新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2019年01月20日
クロア篇−1章6
ベニトラ用の飲み水を取りにいったレジィはまだもどらない。クロアはダムトと話していてもまた口喧嘩に発展しそうだと思い、自身の膝でくつろぐ朱色の猫に意識を向ける。この獣はさきほど「人里には住めない」とクロアに告げた。孤高な生き物のような宣言だ。しかし実際の態度はとてもお高くとまった感じには見えない。ベニトラは人に触られることをこばまないのだ。
(いやがる気力が出ないほど、よわっているの?)
捕縛された魔獣の瞳は疲れきっていた。クロアが猫の顔をのぞくと、やはり目をつむっている。
「よくねむる子ね……」
「本調子ではないのでしょう」
ダムトがクロアの話にのってきた。主題が魔獣であればクロアへの精神攻撃はしようがないだろうとクロアは思い、会話を発展させる。
「思いきりあばれて、つかれたのかしら?」
「そう、でしょうね。まったく、迷惑な研究者がいたものですね」
魔獣を攻撃的な性格に変え、各地に放逐した犯人がいる。その目的は不明だ。はっきりわかることは、そのせいで魔獣による被害が続出していることだけ。
「うわさによると、近辺に出没する盗賊団も石付きの魔獣を囲っているとか」
ダムトがクロアの初耳な情報を提示してきた。クロアはいくつか問いただしたい事項が湧き、まずは根本的な疑念を解消しにかかる。
「まだ盗賊の集団なんているの?」
この土地はもともと賊に好都合な条件がそろっていた。アンペレの町ではさまざまな物品が作られる。それらの製作物の多くは商品として隣国へ輸出される。アンペレからもっとも近い都市は商売がさかんな場所だ。そこで商品と金銭が行き交う。職人と商人の間で取引される金品を、賊がねらうのだ。そういった事件は過去に数えきれないほど発生しているという。だが隣国は戦士をとうとぶ国風がある。賊をこらしめる戦力は持っているし、現に近ごろ賊を討伐した話はクロアの耳に届いている。
「剣王国の王子が壊滅させたんでしょ?」
「ねぐらのひとつやふたつを潰した程度でしょう。それだけで盗人はいなくなりませんよ」
「なによそれ、またあたらしい盗賊団ができたの?」
「たしかなことはわかりませんが……そうなってもおかしくはないですね。かの勇猛な王子は剣王国内の不届き者を倒せても、この聖王国にはやすやすと乗りこめません。国境の自治を任されるクノード様か、さらに上位の聖王ゴドウィン様の許可が必要になりますからね」
「つまり、この国へ逃げてきた賊がいると言いたいの?」
「はい。危険な場所から逃れてきた者が、より安全な土地に拠点を設けることは自然のなりゆきかと」
クロアは悪党の群れが再結成したらしい事実に眉をひそめる。
「盗賊のなにがいいんだか!」
「と、言いますと?」
「そういう人たちって、山の中で風呂にも入らずに人をおそって生きるんでしょ? やだわ、そんなの。町の中で仕事して、体をきれいにしてすごすほうがいいじゃない。おいしい料理だってあるんだもの」
「では人を痛めつけることが好きで、粗食で満足できて、仕事と風呂が嫌いな連中が賊になる、ということで納得していただけますか」
クロアが挙げた盗賊暮らしの難点をダムトがすべて言い換えてしまった。そう言われてしまうとそんな人間もいるのだろう、とクロアはなんだか得心する。
賊の向き不向きはクロアにはどうでもよい雑談だ。次なる疑問にいく。
「その連中が連れている魔獣は、このベニトラではないのね?」
「ええ、そのような朱色の獣ではないそうです」
「そう……気になるわね」
石付きの魔獣に関するダムトの話を信じると、その魔獣も現在苦しい状況にあるはず。同様の魔獣を友としたクロアには他人事に思えない。
「それが本当なら助けてあげたいけれど……」
「そのまえに盗賊をどうにかせねばなりませんね」
賊をどうにかする、とはクロアの中で打倒することとつながる。
「討伐しちゃおうかしら」
「簡単に言ってくれますね。いつも兵力不足をなげいているというのに」
「いいじゃない、強い招獣が味方になったんだもの。わたしひとりでもやっつけにいけそうよ」
「またそんなムチャを……」
部屋の戸が叩かれる。クロアの計画はここで一時頓挫した。
クロアの父であるクノードが入室する。その後ろにレジィがおり、彼女は底の高さのある皿を持ってきた。その皿にそそいだ水がベニトラの栄養剤だ。レジィは深皿を床に置く。
「おいしいお水ですよ〜」
彼女はクロアの膝にいる猫に笑顔で話しかけた。その顔にはレジィが幼い子どもと接するときと似た慈しみがある。彼女にとってこの獣は愛すべき対象と化しているらしい。
クロアはベニトラを皿のそばに下ろした。ベニトラは鼻づらを水につっこみ、音を立てて水を舌ですくいとる。その様子を見たレジィが「かわいぃ〜」と身悶えした。上座に着いたクノードが臣下の無邪気さに苦笑する。
「見た目がかわいらしくとも魔獣だ。そのことを忘れてはいけないよ」
レジィは「はい……」と気落ちした。彼女も招獣を持つ術士ゆえに、招獣の危険性は学んでいる。術士と招獣はあくまで対等な関係だ。招獣側に不服があったなら、いつでも術士に逆らえる。それゆえ、仲間だからと無防備に接することは推奨できなかった。
クロアは従者へのなぐさめとばかりにひとつ提案する。
「わたしと一緒にいるときは、その子をぞんぶんにかわいがっていいわ」
レジィは表情をぱっと明るくした。クロアはほほえみ返す。
「わたしがくだした相手なんですもの、ふたたび牙をむいた時はわたしが責任をもって成敗します。……ね、お父さま」
クノードは力強くうなずいた。父は娘の力量を熟知しているし、なにより招術士は招獣の力に制限をかけることができる。招術を理解し、招獣の変化を見抜ける者であれば、みずからの招獣に倒されることはまずない。
「もしその招獣に反逆の意思が見えたときは力を抑制しなさい。招術士にはできるはずだ」
「はい、心得ました」
と、クロアは即答したものの、実際どうやればいいのかはよくわかっていなかった。これはあとで人に聞けばよい、と楽観した。
ベニトラはクロアたちの会話に意を介さず、水をなめ干す。
「我が望みは果たされた」
言うやいなや、こてんとその場に寝ころぶ。クロアは「のぞみ?」と首をかしげた。この獣が「なにかをしてほしい」と言ったおぼえはないのだが。
「あ、そういえば……この子が出したなぞかけ……」
レジィはベニトラの発言に思い当たるふしがあったらしい。クノードがうなずく。
「水が欲しい、ということだったのかね」
レジィの発想を受けたクノードが推測する。
「空からは雨が降ってくる。地面から湧水が出る。水は草木を育て、人や動物の生活にも欠かせない」
父の解説のおかげで、クロアはなぞなぞを出されていたことを思い出し、その意味を理解できた。まわりくどい表現をする招獣に、めんどくささをおぼえる。
「それならそうとはっきり言えばよろしいのに」
クロアは人の話を聞いているのかわからない猫に言う。
「レジィが気を利かせなかったら、だれも水をあげませんでしたわ」
「素直じゃないんだろう」
クノードが娘の援護をする。言われっぱなしの獣はそしらぬ顔で昼寝をつづけた。その頭をレジィがなでる。
「不器用な子なんですね〜」
レジィはひとしきり猫を愛撫すると、空になった皿を片付けにいった。クロアは小さな獣をあやまって踏まぬよう、ふたたび自身の膝に乗せる。獣はつねに無抵抗だ。
クロアはいたずら心から、ベニトラの長い尾をつまんだ。ぷらぷら振ってみる。朱色の獣はうっすら目を開けた。だが、なされるがままにねむる。
「おとなしい子……本当に町を荒らしたやつなのかしら?」
「本当はのんびり屋なのかもしれないね」
獣への警戒心を持ちつづけていたクノードが態度をやわらげる。彼も徐々にベニトラのことを受け入れているようだ。
みなが新参の獣に慣れてきたとき、戸を叩かれた。何者かの入室を知らせる音だった。
(いやがる気力が出ないほど、よわっているの?)
捕縛された魔獣の瞳は疲れきっていた。クロアが猫の顔をのぞくと、やはり目をつむっている。
「よくねむる子ね……」
「本調子ではないのでしょう」
ダムトがクロアの話にのってきた。主題が魔獣であればクロアへの精神攻撃はしようがないだろうとクロアは思い、会話を発展させる。
「思いきりあばれて、つかれたのかしら?」
「そう、でしょうね。まったく、迷惑な研究者がいたものですね」
魔獣を攻撃的な性格に変え、各地に放逐した犯人がいる。その目的は不明だ。はっきりわかることは、そのせいで魔獣による被害が続出していることだけ。
「うわさによると、近辺に出没する盗賊団も石付きの魔獣を囲っているとか」
ダムトがクロアの初耳な情報を提示してきた。クロアはいくつか問いただしたい事項が湧き、まずは根本的な疑念を解消しにかかる。
「まだ盗賊の集団なんているの?」
この土地はもともと賊に好都合な条件がそろっていた。アンペレの町ではさまざまな物品が作られる。それらの製作物の多くは商品として隣国へ輸出される。アンペレからもっとも近い都市は商売がさかんな場所だ。そこで商品と金銭が行き交う。職人と商人の間で取引される金品を、賊がねらうのだ。そういった事件は過去に数えきれないほど発生しているという。だが隣国は戦士をとうとぶ国風がある。賊をこらしめる戦力は持っているし、現に近ごろ賊を討伐した話はクロアの耳に届いている。
「剣王国の王子が壊滅させたんでしょ?」
「ねぐらのひとつやふたつを潰した程度でしょう。それだけで盗人はいなくなりませんよ」
「なによそれ、またあたらしい盗賊団ができたの?」
「たしかなことはわかりませんが……そうなってもおかしくはないですね。かの勇猛な王子は剣王国内の不届き者を倒せても、この聖王国にはやすやすと乗りこめません。国境の自治を任されるクノード様か、さらに上位の聖王ゴドウィン様の許可が必要になりますからね」
「つまり、この国へ逃げてきた賊がいると言いたいの?」
「はい。危険な場所から逃れてきた者が、より安全な土地に拠点を設けることは自然のなりゆきかと」
クロアは悪党の群れが再結成したらしい事実に眉をひそめる。
「盗賊のなにがいいんだか!」
「と、言いますと?」
「そういう人たちって、山の中で風呂にも入らずに人をおそって生きるんでしょ? やだわ、そんなの。町の中で仕事して、体をきれいにしてすごすほうがいいじゃない。おいしい料理だってあるんだもの」
「では人を痛めつけることが好きで、粗食で満足できて、仕事と風呂が嫌いな連中が賊になる、ということで納得していただけますか」
クロアが挙げた盗賊暮らしの難点をダムトがすべて言い換えてしまった。そう言われてしまうとそんな人間もいるのだろう、とクロアはなんだか得心する。
賊の向き不向きはクロアにはどうでもよい雑談だ。次なる疑問にいく。
「その連中が連れている魔獣は、このベニトラではないのね?」
「ええ、そのような朱色の獣ではないそうです」
「そう……気になるわね」
石付きの魔獣に関するダムトの話を信じると、その魔獣も現在苦しい状況にあるはず。同様の魔獣を友としたクロアには他人事に思えない。
「それが本当なら助けてあげたいけれど……」
「そのまえに盗賊をどうにかせねばなりませんね」
賊をどうにかする、とはクロアの中で打倒することとつながる。
「討伐しちゃおうかしら」
「簡単に言ってくれますね。いつも兵力不足をなげいているというのに」
「いいじゃない、強い招獣が味方になったんだもの。わたしひとりでもやっつけにいけそうよ」
「またそんなムチャを……」
部屋の戸が叩かれる。クロアの計画はここで一時頓挫した。
クロアの父であるクノードが入室する。その後ろにレジィがおり、彼女は底の高さのある皿を持ってきた。その皿にそそいだ水がベニトラの栄養剤だ。レジィは深皿を床に置く。
「おいしいお水ですよ〜」
彼女はクロアの膝にいる猫に笑顔で話しかけた。その顔にはレジィが幼い子どもと接するときと似た慈しみがある。彼女にとってこの獣は愛すべき対象と化しているらしい。
クロアはベニトラを皿のそばに下ろした。ベニトラは鼻づらを水につっこみ、音を立てて水を舌ですくいとる。その様子を見たレジィが「かわいぃ〜」と身悶えした。上座に着いたクノードが臣下の無邪気さに苦笑する。
「見た目がかわいらしくとも魔獣だ。そのことを忘れてはいけないよ」
レジィは「はい……」と気落ちした。彼女も招獣を持つ術士ゆえに、招獣の危険性は学んでいる。術士と招獣はあくまで対等な関係だ。招獣側に不服があったなら、いつでも術士に逆らえる。それゆえ、仲間だからと無防備に接することは推奨できなかった。
クロアは従者へのなぐさめとばかりにひとつ提案する。
「わたしと一緒にいるときは、その子をぞんぶんにかわいがっていいわ」
レジィは表情をぱっと明るくした。クロアはほほえみ返す。
「わたしがくだした相手なんですもの、ふたたび牙をむいた時はわたしが責任をもって成敗します。……ね、お父さま」
クノードは力強くうなずいた。父は娘の力量を熟知しているし、なにより招術士は招獣の力に制限をかけることができる。招術を理解し、招獣の変化を見抜ける者であれば、みずからの招獣に倒されることはまずない。
「もしその招獣に反逆の意思が見えたときは力を抑制しなさい。招術士にはできるはずだ」
「はい、心得ました」
と、クロアは即答したものの、実際どうやればいいのかはよくわかっていなかった。これはあとで人に聞けばよい、と楽観した。
ベニトラはクロアたちの会話に意を介さず、水をなめ干す。
「我が望みは果たされた」
言うやいなや、こてんとその場に寝ころぶ。クロアは「のぞみ?」と首をかしげた。この獣が「なにかをしてほしい」と言ったおぼえはないのだが。
「あ、そういえば……この子が出したなぞかけ……」
レジィはベニトラの発言に思い当たるふしがあったらしい。クノードがうなずく。
「水が欲しい、ということだったのかね」
レジィの発想を受けたクノードが推測する。
「空からは雨が降ってくる。地面から湧水が出る。水は草木を育て、人や動物の生活にも欠かせない」
父の解説のおかげで、クロアはなぞなぞを出されていたことを思い出し、その意味を理解できた。まわりくどい表現をする招獣に、めんどくささをおぼえる。
「それならそうとはっきり言えばよろしいのに」
クロアは人の話を聞いているのかわからない猫に言う。
「レジィが気を利かせなかったら、だれも水をあげませんでしたわ」
「素直じゃないんだろう」
クノードが娘の援護をする。言われっぱなしの獣はそしらぬ顔で昼寝をつづけた。その頭をレジィがなでる。
「不器用な子なんですね〜」
レジィはひとしきり猫を愛撫すると、空になった皿を片付けにいった。クロアは小さな獣をあやまって踏まぬよう、ふたたび自身の膝に乗せる。獣はつねに無抵抗だ。
クロアはいたずら心から、ベニトラの長い尾をつまんだ。ぷらぷら振ってみる。朱色の獣はうっすら目を開けた。だが、なされるがままにねむる。
「おとなしい子……本当に町を荒らしたやつなのかしら?」
「本当はのんびり屋なのかもしれないね」
獣への警戒心を持ちつづけていたクノードが態度をやわらげる。彼も徐々にベニトラのことを受け入れているようだ。
みなが新参の獣に慣れてきたとき、戸を叩かれた。何者かの入室を知らせる音だった。
タグ:クロア
2019年01月19日
クロア篇−1章5
クロアは自室にもどり、武装を解こうとした。その際に抱いていた猫を寝台のふちにのせる。猫は脱力した状態で、ふかふかな布団に腹這いになった。その様子を見たレジィが「あ、いいんですか?」と申し訳なさそうに言う。
「お布団のうえは清潔になさったほうが……」
「この子、よごれてる?」
この子、とは体を小さく変じたベニトラのことだ。よごれらしいよごれは見当たらず、クロアはこの生き物を清いものとして見ていた。
「いえ……ずっと外で生活をしてた子ですし、一回は体を洗ったらいいかな、と」
「うーん、きれいにしておいて損はないわね」
これから母にも見せるのだから、とクロアは思った。現在、クロアの母はこの国の中心都市へ出かけている。母の帰りは今日の夕方前後。クロアとその父はもともと、本日の職務を終えたあとに居室で母を待つ予定でいた。いまのところ、母の到着の報せは入っていない。
「お母さまが帰ってくるまで、時間はありそうね」
「お風呂に入れさせます?」
「そうしましょう。ベニトラ、お湯は平気?」
朱色の猫はこっくり頭を上下にうごかした。
クロアはまず武具を外してかかる。身軽になったのちにレジィとともに風呂場へ行った。そこはクロアの家族が自由にいつでも使用できる場所だ。浴槽の広さは成人が二人ばかし入れるほど。貴人の屋敷の浴場にしてはこじんまりとした規模かもしれない。この領地の財力をもってすれば大浴場を領主一家の風呂場にすることも可能だが、広さよりもむしろ手軽に入浴できる利便性のほうをクロアやクノードは好んでいる。水道からは常にお湯が出せる仕組みになっていて、入浴準備に時間がかからないのだ。
浴槽内には入浴者の足場となる段差がある。その段差を超えない程度にお湯を入れる。すくなめの湯の中にベニトラを漬けた。ベニトラは浴槽内の段差にあごをのせ、目をつむる。四肢の太い猫は無抵抗をつらぬくようだ。クロアは安心してレジィに入浴介助をたのんだ。
ベニトラの湯あみが完了した。クロアは洗われたベニトラを抱いて屋敷の居室に集合する。居室はクロアの家族が食事をとったり歓談したりする憩いの場だ。まだクロアの父母はいない。だがダムトは在席している。彼は室内の清掃に取りかかっていた。
ダムトはクロアと別行動している間、荷台の片付けや飛馬にあずけた荷物の回収などをしていた。それが終わると今度は下男の仕事をこなしている。これは彼の普段の職務のうちだ。クロアはとくに気にせず、椅子に座った。
クロアは自身の膝にベニトラをのせた。ベニトラは幼獣に変化した以降、ずっとクロアに身を任せている。その無防備さやしぐさは飼い猫となんら変わりない。
「かわいい猫ちゃんですよね〜」
レジィが朱色の猫の頭をしきりになでる。彼女はすでにこの獣を一家の一員と認め、かわいがっているのだ。
「この子、ヤギのお乳は飲めるんでしょうか?」
「水で充分よ。自在に変化できるほどの強力な魔獣には飲食が必要ないというもの」
「でも、病み上がりでしょう?」
意外なことにレジィが食い下がる。慈愛の心が人一倍強い者には通説など関係ないようだ。
「なにか栄養になる食べ物をあげてはどうでしょうか」
「うーん、そう言われてみると……精のつくものをあげたらいいわね」
この獣は見るからに疲労困憊している。最良の状態を早期にとりもどせる方法があるのなら、それを実行するべきだ。招獣をいたわることは招術士の役目でもある。それに、自身の片腕たる従者には気分よくすごしてほしいとクロアは思う。クロアとレジィの意思が合致することは積極的にやっていきたい。
「招獣の場合、体力よりも精気の回復を優先させるといいんだったかしら?」
「はい。精気がもどれば体力も、ケガをしたところも早くよくなるそうです」
ベニトラには目立った外傷がない。だが赤い石が埋め込まれていた首元には円形のハゲができている。現在小型化したおかげでハゲの面積も小さくはなったが、やはり気にはなる。抜けた毛が生えそろう時間にも、きっと精気の多寡が関係するだろう。
「失った精気を回復するものといったら、なにかしら?」
「術酒……はお酒だからちょっとあぶないですね」
レジィは猫をめでつつ招獣向きの食事を思案する。
「あ、聖都の清水がありますね。子どもも飲める精気回復薬なんですよ」
「いいわね。もらってきてちょうだい」
レジィは小躍りしながら退室した。その態度を察するに、ベニトラの面倒を看たくてたまらないようだ。クロアはこの反応が彼女らしいと感じた。
レジィの性格は世話好きだ。そうなったきっかけは彼女に年下の兄弟がたくさんいること。レジィはクロアより年少でいながら、弟らの世話をこなす姉でもある。愛情豊かな少女は目下の子どもや小動物を見るとほうっておけなくなるらしい。
そしてなにより、いまのベニトラは愛嬌たっぷりな姿でいる。普通の猫とはちがい、体が骨太だが、その特徴には並みの猫にないかわいげがある。
(ダムトも「かわいい」と思ってるのかしら?)
クロアはもう片方の側近を見た。彼は雑務中で、長机に茶器を並べている。
「フュリヤ様は聖都からおもどりになったそうです」
ダムトが言葉を発した。彼はもうじきこの部屋にあらわれる当主とその夫人を待っている。
「もうお見えになってよい頃合いですが……」
彼の思考には新参の招獣がいない。クロアは彼の反応に素っ気なさを感じた。だが彼がかわいいものに興味のない仕事人間であることはクロアも知っている。いまさらその性情をつつく気になれず、ダムトに話を合わせる。
「みんなにお土産を配っているのかしら」
母フュリヤは遠出のおりに、家族だけでなく官吏にも土産を買ってくることがある。アンペレが擁する官吏はざっと千人を超える。大人数に配布できる土産となると、たいていはお菓子だ。母は官吏の数の倍ほどの菓子を購入しているはずだが、全員に行き渡ることはまずないらしい。母が土産を持ってきた日にたまたま出勤していた者はもらえる、というざっくりした配布だとか。
「お母さまったらマメよね」
「はい、繊細なお方です。それなのに──」
ダムトがじっとクロアの顔を見る。
「どうして娘はガサツで荒々しくなったのでしょう」
彼は無表情のまま女主人にケチをつけた。クロアはぷいっと顔をそむける。
「こんな性格でないと、魔物や悪党を叩き伏せられないでしょ」
クロアは従者の罵詈をはね返した。ダムトはアンペレ家に仕えて以来、身内には口のわるさを隠そうとしない。特にクロアに対しては顕著だ。彼の刺々しい指導のもと、クロアは悪口にへこたれない図太い精神に育った。
「ああ、きっとダムトのせいね」
クロアは負けじと嫌味に対抗する。
「あなたと言い合ううちにわたしの心も薄汚れたのだわ」
「俺の責任ですか。ご自身の生来の気質ではないとおっしゃるのですね」
「そうよ。わたしの幼いころにダムトがいなければ、もっと上品な公女になれたはずだわ」
クロアの記憶はさだかでないが、ダムトが屋敷に来た時期はクロアが五歳前後のころ。そのときから彼は勤続しつづけ、優に十年は経過している。勤めはじめは二十代の青年で、現在もその見た目のままという、彼もまた人ならざる血を引く者だ。ただし本人は素性を一切もらさない。
「俺がいなくても変わらなかったと思いますがねー」
「どうだか。あなた以上に口のよくない者はこの屋敷にいなくってよ」
会話は平行線をたどる。クロアは話を打ち切り、膝の上で丸くなる獣の横腹をわしわしとなでた。
「お布団のうえは清潔になさったほうが……」
「この子、よごれてる?」
この子、とは体を小さく変じたベニトラのことだ。よごれらしいよごれは見当たらず、クロアはこの生き物を清いものとして見ていた。
「いえ……ずっと外で生活をしてた子ですし、一回は体を洗ったらいいかな、と」
「うーん、きれいにしておいて損はないわね」
これから母にも見せるのだから、とクロアは思った。現在、クロアの母はこの国の中心都市へ出かけている。母の帰りは今日の夕方前後。クロアとその父はもともと、本日の職務を終えたあとに居室で母を待つ予定でいた。いまのところ、母の到着の報せは入っていない。
「お母さまが帰ってくるまで、時間はありそうね」
「お風呂に入れさせます?」
「そうしましょう。ベニトラ、お湯は平気?」
朱色の猫はこっくり頭を上下にうごかした。
クロアはまず武具を外してかかる。身軽になったのちにレジィとともに風呂場へ行った。そこはクロアの家族が自由にいつでも使用できる場所だ。浴槽の広さは成人が二人ばかし入れるほど。貴人の屋敷の浴場にしてはこじんまりとした規模かもしれない。この領地の財力をもってすれば大浴場を領主一家の風呂場にすることも可能だが、広さよりもむしろ手軽に入浴できる利便性のほうをクロアやクノードは好んでいる。水道からは常にお湯が出せる仕組みになっていて、入浴準備に時間がかからないのだ。
浴槽内には入浴者の足場となる段差がある。その段差を超えない程度にお湯を入れる。すくなめの湯の中にベニトラを漬けた。ベニトラは浴槽内の段差にあごをのせ、目をつむる。四肢の太い猫は無抵抗をつらぬくようだ。クロアは安心してレジィに入浴介助をたのんだ。
ベニトラの湯あみが完了した。クロアは洗われたベニトラを抱いて屋敷の居室に集合する。居室はクロアの家族が食事をとったり歓談したりする憩いの場だ。まだクロアの父母はいない。だがダムトは在席している。彼は室内の清掃に取りかかっていた。
ダムトはクロアと別行動している間、荷台の片付けや飛馬にあずけた荷物の回収などをしていた。それが終わると今度は下男の仕事をこなしている。これは彼の普段の職務のうちだ。クロアはとくに気にせず、椅子に座った。
クロアは自身の膝にベニトラをのせた。ベニトラは幼獣に変化した以降、ずっとクロアに身を任せている。その無防備さやしぐさは飼い猫となんら変わりない。
「かわいい猫ちゃんですよね〜」
レジィが朱色の猫の頭をしきりになでる。彼女はすでにこの獣を一家の一員と認め、かわいがっているのだ。
「この子、ヤギのお乳は飲めるんでしょうか?」
「水で充分よ。自在に変化できるほどの強力な魔獣には飲食が必要ないというもの」
「でも、病み上がりでしょう?」
意外なことにレジィが食い下がる。慈愛の心が人一倍強い者には通説など関係ないようだ。
「なにか栄養になる食べ物をあげてはどうでしょうか」
「うーん、そう言われてみると……精のつくものをあげたらいいわね」
この獣は見るからに疲労困憊している。最良の状態を早期にとりもどせる方法があるのなら、それを実行するべきだ。招獣をいたわることは招術士の役目でもある。それに、自身の片腕たる従者には気分よくすごしてほしいとクロアは思う。クロアとレジィの意思が合致することは積極的にやっていきたい。
「招獣の場合、体力よりも精気の回復を優先させるといいんだったかしら?」
「はい。精気がもどれば体力も、ケガをしたところも早くよくなるそうです」
ベニトラには目立った外傷がない。だが赤い石が埋め込まれていた首元には円形のハゲができている。現在小型化したおかげでハゲの面積も小さくはなったが、やはり気にはなる。抜けた毛が生えそろう時間にも、きっと精気の多寡が関係するだろう。
「失った精気を回復するものといったら、なにかしら?」
「術酒……はお酒だからちょっとあぶないですね」
レジィは猫をめでつつ招獣向きの食事を思案する。
「あ、聖都の清水がありますね。子どもも飲める精気回復薬なんですよ」
「いいわね。もらってきてちょうだい」
レジィは小躍りしながら退室した。その態度を察するに、ベニトラの面倒を看たくてたまらないようだ。クロアはこの反応が彼女らしいと感じた。
レジィの性格は世話好きだ。そうなったきっかけは彼女に年下の兄弟がたくさんいること。レジィはクロアより年少でいながら、弟らの世話をこなす姉でもある。愛情豊かな少女は目下の子どもや小動物を見るとほうっておけなくなるらしい。
そしてなにより、いまのベニトラは愛嬌たっぷりな姿でいる。普通の猫とはちがい、体が骨太だが、その特徴には並みの猫にないかわいげがある。
(ダムトも「かわいい」と思ってるのかしら?)
クロアはもう片方の側近を見た。彼は雑務中で、長机に茶器を並べている。
「フュリヤ様は聖都からおもどりになったそうです」
ダムトが言葉を発した。彼はもうじきこの部屋にあらわれる当主とその夫人を待っている。
「もうお見えになってよい頃合いですが……」
彼の思考には新参の招獣がいない。クロアは彼の反応に素っ気なさを感じた。だが彼がかわいいものに興味のない仕事人間であることはクロアも知っている。いまさらその性情をつつく気になれず、ダムトに話を合わせる。
「みんなにお土産を配っているのかしら」
母フュリヤは遠出のおりに、家族だけでなく官吏にも土産を買ってくることがある。アンペレが擁する官吏はざっと千人を超える。大人数に配布できる土産となると、たいていはお菓子だ。母は官吏の数の倍ほどの菓子を購入しているはずだが、全員に行き渡ることはまずないらしい。母が土産を持ってきた日にたまたま出勤していた者はもらえる、というざっくりした配布だとか。
「お母さまったらマメよね」
「はい、繊細なお方です。それなのに──」
ダムトがじっとクロアの顔を見る。
「どうして娘はガサツで荒々しくなったのでしょう」
彼は無表情のまま女主人にケチをつけた。クロアはぷいっと顔をそむける。
「こんな性格でないと、魔物や悪党を叩き伏せられないでしょ」
クロアは従者の罵詈をはね返した。ダムトはアンペレ家に仕えて以来、身内には口のわるさを隠そうとしない。特にクロアに対しては顕著だ。彼の刺々しい指導のもと、クロアは悪口にへこたれない図太い精神に育った。
「ああ、きっとダムトのせいね」
クロアは負けじと嫌味に対抗する。
「あなたと言い合ううちにわたしの心も薄汚れたのだわ」
「俺の責任ですか。ご自身の生来の気質ではないとおっしゃるのですね」
「そうよ。わたしの幼いころにダムトがいなければ、もっと上品な公女になれたはずだわ」
クロアの記憶はさだかでないが、ダムトが屋敷に来た時期はクロアが五歳前後のころ。そのときから彼は勤続しつづけ、優に十年は経過している。勤めはじめは二十代の青年で、現在もその見た目のままという、彼もまた人ならざる血を引く者だ。ただし本人は素性を一切もらさない。
「俺がいなくても変わらなかったと思いますがねー」
「どうだか。あなた以上に口のよくない者はこの屋敷にいなくってよ」
会話は平行線をたどる。クロアは話を打ち切り、膝の上で丸くなる獣の横腹をわしわしとなでた。
タグ:クロア