アフィリエイト広告を利用しています

広告

posted by fanblog

2019年08月06日

闘病17年、日常と非日常

17年という時間は
父にとってどのような時間だっただろう

脳梗塞を患ってから
この世を去るまで・・・17年という月日を過ごした
そのうちの約14年間母が父を支えた
共に闘い
共に苦しんだ結果

行きついた先は孤独感であったかもしれない
父も母も
それぞれに感じた孤独
それは私の推測であったり憶測であったり

真実を知る日はやってこないだろうけれども
闘病17年の中の
最後の約4年間で激動した感情が
それまでに気づきというものに鈍感であった私自身に
色んな角度から気づかせてくれた

親孝行したい時に親は無し

とは良く言ったものだ・・・つくづくそう感じる
なぜ親がいなくなる前に気づきに辿り着けなかったものか
何とも情けない
何度そう感じたことだろう・・・

しかしそのほとんどの場合
私は気づきに辿り着くことは出来なかっただろう
なぜならば
親がいなくならなければ気づきを感じなかった
そう思っているからである

日常が非日常になった時
それまで当たり前であった日常が
とても愛おしいものであったり
とても貴重なものであったり
とても幸せな瞬間であったりもする

その気づきを感じた時
父が脳梗塞で倒れて以降
父の身体の自由は奪われ続け
最終的には右半身麻痺で車椅子生活となった

これによって父の日常は
非日常となり
それが17年間続いたのだ
父がこの17年間毎日何を想い何を感じて生きていたのか

そう考えると
父が感じていた絶望感や孤独感を想像したりもした・・・
私にわかるはずもない・・・が

ただ
そういう父の心の環境の変化について
今のように寄り添える気持ちを持っていれば
生前の父への寄り添い方も随分と変わっていたであろう

それは母に対しても同様
父が脳梗塞を患ったその日から
母のそれまでの日常が非日常になった

愛する夫の介護
それまでにそんな想像をしたことがあっただろうか?
母にとってそれまで非日常であったことが
その日を境に日常となったのである

あの時私に今の感情が芽生えていたのなら・・・
そうやって数え切れないほどの後悔という名の
「スイッチ」を押し続けている

日常と非日常の境目は何処にあるのだろうか
非日常も
続けば日常となってしまうことを考えると
非日常=不幸という式は成り立たない

経験の積み重ねが
自分自身の心の環境に変化をもたらす

気づきに辿り着けなかったなかったのではなく
気づきに出会うことが出来たのだ


AD



この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/9045096
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
リンク集
カテゴリアーカイブ
AD
最新記事
にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村 にほんブログ村 病気ブログ 末期がんへ
にほんブログ村 病気ブログ がん 闘病記(永眠)へ
にほんブログ村 にほんブログ村 介護ブログ 親の介護へ
にほんブログ村
プロフィール
satorichさんの画像
satorich
緊急入院した母が,非小細胞肺がん(腺癌)「ステージ4」を宣告され、1年後に他界・・・母の闘病中の記録や、がんに関することを中心に記事にしているブログです。
プロフィール


がん・腫瘍 ブログランキングへ
最新コメント
陽子線治療の不可 by satorich (12/25)
陽子線治療の不可 by 弥生 (12/24)
父のいないボランティア活動 by satorich (11/20)
父のいないボランティア活動 by まりあ (11/19)
免疫力と体温と癌 by satorich (11/12)
ファン
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。