2021年01月15日
「人魚の嘆き」本文vol,27
「お前がそのように南欧の海を慕うのは、きっとお前に恋人があるからだろう。地中海の波の底に、同じ人魚の形を持った美しい男が、夜昼お前を待ち焦がれているのだろう。
そうでなければ、お前はそんなに私を厭う筈がない。情(つれ)なくも私の恋を振り捨てて、故郷へ帰る道理がない。」
貴公子が恨みの言葉を述べる間、人魚は殊勝気に瞑目して首(こうべ)をうなだれ、耳を傾けていましたが、やがてしなやかな両手を伸ばしつつ、シッカリと貴公子の肩を捕えました。
「ああ、あなたのような世に珍しい貴(あで)やかな若人を、私がどうして忌み嫌うことが出来ましょう。どうして私が、あなたを恋せずにいられるような、無情な心を持っているでしょう。私があなたに焦がれている証拠には、どうぞ私の胸の動悸を聞いて下さい。」
人魚はひらりと尾を翻して、水瓶の縁へ背を托したかと思う間もなく、上半身を弓の如く仰向きに反らせながら、滴々と雫の落ちる長髪を床に引き擦り、樹に垂れ下がる猿のように下から貴公子の項(うなじ)を抱えました。
すると不思議や、人魚の肌に触れている貴公子の襟首は、さながら氷をあてられたような寒さを覚えて、見る見るうちに其処が凍えて痺れて行くのです。
人魚の彼を抱き緊(し)める力が、強くなれば強くなる程、雪白の皮膚に含まれた冷水の気は、貴公子の骨に沁み入り髄を徹して、紹興酒の酔いに熱した総身を、忽ち無感覚にさせてしまいます。
そのつめたさに耐えかねて、あわや貴公子が凍死しようとする一刹那、人魚は彼の手首を抑えて、それを徐ろに彼の女の心臓の上に置きました。
引用書籍
谷崎潤一郎「人魚の嘆き」中央公論社刊
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