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2017年07月01日
永観二年十二月の実資〈中旬〉(六月廿八日)
十二月中旬に入って、十一日には天皇が神を迎えてお酒と食事を共にする儀式である神今食が行われる。ただし、この年は、花山天皇が即位したばかりで、まだ大嘗祭が行われていないため、天皇の出御はなく、担当の役所が代行している。実資は早朝内裏を退出した後、呼ばれて頼忠のところに出向いて、その後円融上皇のもとに向っている。院では恐らく八日に始まった御読経が続いており、僧たちに実資は午後の食事と提供している。実資が十四人分、源正清が七人分負担したということでいいのだろうか。
十二日は、頼忠のところに寄ってから、円融上皇の許に出向いて候宿している。頼忠の息子の権中将公任から、前日花山天皇が、仁寿殿に出御して馬を見たという話を聞いている。大嘗祭の前ということで神今食に出御しなかったというのに、馬を見ていたというのだから困ったもんである。
外記の安倍董永の話では、神今食にも、その前に行われる月次祭にも、公卿が出席せず、代わりに右中弁でしかなかった源時通が儀式を行ったという。公卿の怠慢については、この時期しばしば『小右記』に現れるところである。
十三日は、内裏の物忌であるが、実資は、院から頼忠のもとに向かって、内裏には籠っていない。頼忠のところでは、娘のィ子の入内の準備が進められていたものと思しい。
十四日も内裏の物忌を無視して、頼忠のもとに出向く。恐らく内裏からの使者として少納言の乳母という女官がやってきて、明日十五日の入内は、大神祭の使者が出発する日で廃務になるから無理ではないかという話をしている。これに対して、頼忠は、大神祭の使者が出発する日は廃務にはならないし、特に冬の場合には、近衛府から使いを立てることもないのだから、気にする必要はないということを、公任を使者にして内裏に送り奏上している。公任の話では、物忌のために直接申し上げることはできなかったけれども、少納言を介してやり取りをして、天皇からは、廃務というのは思い違いだったようだが、忌むべき日だというのはみんな言うので、連絡したんだよ。だから入内は明日深夜を過ぎた暁方ということにしようという連絡が来ている。
十五日は早朝から頼忠のもとに出向く。ィ子入内の準備の最後の仕上げであろう。入内は亥の刻というから深夜である。付き添いたちの車も十両となかなかの規模の行列である。中納言の源保光が内裏の北の朔平門まで迎えに出るなど、協力した数人の貴族の名前が挙げられる。
この日は、八日に始まった円融上皇の御読経の終わる日だが、ィ子入内のために参列していない。
十六日は、内裏を出て内裏の東側にあった中宮職に出向いている。「罷り出づ」なんて表現があるから、この時点でここに中宮の遵子が滞在していたのかな。未の刻に円融上皇の許に向かう。亥の国に上皇が西の対に移動しているが何のためかは不明。その後また内裏に戻っているが、これは入内したばかりの頼忠の娘ィ子のためであろうか。
伝聞ではあるが、またまた天皇が仁寿殿で馬をご覧になっている。十列というから一種の競馬なのだろうけれども、詳細は不明。気になるのが、見たのは左だけで、右は穢れているから見ていないというのは、競馬自体が行われなかったのか、競馬は行われたけれども天皇が見なかったというのか、どちらだろうか。記述から見れば後者であるけれども、穢れた馬を内裏に入れて走らせるかという疑問が残る。
左大臣が内裏に参入して、季節遅れの季御読経と、諸国から献上された初穂を伊勢神宮や天皇陵墓に捧げる荷前の使いについて決めたようである。この季御読経は内裏で行われるものだろうか。さらに仏名経を読む儀式である御仏名について参加する僧を決めている。挙げられてる名前は、現代の我々にはよくわからないけれど、当時は見ればわかる名前だったのだろうか。
十七日は、まず中宮職に向かい、その後内裏に参入している。この日、頭注によれば三夜餅という儀式が行われたようである。藤原頼忠の娘ィ子の入内から三日目のこの日に、ィ子のもとに使者が訪れ、ィ子は天皇の御寝所に参上している。あれこれ贈物を献上するためか頼忠も一緒に参上している。
十八日は、早朝に内裏を退出して、昼頃から清水寺にお参りに行っている。清水寺には、特に事情がない限り毎月十八日参拝しているので、五月十八日に没した実頼の命日だからかと、考えていたのだが、清水寺の観音様の縁日だというのも理由になっているようだ。
十九日は、まず中宮のところに向かって、秋の季御読経の始まりに参列している。その後内裏に移動して今度は、御仏名である。儀式のそれぞれの部分の担当の僧の名前も記されている。この儀式に際してだと思うが、これまで花山天皇が入内させた頼忠の娘ィ子、為光の娘忯子、朝光の娘姚子の三人も、それぞれ清涼殿の一室に候じている。
最後の部分で伝聞ではあるけれども、藤原為光夫妻の信じがたい行動が記される。藤原伊尹の娘である妻のほうは、藤原伊尹の妻であった恵子女王、つまり花山天皇の祖母の名を騙って許可を受けていない輦車に乗って参内した。ただし、恵子女王は為光の妻の生母ではなさそうである。為光のほうは、逆にみすぼらしい車に乗って朔平門まで来たことを批判されている。娘が花山天皇に寵愛されて有頂天の為光が、あれこれやらかしてくれることを楽しみにして読み進めていこう。
廿日は、昼頃に内裏を退出して、夕方戻っている。御仏名の二日目が行われている。僧の名前を比較すると毎日同じ人が同じ部分を担当するのではなく、担当する部分が毎日変わっているようである。寅二刻に終わったというから、かなり遅い時間まで続けられている。
6月29日23時。