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2020年01月11日
長期滞在許可(正月八日)
今日は、いつもより早く六時前に起きて、電車でプシェロフに向かった。プシェロフの警察に同居している内務省の入国管理局みたいなところに出向いて、手続きをする必要があった。本当は7時半ごろにオロモウツを出る便に乗って8時ごろに到着の予定だったのだが、駅までの移動をあまり考えていなかったせいで、結局8時前の電車に乗ることになった。
チェコに暮らして長いので、すでに永住許可的なものは持っている。長期滞在許可と訳したくなる言葉を使うし、最近では学生などがビザの代わりに取得できるようになったものも同じような言葉で呼ばれているようだが、我々が持っているものは、許可自体には有効期限はない。ただ、許可についてくる証明書に有効期限があるため、10年に一度延長、もしくは再発行の手続きをしなければならない。その証明書の有効期限が2月の上旬までなので、今月中旬までに申請を済ませておく必要があるのである。
この許可をもらったのは10年前の2010年のことだが、そのときの話では、5年以上連続で仕事のためにチェコに居住している人、つまり就労ビザでチェコに滞在している人は申請をする権利があるということだった。学生の場合には倍、10年以上連続で学生ビザでチェコに暮らす必要があると言っていた。この情報をもらったときは、オロモウツの外国人警察が担当だったのだが、実際に手続きを始める前に担当が内務省の入国管理局みたいなところに変わっていて、困ったのを覚えている。なぜかこの役所オロモウツにはなく、プシェロフとシュンペルクに置かれているのである。
このときは、申請のために、労働契約書のコピーやら、銀行の残高証明書、住んでいる部屋の大家の同意書など数種類の書類を集める必要があり、細かい問題も発生して、何度もプシェロフに出向くことになった。担当の人がどこをどうすればいいのか詳しく説明してくれたおかげで、無事に許可をもらうことができた。知り合いがこの許可を取ったときには、パスポートみたいな小さな冊子だったらしいが、ビザと同じような日本のパスポートに貼りつけるシールになっていた。
この許可の関係で、前回プシェロフに出かけたのは、新しいパスポートを取得した2年前の2018年のことで、そのときの話はすでに書いた。あれこれあって、現在のカード型の長期滞在許可の証明書がもらえたのだが、有効期限は新しくならず、最初のシール型のものと同じだった。そして、最初のカードの発行は無料だけど、二回目以降は申請に際して手数料が必要になるから忘れないようにと言われたのだった。そのときに言われた金額は覚えていないが、今回ネットで確認したら2500コルナ。現金では払えず、事前に郵便局に行って証紙を買っておかなければならないというのも厄介である。
ということで去年の12月の初めから申請の準備を始めた。申請書は内務省のHPにも挙がっているのだが、2年前にもらってきたものがあるのでそれを使う。必要書類として言われていたのが、賃貸契約書のコピーだが、公証人の証明が必要だった。それでいつものようにホルニー広場の市庁舎のインフォメーションセンターの隣の公証人の事務所に行ったのだけど、いつの間にかなくなっていた。
知人の話では、無犯罪証明も含めて、この手の証明は、郵便局などに置かれている「チェック・ポイント(czech point)」でできるようになっているようだ。郵便局だと客が多くて待たされる可能性が高いので他を探したら、市役所の中に入っていた。ホルニー広場の市庁舎にもあるようだけど、よくわからないので旧市街の外れに数年前に新しい市役所として建てられた庁舎の中のチェック・ポイントで証明をしてもらった。費用は相変わらず1枚30コルナ。このとき、賃貸契約だけだと不安だったので、念のために仕事の雇用契約書などいくつかの書類のコピーに証明をつけてもらった。
年末の仕事が休みの時期に行こうと思ったら、その時期は役所もお休み。新年最初の仕事の日1月2日に行くことも考えていたのだが、なまけ気分が抜けなくて断念。今週の月曜日は申請書の記入が終わっておらず、準備が完全に整ったのが昨日のことで、早速今日出かけたのである。ただし、自分が準備した書類で十分なのか、申請書の記述がこれでいいのかなどの不安は付きまとっていた。
プシェロフの入国管理局に着いたのは、タクシーを奮発したこともあって8時半過ぎ。機械から出てきた順番札に書かれていた番号は123、この時点で手続きをしている人の番号が102だった。Aで始まる予約済みの人の数が多いと、予約なしの人は後回しにされて、いつ順番が回ってくるかわからない。それぞれ必要な手続きも違うので一人当たり何分という計算もできない。ただ、前に20人はいることを考えると、最低でも2時間ぐらいは順番が回ってくることはあるまい。
今朝は急いでいたのでコーヒーを飲みそこなっていた。警察署の建物の中にもコーヒーの自動販売機はあるのだが、一見普通のインスタントの自動販売機よりもおいしいコーヒーが出てきそうに見えて実は大した違いはないというものに見えたし、時間もあるので街に戻って喫茶店を探すことにした。まだ9時前で営業を開始していないところも多く、人通りも少なかった。
コーヒーを飲んで戻ってきたのが9時半過ぎ、意外なことに110番を越えるところまで進んでいた。どうも予約した人が少なかったのと、番号札はもらったけど待つのが嫌で帰ってしまった人がいたのとで進み方が早かったのだろう。実際いくつかの番号は再度呼び出しを受けていたけど反応する人はいなかった。
これならすぐにも順番が回ってくるだろうと思ったのだが、ここからが意外と長かった。結局順番が回ってきたのは10時45分ごろ。一番奥の5番の部屋での手続きにかかった時間は10分ほど。予想していた以上にあっさりと終わってしまった。書類も賃貸契約のコピーだけで問題なかったし、申請書も記入してないところもあったのだが、新しいカードの申請だからいらないと言われておしまい。転ばぬ先の杖とはいえ、ずいぶん無駄な準備をしてしまった。
もちろんこれでお仕舞ではなく、ビオメトリカの写真を撮りなおすのとカードの受け取りが残っている。それで一月末と二月初めにまたまたプシェロフ行きである。日時は指定されているから、長く待つ必要はないとはいえ厄介なことである。新しいパスポートのために2回もプラハに行かなければならなかったのと比べればましか。手数料もあっちの方が高かったし。
ということでまとめておくと、永住許可的な長期滞在許可の延長、もしくは許可証の更新に必要なのは、申請書と賃貸契約書のコピー、それに2500コルナ分の証紙だけだった。ただし、3回足を運ぶ必要がある。
2020年1月8日24時。
2020年01月10日
チェコ人テロリスト(正月七日)
チェコテレビのニュースによれば、プラハでイスラム教のテロ組織を支援したという疑いを持たれている人物の裁判が始まったらしい。奇妙な裁判で被告は三人だが、そのうちの二人は現在国外逃亡中ということで不在者裁判の様相を呈している。実際に収監され裁判に出ているのは、一人だけ。アラブ系のチェコ人で数年前まではプラハのイマームというから、イスラム教団の指導者をしていた人物である。
この人物は、生まれはプラハだが、サウジアラビアでイスラム教の宗教教育を受けて帰国し、プラハにおける指導者の座に収まった。指導者を務めていた時期には、特に過激な主張をしていたわけでもないという話だが、プラハのイスラム教関係者はこの人物についてコメントすることを避け、関係を絶とうとしているようにも見えるので、実際には何らかの兆候はあったのかもしれない。
とまれ、指導者を辞めた後、イスラムの過激派の思想に共鳴するような言動を始め、シリアのイスラム教過激派の組織に加わるため中東に出向いたものの失敗しチェコに帰国。この失敗というのが組織に受け入れられなかったのか、シリアに入国できなかったのかについてはよくわからない。チェコに帰国してからは、SNSを通じてイスラム教徒に聖戦への参加を求めるような発言を繰り返していたという。
その呼びかけに応じたのが、被告その2である本人の逃亡中扱いの弟。弟は兄に代わるようにトルコを経てシリアに入国し、無事にイスラム教の過激派のテロ組織と接触し加入することに成功。一ヶ月ほどの訓練を受けて、正式にメンバーとして認められたようだ。ニュースでは訓練を受けた後の弟から兄へで喜び声を挙げているのが流された。ただし、現時点でイスラムの過激派組織に加入したこの被告その2が、実際にテロ行為にかかわったのかどうかは、情報として出てきていない。SNSには武器を手にしてポーズを撮った写真を投稿していたようだけど。
三人目の被告は、アラブ系ではなくチェコ人の女性で、被告その2の妻であるらしい。被告その1の呼びかけはチェコ語でもなされたのか、この女性はイスラム教に改宗して名前もアラブ風の名前に変えてしまっている。名字は旧姓をそのまま使っているようなのがよくわからないのだが、夫婦別姓ということなのだろうか。
とまれ、被告その1の起訴の理由の一つが、このチェコ人女性がシリアのイスラム過激派の支配地域に入るのを援助したことである。最初の試みは、トルコの飛行場で女性がシリアに向かおうとしていることが発覚し、入国させるのに不適切な人物だとして、チェコに送り返されたという。狂信者がそんなことであきらめるわけはなく、被告其の1のアドバイスで、次はバスを使って移動することで、シリアに入国することに成功したらしい。
そして、シリアで被告其の2と結婚したというのだけど、わからないのは、二人の間にそれ以前から何らかの関係があったのか、被告其の1が弟の妻としてチェコ人女性に白羽の矢を立て、シリアに送り込んだのかということである。恐らく前者だろうけれども、イスラム教の過激派であることを考えると後者であっても不思議はない。
この女性は母親への連絡で、自分はこれから犯罪を犯して警察に追われることになるから、母親だけれども憎んでいるふりをしろなんてことを書いていた。将来チェコに戻って人を殺すことになるかもしれないとテロを示唆するような記述もあった。母親は娘をテロ組織から救い出すために警察に協力していて、娘からの連絡などはすべて警察に届けているのだとか。ただし、被告その2の場合と同様、この女性が実際にテロ行為に手を染めたかどうかはわからない。
最後の被告その1の罪状は、チェコからイスラム過激派に資金提供をしたというものである。弟の属する組織の兵士たちが、一般人の振りをしてSNSに大怪我をした写真を上げて、治療のために大金が必要だとか言って、寄付を募りシリアに送金していたらしい。丁寧なことに、恐らくは継続して寄付してもらうためだろうが、頂いたお金のおかげで治療が間に合ったなんて感謝のビデオも投稿していたらしい。自分で稼いだお金を、テロ組織に送金するというならまだしも、寄付を募ってというのは完全な詐欺である。
このプラハの元イマームと弟、その妻の話は、これまで断片的に聞こえてきていたような気もするのだが、警察でも非常にデリケートな問題だと捉えているのか、情報の出し方に気を使っているようにも見える。下手をすればオカムラ党などの極右の支持者を増やすことにもつながりかねないし。それはともかくとしても、この事件は、現在は穏健なチェコのイスラム教徒の中にも過激派が生じる芽がないわけではないことを示しているのだろう。厄介な時代になったものである。
2020年1月7日24時。
2020年01月09日
論理国語と文学国語?(正月六日)
ちょっと調べたいことがあって、「honto」のサイトを開いたら、「国語の大論争」という「中公DD」というレーベルの本が出てきた。御曹司の暴走を許した結果、読売への身売りを余儀なくされた中央公論社には、新の文字がついてしまったのだけど、我々の世代にとってはあくまでも中央公論社である。中公の本って結構いいのがあったのになあ。森雅裕の本もたくさん出してくれたしさ。
いや、そんなことはどうでもいい。うちのPCで「honto」を開くと「黒田龍之助」での検索結果が表示されるようになっていて、一番上に出てきたのがこの本である。師が文章を寄せられているということかと、内容を確認すると、新しい学習指導要領で高校の国語がえらいことになりそうだというので、識者があれこれ自分の意見を書いたうちの一つが師の文章らしい。「期待はしない、今も昔も将来も」という文章は、国語の授業に期待しないというのか、文部省に期待しないというのかはわからないけど、らしい題名である。
それはともかく、本の内容紹介を読んでびっくりしたのが、新しい指導要領では、国語の選択科目に「論理国語」と「文学国語」というものが新設されるということである。それに対して、文学離れが進むのではないという危惧の声があるらしい。文部省が余計なことをして教育の現場を混乱に陥れ教育のレベルを落とすのはいつものことだが、これはどう評価すればいいのだろうか。
ネットであれこれ見てみると、国際テストのPISAとかいうので国語の成績が悪かったことがこの文部省の自称改革につながっているようだ。しかし、数学ならともかく、国語のテストの結果で大騒ぎする必要があるのか。国語のテストなんて、設問の仕方、答えの設定の仕方で結果なんてどうにでも変わるものだ。高校時代、模試やら定期試験やらの記述式問題の模範解答を見て、ふざけるなと叫んだことは一度や二度ではきかない。PISAのテスト自体を疑ってかかるのが賢明というものである。
それに、PISAのテストでは、グラフや表の読み取りも出たなんて話だけど、これって国語の枠内でテストすることなのだろうか。最近、いろいろな分野で、国際的な指標を使って日本を評価して、その結果に一喜一憂するのを見かけるけど、この手の数字、指標にはウラがあるものだから、そこまで重大に捉える必要はなく、何かの参考程度にしておくのが無難だと思う。
ところで、さらに驚くのは、今回の改変に関して、反対している人も、賛成している人も、高校の国語に大きな意味を見出していることだ。個人的には高校の国語で勉強して、自分の日本語能力の向上につながったと感じるのは、古文漢文しかない。もちろん、教科書に出てきた漢字や、新しい語彙、言い回しなんかも役に立っていないとは言わないけど、濫読家だった関係で高校の国語の教科書で初めて見たなんてものはごく僅かでしかなかった。
高校の国語の現代文の授業の良し悪しぐらいで、文章の読解能力が上がったり下がったりするもんか。大切なのは、子供のころからの積み重ねである。文部省は、謂うところの「論理的文章」とやらを読み解けない高校生が多いことを問題にしているようだが、そんなの高校で頑張ったところで手遅れとしかいいようがない。いや、先生の中にだって、論理的といいつつ非論理的な文章を書いたり話をしたりする人は山ほどいるのだ。
それに比べて、小学校の国語の授業は役に立ったと思う。今でも覚えているのは、説明文とかいう文部省風に言うなら論理的な文章を読んで、段落ごとに重要な内容を要約していって、最終的には文章全体を要約するというのは、いい訓練になった。ただ、文学系の作品を分析するのは、小学校でやってもしょうがない気がする。子供のころは難しいことは考えずに、文章を味わえばいいのだ。そのために必要なのは、語彙、語法という基本的な知識である。仮に現在の日本の高校生の国語能力が落ちているのだとすれば、それは小学校での国語教育に力を入れていないのが悪い。それを放置して高校だけ変えても結果は変わるまい。
個人的には高校の国語の現代文なんて、教科書は必要ないと考えている。文学作品でも、評論でも、自分の好きなものというと無理だろうから、先生が選んだ作品を読ませるだけでいい。その作品が気に入らない生徒には、その理由を述べさせた上で、納得できる理由であれば、自分で選んだ作品を読ませてもいい。
何でもいいということにすると、最近の作家の日本語自体が危うい作品を選びかねないので、明治以降の文学作品やら評論なんかから、2000ぐらいリストアップして、詳し目の梗概をつけたものを現代文の教科書にしてもいい。そして、その中から詩歌、小説、評論を最低でも一冊ずつ読むというのを授業にするのだ。2000冊もあれば、一冊ぐらいは梗概を読んで、読んでみたいという作品が出てくることだろう。
評価を読んだ冊数(頁数のほうがいいかな)で決めるなんてことにすれば、楽しい国語の授業になりそうだ。文系を自認する人間にとってさえ、高校の国語の授業は、文学的なものであれ、論説的なものであれ、退屈で苦痛でしかなかったし。高校の国語の授業を通じて文学好きになるなんてことはありえないから、どんな改悪があっても文学離れという現象は起こらない。同時に小学校の国語で読解力を身につけられなかった生徒の読解力が急に向上するとも思えない。
最後に大山鳴動して鼠一匹にもならないのは、例のアクティブラーニングとやらと同じではないかと予想しておく。基礎的な知識が不足していれば、すべては「バカの考え休むに似たり」に終わるものである。
2020年1月6日24時。
2020年01月08日
森雅裕『会津斬鉄風』(正月五日)
ほぼ半年振りの森雅裕である。残りは少ないのだけど、なかなか書き進められない。集英社刊行の本が本書を含めて三冊、私家版が二冊に、最高傑作にして失敗作でもあると評価している『歩くと星がこわれる』だから、六冊か。思い入れがありすぎだったり、足りなかったりで書きづらいのが残ってしまったという印象だけど、一冊を除いて古いほうから順番に書いてきたわけだから当然か。若いころに読んだ本の方が、読んだときの衝撃も大きかったし、読んだ回数も多く、当然、思い入れも大きいのである。
集英社は、森雅裕が小説を出版した最後の出版社ということになる。前から数えると、角川、講談社、中公、新潮、KKベストセラーズについで6社目だと思っていたら、本書の刊行の方が、KKベストセラーズの幻コレクションよりも早かった。あっちは古い本の再刊だったから、刊行も早かったイメージがあるのか。最後の『いつまでも折にふれて』も、私家版で一度出したものだったというし。
とまれ集英社から出版された最初の本である『会津斬鉄風』は、1996年に刊行された短編集である。短編でありながら前作の登場人物が、次の作品では主人公になるという形で連環している。森雅裕らしく凝った構成の作品である。ジャンルは、時代小説というべきなのかな、舞台は幕末の日本である。会津から始まる物語は、新撰組の活躍する京都を経て、最後の新撰組土方歳三の亡くなる函館で終わる。
一読しての感想は、好きなものを詰め込んだのねというもので、恐らく一番の目的は『マンハッタン英雄未満』で登場した土方歳三を描くことだったのだろうと思われる。序盤の二作に登場する刀工の兼定も、流星刀の作者として『マンハッタン英雄未満』に登場していた。『鐡のある風景』で、土方が形見として実家に送ったものと制作年紀の同じ兼定の刀を手に入れて、歳三のものと同じ拵えを作ったときのことが記されている。どちらも森雅裕にとっては思い入れのある人物なのだろう。
一体に、幕末好きの日本人の大半は、坂本龍馬ファンか、新撰組ファンということになるのだが、森雅裕は後者であるらしい。『蝶々夫人に赤い靴』でも龍馬と龍馬ファンの悪口を書いていたしなあ。個人的には中学時代の歴史の先生が龍馬ファンでうんざりさせられたことがあるし、新撰組ファンの同級生にも困らされたことがあるから、どっちも避けたいのだけど。
ただなあこの手のファンの信仰の出発点って大抵は司馬遼太郎の小説なんだよなあ。いいことなのか悪いことなのか。文学としての評価は知らないが、日本人の歴史観に影響を与えたという点では、司馬遼太郎は空前絶後の存在だったのだ。作品の終わらせ方があまり成功していなくて後味のよくないのが多いので、一番いいところで読むのをやめるようにしているのだけど、その見極めが難しい。
閑話休題。本書は森雅裕の作品としては、文庫化された最後の作品でもある。その文庫版に解説を書いていたのが、森雅裕の刀関係の師匠に当たる刀匠の大野義光氏。登場人物の名前の由来について楽屋落ち的な話まで披露されていて、なかなかいい解説だったと記憶する。音楽の世界を舞台にした作品では音楽家が解説を書いたのもあったからなあ、森雅裕が書評家というものを信用していなかった証拠なのかもしれない。書評に対するうらみつらみは『推理小説常習犯』にも書かれていたし。
推理小説やSFなどでデビューした作家が、時代小説や歴史小説に転向した事例は、たくさんある。光瀬龍のように時代小説の中にSFを持ち込んだり、半村良のように伝奇的な時代小説を書いたり、独特の世界を切り開いた作家もいれば、あまり特徴のない作品に終わった作家もいる。森雅裕はどうだろうと読み始める前は心配だった。
それは杞憂で、最後の作品の土方も含めて、森雅裕らしい主人公の設定で、森雅裕らしいややこしい話だとはいえる。どれも何らかの謎を解く話だから推理小説的でもある。ただ、いい意味での森雅裕らしさが弱いというか、森雅裕にしては穏当というか、『マンハッタン英雄未満』に比べるとあちこちに気を使って書いているような印象を受けてしまう。面白いという意味では十分に面白いのだけどね。下手に森雅裕らしさが前面に出すぎると、その出版社からの刊行が止まってしまうから、ファンとしても悩ましい限りである。
本書は森雅裕の作品としては久しぶりに文庫化もされたし、さらに二冊単行本を出版できているから、商業的にもある程度成功したのだろう。文庫本が出たときには集英社との関係は続いて行くと信じていたのだが……。
2020年1月5日24時。
2020年01月07日
Hで始まるいくつかの言葉〈私的チェコ語辞典〉(正月四日)
チェコ語の、本来は「糞」を意味する「ホブノ(hovno)」がハナー地方では、「いいえ」を意味することがあるという、冗談みたいな話は、確か以前書いたことがある。実際に使われたのを聞いたのは一度だけだし、それも本来の意味で使われたのか、「いいえ」の意味で使われたのか判然としない。いや、師匠にこの話を聞いていなかったら、本来の意味で使ったと思っていたに違いない。
この「糞」という言葉は、日本語でも本来の意味を離れて、失敗したときなど悔しがるときに口から出してしまう言葉としても使われる。残念ながらチェコ語の「ホブノ」には、この使用法はなく、こんなときチェコ語では「サクラ(sakra)」と言うことが多い。この言葉も本来は聖なるものを指す言葉から派生したらしく、聖と俗の関係を考えさせて興味深いのだけど、ここでは置いておく。
最近成文社から刊行された『チェコ語日本語辞典』では、この言葉に「〈乱〉」という記号が付いている。普通は使わない乱暴な言葉だということであろう。日本語でも「クソ」なんてちゃんとした言葉遣いが必要な場面で使ったりはしないから納得はできる。指小形にして「ホビーンコ(hovínko)」なら乱暴な言葉遣いにはならないかな。もちろん本来の意味で使う場合である。
Hで始まる乱暴な言葉といえば、「ホバド(hovado)」がある。これは本来、家畜の牛をさす言葉だが、牝牛を意味する「クラーバ(kráva)」がしばしば女性に対する悪口となるように、この「ホバド」も特に下品で粗雑な振る舞いの多い男性に対する悪口として使われる。「jí jako hovado」というと、けだもののように貪り食い、ぼろぼろ皿から食べ物を落とす姿をイメージしてしまう。
自分では本来の意味でも、悪口としても使ったことはないけれども、うちのは仕事でいやなことがあったときなど、怒り心頭のときに、「あいつはホバドだ」なんて形で使うことがある。そんなことでもなければ、こんな普通は使わない言葉を覚えることはなかっただろう。
さて、「ホバド」は悪口で使うときには、常に単数だが、複数でも使えるのが「ハイズル(hajzl)」である。本来は便所を意味する言葉らしいが、「do hajzlu」で「便所に落ちろ」と言うことになるのかな。もちろん、文字通りの意味ではなくて、かなりひどい罵倒の言葉になる。昔通訳の仕事をしていた会社で、トイレがきれいに使われないことに腹を立てた人が、こんなことをする奴らは「do hajzlu」だという張り紙を出していて、うまいと思ったことがある。
本来、この言葉は男性名詞の不活動体だが、活動体として使うこともできる。単数でも複数でも5格にして「ty hajzle」とか、「vy hajzlové」とか言うのは、チェコ語においては最強の罵詈雑言の一つになる。上に挙げた張り紙には「vy hajzlové, ... do hajzlu」と書かれていたのかな。トイレの使い方がひどすぎることを指摘する部分もあったと思うけど。これもこの張り紙がなければ覚えなかっただろう。
普通「ホウバ(houba)」というとキノコをさすが、複数形にして「houby」となると、違う意味で使われる。チェコ人は別な言葉だと言うもしれないけど、外国人には同じ言葉の別の用法にしか見えない。その使い方は「ぜんぜん駄目」とか、「全く意味がない」とか非常に否定的なもので、何か提案されたときに一言で「ホウビ」なんて返事を返すのは、なかなか強烈な否定になる。
それから「フバ(huba)」は、本来口を意味する言葉だが、人の口に使うにはちょっと不適切な言葉で、普通は動詞の「ムルチェット(mlčet)」を使う「黙れ」という命令も、「drž hubu」と言うと強烈なものになる。「フバ」だけでおしゃべりな、口の悪いひとを指すこともあるし、形容詞「フバティー(hubatý)」にすると、口から先に生まれてきたような、ああ言えばこう言うというタイプの人を指すことになる。あまり言いイメージの言葉ではない。
悪口で使われるHで始まる言葉で忘れてはいけないものとして、「フサ(husa)」もあった。本来は鵞鳥の雌を指す言葉だけど、クラーバ同様、女性に対する悪口として使われる。クラーバとフサの違いはと聞かれても、チェコ人ならぬ身にはわからんとしかいいようがない。どちらも頓珍漢なことを言う女性に対して使われるような気もするし、フサは、子牛という意味の中性名詞「テレ(tele)」と同じような状況で使うかもしれない。チェコ人に聞いても、考えて使い分けているわけではないようだから、ちゃんとした説明が帰ってこないことが多いんだよね。
とまれかくまれ、本日はHで始まる、知っていてもいいけど自分では使わないほうがいい言葉の説明であった。正月だけど、とりあえず三が日は過ぎたからいいよね。
2020年1月4日24時。
2020年01月06日
箱根駅伝(正月三日)
今年も正月恒例の箱根駅伝が終わった。駅伝やマラソンはスポーツの中でも好きなものなので、わざわざ映像を見ようとまでは思わないが、ついつい結果は追いかけてしまう。残念なのは時差が八時間あることで、元日の実業団の駅伝は、たしかスタート時間が日本時間で九時過ぎだったせいで、まったく追いかけられなかった。箱根駅伝は7時スタートだと思っていたら8時スタートで、一区と六区の途中までテキスト速報で追いかけながらこの手の文章を書いて、力尽きたところで寝た。中継にはまだ遠い区間の真ん中ぐらいだったと思う。
事前の報道も含めて、箱根駅伝の報道には現在の日本のスポーツマスコミの最悪の部分が現れていて、題名に惹かれて記事を読むと、情緒過剰の内容にうんざりすることが多い。うんざりすることがわかっていながら読んでしまう自分が悪いのはわかっているのだけど、無理やりスター選手を作り上げて、注目を集めるというやり口は、有害でしかない。一時期マシになったような印象も受けたが、最近はまた演出過剰の方向に進んでいるようである。
最近の箱根駅伝は、手っ取り早い売名の手段として多くの大学が力を入れ始めた結果、80年代の後半に、ラジオの中継で聞いていたときには、陸上の世界には影も形もなかった大学が出場し上位争いをしているのを見ると、時代が変わったというより、日本の大学これで大丈夫なのかと心配になってしまう。
勉強しなくても入学できて卒業まで面倒を見てもらえる大学というのは、何も陸上、駅伝の選手には限らない。それを全面的に否定するつもりはないけど、スポーツやっていればいいというのは体育学部か、せめてスポーツと関係のある学科の学生だけに限るべきではないのか。昔は文学部文学科の国文学専攻でも一般教養の体育の教授の下で卒論を書くなんてこともできたから、多少の言い訳になったけど、今では文部省によって禁止されているはずである。
箱根に向けてどれだけ走りこんだとか、何日合宿を組んだなんて話を聞くと、本業であるはずの勉強は大丈夫かと言いたくなる。そんな箱根駅伝出場大学の一つに我が母校の名前を見つけたときには目を疑った。90年代の初めには野球には力を入れていて、東都の二部にいたのだけど、陸上部なんてあったかどうかさえ記憶にない。野球部の連中は練習と試合のせいで授業にはほとんど、場合によっては試験にも出てきていなかったが、なぜか単位が取れて進級はできていた。
当時は野球部だけで数がそれほど多くなかったから、特に問題にもなっていなかったけど、野球に陸上なんてことになると、バカにできない数の、スポーツ専業で勉強したくてもできない学生が在籍していることになる。実はいくつかある附属の高校ではいろいろなスポーツに力を入れていて、全国大会に出場することも多かったのだが、当時は附属のスポーツで大学に行きたい連中は他所の大学に行くことになっていたらしい。今でも野球と駅伝以外では名前を聞かないから、状況は変わっていないと思いたい。
出場している選手たちがどこまでちゃんと専門分野の勉強をしているのかわからないと思うと、母校だからといって応援する気には、正直なれない。長い伝統のある大学なんだからスポーツじゃなくて学問で学生を集めろよと思ってしまう。情けない話である。マスコミも出場選手の所属学科や専攻、卒論のテーマなんかを報道すると、違った視点からの報道ということになって面白いと思うのだけど、タブーになっているのだろうなあ。昔は時代が時代だったし、数も少なかったから笑い話なっただけの話で、近年の規則にうるさい時勢を考えると決していいことだとはいえまい。
外国の選手を留学生として連れてきて出場させるのにも文句はない。ただ短期間の交換留学ではなく、大学に正規の学生として入学する形での留学というのなら、日本語ぐらいは喋れてほしいとは思う。箱根で名前を売らなければならないような新興の私立大学に入学から卒業まで英語で開講された授業だけで卒業できるようなカリキュラムがあるとも思えない。大学なんだから1年も在学していればある程度日本語が出来るようになるだけの教育はできるだろう。できないなら大学の看板は下ろすべきである。
箱根駅伝はしばしば日本のマラソンが弱体化した原因として非難されることもある。これも変な話で、駅伝自体には問題はない。問題はマスコミの過剰な報道の結果、過度の注目を集めてしまって、猫も杓子も箱根駅伝になってしまっていることである。無駄に駅伝に力を入れる大学が増え、本来であれば高卒で実業団に入って、みっちり時間をかけて鍛えられて力をつけていたはずの選手までが、大学に進んで使いつぶされているのがいけないのではないのか。
日本のマラソンの弱体化の原因は旭化成の弱体化で、旭化成の弱体化の原因は高卒で育てられるような選手が入ってこなくなったことと九州一周駅伝の廃止にあると、九州の人間としては考えてしまう。ラグビーも大学の大会が過剰に注目されている弊害が、過去だけでなく今でもあると思うけど、陸上の箱根駅伝ほどではなさそうだ。
最後に一言言うとすれば、学生が運営の主体である箱根駅伝には、選手以上に注目される有名監督よりも、東京農業大学の大根踊りのほうが似合うはずである。
2019年1月3日23時。
2020年01月05日
名詞の格変化まとめ〈いんちきチェコ語講座〉(正月二日)
ということで、勢い込んで始めてはみたものの、なかなか次が書けないでいるチェコ語を勉強している人のためのまとめである。誤記誤植がありそうなのが不安なのだけど、今回は名詞の格変化について説明した記事を紹介する。
@「チェコ語の名詞」
具体的な名詞の格変化の話に入る前に導入として書いた名詞の性の見分け方である。100パーセントこれで見分けられるというルールはないのだが、ある程度の傾向はある。その傾向について例外的も含めて記した。
A「男性名詞不活動体」
最初に取り上げたのは、男性名詞の不活動体で、硬変化と軟変化の両方の格変化を取り上げた。教科書ではないので単数と複数同時である。硬変化と軟変化の見分け方は語尾の子音によるのだけど、どちらの変化にもなる子音があるのが厄介である。この記事で覚えておくといい指摘は、チェコ語は名詞の格変化の語尾に「ke」がでてくるのを嫌うというものだろうか。
B「男性名詞活動体一」
不活動体の場合と同様に、軟変化と硬変化、単数と複数を同時に説明してある。活動体の場合には複数一格の形が厄介なので、詳しく説明を加えた。
C「男性名詞活動体二」
男性名詞の活動体の中で特殊な格変化をする母音「a」か「e」で終わる名詞を取り上げた。人を示す男性名詞から、いかに女性名詞を作るかについても軽く触れておいた。ただしここに書かれていない方法も存在する。
D「如何に名詞の性を誤認せしか、或は男性名詞活動体落穂拾い1」
E「如何に名詞の性を誤認せしか、或は男性名詞活動体落穂拾い2」
@では、男性名詞活動体の中でも特殊な変化をする爵位もちの貴族、侯爵、伯爵の格変化と、ギリシャ神話の神ゼウスの格変化を紹介した。Aではこれも特殊な「-us」で終わる男性名詞の活用である。題名は男性名詞活動体とあるが、「-us」で終わる名詞の中には、「〜主義」を意味する「-ismus」で終わる名詞もあるので、そちらについてもまとめてある。
F「女性名詞硬変化」
男性名詞は硬変化と軟変化をまとめて説明したが、女性名詞はまず「a」でおわる硬変化の説明から。単数の3格と6格にしばしば出てくる子音交代と複数二格で語尾の母音が消えるのには注意が必要である。
G「女性名詞軟変化」
1格の語尾に「e」が出てくる女性名詞は軟変化だが、「e」で終わる名詞は、男性か中性である可能性もあるので、性を見分けるのが一番大変な名詞である。「-ice」で終わる女性名詞の地名が単数なのか複数なのかわからないという問題も指摘しておいた。
H「子音で終わる女性名詞」
女性名詞の中でも例外的な子音で終わる名詞の格変化。これも末尾の子音が硬子音か軟子音かによって変化を区別しなければならない。軟子音で終わるものは軟変化に似た格変化をする。硬子音で終わるものは特殊な変化だが、出てくる語尾が少なく覚えやすい。
I「中性名詞硬変化」
中性名詞の硬変化は、「o」で終わる名詞なので判別はしやすい。ただし、人名で例外的に「o」で終わる男性名詞活動体も存在するから注意が必要である。スロバキア人を除く外国人の名前についてはここでは考えない。中性名詞の硬変化は、男性名詞の硬変化に、女性名詞の硬変化の要素を少し加えたようなものになっている。
中性名詞の格変化の特徴としては、単数でも複数でも、1格、4格、5格が共通だというのを忘れてはならない。
J「中性名詞2」
中性名詞の中で長母音「í」で終わる名詞の格変化の説明。この名詞は、単数では7格に語尾「m」をつける以外は一格と同じという、学習者にとっては格変化の迷宮の中のオアシスのような存在なのだが、チェコ語になれてくると文章中で何格なのかがわかりにくいという新たな問題が発生する。人を表す名詞の中には形容詞の何変化型のものもあるので、「í」で終わる名詞が必ず中性名詞だというわけではない。
K「中性名詞3」
中性名詞のうち母音「e」で終わる名詞には、「moře」型の一般的なものと、動物や人間の子供を表す「kuře」型の特殊なものがある。特殊さは格変化させると、語幹が拡張されて一格に「t」をつけたものが語幹になるところにある。ただし複数では「et」が「at」に変わる。
L「中性名詞4外来語」
中性名詞の中で特殊な格変化を取るものを取り上げる。女性名詞と見まがう「a」で終わる名詞と、男性名詞と混同しがちな「um」で終わる名詞の二つである。前者は中性名詞の特殊変化と同じで語幹に「t」を追加してから格変化させ、後者は男性名詞の特殊なものと同様に語尾の「um」を取り去った上で格変化させる点で特殊である。
M「名詞格変化落穂拾い」
これまでの格変化の説明で忘れていた特別な格変化を取り上げる。まずは女性名詞で母音の後に「a」がついて終わるもの、次にいくつかの無変化、つまり単数でも複数でも1格から7格まですべて同じ形を取る名詞である。
以上、つらつらと名詞の格変化について説明してきての、結論めいた感想が、チェコ語は格変化してこそというのは、初学のころには理解できなかっただろうなあ。
2020年1月2日24時。
2020年01月04日
今年も元日に思う(正月朔日)
元日恒例の大統領によるテレビ演説はクリスマスに移ったが、お昼ごろには上院と下院の議長の演説が、夜の8時からは首相の演説がテレビで放送された。これは今年が初めての試みらしい。議長たちの演説は、恒例のウィーンフィルのニューイヤーコンサートにチャンネルを合わせていたので見ていないが、バビシュ首相の演説は、聞くともなしに部分的に聞いて後悔した。共産党政権時代の大統領の新年の演説のように自画自賛の連続だったのである。
こういう政治家の、クリスマスの大統領演説も含めて、あまり意味があるとも思えない演説を放送するのも公共放送の役割と言うことだろうか。ゼマン大統領の演説はチェコテレビだけではなく民放のノバとバランドフでも放送していた。どの局も同じ時間に放送していたようだから、録画ではなく直接カメラの前で国民に呼びかける形だったと考えてよかろう。そうすると、毎年同じ儀式を繰り返す年中行事的な意味はあるか。それにしては毎年内容が穏当ではないけど。
元日の演説のほうは、事前に録画したものを所定の時間に放送していたから年中行事としての意味すら見出せない。語りかけるものと聞くものの間に同時性が存在してこそ、年中行事としての意味を持ちうるのである。それでも内容に見るべき、いや、聞くべきものがあれば話は別だが、議長二人の話も、首相の話も特に目新しい主張はなく、わざわざ元日に時間を取って放送するべきものだとは思えなかった。政治記者にとっては仕事が増えるからありがたいのかも知れんけど。
チェコの人たちにとっては、新年よりもクリスマスのほうがはるかに大事な祝日で、新年だからと言って特別なことは、社会の迷惑である花火以外には何もしない。そんな国にいると、自分でも、新年だからといって特別にすることもないし、一休禅師のような、死にまた一歩近づいたというような感慨も持てない。
いや、考えてみれば、日本にいるころから毎年、特別なことは何もせずに寝正月だったか。正月休みに入ると、風邪をこじらせて寝込むことも多かった。年中無休のコンビニがあるから成り立つ年末年始の過ごし方だったのだとコンビニのない国に来て思う。最近はガソリンスタンドの売店がコンビニ的になってきたけど、そこまで品揃えがいいわけでもないし、値段も高めである。
新年の抱負なんて柄じゃないし、毎年学校で新年の抱負なんてのを書かされるのが苦痛で仕方がなかった。それに、一年の計は元日になんかないと思っている人間ではあるけれども、新年の前後には、来年は、もしくは今年はどうなるのかなあなんてことを考えないわけではない。特に去年はこのブログを始めて四年目にして、初めて元日から大晦日まで、毎日更新し続けるという偉業を達成したわけで、次はどうしようと考えてしまう。
最近どうもやつけ仕事的な記事が増えているような気がしてならない。それはそれで無理やり書いて無理やりけりをつける訓練という意味では、悪くないのだけど、何を書こうかネタを探すのに苦労することが多いし、無理やり書き始めたネタではモチベーションが上がりにくいという問題もあって書き落としの多いしょうもない記事なることが多い。
今年はもう少し計画的に記事を書いていくことにしようか。今の思いついたことを思いついた順番に取り上げるような書き方では、シリーズ的なものを始めても、そのまま放置してしまって忘れてしまう。同じようなことは以前も書いたけど、念頭の所感であれば、強く意識付けできるのではないかと期待している。時事的なものは、そのときそのときに書くようにしたほうがいいだろうけど、それ以外のいつ書いても変わらないようなものは、定期的に書いていくことにしよう。
チェコの王様の話とか、貴族家の紹介なんかも止まっていることだし、この辺の歴史的な話から、週一ぐらいで書いていこうか。その前に森雅裕の著作紹介を終わらせるのが先かな。こっちのほうが先が見えているわけだし。ということで、新年の抱負ならぬ、今年のブログの、おそらく守られない予定もどきであった。
2020年1月1日24時30分。
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2020年01月03日
ハベル大統領就任(十二月卅一日)
1989年、今から卅前の年末、いわゆるビロード革命の進行中だったチェコスロバキアは年末年始のお祭り騒ぎどころではなかったようだ。11月17日の国際学生の日に、学生たちの反政府デモによって始まったビロード革命は、ハベルを中心とした市民フォーラムの結成によって、デモだけではなく、共産党政権との直接交渉という形でも進んでいた。
その交渉の成果の一つが、翌1990年に連邦議会の総選挙を行うというものだったが、これは何十年かぶりに共産党以外の政党も候補者を立てられる自由選挙として行われることになっていた。当然その選挙で共産党以外の党、市民フォーラムが勝ち、共産党から政権を奪うことが予想されていた。しかし市民フォーラムなどの革命派はそれだけに満足せず、選挙の前、年が変わる前に新たな大統領を選出することを求めた。
話し合いが長引いたのか、順調に進んだのかまでは知らないが、当時の憲法に基づいて大統領の選挙が連邦議会で行われたのは、12月29日のことだった。選挙とはいっても事前にハベルが選出されることが話し合いで決まっているという茶番だったのだが、民主主義的な手続き、もしくは政権交代の儀式として必要なものだったのだろう。ハベル大統領は、選挙当日は朝から自宅で就任演説の最後の推敲に頭を悩ませていたらしい。
プラハ城で行われた連邦議会の恐らく臨時集会で議長を務めたのは、1968年のプラハの春を主導して失脚していたアレクサンデル・ドゥプチェク。ビロード革命で表舞台に再登場したこの人が、連邦議会の議員に選出されていたとも思えないので、どういう事情で議長を務めていたのかは不明だが、革命のドサクサ紛れだったから、どうとでも口実は付けられたのだろう。敗戦直後の日本も同じような感じだったというし。
ちなみに、このドゥプチェクは、自分が大統領になる気満々でスロバキアから出てきたものの、市民フォーラムなど革命派の大統領候補選出に際してハベル大統領に負け、連邦議会の議長の座で満足せざるを得なかったという話である。日本で読んだプラハの春にまつわるドゥプチェク関係の記述から受けた印象と違って、かなりの野心家でプライドの高い人物だったようだ。単なる善良な人が共産党内の権力闘争を勝ち抜いて第一書記なんかになれるわけはないわな。
問題なく大統領に選出され、就任演説をこなしたハベル大統領が向かったのは教会。ここで当時のプラハの大司教の主催する就任のミサに参加している。キリスト教の復権というのも共産党体制の終焉を象徴するものとして受け止められたのだろうが、政教分離云々なんて野暮なことを言う人はいなかったようだ。この程度のことは、キリスト教が社会に染み付いているヨーロッパでは、政教分離の対象にはならないのである。
その後軍隊の閲兵式に望むのだが、ここでハベル大統領にまつわる最大の伝説の一つである短いズボン事件が起こっている。事件というほどのこともないのだけど、整列する軍隊の前を歩くハベル大統領のズボンが妙に短かったことに気付いた人がいて、あれこれ憶測されたのである。この話はハベル大統領がなくなるまで、いや亡くなってからもことあるたびに蒸し返され、冗談のネタにされている。
ハベル大統領はこの件について触れられるのを嫌がっていて、閲兵式の前にズボンを引きずりあげすぎただけで、短かったわけではないと説明していたらしい。その真偽も、チェコの人たちがどこまでその話を信じているのかも知らないが、ハベル大統領をしのぶイベントなんかだと意図的に短いズボンを履いたり、必要以上に引きずり上げて履いたりしている人がいる。
ハベル大統領は、1990年1月1日にテレビで放送された恒例の大統領の新年の挨拶で、それまでの共産党の大統領たちが、あれこれ作られた数字を挙げて我が国は年々発展しつつあると語っていたのに対して、「我が国は発展していない」と語り、「自分は皆さんにうそをつくために大統領に選ばれたわけではない」と続けた。異例の内容だったわけだけれども、こんなことを就任直後に言えてしまうところが、ハベル大統領のハベル大統領たる所以だったのだろう。
また新年早々、政治犯を中心として刑務所に収監されていた多くの人たちに恩赦を与えている。これについては賛否両論いろいろあって、何年か後にバーツラフ・クラウス氏は、数が多すぎて社会に混乱を与えたと批判していた。そのクラウス氏も大統領退任直前に大量の恩赦を与えて批判されていたし、原則として恩赦は与えないと言っていたゼマン大統領も数は少ないけれども、問題のある人に恩赦を与えているから、大統領というのは恩赦を与えると批判されるものなのかもしれない。
ハベル大統領はその後2月のアメリカ訪問の際に議会で、われわれを支援しようと考えているのなら、崩壊の危機に瀕しているソ連を支援してやってくれという内容の演説を行って喝采を浴びた。就任直後のハベル大統領は、どこにいっても伝説的な存在だったのだ。だから、1990年の総選挙までいう短い最初の任期を終えて、改選後の連邦議会で再度大統領に選出されたのも、チェコスロバキアが分離したあと二期大統領を続けたのも当然のことだったのだ。
一説によると、本人はそこまで長く政治の世界にいるつもりはなかったらしいけど、チェコ人がハベル大統領を必要としたのである。
2020年1月1日16時。
2020年01月02日
かきつばた(十二月卅日)
和歌の表現技法の一つに折句というものがある。5・7・5・7・7のそれぞれの最初のかなを並べると一つの言葉になるというものだ。いや五文字の言葉を各句の先頭に置いて歌を詠むといった方がいいか。とまれ折句が使われた歌として最も有名なのは、『伊勢物語』に登場するこの歌だろう。わかりやすいようにひらがなで分かち書きする。
からころも
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞおもふ
歌の意味はと言われると、枕詞、掛詞、縁語などなど和歌の修辞技法をこれでもかというぐらい詰め込んだ技巧的な歌なのでよくわからないと言いたくなる。いやわからないわけではないのだけど、一般的な解釈とは違うイメージが付きまとっていて、高校の国語で勉強したような解釈をするのを妨げている。
そのイメージというのが、着物を、着物でなくてもいいけど、服を長い間着続けているうちに、素材の布がこなれて着心地がよくなったという、和歌の題材としては雅さのかけらもない、実もふたもないものである。そういう含意もないわけではないだろうけど、序詞的に歌の本題を導き出す部分である。
本来ならば、「はるばる来ぬる」で、遠くまでやってきたことを慨嘆する部分も、「着ぬる」と解して、長い間繰り返し着続けてきたと読めてしまう。長い旅の間に何度も洗濯して同じ部区を着るのである。でも、本来は遠くまで旅をしてくる間ずっと同じ服を着続けているわけだから、序詞の部分はこちらのイメージよりも小汚いものになるのか。
それはともかく、以前はこの歌を読んでもこんなイメージになることはなかったと思うのだけど、なぜかと考えて思いついたのが、一枚のTシャツである。違う、正確にはこのTシャツを着るたびにこの歌を思い出してしまうのである。
チェコの水は大半は硬水である。そのせいか、洗濯をすると服の生地がごわごわになる(ような気がする)。それでだと思うけど、チェコの人たちは、ワイシャツやハンカチなんかだけでなく、Tシャツや下着にまでアイロンをかけることが多い。アイロンをかけたほうが着心地がよくなるなんてことを言っていたかな。
もちろん日本でも、Tシャツや下着にアイロンをかける人はいるのかもしれないけど、自分ではかけずに、アイロンが必要なものは全部クリーニングに出していたから、チェコでほとんど何にでもアイロンをかけるという話を聞いたときには驚いたものである。こちらとしては、特に着心地なんて来にしないから、ワイシャツの下に下着として着るようなTシャツは、アイロンをかけてもらわないことにしている。
それなのに、ある一枚のTシャツだけは、生地が妙になれていて、洗濯をしてもごわごわにならず、アイロンをかけずとも、しわもなく軟らかくて着心地のいい状態になっているのである。十何年も前に日本から持ってきたもので、同時期に買った服の多くは、穴が開いたり襟の部分が擦り切れていたりと廃棄寸前になっているのだけど、これだけはうまい具合に全体的に生地が薄くなっているのか、穴もなければほつれもなく、着心地までよくなっている。
不思議なのは、色が違うだけで他はまったく同じTシャツの場合には、生地がごわごわしていて、着心地がよくなったとは言えないことである。着た回数と洗濯した回数が足りないのかと、最近では重点的に着ているのだけど、まったく変わらない。なんでだろう。
それはともかく、このTシャツを着るたびに、このかきつばたの歌を思い出してしまうという、チェコ時間で新年初日の投稿にはふさわしくないしょうもないお話であった。ちなみに歌の主題よりも序詞の部分のイメージが強い歌と言えば、百人一首にも入っている「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を独りかも寝む」もそうだなあ。こちらは、最期の句の「かも」が、鳥のイメージを強調するのがいけないのかな。
2019年12月31日24時。