだ街になるオロモウツで何をするんだろうなんてことを考えた。午前中だけは開いているお店もあるのか。

 空は典型的なチェコの冬空で、どんよりとした雲に覆われ、霧が出ていて車窓からの景色もぼんやりともやがかかっている。ずっと部屋の中にいれば気にならなくなったが、チェコに来て一年目はこの陰惨な冬空に憂鬱な気分にさせられていたのを思い出す。その憂鬱さに打ち勝ってチェコに残れたのはビールのおかげというとチェコテレビの「ビール巡礼」になってしまうけれども、クソ寒い冬に、暖房の利いた暖かい飲み屋で、冷たい、美味しいビールを飲むというのは毎日の救いになっていた。
 2000年ごろは、冬になると入り口のところに厚いカーテンで仕切った小部屋を設けるところが多かった。不思議に思って師匠に聞くと、外の冷たい空気が中に入ってくるのと、中の暖かい空気が外に流れ出すのを防ぐためだと教えてくれた。最近では暖冬が多いせいかトンと見かけることもなくなった。雪も降らなくなったしチェコの冬が以前に比べると暖かくなっているのは確かである。夏も暑いと言いたくなる日が増えているし、気温が上昇傾向にあるのは確かだろう。だからと言って、このままでは地球温暖化のせいで取り返しの付かないことになると大騒ぎをするところまでは、知性の面で堕落できない。

 あの狂信的な大騒ぎには、部分的に賛同できるところはあっても、全面的な賛同となると小学校から大学まで日本の学校教育によって培われた我が知性が許してくれない。どんなに基準を緩めて評価しても、あの手の環境活動家、ほとんど環境テロリストの主張から、怪しい、胡散臭いという印象を消すことができない。本人たちが真剣に主張すればするほど、こいつら何も理解していないんじゃないかという思いが強くなる。そして、専門家、研究者を自称する連中には、80年代に石油枯渇説を声高に唱え原子力の利用を推進していた専門家たちと同じ匂いがする。
 畢竟、石油枯渇説が石油の価格を高止まりさせ、原子力推進に世論を動かすための方便であったのと同様、地球温暖化というのも、環境問題というよりは経済的な問題の側面のほうが強いのだろう。だから、利権につながる二酸化炭素の排出制限と、その排出枠の売買や、太陽光発電や電気自動車の推進については、これができなければ世界は終わるとでも言わんかのように大騒ぎするのに、金にならない砂漠化の防止や、植林による森の再生なんかには冷淡な反応しか見せない。

 科学的に世界の人々を説得できない連中が、知性よりも感情に訴えかけるヒステリックな手法を取っているのも信じられない理由の一つとなる。去年だったか一昨年だったかのプラスチックのストロー撲滅運動も、悪者を設定して執拗に攻撃することで世論を盛り上げようとするやり口にうんざりさせられた。プラスチックのストローが本当に環境に深刻な害を与えるというのなら、ストローの必要な飲み物販売をやめればいいだけの話なのに、紙のストローに変えましたとかなんとか、騒ぎを利用してイメージアップを図ると言うのには、昔名詞に「再生紙を利用しています」と印刷されているのを始めてみたときと同じような嫌悪感を抱いてしまった。
 プラスチックごみが海洋にまで氾濫して、それが生態系に悪影響を与えているのはその通りなのだろう。だから、清掃活動をして所定の場所以外に捨てられたごみを集めたり、ごみを減らす運動をしたり、過剰な包装をやめようと主張したりするのは、この上ないぐらい正しい。ただ、金にも時間にも恵まれた環境活動家たちが、海洋の清掃活動をしないのが理解できない。日本の捕鯨船に襲撃かけるぐらいなら、太平洋のごみベルト地帯に出かけてプラスチックごみを回収して来いよなんてことを考えてしまう。

 思い返せば、1990年代の日本では、環境問題に目覚めた人たちが割り箸撲滅運動を始めた結果、ただでさえ経営に苦しんでいた林業が大きな打撃を受けて、森が荒れる原因になったという笑えない話しがあったし、それよりも少し前には企業や役所にコンピュータを導入させるために、OA化すれば仕事が効率化できるだけでなく、紙の使用量も減って環境保護にもつながるという今日の視点から見ると詐欺としか言えない主張がなされていたが、現在の地球温暖化論者の主張にもこの二つと同じ匂いがする。つまりは無知ゆえの妄言か、意図的な虚報に聞こえてしかたがない。

 それにとどまらず、十代の女の子を運動の全面に立たせるような所業に出たときには、こいつら自分で責任を取る気がないのかと思ってしまった。件の、日本マスコミにはほぼ名前で「グレタさん」としか書かれていないので名字は覚えていないのだけど、そのグレタ氏については特に批判する気も、賞賛する気もない。十代の自分の正義を信じていられる時期なら、「大人には何でわからないんだ」という気持ちを爆発させるのは普通のことで、他人のことは言えないけど、過去を振り返れば、思い当たる人も多いはずだ。
 ただ、このグレタ氏がすごいのは、自らの正義を行動に移し、あきらめることなく継続したとことである。この点については賞賛以外の言葉は出てこない。許せないのは、そのグレタ氏を悪用し運動の前面に立てた大人たちである。地球温暖化防止の活動を批判する人=いたいけな女の子をいじめる大人という構図を作り出して、反対や批判をしづらくしているのだから、姑息と言うか何というか。これだけでも信用できない理由としては大きすぎるぐらいである。

 環境保護運動の趣旨、自然環境の破壊を防がなければならないというのにはもろ手を挙げて賛成してもいい。ただ、問題は、近年の環境保護運動は感情過多で、自らの正義を疑うだけの知性が存在しないところにある。だから、奴らのヒステリックな叫びには耳をふさいで、自分なりのやり方をこっそりひっそり続けるだけである。
 個人が環境保護、地球温暖化防止に多少なりとも貢献できるとすれば、それは頻繁に新しいものに買い換えるのをやめて、同じものをできるだけ長く使い続けることによってだろう。ということで、廿年ほど前に買った冬物の帽子と、十年以上前に買ったセーターとコートを身に着けて、プラハに向かったのである。書いたときにはうまく落ちたと思ったのだけど、読み返すとそうでもないなあ。
2020年1月19日23時。











posted by olomoučan at 06:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年01月22日

運輸大臣解任(正月廿一日)



 名目上の日付がおかしいと思った方、その印象は正しい。本来であればここに投稿するのは、正月十九日付けのもののはずなのだが、すでに書き上げた十九日、廿日の文の文章の保存されたUSBメモリーを職場のPCにさしっぱなしにするという失態を、久しぶりにやらかしたのである。PC本体の電源がなかなか切れず、待っている間に他のことをしていたらすっかり忘れてしまった。最近もあったよなあと思って確認したら、去年の十二月初めのことだった。最近ボケが進んでいる証拠かなあ。前回は日付を与えずに、その場ででっち上げた記事を投稿したのだが、今回は今日の日付(チェコ時間)で、明日になってから投稿しよう。

 さて、去年の四月に前任のテョク氏が辞任し、新たにクレムリーク氏が就任したばかりの運輸大臣だが、バビシュ首相がゼマン大統領に解任を求め即座に解任されることが決まった。文化大臣のときの大騒ぎとは大違いである。また一人、政権交代もないのに運輸大臣が内閣を去ることになった。クレムリーク氏は、1993年以来28年目で18人目の運輸大臣だから、この大臣は内閣の中でも重要なポストでありながら入れ替わりが異常なまでにひんぱんなのだ。
 前任のテョク氏は、ソボトカ内閣の前任者の後を受けて就任し、下院の総選挙を経てバビシュ政権が誕生してからも運輸大臣を務め、任期は合計で四年半ほどになる。この数字はチェコ共和国が成立して以来最長のもので、クレムリーク氏が九ヶ月ほどで解任されたのと比べると対象的である。ただ、このクレムリーク氏以外にも、内閣が倒れ新たな内閣が組織できなかったときに大統領の指名で成立する暫定内閣の大臣を除いても、何人か一年未満で退任した運輸大臣は存在するようだ。

 このクレムリーク氏は、去年カレル・ゴットが亡くなったときのファンとのお別れ会に大臣の公用車で乗り付けて行列に横入りして献花したことでバビシュ首相からも批判されていたが、それだけで解任されたわけではない。チェコでは来年度から高速道路の通行券の電子化が決まっているのだが、その通行券販売用のEショップの立ち上げと運営を業者に発注する祭に、入札を行わなかったこと、その受注価格が四億コルナと、通行券以外の商品があるとも思えないEショップを立ち上げるには過大な価格だったことで批判を集めていた。
 先週、この件が明らかになったときにはバビシュ首相も苦言を呈していたのだが、一気に解任に踏み切るような様子は見られなかったのだが、週明けの月曜日20日に解任したことを発表した。うちのはこれについて、IT技術者たちが、Eショップぐらい片手間にできるからボランティアで作成するなんてことを言い出したのが原因じゃないかと言っていた。これは準備したのはテョク氏の時代だけれども、ダイヤ改正で新たに運行を担当し始めた私鉄が問題を起こし続けていたのに対して、反応が遅かったのも評価を下げたのかもしれない。

 とまれ、2018年にバビシュ政権が発足して以来、すでに10人近い閣僚がその座を去っている。バビシュ首相はしばしば自らの内閣のことを自画自賛するのだが、そこまで称揚されるべき内閣なら、その閣僚達も賞賛されるべき業績を上げているはずだから、解任されることはないと思うのだけど。手前味噌、自画自賛、自分のことは棚に上げるというのが政治家にとっては不可欠な資質であるのはチェコも日本と変わらない。

 クレムリーク氏の後任には、最近産業大臣に就任したばかりのハブリーチェク市が兼任でつくことになった。暫定や臨時ではなく、二つの大臣を正式に兼ねるようだ。それが可能なのがチェコだと言えばそれまでだが、バビシュ首相はこれを奇禍に二つの省を合弁することを考えていると言う。ハブリーチェク氏に兼任させる理由と同様、二つの省は管轄する分野が隣接していて一部重なっているのが合併して経済省を設置しようという理由になっている。
 当然、この考えには野党だけでなく連立与党の社会民主党も反対の声を上げている。重要で職掌も大きく官僚の数も多い、この二つの省を合併するのも、一人の大臣が担当するのも無理だというのだが、これも額面どおりには受け取れない。大臣のポストが一つ減るのが、政治家にとって最大の問題であるのは間違いない。ただでさえANOの登場で非政治家の大臣の数が増えているのである。

 誰が運輸大臣になろうと、1990年代以来続いた市民民主党と社会民主党を中心とした政治のクライアント主義によって作り出された運輸省の利権を解体するのは至難の業に違いない。高速道路の建設費用を1キロあたりの平均値にすると、ドイツよりもはるかに高くつくなんてことは普通に考えたらありえないと思うのだけど、変わらない現実である。
2020年1月21日24時。







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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



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