2019年01月19日
クロア篇−1章5
クロアは自室にもどり、武装を解こうとした。その際に抱いていた猫を寝台のふちにのせる。猫は脱力した状態で、ふかふかな布団に腹這いになった。その様子を見たレジィが「あ、いいんですか?」と申し訳なさそうに言う。
「お布団のうえは清潔になさったほうが……」
「この子、よごれてる?」
この子、とは体を小さく変じたベニトラのことだ。よごれらしいよごれは見当たらず、クロアはこの生き物を清いものとして見ていた。
「いえ……ずっと外で生活をしてた子ですし、一回は体を洗ったらいいかな、と」
「うーん、きれいにしておいて損はないわね」
これから母にも見せるのだから、とクロアは思った。現在、クロアの母はこの国の中心都市へ出かけている。母の帰りは今日の夕方前後。クロアとその父はもともと、本日の職務を終えたあとに居室で母を待つ予定でいた。いまのところ、母の到着の報せは入っていない。
「お母さまが帰ってくるまで、時間はありそうね」
「お風呂に入れさせます?」
「そうしましょう。ベニトラ、お湯は平気?」
朱色の猫はこっくり頭を上下にうごかした。
クロアはまず武具を外してかかる。身軽になったのちにレジィとともに風呂場へ行った。そこはクロアの家族が自由にいつでも使用できる場所だ。浴槽の広さは成人が二人ばかし入れるほど。貴人の屋敷の浴場にしてはこじんまりとした規模かもしれない。この領地の財力をもってすれば大浴場を領主一家の風呂場にすることも可能だが、広さよりもむしろ手軽に入浴できる利便性のほうをクロアやクノードは好んでいる。水道からは常にお湯が出せる仕組みになっていて、入浴準備に時間がかからないのだ。
浴槽内には入浴者の足場となる段差がある。その段差を超えない程度にお湯を入れる。すくなめの湯の中にベニトラを漬けた。ベニトラは浴槽内の段差にあごをのせ、目をつむる。四肢の太い猫は無抵抗をつらぬくようだ。クロアは安心してレジィに入浴介助をたのんだ。
ベニトラの湯あみが完了した。クロアは洗われたベニトラを抱いて屋敷の居室に集合する。居室はクロアの家族が食事をとったり歓談したりする憩いの場だ。まだクロアの父母はいない。だがダムトは在席している。彼は室内の清掃に取りかかっていた。
ダムトはクロアと別行動している間、荷台の片付けや飛馬にあずけた荷物の回収などをしていた。それが終わると今度は下男の仕事をこなしている。これは彼の普段の職務のうちだ。クロアはとくに気にせず、椅子に座った。
クロアは自身の膝にベニトラをのせた。ベニトラは幼獣に変化した以降、ずっとクロアに身を任せている。その無防備さやしぐさは飼い猫となんら変わりない。
「かわいい猫ちゃんですよね〜」
レジィが朱色の猫の頭をしきりになでる。彼女はすでにこの獣を一家の一員と認め、かわいがっているのだ。
「この子、ヤギのお乳は飲めるんでしょうか?」
「水で充分よ。自在に変化できるほどの強力な魔獣には飲食が必要ないというもの」
「でも、病み上がりでしょう?」
意外なことにレジィが食い下がる。慈愛の心が人一倍強い者には通説など関係ないようだ。
「なにか栄養になる食べ物をあげてはどうでしょうか」
「うーん、そう言われてみると……精のつくものをあげたらいいわね」
この獣は見るからに疲労困憊している。最良の状態を早期にとりもどせる方法があるのなら、それを実行するべきだ。招獣をいたわることは招術士の役目でもある。それに、自身の片腕たる従者には気分よくすごしてほしいとクロアは思う。クロアとレジィの意思が合致することは積極的にやっていきたい。
「招獣の場合、体力よりも精気の回復を優先させるといいんだったかしら?」
「はい。精気がもどれば体力も、ケガをしたところも早くよくなるそうです」
ベニトラには目立った外傷がない。だが赤い石が埋め込まれていた首元には円形のハゲができている。現在小型化したおかげでハゲの面積も小さくはなったが、やはり気にはなる。抜けた毛が生えそろう時間にも、きっと精気の多寡が関係するだろう。
「失った精気を回復するものといったら、なにかしら?」
「術酒……はお酒だからちょっとあぶないですね」
レジィは猫をめでつつ招獣向きの食事を思案する。
「あ、聖都の清水がありますね。子どもも飲める精気回復薬なんですよ」
「いいわね。もらってきてちょうだい」
レジィは小躍りしながら退室した。その態度を察するに、ベニトラの面倒を看たくてたまらないようだ。クロアはこの反応が彼女らしいと感じた。
レジィの性格は世話好きだ。そうなったきっかけは彼女に年下の兄弟がたくさんいること。レジィはクロアより年少でいながら、弟らの世話をこなす姉でもある。愛情豊かな少女は目下の子どもや小動物を見るとほうっておけなくなるらしい。
そしてなにより、いまのベニトラは愛嬌たっぷりな姿でいる。普通の猫とはちがい、体が骨太だが、その特徴には並みの猫にないかわいげがある。
(ダムトも「かわいい」と思ってるのかしら?)
クロアはもう片方の側近を見た。彼は雑務中で、長机に茶器を並べている。
「フュリヤ様は聖都からおもどりになったそうです」
ダムトが言葉を発した。彼はもうじきこの部屋にあらわれる当主とその夫人を待っている。
「もうお見えになってよい頃合いですが……」
彼の思考には新参の招獣がいない。クロアは彼の反応に素っ気なさを感じた。だが彼がかわいいものに興味のない仕事人間であることはクロアも知っている。いまさらその性情をつつく気になれず、ダムトに話を合わせる。
「みんなにお土産を配っているのかしら」
母フュリヤは遠出のおりに、家族だけでなく官吏にも土産を買ってくることがある。アンペレが擁する官吏はざっと千人を超える。大人数に配布できる土産となると、たいていはお菓子だ。母は官吏の数の倍ほどの菓子を購入しているはずだが、全員に行き渡ることはまずないらしい。母が土産を持ってきた日にたまたま出勤していた者はもらえる、というざっくりした配布だとか。
「お母さまったらマメよね」
「はい、繊細なお方です。それなのに──」
ダムトがじっとクロアの顔を見る。
「どうして娘はガサツで荒々しくなったのでしょう」
彼は無表情のまま女主人にケチをつけた。クロアはぷいっと顔をそむける。
「こんな性格でないと、魔物や悪党を叩き伏せられないでしょ」
クロアは従者の罵詈をはね返した。ダムトはアンペレ家に仕えて以来、身内には口のわるさを隠そうとしない。特にクロアに対しては顕著だ。彼の刺々しい指導のもと、クロアは悪口にへこたれない図太い精神に育った。
「ああ、きっとダムトのせいね」
クロアは負けじと嫌味に対抗する。
「あなたと言い合ううちにわたしの心も薄汚れたのだわ」
「俺の責任ですか。ご自身の生来の気質ではないとおっしゃるのですね」
「そうよ。わたしの幼いころにダムトがいなければ、もっと上品な公女になれたはずだわ」
クロアの記憶はさだかでないが、ダムトが屋敷に来た時期はクロアが五歳前後のころ。そのときから彼は勤続しつづけ、優に十年は経過している。勤めはじめは二十代の青年で、現在もその見た目のままという、彼もまた人ならざる血を引く者だ。ただし本人は素性を一切もらさない。
「俺がいなくても変わらなかったと思いますがねー」
「どうだか。あなた以上に口のよくない者はこの屋敷にいなくってよ」
会話は平行線をたどる。クロアは話を打ち切り、膝の上で丸くなる獣の横腹をわしわしとなでた。
「お布団のうえは清潔になさったほうが……」
「この子、よごれてる?」
この子、とは体を小さく変じたベニトラのことだ。よごれらしいよごれは見当たらず、クロアはこの生き物を清いものとして見ていた。
「いえ……ずっと外で生活をしてた子ですし、一回は体を洗ったらいいかな、と」
「うーん、きれいにしておいて損はないわね」
これから母にも見せるのだから、とクロアは思った。現在、クロアの母はこの国の中心都市へ出かけている。母の帰りは今日の夕方前後。クロアとその父はもともと、本日の職務を終えたあとに居室で母を待つ予定でいた。いまのところ、母の到着の報せは入っていない。
「お母さまが帰ってくるまで、時間はありそうね」
「お風呂に入れさせます?」
「そうしましょう。ベニトラ、お湯は平気?」
朱色の猫はこっくり頭を上下にうごかした。
クロアはまず武具を外してかかる。身軽になったのちにレジィとともに風呂場へ行った。そこはクロアの家族が自由にいつでも使用できる場所だ。浴槽の広さは成人が二人ばかし入れるほど。貴人の屋敷の浴場にしてはこじんまりとした規模かもしれない。この領地の財力をもってすれば大浴場を領主一家の風呂場にすることも可能だが、広さよりもむしろ手軽に入浴できる利便性のほうをクロアやクノードは好んでいる。水道からは常にお湯が出せる仕組みになっていて、入浴準備に時間がかからないのだ。
浴槽内には入浴者の足場となる段差がある。その段差を超えない程度にお湯を入れる。すくなめの湯の中にベニトラを漬けた。ベニトラは浴槽内の段差にあごをのせ、目をつむる。四肢の太い猫は無抵抗をつらぬくようだ。クロアは安心してレジィに入浴介助をたのんだ。
ベニトラの湯あみが完了した。クロアは洗われたベニトラを抱いて屋敷の居室に集合する。居室はクロアの家族が食事をとったり歓談したりする憩いの場だ。まだクロアの父母はいない。だがダムトは在席している。彼は室内の清掃に取りかかっていた。
ダムトはクロアと別行動している間、荷台の片付けや飛馬にあずけた荷物の回収などをしていた。それが終わると今度は下男の仕事をこなしている。これは彼の普段の職務のうちだ。クロアはとくに気にせず、椅子に座った。
クロアは自身の膝にベニトラをのせた。ベニトラは幼獣に変化した以降、ずっとクロアに身を任せている。その無防備さやしぐさは飼い猫となんら変わりない。
「かわいい猫ちゃんですよね〜」
レジィが朱色の猫の頭をしきりになでる。彼女はすでにこの獣を一家の一員と認め、かわいがっているのだ。
「この子、ヤギのお乳は飲めるんでしょうか?」
「水で充分よ。自在に変化できるほどの強力な魔獣には飲食が必要ないというもの」
「でも、病み上がりでしょう?」
意外なことにレジィが食い下がる。慈愛の心が人一倍強い者には通説など関係ないようだ。
「なにか栄養になる食べ物をあげてはどうでしょうか」
「うーん、そう言われてみると……精のつくものをあげたらいいわね」
この獣は見るからに疲労困憊している。最良の状態を早期にとりもどせる方法があるのなら、それを実行するべきだ。招獣をいたわることは招術士の役目でもある。それに、自身の片腕たる従者には気分よくすごしてほしいとクロアは思う。クロアとレジィの意思が合致することは積極的にやっていきたい。
「招獣の場合、体力よりも精気の回復を優先させるといいんだったかしら?」
「はい。精気がもどれば体力も、ケガをしたところも早くよくなるそうです」
ベニトラには目立った外傷がない。だが赤い石が埋め込まれていた首元には円形のハゲができている。現在小型化したおかげでハゲの面積も小さくはなったが、やはり気にはなる。抜けた毛が生えそろう時間にも、きっと精気の多寡が関係するだろう。
「失った精気を回復するものといったら、なにかしら?」
「術酒……はお酒だからちょっとあぶないですね」
レジィは猫をめでつつ招獣向きの食事を思案する。
「あ、聖都の清水がありますね。子どもも飲める精気回復薬なんですよ」
「いいわね。もらってきてちょうだい」
レジィは小躍りしながら退室した。その態度を察するに、ベニトラの面倒を看たくてたまらないようだ。クロアはこの反応が彼女らしいと感じた。
レジィの性格は世話好きだ。そうなったきっかけは彼女に年下の兄弟がたくさんいること。レジィはクロアより年少でいながら、弟らの世話をこなす姉でもある。愛情豊かな少女は目下の子どもや小動物を見るとほうっておけなくなるらしい。
そしてなにより、いまのベニトラは愛嬌たっぷりな姿でいる。普通の猫とはちがい、体が骨太だが、その特徴には並みの猫にないかわいげがある。
(ダムトも「かわいい」と思ってるのかしら?)
クロアはもう片方の側近を見た。彼は雑務中で、長机に茶器を並べている。
「フュリヤ様は聖都からおもどりになったそうです」
ダムトが言葉を発した。彼はもうじきこの部屋にあらわれる当主とその夫人を待っている。
「もうお見えになってよい頃合いですが……」
彼の思考には新参の招獣がいない。クロアは彼の反応に素っ気なさを感じた。だが彼がかわいいものに興味のない仕事人間であることはクロアも知っている。いまさらその性情をつつく気になれず、ダムトに話を合わせる。
「みんなにお土産を配っているのかしら」
母フュリヤは遠出のおりに、家族だけでなく官吏にも土産を買ってくることがある。アンペレが擁する官吏はざっと千人を超える。大人数に配布できる土産となると、たいていはお菓子だ。母は官吏の数の倍ほどの菓子を購入しているはずだが、全員に行き渡ることはまずないらしい。母が土産を持ってきた日にたまたま出勤していた者はもらえる、というざっくりした配布だとか。
「お母さまったらマメよね」
「はい、繊細なお方です。それなのに──」
ダムトがじっとクロアの顔を見る。
「どうして娘はガサツで荒々しくなったのでしょう」
彼は無表情のまま女主人にケチをつけた。クロアはぷいっと顔をそむける。
「こんな性格でないと、魔物や悪党を叩き伏せられないでしょ」
クロアは従者の罵詈をはね返した。ダムトはアンペレ家に仕えて以来、身内には口のわるさを隠そうとしない。特にクロアに対しては顕著だ。彼の刺々しい指導のもと、クロアは悪口にへこたれない図太い精神に育った。
「ああ、きっとダムトのせいね」
クロアは負けじと嫌味に対抗する。
「あなたと言い合ううちにわたしの心も薄汚れたのだわ」
「俺の責任ですか。ご自身の生来の気質ではないとおっしゃるのですね」
「そうよ。わたしの幼いころにダムトがいなければ、もっと上品な公女になれたはずだわ」
クロアの記憶はさだかでないが、ダムトが屋敷に来た時期はクロアが五歳前後のころ。そのときから彼は勤続しつづけ、優に十年は経過している。勤めはじめは二十代の青年で、現在もその見た目のままという、彼もまた人ならざる血を引く者だ。ただし本人は素性を一切もらさない。
「俺がいなくても変わらなかったと思いますがねー」
「どうだか。あなた以上に口のよくない者はこの屋敷にいなくってよ」
会話は平行線をたどる。クロアは話を打ち切り、膝の上で丸くなる獣の横腹をわしわしとなでた。
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