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2020年01月08日
森雅裕『会津斬鉄風』(正月五日)
ほぼ半年振りの森雅裕である。残りは少ないのだけど、なかなか書き進められない。集英社刊行の本が本書を含めて三冊、私家版が二冊に、最高傑作にして失敗作でもあると評価している『歩くと星がこわれる』だから、六冊か。思い入れがありすぎだったり、足りなかったりで書きづらいのが残ってしまったという印象だけど、一冊を除いて古いほうから順番に書いてきたわけだから当然か。若いころに読んだ本の方が、読んだときの衝撃も大きかったし、読んだ回数も多く、当然、思い入れも大きいのである。
集英社は、森雅裕が小説を出版した最後の出版社ということになる。前から数えると、角川、講談社、中公、新潮、KKベストセラーズについで6社目だと思っていたら、本書の刊行の方が、KKベストセラーズの幻コレクションよりも早かった。あっちは古い本の再刊だったから、刊行も早かったイメージがあるのか。最後の『いつまでも折にふれて』も、私家版で一度出したものだったというし。
とまれ集英社から出版された最初の本である『会津斬鉄風』は、1996年に刊行された短編集である。短編でありながら前作の登場人物が、次の作品では主人公になるという形で連環している。森雅裕らしく凝った構成の作品である。ジャンルは、時代小説というべきなのかな、舞台は幕末の日本である。会津から始まる物語は、新撰組の活躍する京都を経て、最後の新撰組土方歳三の亡くなる函館で終わる。
一読しての感想は、好きなものを詰め込んだのねというもので、恐らく一番の目的は『マンハッタン英雄未満』で登場した土方歳三を描くことだったのだろうと思われる。序盤の二作に登場する刀工の兼定も、流星刀の作者として『マンハッタン英雄未満』に登場していた。『鐡のある風景』で、土方が形見として実家に送ったものと制作年紀の同じ兼定の刀を手に入れて、歳三のものと同じ拵えを作ったときのことが記されている。どちらも森雅裕にとっては思い入れのある人物なのだろう。
一体に、幕末好きの日本人の大半は、坂本龍馬ファンか、新撰組ファンということになるのだが、森雅裕は後者であるらしい。『蝶々夫人に赤い靴』でも龍馬と龍馬ファンの悪口を書いていたしなあ。個人的には中学時代の歴史の先生が龍馬ファンでうんざりさせられたことがあるし、新撰組ファンの同級生にも困らされたことがあるから、どっちも避けたいのだけど。
ただなあこの手のファンの信仰の出発点って大抵は司馬遼太郎の小説なんだよなあ。いいことなのか悪いことなのか。文学としての評価は知らないが、日本人の歴史観に影響を与えたという点では、司馬遼太郎は空前絶後の存在だったのだ。作品の終わらせ方があまり成功していなくて後味のよくないのが多いので、一番いいところで読むのをやめるようにしているのだけど、その見極めが難しい。
閑話休題。本書は森雅裕の作品としては、文庫化された最後の作品でもある。その文庫版に解説を書いていたのが、森雅裕の刀関係の師匠に当たる刀匠の大野義光氏。登場人物の名前の由来について楽屋落ち的な話まで披露されていて、なかなかいい解説だったと記憶する。音楽の世界を舞台にした作品では音楽家が解説を書いたのもあったからなあ、森雅裕が書評家というものを信用していなかった証拠なのかもしれない。書評に対するうらみつらみは『推理小説常習犯』にも書かれていたし。
推理小説やSFなどでデビューした作家が、時代小説や歴史小説に転向した事例は、たくさんある。光瀬龍のように時代小説の中にSFを持ち込んだり、半村良のように伝奇的な時代小説を書いたり、独特の世界を切り開いた作家もいれば、あまり特徴のない作品に終わった作家もいる。森雅裕はどうだろうと読み始める前は心配だった。
それは杞憂で、最後の作品の土方も含めて、森雅裕らしい主人公の設定で、森雅裕らしいややこしい話だとはいえる。どれも何らかの謎を解く話だから推理小説的でもある。ただ、いい意味での森雅裕らしさが弱いというか、森雅裕にしては穏当というか、『マンハッタン英雄未満』に比べるとあちこちに気を使って書いているような印象を受けてしまう。面白いという意味では十分に面白いのだけどね。下手に森雅裕らしさが前面に出すぎると、その出版社からの刊行が止まってしまうから、ファンとしても悩ましい限りである。
本書は森雅裕の作品としては久しぶりに文庫化もされたし、さらに二冊単行本を出版できているから、商業的にもある程度成功したのだろう。文庫本が出たときには集英社との関係は続いて行くと信じていたのだが……。
2020年1月5日24時。