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2021年01月22日

江戸川乱歩「生腕」本文vol,5(全8記事)

「一寸法師」生腕VOL,5



彼らはやがて吾妻橋にさしかかった。昼間の雑踏に引きかえて、橋の上にはほとんど人影がなく、鉄の欄干が長々と見えていた。ときどき自動車が橋をゆすって通り過ぎた。

それまではわき目もふらず急いでいた不具者が、橋の中ほどでふと立ち止まった。そして、いきなりうしろを振り返った。十軒ばかりのところを尾行していた紋三は、この不意打ちにあって、ハッとうろたえた。

見通しの橋の上なので、とっさに身を隠すこともできず、仕方がないので、普通の通行人をよそおって、歩行を続けて行った。だが一寸法師は明らかに尾行をさとった様子だった。

彼はその時ちょっとふところに手をいれて、例の包み物を出しかけたのだが、紋三の姿を発見すると、あわてて手を引っ込め、何食わぬ顔をして、また歩き出した。

「やっこさん、あの腕を河の中へ捨てるつもりだったな。」
紋三はいよいよ唯ごとでないと思った。
彼はかつて古来の死体隠匿方法に関する記事を読んだことがあった。

そこには、殺人者は往々にして死体を切断するものだと書いてあった。一人で持ち運びするためには、死体を六個または七個の断片にするのが最も手ごろだとも書いてあった。

そして、頭はどこの敷石の下にうずめ、胴はどこの水門に捨て、足はどこの溝にほうりこんだというような犯罪の実例が、たくさん並べてあった。

それによると、彼らは死体の断片を、なるべく遠いところへ別々にかくしたがるものらしかった。
彼は相手にさとられたかと思うと少しこわくなってきたけれど、そのまま尾行をあきらめる気にはどうしてもなれないので、前より一層間隔を遠くして、ビクビクもので一寸法師の跡をつけた。


吾妻橋を渡り切ったところに交番があって、赤い電灯の下に一人の制服巡査がぼんやりと立ち番をしていた。それを見ると、彼はいきなりそこへ走り出しそうにしたが、ふとあることを考えて踏みとどまった。

いま警察に知らせてしまうのは、あまりに惜しいような気がしたのだ。彼のこの尾行は、決して
正義のためにやっているのではなく、何かしら異常なものを求める、はげしい冒険心に引きずられているに過ぎないのだった。

もっと突き進んで行って、血みどろな光景に接したかった。そればかりか、彼は犯罪事件の渦中に巻き込まれることさえいとわなかった。臆病者のくせに、彼一方では、命知らずな捨て鉢なところがあった。


彼は交番を横目で見て、少し得意にさえなりながら、なおも尾行を続けた。一寸法師は大通りから中の郷のごみごみした裏道へはいって行った。その辺は貧民窟などがあって、東京にもこんなところがあったかと思われるほど、複雑な迷路をなしていた。

相手はそこを幾度となく折れ曲がるので、まします尾行が困難になるばかりだ。紋三は交番から三丁も歩かぬうちにもう後悔しはじめていた。片側は真っ暗に戸を閉めた人家、片側はまばらな杉垣でかこまれた墓地であった。


たった一つ五燭の街燈が、倒れた石碑などを照らしていた。そこを頭でっかちの怪物がヒョコヒョコと急いでいる有様は、何だかほんとうらしくなかった。今夜の出来事は最初から夢のような気がした。
今にもだれかが「オイ、紋三さん、紋三さん。」と揺り起こしてくれるのではないかと思われた。


一寸法師は尾行者を意識しているのか、どうか、長いあいだ一度もうしろを見なかった。しかし、紋三の方では充分用心して、相手が一つの曲がり角を曲がるまでは、姿を現さないようにして、軒下から軒下を伝って行った。


引用書籍
江戸川乱歩「一寸法師」講談社刊



江戸川乱歩「生腕」本文vol,4(全8記事)

「一寸法師」生腕 VOL,4


紋三は一寸法師にならって、長い間二人から目を離さなかった。
やがて洋服は「アーア」と伸びと一緒に立ち上がったかと思うと、紋三たちの紋三たちの方をジロジロながめながら不思議なことには、再び同じベンチに、太った男とほとんどすれすれに腰をおろした。

太った男はそれを感じると、ちょっと洋服の方を見て、すぐに元の姿勢に返った。そして、頭の毛の薄くなった四十男が、何か恥ずかしそうな嬌態を示した。

洋服が突然猿臂(えんぴ)を伸ばして、まったくえんぴという感じだった、太った男の手をとった。
そしてまた、しばらくボソボソとささやき合うと、彼らは気をそろえて、ベンチから立ち上がり、ほとんど腕を組まんばかりにして山を降りて行くのだった。

紋三は寒気を感じた。妙な比喩だけれども、いつか衛生博覧会で、蝋細工の人体模型を見た時に感じた寒気とよく似ていた。不快とも、恐怖ともたとえようのない気持だった。

そしてもっといけないのは、彼の前の薄暗いところで、例の一寸法師が、降りて行った二人の跡を見送りながら、クックッといつまでも笑っていた。紋三はいくらもがいてものがれることのできない悪夢の世界にとじこめられたような気持がした。

耳のところでドドドドドと、海の遠鳴りみたいなものが聞こえていた。しばらくすると、一寸法師は滑稽な身振りでベンチから降り、ヒョコヒョコと彼の方へ近づいてきた。

紋三は何かはなしかけられるのではないかと、思わず身をかたくしたが、幸い彼の腰かけていた場所は大きな樹の幹のかげになっていたために、相手はそこに人間のいることさえ気づかぬらしく、彼の前を素通りして、一方の降り口の方へ歩いて行くのだった。





だがそうして彼の前を二、三歩通り過ぎたとき、一寸法師の懐中から何か黒いものがころがり落ちた。繻子の風呂敷で包んだ、一尺ばかりの細長い品物だったが、風呂敷の一方がほぐれて少しばかり中身がのぞいていた。

それは明らかに、青白い人間の手首であった。きゃしゃな五本の指が断末魔の表情で空をつかんでいた。
不具者は、たれも見る者がないと思ったのか、別段あわてもしないで、包み物を拾い上げ、懐中にねじ込むと、急ぎ足に立ち去った。





紋三は一瞬間ぼんやりしていた。一寸法師が人間の腕を持っているのは、ごく普通のことのような気がした。
「ばかなやつだな、大事そうに死人の腕なんか、ふところに入れてやあがる。」何だか滑稽な気がした。


だが次の瞬間には、彼は非常に興奮していた。奇怪な不具者と人間の腕という取り合わせが、ある血みどろの光景を連想させた。彼はやにわに立ち上がって、一寸法師の跡を追った。





音のしないように注意して石段を降りると、すぐ目の前に畸形児の後ろ姿が見えた。彼は先方に気づかれぬように、適度の間隔を保って尾行して行った。


紋三はそうして尾行しながら、何だか夢を見ているような気持だった。暗いところで一寸法師が突然振り返って、「バア。」と言いそうな気がした。だが、何か妙な力が彼を引っ張って行った。

どういうものか、一寸法師の後ろ姿から目をそらすことができなかった。一寸法師はチョコチョコと小きざみに、存外早く歩いた。暗い細道をいくつか曲がって、観音様のお堂を横切り、裏道伝いに吾妻橋の方へ出て行くのだ。

なぜかさびしいところさびしいところと選(え)って通るので、ほとんどすれ違う人もなく、ひっそりとした夜更けの往来を、たった一人で歩いている一寸法師の姿は、いっそう妖怪じみて見えた。



引用書籍
江戸川乱歩「一寸法師」生腕 講談社刊



江戸川乱歩「生腕」本文vol,3(全8記事)

「一寸法師」VOL,3




もう大分以前に映画館などもはねてしまって、はなやかなイルミネーションはおおかた消えていた。広い公園にはまばらな常夜燈の光があるばかりだった。盛りどきにはどこまでも響いてくる木馬館の古風な楽隊や、映画街の人の、ざわめきなども、すっかりなくなっていた。

盛り場だけに、この公園の夜更けは、いっそうものさびしく、変てこな凄みさえ感じられた。腕時計はほとんど十二時をさしていた。


彼は腰をおろすと、それとなく先客たちを観察しはじめた。一つのベンチには、口ひげをたくわえたしかつめらしい洋服の男。一つのベンチには、帽子をかぶらぬ、肴屋の親方とでもいった遊び人風の男。そしてもう一つのベンチには、ハッとしたことには、さいぜんの奇怪な一寸法師めが、ツクネンと腰かけていたのである。





「きゃつめ、さっきから影のように、おれの跡へくっついていたのではないかしら。」
紋三はなぜか、ふとそんなことを思った。変に薄気味が悪かった。

その上都合の悪いことには、常夜燈がちょうど紋三の背後にあって、そこの樹の枝を通して、一寸法師のまわりだけを照らしていたので、この畸形児の全身が実にはっきりとながめられた。



モジャモジャした、濃い髪の毛の下に、異様に広い額があった。顔色の土気色をしているのと、口と目がつり合いを失してばかに大きいのが目立っていた。

それらの道具が、たいていは、さもおとならしく取り澄ましているのだが、どうかすると、とつぜんけいれんのように、顔じゅうの筋(すじ)ばることがあった。

何か不快を感じて顔をしかめるようでもあったし、取りようによっては苦笑しているのかとも思われた。そのとき、顔全体が足を伸ばした女郎蜘蛛の感じを与えた。






荒いかすりの着物を着て、腕組みしているのだが、肩幅の広い割に手が非常に短いため、両方の手首が、二の腕まで届かないで、胸の前に刀を切結んだ形で、チョコンと組み合わさっていた。

からだ全体が頭と胴でできていて、足などはほんの申訳に着いているようだった。高い朴歯の足駄をはいた太短い脚が、地上二、三寸のところでブラブラしていた。


紋三は彼自身の顔が蔭になっているのを幸い、まるで見世物を見るような気持ちで相手をながめた。はじめのあいだはいくぶん不快であったけれど、見ているうちに、彼はこの怪物にだんだん魅力を感じてきた。

おそらく曲馬団にでも勤めているのだろうが、こんな不具者は、あの鉢のひらいた大頭の中に、どのような考えを持っているのかと思うと、変な気がした。





一寸法師はさっきから、妙な盗むような目つきで、一方を見続けていた。その目を追って行くと、かげになった方のベンチに掛けている二人の男に注がれていることがわかった。洋服紳士と遊び人風の男とが、いつの間にか同じベンチに並んでボソボソ話し合っていた。


「存外暖かいですね。」
洋服が口髭をなでながらふくみ声で言った。
「へエ、この二、三日、大分お暖かで。」
遊び人風のが小さい声で答えた。二人は初対面らしいのだが、なんとなく妙な組み合わせだった。





年配は二人とも四十近く見えたけれど、一方は小役人といったようなしかつめらしい男で、一方は純粋の浅草人種なのだ。それが、電車もなくなろうというこの夜更けに、のんきそうに気候のはなしなどしているのは、いかにも変だった。

彼らはきっと、お互いに何かの目論見があるのだ。紋三はだんだん好奇心の高まるのを感じた。
「どうだね、景気は。」
洋服は、相手の男のよく太ったからだを、ジロジロながめ廻しながら、どうでもよさそうに尋ねた。

「そうですね。」
太った男は、膝の上に両肘をついて、その上に首をたれて、モゾモゾと答えた。そんなつまらない会話が、しばらく続いていた。



引用書籍
江戸川乱歩「一寸法師」講談社刊

江戸川乱歩「生腕」本文vol,2(全8記事)


「一寸法師」生腕VOL,2


十歳ぐらいの子供の胴体の上に、借り物のような立派やかなおとなの顔がのっかっていた。それが生人形のようにすまし込んで彼を見返しているのだ。はなはだ滑稽にも奇怪にも感じられた。


彼はそんなにジロジロながめては悪いような気がした。それにいくらかこわくもあったので、なにげなく歩き出した。振り返って見るのもはばかられた。

それから、彼はいつものように、広っぱから広っぱへと歩き廻った。気候がいいので、どこのベンチもふさがっていた。たいていは一つのベンチを一人で占領して、洗いざらしたはっぴ姿などが、長々と横たわっていた。

中にはもういびきをかいて、泥のように熟睡しているものもあった。初心の浮浪人は巡査の目を恐れてベンチを避け、鉄柵の中の暗い茂みを寝床にしていた。





その間を奇怪な散歩者が歩くのだった。寝床を探す浮浪人、刑事、サーベルをガチャガチャいわせて、三十分ごとに巡回する制服巡査、紋三と同じような猟奇者などがそのおもなものであったが、ほかにそれらのいずれにも属しない一種異様の人種があった。

彼らはちょっとその辺のベンチに腰をおろしたかと思うと、じきに立ち上がって同じ道をいくどとなく往復した。そして木立のあいだの暗い細道などでほかの散歩者に出会うと、意味ありげに相手の顔をのぞきこんで見たり、自分でもそれを持っているくせに、相手のマッチを借りてみたりした。





彼らはきわめてきれいに髭をそって、つるつるした顔をしていた。縞の着物に角帯などしめているのが多かった。紋三は以前からこれらの人物に一種の興味を感じていた。

どうかして正体をつきとめたいと思った。彼らのあるきっぷりなどから、あることを想像しないでもなかったが、それにしては、みな三十、四十のきたならしい年寄りなのが変だった。





屋根付きの東屋風の共同ベンチのそばを通りかかると、その奥の暗いところで喧嘩らしい人声がした。この公園の浮浪人どもは存外意気地なしで、あぶなげがないと考えていた紋三は、ちょっと意外な気がした。

で、やや逃げ腰になりながら、すかして見ると、それはやっぱり喧嘩ではなく、一人の洋服姿の紳士が警察官に引きすえられているのだった。

二こと三ことどなっているうちに、紳士はなんなく腰縄をかけられてしまった。二人はむごんのまま仲良く押し並んで鋼板の方へ歩いて行った。紳士は、でも、歩きながら春外套で縄を隠していた。




真っ暗な公園には彼らの跡を追う野次馬もいなかった。同じベンチに一人の労働者風の男が、何事もなかったかのように、ぼんやりと考え事をしていた。


紋三は不規則な石段をあがって、ある丘に出た。まばらな木立にかこまれた十坪ほどの平らな部分に、三、四脚のベンチが並んで、そこにポツリポツリと銅像か何かのように、三人の無言の休息者が点在していた。

ときどき赤く煙草の火が光るばかりで、だれも動かなかった。紋三は勇気を出して、そのうちの一つのベンチへ腰をおろした。



引用書籍
江戸川乱歩「一寸法師」講談社刊

江戸川乱歩「生腕」本文vol,1(全8記事・講談社刊)


「一寸法師」生腕VOL,1


小林紋三(もんぞう)はフラフラに酔っぱらって安来節の御園館を出た。不思議な合唱が、舞台の娘たちの死に物狂いの高調子と、それに呼応する見物席のみごとな怒号が、ワンワンと頭をしびらせ、小屋を出てしまってもちょうど船酔いの感じで足元をフラフラさせた。

その辺に軒を並べている夜店の屋台がドーッと彼の方へ押し寄せてくるような気がした。彼は明るい大通りを、なるべく往来の人たちの顔を見ないように、あごを胸につけてトットと公園の方へ歩いた。

もしその辺に友達が散歩していて、彼が安来節の定席からコソコソと出てくるところを見られでもしたらと思うと、気が気でなかった。ひとりでに歩調が早まった。


半町も歩くと薄暗い公園の入り口だった。そこの広い四つ辻を境にしてひと足はマバラになっていた。紋三は池の鉄柵のところに出ているおでん屋の赤い行燈(あんどん)で、腕時計をしかして見た。もう十時だった。





「さて帰るかな、だが帰ったところで仕方がないな。」
彼は部屋を借りている家のヒッソリした空気を思い出すと、なんだか帰る気がしなかった。それに春の夜の浅草公園が異様に彼をひきつけた。彼は歩くともなく、帰り道とは反対に、公園の中へとはいって行った。


この公園は歩いても歩いても、見つくすことのできない不思議な魅力を持っていた。ふとどこかのすみっこで、とんでもない事柄に出っくわすような気がした。何かしらすばらしいものが発見できそうにも思われた。






彼は公園を横断するまっ暗な大通りを歩いて行った。右の方はいくつかの広っ場(ぱ)を包んだ林、左側は小さな池にそっていた。池ではときどきポチャんポチャンと鯉のはねる音がした。藤棚を天井にしたコンクリートの小橋が薄白く見えていた。


「大将、大将。」
気が付くと右の方の闇の中から誰かが彼を呼び掛けていた。妙に押し殺したような声だった。
「なに。」
紋三はホールド・アップにでも出っくわしたほど大袈裟に驚いて、思わず身構えをした。





「大将、ちょっとちょっと、他人にいっちゃあいけませんよ、ごく内でですよ、これです、すてきに面白いのです、五十銭奮発してください。」
縞の着物に鳥打帽の三十恰好の男がニヤニヤしながら寄り添ってきた。


「ソレ、なんです。」
「エへへへへへ御存知のくせに、決して誤魔化しものじゃありませんよ、そらね。」
男はキョロキョロとあたりを見回してから、一枚の紙片を遠くの常夜灯にすかして見せた。
「じゃあもらいましょう。」


紋三はそんなものを欲しいわけではなかったけれど、ふともの好きな出来心から五十銭銀貨とその紙片とを交換した。そしてまた歩き出した。
「今夜は幸先がいいぞ。」
臆病なくせに冒険好きな彼の心はそんなことを考えていた。


もうへべれけに酔っ払った吉原帰りのお店者らしい四、五人連れが、肩を組んで、調子はずれの都都逸をどなりながら通り過ぎた。紋三は共同便所のところから右に折れて、広っ場(ぱ)の方へはいって行った。

そこの隅々に置かれた共同ベンチには、いつものように浮浪人たちが寝支度をしていた。ベンチのそばには、どれもこれもおびただしいバナナの皮が踏みにじられていた。浮浪人たちの夕食なのだ。中には二、三人で近くの料理屋からもらってきた残飯を分け合っているのもあった。高い常夜燈がそれらの光景を青白くうつし出していた。

彼がそこを通り抜けようとして二、三歩進んだ時、かたわらの暗の中にもののうごめく気配を感じた。見ると暗いためによくはわからぬけれど、何かしら普通でない非常にへんてこな感じのものがそこにたたずんでいた。


紋三は一瞬間不思議な気持ちがした。頭がどうかしたのではないかと思った。だが、目が闇になれるにしたがって、だんだん相手の正体がわかってきた。そこにたたずんでいたのは、可哀そうな一寸法師だった。


引用書籍
江戸川乱歩「一寸法師」講談社刊


2021年01月21日

「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,18


「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,18




が、ナオミのために田舎から送ってよこしたのは、女中を寝かす夜具でしたから、お約束の唐草模様のごわごわした木綿の煎餅布団でした。



私はなんだか可哀そうな気がしたので、

「これではちょっとひど過ぎるね、僕の蒲団と一枚取り換えてあげようか」

と、そう言いましたが、



「ううん、いいの、あたしこれで沢山」

と言って、彼女はそれを引っ被って、独り寂しく屋根裏の三畳の部屋に寝ました。



私は彼女の隣の部屋、同じ屋根裏の、四畳半の方へ寝るのでしたが、毎朝毎朝、眼をさますと私たちは、向うの部屋とこちらの部屋とで、蒲団の中に潜りながら、声を掛け合ったものでした。



「ナオミちゃん、もう起きたかい」

と、私が言います。



「ええ、起きてるわ、今もう何時?」

と、彼女が応じます。



「六時半だよ、今朝は僕がおまんまを炊いて上げようか」

「そう?昨日あたしが炊いたんだから、今日は譲治さんが炊いてもいいわ」



「じゃ仕方がない、炊いてやろうか。面倒だからそれともパンで済ましとこうか」

「ええ、いいわ、だけど譲治さんは随分ずるいわ」



引用書籍

谷崎潤一郎「痴人の愛」

角川文庫刊




次回に続く。


「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,17


「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,17



勿論私の郷里の方へも、今度下宿を引き払って一軒家を持ったこと、女中代わりに十五になる少女を雇い入れた事、などを知らせてやりましたけれど、彼女と「友達の様に」暮らすとは言ってやりませんでした。



国の方から身内の者が訪ねて来ることはめったにないのだし、いずれそのうち、知らせる必要が起こった場合には知らせてやろうと、そう考えていたのです。



私たちは暫くの間、この珍しい新居にふさわしいいろいろの家具を買い求め、それらをそれぞれ配置したり飾り付けたりするために、忙しい、しかし楽しい月日を送りました。



私はなるべく彼女の朱みうを啓発するように、ちょっとした買い物をするのにも自分一人では決めないで、彼女の意見を言わせるようにし、彼女の頭から出る考えを出来るだけ採用したものですが、元々箪笥だの長火箸だのと言う様な、ありきたりの世帯道具は置き所の無い家で在るだけ、従って選択も自由であり、どうでも自分らの好きなように意匠を施せるのでした。



わたしたちは印度更紗の安物を見つけて来て、それをナオミが危なっかしい手つきで縫って窓かけに作り、芝口の西洋家具屋から古い籐椅子だの、テーブルだのを捜して来てアトリエに並べ、壁にはメリー・ピクフォードを始め、アメリカの活動女優の写真を二つ三つ吊るしました。



そして私は寝道具なども、出来る事なら西洋流にしたいと思ったのですけれど、ベッドを二つも買うとなると入費がかかるばかりでなく、夜具蒲団なら田舎の家から送ってもらえる便宜が在るので、とうとうそれはあきらめなければなりませんでした。





引用書籍

谷崎潤一郎「痴人の愛」

角川文庫刊




次回に続く。













































































2021年01月20日

「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,16


「痴人の愛」本文 vol,16



ナオミは最初この家の「風景」を見ると、

「まあ、ハイカラだこと!あたしこういう家がいいわ」



と、大そう気に入った様子でした。

そして私も、彼女がそんなに喜んだのですぐ借りることに賛成したのです。



多分ナオミは、その子供らしい考えで、間取りの具合など実用的でなくっても、お伽噺の挿絵のような、一風変わった様式に好奇心を感じたのでしょう。確かにそれは呑気な青年と少女とが、なるたけ所帯じみない様に、遊びの心持ちで住まおうというにはいい家でした。



前の絵かきとモデル女もそういうつもりでここに暮らしていたのでしょうが、実際立った二人でいるなら、あのアトリエの一間だけでも、寝たり起きたり食ったりするには十分用が足りたのです。



                以上、「第二章」完







◆◆第三章◆◆



私がいよいよナオミを引き取って、その「お伽噺」の家へ移ったのは、五月下旬の事でしたろう。

入って見ると、思ったほどに不便でもなく、日当りのいい屋根裏の部屋からは海が眺められ、南を向いた前の空き地は花壇を作るのに都合が好く、家の近所を時々省線の電車が通るのが瑕(きず)でしたけれど、間にちょっとした田んぼが在るのでそれもそんなにやかましくはなく、先ずこれならば申し分のない住まいでした。



のみならず、何分そういう普通の人にハ不適当な家でしたから、思いのほかに家賃が安く、一般に物価が安いあの頃の事ではありましたが、敷金なしの月々二十圓というので、それも私には気に入りました。



「ナオミちゃん、これからお前は私の事を『河合さん』と呼ばないで、『譲治さん』とお呼び。そしてほんとに友達の様に暮らそうじゃないか」

と、引っ越した日に私は彼女に言い聞かせました。





引用書籍

谷崎潤一郎作「痴人の愛」

角川文庫刊



次回に続く。


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「痴人の愛」本文 角川文庫刊 vol,15


「痴人の愛」本文 角川文庫刊 vol,15





浅草の千束町(せんぞくまち)のような、安アゴミゴミした路地の中に育ったので、帰ってナオミは反動的に広々とした田園を慕い、花を愛する習慣になったのでありましょうか。



菫、たんぽぽ、げんげ、桜草、そんなモノでも畑の畔や田舎道などに生えていると、忽ちチョコチョコと駆けて行って摘もうとする。

そして終日歩いているうちに彼女の手には摘まれた花が一杯になり、幾つとも知れない花束が出来、それを大事に帰り道まで持ってきます。



「もうその花はみんなしぼんでしまったじゃないか、好い加減に捨てておしまい」

そう言っても彼女はなかなか承知しないで、



「大丈夫よ、水をやったら又すぐ生きッ返るから、河合さんの机の上に置いたらいいわ」

と、別れる時にその花束をいつも私にくれるのでした。



こうして方々探し回っても容易にいい家が見つからないで、散々迷いぬいたあげく、結局私たちが借りることになったのは、大森の駅から十二三町行った所の省線電車の線路に近い、とある一軒の甚だお粗末な洋館でした。



所謂「文化住宅」という奴、まだあの時分はそれがそんなにはやってはいませんでしたが、近頃の言葉で言えばさしずめそう言ったものだったでしょう。



勾配の急な、全体の高さの半分以上もあるかと思われる、紅いストレートで葺いた屋根。

マッチの箱の様に白い壁で包んだ外側、ところどころに切ってある長方形のガラス窓。

そして正面のポーチの前に、庭と言うよりはむしろちょっとした空き地がある。



と、先ずそんな風な格好で、中に住むよりは絵に画いた方が面白そうな見つきでした。

尤もそれはそのはずなので、もとこの家は何とかいう絵描きが建てて、モデル女を細君にして二人で住んでいたのだそうです。



従って部屋の取り方などは随分不便に出来ていました。

嫌にだだっ広いアトリエと、ほんのささやかな玄関と、台所と、階下にはたったそれだけしかなく、あとは二階に三畳と四畳半とがありましたけれど、それとて屋根裏の物置小屋のような物で、使える部屋ではありませんでした。



その屋根裏へ通うのには、アトリエの室内に梯子段がついていて、そこを上ると、手すりをめぐらした廊下があり、あたかも芝居の桟敷の様に、その手すりからアトリエが見下ろせるようになっていました。



引用書籍

谷崎潤一郎「痴人の愛」

中央公論社文庫刊




次回に続く。













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2021年01月19日

「痴人の愛」本文 角川文庫刊 vol,14


「痴人の愛」本文 角川文庫刊 vol,14



もしもあの時分、うららかな五月の日曜日の朝などに、大森あたりの青葉の多い郊外の路を、肩を並べて歩いている会社員らしい一人の男と、桃割れに結ったみすぼらしい小娘の様子を、誰かが注意していたとしたら、まあどんな風に思えたでしょうか?



男の方は小娘を

「ナオミちゃん」

と呼び、



小娘の方は男を

「河合さん」

と呼びながら、



主従ともつかず、

兄妹ともつかず、



さればと云って夫婦とも友達ともつかぬ格好で、互いに少し遠慮しいしい語り合ったり、番地を訪ねたり、付近の景色を眺めたり、所々の生け垣や、邸の庭や、道端などに咲いている花の色香を振り返ったりして、晩春の長い一日を、あちらこちらと幸福そうに歩いていたこの二人は、定めし不思議な取り合わせだったに違いありません。



花の話で思い出すのは、彼女が大変西洋花を愛していて、私などにはよくわからないいろいろな花の名前、それも面倒な英語の名前をたくさん知っていたことでした。



カフェエに奉公していた時分に、花瓶の花を四十扱付けていたので自然に覚えたのだそうですが、通りすがりの門の中謎に、たまたま音質が在ったりすると、彼女は目ざとくも直ぐ立ち止まって、



「まあ綺麗な花!」

と、さも嬉しそうに叫んだものです。



「じゃ、ナオミちゃんは何の花が一番好きだね?」

と、尋ねてみた時、

「あたし、チューリップが一番好きよ」

と、彼女はそう言ったことがあります。





引用書籍

谷崎潤一郎「痴人の愛」

中央公論社文庫刊



次回に続く。






















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「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,13


「痴人の愛」本文  角川文庫刊 vol,13



私が彼等に持ちかけた相談と云うのは、折角当人も学問が好きだというし、あんなところに長く奉公させておくのも惜しい児のように思うから、そちらでお差支えが無いのなら、どうか私に身柄を預けては下さるまいか。



どうせ私も十分なことは出来まいけれど、女中が一人欲しいと思っていた際でもあるし、まあ台所や拭き掃除の用事くらいはしてもらって、その合間に一通りの教育はさせてあげますが、と、 勿論私の境遇だのまだ独身であることなどをすっかり打ち明けて頼んでみると、



「そうしていただければ誠に当人も幸せでして、・・・・・・」

というような、何だか張り合いが無さすぎるくらいの挨拶でした。

全くこれではナオミのいう通り、会うほどの事は無かったのです。



世の中には随分無責任な親や兄弟もあるものだと、私はその時つくづくと感じましたが、それだけ一層ナオミがいじらしく、哀れに思えてなりませんでした。



何でも母親の言葉によると、彼等はナオミを持て扱っていたらしいので、

「実はこの児は芸者にするつもりでございましたのを、当人の気が進みませんものですから、そういつまでも遊ばせて置く訳にも参らず、よんどころなくカフェエへやって置きましたので」



と、そんな口上でしたから、誰かが彼女を引き取って成人させてくれさえすれば、まあ兎も角も一安心だと言う様な次第だったのです。



ああなるほど、それで彼女は家にいるのが嫌なものだから、公休日にはいつも戸外(おもて)へ遊びに出て、活動写真を見に行ったりしたんだなと、事情を聞いてやっと私もその謎が解けたのでした。



が、ナオミの家庭がそういう風であったことは、ナオミにとっても私にとっても非常に幸いだった訳で、話が決まると直(じ)きに彼女はカフェエから暇を貰い、毎日毎日私と二人で適当な借家を捜しに行きました。



私の勤め先が多い町でしたから、成るべくそれに便利な所を択ぼうというので、日曜日には朝早くから新橋の駅に落ち合い、そうでない日はちょうど会社の退(ひ)けた時刻に大井町で待ちあわせて、蒲田、大森、品川、目黒、主としてあの辺の郊外から、市中では高輪(たかなわ)や田町や三田(みた)辺りを回って見て、さて帰りにはどこかで一緒にご飯を食べ、時間が在れば例の如く活動写真を除いたり、銀座通りをぶらついたりして、彼女は千束町(せんぞくちょう)の家へ、私は芝口の下宿へ戻る。





確かその頃は借家が払底(ふってい=すっかり無い)な時でしたから、手ごろな家がなかなかオイソレと見つからないで、私たちは半月余りもこうして暮らしたものでした。





引用書籍

谷崎潤一郎作「痴人の愛」

角川文庫刊




次回に続く。

















「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,12


「痴人の愛」本文  角川文庫刊 vol,12



何の躊躇するところもなく、言下に答えたキッパリとした彼女の返事に、私は多少の驚きを感じないではいられませんでした。

「じゃ、奉公を止(や)めるというのかい?」



「ええ、止(や)めるわ」

「だけどナオミちゃん、おまえはそれでいいにしたって、おっ母さんや兄さんが何と言うか、家の都合を聞いて見なけりゃならないだろうが」



「家の都合なんか、聞いて見ないでも大丈夫だわ。誰も何とも言う者はありゃしないの」

と、口ではそう言っていたものの、その実彼女がそれを案外気にしていたことは確かでした。



つまり彼女のいつもの癖で、自分の家庭の内幕を私に知られるのが嫌さに、わざと何でもないような素振りを見せていたのです。

私もそんなに嫌がるものを無理に知りたくはないのでしたが、しかし彼女の希望を実現させるためには、やはりどうしても家庭を訪れて彼女の母なり兄なりに篤と相談をしなければならない。



で、二人の間にその後だんだん話が進行するに従い、

「一遍、お前の身内の人に会わしてくれろ」

と、何度もそう言ったのですけれど、



「いいのよ、会ってくれないでも。あたし自分で話をするわ」

と、そういうのが決まり文句でした。



私はここで、今では私の妻となっている彼女のために、「河合夫人」の名誉のために、強いて彼女の不機嫌を買ってまで、当時のナオミの身許や素性を洗い立てる必要はありませんから、なるべくそれには触れないようにして置きましょう。



後で自然と分かって来る時もありましょうし、そうでないまでも彼女の家が千束町(せんぞくまち)にあったこと、十五の歳にカフェエの女給に出されていたこと、そして決して自分の住居(すまい)を人に知らせようとしなかったこと謎を考えれば、大凡(おおよ)そどんな家庭であったかは誰にも想像がつくはずですから。



いや、そればかりではありません、私は結局彼女を説き落として母だの兄だのに会ったのですが、彼等はほとんど自分の娘や妹の貞操ということに就いては、問題にしていないのでした。



                   次回に続く。





































アスカミチル「管理人放送局」

(^_-)-☆アスカミチル
今晩は。

アスカミチル「管理人放送局」
です〜〜〜♬♫♬♫


3チャンネルを
まとめて、
スッキリさせました。光るハート
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https://youtu.be/xjuSfXub7bg

2021年01月18日

「魔術師」本文ラスト vol,36

「魔術師」最終回 VOL,36


「よろしい、よろしい、お前の望みは如何にもお前に適当している。お前は初めから、人間などに生まれる必要はなかったのだ。」

魔術師がからからと笑って、魔法杖で私の背中を一と打ち打つと、見る見る私の両脚には鬖々(さんさん)たる羊の毛が生え、頭には二本の角が現れたのです。

同時に私の胸の中には、人間らしい良心の苦悶が悉く消えて、太陽の如く晴れやかな、海の如く広大な愉悦の情が、滾々(こんこん)として湧き出ました。

暫くの間、私は有頂天になって、嬉しまぎれに舞台の上を浮かれ回っていましたが、程なく私の喜びは、私の以前の恋人によって妨害されました。


私の跡を追いかけながら、あわてて舞台へ上がって来た彼の女は、魔術師に向かってこんなことを云ったのです。

「私はあなたの美貌や魔法に迷わされて、此処へ来たのではありません。私は私の恋人を取り戻しに来たのです。彼(あ)の忌まわしい半羊神(ファウン)の姿になった男を、どうぞ直ちに人間にして返して下さい。


それとももし、返す訳に行かないと云うなら、いっそ私を彼(あ)の人と同じ姿にさせて下さい。たとえ彼(あ)の人が私を捨てても、私は永劫に彼(あ)の人を捨てることが出来ません。

彼(あ)の人が半羊神(ファウン)になったら、私も半羊神(ファウン)になりましょう。
私は飽くまで、彼(あ)の人の行く所へ附いて行きましょう。」


「よろしい、そんならお前も半羊神(ファウン)にしてやる。」
この魔術師の一言と共に、彼の女は忽ち、醜い呪わしい半獣の体に化けたのです。

そうして、私を目がけて驀然(ばくぜん=勢いがとても強い事。)と走り寄ったかと思うと、いきなり自分の頭の角を、私の角にしっかりと絡み着かせ、二つの首は飛んでも跳ねても離れなくなってしまいました。


引用書籍
谷崎潤一郎「魔術師」中央公論社刊

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「魔術師」本文 vol,35

「魔術師」VOL,35


あの時、私の恋人は、私の袖をしっかりと捕らえて、涙をさめざめと流して云いました。
「ああ、あなたはとうとう魔術師に負けてしまったのです。私のあなたを恋する心は、あの魔術師の美貌を見ても迷わないのに、あなたはあの人に誘惑されて、私を忘れてしまったのです。

私を捨てて、あの魔術師に仕えようとなさるのです。あなたはなんという意気地のない、薄情な人間でしょう。」

「私はお前の云う通り、意気地のない人間だ。あの魔術師の美貌に溺れて、お前を忘れてしまったのだ。成る程私は負けたに違いない。しかし私には、負けるか勝つかということよりもっと大切な問題があるのだ。」

こう云う間も、私の魂は磁石に吸われる鉄片のように、魔術師の方へ引き寄せられているのでした。

「魔術師よ、私は半羊神(ファウン)にないたいのだ。半羊神(ファウン)になって、魔術師の玉座の前に躍り狂っていたいのだ。どうぞ私の望みをかなえて、お前の奴隷に使ってくれ。」

私は舞台に駆け上がって、譫言(うわごと)のように口走りました。



引用書籍
谷崎潤一郎「魔術師」中央公論社刊

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「魔術師」本文 vol,34

魔術師」VOL、34


「・・・・・・皆さんは魔の王国に捕虜となることを、そんなに気味悪く思うのですか。人間の威厳や形態というものに、それ程執着する値打ちがあると思うのですか。

あなた方は、私のために変形させられた奴隷たちの境遇を、浅ましいもの、哀れなものと考えるかも知れません。しかし彼らの外見は、たとえ蝶々であり孔雀であり、豹の皮であったり燭台であっても、彼らは未だに人間の情緒と感覚とを失わずにいるのです。

そうして彼らの胸の中(うち)には、あなた方の夢にも知らない、無限の悦楽と歓喜とが、溢れ漲っているのです。彼らの心境がいかに幸福を感じているかは、一遍私の魔術を試したお方には、大概お分かりであろうと思います・・・・・・。」

魔術師がこう云って場内の四方を見回すと、人々は彼の瞳に睨まれて催眠術にかけられることを恐れたのか、皆一度に肩を縮めて膝に突っ伏してしまいました。

すると忽ち、さやさやと鳴る衣擦れの音に連れて、土間の一隅から舞台の方へ歩いて行く微かな女の靴の響きが、深い沈黙の底を破って聞こえたのです。

「・・・・・・魔術師よ、お前は私を定めて覚えているだろう。私はお前の魔術よりも、お前の美貌に迷わされて、昨日も今日も見物に来ました。

お前が私を犠牲者の中へ加えてくれれば、それで私は自分の恋が叶ったものだとあきらめます。どうぞ私を、お前の足に穿いている草鞋(サンダル)にさせてください。」

こういう声に誘われて、おずおずと顔を上げた私は、先刻特等席にいた覆面の婦人が、殉教者の如くひれ伏して、魔術師の前に倒れているのを見出しました。


魔術師の魅力に惑わされて、舞台へふらふらと進み出た男女は、覆面の婦人の後にも数十人ありました。
そうして、ちょうど二十人目の犠牲者っとなる可く、夢中で席を離れたのはかく云う私自身でした。


引用書籍
谷崎潤一郎「魔術師」中央公論社刊



「魔術師」本文 vol,33

「魔術師」VOL,32

その時、まるで石膏の如く強張っていた女人の全身は、忽ち電流を感じたようにもくもくと震え始めたかと思うと、氷の融けた河水の如く彼の女の唇も動き始めて、

「ああ王様、有難うございます。私は今夜美しい孔雀になって、王様の玉座の上に輪を描きつつ、飛び廻りとうございます。」

と、婆羅門の行者が祈祷するように、両手を高く天に掲げて合掌するのです。
魔術師は機嫌よく打ち頷いて、直ちに口の中で呪文を唱え始めました。

十分間という話でしたが、彼の女の五体が全く孔雀の羽毛に蔽われてしまうまでには、五分もかからなかったでしょう。そうして残りの五分間に、肩から上の人間の部分が、次第に孔雀の首へと変わって行くのでした。

この、後の五分間の始まりに、まだうら若い女の顔を持った孔雀が、さも嬉し気な瞳を挙げてほほ笑みつつ、次にはうっとりと眼を眠って眉根を寄せ、だんだん切ない鳥の頭に推移しようとする過程が、全てのうちで最も詩的な光景のように感ぜられました。


引用書籍
谷崎潤一郎「魔術師」中央公論社刊




「魔術師」本文 vol,32

「魔術師」VOL,32

その時、まるで石膏の如く強張っていた女人の全身は、忽ち電流を感じたようにもくもくと震え始めたかと思うと、氷の融けた河水の如く彼の女の唇も動き始めて、

「ああ王様、有難うございます。私は今夜美しい孔雀になって、王様の玉座の上に輪を描きつつ、飛び廻りとうございます。」

と、婆羅門の行者が祈祷するように、両手を高く天に掲げて合掌するのです。
魔術師は機嫌よく打ち頷いて、直ちに口の中で呪文を唱え始めました。

十分間という話でしたが、彼の女の五体が全く孔雀の羽毛に蔽われてしまうまでには、五分もかからなかったでしょう。そうして残りの五分間に、肩から上の人間の部分が、次第に孔雀の首へと変わって行くのでした。

この、後の五分間の始まりに、まだうら若い女の顔を持った孔雀が、さも嬉し気な瞳を挙げてほほ笑みつつ、次にはうっとりと眼を眠って眉根を寄せ、だんだん切ない鳥の頭に推移しようとする過程が、全てのうちで最も詩的な光景のように感ぜられました。


引用書籍
谷崎潤一郎「魔術師」中央公論社刊

「魔術師」本文 vol,31

「魔術師」VOL,31


こう云った時、青白い魔術師の顔にはさも得意気な凄惨な微笑(ほほえみ)が浮かびました。しかも多くの見物人は、彼の不敵な弁舌を聴き、傲慢な態度に接すれば接するほど、だんだん彼に魂を惹きつけられ、征服されて行くような心地がするのです。

やがて魔術師は、その時まで玉座の前で跪いて、彫刻の群像の如くよろよろとして魔術師の前に歩み出で、再び其処に畏まりながら、糸の緩んだ操り人形のように、ぐたりと頭(こうべ)を項垂れました。

「お前は私の奴隷のうちでも、一番私の気に入った、一番可愛らしい女だ。もう五六年、お前が辛抱してさえいれば、私はきっとお前を立派な魔術師にさせてやる。

人間は勿論、神でも悪魔でも及ばないような、世界一の魔法使いにさせてやる。お前はさぞかし、私の家来になったことを幸福に感じているだろう。

人間界の女王になるより、魔の王国の奴隷になる方が、遥かに幸福なことを悟っただろう。」
魔術師は、床(ゆか)に垂れた彼の女の長い髪の毛を、自分の足に踏み敷きながら、反り身になって直立したまま、こんな文句を厳かに云い渡して、

「さあ、これからいつもの変形術を行うのだが、お前は今夜は何になりたい?私はお前が知っている通り、非常に慈悲深い王様だ。

何でもお前の望みのままにさせてやるから、好きなものを言うがいい。」
と、あたかも歓ばしい恩寵を授けるような句調で云いました。



引用書籍
谷崎潤一郎「魔術師」中央公論社刊



「魔術師」本文 vol,30

「魔術師」VOL,30



これは恐らく、誰しも彼の皮膚の色を見た者には当然起こるべき疑いで、その男だか女だかは、決して純白の白人種でも、蒙古人種でも、黒人種でもないのです。

強いて比較を求めたなら、彼の人相や骨格は、世界中での美人の産地と云われているコウカサスの種族に、いくらか近い所があるかも知れません。

けれどももっと適切に形容すると、彼の肉体はあらゆる人種の長所と美点ばかりから成り立った、最も複雑な混血児であるとともに、最も完全な人間美の表象であると云うことができます。

彼は誰に対しても常にエキゾティックな魅力を有し、男の前でも女の前でも、ほしいままに性的誘惑を試みて、彼等の心を蕩(とろ)かしてしまう資格があるのです。

「・・・ところで私は、あらかじめ皆さんにご相談をして置きますが・・・・・」
と、魔術師はなおも言葉を続けました。

「私は先ず試験的に、此処に控えている六人の奴隷を使用して、彼らを一々変形させてご覧に入れます。
しかし私の妖術のいかに神秘な、いかに奇跡的なものであるかを立証するため、私は是非とも満場の紳士淑女が、自ら奮って私の魔術にかかって頂くことを望みます。

既に私がこの公園で興行を開始してから、今晩で二月余りになりますが、その間毎夜のように観客中の有志の方々が、常に多勢、私のために進んで舞台へ登場され、甘んじて魔術の犠牲となって下さいました。

犠牲・・・・・・そうです。それは確かに犠牲です。

貴き人間の姿を持ちながら、私の法力に弄(もてあそ)ばれ、犬となり豚となり、石ころとなり糞土(ふんど)となって、衆人環視のうちに恥を曝す勇気がなければ、この舞台へは来られない筈です。

にも拘わらず、私は毎夜観客席に、奇特な犠牲者を幾人でも発見することが出来ました。中には身分の卑しからぬ貴公子や貴婦人なども密(ひそ)かに犠牲者の間へ加わっておられるという噂を聞きました。

それ故私は、今夜も又例に依って、沢山の有志家が続々と輩出せられることを信じ、且つ誇りとしている次第なのです。」



引用書籍
谷崎潤一郎「魔術師」中央公論社刊




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