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2021年01月17日

「痴人の愛」本文 vol,13


「痴人の愛」本文  角川文庫刊 vol,13



私が彼等に持ちかけた相談と云うのは、折角当人も学問が好きだというし、あんなところに長く奉公させておくのも惜しい児のように思うから、そちらでお差支えが無いのなら、どうか私に身柄を預けては下さるまいか。



どうせ私も十分なことは出来まいけれど、女中が一人欲しいと思っていた際でもあるし、まあ台所や拭き掃除の用事くらいはしてもらって、その合間に一通りの教育はさせてあげますが、と、 勿論私の境遇だのまだ独身であることなどをすっかり打ち明けて頼んでみると、



「そうしていただければ誠に当人も幸せでして、・・・・・・」

というような、何だか張り合いが無さすぎるくらいの挨拶でした。

全くこれではナオミのいう通り、会うほどの事は無かったのです。



世の中には随分無責任な親や兄弟もあるものだと、私はその時つくづくと感じましたが、それだけ一層ナオミがいじらしく、哀れに思えてなりませんでした。



何でも母親の言葉によると、彼等はナオミを持て扱っていたらしいので、

「実はこの児は芸者にするつもりでございましたのを、当人の気が進みませんものですから、そういつまでも遊ばせて置く訳にも参らず、よんどころなくカフェエへやって置きましたので」



と、そんな口上でしたから、誰かが彼女を引き取って成人させてくれさえすれば、まあ兎も角も一安心だと言う様な次第だったのです。



ああなるほど、それで彼女は家にいるのが嫌なものだから、公休日にはいつも戸外(おもて)へ遊びに出て、活動写真を見に行ったりしたんだなと、事情を聞いてやっと私もその謎が解けたのでした。



が、ナオミの家庭がそういう風であったことは、ナオミにとっても私にとっても非常に幸いだった訳で、話が決まると直(じ)きに彼女はカフェエから暇を貰い、毎日毎日私と二人で適当な借家を捜しに行きました。



私の勤め先が多い町でしたから、成るべくそれに便利な所を択ぼうというので、日曜日には朝早くから新橋の駅に落ち合い、そうでない日はちょうど会社の退(ひ)けた時刻に大井町で待ちあわせて、蒲田、大森、品川、目黒、主としてあの辺の郊外から、市中では高輪(たかなわ)や田町や三田(みた)辺りを回って見て、さて帰りにはどこかで一緒にご飯を食べ、時間が在れば例の如く活動写真を除いたり、銀座通りをぶらついたりして、彼女は千束町(せんぞくちょう)の家へ、私は芝口の下宿へ戻る。





確かその頃は借家が払底(ふってい=すっかり無い)な時でしたから、手ごろな家がなかなかオイソレと見つからないで、私たちは半月余りもこうして暮らしたものでした。





引用書籍

谷崎潤一郎作「痴人の愛」

角川文庫刊



次回に続く。











2021年01月16日

「魔術師」本文 vol,10

魔術師」VOL,10


そうして見る見る野次馬のために、顔を滅茶滅茶に掻きむしられ、衣類をずたずたに引き裂かれて、或る者は悲鳴を放ちながら、或る者は絶息して屍骸のようになりながら、水に浮かぶ藻屑の如く何処までも何処までも運ばれて行くのです。

私は、自分の前へ落ちてきた一人の男が、逆立ちになって二本の脛を棒杭のように突き出したまま、止めどもなく流れて行くのを見ていました。その男の足は、四方八方から現れてくる無頼漢の手に依って、最初にまず靴を脱がされ、次にはズボンをぼろぼろに破られ、果ては靴足袋を剥ぎ取られて、打ったりつねったりされるのでした。


それから又、酒ぶくれに太った一人の女が、ジオバンニ、セガンティニノ「淫楽の報い」という絵の中にある人物のような形をして、胴上げにされながら、
「やっしょい、やっしょい」と担がれて行くのも見物しました。


「この町の人たちは、みんな気が違っているようだ。今日は一体、お祭りでもあるのかしら。」と、私は恋人を顧みて云いました。





「いいえ、今日ばかりではありません。この公園へ来る人は年中こんなに騒いでいるのです。始終このように酔っぱらっているのです。この往来を歩いている人間で、正気な者はあなたと私ばかりです。」


彼の女は相変わらずしとやかな、真面目な口調で、そっと私に告げました。


引用書籍
谷崎潤一郎著「魔術師」中央公論社刊




「魔術師」本文 vol,9

「魔術師」本文VOL,9


やや長い間、私は唯、無数の人間の雲の中を否応なしに進みました。

行く手を眺めると、公演は案外近い所に在るらしく、燦爛としたイルミネェションの、青や赤や黄や紫の光芒が、人々の頭に焦げ付く程の低空に、淡々と燃え輝いているのです。



道路の両側には、青楼とも料理屋ともつかない三階四階の楼閣が並んで、華やかな岐阜提灯を珊瑚の根掛けの様に連ねたバルコニイの上を見ると、酔いしれた男女の客が狂態の限りを尽くして、野獣のように暴れていました。



彼等の或る者は、街上の群衆を瞰(み)おろして、さまざまの悪態を浴びせ、冗談を云いかけ、稀には唾を吐きかけます。

彼等はいずれも外聞を忘れ羞恥を忘れて踊り戯れ、馬鹿騒ぎの揚句には、蒟蒻(こんにゃく)のようにぐたぐたになった男だの、阿修羅の様に髪を乱した音などの画、露台の欄干から人ごみの上へ真っ逆さまに落ちて来るのです。





引用書籍

谷崎潤一郎「魔術師」中央公論社文庫刊




                         次回に続く。

「魔術師」本文 vol,8

「魔術師」本文VOL,8


噴水の周囲には、牛乳色の大理石の石垣が冠のような円形を作って、一間ごとに立っている女神の像の足下から、泉の水は淡々として溢れ膨らみ、絶えず大空の星を目がけて吹き上げながら、アーク燈の光のうちに虹霓(こうげい)となり雲霧となりつつ、夜の空気に潺湲(せんかん)と咽び泣いているのです。



とある公路樹の、鬱蒼とした葉蔭のベンチに腰を卸して、暫く街頭の人ごみを眺めていた私は、間もなく其処の雑踏に異常な現象が現われていることを発見しました。



町の四方から、その四辻の噴水に向かって集まって来る四条(よすじ)の道路は、いずれも夕方のそぞろ歩きを楽しむらしい群衆によって賑わっていますが、しかもそれらの人々のほとんど全部は、一様に同じ方角を志しつつゆるくなだらかに流れて行くのです。



南と北と西と東との道路のうち、南の一筋を除く以外の三つの線を歩く者は、一旦悉く四辻の広場に落ち合ったのち、今度は更に濃密な隊を作り、真っ黒な太い列を成して、南の口へぞろぞろと押して行きます。



そうして今しも、噴水の傍のベンチに憩うている私等二人は、云わば大河の真ん中に停滞している浮州の様に、独り静かに周囲から取り残されているのでした。



「御覧なさい。これほど大勢の人たちがみんな公園へ吸い寄せられていくのです。さあ、我々も早く出かけましょう。」

彼の女はこう云って、優しく私の背中を押して立上りました。



二人はどんなに押し返されても別れ別れにならない様に、鉄の鎖の断片の如く頑丈に腕を絡み合って、人ごみの内に交じったのです。



引用書籍
谷崎潤一郎著「魔術師」中央公論社刊



                          次回に続く。













「魔術師」本文 vol,7

魔術師」VOL,7

「私はたびたびその小屋の前を素通りしましたが、まだ一遍も中へ這入ったことがないのです。
その魔術師の姿と顔とは、餘に眩しく美しくて、恋人を持つ身には、近寄らぬ方が安全だと、町の人々が云うのです。

その人の演ずる魔法は、怪しいよりもなまめかしく、不思議なよりも恐ろしく、巧緻なよりも奸悪な妖術だと、多くの人は噂しています。

けれども小屋の入り口の、冷たい鉄の門をくぐって、一度魔術を見て来た者は、必ずそれが病みつきになって毎晩出かけて行くのです。

どうしてそれ程見に行きたいのか、彼らは自分でも分かりません。きっと彼らの魂までが、魔術にかけられてしまうのだろうと私は推量しているのです。

ですがあなたはその魔術師をまさか恐れはしないでしょう。人間よりも鬼魅(きみ)を好み、現実よりも幻覚に生きるあなたが、評判の高い公園の魔術を見物せずにはいられないでしょう。

たとえいかなる辛辣な呪詛や禁厭(まじない)を施されても、恋人のあなたと一緒に見に行くのなら、私も決して惑わされる筈はありません。・・・・・・・・・」

「惑わされたら惑わされるがいいじゃないか。その魔術師がそんなに綺麗な男なら。」
私はこう云って、春の野に啼く雲雀のように、快活な声でからからとわらいました。

しかしその次の瞬間には、ふと、胸の底に湧いてきた淡い不安と軽い嫉妬に裏切られて、早速言葉を荒(あ)らげずにはいられませんでした。

「それではこれからすぐ公園へ行って見よう。われわれの魂が魔法にかかるかかからないか、お前と一緒にその男を試してやろう。」

二人はいつか町の中央にある廣小路の、大噴水の滸(ほとり)をさまようていたのでした。



引用書籍
谷崎潤一郎著「魔術師」中央公論社刊


「魔術師」本文 vol,6

「魔術師」VOL,6

彼の女の語る挑発的な巧妙な叙述は、一言一句大空の虹のごとく精細に、明瞭な幻影を私の胸に呼び起こして、私は話を聴いているより、むしろ映画を見ているような眩さを感じました。

同時に私は、その公園へ今まで何度も訪れたことがあるらしく感ぜられました。少なくとも彼の女が見物したというそれ等の幻燈の数々は私の心の壁の面に、妄想ともつかず写真ともつかず、折々朦朧と浮かび上がって私の注視を促すことはしばしばあるのです。




「しかし恐らく彼(あ)の公園には、もっと鋭く我々の魂を脅かし、もっと新しくわれわれの官能を蠱惑(こわく)する物があるだろう。

物好きな私が、夢にも考えたことのない、破天荒な興行物があるだろう。私にはそれが何だか分らないが、お前は定めし知っているに違いない。」

「そうです。私は知っています。それはこの頃公園の池の汀(「みぎわ)に小屋を出した、若い美しい魔術師です。」
と、彼の女は即座に答えました。

引用書籍
谷崎潤一郎著「魔術師」中央公論社刊

「魔術師」本文 vol,5

魔術師VOL,5


「私はこの間、彼処(あすこ)の活動写真館で、あなたが平生耽読している古来の詩人芸術家の、名高い詩篇や戯曲の映画を幾度も幾度も見せられました。

ホオマアのイリアッドだの、ダンテの地獄の写真などは、あなたも多分ご存じでしょう。しかしあなたは、支那小説の西遊記の、西梁女国(さいりょうじょこく)の艶魔の媚笑をご覧になったことがありましょうか。

又アメリカのポオの作った、恐怖と狂騒と神秘との、巧緻な糸で織りなされた奇(あや)しい幾個の物語が、フィルムの上に展開して、眼前に現れて来る凄まじさを、嘗(かつ)て想像したことがあるでしょうか。

”The Black Cat”の戦慄すべき地下室の状況や、”THE Pit and the Pendulum"の暗鬱たる牢獄のありさまが、小説よりも更に不気味に、実際よりも更に鮮やかに、強く明るく照らし出される刹那の気持ちを味わってごらんなさい。

しかもそれらの幻燈劇を、黙って静かに見物している数百人の観客は、みんな悪魔に魘(うな)されたようにビッショリと冷や汗をかき、女は男の腕に絡まり男は女の肩にしがみついて、歯をくいしばっておののきながら、一心に執拗に、昂奮した怯えた瞳を、映画の上へ注いでいるのです。

彼らは折々、熱に浮かされた病人のような微かな嘆息(ためいき)を洩らすばかりで、咳(しわぶき)一つ、眼瞬(またた)き一つしようとする者はいませんでした。

そんなことをする隙のない程、彼等の魂は興味で充たされ、彼等の体は硬直しているのです。
たまたま餘の明白さに堪えかねて、面を背けて逃げ出そうとする者があると、真っ暗な観客席の何処からともなく、気違いじみた、けたたましい拍手の声が起こります。

すると拍手は忽ちの間に四方へ瀰漫(びまん)し、内々浮き腰になっていた連中までが相和して、館の建物を震撼(しんかん)するような盛んな響きが、暫く場内にどよめき渡るのです。・・・・・・・・・」




引用書籍
谷崎潤一郎著「魔術師」中央公論社刊

「魔術師」本文 vol,4

魔術師」VOL,4


「公園?公園に何があるのさ。」
と、私は少し驚いて尋ねました。

なぜと云うのに、私は今まで、その町にそんな公園のあったことを知らなかったのみならず、その時の彼(か)の女の言葉には、何処となく胡散臭い調子が潜んでいて、云わば秘密の悪事でも唆すように聞こえたからです。


「だってあなたはあの公園が大好きな筈じゃありませんか。私は初めあの公園が非常に恐ろしかったのです。娘の癖にあの公園へ足を踏み入れるのは、恥辱だと思っていたのです。

それがあなたを恋するようになってから、いつしかあなたの感化を受けて、ああいう場所に云い知れぬ興味を感じだしました。あなたに会うことが出来ないでも、あの公園へ遊びに行けば、あなたに会っているような心地を覚え始めました。

・・・・・・あなたが美しいようにあの公園は美しいのです。あなたが物好きであるように、あの公園は物好きなのです。あなたはよもやあの公園を、知らない筈はないでしょう。」


「おお知っている、知っている。」と、私はおもわず答えました。そうして更にこう云いました。
「・・・・・・彼処(あすこ)にはたしかいろいろな、珍しい見世物があった筈だ。世界中の奇蹟という奇蹟のすべてが集まっていた筈だ。

彼処(あすこ)には古代の羅馬(ろーま)に見るような、アムフイセアタアもあるだろう。
スペインの闘牛もあるだろう。それよりももっと突飛な、もっと妖麗な、hippodromeもあるだろう。それから私の大好きな、いとしい可愛いお前よりも尚大好きな活動写真があるだろう。

そうして彼(あ)の世界中の人間の好奇心を唆かしたFantomasやProteaよりも、もっと身の毛のよだつようなフィルムの数々が白昼の幻の如くまざまざと映(うつ)されているだろう。



引用書籍
谷崎潤一郎著「魔術師」中央公論社刊





「魔術師」本文 vol,3

「魔術師」VOL,3



善も悪も、美も醜も、笑いも涙も、すべてのものを溶解して、ますます巧眩な光を放ち、炳絢(へいけん)な色を湛えている偉大な公園の、海のような壮観を云うのです。

そうして、私が今語ろうとする或る国の或る公園は、偉大と混濁との点において、六区よりも更に一層六区式な、怪異な殺伐な土地であったと記憶しています。


浅草の公園を、鼻もちのならない俗悪な場所だと感ずる人に、あの国の公演を見せたなら果たして何と云うでしょう。
其処には俗悪以上の野蛮と不潔と潰負とが、溝(どぶ)の下水の澱んだように堆積して、昼は熱帯の白日の下に、夜は煌々(こうこう)たる燈火の光に、恥ずる色なく暴き暴かされ、絶えず蒸し蒸しと悪臭を発酵させているのでした。

けれども、支那料理の皮蚕(びいだん)の旨さを解する人は、暗緑色に腐り壊れた鶩(あひる)の卵の、胸をむかむかさせるような異様な匂を掘り返しつつ、中に含まれた芳鬱(ほううつ)な渥味(あくみ)に舌を鳴らすということです。

私が初めてあの公園へ這入(はい)った時にも、ちょうどそれと同じような、薄気味の悪い面白さに襲われました。何でもそれは初夏の夕べの、涼しい風の吹く時分だったでしょう。




私がその町のとあるカフェで、私の恋人と楽しい会合を果たした後、互いに腕を組みあって、電車や自動車や人力車の繁く往き交うアベニュウを、睦まじそうに散歩している最中でした。





「ねえあなた、今夜これから公園へ行って見ようではありませんか。」
と、彼の女が突然、あの妖艶な大きな瞳をぱっちりと開いて、私の耳元で囁いたのです。


引用書籍
「魔術師」谷崎潤一郎著、中央公論社刊



「魔術師」本文 vol,1〜2

「魔術師」VOL,2


しかしあなたが、その場所の性質や光景や雰囲気に関して、もう少し明瞭な観念を得たいと云うならば、まあ私は手短に、浅草の六区に似ている、あれよりももっと不思議な、もっと乱雑な、そうしてもっと頽爛(たいらん)した公園であったと云っておきましょう。

もしもあなたが、浅草の公園に似ているという説明を聞いて、其処に何らの美しさをも懐かしさをも感ぜず、むしろ不愉快な汚穢な土地を連想するようなら、それはあなたの「美」に対する考え方が、私とまるきり違っている結果なのです。

私は勿論、十二階の塔の下に棲んでいる、"venal nymph"の
一群をさして、美しいと云うのではありません。

私の云うのは、あの公園全体の空気のことです。暗黒な洞窟を裏面に控えつつ、表へ回ると常に明るい喜ばしい顔つきをして、好奇な大胆な眼を輝かし、夜な夜な毒々しい化粧を誇っている公園全体の情調を云うのです。


引用書籍
谷崎潤一郎著「人魚の嘆き」中央公論社刊




「魔術師」VOL,1


私があの魔術師に会ったのは、何処(いずこ)の国の何という町であったか、今ではハッキリと覚えていません。

どうかすると、それは日本の東京のようにも思われますが、或る時は又西洋や南米の植民地であったよぷな、或いは支那か印度辺(へん)の船着き場であったような気もするのです。

とにもかくにも、それは文明の中心地たる欧羅巴(よーろっぱ)からかけ離れた、地球の片隅に位(くらい)している国の都で、しかも極めて殷富(いんぷ)な市街の一廓(いっかく)の、非常に賑やかな夜の巷(ちまた)でした。


引用書籍
谷崎潤一郎著「魔術師」中央公論社刊



「痴人の愛」本文 角川文庫刊 vol,12



「痴人の愛」本文  角川文庫刊 vol,12



何の躊躇するところもなく、言下に答えたキッパリとした彼女の返事に、私は多少の驚きを感じないではいられませんでした。

「じゃ、奉公を止(や)めるというのかい?」



「ええ、止(や)めるわ」

「だけどナオミちゃん、おまえはそれでいいにしたって、おっ母さんや兄さんが何と言うか、家の都合を聞いて見なけりゃならないだろうが」



「家の都合なんか、聞いて見ないでも大丈夫だわ。誰も何とも言う者はありゃしないの」

と、口ではそう言っていたものの、その実彼女がそれを案外気にしていたことは確かでした。



つまり彼女のいつもの癖で、自分の家庭の内幕を私に知られるのが嫌さに、わざと何でもないような素振りを見せていたのです。

私もそんなに嫌がるものを無理に知りたくはないのでしたが、しかし彼女の希望を実現させるためには、やはりどうしても家庭を訪れて彼女の母なり兄なりに篤と相談をしなければならない。



で、二人の間にその後だんだん話が進行するに従い、

「一遍、お前の身内の人に会わしてくれろ」

と、何度もそう言ったのですけれど、



「いいのよ、会ってくれないでも。あたし自分で話をするわ」

と、そういうのが決まり文句でした。



私はここで、今では私の妻となっている彼女のために、「河合夫人」の名誉のために、強いて彼女の不機嫌を買ってまで、当時のナオミの身許や素性を洗い立てる必要はありませんから、なるべくそれには触れないようにして置きましょう。



後で自然と分かって来る時もありましょうし、そうでないまでも彼女の家が千束町(せんぞくまち)にあったこと、十五の歳にカフェエの女給に出されていたこと、そして決して自分の住居(すまい)を人に知らせようとしなかったこと謎を考えれば、大凡(おおよ)そどんな家庭であったかは誰にも想像がつくはずですから。



いや、そればかりではありません、私は結局彼女を説き落として母だの兄だのに会ったのですが、彼等はほとんど自分の娘や妹の貞操ということに就いては、問題にしていないのでした。



                            次回に続く。












































































2021年01月15日

「痴人の愛」本文 角川文庫刊 vol,11



「痴人の愛」本文 角川文庫刊 vol,11



「どうだね、ナオミちゃん、ほんとうにお前、学問をしたい気が在るかね。あるなら僕が習わせてあげてもいいけれど」

それでも彼女が黙っていますから、私は今度は慰めるような口調で言いました。



「え?ナオミちゃん、黙っていないで何とかお言いよ。お前は何をやりたいんだい。何が習って見たいんだい?」

「あたし、英語が習いたいわ」



「ふん、英語と、それだけ?」

「それから音楽もやって見たいの」



「じゃ、僕が月謝を出してやるから、習いに行ったらいいじゃないか」

「だって女学校に上がるのには遅すぎるわ。もう十五なんですもの」



「なあに、男と違って女は十五でも遅くはないさ。それとも英語と音楽だけなら、女学校へ行かないだって、別に教師を頼んだらいいさ。どうだい、お前真面目にやる気があるかい?」



「あるにはあるけれど、じゃ、ほんとうにやらしてくれる?」

そう言ってナオミは、私の眼の中を俄かにハッキリ見据えました。



「ああ、ほんとうとも。だがナオミちゃん、もしそうなればここに奉公している訳には行かなくなるが、お前の方はそれで差し支えないのかね。

お前が奉公を止(や)めていいなら、僕は引き取って世話をしてみてもいいんだけれど。・・・・・・そうしてどこまでも責任を以(も)って、立派な女に仕立ててやりたいと思うんだけれど」



「ええ、いいわ、そうしてくれれば」


                                                  次回に続く。























「人魚の嘆き」本文ラストvol,29

「人魚の嘆き」ラスト VOL29


「おお、どうぞお前の神通力を示してくれ。その代りには、私はどんな願いでも聴いて上げよう。」
と、うっかり貴公子が口をすべらせると、人魚はさもさも嬉し気に、両手を合わせて幾度か伏し拝みながら、

「貴公子よ、それでは私はもうお別れをいたします。私が今、魔法を使って姿を変えてしまったら、あなたはさぞかしそれをお悔やみなさるでしょう。

もしもあなたが、もう一遍人魚を見たいと思うなら、欧州行きの汽船に乗って、船が南洋の赤道直下を過ぎる時、月のよい晩に甲板の上から、人知れず私を海へ放して下さい。

わたしはきっと、波の間に再び人魚の姿を示して、あなたにお礼を申しましょう。」
云うかと思うと、人魚の体は海月(くらげ)のように淡くなって、やがて氷の溶けるが如く消え失せた跡に、二三尺の、小さな海蛇が、水甕の中を浮きつ沈みつ、緑青色の背を光らせ泳いでいました。


人魚の教えるに従って、貴公子が香港からイギリス行きの汽船に塔じたのは、その年の春の初めでした。或る夜、船がシンガポールの港を発して、赤道直下を走っている時、甲板に冴える月明りを浴びながら、人気のない舷(げん=船の両側面。ふなべり。)に歩み寄った貴公子は、そっと懐から小型なガラスの壜(びん)を出して、中に封じてある海蛇を摘(つま)み上げました。

蛇は別れを惜しむが如く、二三度貴公子の手首に絡みつきましたが、程なく彼の指先を離れると、油のような静かな海上を、暫く」するすると滑っていきます。

そうして、月の光を砕いている黄金の澰波(れんぱ)を分けて、細鱗を閃かせつつうねっているうちに、いつしか水中へ影を没してしまいました。

それからものの五六分過ぎた時分でした。渺茫(びょうぼう)とした遥かな沖合の、最も眩しく、最も鋭く反射している水の表面へ、銀の飛沫(しぶき)をざんぶと立てて、飛びの魚の跳ねるように、身を翻した精悍な生き物がありました。

天上の玉兎の海に堕ちたかと疑われるまで、皓皓と輝く妖繞(ようじょう)な姿態に驚かされて、貴公子がその方を振り向いた瞬間に、人魚はもはや全身の半ば以上を煙波に埋め、双手(そうしゅ)を高く翳(かざ)しながら、「ああ」と哎呦(がいゆう)一声して、くるくると水中に渦を巻きつつ沈んで行きました。

船は、貴公子の胸の奥に一縷(いちる)の望みを載せたまま、恋いしいなつかしい欧羅巴の方へ、人魚の故郷の地中海の方へ、次第次第に航路を進めているのでした。


                        完

引用書籍
谷崎潤一郎「人魚の嘆き」中央公論社刊

「人魚の嘆き」本文vol,28

「人魚の嘆き」VOL,28




「私の体は魚のように冷ややかでも、私の心臓は人間のようにあたたかなのです。これが私の、あなたを恋している証拠です。」

彼の女がこう云った時、ふと貴公子の掌(てのひら)は、一塊の雪の中に、淡々と燃えている火のような熱を感じました。

ちょうど人魚の左の胸を撫でていた彼の指先は、その肋骨の下に轟(とどろ)く心臓の活気を受けて、危うく働きを止めようとした体中の血管に、再び生き生きとした循環を起こさせました。

「私の心臓はかくまで熱く、私の情熱はかくまで激しく湧いていながら、私の皮膚は絶ゆる隙間なく、忌まわしい寒気に戦(おのの)いています。

そうしてたまたま、麗しい人間の姿を眺めても、人魚に生まれた浅ましさには、宿業の報いに依って、その人を愛することを永劫に禁じられているのです。





私がいかほどあなたを慕い憧れても、神に呪われて海中の魚族に堕ちた身の上では、ただ煩悩の炎に狂い、妄想の奴隷となって、悶え苦しむばかりなのです。





貴公子よ、どうぞ私を大洋の住み家へ帰して、この切なさと恥ずかしさから逃がして下さい。青い冷たい海の底に隠れてしまえば、私は自分の運命の、哀しさ辛さを忘れることが出来るでしょう。

この願いさえ聴き届けて下さるなら、私は最後の御恩宝持に、あなたの前で神通力を現わして見せましょう。」


引用書籍
谷崎潤一郎「人魚の嘆き」中央公論社刊

「人魚の嘆き」本文vol,27

「人魚の嘆き」VOL,27


「お前がそのように南欧の海を慕うのは、きっとお前に恋人があるからだろう。地中海の波の底に、同じ人魚の形を持った美しい男が、夜昼お前を待ち焦がれているのだろう。

そうでなければ、お前はそんなに私を厭う筈がない。情(つれ)なくも私の恋を振り捨てて、故郷へ帰る道理がない。」

貴公子が恨みの言葉を述べる間、人魚は殊勝気に瞑目して首(こうべ)をうなだれ、耳を傾けていましたが、やがてしなやかな両手を伸ばしつつ、シッカリと貴公子の肩を捕えました。

「ああ、あなたのような世に珍しい貴(あで)やかな若人を、私がどうして忌み嫌うことが出来ましょう。どうして私が、あなたを恋せずにいられるような、無情な心を持っているでしょう。私があなたに焦がれている証拠には、どうぞ私の胸の動悸を聞いて下さい。」

人魚はひらりと尾を翻して、水瓶の縁へ背を托したかと思う間もなく、上半身を弓の如く仰向きに反らせながら、滴々と雫の落ちる長髪を床に引き擦り、樹に垂れ下がる猿のように下から貴公子の項(うなじ)を抱えました。

すると不思議や、人魚の肌に触れている貴公子の襟首は、さながら氷をあてられたような寒さを覚えて、見る見るうちに其処が凍えて痺れて行くのです。

人魚の彼を抱き緊(し)める力が、強くなれば強くなる程、雪白の皮膚に含まれた冷水の気は、貴公子の骨に沁み入り髄を徹して、紹興酒の酔いに熱した総身を、忽ち無感覚にさせてしまいます。

そのつめたさに耐えかねて、あわや貴公子が凍死しようとする一刹那、人魚は彼の手首を抑えて、それを徐ろに彼の女の心臓の上に置きました。



引用書籍
谷崎潤一郎「人魚の嘆き」中央公論社刊



「人魚の嘆き」本文vol,26

「人魚の嘆き」VOL,26



「・・・・・・・・・私は今、あなたが恵んで下すった一杯の酒の力を借りて、ようよう人間の言葉を語る通力を回復しました。私の故郷は、和蘭人の話したように、ヨーロッパの地中海にあるのです。

あなたがこの後、西洋へ入らっしゃることがあるとしたら、必ず南欧の伊太利(イタリア)という、美しいうちにも殊に美しい、絵のような景色の国をお訪ねなさるでしょう。

その折もし、船に乗ってメッシナの海峡を過ぎ、ナポリの港の沖合をお通りになることがあったら、その辺こそ我れ我れ人魚の一族が、古くから棲息している処なのです。

昔は船人がその近海を航すると、世にも妙なる人魚の歌が何処からともなく響いて来て、いつの間にやら彼等を底知れぬ水の深みへ誘い入れたと申します。

私はかくもなつかしい自分の住み家を持ちながら、ちょうど去年の四月の末、暖かい春の潮に乗せられて、ついうかうかと南洋の島国まで迷うて来たのです。

そうして、とある浜辺の椰子の葉蔭に鰭を休めている際に、口惜しくも人間の獲物となって、亜細亜の国々の市場という市場に、恥ずかしい肌を曝しました。

貴公子よ、どうぞ私を憐れんで、一刻も早く私の体を、広々とした自由な海へ放して下さい。たとえ私がいかほどの神通力を具えていても、窮屈な水瓶の中に捕らわれていては、どうすることも出来ないのです。

私の命と、私の美貌とは、次第次第に衰えて行くばかりなのです。あなたが是非とも人魚の魔法をご覧になりたいと思うなら、どうぞ私を恋いしい故郷へ帰して下さい。」



引用書籍
谷崎潤一郎「人魚の嘆き」中央公論社刊

「人魚の嘆き」本文vol,25

「人魚の嘆き」VOL,25


或る晩のことでした。貴公子はあまりの切なさ悲しさに、熱燗の紹興酒を玉杯に注いで、腸(はらわた)を焼く強い液体の、満身に行き渡るのを楽しんでいると、その時まで水中に海鼠(なまこ)の如く縮まっていた人魚は、温かい酒の香りを恋い慕うのか、俄かにふわりと表面へ浮かび上がって、両腕を長く甕の外へ差し出すのです。


貴公子が試みに、手に持った酒を彼の女の口元へ寄せるや否や、彼の女は思わず我を忘れて真紅の下を吐きながら、海綿のような唇を杯の縁に吸い着かせたまま、唯一息に飲み干してしまいました。

そうして、たとえばあの、ビアズレエの描いた、”The Dancer's Reward"という画題の中にあるサロメのような、凄惨な苦笑いを見せて、頻りに喉をならしつつ次の一杯を促すのです。






「それ程お前が酒を好むなら、私はいくらでも飲ませてやる。冷(ひやや)かな海の潮に漬っているお前の血管に、激しい酔いが燃え上がったら、定めしお前は一層美しくなるであろう。

一層人間らしい親しみと愛らしさとを示してくれるだろう。お前を私に売って行った和蘭(おらんだ)人の話に依ると、お前は人間の測り知られぬ神通力を具えていると云うではないか。

お前には背徳の悪性があると云うではないか。私はお前の神通力を見せて貰いたいのだ。お前の悪性に触れたいのだ。

お前が本当に不思議な魔法を知っているなら、せめては今宵一と夜なりとも人間の姿に変わってくれ。お前が実際放肆(ほうし)な情欲を持っているなら、どうぞそのように泣いていないで、私の恋を聴き入れてくれ。」

貴公子がこう云いながら、杯の代りに自分の唇を持って行くと、窈渺(ようびょう)たる人魚の眉目は鏡に息のかかったように忽ち曇って、

「貴公子よ、どうぞ私を赦(ゆる)して下さい。私を憐れんで赦して下さい。」
と、突然明瞭な人間の言語を発しました。



引用書籍
陳舜臣「人魚の嘆き」中央公論社刊

「人魚の嘆き」本文vol,24

人魚の嘆き」VOL,24



貴公子の邸は、人魚が買われてから俄かにひっそりと静かになりました。七人の妾は自分たちの綉房に入れられたきり、主人の前へ召し出される機会を失い、夜な夜な楼上楼下を騒がせた歌舞宴楽の響きも止んで、宮殿に召し使われる人々は皆溜息をつくばかりです。


「あの異人は何という忌ま忌ましい、胡乱(うろん=怪しい)な男だろう。そうして何という奇体な魔物を売りつけて行ったのだろう。今に何かしら間違いがなければいいが。」





彼等は互いに相顧みて囁き合いました。誰一人も、水甕の据えてある内房の張を明けて、人魚の傍へ近寄る者はいませんでした。





近寄る者は主人の貴公子ばかりなのです。ガラスの境界一枚を隔てて、水の中に喘(あえ)ぐ人魚と、水の外に悶える人間とは、終日、黙々と差し向いながら、一人は水の外に出られぬ運命を嘆き、一人は水の中に這入られぬ不自由を恨んで、さびしくあじきなく時を送って行くのでした。





折々、貴公子は遣る瀬無げにガラスの周囲を回って、せめては彼の女に半身なりとも、甕(かめ)の外へ肌を曝(さら)してくれるように頼みます。
しかし人魚は、貴公子が近寄れば近寄るほど、ますます固く肩を屈(こご)めて、さながら物に怖じたように水底(みなぞこ)へひれ伏してしまいます。


夜になると、彼の女の眼から落つる涙は、成る程異人の云ったように真珠色の光明を放って、暗黒な室内に蛍の如く栄々(えいえい)と輝きます。

その青白い明るい雫(しずく)が、点々とこぼれて水中を移動する時、さらでも妖姣(ようこう)な彼の女の肢体は、大空の星に包まれた嫦娥(じょうが)のように浄く気高く、夜陰の鬼火に照らされた幽霊のように凄く悽く(いたく=心に悲しみがこみあげる、の意味)呪わしく、惻々(そくそく)として貴公子の心に迫りました。


引用書籍
陳舜臣「人魚の嘆き」中央公論社刊

「人魚の嘆き」本文vol,23

「人魚の嘆き」VOL,23


貴公子は熱心のあまり、異人の足下にひざまづいて、外套の裾を捕えながら、気が狂ったように説き立てました。すると異人は、薄気味の悪い微笑をもらして、貴公子の言葉を遮って云うのに、

「いやいや私は、むしろあなたが南京へ留まって、出来るだけ長く、哀れな人魚を愛してやることを、あなたのために臨みます。





たとえ欧羅巴の人間が、いか程美しい肌と顔とを持っていても、彼らは恐らく、この水甕の人魚以上にあなたを満足させることは出来ますまい。

この人魚には、欧羅巴人の理想とするすべての崇高と、すべての端麗とが具体化されているのです。あなたは此処に、この」生き物の姚冶(ようや)な姿に、欧羅巴人の詩と絵画との精髄をご覧になることが出来るのです。

この人魚こそは欧羅巴人の肉体が、あなたの官能を楽しませ、あなたの霊魂を酔わせ得る、『美』の絶頂を示しております。
あなたは彼の女の本国へ行っても、これ以上の美を求めることはできないでしょう。・・・・・・・・・」





その時、異人は何と思ったか、眉宇の間に悲しげな表情を浮かべて、嗟嘆するような調子になって、急に話題を転じました。


「そうして私はくれぐれも、あなたの幸福と長寿とを祈ります。私はあなたが、既に彼の女を恋していることを知っているのです。

人魚の恋を楽しむ者には早く禍が来るという、私の国の伝説を、あなたが実際に打ち破って下さることを祈るのです。

私は人魚の代償として、あなたの大切な命までも戴こうとは思いません。もしも私が、再び亜細亜の大陸を訪問する日のあった時、幸いあなたにお目にかかれたら、その折にこそ私はあなたをお連れ申して上げましょう。

・・・・・・・・・けれどもそれは、・・・・・・・・・けれどもそれは、・・・・・・・・・私はあなたがお気の毒でならないような気がします。」

云うかと思うと、異人は又も慇懃(いんぎん)な稽首の礼を施して、人魚の代わりに、山の如く積み上げた宝物の車を、以前の驢馬に曳かせながら、庭先の闇へ姿を消してしまいました。


引用書籍
谷崎潤一郎「人魚の嘆き」中央公論社刊

「人魚の嘆き」本文vol,22

「人魚の嘆き」VOL,22


いかにも彼の云う通り、人魚と彼とは、容貌のうちに相似た特質のあることを、疾(と)うから貴公子は心付いていたのでした。賛嘆の程度こそ違え、彼は人魚に魅せられたように、この異人の人相にも少なからず感興を唆(そそ)られていたのです。


その男には人魚のような、圓満と繊姸(せんけん=ほっそりとして美しい。)とがないまでも、やがて其処へ到達し得る可能性が含まれているのです。





その男は、支那の国土に住んでいる、黄色い肌と、浅い顔とを持った人間に比較して、むしろ人魚の種族に近い生き物らしく思えました。


小さな汽船で、世界中の大洋を乗り回す西洋人はともかくも、その頃まで地の表面を「時間」と等しく無限な物と信じていた東洋の人間には、千里二千里の土地を行くのが、ほとんど百年二百年の時を生きるのと同じように、無事であると考えられていたのでした。





まして亜細亜の大国に育った貴公子は、さすがに好奇心の強い性癖を持ちながら、遥かな西の空にある欧羅巴という所を、鬼か蛇の棲む蛮界のように想像して、ついぞこれまで海外へ出て見ようなどと思ったことはないのです。

然るに今、生まれて始めて、しみじみと西洋人の風貌に接し、その
郷国の模様を聴いて、どうしてその儘(まま)黙っていることが出来ましょう。





「私は西洋というところを、そんなに貴い麗しい土地だとは知らなかった。お前の国の男たちが、悉くお前のような高尚な輪郭を持ち、お前の国の女たちが、悉く人魚のような白ル(はくせき)の皮膚を持っているなら、欧羅巴は何という浄い、慕わしい天国であろう。

どうぞ私を人魚と一緒に、お前の国へ連れて行ってくれ。そうして其処に住んでいる、優越な種族の仲間入りをさせてくれ。


私は支那の国に用はないのだ。南京の貴公子として世を終るより、お前の国の賤民となって死にたいのだ。
どうぞ私の頼みを聴いて、お前の乗る船へ伴ってくれ。」



引用書籍
陳舜臣著「人魚の嘆き」中央公論社刊




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