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2019年05月02日

平成の終わる日に(四月卅日)



 生まれてから二回目の改元は、先帝の崩御によるものではなく、譲位による改元となった。天皇制の長い歴史を考えたら、こちらの方が本来の形だと言える。明治期に近代化と称してあれこれ制度に変更を加えたのを、墨守することもあるまい。だから、歴史上の制度と現行の制度のいいところを組み合わせて新たな制度を策定していくことが、政治の課題だと思うのだが、どうも日本の政界には明治至上主義的な考え方があるようで、昔の制度のほうがましだったところまで、明治以後のやり方を守ろうとしているように見える。
 その一つは、元号で、平安時代のように、二、三年おきにころころ変えるのは論外だとしても、新天皇の即位と元号の切り替えを同日に行なう必要はあるまい。本来天皇の即位による改元は、即位の翌年に行なわれたものである。その前例に基づいて、同時に少し変更を加えて、翌年の元日からの改元とすれば、当然事前に発表するわけだし、一年が二つの年号にまたがるという不都合も存在しなくなる。

 年号の使用そのものについて、あれこれいちゃもんをつけている人たちもいるようだけど、それならまず西暦の使用に反対するべきであろう。宗教的存在である天皇の代替わりによって時間が規定されているのが気に入らないというのなら、たかだか一宗教の創設者の誕生年を基準に設定されたキリスト教の暦に、世界中の時間が支配されているという状況のほうが問題が大きい。それに、本気で政教分離の原則を100パーセント適用したいというのなら、この西暦の使用も、その紀元がキリストの生誕年に基づく以上、政教分離の原則に反するということで、禁止を求めるべきである。
 日本で元号が使用され続けているというのは、世界を覆いつくしつつあるキリスト教的時間を相対化するという意味でも重要である。イスラム世界の不満が、グローバリゼーションの美名の下にキリスト教的な価値観が世界基準となりつつあるという事実にもあることを考えると、本気で宗教の融和なんてことを主張するのであれば、キリスト暦でもイスラム暦でもない新たな暦を制定することを考えるべきであろう。そうすれば、日本の元号も含めて現在使用されている暦はすべて地域的なものになるから、あらゆる宗教、民族にとって公平になる。
 キリスト暦を使用するのは、慣習で便宜的なものであるというのなら、元号を便宜的に使用したところで何の問題もないはずである。日本人にとっては所与のもの、あるのが当然である元号を疑うのであれば、さらに日本では西暦などと称して正体を隠しているキリスト暦の使用も疑うのが当然である。だから、キリスト暦の使用を批判せずに、日本の元号、言ってみれば天皇暦のみを批判するなんてのは、ましてや裁判沙汰にするなんてのは正気の沙汰とも思えない。

 また、例によって政教分離の錦の御旗を立てて、代替わりの儀式を国費で行なったり、閣僚が参列したりすることを批判する連中が現れたようだけれども、その中のキリスト教関係者は、キリスト教団=国家のバチカンや、十字軍の狂行の主役を担った宗教騎士団=国家のマルタなんかの存在をどのように説明するつもりなのだろうか。神道に関することについてだけ、宗教分離の原則に反するなんて大騒ぎするのは、思考停止としか言いようがない。
 この手の人たちは、どうせダライラマのことも支持しているだろうけど、亡命政権とはいえ、あれも日本以上に宗教分離ができていないのは明らかである。いわゆる近代哲学は宗教的なものを排したなどと言われるけれども、それはヨーロッパの人間から見てであって、キリスト教徒関係のない人間からすると、どうしようもないキリスト教臭を感じてしまうこともある。それに、共産主義も、当人たちは認めていないにしても、カルト宗教的なところがあるし、神を失った左翼のための新しい宗教だったと定義したくなる。中国や北朝鮮の共産主義は、あれはあれで違った形で宗教化しているし。
 日本にいたころは、特に80年代は心情左翼だったこともあって政教分離にうるさい人々の考えに賛同していたのだけど、ヨーロッパの現実を見た上で、日本の状況を見直すことで、それが大きな間違いだったことに気づいたのである。繰り返しになるが、代替わりの儀式に宗教色がないと言うつもりはない。政教分離を主張する人たちが念頭においているであろうヨーロッパの政教分離のレベルから言えば、この程度は何の問題もないといいたいだけである。

 だから、今後も使えるときには年号を使っていくことにする。うーん、うまく、まとまらなかった。
2019年5月1日24時。

 







posted by olomoučan at 06:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言
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