2021年01月22日
江戸川乱歩「生腕」本文vol,7(全8記事)
「一寸法師」生腕 VOL,7
彼は一つ大きく伸びをして、下宿のおかみが置いて行ってくれた、枕もとの新聞を広げると、彼の癖として、先ず社会面に眼を通した。
別に面白い記事は見当たらぬ。三段抜き、二段抜きの大見出しは、ほとんど血生臭い犯罪記事ばかりなのだが、そうして活字になったものを見ると、何かよその国の出来事のようで、いっこう迫ってこなかった。だが、いま別の面をはぐろうとしたとき、ふと或る記事が彼の注意をひいた。
それを見ると、彼は何かしらギクリとしないではいられなかった。そこには「溝の中から、女の片足、奇怪な殺人事件か。」という見出しで、次のような記事が記されていた。
昨バツ1バツ1日午後府下千住町中組バツ1バツ1番地往来の溝川をさらっているうち、人夫木田三次郎がすくい上げた泥の中から、重りの小石とともに縞の木綿風呂敷に包んだ生々しき人間の片足が現れ、大騒ぎとなった。
戸山医学博士の鑑定によれば、切断後三日ぐらいの二十歳前後の健康体の婦人の右足を膝関節の部分から切断したもので、切り口の乱暴」なところを見れば外科医などの切断したものでないことが判明したが、附近には右に該当する殺人事件または婦人の失踪届出なく、今のところ何者の死体なるや」不明であるが、バツ1バツ1署ではきわめて巧妙に行われた殺人事件ではないかと、目下厳重操作中である。
新聞ではさほど重大に扱っているわけでもなく、文句もごく簡単なkものであったが、紋三の眼にはその記事がメラメラと燃えているように感じられた。
彼は蒲団の上にムックリと起き上がって、ほとんど無意識のうちに、同じ記事を五度も六度も繰り返し読んでいた。
「たぶん偶然の一致なんだろう。それにゆうべのはおれの幻覚かもしれないのだから。」
と、しいて気を落ち着けようとしても、そのあとからすぐに、あの奇怪な一寸法師の姿が、さびしい場末の溝川の縁に立って、風呂敷包みを投げ込もうとしているあいつのものすごい形相が、まざまざと眼の前に浮かんできた。
彼はどうするというあてもなく、何かに追い立てられるような気持ちで、寝床から起き上がると、大急ぎで着替えをはじめた。
どういうつもりか、彼は洋服ダンスの中から仕立ておろしの合いのサック・コートと、春外套を出して身につけた。
学校を出てからまだ勤めを持たぬ彼には、これが一張羅の外出着で、かなり自慢の品でもあった。上下おそろいのしゃれた空色が、彼の容貌によくうつった。
「まあ、おめかしで、どちらへお出かけ?」
下の茶の間を通ると、(下宿の)奥さんがうしろから声をかけた。
「いいえ、ちょっと。」
彼は変なあいさつをして、そそくさと(靴の)編上げのひもを結んだ。
しかし格子戸の外へ出ても、彼はどこへ行けばいいのか、ちょっと見当がつかなかった。一応警察へ届けようかとも思ったが、それほどの自身もなく、なんだかまだあれを自分だけの秘密にしておきたい気持ちもあった。
ともかく、ゆうべの寺へ行って様子を探ってみるのがいちばんよさそうだった。ゆうべの出来事は皆彼の幻覚にすぎなかったのかもしれない。もういちど昼の光の下で確かめてみないでは安心ができなかった。彼は思い切って本所まで出かけることにした。
引用書籍
江戸川乱歩「一寸法師」講談社刊
彼は一つ大きく伸びをして、下宿のおかみが置いて行ってくれた、枕もとの新聞を広げると、彼の癖として、先ず社会面に眼を通した。
別に面白い記事は見当たらぬ。三段抜き、二段抜きの大見出しは、ほとんど血生臭い犯罪記事ばかりなのだが、そうして活字になったものを見ると、何かよその国の出来事のようで、いっこう迫ってこなかった。だが、いま別の面をはぐろうとしたとき、ふと或る記事が彼の注意をひいた。
それを見ると、彼は何かしらギクリとしないではいられなかった。そこには「溝の中から、女の片足、奇怪な殺人事件か。」という見出しで、次のような記事が記されていた。
昨バツ1バツ1日午後府下千住町中組バツ1バツ1番地往来の溝川をさらっているうち、人夫木田三次郎がすくい上げた泥の中から、重りの小石とともに縞の木綿風呂敷に包んだ生々しき人間の片足が現れ、大騒ぎとなった。
戸山医学博士の鑑定によれば、切断後三日ぐらいの二十歳前後の健康体の婦人の右足を膝関節の部分から切断したもので、切り口の乱暴」なところを見れば外科医などの切断したものでないことが判明したが、附近には右に該当する殺人事件または婦人の失踪届出なく、今のところ何者の死体なるや」不明であるが、バツ1バツ1署ではきわめて巧妙に行われた殺人事件ではないかと、目下厳重操作中である。
新聞ではさほど重大に扱っているわけでもなく、文句もごく簡単なkものであったが、紋三の眼にはその記事がメラメラと燃えているように感じられた。
彼は蒲団の上にムックリと起き上がって、ほとんど無意識のうちに、同じ記事を五度も六度も繰り返し読んでいた。
「たぶん偶然の一致なんだろう。それにゆうべのはおれの幻覚かもしれないのだから。」
と、しいて気を落ち着けようとしても、そのあとからすぐに、あの奇怪な一寸法師の姿が、さびしい場末の溝川の縁に立って、風呂敷包みを投げ込もうとしているあいつのものすごい形相が、まざまざと眼の前に浮かんできた。
彼はどうするというあてもなく、何かに追い立てられるような気持ちで、寝床から起き上がると、大急ぎで着替えをはじめた。
どういうつもりか、彼は洋服ダンスの中から仕立ておろしの合いのサック・コートと、春外套を出して身につけた。
学校を出てからまだ勤めを持たぬ彼には、これが一張羅の外出着で、かなり自慢の品でもあった。上下おそろいのしゃれた空色が、彼の容貌によくうつった。
「まあ、おめかしで、どちらへお出かけ?」
下の茶の間を通ると、(下宿の)奥さんがうしろから声をかけた。
「いいえ、ちょっと。」
彼は変なあいさつをして、そそくさと(靴の)編上げのひもを結んだ。
しかし格子戸の外へ出ても、彼はどこへ行けばいいのか、ちょっと見当がつかなかった。一応警察へ届けようかとも思ったが、それほどの自身もなく、なんだかまだあれを自分だけの秘密にしておきたい気持ちもあった。
ともかく、ゆうべの寺へ行って様子を探ってみるのがいちばんよさそうだった。ゆうべの出来事は皆彼の幻覚にすぎなかったのかもしれない。もういちど昼の光の下で確かめてみないでは安心ができなかった。彼は思い切って本所まで出かけることにした。
引用書籍
江戸川乱歩「一寸法師」講談社刊
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/10487310
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック