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『世界ビジネス ジョーク集』

世界ビジネスジョーク集
おおばともみつ著
中公新書ラクレ 2003年7月15日3版

図書館の世界文学が並んでいるいちばん端の見えないようなところに隠れていた『世界ビジネス ジョーク集』。
なぜ世界文学に並びに?“世界”が付くからか?ちと疑問。たまにこういう不思議な並びを見かけるが図書館はどういう風にジャンル別けしているのだろう…。
図書館はさておき、この本は掲載されているジョークを自由に使って良いというなんとも素敵な本なのだ。
奥付を確認したところ「無断転載禁止」の文字も見当たらないので、本当に使っても良いみたい。
一応 “用法・用量(使いすぎは逆効果になることがある)を守り、食前、食後、食間……” と書いてあるので、処方箋どおりに三つほど使用させていただこうと思う。恐らく今回の雑記は「食前、食後、食間」の三回に分けて読むと効果的になるのだろうと。。。

一つ目は大学の講義で聴いた事のあるジョーク。どの講義だったかは忘れてしまったが、教授もこの本読んだのかな…?ネタ元かしら!?
【大統領への三通の手紙】
前大統領は、新大統領に三通の手紙を渡しながら、こう言った。
「難局に遭遇したら、第一の手紙を読むといい。再度、難局に遭遇したら第二の手紙を。
三度、難局に立ち至った場合には、第三の手紙を開けるんだ 」
****
最初にぶつかった難局で、新大統領は前大統領の言葉を思い出して、第一の手紙を開いた。
「前政権が悪いと言って、その難局を切り抜けろ 」
新大統領は手紙に従って前政権に責任を押しつけ、無事に難局を切り抜けた。
****
しばらくして、第二の難局がやってきた。第二の手紙を開くと、そこにはこう書いてあった。
「悪いのは議会だと言って、その難局を切り抜けろ 」
新大統領は議会を悪者に仕立て上げ、なんとかこの難局を切り抜けた。
****
三度目の難局にぶつかって、三通目の手紙を開かざるをえなくなった。そこにはこう書かれていた。
「君も私と同じように三通の手紙を書いて、次の大統領に渡しなさい 」
結局大統領は何もしていないのですか?と聴きたくなってしまう。
何かしらの政策の結果手紙を開くんだろうけど。
大統領が代わる度に三通の手紙という儀式が行われていたら厭だな。厭というか困る。
何が遭っても二回目までしか回避できないのだし。
必ず三回目には政権交代!になるとは国民を莫迦にしている。。。(大統領も一国民ではあるけれど)。
三通目を読むと「なるほど」と思ってしまう。そんな政権は早く交代しておしまいなさい!と。
国の代表なんてそんなものなのかもしれん。講義で聴いた頃(何年か前)は「なんとまあ!」と嘆賞してしまった私ですが……これって三段オチだもの。
二つ目はジョークというかなんというか…。
【ロシア首脳の法則】
ロシアのおもちゃ"マトリョーシカ"。人形が入れ子になっていて、エリツィンのマトリョーシカもある。
このエリツィン版はエリツィンの中にはゴルバチョフ、ゴルバチョフの中にはチェルネンコ、そしてアンドロポフ、ブレジネフ、フルシチョフ、スターリン、レーニンとロシアの歴代首脳が順番に入っている。
全員を並べてみると、なんと髪がふさふさの首脳と髪が薄い首脳が交互になる。
これがロシア首脳の法則。
非常〜に有名なのでたいていの人が知っているはず。
それなのにこれを選んだわけはただ一つ!このマトリョーシカを実際に見たことがあるからなのだ。
高校三年の選択世界史の授業、東大出身の世界史教師(あだ名はパピヨン)がロシアに行ったときに
買ったというマトリョーシカを持ってきた。
ガタガタと教壇の横に机を並べて、エリツィンからゴルバチョフを出し、チェルネンコをだしと次々と歴代首脳を
次期首脳の中から解放してゆく。最後に出てきたレーニンの これまた小さいことと言ったらない。
ちなみにパピヨンはロシア歴代首脳の名前を全員空で言えるのだ。さすが!
そして髪が有る無し(禿頭症)の法則をちゃんと教えてくれた。
ダジャレ好きな東大出身だったので自分で言って先に自分が笑っていた…まいったね。
実際にこのマトリョーシカが並ぶとなかなか圧倒させられるのだ。――実は欲しい!
三つ目。単に読んで気に入ってしまっただけ。ベタに面白い。でもこういうのは大好きだ。
【誰がパラシュートをつけるか】
クリミア半島の保養地でサミット会議をやろうということで、ゴルバチョフ、サッチャー、チャウシェスク(ルーマニア大統領)、カダフィー(リビア首相)、ローマ法皇の五人が同じ飛行機で飛んでいた。
軍事訓練をしていた某国のミサイルが誤ってこの飛行機のエンジンを破壊してしまった。
急降下を続ける機内でパイロットが叫んだ。
「パラシュートをつけて飛び降りてください。ただパラシュートは四つしかありません 」
「私は西側の代表だから」と言ってサッチャーが飛び降りた。
ゴルバチョフも「私は東側の代表だから」と言って飛び降りた。
するとチャウシェスクが「私の英知は、世界が必要としている」と言って飛び降りた。
ローマ法皇がカダフィーに言った。
「私は神に召された身だ。カダフィーさん、あなたが降りなさい」
その時パイロットが後ろを向いて言った。
「お二人とも降りられますよ。チャウシェスクさんはリュックサックをつけて降りました」
チャウシェスクー!!!!
なんだかもうどうにもこうにもチャウシェスクと叫びたくなる…。
飛び降りてからどれくらいで気がついたんだろう、リュックサックだったって。
でもきっと空中遊泳を楽しんでいるに違いないよ。
パイロットの一言でローマ法皇とカダフィーがどんな反応をしたかの勝手な再現(?)はラクガキを見てください。……とジョークのストーリーにばかり目がいってしまう。
実際はチャウシェスクだから面白いのだというところなんだけどねえ。
私はこのストーリー性に首ったけですよ。
ところでパイロットはどうなったんだ。。。

Notabene 45. Ein Tagebuch von Erich Kästner.

『ケストナーの終戦日記― 一九四五年を忘れるな』
エーリヒ・ケストナー著 / 高橋健二 訳
駸々堂 1985年8月15日第1刷
Notabene 45. Ein Tagebuch von Erich Kästner.

終戦間際までよくベルリンに留まっていたなあと思う。戦火を潜りぬけたとはいえほとんどの所持品を失い、住む家もなくなり…銀行の預金は凍結されているし、執筆も出版も禁止。これでもかといった仕打ちだ。焼けてしまった蔵書、四千冊にはどんな本があったのだろう。戦後、出版物の補償はしてもらえるだろうけど、蔵書までは補償対象外なんだろうな。
第三帝国の執拗さといったらベトベトだ。戦争中は行動力とガッツがないと生き延びられないと毎度思ってしまう。あとは運…いやいや、体力と知力と勘が三位一体になって初めて生き残ることができるのだ。英知なくしては体力も無駄に消費してしまうし、鋭い勘の働きなしに英知だけでは下手をすると理屈をこねている間に死ぬだろうし、せっかくの勘も体力なしには身体が動かない…と無理矢理グーチョキパーの関係を作ってみました。
何より真っ当な人間性と非常事態でも人を思い遣る心が大切だし必要だ。
本書の邦訳タイトルは『ケストナーの終戦日記』。
1945年2月から始まっているのだか訳者の考えで終戦日記にしたらしい。
そこら辺は訳者あとがきを参照。
ケストナーの日記は内容を美化せずにそのまま個人の体験記録として書かれている。まえがきには「日記は芸術作品であろうとすればするほど、日記でなくなる」と記してある。美化強化協会にも自己美化協会にも属していないのだそうだ。私もどちらかと言えば自己美化協会には属したくないので、ここでは人名以外はありのままを書いている。しかしながらケストナーのありのままっぷりと言い回しには尊敬だ。たまにはケストナーのように気の利いた文句のひとつも書いてみたいもんだ。憧れちゃいます。

『ダ・ヴィンチ・コード』

ダン・ブラウン著 / 越前敏弥 訳
『ダ・ヴィンチ・コード』(上)(中)(下) 角川文庫 2006年3月10日初版

父が、文庫版になったので『ダ・ヴィンチ・コード』を遂に読むことにしたらしい。で、それならば、わざわざ買う必要もなくなったので、読み終えたら私にもまわして欲しいと頼んでおいた。
父はサクサクと読み終わったらしく、私に上・中・下の文庫版『ダ・ヴィンチ・コード』を渡してくれた。
しかしながら父の感想は「面白くない」という事だった。何故か、と言えば、これがミステリ小説であったからに他ならない。ミステリ小説が駄目、と言うわけでもなく、父自身も嫌いな訳ではない。これは単に、父の勘違いから生まれた“面白くなさ”だったのだ。
どうやら、この小説を通してレオナルド・ダ・ヴィンチの絵それ自体に隠された謎が解き明かされると思っていたらしい。しかし蓋をあけてみれば、絵の謎解きではなかったので、がっかりさせられてしまったそうだ。絵に関しての言及も物語のキーワードの一部でしかないのだから、がっかりするのも分からなくはない。「写真をもっと載せておけ」という父の言葉に頷けなくもない…。
まあ、そんなこんなで渡されてからだいぶ経って読んだ私ですが、ミステリ小説として読み、十二分に堪能した次第です。推理しながら、ラングドンたちより先に謎を解いてやろうと目をギラギラさせながら読んだせいか、上・中・下巻あっという間に読んでしまいました。
舞台も壮大、ストーリーも壮大で、何だかとにかく大きさを感じさせられる小説。細々と基本的な事を逐一説明してくれるので、難しい知識を持ち合わせずとも楽しめる、と思いました。
最終的に答えが出たのか出ないのかが分からないのが残念ですが、秘密は明かされずに秘め事のままのが良いんでしょうかね・・・?? シラスに心の底から同情を寄せてしまうワタクシでありました。

ダ・ヴィンチ・コード(上)』 ダン・ブラウン著、越前敏弥訳 角川文庫
ダ・ヴィンチ・コード(中)』 ダン・ブラウン著、越前敏弥訳 角川文庫
ダ・ヴィンチ・コード(下)』 ダン・ブラウン著、越前敏弥訳 角川文庫

Ernst Haeckel "Kunstformen der Natur"

以前行ったミュシャ展でのカタログに、エルンスト・ヘッケルについて書いてあった。生物学者である彼の描く生き物が、アール・ヌーヴォー様式そのままで描かれていて素晴らしいとのことだ。それならばぜひ一度見てみたいと思い、遂にその本を購入してしまった。(ミュシャ展参照)。
独語版なので内容はチンプンカンプン。
いつか時機を見て辞書を引きひき読み進めたいと思っているんだけれど…(後で分かった事。英語版もあるのですよ…)。
なんというか、生き物のフォルムというか、動き、線の流れ具合が本当にアール・ヌーヴォー様式だ。どうしたらこんな滑らかな線が引けるのかを知りたい・・・・。
眺めていると、生き物を超えて華々しい装飾の類に見えてくる。自然こそが芸術の形態を成しているというタイトル通りの絵だ。自然に芸術を見出せるというのは何だかとても神秘的に思える。
Kunstformen der Natur
Kunst≒Art≒芸術 formen≒form≒形態 der≒the Natur≒Nature≒自然


**************

『Art Forms in Nature: The Prints of Ernst Haeckel (Monographs)』
こちらは私が購入した本の英語版。
ペーパーバックで139頁、サイズは31.2 x 23.9 x 1.3 cmと大きめです。
価格は£14.99。
作品はオールカラーで掲載されています。
独語版はオールカラーではなく説明(文章)の多いタイプでしたので、
“絵を見たい”という場合には英語版のほうが安価でよいかなと思います。
≪関連書≫
『Art Forms in Nature Mini (Prestel Minis)』(英語版/96頁/ハードカバー)
『Kunstformen der Natur』(独語版/96頁/ハードカバー)
『Art Forms in Nature (Dover Pictorial Archives)』(英語版/100頁/ペーパーバック)
『Art Forms From The Ocean: The Radiolarian Atlas Of 1862』(英語版/100頁/ペーパーバック)
『Visions of Nature: The Art And Science of Ernst Haeckel』(英語版/100頁/ペーパーバック)

『アドルフに告ぐ』

手塚治虫 作
文春文庫ビジュアル版 (1)2004年5月15日第20刷
(2)2005年8月15日第20刷
(3)2005年8月25日第20刷
(4)2005年5月25日第20刷
(5)2005年8月25日第20刷


手塚治虫による名作『アドルフに告ぐ』。
私がこの作品に出会ったのは14、5歳の頃だったと思う。そのときには無我夢中で読んでいて、ストーリーを把握しきれなかった。第二次大戦の頃にドイツがどんな状態だったのかもよく知らなかったので余計にだ。
それでも衝撃的な内容は頭にこびりついたまま離れず、いつかもう一度読まなくてはいけないなと思っていた。
断片的に焼きついた絵を思い出すと「読みたい」と思うこともあった。
人から借りて読んだために手元になくて、すぐには読めなかったために、そのまま購入するまで10年近い歳月が経ってしまった。(気が付いたら1冊525円だったのが630円になっていた…´`)。
改めて読んでみると、当時受けた衝撃と共に様々な事柄を深く考えさせられる内容で、歴史的背景を理解しているかどうかで、こんなにも違った感じを受けるとは思いもよらなかった。
この作品は、新聞記者の峠草平を中心にして、ドイツ人と日本人の混血児アドルフ・カウフマン、ユダヤ人のアドルフ・カミル、ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラー、この三人のアドルフに焦点を当て彼らの人生を描いていく。舞台は第二次世界大戦少し前から始まり最終的には中東戦争にまで及ぶ壮大なストーリーだ。
マンガではあるけれど、マンガの域を超えて人生ドラマが展開されているのがこの作品。

三人のアドルフの中で、いちばん人生を翻弄されたのはアドルフ・カウフマンではないかと私は感じている。読み込めば読み込むほど、カウフマンに感情移入してしまい、何ともいえない気持ちでいっぱいになる…。子ども時代、ヒトラー・ユーゲント時代、親衛隊時代、逃亡時代と彼の人生はめちゃくちゃな方向へ進み続け、終わる。人生とは一体なんなのだろうと思ってしまう。

アドルフに告ぐ(1)新装版』 手塚治虫著 文春文庫
アドルフに告ぐ(2)新装版』 手塚治虫著 文春文庫
アドルフに告ぐ(3)新装版』 手塚治虫著 文春文庫
アドルフに告ぐ(4)新装版』 手塚治虫著 文春文庫

古書市

偶然通りかかったところ、京王百貨店開催の古書市を見つけたのでのぞくことにした。

本は新品派の私。しかし本がランダムに並べてある古書市はなかなか魅力的。
いろいろと目移りしながら、美術展のカタログがないかを探し、、、

目を皿のようにして発見したのが“ドレスデン秘宝展”のカタログ。私が生まれる一年前に開催されたらしい。半券まで挟まっていて800円。当時このカタログがいくらだったのかはわからないけれど、入場料は大人700円になっていた。カタログは1,500円くらいかなと予想。
お次は英語版の“ノーマン・ロックウェル画集”を発見。$45が3,500円なのでかなりお買得。なんと外側にビニールカバーまでついているのだ。
両方とも状態は良好で、溜まった臭いさえ抜ければ咽ることなく楽しく見られそうだ。

『無人島に生きる十六人』

無人島に生きる十六人
須川邦彦著
新潮文庫 2004年8月5日8刷

ただただ“立派”という言葉が脳裏に浮かぶ。この言葉は彼らのような人のためにあるのだと思うほどだ。とにかくみんな、聡明であり創造力豊か。
16人全員が信じあい、一致団結している姿は目映いばかり。そして、皆が皆、自分の立場をしっかりと理解している。出来得る全てのことを考え、実行する姿も見習わんとするばかりなり。知識を豊富に持っていても、その知識をどう使うか、どう使えるかということを改めて考えさせられた。“逞しさ”という言葉もこの場合にはうってつけの言葉だ。
ウミガメ牧場も素晴らしいのだが、流木のある島まで行き、そこを行き来するという発想も素晴らしい。この島へ行かなければならないと考え決まったときには、何が起こるかわからない恐ろしさがあるのだが、誰も物怖じせずにこなしてしまった。
強靭な精神力の持ち主である彼らは、どんなことに対しても「自分がやります」と立ち上がる。他の人がやってくれるだろうと、ひっそりと後ろで隠れているようなことはない。だからといってでしゃばることもない。人を立てることも知っている。そうだからこそ、争うこともなく、この無人島での生活が成り立ったのだろう。
著者が東京高等商船学校の実習生のとき、中川教官の話してくれた体験談を忘れることもなく、46年も経った後に一つの物語として描き出したことに敬服してしまう。

シェイクスピア全37集読破

全37集をやっとのことで読み終えた。
最初の出会い(?)は2003年1月、私が大学と専門学校をハシゴしていた頃。 専門で『ロミオとジュリエット』を読み感想のようなものを書くという課題が出たために初めて戯曲を手にした。慣れないせいで読み進むのがそれはもう大変なんてものじゃない。仕方がないので先に映画を観てから戯曲に戻り課題を仕上げた。たった1冊で食傷気味だった…。
当分は戯曲は懲り懲りだ…と、2004年に『ヴェニスの商人』に手をつけるまでまったくもって戯曲には目を向けなかった。2004年は『ヴェニスの商人』、『間違いの喜劇』、『終わりよければすべてよし』、『ハムレット』の4冊で終了。
まだまだ慣れないけれど、喜劇は好きであると確認した。
2005年に入り、精力的に戯曲に手をつけ始めた私。読むしか慣れる道はない!とばかりに読み進めるが、どうも史劇は苦手。“ヘンリー”やら“リチャード”やら勘弁してくれ…!!と思う。
慣れてきたのは半分も過ぎてから。残り15冊ほどになったところか。 そこら辺で大きな過ちを犯す。『タイタス・アンドロニカス』を二度読んでしまった。これでは「間違いの喜劇、否、悲劇!」どうりで終始、一字一句読んだことがあると思った。お蔭で『タイタス・アンドロニカス』がしっかり頭に入ってしまった。その後も『トロイラスとクレシダ』を図書館で予約しようとしたのに、間違えて『タイタス・アンドロニカス』を予約してしまった。どうしても、この本とは縁があるらしい。また読んでしまうところだった…くわばらくわばら。
そんなこともあり(手違いから)『トロイラスとクレシダ』がラストとなり、シェイクスピア全集を読み終えたのだった。
今では戯曲は「ドンと来い」になった。感想は恐れ多いのでなし!
ウィリアム・シェイクスピア著 / 小田島雄志 訳
白水uブックス
(01)『ヘンリー六世第一部
(02)『ヘンリー六世第二部
(03)『ヘンリー六世第三部
(04)『リチャード三世
(05)『間違いの喜劇
(06)『タイタス・アンドロニカス
(07)『じゃじゃ馬ならし
(08)『ヴェローナの二紳士
(09)『恋の骨折り損
(10)『ロミオとジュリエット

『殺人罪で死刑になった豚 ―動物裁判にみる中世史』

エドワード・ペイソン・エヴァンズ著 / 遠藤徹 訳
青弓社 1995年12月9日第1版第1刷

たかがネズミ、されどネズミ…。
大真面目な教会も滑稽なのだが、弁護人シャスネの意見も滑稽だ。しかし、言われてみればごもっともで、ネズミもかなりの危険にさらされて生きているみたいだ。
動物裁判恐るべし…。
こんな事柄に対して、笑ってしまうこともなく、大の大人が真面目に戦っていたとは、ヨーロッパ中世というのは不思議な時代だ。
日本だと動物は「畜生」扱いされていたから「畜生道」なんて言葉があるわけだが、ヨーロッパ中世の場合は、人間と動物との関係が対等ということになっているのか。
豚が赤ん坊を食べてしまったから裁く、という考え方は分からないこともない…のだが、ちゃんと裁判が開かれて、被告として豚が現れ、弁護人がつき、人間同士の裁判となんら変わらず進むところが、面白いけれど謎だ。
どんな動物(ex.ネズミ)でもちゃんとした形式に則って裁判が開かれる。彼らの意見は弁護人に委ねられ、弁護人以外の味方はいない。そのため必ずといっていいほど負けてしまう。裁判を開く以前に罪が確定しているようなものなのに、敢えて開いているわけだ。この裁判には大勢の市民が駆けつけるので、一種、イベント感覚で集まってきている感がある。人間の裁判や死刑の現場もお祭り騒ぎで観ていたのだから、死刑になるのが豚やネズミであったとしても、当時の人たちにとっては、けっこうな娯楽だったのだろう。
動物裁判という面白くて滑稽な出来事を、世界史の授業で紹介してくれなかったとは残念極まりない。試験に、「動物裁判についてどう思うか」を書かせる問題を出して欲しかったな。。。

『そして日本が勝つ ―精神から見た世界史』

そして日本が勝つ ―精神から見た世界史
日下公人 著
PHPソフトウェアグループ 2004年4月23日第1版第1刷

大学のマーケティングの講義で教授が紹介した本。内容が興味のあるものだったので、いつか読もうと思っていたのだが、ようやっと読むことができた。

どうも私は日本を悲観しすぎていたのかもしれない、というのが第一の感想だ。
良い文化、良い技術、良い民族性など日本にはさまざまな良い面がある。マイナスイメージでばかり見ていたものだから、このプラスの面がまったく見えていなかった。
ついつい欧米的視点と基準で見てしまいがちになるが、日本人であり、日本に生まれ、日本に住んでいる以上は、日本的視点と基準を持って自国を見なければ、日本という国をちゃんと評価できなくなってしまう。これは主観・客観の問題ではなく、祖国愛の問題だ。
暗い将来ばかり思い描いていたのだが、もう少し胸を張って、日本に誇りを持ち世界に日本の良さを発信できるよう、我われ若い世代は努力しなくてはいけないだろう。それには日本人としての精神を磨く必要があるし、日本のことをもっと知る必要もある。
この本で初めて、日本に対してプラスのイメージを持つことが出来た。
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