2019年01月26日
クロア篇−2章4
クロアが苦手とする老爺は去った。クロアはあらためて食卓に気持ちを向ける。すると家長が困ったかのように視線を机上に落としている。
「あまりカスバンを悪く思わないでくれ」
クノードは老爺の対応を弁護する。これはクロアの予想できていた父の反応だ。
「彼もクロアに大事があってはいけないと心配しているんだ」
「いいえ、その表現は正しくありません」
クロアはあの高官がそんな人情家ではないという自信がある。
「あの者が案じるのはアンペレの将来だけ。領地をとりまとめる旗頭(はたがしら)の血筋さえ保てたら、ほかのことはどうでもよいのですわ」
「それは……」
父にも心当たりがあるらしく、言葉を濁した。クロアはさらに続ける。
「カスバンはこのわたしに、そこらへんの良家や商家の息子の縁談を持ちこむのですよ。名前だけの凡夫なぞ、わたしに釣り合うはずがありませんわ」
クロアは夫の条件を不当に高望みしているつもりはなかった。なぜならクロアは次期領主である。だがクロア自身はあいにく政治能力に秀でていない。ならばこそ伴侶には自分の短所を補える知恵者を求めたいと考えている。並大抵の男性を婿にとる気は毛頭ないのだ。
このようなクロアの意に反して、老爺が婿候補として挙げる人物はどれも凡人だった。まるでクロアの為政方針は平々凡々でよいと言わんばかりの選出だ。それがクロアにはおもしろくない。
「これでもあの者がわたしを気遣っているとおっしゃるの?」
「……なかなか言うようになったね」
「ええ、言いますわ。お父さまがガツンとお言いにならないんですもの。だからあの老骨は調子に乗るんですのよ」
クノードは一転してにこやかに笑う。
「その勝気な性格はいったいどこからきたんだろうね」
「さあ……きっとダムトの影響ですわ」
クロアは先日の従者との小競り合いを思い出す。
「ダムトと一緒にいると口が減らなくなりますの」
「彼はクロアの情操教育には良くない男だったかな」
「いまさらお気づきになっても遅いですわよ」
クロアが笑って言い返した。その一言によって家族の談笑が巻き起こる。やっと重い空気が晴れて、クロアは朝食に口をつけた。
朝食後、クロアは自身と従者用の執務室にこもった。午前中はこうして従者とともに事務に従事する。それがクロアの果たすべき義務だ。だがクロアに付き添う従者のほうは、本来の職務とは言いにくかった。
従者はもともと、クロアの護衛と世話のために設置された職分だった。それがいまではクロアの事務作業にたずさわる。そういった補佐も職務の一環となった。いわば公女の補佐官だ。
従者のあらたな職務追加は、クロアが日々の公務を課せられたときに行なわれた。その際、従者とは別個にクロア用の文官を付けるか、という話は持ちあがったらしい。だが、自然消滅した。当時は試験的に公女の事務作業を導入する段階だったので、政務専門の官吏は必要ないと判断されたのだ。
(仕事の量はだんだん増えてきてるのよね)
最初のころは学問が優先された。そのため事務仕事はおままごとのような平易かつ少量で済んでいた。年を経るごとにあれやこれよと量が増え、とうとう学習に使っていた時間が丸々職務に取って代わるまでになった。
そろそろクロアお付きの文官が用意されてしかるべき環境になりつつある。なのに、増員は検討されていない。その原因は、クロアに付きあう従者が事務作業にも優秀だったことにある。彼らに任せておけばよいという認識がクロア以外の者たちにこびりついていた。
(うーん、でもレジィは……)
年若い従者はけっして不出来ではない。彼女の物覚えのよさはクロアをはるかに超えている。経験を積めば前任者以上の優秀な補佐役になりうる人材だ。しかし現段階では、クロアの短所を補填するまでには成長していない。就任から一年程度では無理もないことだ。ただ、彼女の成長を待つにはクロアの心の余裕が足りなかった。
クロアは文書作成と数字の確認が苦手だ。とくに文章をまとめる作業には時間と労力を多大に吸われる。ダムトが不在な今日、クロアは自身のいたらなさを痛感する。
(ダムトがいたら、もっと楽なんだけれど……)
報告書に必要な情報は彼と共有できている。忘れっぽいクロアでは要点に抜けが出るのを、ダムトがおぎない、そして文章の体裁をととのえる──そんな助けが、いまは期待できない。
(戦士だけじゃなくて、政務の助っ人も勧誘しようかしら?)
自身の不得意分野を長所とする人材を、この機会に見つけたい。クロアはそう思ったが、文官の登用は今回の勧誘と方向性がちがうことに気付く。この件は外部から呼びこまずとも、すでに仕官している者の中から選んでもよい。さいわい文官には不足していない町だ。現在の部署から異動しても業務に支障がない程度の、普通な者でいい。そこそこに仕事ができて、クロアに忠実な者をひとり、公女の側近に引き抜く。そんな願望を胸に秘めながら、遅い筆運びをどうにか継続する。昼食時にはようやく今日の職務をまっとうできた。
クロアの仕事の成果を、レジィがほかの部署へ提出しにいった。それが終われば彼女は昼食を執務室まで運んでくれることになっている。
クロアは食事にありつくまでの待ち時間を、ベニトラと触れあいながらすごす。この獣は職務遂行中の二人を尻目に、室内をうろうろ闊歩してみたり窓辺で日向ぼっこしたりと遊んでいた。その自由さをクロアはうらやましいと思った。こんなふうに安全な場所で、高貴な者に飼われる獣は、いいものである。これといった義務はなく、ただそこに居るだけでよいのだ。しかしベニトラ自身は安逸をむさぼることを良しとする気質かどうか、まだわからない。初日は真逆なことを言っていたおぼえがある。
「ねえあなた、山や野原ですごすのがいいって、言ってたのよね?」
クロアは自身の膝の上で横たわる獣に話しかけた。朱色の猫はクロアに腹を見せた状態で、太い尻尾をぽふぽふとクロアの手に当てる。
「いかにも」
「家の中にいたんじゃ、退屈でしょう。どうしてわたしのそばにいてくれるの?」
「他出の念、いまだ湧かず」
「まだ外が恋しくないわけね?」
「そうだ」
「そう。ちょうどよかったわ。今日は午後からあなたに必要なお買い物もしたいの。それまではわたしについてきてね」
猫はクロアの顔を見上げた。喉元の毛のハゲた部分を前足で触れる。
「ここを隠すものを買うと?」
「そうよ。きっと首輪を買うことになるわ。だけど首輪がイヤなら足輪でもいいの。あなたが招獣だってことを人がカンタンに見分けられるものを身につけてほしいのよ」
「承知した」
ベニトラはクロアの膝を離れ、空中を浮遊する。そのまま日当たりのよい窓辺で外をながめだした。クロアは膝のぬくもりが冷める感触に、わずかなさびしさがこみあげる。しかしレジィが入室してくると、その感情はかき消された。
「あまりカスバンを悪く思わないでくれ」
クノードは老爺の対応を弁護する。これはクロアの予想できていた父の反応だ。
「彼もクロアに大事があってはいけないと心配しているんだ」
「いいえ、その表現は正しくありません」
クロアはあの高官がそんな人情家ではないという自信がある。
「あの者が案じるのはアンペレの将来だけ。領地をとりまとめる旗頭(はたがしら)の血筋さえ保てたら、ほかのことはどうでもよいのですわ」
「それは……」
父にも心当たりがあるらしく、言葉を濁した。クロアはさらに続ける。
「カスバンはこのわたしに、そこらへんの良家や商家の息子の縁談を持ちこむのですよ。名前だけの凡夫なぞ、わたしに釣り合うはずがありませんわ」
クロアは夫の条件を不当に高望みしているつもりはなかった。なぜならクロアは次期領主である。だがクロア自身はあいにく政治能力に秀でていない。ならばこそ伴侶には自分の短所を補える知恵者を求めたいと考えている。並大抵の男性を婿にとる気は毛頭ないのだ。
このようなクロアの意に反して、老爺が婿候補として挙げる人物はどれも凡人だった。まるでクロアの為政方針は平々凡々でよいと言わんばかりの選出だ。それがクロアにはおもしろくない。
「これでもあの者がわたしを気遣っているとおっしゃるの?」
「……なかなか言うようになったね」
「ええ、言いますわ。お父さまがガツンとお言いにならないんですもの。だからあの老骨は調子に乗るんですのよ」
クノードは一転してにこやかに笑う。
「その勝気な性格はいったいどこからきたんだろうね」
「さあ……きっとダムトの影響ですわ」
クロアは先日の従者との小競り合いを思い出す。
「ダムトと一緒にいると口が減らなくなりますの」
「彼はクロアの情操教育には良くない男だったかな」
「いまさらお気づきになっても遅いですわよ」
クロアが笑って言い返した。その一言によって家族の談笑が巻き起こる。やっと重い空気が晴れて、クロアは朝食に口をつけた。
朝食後、クロアは自身と従者用の執務室にこもった。午前中はこうして従者とともに事務に従事する。それがクロアの果たすべき義務だ。だがクロアに付き添う従者のほうは、本来の職務とは言いにくかった。
従者はもともと、クロアの護衛と世話のために設置された職分だった。それがいまではクロアの事務作業にたずさわる。そういった補佐も職務の一環となった。いわば公女の補佐官だ。
従者のあらたな職務追加は、クロアが日々の公務を課せられたときに行なわれた。その際、従者とは別個にクロア用の文官を付けるか、という話は持ちあがったらしい。だが、自然消滅した。当時は試験的に公女の事務作業を導入する段階だったので、政務専門の官吏は必要ないと判断されたのだ。
(仕事の量はだんだん増えてきてるのよね)
最初のころは学問が優先された。そのため事務仕事はおままごとのような平易かつ少量で済んでいた。年を経るごとにあれやこれよと量が増え、とうとう学習に使っていた時間が丸々職務に取って代わるまでになった。
そろそろクロアお付きの文官が用意されてしかるべき環境になりつつある。なのに、増員は検討されていない。その原因は、クロアに付きあう従者が事務作業にも優秀だったことにある。彼らに任せておけばよいという認識がクロア以外の者たちにこびりついていた。
(うーん、でもレジィは……)
年若い従者はけっして不出来ではない。彼女の物覚えのよさはクロアをはるかに超えている。経験を積めば前任者以上の優秀な補佐役になりうる人材だ。しかし現段階では、クロアの短所を補填するまでには成長していない。就任から一年程度では無理もないことだ。ただ、彼女の成長を待つにはクロアの心の余裕が足りなかった。
クロアは文書作成と数字の確認が苦手だ。とくに文章をまとめる作業には時間と労力を多大に吸われる。ダムトが不在な今日、クロアは自身のいたらなさを痛感する。
(ダムトがいたら、もっと楽なんだけれど……)
報告書に必要な情報は彼と共有できている。忘れっぽいクロアでは要点に抜けが出るのを、ダムトがおぎない、そして文章の体裁をととのえる──そんな助けが、いまは期待できない。
(戦士だけじゃなくて、政務の助っ人も勧誘しようかしら?)
自身の不得意分野を長所とする人材を、この機会に見つけたい。クロアはそう思ったが、文官の登用は今回の勧誘と方向性がちがうことに気付く。この件は外部から呼びこまずとも、すでに仕官している者の中から選んでもよい。さいわい文官には不足していない町だ。現在の部署から異動しても業務に支障がない程度の、普通な者でいい。そこそこに仕事ができて、クロアに忠実な者をひとり、公女の側近に引き抜く。そんな願望を胸に秘めながら、遅い筆運びをどうにか継続する。昼食時にはようやく今日の職務をまっとうできた。
クロアの仕事の成果を、レジィがほかの部署へ提出しにいった。それが終われば彼女は昼食を執務室まで運んでくれることになっている。
クロアは食事にありつくまでの待ち時間を、ベニトラと触れあいながらすごす。この獣は職務遂行中の二人を尻目に、室内をうろうろ闊歩してみたり窓辺で日向ぼっこしたりと遊んでいた。その自由さをクロアはうらやましいと思った。こんなふうに安全な場所で、高貴な者に飼われる獣は、いいものである。これといった義務はなく、ただそこに居るだけでよいのだ。しかしベニトラ自身は安逸をむさぼることを良しとする気質かどうか、まだわからない。初日は真逆なことを言っていたおぼえがある。
「ねえあなた、山や野原ですごすのがいいって、言ってたのよね?」
クロアは自身の膝の上で横たわる獣に話しかけた。朱色の猫はクロアに腹を見せた状態で、太い尻尾をぽふぽふとクロアの手に当てる。
「いかにも」
「家の中にいたんじゃ、退屈でしょう。どうしてわたしのそばにいてくれるの?」
「他出の念、いまだ湧かず」
「まだ外が恋しくないわけね?」
「そうだ」
「そう。ちょうどよかったわ。今日は午後からあなたに必要なお買い物もしたいの。それまではわたしについてきてね」
猫はクロアの顔を見上げた。喉元の毛のハゲた部分を前足で触れる。
「ここを隠すものを買うと?」
「そうよ。きっと首輪を買うことになるわ。だけど首輪がイヤなら足輪でもいいの。あなたが招獣だってことを人がカンタンに見分けられるものを身につけてほしいのよ」
「承知した」
ベニトラはクロアの膝を離れ、空中を浮遊する。そのまま日当たりのよい窓辺で外をながめだした。クロアは膝のぬくもりが冷める感触に、わずかなさびしさがこみあげる。しかしレジィが入室してくると、その感情はかき消された。
タグ:クロア
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