2021年01月20日
「痴人の愛」本文 角川文庫刊 vol,15
「痴人の愛」本文 角川文庫刊 vol,15
浅草の千束町(せんぞくまち)のような、安アゴミゴミした路地の中に育ったので、帰ってナオミは反動的に広々とした田園を慕い、花を愛する習慣になったのでありましょうか。
菫、たんぽぽ、げんげ、桜草、そんなモノでも畑の畔や田舎道などに生えていると、忽ちチョコチョコと駆けて行って摘もうとする。
そして終日歩いているうちに彼女の手には摘まれた花が一杯になり、幾つとも知れない花束が出来、それを大事に帰り道まで持ってきます。
「もうその花はみんなしぼんでしまったじゃないか、好い加減に捨てておしまい」
そう言っても彼女はなかなか承知しないで、
「大丈夫よ、水をやったら又すぐ生きッ返るから、河合さんの机の上に置いたらいいわ」
と、別れる時にその花束をいつも私にくれるのでした。
こうして方々探し回っても容易にいい家が見つからないで、散々迷いぬいたあげく、結局私たちが借りることになったのは、大森の駅から十二三町行った所の省線電車の線路に近い、とある一軒の甚だお粗末な洋館でした。
所謂「文化住宅」という奴、まだあの時分はそれがそんなにはやってはいませんでしたが、近頃の言葉で言えばさしずめそう言ったものだったでしょう。
勾配の急な、全体の高さの半分以上もあるかと思われる、紅いストレートで葺いた屋根。
マッチの箱の様に白い壁で包んだ外側、ところどころに切ってある長方形のガラス窓。
そして正面のポーチの前に、庭と言うよりはむしろちょっとした空き地がある。
と、先ずそんな風な格好で、中に住むよりは絵に画いた方が面白そうな見つきでした。
尤もそれはそのはずなので、もとこの家は何とかいう絵描きが建てて、モデル女を細君にして二人で住んでいたのだそうです。
従って部屋の取り方などは随分不便に出来ていました。
嫌にだだっ広いアトリエと、ほんのささやかな玄関と、台所と、階下にはたったそれだけしかなく、あとは二階に三畳と四畳半とがありましたけれど、それとて屋根裏の物置小屋のような物で、使える部屋ではありませんでした。
その屋根裏へ通うのには、アトリエの室内に梯子段がついていて、そこを上ると、手すりをめぐらした廊下があり、あたかも芝居の桟敷の様に、その手すりからアトリエが見下ろせるようになっていました。
引用書籍
谷崎潤一郎「痴人の愛」
中央公論社文庫刊
次回に続く。
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