2011年06月06日
チェルノブイリ原発事故による放射能汚染地図
チェルノブイリのことは順を追って載せていこうと思っていたのですが
先にこの地図を載せることにしました。
チェルノブイリの場合は、メルトダウン(炉心溶融)により原子炉建屋の大半が
吹き飛んだために、大量の放射性物質(セシウム137等)が周辺に飛散しました。
高濃度の放射能汚染は、原発周辺だけでなく、200〜300km離れた所にも
飛び火のように散り、拡大しています。
何故このように放射性物質が飛び散るのかといえば、放射性物質が細かいチリの
ようになり風にのって浮遊し、移動・拡散してゆくからです。
その結果が、ベラルーシ・ウクライナ・ロシアの3か国に及ぶ汚染を生み出しており
チェルノブイリ原発事故の凄まじさを感じさせます。
日本は原爆による唯一の被爆国であるにもかかわらず、あまりチェルノブイリ原発事故へ
目を向けてこなかったのではないかと、私個人としては思います。
終戦から今年で66年目“戦争を知らない子どもたち”が大半を占めているとはいえ、
やはり人間とは忘れる生き物であり、移ろいやすい(仮初めな)生き物であると思います。
私自身も子どもの頃にチェルノブイリ原発事故をニュースで見たことは覚えていますが、
そのまま深く考えもせずにここまで生きてきました。
今回の日本の原発事故をきっかけにして、チェルノブイリの文献をあたっているうちに
この25年前の事故で何が起こり、何が起こり続けているのか、驚くことが多々あります。
その中で私がまったく知らなかったことのひとつに「家の埋葬」なるものがありました。
「市町村が消えてゆく」といえば、住人が避難して住む者がいなくなった結果と
考えてしまいますが、チェルノブイリでは本当に「村が消えた」のです。
封鎖され汚染地区となった村は廃村となり、高い放射線量の家は、取り壊され埋められています。
こうして村が消えてゆきます。自然や森、川も汚染されています。土壌も汚染されています。
彼らが二度と故郷の地を踏むことが出来ず、故郷の家に戻ることが出来ないと思うと
本当に胸が痛みます…。
それら村々を記録に残そうとしているのが
広河隆一氏の『写真記録 チェルノブイリ「消えた458の村」』です。
その『写真記録 チェルノブイリ「消えた458の村」』に掲載されている
ベラルーシ チェルノブイリ原発事故後の問題国家委員会委員長 イワン・ケニク氏の
「推薦の言葉」には、さまざまな情報と心に響く“何か”がありますので、
今回引用させていただくことにしました。
本のままに掲載していますが、一部割愛しているところがありますのでご了承ください。
また一部読みやすいように改行しています。それでは以下、引用です。
親愛なる日本の友人たち!
(略)
チェルノブイリの事故はベラルーシに悲惨な結果をもたらしました。この事故が与えた恐怖は、過去に起こったどの戦争の荒廃によるものより、恐ろしいものだったのです。
3600の居住地(その中には、220万人以上の人口を持つ27都市も含まれています。)が、被害を受けました。また、住民の健康にもおびただしい数の被害が出ました。
特に〈除染作業員〉や、子どもたちです。彼らは、ガンの病に苦しみ、死に至っています。
(中略)
「チェルノブイリの事故は、未知と恐怖、民族の勇気そして人々の絶望の象徴だと言えます。」わが国の1人の詩人がベラルーシ語で生き生きと問いを投げかけています。
「生きのびるだろうか、私たちは。生きのびるだろうか、私たちは」と。
問いは当然のことです。読者の皆さん、この恐ろしい数字を考えてみてください。チェルノブイリの惨事によってベラルーシの国民の4人に1人、とりわけ、90万人もの子どもが後遺症に悩まされています。被災者の総数の絶対数をロシア、ウクライナ、ベラルーシで比較すると、およそ400万人のうち240万人がベラルーシ国民です。
1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所4号炉の爆発過程で、全体の70%の放射能がベラルーシ共和国に降り注ぎました。このため25%の国土、20%の森林、18%の農地が汚染されました。いずれにせよほとんどベラルーシ全土が汚染されてしまったのです。標準的な基準で汚染されていない国土は1%(!!)にすぎません。
(中略)
私たちが生きて生けるのは、火柱のように我々の地にもたらされた数多くの悲惨な災厄や悲劇、戦争や襲撃に国民は耐えてきたからです。この数百年の間、ヨーロッパでは私たちにとって暗い不幸の翼をかすめない戦争はありませんでした。600年の戦禍で1500万人以上、そのうち第二次世界大戦で320万人(ベラルーシの3人に1人)を失いました。
私たちは耐え抜き、そして勝利を勝ち取りました。今回も耐え、勝利を勝ち取ろうではありませんか。
(中略)
このようなことが二度と世界で繰り返されないようにチェルノブイリの事故を警告として受けとめましょう。
核をもて遊ばないように心からの叫びをあげましょう。平和な核には害があるのです。
学者や政治家への警告として、人々の健康に関して自己満足やうぬぼれは捨てるように。
(中略)
事故の目撃者として最後に、ヨーロッパで大変著名なベルギーの作家シャルル・ド・コステルの小説のなかの伝説的な主人公であるチーリ・ウレンシュピーゲリの言葉を借りて言葉を結びたいと思います。
「広島の罪のない犠牲者の灰が、私たちの心のなかで響いている」
「長崎の罪のない犠牲者の灰が、私たちの心のなかで響いている」
「チェルノブイリの罪のない犠牲者の灰が、私たちの心のなかで響いている」
この言葉は永遠に響き続けることでしょう。
(略)
チェルノブイリの事故はベラルーシに悲惨な結果をもたらしました。この事故が与えた恐怖は、過去に起こったどの戦争の荒廃によるものより、恐ろしいものだったのです。
3600の居住地(その中には、220万人以上の人口を持つ27都市も含まれています。)が、被害を受けました。また、住民の健康にもおびただしい数の被害が出ました。
特に〈除染作業員〉や、子どもたちです。彼らは、ガンの病に苦しみ、死に至っています。
(中略)
「チェルノブイリの事故は、未知と恐怖、民族の勇気そして人々の絶望の象徴だと言えます。」わが国の1人の詩人がベラルーシ語で生き生きと問いを投げかけています。
「生きのびるだろうか、私たちは。生きのびるだろうか、私たちは」と。
問いは当然のことです。読者の皆さん、この恐ろしい数字を考えてみてください。チェルノブイリの惨事によってベラルーシの国民の4人に1人、とりわけ、90万人もの子どもが後遺症に悩まされています。被災者の総数の絶対数をロシア、ウクライナ、ベラルーシで比較すると、およそ400万人のうち240万人がベラルーシ国民です。
1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所4号炉の爆発過程で、全体の70%の放射能がベラルーシ共和国に降り注ぎました。このため25%の国土、20%の森林、18%の農地が汚染されました。いずれにせよほとんどベラルーシ全土が汚染されてしまったのです。標準的な基準で汚染されていない国土は1%(!!)にすぎません。
(中略)
私たちが生きて生けるのは、火柱のように我々の地にもたらされた数多くの悲惨な災厄や悲劇、戦争や襲撃に国民は耐えてきたからです。この数百年の間、ヨーロッパでは私たちにとって暗い不幸の翼をかすめない戦争はありませんでした。600年の戦禍で1500万人以上、そのうち第二次世界大戦で320万人(ベラルーシの3人に1人)を失いました。
私たちは耐え抜き、そして勝利を勝ち取りました。今回も耐え、勝利を勝ち取ろうではありませんか。
(中略)
このようなことが二度と世界で繰り返されないようにチェルノブイリの事故を警告として受けとめましょう。
核をもて遊ばないように心からの叫びをあげましょう。平和な核には害があるのです。
学者や政治家への警告として、人々の健康に関して自己満足やうぬぼれは捨てるように。
(中略)
事故の目撃者として最後に、ヨーロッパで大変著名なベルギーの作家シャルル・ド・コステルの小説のなかの伝説的な主人公であるチーリ・ウレンシュピーゲリの言葉を借りて言葉を結びたいと思います。
「広島の罪のない犠牲者の灰が、私たちの心のなかで響いている」
「長崎の罪のない犠牲者の灰が、私たちの心のなかで響いている」
「チェルノブイリの罪のない犠牲者の灰が、私たちの心のなかで響いている」
この言葉は永遠に響き続けることでしょう。
という内容です。
今すぐに既存の原発をどうこう出来るわけではありませんし、
世界中の核を廃絶することも出来ませんが、私たち自身が 一人ひとり、
文化・文明のあり方や生活の根底を考える必要があると痛切に感じます。
※放射能とは「放射性物質が放射線を発する能力のこと」をいいます。
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〈参考資料〉
イラスト内の地図は読売新聞に掲載されていたものを参考に描いていますm(U U)m
読売新聞2011年3月15日(火)「チェルノブイリ原発事故による放射能汚染」掲載図
読売新聞2011年3月16日(水)「高濃度の汚染地域は、遠い所へも飛び火のように拡大する」掲載図
⇒両方ともに同じ図で『「チェルノブイリ事故による放射能災害」(今中哲二編)より』と表示あり。
『写真記録 チェルノブイリ「消えた458の村」』
広河隆一 著 / 日本図書センター / 1999年6月5日初版第1刷
▼参考のためにGoogleマップも掲載します。
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