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2019年03月09日

自己犠牲の精神

世の中、義務よりも権利ばかりを主張する時代になったという。
そういう意味でも、前述のノーブレス・オブリージュを学校教育で教え諭すのは、大変意義があることだと思う。

いろいろな世界で、勝ったり、成功したりして名声を上げたならば、「それは自分の努力の成果なのであって、当然のことだ」、とあからさまに主張する人とは、あまり深く関わりたくはない。彼らは、それなりに「幸福」なのだろうが、名声が去れば、激しく人が離れていくことが予想され、いわゆる「不幸」へと転落しがちだ。

だが、常に謙虚で、他を思いやり、「成功は人様のおかげ」と心の底から考えられる人は、名声のありなしにかかわらず、多くの人望を得る。

そうした人が、国や世界のリーダーとして世の中を変えてゆけるのであれば、より多くの人の幸福をもたらすに違いない。

日本武尊が全国平定のとき、海上で嵐に巻き込まれる。
当時は、海で嵐に遭うのは、「海神が祟っている」と信じられ、何とかこれを鎮めなければならないとされた。

そこで、同行していた妻の弟橘媛は、海神の祟りを鎮めるため、祈りを捧げたのち、自ら人柱となって、海に身を投げた。夫である日本武尊の全国平定は、この時代、何としても成し遂げなければならないことと考えたのである。「そのための一助となるのであれば、この身は惜しくない。いや、この身の入り夫の志が成就するのであれば、それが私の務め」、そう考えたのであろう。自己犠牲という『崇高な精神』の持ち主であった

現代は、この『自己犠牲』の精神も忘れられている。
今の時代、さすがに自らの命を投げ出すことは、ほとんどないだろうが、「大義のために自らの利益を度外視して事にあたる」、という考えは、大切な徳目であると思う。

かの数学者、岡潔先生も、「弟橘媛の行為の意味の分からない人は、ずっと後れた人間であり、猿に近い」というように考えていたようだから、かつての日本人には、こうした精神は、当たり前のように備わっていたと思われる。

それが、今は失われつつあるようだ。

結局、自分の事しか考えられない人には、こうした『崇高な精神』は、持ち得ない。
視点が自分だけにしか向かないから、大局的にものごとを判断することができないからだ。

自己中人間を大量に生産してしまう学校教育であってよいわけはない。

世の中に役立つ人材を供給し続けることができてこそ、その国の発展が得られるのだろう。

過日、ノイローゼで家を飛び出したある生徒の母親から学校に電話がかかってきた。
夫婦のトラブルもあり、家にも帰れない。だから息子に迎えに来て欲しいというのだ。
息子は中学生。授業中であった。

この件は、ご丁寧にお断りし、父親に連絡。結局、父親である夫が迎えにいくことになる。

まさに弟橘媛と真逆ではないか。

息子である中学生も、この話を聞きつけ、さすがに動揺を隠せなかった。

「私はこんなに苦しんでいるのに、どうして誰も助けてくれないの?」
という言葉の裏には、「他の人はどうでもいいから、私だけを幸福にして!」、という思いが隠れている。

人は体調や心境で心が変化するが、何があっても、あまり大きくぶれないようにしたいものだ。
そのためにも、ノーブレス・オブリージュというような、精神は必要不可欠だろう。

親子ともに傷が癒え、立ち直ることを祈りたい。







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