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2019年05月11日
地名と形容詞の関係2日本(五月九日)
日本の地名は、例外を除くと日本語の発音とほぼ同じ形で、チェコ語の表記法に基づいて表記される。例外は東京で「Tokio」と書いて「トキオ」、もしくは「トキヨ」と読む。京都が「Kjóto」で、大阪が「Ósaka」となるように、日本語で読む通りにチェコ語のアルファベットを使って書いてやればいい。気を付けるべき点はジャ行の子音が、「ž」だけではなく、「dž」で書かれることだろうか。
格変化に関しては、「a」で終わる地名は女性名詞の「žena」と同じ形、「o」で終わるものは中性名詞の「město」と同じ形で変化させるが、それ以外の母音、もしくは長母音で終わる地名の場合は厄介なので、地名の前に一般名詞を付けてそれだけ格変化させることをお勧めする。例えば「Bydlím ve městě Kawasaki(川崎市に住んでいます)」と処理するのである。そのほか、都道府県であれば「prefektura」、地方であれば「oblast」、村であれば「vesnice」となる。
これさえできれば、日本の地名をチェコ語の中で使用するのに何の問題もないのだが、チェコ語で頻発する地名起源の形容詞も使いたくなるのが、チェコ語学習者の性というものである。幸いなことに、作り方はチェコ語の地名の場合と同じである。ただ日本の地名はほぼすべて母音で終わるから、まず最初に末尾の母音を取ってやらなければならない。
最初の例外が、すでにチェコ語化している「Tokio」である。末尾の母音を取り去ると「Toki」とさらに母音「i」がのこる。しかも「Tokio」自体の発音が「Tokijo」に近いため、形容詞にする際に「j」が出てくるのである。つまり「Tokio → tokij → tokijský」という経過をたどって、形容詞化される。同じような例としては日本の地名ではないが、アジアが「Asie → asij → asijský」となる。「Asie」をアジエと発音するのも、例外的と言えばその通りなのだけどね。
他は、とりあえず有名な都市から行くと、京都は「Kjóto → kjót → kjótský」である。ここで気を付けなければいけないのは、「ts」の発音が「c」と同じになることで、京都の形容詞形は「キョーツキー」と発音しなければならないことである。
大阪は母音を取ると「k」で終わるので、「Ósaka → ósak → ósacký」と「c」が出てくるのがちょっと特殊である。だから福岡、川崎なんかも同じ形になる。ちょっと悩むのが「ガ」で終わる地名で、母音がなくなると発音が無声化するから、大阪と同じと考えていいのかな。例えば佐賀は、「Saga → sag → sacký」だろうか、それとも「Saga → sag → sagský」だろうか。
広島からできる形容詞が「hirošimský(ヒロシムスキー)」、長野が「naganský(ナガンスキー)」、札幌が「sapporský(サッポルスキー)」となるのは、問題ないだろう。千葉と神戸が「čibský」「kóbský」という表記になるところまではよくても、発音がそれぞれ「チプスキー」「コウプスキー」になるというと首をかしげる人もいそうだ。
難しいのが仙台、関西などのように「ai」で終わるもの、福井のように「ui」で終わるものである。チェコの地名にないパターンだけど、ここは盆栽が「bonsaj」、侍が「samuraj」となる例に倣って末尾の「i」を「j」に見立てて「sendajský」「kansajský」「fukujský」になると見る。
長母音「ó」「ú」で終わる北海道や九州なんかはどうするのがいいのだろうか。長母音で終わる地名というと、プラハのレトナーや、ベセリーなんかがあるけれどもあれは形容詞形の名詞で、「ó」「ú」で終わるものではない。北海道から「hokkaidský」、九州から「kjúšský」だろうか。悩むところである。
最後にお手上げでどうしようもない地名を挙げておこう。それは一音節の地名で、具体的に思いついたのは三重県の津市なのだけど、原則に基づくと「Cu → c → cký」となるはずなのだが、さすがに「cký」だけでは、意味不明になりそうである。
とまれ、この地名から形容詞を作るのは、チェコ語には珍しく例外が少ないので、規則さえ覚えてしまえば、いくらでも応用が利く。ただ問題は、もとになる地名を知らない人には形容詞を使っても理解してもらえないことである。逆に言えば地名さえ知っていれば理解してもらえるわけだから、うまく使えるとチェコ語ができると思ってもらえるはずである。
2019年5月10日24時。
2019年05月10日
終戦記念日(五月八日)
日本では第二次世界大戦が終わったのは、日本がポツダム宣言を受け入れた八月十五日ということになっているが、チェコでは、もしかしたら他の国でも、この日付はあまり重い意味を持っておらず、戦争が終わったのは九月二日だったと認識されている。この日は日本政府がポツダム宣言に基づく降伏文書に調印した日である。この日もあまり重要視されていないけど。
では、チェコを含むヨーロッパにとっての第二次世界大戦が終わった日となると、太平洋戦線など関係なく、ドイツが降伏した五月八日であり、チェコでも祝日になっている。メーデーの五月一日も祝日なので、二週間連続で同じ曜日が休みになる。チェコには振り替え休日はないので、日曜日に祝日が重なると、休める日が二日消えてしまうことになる。
最近は、チェコでもドイツの悪影響で、スーパーマーケットなどの休日の営業を規制する動きが出始めていて、その嚆矢としていくつかの祝日が選ばれて、休業を強制されているのだが、その祝日が日曜日に重なった場合、五月の場合には二週連続で、土曜日に買い物客が殺到することになりそうだ。チェコの大手スーパーの問題点は、土日や祝日が休みにならないことではなく、定休日が存在しないことなのだけど、日本のことを知っているはずのオカムラ氏が主張してくれないかなあ。
それはともかく、この第二次世界大戦のヨーロッパにおける終結にもあれこれ曰く付きの出来事があって、1989年までのチェコスロバキアでは、終戦記念日は五月八日ではなく、一日遅い五月九日だったらしい。これは、赤軍、つまりソ連軍によるプラハ解放が九日までずれ込んだことが原因だという。そのまた原因が、赤軍が各地での略奪に忙しくて予定通りの侵攻ができなかったからだなんて話もある。
連合軍によるチェコスロバキアの解放というのは、ドイツの敗北が決定的になっていこう政治的な色合いが強くなってしまった。チャーチル、ルーズベルトとスターリンの密約によって、チェコスロバキアの解放はソ連軍が担当し、戦後もソ連の勢力圏に入ることが決められていた。そのため、ドイツ南部を占領したアメリカ軍はそこで侵攻を止めたのである。
実際には国境を少し超えて、西ボヘミアのプルゼニュの辺りまで侵攻したのだが、共産党政権の時代にはそんな事実はなかったことにされていたらしい。ビロード革命後は、その反動からか、ことあるごとにアメリカ軍が、一部とはいえチェコスロバキアの解放をしたのだということが強調されるようになっている。
アメリカ軍がズデーテン地方を越えてボヘミア・モラビア保護領への侵攻を開始したのが、五月五日のこと、西ボヘミアの中心都市プルゼニュを開放して進軍を止めたのが、その翌日の六日のことだった。この日付にも政治的な意味があるようで、プラハで無謀だったと評されることもあるナチスに対する蜂起が発生したのが五月五日のことである。
このプラハでの蜂起に関しては、アメリカ軍が迫っていることに焦った共産党、もしくはソ連軍の指示だったとか、ソ連軍ではなくチェコ人の手によってプラハを解放しようとした亡命政府の指示だったとか、あれこれ説があるのだが、蜂起は失敗に終わる。その結果、プラハは五月九日になってソ連軍によって解放され、第二次世界大戦がヨーロッパで終結したのは九日だという神話を押し付けられ、ビロード革命まではこの日が祝日になっていたらしい。
とまれ、終戦記念日のこの日、チェコとしては勝ったわけでも負けたわけでもないので、これ以外の言い方はなそうなのだが、各地で記念式典が行われた。戦争にまつわる式典なので、政治家だけでなく軍隊の姿もあって、第二次世界大戦で実際に従軍した人たちも招待されていた。日本だと出てきそうな終戦記念日に軍人が出てくるとは何事かなんて叫ぶ連中はチェコにはいない。
この軍隊への敬意は、悪名高きソ連軍の犠牲者に対しても捧げられる。第二次世界大戦後の共産党体制を支え、特に1968年以後の正常化の時代に市民を弾圧した駐屯ソ連軍に対しては強い反感を隠さないチェコ人も、チェコスロバキアを解放するためにドイツ軍と戦って命を落としたソ連軍兵士に対しては、その記念碑を破壊するような蛮行はしないし、終戦記念日にはその前で慰霊の、もしくは感謝の式典を挙行している。チェコを解放したソ連軍自体もあちこちで略奪などを繰り返し評判は決していいとは言えないのにである。
こんなのを見ていると、戦後日本の最大の失敗は、戦争責任のすべてを軍部に押し付けて、政治家やマスコミを筆頭に多くの日本人が、戦時中の自らの行状をなかったことにしてしまった、もしくは軍に強制されてと自らを被害者の立場におくことで戦争責任から逃れようとしたことにあるのだと思えてくる。その結果として軍隊というものの存在意義を考えることなく、軍隊=悪と短絡する軍隊アレルギーを生み出してしまった。
日本国憲法の第九条が存在することは素晴らしいことであろう。ただ同時に現実とは乖離したものであることも事実である。今後この第九条をどうするのが正しいのか、建設的な議論が行われず、自衛隊が中途半端な存在になってしまっているのも、軍隊アレルギー派と、軍隊アレルギー派に対するアレルギー派がヒステリックに反応しあっているからに他ならない。軍隊とは何なのかという根本的な部分から議論を始めて、第九条、自衛隊をどうするのかの議論に到達するべきだと思うのだけど。
そういう本質的な議論を経た上での決定であれば、第九条を遵守して自衛隊を廃止するでも、第九条を廃止して自衛隊を軍隊にするでも、反対する気はないのだが、現状を見ていると第九条を守れと主張する人にも、憲法改正を叫ぶ人にも、賛成のしようがない。今の日本の状況で、憲法第九条の存在を心から誇れるのだろうか。
2019年5月9日24時。
2019年05月09日
チェコ土産、もしくは記念に〈続々〉(五月 七日)
昨日のTonakの帽子で、足の先の靴、例えばバテャのチェコ製の靴から、頭のてっぺんの帽子までチェコ製でそろえることができるようになった。残っているのは何だろうと考えて、自分も必要としていたベルトに思い当たった。ベルトの代わりにサスペンダーでもいいけど、チェコでは滅多に見かけないので、チェコ製かどうかにこだわりようがないのである。
この前ベルトを買おうとしたときにはチェコ製にはこだわらないつもりだったのだけど、おっちゃんに一本もらって余裕ができたので、チェコ製のベルトを探すことにした。それで、見つけたのが、狐のマークのカラである。シャントフカにお店が出ていて存在は知っていたけど、チェコの会社だということは知らなかった。
さて、この東北ボヘミアのフラデツ・クラーロベー地方のトルトノフにある会社は、皮革製品の製造会社で、主力はハンドバッグや革製の服のようである。シャントフカのお店においてあるベルトはそれほど多くなかった。こちらが求めていた男物の幅の狭いベルトは一種類しかなく、長さもちょうどいいのがなかった。色も明るめの茶色で、もう少し濃いのがよかったんだけど、長さが自分で切って調整できるタイプのベルトだったし、よその店に探しに行くのも面倒だったので買ってしまった。
レジでお金を払おうとしたら、お店の人に財布はいかがと勧められた。買わなかったんだけど、財布もチェコ製のものにするのは悪くない。これは次の課題だな。手袋とか鞄もあるみたいだけど、革ジャンも含めて、手入れが面倒くさそうで、ちょっと手が出せない。財布とベルトならろくに手入れしなくても何とかなりそうだけど。
HPの記述によると、カラという会社が誕生したのは、第二次世界大戦後の1950年代の前半のことである。例の社会主義的な生産の集約で、トルトノフだけでなく、フリンスコやコリーンにあった皮革製品の製造工場がいくつか合併して誕生したのが国有企業のカラ社だった。1970年代から80年代にかけては冷戦にもかかわらず西側世界にも製品を輸出して評判も高かったらしい。ビロード革命後は、民営化された結果、いくつかの小さな企業に分裂しほとんど消滅の危機に陥った。それを救ったのが元従業員のズデニェク・リント氏だったのだという。
カラのHPを見て思ったのが、ピエトロ・フィリッピのと似ているということだったのだが、それもそのはず、最近どちらの会社も同じ人物によって買収されたらしい。その人はチェコ人で熱心にチェコ企業の買収をしている人物だから、どちらもチェコ資本のチェコの会社だと言ってよさそうである。チェコの誇りであるピルスナー・ウルクエルやシュコダ自動車さえ、外資に買収されて久しいのだから、チェコ資本のチェコ企業ってのは貴重である。
ところで、カラのあるトルトノフは、クルコノシュ山脈の麓にある町で、このあたりの中心都市になっている。この街で作られているビールが、クルコノシュではなく、クラコノシュなのは、地元の方言での山脈の呼び名なのだろうか。この工場はビールそのものよりも、かつてハベル大統領が働いていたことで知られるビール工場である。その縁もあってハベル大統領はトルトノフの名誉市民になっているのかな。
トルトノフというと、フス派の英雄ヤン・ジシカの出身地であるトロツノフと音が似ているので、耳で聞くと混同しそうになる。トロツノフは南ボヘミアのチェスケー・ブデヨビツェの近くにあるらしいから、名前でなくどこにあるかで覚えておけば間違えにくいはず。さらに、トルトノフの近くにはトルノフという町もあって、間違えてくれと言わんばかりである。ハベル大統領に縁があるのがトルトノフ、ヤン・パトチカが生まれたのがトルノフである。
オロモウツからは最短でも三時間かかるので、ちょっと足を伸ばすには遠すぎるなあ。ハベル大統領が働いていたビール工場を見学するほどのハベルファンじぁないし。
2019年5月8日24時。
これって、チェコのカラなんだろうか?
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タグ:お土産?
2019年05月08日
チェコ土産、もしくは記念に〈続〉(五月六日)
二つ目はこれもモラビアの、ノビー・イチーンにある帽子の製造会社TONAKである。家具のTONと似ているから、しょっちゅう混同してしまうのだけど、末尾の「K」はチェコ語の帽子「klobouk」の「K」だと覚えておくと間違えないかもしれない。何度言い聞かせても忘れてしまうんだけどね。
日本には帽子をかぶるという文化がないので、せいぜい夏の暑い時期に子供たちが麦わら帽子をかぶったり、野球帽をかぶったりするぐらいだけど、チェコでも普段はスーツを着て帽子をかぶっているというスタイルの人を見かけることは少ない。もちろん、冬の寒い時期には毛糸の帽子をかぶって防寒に努めているけど、TONAKで扱っているような帽子とは用途が違う。
ただ、古い、チェコスロバキア第一共和国の時代の映画なんかを見ると、スーツを着て、つまり正装で外出する場合に帽子をかぶっている男性がしばしば登場する。ああいうのを見ると自分もかぶってみたいと思わなくもないのだが、スーツを着る機会が皆無になっているので、ラフなスタイルに「帽子」が合うものかどうか心もとない。コートを羽織っていれば何とかなるかなあ。でも、コートが必要な時期には耳も隠れる毛糸の帽子をかぶってしまうか。
チェコのレストランなんかの壁にある上着をかける金具が、上下二本ずつのセットになっているのも、本来は下に服をかけて、その上に帽子をかけるという形で使われていたものなのだろう。もしかしたら今でも昔のように、正装して帽子をかぶってレストランに通う人もいるのかもしれない。だからと言って、そのためだけにスーツ着るのもなあ。
歴史的な話をすると、ノビー・イチーン地方では、歴史的に帽子の生産が行われてきたようであるが、このTonakの前身となる工場が設立されたのは、18世紀末の1799年のことだった。創設者はJan Nepomuk Hückelというのだが、前半二つはチェコっぽく、最後はドイツっぽい名前である。「ネポムク」というのはチェコのカトリックの聖人ヤン・ネポムツキーの姓の由来となった町の名前である。それがドイツ系の人の名前に使われているのは、チェコ人とドイツ人の民族的な違いよりも、カトリックとプロテスタントという宗教的な違いのほうが重視されていた表れであろうか。
チェコ語のウィキペディアによると、もともと創設者の名前が付けられていたこの会社は第二次世界大戦後に国有化された後、チェコ語の「帽子工場」の頭文字をとった名前Tonakに改称され、1975年に一度消滅したようだ。その後、どのような経緯で復活して、生産と販売を再開したのかはわからない。チェコの企業の中には、HPに社史を公開しているところも多いのだが、残念ながらTonakのHPには歴史については全く記されていない。また、ウィキペディアには同業の「Fezko」という会社によって買収されたともあるのだが、この会社についてもよくわからない。
Eショップで製品を見ると、冬用の帽子やいまや懐かしいベレー帽、麦藁帽子なんかも取り扱っているようだ。でも、どうせ買うなら、エレガントなフェルト帽とか、東京という名前の帽子、もしくは色が緑に決まっている狩猟用の帽子のほうがいいと思う。ちょっと高いのと、自分に似合いそうにないというのが難点だけど。
工場のあるノビー・イチーンの町は、オロモウツから鉄道を使うと乗り換えの関係で一時間以上かかるようだが、レギオジェットのバスを使うと直通で45分ぐらいで着くようである。以前から行ってみたいと思っていたところなので、今年の夏には話のネタに足を運ぶかもしれない。Tonakの工場の近くには創業者のHückel一族のものと思われる邸宅がいくつか残っているみたいだし、中に入れなかったとしても、近代建築のファンとしては外から見るだけで充分である。中については恐らく「シュムナー・ムニェスタ」で90年代の姿を見ることができるし。
街の中心には城館が残っていて、ジェロティーン一族の名がかつけられてジェロティーン城と呼ばれている。ということは、宗教戦争がたけなわだった頃のモラビアでフス派の諸侯の中心だったこの家の歴史についても知ることができそうだ。どうせノビー・イチーンまで行くのなら隣のスタリー・イチーンにも行って、丘の上の城跡にも登りたいところである。
かくて今年の夏の計画だけが増えていく。実際に行けるかどうかはわからないけど。あまり暑くならなかったら行けると思うけど、熱くなったらまたオロモウツで引きこもることになりそうだし。
2019年5月7日23時。
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2019年05月07日
チェコ土産、もしくは記念に(五月五日)
チェコに観光客として来たのなら、お土産としてはプラハの旧市街や、飛行場に並んでいるお土産ショップのいかにもというグッズを買って帰れば、人に配るにも自分用の記念品にするにも十分なのだろうけど、長年チェコに住んでいるとそんなわけにも行かない。チェコと言えば、当然ビールなのだが、お土産として配るには重過ぎるし、記念品として持って帰ってもすぐになくなってしまう。
だから、あれこれチェコ製のものの紹介をしているのだけど、人様に配るお土産というよりは、自分がチェコ好きであることを表明するための、わかる人にしかわかってもらえない記念品になってしまうものが多い。靴にしたって服にしたって、日本でほらこれチェコのなんて自慢しても、変な人扱いされるのが落ちだろう。チェコでってなかなかわかってもらえないのだから。それでもチェコのものにこだわる人はいるだろうから、気が付いたら、もしくは思い出したらこの手のものは紹介していくことにする。
チェコの製品が世界にもっとも広がったのは、バテャやコイノールもそうだが、チェコスロバキア第一共和国の時代である。その時代に成功をおさめた企業の中には、共産党政権によって解体されそのまま消えていったものもあるが、ビロード革命後も生き残って、かつての輝きを取り戻したものもある。
その手の企業のうちの一つが、家具、特に木製の椅子やテーブルなどを生産しているTONである。この家具のブランドについては、日本にいるときに知り合いからちらっと聞いた記憶があるような気もするので、日本でも知られているかもしれない。日本で手に入るようならお勧めなのだけど、チェコで買って持って帰るとなると大変である。
この会社は、モラビアのビストジツェ・ポット・ホスティーネンに、1861年に設立された工場を母体にしている。もともとは創立者の名字を取って「Thonet」という社名だったが、第二次世界大戦後に国有化され、社名も音の似ている「TON」に変更された。「(木を)曲げて作る家具の工場」という意味が与えられたようだけど、後付けの語源のように響く。その後、ビロード革命後の1994年に民営化されて現在に至る。
工場を創設した「Michael Thonet」氏は、名前から言うとドイツ系の人のようである。当時はオーストリア=ハンガリーの時代なので、チェコ系の人がドイツ風の名前を使っていたという可能性もなくはないのだけど、ドイツ系の家具生産の企業として「Thonet」社が存在することを考えると、ドイツ系で第二次世界大戦後は創業者の一族はドイツに逃げるか、追放されるかしたということだろう。それが、この会社がビロード革命後に創業者一族に返されず、国営企業を経て民営化された理由なのだろう。
チェコの建築探偵の出てくるテレビ番組「シュムナー・ムニェスタ」にも、近代の工場建築の例として登場して、当時生産されていた椅子なんかも紹介されていたのだが、現在の商品ラインナップの上のほうに並んでいるものよりも、正直魅力的だった。現在のはデザインに凝り過ぎていてなんだかなあと言いたくなるものが多い。好きな人は好きなんだろうけど。
TONのHPには、製品のカタログがあって、19世紀にデザインされた椅子の生産も続けているようである。お土産なり記念品なりにするなら、最新のデザインよりもこちらの方が断然いいと思う。ただ椅子を一脚買ってもしょうがないからなあ。それなら、上着掛けのほうがいいかな。例えばこれ。持って帰るのは大変だけど、チェコにいる間だけでもさ。
工場のあるビストジツェ・ポット・ホスティーネンには、工場が火災にあった後、創業者一族の居住のために建てられた邸宅が残っていて、現在はショールームとして活用されているらしい。建物の見学をさせてもらえるなら、近代建築ファンとしては一見の価値があると思うのだけどどうなのだろうか。
街にはルネサンス様式の城館も残っているようだから、一度話の種に行ってみようかとは思う。電車ならオロモウツからフリーン乗換えで一時間ほどで到着するから、それほど行きにくいわけでもないし、巡礼の聖地となっているホスティーン山を仰ぎ見るような場所にはまだ行ったことがない。
2019年5月6日23時45分。
これがチェコのTON
これは、チェコのTONなのか、ドイツのThonetなのかわからない。おまけに北欧とか書かれているし。イケアじゃないんだから何でもかんでも北欧にするなよ。
これはドイツのThonet。
2019年05月06日
平成雑記2(五月四日)
昨日の記事を書きながら、はて、どうして日本史ではなく世界史を選んだのだろうと考えてしまった。最終的には英語ができるようにならないことで断念したけど、大学で外国文学を勉強しようなんてことを考えていた時期もあったのだ。翻訳作品なんてろくに読んでいなかったのにそんなことを考えていたのだから、我ながらあほである。その前の理学部の物理に行くという妄想に比べれば、実現の可能性は高かったと今なら思うけれども。
当時はまだ外国語の学習のことがわかっていなかったから、英語ができない人間が、他の外国語ができるようになるとは思えなかったのだ。英語の教師達の、英語は一番簡単な外国語なんだから、英語ができないと他の外国語なんてできるわけがないという言葉を信じたのがいけないのだけど、当時の自分を思い返すと、仮に英語以外の外国語を勉強していたとしても物になったとは思えないが、英語ができないことが、そのまま他の外国語の勉強を諦める理由にはならないことは断言しておきたい。
もちろん、教材や辞書などのことを考えると、英語ができることは、他の外国語を学ぶに際して有利なことも多いだろう。しかし、その外国語を学ぶ、つまり言葉や文法を覚えたり、覚えたことを実際に使ったりすること自体には、英語ができることはさして役に立たない。せいぜい英語と同じ系統の言葉の学習で似ている点があれば有利になるぐらいだろう。
英語が苦手な人が、他の外国語を見につけるためには、英語の学習で失敗したことを繰り返さないことが重要になる。そのためには自分の失敗を客観的に見つめて何がいけなかったのかを理解する必要があるから、大学受験で英語に苦しめられる生活が終わったばかりの大学一年生には難しいかもしれない。英語の学習が失敗したことを認めるのは結構ね。一般受験で大学に入れるレベルにあるということは、ある程度はできるというわけだし。
大学は文系のしかも、国文だったから、高校の勉強は受験に合格する以外には役に立たないなんて主張に賛同してしまうこともあったのだが、今から思い返すと、そんな戯言をわめいていた大学時代にしてからが高校時代にある程度真面目に勉強しておいたことの恩恵を受けていた。塾でアルバイトをしていたのだが、小さな個人経営の塾だったので、数学やら理科なんかまで教えさせられていたのだ。困らなかったのは高校時代の受験勉強のおかげである。
学習に失敗した英語でさえ、全く話せないと言うわけではなかったから、初めてチェコ、スロバキアを旅行したときには、チェコ語を勉強する前だったこともあって、片言よりは少しましな英語を使って旅行していたのである。イギリス人の英語が聞き取りにくくて苦労したし、チェコ人で英語ができる人はそれほど多くなかったけれども、あのときは英語がなかったら旅行できていなかったはずである。
理科に関しては、チェコ語ができるようになって、通訳、翻訳の仕事をしている時に意外なほど役に立った。チェコ語で元素をなんと言うかなんて、教科書には出てこない。酸素が「kyslík」というのぐらいは、師匠が閉ざされた部屋に入って窓を開けるときに叫んでいたから、質問して教えてもらっていたけど、他は金属名=元素名になっているものぐらいしか知らなかった。だけど、元素記号を覚えていたおかげで、水素やらリン、硫黄、砒素なんかが辞書を引かなくても、元素記号は? と質問することでわかったのである。
国語に関しては、当然古文、漢文の基礎ができるようになっていたことが、大学での勉強をかなり楽にしてくれた。今でも忘れられないのが、漢文のテストで、B4一枚白文で埋め尽くされているのに訓点を振っていくというものである。持ち点が100点で間違い一ヶ所につき減点1という採点方式で、先生の話では大体みんな3行ぐらいで零点になるという過酷なものだった。古文でひたすら品詞分解するってのもあったし、高校での勉強よりも上のレベルで、訓読や品詞分解を何度も何度も繰り返すことになったのだが、その繰り返しのおかげで、今でも古文漢文大体問題なく読めるのである。
この時点で繰り返すことで知識を頭に詰め込むことに大事さに気づいていればよかったのだけど、そういう一般化はなぜかせず、英語の勉強をやり直そうなんて気にはなれなかった。受験が終わったら忘れたと広言しながら、学習が失敗に終わったことは認められなかったんだよなあ。だから第二外国語のドイツ語の学習にも失敗し、こちらはもう真面目に勉強すらしなかったから、失敗して当然ではあったのだけどね。
チェコ語の学習を始めたときに、英語とドイツ語の勉強とはまったく違うやり方を選んだのは、同じやり方、つまり効率的に勉強しようというやり方ではうまく行かないことが目に見えていたからである。その意味ではドイツ語の学習もチェコ語の学習の役に立ったとは言えるのである。
またまた迷走。
2019年5月5日24時。
タグ:大学
2019年05月05日
平成雑記1(五月三日)
あらかじめ定められた平成の終わりが近づくにつれて、ネット上の巷には平成を回顧する記事が増えた。編年体的にまとめられたものもあれば、紀伝体に近いスタイルのものもあったが、懐かしさを感じるものが多く、自分でもやってみようと思って書き始めたら、例によってどちらでもないぐちゃぐちゃなものができ上がったので、こんなタイトルになってしまった。今頃になって始めるのはへそ曲がりだからである。
この前も書いたが平成元年は大学受験の年だった。共通一次では数学と国語で予定していた点数が取れず、生物は異常な難しさだったから、合計すると目標点数よりも50点ぐらい少なかったかな。国立大学を過度に尊重する田舎の自称進学校の考え方にイラついたあまり発動した「国立に合格して後ろ足で砂かけて私立に行く」計画は、失敗に終わる可能性が高まったが、志望校を変えることはしなかった。
結局東京の某私立大学の文学部の文学部日本文学専攻に進学したのだが、入学してからしばしば高校時代に日本史をとらなかったことを後悔した。世界史を勉強したことは、日本文学や日本史の勉強をする際に、視野狭窄に陥らないという意味で、ものすごく役に立ったけれども、日本史の知識が欠けていて苦労することも多かったのだ。
だから、高校で日本史と世界史の両方を受講しておけばよかったなんていう単純な話ではない。我が母校ではそれは不可能だったのだ。現在の事はいざ知らず、昭和の終わりの田舎の公立の進学校なんて、授業のやり方が予備校化していていかに大学入試合格者を増やすか、いや正確にはいかに共通一次の得点を高めるかということしか考えていなかった。
その結果、社会科に関しては、一年で共通科目としての現代社会を勉強した後、二年からは世界史、日本史、地理の中から一科目しか選択できなかった。ただ、三年になるときに、自分が選んだ科目では成績が悪すぎて受験できないと考えた連中だけは、倫理政経に転向することが許されていた。だから、何年か前に大学受験の際に、必修のはずの世界史を履修していない受験生がいることが問題になったときには、世界史必修になったんだとのんきなことを考えていたのだが、実は世界史は昔からずっと必修であり続けていたのだという。うちの高校、やはり違反していたのか。
すでに時効になっているだろうから、書いてしまうけれども、あのころ、大学に提出する内申書の書き換えは、特に成績が悪いにもかかわらず推薦入試を受ける連中に関しては、日常茶飯事だった。これはうちの高校だけに限った話ではなく、どこでも多かれ少なかれ行なわれていたはずである。だから、大学入試の意味をなくしてしまう推薦入試が諸悪の根源だと主張するのだけど、世界史を履修していない受験生の内申書は履修したことにして書きかえられていたのだろうなあ。
ちなみに、理科は、一年で理科一を勉強したあと、二年になるときに文系に行くと生物の履修を強要され、理系に行くと化学・生物か、化学・物理の二つの組み合わせの中から選ばなければならなかった。地学? そんなものは高校の理科には存在しなかったのである。社会もそうだが、受験する大学入試で履修していない科目が必要になった場合には自分で勉強するしかなった。そんな人間は学年に数人いるかどうかだったから実害はなかったんだけどね。
数学に関してはちょっとばかり実害もあって、文系にいくと基礎解析、代数幾何、つまり共通一次の出題範囲に関する科目しか履修できなかった。それなのに国立の二次の数学でそれ以外が必要になったので自分で勉強することになった。文系の試験で確率統計が必要なんてのは間違っていないかとぼやきながら勉強したのである。
追加で勉強するのがいやだったのなら、その大学の受験をやめればよかったのにと言われれば、その通りとしか言えないのだけど、半分冗談でその大学を受験すると表明して、10月ごろに二次試験用の模試を受けたら、ぼろぼろの結果しか出ず、それを担任にぼろくそに言われたことで、引っ込みがつかなくなったのだ。あのときの数学が200点満点で一桁という結果には、笑うしかなかった。もっと笑ったのは自分よりも下の人がたくさんいたことだったけど。文系の数学の二次試験模試なんて半分の100点取れれば偏差値が70超えるという特殊なものだったからなあ。
とまれ、模試が終わった時点で自らのできなさに怒りが爆発し、その怒りをエネルギーに二ヶ月か、三ヶ月の間、チェコ語を始めるまでの人生では、一番必死に勉強したのだった。それが受験まで続けば担任を見返すこともできたのだろうけど、張り詰めていたものが年末年始で切れてしまって、以後は惰性で勉強していたから、その大学には合格できなかった。それでもまったく話にならないところから、とりあえず勝負できるところまでは持っていったのだから、悪くない。
それに、国立大学の合格者数と、入学者数の数を増やすことしか考えていない高校の姿勢に強く反発を感じて、私立に行くと決めていたから、合格したとして心から喜べていたかどうかはわからない。最初に書いたアホな計画は、別の二次試験が小論文だけだった国立大学に合格したことで何とか達成できた。不思議なのは試験に持参すべき一次試験の受験票を忘れて行き、後で送りますといっておきながら放置したのに合格してしまったことだ。何かの間違いだったのかもしれない。
平成といいつつ昭和のことが半分ぐらい出てくる。やはり雑記で十分である。
2019年5月3日24時30分。
2019年05月04日
電車にて『しょうせつ教育原論202X』を斜め読みすること。付けたり『コメニウスの旅』(五月二日)
本当は四月末のプラハに出かけたときの話に加えて書くつもりだったのだけど、例によって長文化してしまったので、分割して先送りにしてしまった結果、頂いたのはまだ平成の末年のことだったのに、お礼の記事を書くのは令和の初年になってからということになってしまった。お礼とはいっても、お太鼓な記事は書けないので、読んで(正確には時間の関係でぱらぱらめくって)の感想ということになる。
あの日は、スタロプラメン一杯分酔った頭で、電車に乗り込み、誰もいないレギオのビジネスのコンパートメントでもらった本を開いた。『しょうせつ教育原論202X』のカバーデザインは、原稿用紙に本の冒頭部分を書いているところが描かれているのだが、裏表紙の上の部分にバーコードとISBN番号が入っているのが、全体を見たときの雰囲気を壊している。せめて下に移動させて帯で隠すなんてことはできなかったのだろうか。でもレジのことを考えたら無理か。
表紙側だけを見ている分には、問題なくデザインを堪能できるのだけど、冒頭の文を読み始めて、背表紙になっている柱の部分を越えて、次の行を読もうと思ったら、バーコードで隠れている。手で隠れているのは、カバー絵のコンセプト通りだから気にならないが、バーコードとISBN番号で原稿用紙と原稿が切れているのは、何とももったいない話である。帯にも原稿用紙の罫線が刷ってあってすごく凝っているのに、バーコードが装丁の妨げになるという実例である。何か手はないのかなあ。
読み始める前、いや読み始めてからもしばらくは「しょうせつ」は「小説」のことだと思い込んでいた。著者からは構想についてお話を聞く機会があったので、教育学部に入学したばかりの主人公が教育について学んで成長していく姿を描く教養小説的な内容になっているのだと思い込んでいた。だから、第一部に入って、ブログに記事をアップするという設定はあったとはいえ、突然きっちりした解説の文章が始まったときには戸惑った。
思わずあとがきを探して、あとがき代わりの著者と編集者の対談を読んで、「しょうせつ」は「詳説」でもあり、「小説」の中に「詳説」を持ち込むための設定が、主人公が授業で勉強したことを整理してブログに記事として投稿するという設定だったのだと理解した。確かに、こちらが期待したような、授業のために調べていく過程や、同級生とのかかわりなんかを描いていたら、長編小説どころか大河小説になってしまう。それでも「詳説」ではなく「小説」の読者としては、14章、15章あたりのスタイルで全編読みたいという気持ちも消せないのだけどね。
そんなことを考えていて、はたと気が付いた。本文が横組みになっているのに、最初はあれっと思ったのだが、これもブログの記事という設定を生かすためだったのだ。ブログの記事と言いながら本文中で縦書きになっていたら、違和感どころの話ではなくなる。それなら最初から「小説」の部分も横書きにしたほうがいいという判断は正しい。ただ、難点は横書きに引きずられたのか、句読点の代わりにカンマとピリオドが使われているところで、理系の人なんかには、気にならないという人もいるのだろうけど、文系の人間には気になってしまった。出版社の意向かなあ。
それから、読み始めて戸惑ったAI〈マリ〉の存在だが、大学に入ったばかりの主人公が、授業で学んだこととはいえ、毎回あれだけきっちりとまとめられるのは、AIの存在抜きには考えられない。単に近未来に実現しそうな技術だからということで登場しているわけではないのである。主人公がAIの支援を活用して書き上げたのがあのブログの記事だと考えると、あの完成度(実際は著者の筆なのだから高いに決まっている)にも納得できる。AIの能力がそこまで高くなるかどうかはまた疑問だから、近未来SF的な面もあるのか。
帯には「教育の理念・歴史・思想を小説形式で学べる」なんて簡単にまとめてあるけど、このスタイルを作り上げるのは大変だったに違いない。「小説」という大枠の中に、矛盾しない形で「詳説」の部分をはめ込まなければならなかったのだから。
というのが、著者には申し訳ないが、「詳説」の部分を飛ばして、「小説」を読んだうえでの感想である。
付けたりの『コメニウスの旅』については、さらに申し訳ないことに、写真や地図などの図版を中心に目を通しただけである。それでも、前回の『ヨハネス・コメニウス 汎知学の光』が、コメンスキー自身の旅(と言えるほど優雅なものではなかったようだが)を中心にしているのに対して、こちらはコメンスキーの哲学の旅がテーマとなっているぐらいのことは言える。個人的にはそれを、コメンスキーがオランダで客死した後、コメンスキーの哲学は、世界中に広がり、パトチカの手によって光をあてられることで故郷のチェコに戻ってきたのだと解釈した。
図版では、何よりも地図が見やすくなっているのがうれしい。多数掲げられている写真と合わせて、この夏はフルネクとか、コムニャとか、まだ行ったことのないところに足をのばしてみようかなんてことも考えてしまった。いや、その前に、時間を使って今回頂いた二冊をちゃんと読まなければなるまい。本について書きつつ、まともな書評にはならないのが我が文章である。著者にはお詫びの言葉しかない。
2019年5月3日22時。
2019年05月03日
令和の初日に(五月一日)
今回の改元は、前回の改元に比べたらはるかに落ち着いた雰囲気の中で行われた。それが「令和」という時代の特徴となってくれると嬉しいのだけど、この穏やかさが新しい時代に向けての吉兆であることを願っておきたい。振り返ってみれば平成という時代は、その始まりからして、落ち着きがなくあわただしかった。それがこの30年続いてしまったような印象もある。
今を去ること30年以上昔のこと、昭和63年の後半は、天皇不予で日本中が動顛していた。特にひどかったのがマスコミで、当時はインターネットなんてものはなかったから、新聞や雑誌の記事を事細かに読んだり、テレビの報道を比較したりなんてことはできなかったのだが、今上陛下が病に伏して崩御も近いという状況を、完全にお祭りにしてしまっていた。
これが最初にマスコミに対して抱いた不信感だったと記憶する。もちろん、それまでもマスコミの報道をうのみにするようなことはなかったけれども、原則としてテレビや新聞に出ている情報は正しいのだろうと考えていた。それが、言葉だけは丁寧に陛下の病状を心配しつつ、ここを書き入れ時とばかりにばか騒ぎするNHKも含めたマスコミの姿に、こいつら信用ならんなんてことを考えたのである。
当時高三で、曲がりなりにも受験生、テレビなんかろくに見ていなかったはずなのに、こんな印象を残したのだから、そのひどさも想像できるというものである。崩御前後の自粛ブームを作り出してあおりまくったのもマスコミだったのに、それを後になって批判したりもしていたから、信用度は落ちる一方である。大学入学以後、一時期を除いて、テレビを持たず、新聞も講読しなかったのは、このときの不信感が原因となっている。
自分はどうだったんだと言われると、死という極めて個人的であるはずのことについてまで、公的なものにされてしまう天皇という存在に痛ましさを感じた。仮に天皇制を廃止するべきだというのなら、それは左翼的な反天皇制の主張からではなく、この現在の皇室に人権、特にプライバシーというものが存在しない状態を解消することが目的でなければならないという考えは、この時期に萌芽したものである。
その意味でも、今回先の帝が、非常手段を使ってまで自身の譲位と、皇太子殿下の即位を求められたのは理解できることで、本来ならば今後に向けて制度化するべきであっただろう。それが政治の側の都合で今回限りの特例にされてしまったのは残念でならない。崩御の後はまた否応なく公的な存在として御陵に葬られるのである。せめて死の瞬間だけでも個人的な存在であってほしい。それをある程度かなえられるのが、譲位という制度である。
さて、昭和63年末から翌年の初めにかけて、受験生たる我々が特に気にしていたのは、共通一次はどうなるのかということである。高校の先生たちは以前から情報を集めてあれこれ調べていたようだが、年末が過ぎて、新年になり、病状もいよいよ重篤という情報が出てくると、一月の後半に予定されていた共通一次が中止、もしくは延期になる可能性があるのが心配だった。仮に共通一次が行われたとしても、二月の私立の入試に影響があったらどうしようなんてことも考えていた。
だから、不謹慎ながら、このとき崩御が一月上旬であったことに安堵した人たちは多いはずである。自分はそこまで熱心に勉強していたわけではないので、国立か私立か、どちらかがまともに試験が行われれば、一つぐらいは受かるだろうからそこに行けばいいやとのほほんとしていたけど、人によってはナーバスになっていたからなあ。あのときは、むしろ先生たちのほうが追い詰められていたかな。
とまれ共通一次、しかも最後の共通一次は無事に開催されたのだけど、南国九州でも雪の降る中行われ、理科では科目間の成績格差が大きすぎるという意味不明の理由で、生物、物理の受験者に対して前代未聞のかさ上げ処置が行われた。共通一次は最後の最後で最大の不祥事を起こしたのである。これもまた平成の初めの出来事で、平成という時代の先行きを暗示していたのかもしれない。
かさ上げについて恨みがましく書くのは、生物で得点自体は模試程ではなかったけど、平均点を20点も超えるような点を取って大喜びしていたのに、その差がなかったことにされたのを恨んでいるわけではない。生物の中では比較的点数がよくても、化学の連中には大きく差を付けられていたから、一次の点数がかさ上げされたこと自体はありがたいことではあったのだ。それに、そもそも私立が第一志望だったから、共通一次の結果なんて、自分のプライドの問題を除けば、どうでもよかったわけだし。
平成初年の正月のできごとで、残念だったことを今でも思い出すのが、高校ラグビーの決勝が、中止になり両校優勝という結果になったことだ。見るスポーツとしてのラグビーは好きだったから、受験勉強の合間に楽しみしていたのだけど、主催者が自粛の圧力に負けて中止にしてしまった。崩御の当日だったのかなあ。こういうことを繰り返さないためにも、天皇の譲位による代替わりを制度化するべきである。上皇の崩御であれば、マスコミもそこまで大騒ぎはしないだろうし、マスコミの作り出す自粛圧力もそこまで大きくはなるまい。
最後に今回の代替わりで一点だけ気に入らない点を挙げておこう。譲位された天皇が上皇になられるのはいい。でも「上皇后」ってのは誰が考えた称号なのだろうか。わざわざ愚にもつかない新称号を考え出すぐらいなら、歴史上使用されてきた太上天皇=上皇と皇太后の組み合わせにするべきだった。これは、今回の譲位が先帝の意志を尊重する形で行われたとは言え、それを実現させた連中には、皇室や伝統に対する敬意というものが欠けているということである。だから、明治以前の皇室制度を思い起こさせるやり方を制度化するのを拒否しているのだろう。首相からして長州閥の末裔だからなあ。
今後は先帝のことは、院とお呼び申し上げることにしよう。上皇は一人だけだから、平成院なんて形で区別する必要もないし。そうなると今上陛下は内? これはさすがに官人として仕えていないと使えないか。実資にはなれんなあ。
2019年5月2日24時。
2019年05月02日
平成の終わる日に(四月卅日)
生まれてから二回目の改元は、先帝の崩御によるものではなく、譲位による改元となった。天皇制の長い歴史を考えたら、こちらの方が本来の形だと言える。明治期に近代化と称してあれこれ制度に変更を加えたのを、墨守することもあるまい。だから、歴史上の制度と現行の制度のいいところを組み合わせて新たな制度を策定していくことが、政治の課題だと思うのだが、どうも日本の政界には明治至上主義的な考え方があるようで、昔の制度のほうがましだったところまで、明治以後のやり方を守ろうとしているように見える。
その一つは、元号で、平安時代のように、二、三年おきにころころ変えるのは論外だとしても、新天皇の即位と元号の切り替えを同日に行なう必要はあるまい。本来天皇の即位による改元は、即位の翌年に行なわれたものである。その前例に基づいて、同時に少し変更を加えて、翌年の元日からの改元とすれば、当然事前に発表するわけだし、一年が二つの年号にまたがるという不都合も存在しなくなる。
年号の使用そのものについて、あれこれいちゃもんをつけている人たちもいるようだけど、それならまず西暦の使用に反対するべきであろう。宗教的存在である天皇の代替わりによって時間が規定されているのが気に入らないというのなら、たかだか一宗教の創設者の誕生年を基準に設定されたキリスト教の暦に、世界中の時間が支配されているという状況のほうが問題が大きい。それに、本気で政教分離の原則を100パーセント適用したいというのなら、この西暦の使用も、その紀元がキリストの生誕年に基づく以上、政教分離の原則に反するということで、禁止を求めるべきである。
日本で元号が使用され続けているというのは、世界を覆いつくしつつあるキリスト教的時間を相対化するという意味でも重要である。イスラム世界の不満が、グローバリゼーションの美名の下にキリスト教的な価値観が世界基準となりつつあるという事実にもあることを考えると、本気で宗教の融和なんてことを主張するのであれば、キリスト暦でもイスラム暦でもない新たな暦を制定することを考えるべきであろう。そうすれば、日本の元号も含めて現在使用されている暦はすべて地域的なものになるから、あらゆる宗教、民族にとって公平になる。
キリスト暦を使用するのは、慣習で便宜的なものであるというのなら、元号を便宜的に使用したところで何の問題もないはずである。日本人にとっては所与のもの、あるのが当然である元号を疑うのであれば、さらに日本では西暦などと称して正体を隠しているキリスト暦の使用も疑うのが当然である。だから、キリスト暦の使用を批判せずに、日本の元号、言ってみれば天皇暦のみを批判するなんてのは、ましてや裁判沙汰にするなんてのは正気の沙汰とも思えない。
また、例によって政教分離の錦の御旗を立てて、代替わりの儀式を国費で行なったり、閣僚が参列したりすることを批判する連中が現れたようだけれども、その中のキリスト教関係者は、キリスト教団=国家のバチカンや、十字軍の狂行の主役を担った宗教騎士団=国家のマルタなんかの存在をどのように説明するつもりなのだろうか。神道に関することについてだけ、宗教分離の原則に反するなんて大騒ぎするのは、思考停止としか言いようがない。
この手の人たちは、どうせダライラマのことも支持しているだろうけど、亡命政権とはいえ、あれも日本以上に宗教分離ができていないのは明らかである。いわゆる近代哲学は宗教的なものを排したなどと言われるけれども、それはヨーロッパの人間から見てであって、キリスト教徒関係のない人間からすると、どうしようもないキリスト教臭を感じてしまうこともある。それに、共産主義も、当人たちは認めていないにしても、カルト宗教的なところがあるし、神を失った左翼のための新しい宗教だったと定義したくなる。中国や北朝鮮の共産主義は、あれはあれで違った形で宗教化しているし。
日本にいたころは、特に80年代は心情左翼だったこともあって政教分離にうるさい人々の考えに賛同していたのだけど、ヨーロッパの現実を見た上で、日本の状況を見直すことで、それが大きな間違いだったことに気づいたのである。繰り返しになるが、代替わりの儀式に宗教色がないと言うつもりはない。政教分離を主張する人たちが念頭においているであろうヨーロッパの政教分離のレベルから言えば、この程度は何の問題もないといいたいだけである。
だから、今後も使えるときには年号を使っていくことにする。うーん、うまく、まとまらなかった。
2019年5月1日24時。