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2017年07月03日
ウクライナ問題あれこれ(六月卅日)
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民族主義的な傾向を強めて、ポーランドと対立を深めているウクライナだが、このたびEUとの間でビザなしで入国できるという協定を結んだらしい。将来のNATO加盟、EU加盟に一歩近づいたということなのだろうけれども、EUはどうしてこんなに急ぐのだろうか。
チェコテレビのニュースによると、ウクライナではEUに入るための加盟国のビザは、犯罪組織の資金源になっているらしい。どのEU加盟国の大使館も領事館も、無制限に申請を受け付けることができるわけではなく、順番取りのために行列ができる。行列ができないように整理券を配っているところもあるかもしれないが、順番取りと整理券を抑えているのが組織の連中で、申請者がお金を出せば順番が早くなり、出さなければ順番が回ってこないということらしい。
ウクライナ政府が、この状況にどんな対応をしているのかは知らないけれども、ニュースでは何もいっていなかったし、領事館の人が敷地内で起こることには手を出せるけれども、外で起こることには手を出せないと悔しそうに言っていたことを考えると、対策など何もしていないようだ。この手の組織は、あちこちに鼻薬を嗅がせているものだから、ウクライナでも役人が黙認していると考えるのが自然であろう。
そんな状況で、ビザなしでのEUへの入国が可能になったのだけれども、その理由のひとつは犯罪組織の資金源を断つというものではなかったかと疑ってしまう。何せ同様の理由で、麻薬を合法化することを検討するのがヨーロッパ的思考なのだから。ただし、就労のためのビザは必要なため、犯罪組織の資金源を完全に断ち切れたわけではないようだ。チェコの領事館では、現在普通に申請しようとすると来年の三月に受付ということになるが、ある組織にお金を払えば、即時に手続きが進むらしい。チェコテレビのレポーターが正体を隠してコンタクトを取るというレポートが放送されていた。
かつて同じような状況になっていたのが、プラハの外国人警察で、ビザや滞在許可の延長の申請をしにきた人たちからお金を巻き上げる組織があった。これもウクライナ人が関係しているとか言われていたかな。その後、あれこれ対策をとっていたので状況は改善されていると思うけれども、オロモウツのかつての外国人警察や、現在のプシェロフの内務省の役所の親切さには到底及ぶまい。
2
現在のウクライナとロシアの対立の発端は、エネルギー問題である。ロシアからヨーロッパ全域に石油や天然ガスを供給しているパイプラインの主要ルートはウクライナを通っている。旧ソ連時代から、ウクライナには安価に提供されていたのだが、ロシア側が一方的に値上げを通告したのが対立の原因だと考えられているようだけど、旧ソ連圏の問題がそんなに一面的で単純なわけがない。
パイプラインというものは、確かに効率のいい輸送方法ではあるのだけど、どんなに万全を期したところで全く漏れないということはないらしい。だからロシアの国境を越えてウクライナに入ったパイプラインの石油や天然ガスが、ウクライナを出るときには、大きく目減りしていたとしても、仕方がない面はある。ウクライナが正規に購入した分もあるわけだし。
しかし、ウクライナが購入した分以外の目減り量が、ウクライナの経済の悪化に伴ってどんどん増えていったらしい。漏れていたのではなく、漏らして回収していたのだ。いやそんな手順すら踏んで入るまい。長大なパイプラインを管理しているのがウクライナ側であることを悪用して、必要なだけ抜いていたのである。この辺は、共産主義の時代に蔓延した役得で盗めるものは盗めるときに盗んでおかないと後で後悔するという考え方を国家レベルで適用したものだと言える。
ロシア側としても、ある程度の抜き取りは、おそらくソ連時代からあったはずだし、計算に入れて黙認していたのだろう。抜き取りの寮が黙認できないぐらいにまで膨れ上がったことで、ロシア側が抜き取りをやめるか、抜き取った分も支払うように要求したところが、抜き取りというのは言いがかりだとウクライナが認めなかったため、売却価格を上げたということのようである。
そこにEUがくちばしを突っ込んだために、これはロシアからウクライナを経由して提供されていたガス、石油がヨーロッパに届かなくなるという懸念から仕方がなかった部分はあるが、ウクライナが反ロシアと、親ロシアに分裂する理由を与えることになったのは否定できない。親ロシア派は、ウクライナ東部に居住していたロシア系の住民が中心だったのだろうが、ロシア系の住民が高まるウクライナ民族主義に同調することはできなかったのだろう。
3
高校の世界史の資料集の地図を思い出してみよう。第二次世界大戦終結後、敗戦国のドイツは東方の領土を大きく削られた。その部分はポーランド領となるのだが、そのポーランドも領土を広げたのではなく、西方に領土が広がった分、東方の領土をソ連に譲ることになった。現在のウクライナ西部は、本来ポーランド領だったのである。
同様に、チェコスロバキア領だったポトカルパツカー・ルス地方も、それまではポーランドとハンガリーの間にささる楔だったのが、北側がウクライナ領となったことでソ連領に打ち込まれた楔となることが嫌われ、こちらもソ連領とされた。かの地のルシン人は、ウクライナ人だということにされてしまった。このあたりの民族というのは、政治的なものに過ぎないのである。
また、ウクライナ東部のクリミア半島を含むロシア人居住地域は、ソ連時代にロシアからウクライナに所属が変えられている。ウクライナ人のフルシチョフが、地元にいい顔をするために実行したとも言われているけれども、今となってみれば、余計なことをしやがったとしか言えない。この所属の変更がなされていなければ、現在ウクライナ東部で起こっている内戦も、2014年のロシアによるクリミア半島併合も起こりようがなかったのだから。
ウクライナ問題に関しては、本当はキエフ公国とモスクワ大公国の関係辺りから考える必要があるのだろうけど、そこまでは手に負えないから、最低でもロシア革命後の歴史的な経緯も踏まえて考える必要があるのだと言っておく。
7月1日23時。
本日の記事はいつも以上に脈絡のないものになってしまった。見切り発車でどうつなげるかを考えていなかったせいである。仕方がないので番号をつけて分割してみた。7月2日追記。