2021年01月19日
「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,13
「痴人の愛」本文 角川文庫刊 vol,13
私が彼等に持ちかけた相談と云うのは、折角当人も学問が好きだというし、あんなところに長く奉公させておくのも惜しい児のように思うから、そちらでお差支えが無いのなら、どうか私に身柄を預けては下さるまいか。
どうせ私も十分なことは出来まいけれど、女中が一人欲しいと思っていた際でもあるし、まあ台所や拭き掃除の用事くらいはしてもらって、その合間に一通りの教育はさせてあげますが、と、 勿論私の境遇だのまだ独身であることなどをすっかり打ち明けて頼んでみると、
「そうしていただければ誠に当人も幸せでして、・・・・・・」
というような、何だか張り合いが無さすぎるくらいの挨拶でした。
全くこれではナオミのいう通り、会うほどの事は無かったのです。
世の中には随分無責任な親や兄弟もあるものだと、私はその時つくづくと感じましたが、それだけ一層ナオミがいじらしく、哀れに思えてなりませんでした。
何でも母親の言葉によると、彼等はナオミを持て扱っていたらしいので、
「実はこの児は芸者にするつもりでございましたのを、当人の気が進みませんものですから、そういつまでも遊ばせて置く訳にも参らず、よんどころなくカフェエへやって置きましたので」
と、そんな口上でしたから、誰かが彼女を引き取って成人させてくれさえすれば、まあ兎も角も一安心だと言う様な次第だったのです。
ああなるほど、それで彼女は家にいるのが嫌なものだから、公休日にはいつも戸外(おもて)へ遊びに出て、活動写真を見に行ったりしたんだなと、事情を聞いてやっと私もその謎が解けたのでした。
が、ナオミの家庭がそういう風であったことは、ナオミにとっても私にとっても非常に幸いだった訳で、話が決まると直(じ)きに彼女はカフェエから暇を貰い、毎日毎日私と二人で適当な借家を捜しに行きました。
私の勤め先が多い町でしたから、成るべくそれに便利な所を択ぼうというので、日曜日には朝早くから新橋の駅に落ち合い、そうでない日はちょうど会社の退(ひ)けた時刻に大井町で待ちあわせて、蒲田、大森、品川、目黒、主としてあの辺の郊外から、市中では高輪(たかなわ)や田町や三田(みた)辺りを回って見て、さて帰りにはどこかで一緒にご飯を食べ、時間が在れば例の如く活動写真を除いたり、銀座通りをぶらついたりして、彼女は千束町(せんぞくちょう)の家へ、私は芝口の下宿へ戻る。
確かその頃は借家が払底(ふってい=すっかり無い)な時でしたから、手ごろな家がなかなかオイソレと見つからないで、私たちは半月余りもこうして暮らしたものでした。
引用書籍
谷崎潤一郎作「痴人の愛」
角川文庫刊
次回に続く。
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