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2019年01月23日
クロア篇−2章1
クロアは自室の寝台で朝を迎えた。寝返りをうつと、手にあたたかいものが当たる。ほわほわした毛皮だ。毛皮をもちいた衣類や小物なぞ持っていただろうか、と不思議に思ったクロアは目を開ける。枕のそばに、朱色で縞柄の毛玉が置いてある。毛玉には長い尾と丸みを帯びた耳がついていた。
(ネコ……?)
クロアはこのような獣を飼っている認識がなかった。
(どこから入ってきたのかしら……)
どうしてこの動物が自室にいるのか、クロアは思い出そうとした。とりあえず猫に触れて、体にきざんだ記憶を刺激してみる。
クロアはほわほわした猫の毛をなでる。何度か繰り返していくと、猫はうすく目を開けた。そしてなにも言わずに二度寝をする。その冷めたような、あるいは愛撫を受け入れているかのような反応には見覚えがあった。
(あ……この子は昨日……)
クロアの記憶がもどってくる。町に危険物が侵入した際に鳴る警報、飛馬で空を駆ける感覚、町を襲撃した魔獣を山中の洞窟まで追い詰めたときに見た、魔獣の牙。目まぐるしい一日の思い出だ。それらが脳裏によみがえったクロアは上体を起こした。乱れた掛け布団を直しつつ、昨晩の自室の様子を想起する。
就寝前、猫型の魔獣は寝台の布団の上にいた。その位置はクロアの足元だった。それが今朝、クロアの頭のちかくに移動している。猫がこうする理由はおもに二つあるだろう。クロアは自分が信じたいほうの理由を口にする。
「あら、わたしの顔をながめたくて、こっちで寝たの?」
ベニトラは半開きの目でクロアを見る。
「おぬしは寝相がわるい」
姿は愛らしい幼獣が、クロアの寝住まいをたしなめた。クロアはかよわき者に迷惑をかけた気がして、無性にはずかしくなる。
「ごめんなさいね、寝相は自分の気持ちじゃどうにもできないわ」
「それゆえ、こちらの寝場所を変えた」
先日の荒々しい魔獣の態度がどこへやら。クロアはベニトラを押しつぶすか蹴りとばすかしただろうに、この獣はその失態に反抗する意思がない。実に寛容だ。クロアはすっかりベニトラを自身の保護者のひとりとして信用しはじめた。
(うーん、この寝方じゃあこの子がかわいそうね)
ベニトラはいまの位置取りが安全だと思っているらしい。が、クロアはそこでは不十分だと思った。なぜならクロアが寝返りをうった際にベニトラにさわったからだ。クロアが寝台にいるかぎり、寝台上に完全な安置はない。ベニトラが棚や椅子で寝ればクロアと接触せずにすむはずだが、そうしなかった理由は。
「あなた、お布団の上でねるのが好きなの?」
「どこでも寝れる。だがやわらかいものは寝心地がいい」
「それなら、あなた用の寝場所を用意しましょうか。どれくらいの広さがいい?」
「いまのこの身がおさまるほどに」
「わかったわ。考えてみる」
ベニトラと言葉を交わすたび、クロアはこの猫が野生の魔獣とは異なるという印象を受けた。妙に人間への理解が深いのだ。
そもそも、ベニトラの名は招術士が付けたと言っていた。つまり、クロアに出会う以前からだれかの招獣だったということだ。魔獣は複数の術士と招獣の関係を持つことができるので、それ自体は珍しいことではない。だがベニトラはこれまで、石付きの魔獣として人々に恐怖を植えつける害獣でいた。
「ねえ、どうして石付きの魔獣なんかになったの?」
「……」
「だれも助けてくれなかった? 前の招術士は?」
「知らん。とうに、呼ばれなくなった」
「そう……」
空を飛べる招獣は移動手段として珍重する。そんな有用な招獣を招術士が長期間放置する事態──考えうる可能性を、クロアはあえて言葉にしなかった。
とはいえ、ベニトラの招術士には興味がある。クロアはその人物を聞きだそうと思ったが、自室の戸が叩かれたせいで意識がそちらに向く。音の出所は廊下でない。クロアの部屋と隣接する部屋のほうだ。隣室はレジィの寝室である。そこは女性従者の部屋として長年使われている。
「クロアさま、入ります」
クロアが「どうぞ」と言うとレジィが入室する。彼女はすでに普段着を着ていた。レジィの裁量でクロアも身支度を整える。顔を洗ったり、服を着替えたりしたのち、鏡台の前に移動する。そこで自身の長い髪をレジィにすいてもらった。
レジィは複数の年下の兄弟を世話してきた少女。クロアの身支度を整える手つきも慣れたものだ。レジィはクロアより年少でいながら、時々母親を思わせる雰囲気がある。クロアは口にこそ出さないが、レジィは将来良い母になるだろうと感じていた。同時に、さびしさもこみあげた。
従者とは、良き母と両立できない職務。レジィが母になるのはつまり、クロアの従者ではいられなくなることを意味した。そういった別離をクロアは経験している。いずれはおとずれる別れだが、いまはその未来から目をそむけた。
(ネコ……?)
クロアはこのような獣を飼っている認識がなかった。
(どこから入ってきたのかしら……)
どうしてこの動物が自室にいるのか、クロアは思い出そうとした。とりあえず猫に触れて、体にきざんだ記憶を刺激してみる。
クロアはほわほわした猫の毛をなでる。何度か繰り返していくと、猫はうすく目を開けた。そしてなにも言わずに二度寝をする。その冷めたような、あるいは愛撫を受け入れているかのような反応には見覚えがあった。
(あ……この子は昨日……)
クロアの記憶がもどってくる。町に危険物が侵入した際に鳴る警報、飛馬で空を駆ける感覚、町を襲撃した魔獣を山中の洞窟まで追い詰めたときに見た、魔獣の牙。目まぐるしい一日の思い出だ。それらが脳裏によみがえったクロアは上体を起こした。乱れた掛け布団を直しつつ、昨晩の自室の様子を想起する。
就寝前、猫型の魔獣は寝台の布団の上にいた。その位置はクロアの足元だった。それが今朝、クロアの頭のちかくに移動している。猫がこうする理由はおもに二つあるだろう。クロアは自分が信じたいほうの理由を口にする。
「あら、わたしの顔をながめたくて、こっちで寝たの?」
ベニトラは半開きの目でクロアを見る。
「おぬしは寝相がわるい」
姿は愛らしい幼獣が、クロアの寝住まいをたしなめた。クロアはかよわき者に迷惑をかけた気がして、無性にはずかしくなる。
「ごめんなさいね、寝相は自分の気持ちじゃどうにもできないわ」
「それゆえ、こちらの寝場所を変えた」
先日の荒々しい魔獣の態度がどこへやら。クロアはベニトラを押しつぶすか蹴りとばすかしただろうに、この獣はその失態に反抗する意思がない。実に寛容だ。クロアはすっかりベニトラを自身の保護者のひとりとして信用しはじめた。
(うーん、この寝方じゃあこの子がかわいそうね)
ベニトラはいまの位置取りが安全だと思っているらしい。が、クロアはそこでは不十分だと思った。なぜならクロアが寝返りをうった際にベニトラにさわったからだ。クロアが寝台にいるかぎり、寝台上に完全な安置はない。ベニトラが棚や椅子で寝ればクロアと接触せずにすむはずだが、そうしなかった理由は。
「あなた、お布団の上でねるのが好きなの?」
「どこでも寝れる。だがやわらかいものは寝心地がいい」
「それなら、あなた用の寝場所を用意しましょうか。どれくらいの広さがいい?」
「いまのこの身がおさまるほどに」
「わかったわ。考えてみる」
ベニトラと言葉を交わすたび、クロアはこの猫が野生の魔獣とは異なるという印象を受けた。妙に人間への理解が深いのだ。
そもそも、ベニトラの名は招術士が付けたと言っていた。つまり、クロアに出会う以前からだれかの招獣だったということだ。魔獣は複数の術士と招獣の関係を持つことができるので、それ自体は珍しいことではない。だがベニトラはこれまで、石付きの魔獣として人々に恐怖を植えつける害獣でいた。
「ねえ、どうして石付きの魔獣なんかになったの?」
「……」
「だれも助けてくれなかった? 前の招術士は?」
「知らん。とうに、呼ばれなくなった」
「そう……」
空を飛べる招獣は移動手段として珍重する。そんな有用な招獣を招術士が長期間放置する事態──考えうる可能性を、クロアはあえて言葉にしなかった。
とはいえ、ベニトラの招術士には興味がある。クロアはその人物を聞きだそうと思ったが、自室の戸が叩かれたせいで意識がそちらに向く。音の出所は廊下でない。クロアの部屋と隣接する部屋のほうだ。隣室はレジィの寝室である。そこは女性従者の部屋として長年使われている。
「クロアさま、入ります」
クロアが「どうぞ」と言うとレジィが入室する。彼女はすでに普段着を着ていた。レジィの裁量でクロアも身支度を整える。顔を洗ったり、服を着替えたりしたのち、鏡台の前に移動する。そこで自身の長い髪をレジィにすいてもらった。
レジィは複数の年下の兄弟を世話してきた少女。クロアの身支度を整える手つきも慣れたものだ。レジィはクロアより年少でいながら、時々母親を思わせる雰囲気がある。クロアは口にこそ出さないが、レジィは将来良い母になるだろうと感じていた。同時に、さびしさもこみあげた。
従者とは、良き母と両立できない職務。レジィが母になるのはつまり、クロアの従者ではいられなくなることを意味した。そういった別離をクロアは経験している。いずれはおとずれる別れだが、いまはその未来から目をそむけた。
タグ:クロア
2019年01月22日
クロア篇−1章7
居室に二人の女性が現れた。レジィと貴婦人。この婦人がアンペレ公夫人のフュリヤだ。外見年齢はクロアのすこし上といったところ。母は父に嫁いだときから容貌が変わらないそうだ。その若々しさの原因は彼女が受け継ぐ魔障の血にある。フュリヤは父親が人でない者だった。そんな片親と人間の親をもつ子は半魔とよばれ、その多くは不老長寿だという。
フュリヤはいつも顔以外の肌を一切見せぬ衣装を纏っている。外出の際は顔さえも薄絹で覆い隠した。過剰なまでに露出を抑えるには理由がある。夫以外の異性を色気で惑わせないためだ。彼女自身は普通に過ごしていても、美貌と魅惑的な肉体に心を乱される男性が出るのだ。この特性も、フュリヤの父親が関係するらしいとクロアは聞いている。
フュリヤは帰宅の挨拶をし、夫の近くの席に座った。手には菓子箱がある。
「これは聖都で流行りのお菓子なんですって。お食べになります?」
「みんなで食べよう。レジィも座って食べなさい」
「ご相伴にあずかります」
レジィはクロアの隣りに座った。お茶会に参加する従者がいる一方で、ダムトは当主と夫人に茶を配る。彼と同格なレジィはお茶くみ係をダムトに一任した。
少女従者はクロアの膝にいる獣をなでる。フュリヤがレジィの行動を見ると、見慣れぬ生き物がいることに気付く。
「まあ、その猫はどこで見つけたの?」
「町の上を飛んでいましたの」
フュリヤはきょとんとする。どうもクロアが普通の捨て猫を拾ってきたものだと考えていたらしい。
「猫が空を飛ぶ……?」
「それを飛馬で追いかけて、捕まえましたわ」
フュリヤはクロアの猫が普通の動物ではないと理解し、
「では住民の苦情が出ていた、魔獣?」
とたずねた。クロアはうなずく。
「はい、石付きの魔獣でした」
クロアはベニトラの両脇を抱え上げた。指の先で、赤い石が付着していた痕跡を示す。
「ここの毛のハゲた部分に赤い石がくっついていましたの」
フュリヤは猫の喉元にある小さな円形脱毛の部位を見た。すると憐れみの表情を浮かべる。
「かわいそうに。毛が生えそろうのにどれくらい時間がかかるのかしら」
「ゆっくり休ませればそのうち元通りになりますわ」
「そう……でも、そのままでいいの? 布でも巻いたら……」
「この子は体の大きさを自由に変えますから、普通の布はまずいですわね。首が絞まってしまいます」
ダムトがクロアの茶を注ぎはじめた。同時に「招獣の専門店に行かれてはどうです」と提案する。
「招獣の変身に合わせて伸びちぢみする首輪があると聞きます」
「あら、便利なものがあるのね」
「いまのベニトラは野生の魔獣と見分けがつきませんし、招獣だという証明も兼ねて、購入を検討されてはいかがです?」
「いいわね。明日、店の者を屋敷によべるかしら……」
クロアは周囲の教育方針のもと、外出をする機会がすくない。着る服を選んだり髪の毛を切ったりするにしても、外部からそれ専門の人をまねく。屋敷内で日常のすべてをすませるのだ。ただし演劇鑑賞や領内の祭りの見物などは別だ。実施できる場所が限定される催し物に参加する場合、外出の許可がおりた。
「出かけたらいい」
クロアは耳をうたがった。発言者の男性の顔を見る。父は慈愛に満ちた視線を娘にそそぐ。
「招獣の専門店にはきっとクロアのいい刺激になるものがある。じかに見てきてもかまわない」
「よろしいんですの? わたし、私用な外出は……」
「ああ、いいとも」
クロアは喜色満面になり、クロアの分の茶をそそぎおえた従者の腕をつかむ。
「よーし、明日はお出かけよ!」
ダムトはなぜか首をひねる。
「ええ、それで満足されるのでしたら……」
「なあに? もったいぶった言い方ね」
クロアはダムトの腕を放した。彼はレジィの茶を用意しはじめる。ダムトは会話を続ける気がない、と見たクロアはさきほどの上機嫌が吹っ飛ぶ。
「言いたいことがあるんなら言いなさい」
「この場では言いにくいことかと」
「お父さまやお母さまに隠し立てすることが、わたしにあると言うの?」
クロアが詰問した。ダムトは下男の務めを中断すると、クロアを正視する。
「……盗賊討伐はいかがします?」
クロアがすっかり失念していた話題だ。その計画も早期に取りかかりたい事柄である。
「その件は情報収集が先決ね」
その役目を担う人物はこの男性従者だ。クロアは言外の前提をもって話をすすめる。
「住処や団員数や所有する兵器諸々、調べてちょうだい」
「承りました」
クノードが「盗賊討伐?」といぶかしむ。優しげな顔にかげりがのぼりはじめた。
「まさか、またクロアが危険なことに首をつっこむつもりじゃないだろうね?」
「ダムトが一緒ですし、いまはベニトラもいます。ご安心なさって」
クロアは本気でそう思っていた。だが父の表情は和らがない。
「今日の魔獣退治は相手が一体だから送り出せたが、敵が複数となると話はちがってくる状況によっては、飛獣に乗って逃げることができないかもしれない」
「その危険はわかっております。それゆえ斥候を出して、敵勢を把握するのですわ」
「私の指示なしで、か?」
途端に張りつめた空気が形成される。ダムトがレジィの茶を注ぐ音が部屋に響いた。
「クロアが民衆のためを思って努力していることはわかっている。だが勝手な判断はいけない。斥候を偵察に向かわせることさえ、私にうかがいを立てるべきなんだ」
「私に割り当てた従者への命令は好きにしてよい、とおっしゃったのに?」
「たしかにダムトとレジィへの指示内容はクロアの自由だ。だけど条件を言っただろう? 危険だとわかっていることをさせないこと、無理難題を押しつけないこと……それと、私の意思に反する命令はしないこと」
おもに三つめの条件に抵触する、とクノードは言いたげだ。しかしクロアはそこをひっくり返す。
「盗賊が討たれれば人々はよろこびます。そのよろこびがお父さまの望みではないと言うの?」
領民の幸福こそが領主の幸福。これは為政者がすべからく抱くべき仁愛の心だ。仁政をほどこす父には的確な反論だとクロアは思った。
「結果はいい。私が不満なのはその過程だ」
しかしクノードは堪えていない。
「私の後継者を危険にさらすわけにはいかない。せめて多くの手練れがそろわなければ、心許ないんだ」
「そうはおっしゃるけれど、このアンペレにわたしを凌ぐ強者がおりますか? 新兵の募集をかけたって満足のいく人員が集まらない町ですのに」
それが工都と謳われるアンペレの最大の欠点だ。職人を目指しに訪れる者はいても、武人になろうとする者は内外問わずすくない。だからこそ、父の認可が下りる条件は実質不可能だと言ってよい。
クノードは憮然とした面持ちになる。
「……討伐に向けて募集をかけなさい。それで人が来なければ諦めるんだ」
「そんな、受け身のままでは盗賊に好き勝手されるだけですわ」
「大きな被害があったときは聖都から援軍を要請できる」
それは最大の後ろ盾だ。この町が自衛力にとぼしくても存続できる理由である。
「クロアが危ない思いをする必要はない。わかったね、この話はおしまいだ」
クノードは次にフュリヤに話題を振る。聖都の学校で学ぶ、クロアの妹と弟のことを尋ねた。今回のフュリヤの外出目的はクロアと歳の離れた幼い家族に会うこと。その話をするつもりでクロアたちが居室に集合したのだ。
クロアは父の言い付けを承服しかねた。それゆえ両親の話に加わらず、ただ茶と甘い菓子をほおばった。
フュリヤはいつも顔以外の肌を一切見せぬ衣装を纏っている。外出の際は顔さえも薄絹で覆い隠した。過剰なまでに露出を抑えるには理由がある。夫以外の異性を色気で惑わせないためだ。彼女自身は普通に過ごしていても、美貌と魅惑的な肉体に心を乱される男性が出るのだ。この特性も、フュリヤの父親が関係するらしいとクロアは聞いている。
フュリヤは帰宅の挨拶をし、夫の近くの席に座った。手には菓子箱がある。
「これは聖都で流行りのお菓子なんですって。お食べになります?」
「みんなで食べよう。レジィも座って食べなさい」
「ご相伴にあずかります」
レジィはクロアの隣りに座った。お茶会に参加する従者がいる一方で、ダムトは当主と夫人に茶を配る。彼と同格なレジィはお茶くみ係をダムトに一任した。
少女従者はクロアの膝にいる獣をなでる。フュリヤがレジィの行動を見ると、見慣れぬ生き物がいることに気付く。
「まあ、その猫はどこで見つけたの?」
「町の上を飛んでいましたの」
フュリヤはきょとんとする。どうもクロアが普通の捨て猫を拾ってきたものだと考えていたらしい。
「猫が空を飛ぶ……?」
「それを飛馬で追いかけて、捕まえましたわ」
フュリヤはクロアの猫が普通の動物ではないと理解し、
「では住民の苦情が出ていた、魔獣?」
とたずねた。クロアはうなずく。
「はい、石付きの魔獣でした」
クロアはベニトラの両脇を抱え上げた。指の先で、赤い石が付着していた痕跡を示す。
「ここの毛のハゲた部分に赤い石がくっついていましたの」
フュリヤは猫の喉元にある小さな円形脱毛の部位を見た。すると憐れみの表情を浮かべる。
「かわいそうに。毛が生えそろうのにどれくらい時間がかかるのかしら」
「ゆっくり休ませればそのうち元通りになりますわ」
「そう……でも、そのままでいいの? 布でも巻いたら……」
「この子は体の大きさを自由に変えますから、普通の布はまずいですわね。首が絞まってしまいます」
ダムトがクロアの茶を注ぎはじめた。同時に「招獣の専門店に行かれてはどうです」と提案する。
「招獣の変身に合わせて伸びちぢみする首輪があると聞きます」
「あら、便利なものがあるのね」
「いまのベニトラは野生の魔獣と見分けがつきませんし、招獣だという証明も兼ねて、購入を検討されてはいかがです?」
「いいわね。明日、店の者を屋敷によべるかしら……」
クロアは周囲の教育方針のもと、外出をする機会がすくない。着る服を選んだり髪の毛を切ったりするにしても、外部からそれ専門の人をまねく。屋敷内で日常のすべてをすませるのだ。ただし演劇鑑賞や領内の祭りの見物などは別だ。実施できる場所が限定される催し物に参加する場合、外出の許可がおりた。
「出かけたらいい」
クロアは耳をうたがった。発言者の男性の顔を見る。父は慈愛に満ちた視線を娘にそそぐ。
「招獣の専門店にはきっとクロアのいい刺激になるものがある。じかに見てきてもかまわない」
「よろしいんですの? わたし、私用な外出は……」
「ああ、いいとも」
クロアは喜色満面になり、クロアの分の茶をそそぎおえた従者の腕をつかむ。
「よーし、明日はお出かけよ!」
ダムトはなぜか首をひねる。
「ええ、それで満足されるのでしたら……」
「なあに? もったいぶった言い方ね」
クロアはダムトの腕を放した。彼はレジィの茶を用意しはじめる。ダムトは会話を続ける気がない、と見たクロアはさきほどの上機嫌が吹っ飛ぶ。
「言いたいことがあるんなら言いなさい」
「この場では言いにくいことかと」
「お父さまやお母さまに隠し立てすることが、わたしにあると言うの?」
クロアが詰問した。ダムトは下男の務めを中断すると、クロアを正視する。
「……盗賊討伐はいかがします?」
クロアがすっかり失念していた話題だ。その計画も早期に取りかかりたい事柄である。
「その件は情報収集が先決ね」
その役目を担う人物はこの男性従者だ。クロアは言外の前提をもって話をすすめる。
「住処や団員数や所有する兵器諸々、調べてちょうだい」
「承りました」
クノードが「盗賊討伐?」といぶかしむ。優しげな顔にかげりがのぼりはじめた。
「まさか、またクロアが危険なことに首をつっこむつもりじゃないだろうね?」
「ダムトが一緒ですし、いまはベニトラもいます。ご安心なさって」
クロアは本気でそう思っていた。だが父の表情は和らがない。
「今日の魔獣退治は相手が一体だから送り出せたが、敵が複数となると話はちがってくる状況によっては、飛獣に乗って逃げることができないかもしれない」
「その危険はわかっております。それゆえ斥候を出して、敵勢を把握するのですわ」
「私の指示なしで、か?」
途端に張りつめた空気が形成される。ダムトがレジィの茶を注ぐ音が部屋に響いた。
「クロアが民衆のためを思って努力していることはわかっている。だが勝手な判断はいけない。斥候を偵察に向かわせることさえ、私にうかがいを立てるべきなんだ」
「私に割り当てた従者への命令は好きにしてよい、とおっしゃったのに?」
「たしかにダムトとレジィへの指示内容はクロアの自由だ。だけど条件を言っただろう? 危険だとわかっていることをさせないこと、無理難題を押しつけないこと……それと、私の意思に反する命令はしないこと」
おもに三つめの条件に抵触する、とクノードは言いたげだ。しかしクロアはそこをひっくり返す。
「盗賊が討たれれば人々はよろこびます。そのよろこびがお父さまの望みではないと言うの?」
領民の幸福こそが領主の幸福。これは為政者がすべからく抱くべき仁愛の心だ。仁政をほどこす父には的確な反論だとクロアは思った。
「結果はいい。私が不満なのはその過程だ」
しかしクノードは堪えていない。
「私の後継者を危険にさらすわけにはいかない。せめて多くの手練れがそろわなければ、心許ないんだ」
「そうはおっしゃるけれど、このアンペレにわたしを凌ぐ強者がおりますか? 新兵の募集をかけたって満足のいく人員が集まらない町ですのに」
それが工都と謳われるアンペレの最大の欠点だ。職人を目指しに訪れる者はいても、武人になろうとする者は内外問わずすくない。だからこそ、父の認可が下りる条件は実質不可能だと言ってよい。
クノードは憮然とした面持ちになる。
「……討伐に向けて募集をかけなさい。それで人が来なければ諦めるんだ」
「そんな、受け身のままでは盗賊に好き勝手されるだけですわ」
「大きな被害があったときは聖都から援軍を要請できる」
それは最大の後ろ盾だ。この町が自衛力にとぼしくても存続できる理由である。
「クロアが危ない思いをする必要はない。わかったね、この話はおしまいだ」
クノードは次にフュリヤに話題を振る。聖都の学校で学ぶ、クロアの妹と弟のことを尋ねた。今回のフュリヤの外出目的はクロアと歳の離れた幼い家族に会うこと。その話をするつもりでクロアたちが居室に集合したのだ。
クロアは父の言い付けを承服しかねた。それゆえ両親の話に加わらず、ただ茶と甘い菓子をほおばった。
タグ:クロア