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2017年07月11日
ベルケー・ロシニVelké Losiny(七月八日)
シュンペルクからは、イェセニーク山中のコウティ・ナド・デスノウまで鉄道の路線がしかれている。「ナド・デスノウ」というのが後についていることからもわかるように、デスナー川沿いの小さな村である。デスナー川はイェセニーク山地の最高峰プラデットの近くに流れを発し、ベルケー・ロシニ、シュンペルクなどを経て、ザーブジェフ・ナ・モラビェの近くでモラバ川に合流する。
シュンペルクからコウティ・ナド・デスノウに向かう鉄道の路線は、このデスナー川沿いに敷設されているのだが、1997年にモラビアのほぼ全域を襲った大洪水の際に、イェセニーク山地に降った雨を集めるこのデスナー川も大洪水を起こし、川沿いに敷設された鉄道路線は、壊滅的な被害を受け、当時鉄道路線を管理していたチェコ鉄道では、復旧を諦め廃線にすることを決めるほどであったという。
しかし、田舎のローカル線なのに、いやローカル線だからこそ、沿線の住民にとっては欠かせない足となっていたのだろう。シュンペルクを除く沿線の市町村で鉄道路線の復旧のための組織デスナー渓谷自治体連合を結成し、洪水の翌年1998年には路線の復旧に成功する。ことの経緯からこの路線の運行はチェコ鉄道の管轄からはずれ、チェコでは珍しい路線を所有する市営の鉄道会社となっていた。
以前出かけたときには、オロモウツからベルケー・ロシニまでの切符を買うことはできず、シュンペルクでの乗り換えの際に駅舎でベルケー・ロシニまでの切符を購入する必要があった。料金体系もチェコ鉄道のものとは違って、かなり割高になっていた。沿線の市町村がお金を出し合って復旧し運営していたことを考えれば、日本の鉄道料金よりは安かったし、仕方がないのだろう。
その後、2002年からは、オロモウツ地方を中心にバスの運行をしているコネックス・モラバ社(現アリバ・モラバ社)が運行を担当するようになり、昨年末のダイヤ改正に際してチェコ鉄道による運行に、ほぼ二十年ぶりに戻った。その結果、現在ではオロモウツから、ベルケー・ロシニまで乗り換えなしでいけるようになっているようだ。
注意しなければいけないのは、ベルケー・ロシニは、デスナー川の作り出した渓谷に川沿いに細長く伸びている町で、無人駅を含めて駅が三つあり、目的地によって最寄の駅が異なることである。
シュンペルクから一番近いザーメク駅で降りると、電車によってはとまらないものもあるようだけど、鄙にはまれなといいたくなるほど大きなルネサンス様式の城館がある。この辺りに勢力をもっていたモラビア貴族のジェロティーン一族が、もともとここにあった小さな砦のようなものを、16世紀の前半に改築したものらしい。その後もあれこれ手が加えられており、特に内装においてはルネサンス様式以外にもバロック様式、古典様式などの影響も見られるというのだけど、正直素人にはよくわからなかった。
2000年代初頭に出かけたときのことで、今でも覚えているのは、この城館の展示が電化されていなかったことだ。外の天気がよく太陽が出ているときには、窓から入ってくる光で展示物もよく見える。それが、雲が出て日がかげると、室内は一転薄暗くなり何があるのかわからなくなってしまう。大きなホールでは、見学者を歓迎するために室内楽の弦楽アンサンブルがクラシック音楽を奏でてくれたのだけど、演奏中に夕立がやってきて雷鳴が轟き始めたために、音楽どころの騒ぎではなくなったのだった。
多分、この城館だったと思うのだが、観光した記念のスタンプか何かに典型的な魔女の絵があしらってあって、事情を尋ねたら、このイェセニーク地方は、魔女狩りがチェコで最も盛んに行なわれたところだという答えが返ってきた。魔女狩りのような悲劇を観光のシンボルにしてしまうのもどうかと思うのだけどね。
ザーメク駅からもう一つ先のベルケー・ロシニ駅からは、製紙に関する博物館が近い。この町は昔ながらの手漉きの紙作りで知られており、オロモウツでもベルケー・ロシニで生産された手漉きの紙を使ったレターセットなんかが手に入る。製紙に関する資料の収集にも力を入れているようで、日本で江戸時代に上梓された紙漉きに関する書物も収蔵されていたはずである。崩し字と変体仮名の山に読み解くのが大変だった。以前は結構読めたはずなんだけどなあ。
ベルケー・ロシニは温泉地としても知られていて、駅前の道を道なりに真っ直ぐ進むと温泉公園とも言える場所に出る。チェコの温泉地の例に漏れず、飲むための温泉もあるのだが、以前カルロビ・バリで飲んだ御泉水のまずさに懲りていたので、味見はしなかった。温泉公園内には魔女狩りの犠牲者を悼む記念碑も設置されている。
この二つの駅、頑張れば歩けない距離ではないので、大きな荷物を抱えていなければ歩いてもいいかもしれない。道も知らない初めての町で地図もない中、城館を探して歩くのは結構辛かったけどね。そう、ベルケー・ロシニにお城があるという情報だけで、出かけたものだから、ザーメク駅の存在を知らなかったのだよ。ネット上の情報も今ほど充実していなかったしさ。
7月9日23時。
さて、この本にチェコの魔女狩りも出てくるだろうか。7月10日追記。
2017年07月10日
シュンペルクŠumperk(七月七日)
先日はオロモウツから南に向かってホドニーンについて書いたが、今回は北に向かうことにする。オロモウツから北に向かう鉄道路線は、モヘルニツェ、ザーブジェフを経て西に曲がりプラハに向かう幹線の270番と、シュテルンベルク、ウニチョフを経て、シュンペルクに向かうローカル線の290番の二本が存在している。
その290番の終点の町、シュンペルクが本日のテーマである。ザーブジェフからシュンペルクに向かう路線もあるため、オロモウツからシュンペルクに行くなら、ブルノ始発でオロモウツを経てザーブジェフからシュンペルクに向かう急行を使うのが一番早い。かかる時間は45分ほどである。
昔、暇にあかせてモラビア各地に出かけていたころは、ザーブジェフからシュンペルクに向かう路線が改修工事中でややこしいことになっていたので、290番で出かけた。各駅停車しか走っていないため、一時間半以上の時間がかかったんだったか。知り合いがみなオロモウツから消えて、何もすることのない夏休み中のことだったから、時間が一時間二時間余計にかかったところで、何の問題もなかったのだけど。
シュンペルクの駅を出て、駅前から真っ直ぐ伸びている通を進むと、左手に緑の公園が現れる。その一番奥にあるのが、いや街の側から見れば一番手前にあるのが、シュンペルク地方の博物館である。博物館の入っている建物は、パブリーナ宮と呼ばれる建物で19世紀の半ばにナポレオンの帝政様式とよばれる建築様式で建てられたものらしい。正面から見たときの赤っぽい色が特徴的である。後方に大きな中庭を造るように建てられた部分は農場の建物で、牛小屋や乳製品を作るための工場が入っていたという話である。
公園を出て左に曲がってフラブニー・トシーダを進むと、劇場が見えてくる。この劇場は20世紀の初頭に町に住むドイツ人のための劇場として建設された。建築のテーマは、押し寄せるスラブの波からドイツ的なものを守ることだったという。第二次世界大戦後にドイツ人は国外に追放されたため劇場もチェコ化された。
ビロード革命後の1994年に火災にあい壊滅的な被害を受けたのだが、翌年から五年かけて修復が行なわれ、もとの美しい姿を取り戻した。チェコテレビで放送された番組「シュムナー・ムニェスタ」では、建築探偵で俳優のダビット・バーブラが、内部の様子を紹介していたのだけど、あまり覚えていないのである。
その「シュムナー・ムニェスタ」で覚えているのが、郵便局の建物である。通が二股に分かれるところに1937年に建てられた機能主義の建物は、横に長く伸びていて、鯨をモチーフにしているのだったか、バーブラの感想として鯨を思い起こさせると言っていたのだったか。シュンペルクのような地方の小都市にしては、大きな郵便局の存在は、この街のかつての繁栄を物語っているのだろう。
産業革命の波が中央ヨーロッパにも押し寄せた後、シュンペルクには紡績織物の工場が次々に建てられ、工場主たちが財産にあかせて、市内に豪壮な邸宅を構えるなどウィーンを模した街造りを進めた結果、19世紀の終わりには、北のウィーン、もしくは小ウィーンと呼ばれるまでになったと言う。町の中には、この時代にさまざまな様式で建設された邸宅が残っており、多分シュンペルク市のHPには、「小ウィーンの跡をたどって」という街中散策コースも紹介されている。中にはオロモウツの同じようにプリマベシ邸もあるのだけど、オロモウツのものとの関係はわからない。見た感じオロモウツのプリマベシ邸のほうが、建築的には価値がありそうだけどね。
この街に出かけたのは、まだ「シュムナー・ムニェスタ」も知らず、チェコ語もろくにできなかったころなので、シュンペルクが、このような近代建築の宝箱であることを知らなかった。当時は特に宣伝もされていなかったような気がするけど、特にこの手の建築物に注目することなく、歩きぬけてしまった。日本の藤森建築探偵と、チェコのバーブラ建築探偵に近代建築の面白さを教えられた身にとっては何とももったいない話である。
話を戻そう。郵便局の辺りまで行くと、シュンペルクの旧市街の本当の中心もすぐそこである。街を囲んでいた城壁も部分的に残っているし、周囲をほぼ円形に取り巻く道路は、昔は堀だったのではないかと想像してしまう。旧市街の中心は共産主義の時代によく使われた名前が残っている平和広場で、ネオルネサンス様式で建てられた突き立つ塔も印象的な市庁舎が建っている。本来はゴシック様式で建てられたものを20世紀の初頭に改築したものらしい。
その広場から南に向かう通を突き当りまで行くと、ルネサンス様式の城館ががある。シュンペルクも、モラビア地方に力を振るったジェロティーン家の所領だった時期があるというから、オロモウツの北にある小村ジェロティーン出身のジェロティーン一族が建てた城かもしれないと想像しておく。現在では高校の校舎になっているが、ビール工場が入っていた時期もあるらしい。きれいに改修すれば、観光名所のひとつになりそうだけど、近代建築で売る町としては、高校を移転させてまで観光地化する意味が認められないのだろうか。
近くには、シュンペルクで起こった魔女狩り裁判についての博物館もある。シュンペルクだけでなく、周辺では魔女狩りの嵐が吹き荒れたようで、近くのベルケー・ロシニにも関連する展示があったような気がする。余力があったらいずれこの魔女狩りについても書いてみよう。
7月9日10時。
これは読んだことがない。7月9日追記。
タグ:シュムナー・ムニェスタ 魔女裁判
2017年07月09日
聖モジツ教会――オロモウツ観光案内(七月六日)
共和国広場からトラム通を町の中心のほうに下りていくと、小さな広場に突き当たる。その広場にどっしりとそびえているのが聖モジツ教会である。教会に隣接して典型的な社会主義時代のショッピングセンター、悪名高きプリオールが建っていたのだが、近年完全に改装されて外観を一新し、名前もガレリエ・モリツに改名された。今のガラスをふんだんに使った外観の方がデザイン的に美しいのは確かなのだが、どちらが旧市街の建物の間に建てられるのにふさわしいかとなると、簡単には決めかねる。
ガレリエ・モリツの完成に伴って、トラムの停留所も聖モジツという名前に変わった。それまでは、上りと下りで位置がずれていたこともあって、プリオールとコルナという停留所のところにあったショッピングセンターの名前が付けられていた。ショッピングセンターに当たるチェコ語の「オプホドニー・ドゥーム」は、デパートと訳されることも多い表現なのだけど、プリオールはぎりぎりで許せるにしても、コルナはデパートと呼ぶにはかなり無理のある施設である。
ゴシック様式で建てられた聖モジツ教会は、すでに13世紀の半ばに存在していたことを証明する文書が残されているらしい。その後、14世紀末にオロモウツを襲った大火災の後に、特徴的な二本の塔が建てられた。南側の塔の完成が1403年で、この部分は現存する最古の部分だという。そして少し高い北側の塔が完成したのが1412年である。
この北側の塔は、一般に公開されていて、教会に入ることなく登ることができる。以前は入場料のようなものを取っていたが、現在は心づけ程度のお金を、教会と塔の整備のために寄付する、つまり募金箱の中に入れるだけで、自由に登れるようになっている。お金を入れずに登る人もいるかもしれないが、反対にかつての入場料以上の額を入れる人もいるだろうし、人を雇ってまで入場料をとる意味がないと判断されたのだろう。
この塔の階段は最初は狭い石造りの螺旋階段で、壁に肩をぶつけながら上っていくことになる。そして、教会の鐘がつるされた部屋に出る。ここからは鉄製の階段になるのだけど、段と段の間には何もなく、向こう側が見えるようになっているので、高いところが苦手な人は恐怖を感じるかもしれない。それよりも怖いのが、塔の屋上出るところにある前に押し上げる形になっているドア?なのだけど。
ホームセンター辺りで売っていそうなプラスチックの素材を使った手作り感満載のドアは、上ってきたときはまだいいのだけど、下りるときにはバランスを崩しそうになったり、ドアを手で支えながら階段に足を踏み入れなければならなかったりと結構厄介なのである。
高さ約50メートルの塔の上からの見晴らしはよく、オロモウツの旧市街は歴史的町並保存地区で背の高い建物がないので、他の建物を眼下に見下ろすことができるのも気持ちがいい。ただ足元がどうにも落ち着かない。石の上に何か黒いものが敷いてあるのだが、それが水を吸ってなのか何なのか、波打っているのである。慣れれば平気になるのかもしれないけれども、慣れるほど何度も登る人がいるとも思えない。
また聖モジツ教会は、パイプオルガンでも有名である。18世紀の半ばに設置されたオルガンは、大きさでも品質でもヨーロッパで最高のものの一つだという。知人のスロバキア人の父親がパイプオルガンを弾くことができて、この教会の人に引かせてほしいとお願いをしたことがある。実際に弾けたかどうかは知らない。以前、日本から来た人が、最近旅行会社ではただの観光旅行では終わらないツアーを企画していて、ヨーロッパでパイプオルガンを演奏しようという企画を見かけたことがあると言っていたけれども、チェコなら聖モジツ教会のオルガンも候補になるはずである。
聖モジツ教会に名前を与えた聖人の聖モジツは、チェコ語ではスバティー・モジツとなる。スバティー・モジツと言えば、冬季オリンピックも開催されたスイスのサンモリッツのチェコ語名である。聖モジツについて、ちょっと調べてみたら、3世紀に活躍した古代ローマ帝国時代の軍人で、エジプトで生まれ現在のサンモリッツの辺りで亡くなったらしい。
聖モジツは、テーベ軍団の指揮官としてガリアでの作戦に参加した際、当時のローマ軍団の習慣であった戦いの前にキリスト教徒を生贄として神にささげる儀式に参加することを拒否したことで、罪に落とされ、十分の一刑というのに処されたらしい。これは古代ローマ軍団に特徴的な刑罰で罪に落とされた軍人十人のなかから一人を選んで、残りの九人に撲殺させるというものだという。聖モジツも指揮官でありながら殺される一人に選ばれて、撲殺されたのだろう。
この伝説がどこまで真実を伝えているのかも、どうしてそんなローマ軍団の指揮官だった人の名前がオロモウツの教会に付けられているのかもわからない。聖ミハル教会のある丘の上で、古代ローマ帝国の駐屯地のようなものが発見されているのと関係があるのだろうか。
ところで、教会の隣のギャラリー・モリツの前身のプリオールの建築に際して、かつて存在したオロモウツ城下のチェコ人のものと思われる集落と11世紀に建てられたロトンダ形式の教会の跡が発掘されたらしい。また教会の周囲は18世紀の後半までは、墓地となっていたということである。ということは。ギャラリー・モリツは、墓の上に建つショッピングセンターということになるのか……。日本だとちょっとおどろおどろしい印象を持ってしまいそうだが、チェコだとぜんぜん気にならない。むしろシャントフカが、かつての工場の跡、土壌が汚染されていた土地に建てられているという事実の方が気になるなあ。
7月7日23時30分。
2017年07月08日
1997年の洪水(七月五日)
モラビアのモラバ川、ベチバ川沿いの町を歩いていて、建物の前面の壁に、1997と書かれた小さなプレートが埋め込まれているのに気づいた人がいるかもしれない。あれは、今からちょうど廿年前、1997年7月にモラビアを襲った大洪水の際に、どこまで水が到達したのかを示す記念碑のようなものである。
日本では、おそらく2002年にプラハを中心とするボヘミア地方を襲った洪水の方が有名だろうが、犠牲者の数、被害を受けた範囲の広さを考えるとこちらの方が、大きな洪水であった。被害額は、プラハの旧市街が水没した分、2002年の洪水のほうが大きかったようだけれども。
1997年の7月初めにモラビア全域、特にベスキディとイェセニークの山地で激しい雨が降り続き、場所によっては7月一月で、一年の平均降水量を上回るような雨が降ったらしい。とはいえ、雨がそれほど多くない地域なので、せいぜい数百ミリのオーダーである。ただし、雨があまり降らないことを前提に整備された河川は、これだけの大雨を引き受けることができず、各地で洪水を引き起こすことになった。
このときの洪水は、モラビアの中心を南流するモラバ川と、そのベチバ川などの支流だけでなく、モラビアとシレジアの教会辺りから北流するオドラ(オーデル)川とその支流でも発生している。昔、オロモウツにいた日本の人から、ダムの放流のタイミングが悪かったのも洪水が起こった理由だという話を聞いたことがあるのだが、当時存在したダムでは対応できないだけの降水量があったというのが真相のようである。
1997と書かれたプレートに最初に気づいたのは、ベチバ川沿いの温泉町テプリツェ・ナド・ベチボウに出かけたときのことだった。川沿いの建物の見上げるような位置にあるのを見つけて、案内してくれた友人に何かと聞いたら、洪水で水が到達した一番高い位置を示しているのだと教えてくれた。洪水で被害を受けた建物の改修が終わった後、記念?のためにつけられることが多いのだという。
その後、洪水は、テプリツェの下流にあるフラニツェでも、川沿いの低地を襲い、サッカー場や体育館などに壊滅的な被害を与えている。プシェロフでは市街地がほぼ完全に水に覆われた。その勢いのままモラバ川との合流点の手前にあるトロウプキという村を壊滅させた。それが7月8日のことだったという。
一方モラバ川本流も洪水を起こしており、ザーブジェフ、モヘルニニツェ、リトベルと被害を与えてきて、オロモウツの中心部で水があふれたのがトロウプキの翌日7月9日である。ホルカー・ナド・モラボウ、ホモウトフなど、モラバ川沿いの周辺の地区も含めて、オロモウツの市街地はほぼ全域水に覆われた。被害がなかったのは、旧市街の大きな岩の上に建っている部分と、町の西側から北側にかけて連なるある小高い丘の上の住宅街ぐらいだったようである。
モラバ川、ベチバ川が合流するトバチョフでは魚の養殖が行なわれている池が完全に水没してモラバ川と一体化し、クロムニェジーシュなどでも市街地が洪水に襲われている。オトロコビツェ、ナパイェドラの辺りでは、川から溢れ出した水が二、三週間にわたって引かず、巨大な湖となっていたという。オトロコビツェは、ズリーンと同様にバテャの企業城下町で、バテャ社が第二次世界大戦前に従業員用に建設したレンガ造りの四角い住宅が多数残っているのだが、これらの住宅は、浸水はしても倒壊することはなく、バテャの雇った建築家達の街づくりの先見性を垣間見せている。
モラバ川の洪水に隠れて大きな話題にはならないが、北に向かうオドラ水系でも、クルノフ、オパバ、オストラバなどの主要な町が軒並み洪水の被害を受けている。特にクルノフに被害を与えたオパバ川上流では、このときの洪水を受けて新たな治水用のダムの建設計画が立てられたという。東ボヘミア地方でも何箇所かで洪水が起こったようだが、こちらはさらに話題に上ることは少ない。
この1997年の洪水では、チェコ全域で49人という大きな数の犠牲者を出し、千の単位で家屋が全壊や半壊している。建物や農産物、また養殖業などの被害額は総計で630億コルナに上るという。この未曾有の大洪水を契機に、消防隊などの防災体制の見直しが進み、河川の洪水対策にも大きな進歩があったらしい。ただし、地域によっては、未だに洪水を防ぐための堤防が設置できていないこと頃もあるようだ。2002年のボヘミアの大洪水のあと、プラハではチェコレベルではあっという間に洪水対策が進んだのと比べると、やはりモラビアの田舎は、軽視されているんだよなあ、などと考えてしまう。
近年チェコでは異常気象なのか、降水量の多い年と少ない年の差が大きくなっている。異常に乾燥するか、雨が降りすぎて洪水が起こる年が多いような気がする。地球温暖化の影響はともかく、この辺りの気候が変動期に入っているのは確かなようである。個人的には冷夏を求めてチェコに逃げてきたので、夏が必要以上に暑くならないことを願うのみである。
7月7日15時。
このときの洪水の写真はこちらから。ただし一面茶色の水に覆われていて何がなんだかわからない写真も多い。7月7日追記。
2017年07月07日
ツール・ド・フランスとチェコ(七月四日)
七月一日土曜日に、ドイツはデュッセルドルフで、第104回という今年のツール・ド・フランスが始まった。そのツールでスポンサーを務めているのがチェコ最大の企業のひとつシュコダ自動車である。チェコテレビで中継が始まってテレビで見るようになったころには、すでにスポンサーだったから、かれこれ十年以上にはなるのではなかろうか。
最初はレースで使用する自動車を提供するスポンサーで、赤いオフィシャルが使う自動車、白い医療関係者の乗るオープンカー、黄色い交換用のタイヤと自転車を積んだマビックのサービスカーなんかを提供していただけじゃなかったか。それが、いつの間にか、二十五歳以下の選手の中で総合成績が一番上の選手が身にまとう白いジャージのスポンサーにもなっていて、今年はスプリントポイントで争う緑のジャージのスポンサーに出世していた。
もし、前身のラウリン&クレメント社時代のように、二輪車の生産も継続していれば、自動車だけでなく、バイクもシュコダが提供するという形になっていたかもしれない。ちょっと残念な気もするのだが、よく考えると、二輪と四輪を自社ブランドで生産販売している会社なんて、日本のホンダとスズキ、それにドイツのBMWぐらいしか存在しないのだった。
さて、今年もチェコの選手が三人、当初の予想ではもう少し多くなるはずだったのだけど、出場している。昨年まで所属していたティンコフが解散してオリカ・スコットに移籍したクロツィグル、クイックステップに所属する元シクロクロス世界チャンピオンのシュティバル、バーレーン・メリダの今年マウンテンバイクからロードレースに転向したばかりのツィンクである。
クイックステップは、オーナーがチェコ人である関係もあるのか、チェコ人、スロバキア人の選手が常に所属しているのだけど、毎年出場するというわけではない。今年も去年出場していい仕事をしていたバコチがメンバーから外れたし、去年は一昨年ステージ優勝を遂げていたシュティバルがメンバーから外された。チェコ人選手を応援する立場からすると、オーナーに金だけでなく口も出せよと言いたくなるが、監督がチーム戦略に基づいて出場メンバーを選抜するのに、オーナーがくちばしを挟まないから、このチームはこれだけの成績を残しているのだろう。
もう一つ、チェコ人とスロバキア人の所属の多かったチームが解散してしまったティンコフである。クロイツィグルはオリカ・スコットに移籍したが、スロバキアのサガン兄弟をはじめ多くのメンバーはドイツチームのボーラ・ハンスグローエに移籍した。このチームは、ネットアップ・エンデューロという名称で活動していた2014年にツールに招待され、ケーニクとバールタをデビューさせたチームである。
あのときケーニクは、チームのエースとして総合順位を争い最終的には7位に入って、チームスカイへの移籍を勝ち取った。そして、今年からチーム名が変わった古巣に復帰して、ジロ・デ・イタリアでエースを務めるはずだったのだけど、膝の怪我で欠場。怪我を治してツールに出るという予想もあったのだが、怪我の具合がよくならず、ツールにも出場できていない。バールタのほうは、移籍することなく、同じチームに所属し続けている。去年まで三回連続で出場したツールでは逃げに乗ることが多かった。今年はたしかケーニクの代役でジロに出て、それが理由かどうかはともかくツールには出場していない。
過去の出場者を見ると、ヤーン・スボラダという選手がステージ優勝を三回遂げている。名前からわかるようにスロバキア人なのだが、生まれたのはチェコスロバキアの時代である。チェコ人扱いされているので、分離後にチェコ国籍を選んだのだろう。チェコとスロバキアが分離した翌年の1994年に最初のステージ優勝を遂げ、最後の優勝は2001年の最終ステージで、今でもチェコとツールと言うと、この優勝が語り草になっている。
チェコ人のステージ優勝は、シュティバルとスボラダの合わせて四回で、スロバキアのペテル・サガン一人で七回という数字に負けているのである。総合成績だとクロイツィグルが2013年に5位に入ったのが最高で、以下ケーニクの7位、クロイツィグルが9位二回と、10位以内に四回入っているチェコの方が上である。でも、サガンのポイント賞の緑のジャージを考えたら……。
せっかく、今年からチェコのシュコダがスポンサーになったポイント賞だけど、肝心のサガンが危険な走行をしたということで、ツールから追放されてしまった。ビデオで見る限りよくあるゴール前のスプリントでの事故に見えたから、追放というのはかなり厳しい裁定であるように思われた。毎年毎年サガンが圧勝する展開を変えたいという主催者側の意向も働いていたんじゃなかろうか。サガンの勝利インタビューの珍妙だという英語を訳す必要がなくなった分テレビ局の仕事も減るかな。
他にも、前日に走るキャラバン隊に帯同してだと思うのだけど、数年前にチェコ人が、古い前輪が降臨よりもはるかに大きいタイプの自転車でツールのコースを完走したなんてこともあったし、キックスケーターでツールのコースを走ってみるというプロジェクトをやっているグループもあった。特に古い自転車乗りのおっさんは、チェコでは自転車のイベントがあると引っ張りだこの有名人らしいが、その名前がフランスにまで知れ渡ってツールに招待されるなんてのは想像もしていなかった。
チェコテレビでは、テニスのウィンブルドンを捨ててまで、毎年ツールの中継を続けている。ということは何だかんだで見ている人が多いということなのだろう。仕事しながら、もしくは本を読みながら流しておくにはちょうどいい番組だからなあ。
7月5日23時。
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2017年07月06日
ホドニーンHodonín(七月三日)
オロモウツからプシェロフを経て、南に向かい国境の町ブジェツラフから大きく向きを変えてブルノまで行く急行が、ブジェツラフの一つ手前で停車するのがホドニーンである。この辺りはスロバキアとの国境に非常に近く、ホドニーンの近くを電車で通ると、携帯電話のオペレーターがチェコのものからスロバキアのものに変わってしまうことがある。
思い出してみると、初めてホドニーンの町に入ったのは、スロバキアからだった。友人に誘われて、うちのと三人で、ストラージュニツェから自転車で、国境を越えスロバキアに入って、チェコに戻ってくるというサイクリングを敢行したのだ。チェコに戻ってきたところがホドニーンだったのである。あの時は、通過しただけでホドニーンで何をしたというわけでもないのだけど。
当時はまだシェンゲンに入っていないころでパスポートコントロールを受けるたびに、パスポートに入国スタンプが押され、入国の方法によって日付のスタンプが違っていた。空港の場合には飛行機、鉄道の場合には機関車が、日付の周囲にあしらわれていた。そこで考えたわけだ。自動車で入国したら自動車だろう。では自転車で出入りしたららどうなるんだろうと。
ストラージュニツェから向かった国境はソドムニェジツェという小さな町の外れにあり、道路もそれほど大きくなく、自動車の通行量も少なかった。その分、パスポートコントロールの警察官か、税関の役人だかは退屈をかこっていたのだろう。パスポートを提出したら、「日本のパスポートなんて初めて見た」とか、「日本人が自転車に乗ってきた」とか大騒ぎをしていた。写真一緒にとってとか言われたりもしたかなあ。
チェコ語ができる外国人の役割の一つ、つまりは言葉がしゃべれる珍獣の役を大過なくこなして、戻ってきたパスポートを見たら、日付の周りにあったのは、自転車ではなく自動車だった。当時は今ほどジョギングとかサイクリングとかはブームになっていなかったので、自転車で国境を超える人なんて地元の人を除けば、ほとんどいなかったのだろう。友人が何で自転車じゃないんだよと抗議したら、来るか来ないかわからない自転車のために別のスタンプを準備するなんてできないとか何とか答が返ってきた。
その後、スロバキア側のスカリツァとホリーチを通って、観光するようなところもなかったから、せいぜいお昼ご飯を食べたぐらいだと思うけど、モラバ川を越えてホドニーンに入ったのである。こちらは幹線道路で、交通量も多く、パスポートコントロールの窓口もいくつもあって、普通の自動車とトラックは別になっていたのかな。よくわからない中、車の間をすり抜けるようにしてパスポートの提出をしたら、あっさりと通過の許可が出た。忙しくて日本人なんかにはかまっていられないというところだったのだろう。問題があったらどうしようとか、出国してその日に入国だしさ、考えていたのにちょっと拍子抜けだった。
そうやって戻ってきたホドニーンという町は、チェコ、チェコスロバキアにとって非常に重要な町である。第一次世界大戦後のチェコスロバキアの独立に大きな貢献をし、初代大統領に選ばれたトマーシュ・ガリク・マサリクの出身地なのである。マサリク大統領は、ドイツ人の農場で働いていたスロバキア人の父とチェコ人の母の間に、チェコとスロバキアの国境(当時はオーストリアとハンガリーの国境)近くに生まれるというチェコスロバキアを代表するにふさわしい出生の人物だといえる。当時はこの辺りもドイツ化がかなり進み、マサリク大統領もドイツ語環境で育ったため、チェコ語は学校で学んで身につけたという話を聞いた覚えがある。
ビロード革命の後、共産主義的な通りや広場の名前の改称が行なわれ、各地にマサリク広場が誕生したわけだが、ホドニーンの中心の広場がマサリク広場と呼ばれているのには、ちゃんとした理由があるのだ。マサリク大統領を記念した博物館も置かれているし。
二度目にホドニーンに出かけたのは、サマースクールで知り合った後輩が、大学卒業と就職を前に再度チェコ旅行だと言ってやってきたときのことだった。日本語ぺらぺらの畏友に紹介すべく出身地のホドニーンに出かけたのだ。あの時はマサリク広場の近くの自家製ビールを飲ませる飲み屋で夕食をとったのは覚えているのだけど、ホドニーンで何をしたかは全く覚えていない。
ホドニーン近郊では、共産主義の時代から原油の採掘が行われており、使用されなくなった油井が何の処置もなく放置されていて、原油が染み出してきて環境汚染の問題になっているとか、中国資本が、ドナウ川とモラバ川を使った船舶の輸送能力の拡充のために貨物の集積場を建設すると言い出したとか、サッカー協会と教育省を舞台にした補助金スキャンダルで問題にされた補助金が向かったのがホドニーンのサッカークラブだったとか、あんまりいいニュースを聞いた覚えがない。
そう言えば、ホドニーンに正体不明の(いや知ってるけど)日本人DJが出没するらしい。以前はチェコでは日本語ではこんなところには書けない名前で活動していて、将来は日本でチェコ語でこんなところには書けない名前で活動したいと言っていたのだけど、今でも同じ名前で続けているのだろうか。本拠地は北モラビアのはずなのに、いつの間にか南モラビアのホドニーンにまで進出していたのである。モラビアを制覇して、ボヘミア進出の日も近いかも。これがホドニーンに関するいいニュースと言えるのかな。
7月4日23時。
ぜんぜん、案内してないじゃないかというのは本人も感じていることである。7月5日追記。
2017年07月05日
森雅裕『さよならは2Bの鉛筆』(七月二日)
森雅裕が、1987年7月に中央公論社から刊行した本である。全体としては七冊目、中央公論社からの刊行一冊目である。1985年のデビューから二年で、刊行点数が七、出版社が三というのは、賞を取ってデビューした新人としては、なかなかの数字であろう。初めてこの本を読んだときには、一つ目の出版社とはすでに絶縁し、二つ目の出版社の編集者との関係も険悪なものになっていたなんて事情は知らなかったんだよなあ。
問題は、いつこの本を手にしたかである。新人作家の何かの賞を取ったわけでもない小説のハードカバーが田舎の本屋で手に入ったとも思えないから、これも大学入学のために、東京に出てからのことであろうというところまではいいのだが、『椿姫を見ませんか』より後だったのか、前だったのか。それによって読後感が変わったと思うのだけど、今となっては思い出しようもない。
文庫化されていることを考えると、商業的にもある程度は成功したのだろう。でなければ、中公からあれだけ本が出ることはなかったはずだし、その意味では、講談社と喧嘩別れしかけていた森雅裕の作家生命をつないだ一冊だといえそうだ。91年に出版された文庫版の解説で、半村良の弟子筋にあたる中島渉(この人選もなんでだろうと不思議だが)が、森雅裕はこの作品を契機として大きく変わったというようなことを書いて、「その変化を嬉しく受け止めている」とまで述べているが、一般の読者としては、そんな実感は持てなかった。出版された順番に読んだわけでもなかったしなあ。
むしろ中島渉が、森雅裕がミステリー作家としてデビューしたのは、作家としては不幸なことだったのではないかと書いていたのに共感した。この解説を読んだのは、人は死ぬけどミステリーとは言えない『感傷戦士』『漂泊戦士』、完全にミステリーではない『マン島物語』、ミステリーとは言えるかもしれないけど人が死なない『あした、カルメン通りで』なんかを読んだ後のことだったから、すんなり納得できた。
ミステリー作家だと思っていた赤川次郎が書いたSFっぽい作品や、冒険小説を推理小説だと思って手に取って、面白かったけれども何だか釈然としない気持ちになったのを思い出せば、ミステリーでデビューした森雅裕がデビュー当初からミステリーから逸脱するような作品を書いたのは、『モーツァルトは子守唄を歌わない』や『椿姫を見ませんか』で獲得した読者の多くを失いかねない行動だったのだろう。それが一部の熱狂的な読者を産んだという面はあるにしても。
森雅裕のミステリー作家としての代表作の一つと言えるのが、この『さよならは2Bの鉛筆』である。長編小説ではなく、三本の連作中篇が収録されている。舞台は横浜の音楽高校、主人公はピアノを専攻する女子高生のハードボイルドである。本の装丁はセピア調で、レトロなイメージを作り出していた。
田舎の管理教育に縛り上げられた拘束も厳しく、授業もびしびしに入っていた高校の卒業生としては、描き出された音楽高校の自由すぎる校風にうらやましさを感じた。大学の知り合いの話で、都会の高校は、特に私立は普通科でも結構自由だったという話を聞いて、むしろ自分の通っていた高校の方が特殊であったことを知ることにはなるんだけどね。
主人公の鷲尾暁穂と周囲の人々の交わす、しゃれたと言うよりは辛辣な言葉を投げ合う会話には、あこがれたけれども、あれは小説の世界だから成立すると言うか、受け止めてくれる相手がいなければ、かなり恥ずかしく痛いものに終わってしまうことを実体験するに終わった。今でも必要以上に辛辣な言葉を吐いてしまうことがあるのは、この小説の影響、いや生まれつきか。辛辣な口を叩きたい人間だったから、この作品が合ったと考えたほうがよさそうだ。
個々の作品を見ていくと、最初の「彼女はモデラート」が、三作の中では、人が殺されてその犯人を追い詰めるという一番ミステリー要素の強い作品。ダイイングメッセージが出てきて、その言葉が誰を指すのかが犯人を突き止めるヒントになるのだけど、ちょっと無理があるんじゃないかと、最初に読んだときから思った。死の間際にそんなひねった言葉で犯人(直接殺したわけじゃないけど)を名指すかなあ。得てしてダイイングメッセージというのはそんなもんなんだけどさ。
それ以外の部分は、主人公の暁穂が、友人に犯人探しに巻き込まれていくところも、犯人があれこれ罠を仕掛けて、他の犯人候補を仕立て上げていくところも、犯人を追い詰めていくところも、見事としか言いようがない。小道具としてのモーツァルトの使い方もね。
二つ目の「郵便カブへ伝言」は、ハードボイルド的な復讐物である。思い出してみるとこの作品にも苦学生が登場するのだった。亡くなった友人の恋人だったその苦学生のバイク乗りの死をめぐって暁穂が捨て身の復讐を企てるお話。そこに出てくる漢字で書けそうにない「タシタニ」って店名に、どこから持ってきたんだろうと思っていたら、実在のバイクのつなぎメーカの名前に点を一つ追加しただけだった。
三話目が表題作の「さよならは2Bの鉛筆」になるのだけど、この作品に関しては、最後の謎解きに出てくる暁穂のお母さんが全てを持っていっておしまいとしか言いようがない。現代の殺人事件を解決するのではなくて、歴史の謎、それも音楽、音楽家に関する謎を解くというスタイルは、『モーツァルトは子守唄を歌わない』と、『あした、カルメン通りで』をつなぐ作品だと言えるのかもしれない。
高校卒業後に暁穂が自衛隊に行くという部分は、ファンの力で刊行されたという『トスカのキス』の主人公に受け継がれているのだろうか。『トスカのキス』を読む前は、漫画『マスター・キートン』でキートンが大学を出てイギリス軍に入ったという話とつなげて考えることが多かった。森雅裕の作品にはもう一つ『マスター・キートン』とのつながりを感じさせるものがあるのだが、それについては当該作品について書くときに触れることにする。
「五月香ロケーション」シリーズであれだけ書いて、『さよならは2Bの鉛筆』でこれだけしか書けないというのは、ちょっと不思議な気がする。最近筆が進まなくなっているからかなあ。
7月3日23時30分。
2017年07月04日
離婚する総理大臣(七月一日)
六月末のことだったと思うが、秋の総選挙の後に退任することが決定的になっているソボトカ首相が、離婚するというニュースが流れた。あまり大きなニュースにはなっていなかったけれども、これで総理大臣が離婚するのは四人目ということになるらしい。暫定内閣の臨時の総理大臣を除けば、1993年のチェコとスロバキアの分離独立以後の総理大臣は八人しかいないことを考えると、チェコは一般的に離婚率が高いとはいえ、多すぎると言ってもいい数字である。
1993年1月から98年1月まで、チェコ共和国の初代総理大臣を務めたのは、後に大統領になったバーツラフ・クラウス氏である。クラウス氏は離婚していないけれども、それはひとえに奥さんのおかげらしい。クラウス氏に愛人がいるのは、公然の秘密だったようだが、いや、秘密ですらなく誰でも知っていることだったかもれないが、奥さんは特にクラウス氏を責めることもなく、現在でも夫婦を続けている。
このクラウス氏の奥さんもちょっと変わった人で、一言で言うとクラウス氏の信者である。クラウス氏の大統領時代に、インタビューなんかで、自分の旦那のことを話すのに、チェコ語で「ムシュ」、つまり日本語の主人に当たる言葉を使わず、大統領(パン・プレジデント)という言い方を使っていたのには違和感を感じてしまった。ハベル大統領の二人目の奥さんが、「バシェク」と愛称を連発するのもなんだかなあなんだけど。とまれ、クラウス夫人は、そういう献身?が身を結んだのか、クラウス氏とゼマン大統領の密約で、現在は出身地のスロバキアでチェコ大使を務めている。
クラウス氏が身内の市民民主党の内紛の結果辞任し、暫定首相のトショフスキー氏を挟んで、首相に就任したのが、現大統領のミロシュ・ゼマン氏である。ゼマン氏も、首相としては離婚していないが、それ以前に離婚して、首相に就任したのは、二人目の奥さんと結婚した後だった。
この二人目の奥さんと総理大臣になったというのは、次の二人の社会民主党出身の総理大臣も同様だった。ゼマン氏の後をうけて総理大臣になったものの、大統領選挙でゼマン派と反ゼマン派の間に挟まれて心労のあまり死にそうな顔をしていたシュピドラ氏は、現在はEU議会の議員になっているのかな。その後のグロス氏は、三十代の若い首相として話題を呼んだけれども、金銭スキャンダルで政権を放り出してしまった。その後ALSという難病を発症して45歳という若さでなくなってしまった。
グロシュ氏の辞任の後を受けて首相に就任したのがイジー・パロウベク氏である。パロウベク氏は一年ほどで首相を辞任したが、野党としての社会民主党を率いて2010年の下院選挙で勝利する。しかし、その後の連立交渉がうまく行かず政権を取れなかったことで党首を辞任してしまう。有名なのは、共産党との連立を否定しなかったことで、演説では必要なら共産党とでも火星人とでも連立すると叫んでいた。
このパロウベク氏が、退任直後に離婚した最初の首相である。離婚の理由となった相手は通訳の女性で、20歳以上若いんだったかな。離婚を決めるのは首相在任中でも、実際に離婚するのは退任後というルールがあるのかもしれない。以後のトポラーネク氏もネチャス氏も離婚したのは退任後だったような気がする。
パロウベク氏は、党首を自認した後しばらくして社会民主党を飛び出し、ナーロドニー・ソツィアリステー、日本語に訳すと国民社会主義とでも訳せるなんだかナチスっぽい名前の政党を結成して党首に納まっていた。パロウベク氏の引きで社会民主党から立候補して国会議員になっていた元アイスホッケーのチェコ代表選手だったシュレーグル氏なんかも結党に参加したのかな。この党はスポンサーの問題で消滅したのだが、最近このパロウベク氏が社会民主党への復帰を申請して拒否されたというニュースが流れた。社会民主党も大変だねえ。
パロウベク氏の次に首相になったのは、市民民主党のトポラーネク氏である。トポラーネク氏がネチャス氏を破って党首に選ばれたことで、市民民主党と創設者のクラウス氏の関係が疎遠になったと言われる。トポラーネク氏の内閣は、チェコが旧共産圏の国としては初めてEUの議長国を務めている最中に国会で不信任案を可決されて辞職に追い込まれ、世界に恥をさらしたのだった。不信任案を提出した野党の側も、政権に対する嫌がらせとして提出したのであって、可決されるとは思っていなかったのではないかと思う。内閣が倒れても誰も得しない状況だったし。
トポラーネク氏は、首相在任中から同じ上院議員の女性と生活をともにしていたのだったか。奥さんが別れることを拒否しているとかいう新聞記事を読んだ記憶もあるのだけど、その後無事に離婚が成立して、再婚したようである。
そのトポラーネク氏が、市民民主党の党内クーデターで党首の座を追われた後に座ったのが、クラウス氏の秘蔵っ子と呼ばれたネチャス氏である。2010年の下院選挙では、社会民主党に第一党の座を奪われたものの、その後の連立交渉でうまく立ち回り、クラウス氏からの首班指名を受けて内閣を組織した。
ネチャス氏の離婚問題は、ネチャス氏の辞任に直結したという点で、他の首相たちの離婚とは一線を画する。付き合いのあった女性を内閣府の一部門の長に任命したところまでは、チェコではよくある話で済んだのだけど、その女性が、軍の諜報部門を動かして、首相夫人の動向を探らせていたというのだ。いちおう首相夫人が新興宗教関係者と付き合いがあって、国家の安全に問題にかかわる可能性があったという言い訳は存在したけれども、実際は離婚につながるねたを求めての行動だったのだろうと言われている。
これ以外にも、市民民主党内部の反ネチャス派の国会議員に、報酬のいい国営企業のポストと引き換えに議員辞職を迫ったなんて疑惑もあって、今のネチャス夫人は追い詰められていく。ネチャス氏は、メディアによる政治的な目的を持ったでっちあげだと主張していたけれども、トポラーネク氏のの雑誌での失言とは違って、警察、検察まで動く大事件で、現在も裁判が続いている。
ここで今の夫人を切り捨ててしまえば、いや、切り捨てなくても、首相の地位にしがみつこうと思えば、今回のソボトカ首相と同じで、下院の総選挙が半年後ぐらいに近づいていたから、そこまでは頑張れたはずである。しかしネチャス氏は、現夫人を支えることを選び、首相を辞任してしまった。この無責任な政権の投げ出し方が、2013年の下院の選挙で市民民主党が壊滅的な惨敗を喫した大きな理由の一つになっている。
ソボトカ首相の離婚の原因はいまだ報道されていないと思うけれども、これで四人連続の首相の離婚である。クラウス氏以外の三人も離婚経験者であることを考えると、チェコの首相というのは、離婚する仕事なのかもしれない。
7月2日23時。
普通にそれぞれの総理大臣について書いた方がましだったかもしれない。7月3日追記。
2017年07月03日
ウクライナ問題あれこれ(六月卅日)
1
民族主義的な傾向を強めて、ポーランドと対立を深めているウクライナだが、このたびEUとの間でビザなしで入国できるという協定を結んだらしい。将来のNATO加盟、EU加盟に一歩近づいたということなのだろうけれども、EUはどうしてこんなに急ぐのだろうか。
チェコテレビのニュースによると、ウクライナではEUに入るための加盟国のビザは、犯罪組織の資金源になっているらしい。どのEU加盟国の大使館も領事館も、無制限に申請を受け付けることができるわけではなく、順番取りのために行列ができる。行列ができないように整理券を配っているところもあるかもしれないが、順番取りと整理券を抑えているのが組織の連中で、申請者がお金を出せば順番が早くなり、出さなければ順番が回ってこないということらしい。
ウクライナ政府が、この状況にどんな対応をしているのかは知らないけれども、ニュースでは何もいっていなかったし、領事館の人が敷地内で起こることには手を出せるけれども、外で起こることには手を出せないと悔しそうに言っていたことを考えると、対策など何もしていないようだ。この手の組織は、あちこちに鼻薬を嗅がせているものだから、ウクライナでも役人が黙認していると考えるのが自然であろう。
そんな状況で、ビザなしでのEUへの入国が可能になったのだけれども、その理由のひとつは犯罪組織の資金源を断つというものではなかったかと疑ってしまう。何せ同様の理由で、麻薬を合法化することを検討するのがヨーロッパ的思考なのだから。ただし、就労のためのビザは必要なため、犯罪組織の資金源を完全に断ち切れたわけではないようだ。チェコの領事館では、現在普通に申請しようとすると来年の三月に受付ということになるが、ある組織にお金を払えば、即時に手続きが進むらしい。チェコテレビのレポーターが正体を隠してコンタクトを取るというレポートが放送されていた。
かつて同じような状況になっていたのが、プラハの外国人警察で、ビザや滞在許可の延長の申請をしにきた人たちからお金を巻き上げる組織があった。これもウクライナ人が関係しているとか言われていたかな。その後、あれこれ対策をとっていたので状況は改善されていると思うけれども、オロモウツのかつての外国人警察や、現在のプシェロフの内務省の役所の親切さには到底及ぶまい。
2
現在のウクライナとロシアの対立の発端は、エネルギー問題である。ロシアからヨーロッパ全域に石油や天然ガスを供給しているパイプラインの主要ルートはウクライナを通っている。旧ソ連時代から、ウクライナには安価に提供されていたのだが、ロシア側が一方的に値上げを通告したのが対立の原因だと考えられているようだけど、旧ソ連圏の問題がそんなに一面的で単純なわけがない。
パイプラインというものは、確かに効率のいい輸送方法ではあるのだけど、どんなに万全を期したところで全く漏れないということはないらしい。だからロシアの国境を越えてウクライナに入ったパイプラインの石油や天然ガスが、ウクライナを出るときには、大きく目減りしていたとしても、仕方がない面はある。ウクライナが正規に購入した分もあるわけだし。
しかし、ウクライナが購入した分以外の目減り量が、ウクライナの経済の悪化に伴ってどんどん増えていったらしい。漏れていたのではなく、漏らして回収していたのだ。いやそんな手順すら踏んで入るまい。長大なパイプラインを管理しているのがウクライナ側であることを悪用して、必要なだけ抜いていたのである。この辺は、共産主義の時代に蔓延した役得で盗めるものは盗めるときに盗んでおかないと後で後悔するという考え方を国家レベルで適用したものだと言える。
ロシア側としても、ある程度の抜き取りは、おそらくソ連時代からあったはずだし、計算に入れて黙認していたのだろう。抜き取りの寮が黙認できないぐらいにまで膨れ上がったことで、ロシア側が抜き取りをやめるか、抜き取った分も支払うように要求したところが、抜き取りというのは言いがかりだとウクライナが認めなかったため、売却価格を上げたということのようである。
そこにEUがくちばしを突っ込んだために、これはロシアからウクライナを経由して提供されていたガス、石油がヨーロッパに届かなくなるという懸念から仕方がなかった部分はあるが、ウクライナが反ロシアと、親ロシアに分裂する理由を与えることになったのは否定できない。親ロシア派は、ウクライナ東部に居住していたロシア系の住民が中心だったのだろうが、ロシア系の住民が高まるウクライナ民族主義に同調することはできなかったのだろう。
3
高校の世界史の資料集の地図を思い出してみよう。第二次世界大戦終結後、敗戦国のドイツは東方の領土を大きく削られた。その部分はポーランド領となるのだが、そのポーランドも領土を広げたのではなく、西方に領土が広がった分、東方の領土をソ連に譲ることになった。現在のウクライナ西部は、本来ポーランド領だったのである。
同様に、チェコスロバキア領だったポトカルパツカー・ルス地方も、それまではポーランドとハンガリーの間にささる楔だったのが、北側がウクライナ領となったことでソ連領に打ち込まれた楔となることが嫌われ、こちらもソ連領とされた。かの地のルシン人は、ウクライナ人だということにされてしまった。このあたりの民族というのは、政治的なものに過ぎないのである。
また、ウクライナ東部のクリミア半島を含むロシア人居住地域は、ソ連時代にロシアからウクライナに所属が変えられている。ウクライナ人のフルシチョフが、地元にいい顔をするために実行したとも言われているけれども、今となってみれば、余計なことをしやがったとしか言えない。この所属の変更がなされていなければ、現在ウクライナ東部で起こっている内戦も、2014年のロシアによるクリミア半島併合も起こりようがなかったのだから。
ウクライナ問題に関しては、本当はキエフ公国とモスクワ大公国の関係辺りから考える必要があるのだろうけど、そこまでは手に負えないから、最低でもロシア革命後の歴史的な経緯も踏まえて考える必要があるのだと言っておく。
7月1日23時。
本日の記事はいつも以上に脈絡のないものになってしまった。見切り発車でどうつなげるかを考えていなかったせいである。仕方がないので番号をつけて分割してみた。7月2日追記。
2017年07月02日
永観二年十二月の実資〈下旬〉(六月廿九日)
廿一日は、暁更なので、前日の御仏名が終わってしばらくしたぐらいの時間に内裏を退出している。実資は出ていないけれども、この日は荷前の使を発遣する儀式も行われている。大嘗祭が行われる前は、天皇はこの儀式に出御しないということを前夜に外記が報告しているので、花山天皇は出御しなかったのだろう。
実資は夕方に内裏に再び向かい御仏名の三日目に出ている。天皇の仰せで、皇太子時代から付き合いのある僧兼性を、儀式を主導する御導師に任命することになった。勤務年数だけを見ると芳慶のほうが二年長いようだけれども、兼性が担当した廿日の初夜の儀式が素晴らしかった(と天皇が判断した)こともあっての決定である。かわいそうなのは芳慶で、前日の芳慶の仕事は、天皇は寝ていて聞いていなかったのだとか。
末尾に天皇の寝所に「承香殿」、つまりィ子が候じたという情報が記されるのは、小野宮家の皇子の誕生を待ち望む気持ちの表れだろうか。
廿二日は、三人の僧を招いて、三日間仁王経の転読をさせている。これは実資の自邸でのことであろうか。早朝、内裏を退出し、午前中に中宮のもとに向かい十九日に始まった秋季御読経の結願に参加している。
夕方からは上皇のもとに移って、院で行われる御仏名に出席。法要に参加する僧の名前を見ると、前日廿一日に終了した宮中での御仏名に出席した僧と同じである。権律師で散花を担当した真喜の奉仕のしようが素晴らしく、列席の公卿たちが皆涙を流したという。上皇も感動したようで、特別に衣を褒美として授けている。法要が終わったあと、酒宴が行われ、笛と歌を楽しむ宴となり、歌を詠むことになった。御製というのは、上皇の歌であろう。その上皇の歌にみな感動して涙を拭ったという。その後、左近衛大将藤原朝光、右近衛大将藤原済時、参議源伊陟の三人が褒美の衣を貰っているのは、歌の出来がよかったからであろうか。
実資ら最後まで残った連中が酒宴を終えて院を退出したのは、すでに翌日のことであった。廿三日は夕方になってから参内して候宿している。この日と、翌廿四日は内裏の物忌である。
廿四日は早朝内裏を出て、藤原頼忠のところに向かう。恒例の経の講義が行われている。奉仕する僧は内裏での御仏名と一部重なる。
廿五日には、実資が個人的に奉納する荷前の使いを送り出している。使者は大炊允致信と書かれているがこの人物についての詳細はわからない。
内裏、院、に続いて、中宮職で御仏名が始まっている。名前の挙がる三名の僧は、内裏と院での御仏名にも奉仕している。中宮職の長官である大夫の藤原済時は朝方になって参入している。
最後に伝聞で、今月に入って入内した藤原ィ子と藤原姚子の二人を女御とするという宣旨が出されたことが記される。
廿六日は、内裏の季御読経である。中宮の季御読経よりも遅れて行なわれている。珍しく左大臣源雅信、右大臣藤原兼家以下多くの公卿が出席している。実資は夕方には退出している。
廿七日は、まず呼び出しを受けて頼忠のところに向かう。その後院に向かい、円融上皇から、度重なる火災によって焼失してしまった内裏の宜陽殿に収められている御物について、再制作がすんだものを奉る使者として内裏に向かうように求められている。円融天皇の時代に焼失したから、円融上皇が作り直しに責任を負っていたのだろうか。
実資は参内して天皇に奏上し、御物を献上して天皇から褒美をもらっている。その後は上皇の元に戻って報告し、頼忠のところに向かう。頼忠も御物の作成に関っていたのかもしれない。
廿八日は、雨の中内裏に向かっている。左大臣源雅信が自分の意見を封事という形で奏上している。実資は夕方退出して、頼忠のもとに向かう。
廿九日は、上皇、頼忠の順でおとずれている。頼忠のところでは、前日内裏でちらっと登場した詔書について話をしているが内容については記されていない。内裏に出向いて季御読経の結願に出席。退出して、院によってから頼忠の許へ。ほとんど毎日天皇と、上皇、関白頼忠の間を行ったりきたりしている印象である。
大晦日には、例年通り、祓を行い、いくつかの神社に奉幣する。夕方になって年越しの儀式のために内裏に参入する。天皇の背丈を測ることで穢れを払う節折の儀式が行なわれ、深夜亥の刻には追儺、つまり鬼やらいの儀式が行なわれている。花山天皇が密かに紫宸殿に出御してその様子を見ていたという。わざわざ密々に書いてあるのは、普通はしないということであろう。儀式が終わって退出しているが、現在の感覚で言うと新年になってからということになる。
6月30日23時。
自転車操業でやつけ仕事になってしまった。7月1日追記。