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2019年01月27日
クロア篇−2章5
クロアは昼食をレジィと一緒にとった。こたびは女子二人の食事だ。ダムトに気兼ねしない、自由な雑談を交わす。
「わたしに事務方の側近ができたら、レジィも助かるんじゃないかしら?」
「あたしは、いまのままでも平気ですけど……」
レジィは日々、前任者の女性が達していた域に自分を高めようとしている。それゆえ、外部からの助力を得ようとは思わないらしい。
健気な少女は「あ」と声をあげる。
「政務を補佐してくれる男性をお婿さんにしたらどうです?」
クロアは今朝、父に告げた縁談話を思い出した。あのときは老爺が凡夫ばかりすすめてくるのをクロアが不服とする話だけで終わった。レジィが切り出す話題はもっと前向きなものだ。クロアはいまいちど冷静になり、自身の婿について考える。
「家督を継がなくてよくて、政治に理解のある人……」
「政治に関わるお家で育った人なら、そういう教育も受けておいでなのでしょう?」
「為政者の一族のこと?」
「はい。うちの国にはコリオル第二公子がいらっしゃいますよね」
コリオルは同国の中で東に位置する領地。西を守るアンペレとは反対の場所だ。その公子の噂はクロアも聞いており、次男は秀才らしい。だが長男の評判はよくない。
「あそこは長男がボンクラだもの。次男が家督を継ぐわね」
領主の後継者は第一子がなるものと相場が決まっている。ただしその下の兄弟が優秀ならばそちらに家督がいく事例はある。コリオルはその前轍を踏むだろうとクロアは予想している。
「あまった長男をもらう気はさらさら無いわ」
「そうですか……家督を考えなかったら、ロレンツ公がピッタリだとは思うんですけど」
それはクロアも一度は頭に浮かんだ候補だ。ロレンツ公は博覧強記な青年。彼にはかつて兄がおり、その兄は「弟に領主の座を譲りたい」と評していた。
ロレンツ公の兄も兄で、「聖王の長女の婿にどうか」という話題があがる英才だったという。聖王には子息がおらず、長女が跡目を継ぐことが内定している。つまり女王の夫たりうる器だったのだ。兄弟そろって聡明という、クロアにはうらやましいかぎりの血筋である。
「レウィナスさんね。たしかにケチのつけどころのない方だわ」
「でも結婚するとしたらクロアさまが嫁ぐことになりますよね」
レウィナスは兄を失くした。そのほかの兄弟はおらず、両親も他界した。だが天涯孤独ではない。直近の親戚には父の妹がおり、叔母とその家族はこの国のどこかで生きているという。レウィナスに万一のことがあればそちらに継承権が移るだろう。が、それはロレンツ家が断絶の一歩手前に追い込まれたときに起こりうる緊急事態だ。レウィナスが生きている間、彼はロレンツ公であり続けなければならない。
「アンペレにはクロアさま以外にも公女と公子がいますもんね」
「わたしがアンペレを離れるのなら、だれが結婚相手でもよくなるわね」
それもいいのかもしれない、とクロアはひそかに思った。妹たちに家督を任せ、自分はよそで暮らす。理想の住居は、有事の際はこの町にすぐ飛んでいける近場。そういう観点ではロレンツは格好の嫁ぎ先だ。そこはアンペレの南東に位置する場所であり、直線状は山々にはばまれているのだが、ベニトラに騎乗すれば難なく行き来できるだろう。
(でも、あの方の補佐がわたしに務まるとは……)
レウィナスは優秀な政治家である。そんな彼の妻は才徳兼備の女人がふさわしいはず。クロアが伴侶にするにはもったいない男性だ。クロアは気が引けた。
レジィがおずおずと「だれでもいいんでしたら……」と伏し目がちにしゃべる。
「ダムトさんも……クロアさまに合ってるかな、と……」
クロアは耳をうたがった。そんなことは露にも思ったためしがない。
「あいつのどこがわたしと合っていると言うの?」
「え、だって……ダムトさんはクロアさまのことをよく考えているし……」
「それが仕事だからよ。それでお給金をもらってるだけよ」
「でも、今日のダムトさんはクロアさまの指示にないことをやってるんですよ。そうすればクロアさまがよろこぶし、もしだれかに責められてもクロアさまの責任にはならないからと──」
責任の所在まで考えての独断だったとは、クロアは思いもしなかった。彼の意図を汲みとれず、老爺にはクロアの意思でダムトを外出させたものだと言ってしまった。実際クロアの希望に沿う行動なので、そこを否定する気はない。しかしダムトのほうはそれで満足しないだろう。せっかく批難の矛先をクロア以外へ向かわせる準備をしておいたのに、クロアがダメにしたのだから。
「……ダムトが帰ってきたら、またつつかれそうね」
「あ、『自分がダムトに行かせた』ってクノードさまに言ってしまったんですか?」
「お父さまもご存知ね。わたしが直接言ってやったのは偏屈爺のほうよ」
「あ〜、カスバ……」
レジィは老爺の名を言いかけて、自身の口を手でおさえた。「偏屈爺」がカスバンであると言い当てる行為にはカスバン本人に対して無礼がある、と自省したがゆえの反応だ。
「そこで止めてもムダよ。あなたもカスバンを『偏屈なジジイ』だと思ってるって証拠なんだから」
「え〜、ぜったい告げ口しないでくださいよ」
レジィが半笑いでクロアの指摘を受け止めた。彼女とてクロアがそのような陰険な行為をするとは思っていない。この会話はただの冗談だった。
とりとめのない雑談に区切りをつけ、クロアは町へ出ることにした。目的は二種類。ベニトラの装身具の購入、それと強力な戦士の発見だ。クロアたちは食器を片づけたのち、屋外へ出た。
「わたしに事務方の側近ができたら、レジィも助かるんじゃないかしら?」
「あたしは、いまのままでも平気ですけど……」
レジィは日々、前任者の女性が達していた域に自分を高めようとしている。それゆえ、外部からの助力を得ようとは思わないらしい。
健気な少女は「あ」と声をあげる。
「政務を補佐してくれる男性をお婿さんにしたらどうです?」
クロアは今朝、父に告げた縁談話を思い出した。あのときは老爺が凡夫ばかりすすめてくるのをクロアが不服とする話だけで終わった。レジィが切り出す話題はもっと前向きなものだ。クロアはいまいちど冷静になり、自身の婿について考える。
「家督を継がなくてよくて、政治に理解のある人……」
「政治に関わるお家で育った人なら、そういう教育も受けておいでなのでしょう?」
「為政者の一族のこと?」
「はい。うちの国にはコリオル第二公子がいらっしゃいますよね」
コリオルは同国の中で東に位置する領地。西を守るアンペレとは反対の場所だ。その公子の噂はクロアも聞いており、次男は秀才らしい。だが長男の評判はよくない。
「あそこは長男がボンクラだもの。次男が家督を継ぐわね」
領主の後継者は第一子がなるものと相場が決まっている。ただしその下の兄弟が優秀ならばそちらに家督がいく事例はある。コリオルはその前轍を踏むだろうとクロアは予想している。
「あまった長男をもらう気はさらさら無いわ」
「そうですか……家督を考えなかったら、ロレンツ公がピッタリだとは思うんですけど」
それはクロアも一度は頭に浮かんだ候補だ。ロレンツ公は博覧強記な青年。彼にはかつて兄がおり、その兄は「弟に領主の座を譲りたい」と評していた。
ロレンツ公の兄も兄で、「聖王の長女の婿にどうか」という話題があがる英才だったという。聖王には子息がおらず、長女が跡目を継ぐことが内定している。つまり女王の夫たりうる器だったのだ。兄弟そろって聡明という、クロアにはうらやましいかぎりの血筋である。
「レウィナスさんね。たしかにケチのつけどころのない方だわ」
「でも結婚するとしたらクロアさまが嫁ぐことになりますよね」
レウィナスは兄を失くした。そのほかの兄弟はおらず、両親も他界した。だが天涯孤独ではない。直近の親戚には父の妹がおり、叔母とその家族はこの国のどこかで生きているという。レウィナスに万一のことがあればそちらに継承権が移るだろう。が、それはロレンツ家が断絶の一歩手前に追い込まれたときに起こりうる緊急事態だ。レウィナスが生きている間、彼はロレンツ公であり続けなければならない。
「アンペレにはクロアさま以外にも公女と公子がいますもんね」
「わたしがアンペレを離れるのなら、だれが結婚相手でもよくなるわね」
それもいいのかもしれない、とクロアはひそかに思った。妹たちに家督を任せ、自分はよそで暮らす。理想の住居は、有事の際はこの町にすぐ飛んでいける近場。そういう観点ではロレンツは格好の嫁ぎ先だ。そこはアンペレの南東に位置する場所であり、直線状は山々にはばまれているのだが、ベニトラに騎乗すれば難なく行き来できるだろう。
(でも、あの方の補佐がわたしに務まるとは……)
レウィナスは優秀な政治家である。そんな彼の妻は才徳兼備の女人がふさわしいはず。クロアが伴侶にするにはもったいない男性だ。クロアは気が引けた。
レジィがおずおずと「だれでもいいんでしたら……」と伏し目がちにしゃべる。
「ダムトさんも……クロアさまに合ってるかな、と……」
クロアは耳をうたがった。そんなことは露にも思ったためしがない。
「あいつのどこがわたしと合っていると言うの?」
「え、だって……ダムトさんはクロアさまのことをよく考えているし……」
「それが仕事だからよ。それでお給金をもらってるだけよ」
「でも、今日のダムトさんはクロアさまの指示にないことをやってるんですよ。そうすればクロアさまがよろこぶし、もしだれかに責められてもクロアさまの責任にはならないからと──」
責任の所在まで考えての独断だったとは、クロアは思いもしなかった。彼の意図を汲みとれず、老爺にはクロアの意思でダムトを外出させたものだと言ってしまった。実際クロアの希望に沿う行動なので、そこを否定する気はない。しかしダムトのほうはそれで満足しないだろう。せっかく批難の矛先をクロア以外へ向かわせる準備をしておいたのに、クロアがダメにしたのだから。
「……ダムトが帰ってきたら、またつつかれそうね」
「あ、『自分がダムトに行かせた』ってクノードさまに言ってしまったんですか?」
「お父さまもご存知ね。わたしが直接言ってやったのは偏屈爺のほうよ」
「あ〜、カスバ……」
レジィは老爺の名を言いかけて、自身の口を手でおさえた。「偏屈爺」がカスバンであると言い当てる行為にはカスバン本人に対して無礼がある、と自省したがゆえの反応だ。
「そこで止めてもムダよ。あなたもカスバンを『偏屈なジジイ』だと思ってるって証拠なんだから」
「え〜、ぜったい告げ口しないでくださいよ」
レジィが半笑いでクロアの指摘を受け止めた。彼女とてクロアがそのような陰険な行為をするとは思っていない。この会話はただの冗談だった。
とりとめのない雑談に区切りをつけ、クロアは町へ出ることにした。目的は二種類。ベニトラの装身具の購入、それと強力な戦士の発見だ。クロアたちは食器を片づけたのち、屋外へ出た。
タグ:クロア
2019年01月26日
クロア篇−2章4
クロアが苦手とする老爺は去った。クロアはあらためて食卓に気持ちを向ける。すると家長が困ったかのように視線を机上に落としている。
「あまりカスバンを悪く思わないでくれ」
クノードは老爺の対応を弁護する。これはクロアの予想できていた父の反応だ。
「彼もクロアに大事があってはいけないと心配しているんだ」
「いいえ、その表現は正しくありません」
クロアはあの高官がそんな人情家ではないという自信がある。
「あの者が案じるのはアンペレの将来だけ。領地をとりまとめる旗頭(はたがしら)の血筋さえ保てたら、ほかのことはどうでもよいのですわ」
「それは……」
父にも心当たりがあるらしく、言葉を濁した。クロアはさらに続ける。
「カスバンはこのわたしに、そこらへんの良家や商家の息子の縁談を持ちこむのですよ。名前だけの凡夫なぞ、わたしに釣り合うはずがありませんわ」
クロアは夫の条件を不当に高望みしているつもりはなかった。なぜならクロアは次期領主である。だがクロア自身はあいにく政治能力に秀でていない。ならばこそ伴侶には自分の短所を補える知恵者を求めたいと考えている。並大抵の男性を婿にとる気は毛頭ないのだ。
このようなクロアの意に反して、老爺が婿候補として挙げる人物はどれも凡人だった。まるでクロアの為政方針は平々凡々でよいと言わんばかりの選出だ。それがクロアにはおもしろくない。
「これでもあの者がわたしを気遣っているとおっしゃるの?」
「……なかなか言うようになったね」
「ええ、言いますわ。お父さまがガツンとお言いにならないんですもの。だからあの老骨は調子に乗るんですのよ」
クノードは一転してにこやかに笑う。
「その勝気な性格はいったいどこからきたんだろうね」
「さあ……きっとダムトの影響ですわ」
クロアは先日の従者との小競り合いを思い出す。
「ダムトと一緒にいると口が減らなくなりますの」
「彼はクロアの情操教育には良くない男だったかな」
「いまさらお気づきになっても遅いですわよ」
クロアが笑って言い返した。その一言によって家族の談笑が巻き起こる。やっと重い空気が晴れて、クロアは朝食に口をつけた。
朝食後、クロアは自身と従者用の執務室にこもった。午前中はこうして従者とともに事務に従事する。それがクロアの果たすべき義務だ。だがクロアに付き添う従者のほうは、本来の職務とは言いにくかった。
従者はもともと、クロアの護衛と世話のために設置された職分だった。それがいまではクロアの事務作業にたずさわる。そういった補佐も職務の一環となった。いわば公女の補佐官だ。
従者のあらたな職務追加は、クロアが日々の公務を課せられたときに行なわれた。その際、従者とは別個にクロア用の文官を付けるか、という話は持ちあがったらしい。だが、自然消滅した。当時は試験的に公女の事務作業を導入する段階だったので、政務専門の官吏は必要ないと判断されたのだ。
(仕事の量はだんだん増えてきてるのよね)
最初のころは学問が優先された。そのため事務仕事はおままごとのような平易かつ少量で済んでいた。年を経るごとにあれやこれよと量が増え、とうとう学習に使っていた時間が丸々職務に取って代わるまでになった。
そろそろクロアお付きの文官が用意されてしかるべき環境になりつつある。なのに、増員は検討されていない。その原因は、クロアに付きあう従者が事務作業にも優秀だったことにある。彼らに任せておけばよいという認識がクロア以外の者たちにこびりついていた。
(うーん、でもレジィは……)
年若い従者はけっして不出来ではない。彼女の物覚えのよさはクロアをはるかに超えている。経験を積めば前任者以上の優秀な補佐役になりうる人材だ。しかし現段階では、クロアの短所を補填するまでには成長していない。就任から一年程度では無理もないことだ。ただ、彼女の成長を待つにはクロアの心の余裕が足りなかった。
クロアは文書作成と数字の確認が苦手だ。とくに文章をまとめる作業には時間と労力を多大に吸われる。ダムトが不在な今日、クロアは自身のいたらなさを痛感する。
(ダムトがいたら、もっと楽なんだけれど……)
報告書に必要な情報は彼と共有できている。忘れっぽいクロアでは要点に抜けが出るのを、ダムトがおぎない、そして文章の体裁をととのえる──そんな助けが、いまは期待できない。
(戦士だけじゃなくて、政務の助っ人も勧誘しようかしら?)
自身の不得意分野を長所とする人材を、この機会に見つけたい。クロアはそう思ったが、文官の登用は今回の勧誘と方向性がちがうことに気付く。この件は外部から呼びこまずとも、すでに仕官している者の中から選んでもよい。さいわい文官には不足していない町だ。現在の部署から異動しても業務に支障がない程度の、普通な者でいい。そこそこに仕事ができて、クロアに忠実な者をひとり、公女の側近に引き抜く。そんな願望を胸に秘めながら、遅い筆運びをどうにか継続する。昼食時にはようやく今日の職務をまっとうできた。
クロアの仕事の成果を、レジィがほかの部署へ提出しにいった。それが終われば彼女は昼食を執務室まで運んでくれることになっている。
クロアは食事にありつくまでの待ち時間を、ベニトラと触れあいながらすごす。この獣は職務遂行中の二人を尻目に、室内をうろうろ闊歩してみたり窓辺で日向ぼっこしたりと遊んでいた。その自由さをクロアはうらやましいと思った。こんなふうに安全な場所で、高貴な者に飼われる獣は、いいものである。これといった義務はなく、ただそこに居るだけでよいのだ。しかしベニトラ自身は安逸をむさぼることを良しとする気質かどうか、まだわからない。初日は真逆なことを言っていたおぼえがある。
「ねえあなた、山や野原ですごすのがいいって、言ってたのよね?」
クロアは自身の膝の上で横たわる獣に話しかけた。朱色の猫はクロアに腹を見せた状態で、太い尻尾をぽふぽふとクロアの手に当てる。
「いかにも」
「家の中にいたんじゃ、退屈でしょう。どうしてわたしのそばにいてくれるの?」
「他出の念、いまだ湧かず」
「まだ外が恋しくないわけね?」
「そうだ」
「そう。ちょうどよかったわ。今日は午後からあなたに必要なお買い物もしたいの。それまではわたしについてきてね」
猫はクロアの顔を見上げた。喉元の毛のハゲた部分を前足で触れる。
「ここを隠すものを買うと?」
「そうよ。きっと首輪を買うことになるわ。だけど首輪がイヤなら足輪でもいいの。あなたが招獣だってことを人がカンタンに見分けられるものを身につけてほしいのよ」
「承知した」
ベニトラはクロアの膝を離れ、空中を浮遊する。そのまま日当たりのよい窓辺で外をながめだした。クロアは膝のぬくもりが冷める感触に、わずかなさびしさがこみあげる。しかしレジィが入室してくると、その感情はかき消された。
「あまりカスバンを悪く思わないでくれ」
クノードは老爺の対応を弁護する。これはクロアの予想できていた父の反応だ。
「彼もクロアに大事があってはいけないと心配しているんだ」
「いいえ、その表現は正しくありません」
クロアはあの高官がそんな人情家ではないという自信がある。
「あの者が案じるのはアンペレの将来だけ。領地をとりまとめる旗頭(はたがしら)の血筋さえ保てたら、ほかのことはどうでもよいのですわ」
「それは……」
父にも心当たりがあるらしく、言葉を濁した。クロアはさらに続ける。
「カスバンはこのわたしに、そこらへんの良家や商家の息子の縁談を持ちこむのですよ。名前だけの凡夫なぞ、わたしに釣り合うはずがありませんわ」
クロアは夫の条件を不当に高望みしているつもりはなかった。なぜならクロアは次期領主である。だがクロア自身はあいにく政治能力に秀でていない。ならばこそ伴侶には自分の短所を補える知恵者を求めたいと考えている。並大抵の男性を婿にとる気は毛頭ないのだ。
このようなクロアの意に反して、老爺が婿候補として挙げる人物はどれも凡人だった。まるでクロアの為政方針は平々凡々でよいと言わんばかりの選出だ。それがクロアにはおもしろくない。
「これでもあの者がわたしを気遣っているとおっしゃるの?」
「……なかなか言うようになったね」
「ええ、言いますわ。お父さまがガツンとお言いにならないんですもの。だからあの老骨は調子に乗るんですのよ」
クノードは一転してにこやかに笑う。
「その勝気な性格はいったいどこからきたんだろうね」
「さあ……きっとダムトの影響ですわ」
クロアは先日の従者との小競り合いを思い出す。
「ダムトと一緒にいると口が減らなくなりますの」
「彼はクロアの情操教育には良くない男だったかな」
「いまさらお気づきになっても遅いですわよ」
クロアが笑って言い返した。その一言によって家族の談笑が巻き起こる。やっと重い空気が晴れて、クロアは朝食に口をつけた。
朝食後、クロアは自身と従者用の執務室にこもった。午前中はこうして従者とともに事務に従事する。それがクロアの果たすべき義務だ。だがクロアに付き添う従者のほうは、本来の職務とは言いにくかった。
従者はもともと、クロアの護衛と世話のために設置された職分だった。それがいまではクロアの事務作業にたずさわる。そういった補佐も職務の一環となった。いわば公女の補佐官だ。
従者のあらたな職務追加は、クロアが日々の公務を課せられたときに行なわれた。その際、従者とは別個にクロア用の文官を付けるか、という話は持ちあがったらしい。だが、自然消滅した。当時は試験的に公女の事務作業を導入する段階だったので、政務専門の官吏は必要ないと判断されたのだ。
(仕事の量はだんだん増えてきてるのよね)
最初のころは学問が優先された。そのため事務仕事はおままごとのような平易かつ少量で済んでいた。年を経るごとにあれやこれよと量が増え、とうとう学習に使っていた時間が丸々職務に取って代わるまでになった。
そろそろクロアお付きの文官が用意されてしかるべき環境になりつつある。なのに、増員は検討されていない。その原因は、クロアに付きあう従者が事務作業にも優秀だったことにある。彼らに任せておけばよいという認識がクロア以外の者たちにこびりついていた。
(うーん、でもレジィは……)
年若い従者はけっして不出来ではない。彼女の物覚えのよさはクロアをはるかに超えている。経験を積めば前任者以上の優秀な補佐役になりうる人材だ。しかし現段階では、クロアの短所を補填するまでには成長していない。就任から一年程度では無理もないことだ。ただ、彼女の成長を待つにはクロアの心の余裕が足りなかった。
クロアは文書作成と数字の確認が苦手だ。とくに文章をまとめる作業には時間と労力を多大に吸われる。ダムトが不在な今日、クロアは自身のいたらなさを痛感する。
(ダムトがいたら、もっと楽なんだけれど……)
報告書に必要な情報は彼と共有できている。忘れっぽいクロアでは要点に抜けが出るのを、ダムトがおぎない、そして文章の体裁をととのえる──そんな助けが、いまは期待できない。
(戦士だけじゃなくて、政務の助っ人も勧誘しようかしら?)
自身の不得意分野を長所とする人材を、この機会に見つけたい。クロアはそう思ったが、文官の登用は今回の勧誘と方向性がちがうことに気付く。この件は外部から呼びこまずとも、すでに仕官している者の中から選んでもよい。さいわい文官には不足していない町だ。現在の部署から異動しても業務に支障がない程度の、普通な者でいい。そこそこに仕事ができて、クロアに忠実な者をひとり、公女の側近に引き抜く。そんな願望を胸に秘めながら、遅い筆運びをどうにか継続する。昼食時にはようやく今日の職務をまっとうできた。
クロアの仕事の成果を、レジィがほかの部署へ提出しにいった。それが終われば彼女は昼食を執務室まで運んでくれることになっている。
クロアは食事にありつくまでの待ち時間を、ベニトラと触れあいながらすごす。この獣は職務遂行中の二人を尻目に、室内をうろうろ闊歩してみたり窓辺で日向ぼっこしたりと遊んでいた。その自由さをクロアはうらやましいと思った。こんなふうに安全な場所で、高貴な者に飼われる獣は、いいものである。これといった義務はなく、ただそこに居るだけでよいのだ。しかしベニトラ自身は安逸をむさぼることを良しとする気質かどうか、まだわからない。初日は真逆なことを言っていたおぼえがある。
「ねえあなた、山や野原ですごすのがいいって、言ってたのよね?」
クロアは自身の膝の上で横たわる獣に話しかけた。朱色の猫はクロアに腹を見せた状態で、太い尻尾をぽふぽふとクロアの手に当てる。
「いかにも」
「家の中にいたんじゃ、退屈でしょう。どうしてわたしのそばにいてくれるの?」
「他出の念、いまだ湧かず」
「まだ外が恋しくないわけね?」
「そうだ」
「そう。ちょうどよかったわ。今日は午後からあなたに必要なお買い物もしたいの。それまではわたしについてきてね」
猫はクロアの顔を見上げた。喉元の毛のハゲた部分を前足で触れる。
「ここを隠すものを買うと?」
「そうよ。きっと首輪を買うことになるわ。だけど首輪がイヤなら足輪でもいいの。あなたが招獣だってことを人がカンタンに見分けられるものを身につけてほしいのよ」
「承知した」
ベニトラはクロアの膝を離れ、空中を浮遊する。そのまま日当たりのよい窓辺で外をながめだした。クロアは膝のぬくもりが冷める感触に、わずかなさびしさがこみあげる。しかしレジィが入室してくると、その感情はかき消された。
タグ:クロア