2021年01月15日
「人魚の嘆き」本文vol,24
「人魚の嘆き」VOL,24
貴公子の邸は、人魚が買われてから俄かにひっそりと静かになりました。七人の妾は自分たちの綉房に入れられたきり、主人の前へ召し出される機会を失い、夜な夜な楼上楼下を騒がせた歌舞宴楽の響きも止んで、宮殿に召し使われる人々は皆溜息をつくばかりです。
「あの異人は何という忌ま忌ましい、胡乱(うろん=怪しい)な男だろう。そうして何という奇体な魔物を売りつけて行ったのだろう。今に何かしら間違いがなければいいが。」
彼等は互いに相顧みて囁き合いました。誰一人も、水甕の据えてある内房の張を明けて、人魚の傍へ近寄る者はいませんでした。
近寄る者は主人の貴公子ばかりなのです。ガラスの境界一枚を隔てて、水の中に喘(あえ)ぐ人魚と、水の外に悶える人間とは、終日、黙々と差し向いながら、一人は水の外に出られぬ運命を嘆き、一人は水の中に這入られぬ不自由を恨んで、さびしくあじきなく時を送って行くのでした。
折々、貴公子は遣る瀬無げにガラスの周囲を回って、せめては彼の女に半身なりとも、甕(かめ)の外へ肌を曝(さら)してくれるように頼みます。
しかし人魚は、貴公子が近寄れば近寄るほど、ますます固く肩を屈(こご)めて、さながら物に怖じたように水底(みなぞこ)へひれ伏してしまいます。
夜になると、彼の女の眼から落つる涙は、成る程異人の云ったように真珠色の光明を放って、暗黒な室内に蛍の如く栄々(えいえい)と輝きます。
その青白い明るい雫(しずく)が、点々とこぼれて水中を移動する時、さらでも妖姣(ようこう)な彼の女の肢体は、大空の星に包まれた嫦娥(じょうが)のように浄く気高く、夜陰の鬼火に照らされた幽霊のように凄く悽く(いたく=心に悲しみがこみあげる、の意味)呪わしく、惻々(そくそく)として貴公子の心に迫りました。
引用書籍
陳舜臣「人魚の嘆き」中央公論社刊
貴公子の邸は、人魚が買われてから俄かにひっそりと静かになりました。七人の妾は自分たちの綉房に入れられたきり、主人の前へ召し出される機会を失い、夜な夜な楼上楼下を騒がせた歌舞宴楽の響きも止んで、宮殿に召し使われる人々は皆溜息をつくばかりです。
「あの異人は何という忌ま忌ましい、胡乱(うろん=怪しい)な男だろう。そうして何という奇体な魔物を売りつけて行ったのだろう。今に何かしら間違いがなければいいが。」
彼等は互いに相顧みて囁き合いました。誰一人も、水甕の据えてある内房の張を明けて、人魚の傍へ近寄る者はいませんでした。
近寄る者は主人の貴公子ばかりなのです。ガラスの境界一枚を隔てて、水の中に喘(あえ)ぐ人魚と、水の外に悶える人間とは、終日、黙々と差し向いながら、一人は水の外に出られぬ運命を嘆き、一人は水の中に這入られぬ不自由を恨んで、さびしくあじきなく時を送って行くのでした。
折々、貴公子は遣る瀬無げにガラスの周囲を回って、せめては彼の女に半身なりとも、甕(かめ)の外へ肌を曝(さら)してくれるように頼みます。
しかし人魚は、貴公子が近寄れば近寄るほど、ますます固く肩を屈(こご)めて、さながら物に怖じたように水底(みなぞこ)へひれ伏してしまいます。
夜になると、彼の女の眼から落つる涙は、成る程異人の云ったように真珠色の光明を放って、暗黒な室内に蛍の如く栄々(えいえい)と輝きます。
その青白い明るい雫(しずく)が、点々とこぼれて水中を移動する時、さらでも妖姣(ようこう)な彼の女の肢体は、大空の星に包まれた嫦娥(じょうが)のように浄く気高く、夜陰の鬼火に照らされた幽霊のように凄く悽く(いたく=心に悲しみがこみあげる、の意味)呪わしく、惻々(そくそく)として貴公子の心に迫りました。
引用書籍
陳舜臣「人魚の嘆き」中央公論社刊
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